本多忠貫
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保4年11月28日(1834年1月7日) |
死没 | 明治31年(1898年)6月24日 |
改名 | 敬之丞(幼名)→忠貫 |
別名 | 容膝斎、桃園(号) |
戒名 | 揚徳院殿相誉実音忠寛大居士 |
墓所 | 東京都江東区白河の霊巌寺 |
官位 | 従五位下、伊予守、河内守、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 竹橋御門番、山田奉行 |
藩 | 伊勢神戸藩主 |
氏族 | 戸沢氏→本多氏 |
父母 |
父:戸沢正令 母:貢子(桃令院、島津重豪の娘) 養父:本多忠寛 |
兄弟 |
戸沢正実、忠貫、中条信汎、 戸田直一、戸沢正時 |
妻 | 正室:本多忠寛の養女(本多忠升の娘、忠寛の妹) |
子 |
娘(本多忠恕正室) 養子:忠恕、忠鋒 |
本多 忠貫(ほんだ ただつら)は、伊勢神戸藩の第7代(最後)の藩主。神戸藩本多家8代。
生涯
[編集]天保4年(1833年)11月28日、出羽新庄藩主戸沢正令の次男として江戸で生まれる。第6代神戸藩主本多忠寛が初め養嗣子としていた忠穆が早世したため、安政3年(1857年)2月に新たに養嗣子とされ、翌安政4年(1858年)4月1日に将軍徳川家定に拝謁する。同年4月26日の養父の隠居により家督を継いだ。安政5年(1859年)11月23日、従五位下伊予守に叙任する。竹橋門番を務めた後の文久3年(1863年)10月に山田奉行(第48代目)に任じられている。
明治2年(1869年)6月、版籍奉還により知藩事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官された。その後、上野東照宮社司を務めた。明治17年(1884年)の華族令で子爵となる。明治31年(1898年)6月24日に死去した。享年66。家督は外孫の忠鋒が継いだ。
家族
[編集]父母
妻
子女
- 本多忠恕正室、生母は正室
養子
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (神戸)本多家初代 1884年 - 1898年 |
次代 本多忠鋒 |