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本多忠貫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
本多忠貫
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保4年11月28日1834年1月7日
死没 明治31年(1898年6月24日
改名 敬之丞(幼名)→忠貫
別名 容膝斎、桃園(号)
戒名 揚徳院殿相誉実音忠寛大居士
墓所 東京都江東区白河霊巌寺
官位 従五位下、伊予守、河内守子爵
幕府 江戸幕府 竹橋御門番、山田奉行
伊勢神戸藩
氏族 戸沢氏本多氏
父母 父:戸沢正令
母:貢子(桃令院島津重豪の娘)
養父:本多忠寛
兄弟 戸沢正実忠貫中条信汎
戸田直一戸沢正時
正室:本多忠寛の養女(本多忠升の娘、忠寛の妹)
娘(本多忠恕正室)
養子:忠恕忠鋒
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本多 忠貫(ほんだ ただつら)は、伊勢神戸藩の第7代(最後)の藩主。神戸藩本多家8代。

生涯

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天保4年(1833年)11月28日、出羽新庄藩戸沢正令の次男として江戸で生まれる。第6代神戸藩主本多忠寛が初め養嗣子としていた忠穆が早世したため、安政3年(1857年)2月に新たに養嗣子とされ、翌安政4年(1858年)4月1日に将軍徳川家定に拝謁する。同年4月26日の養父の隠居により家督を継いだ。安政5年(1859年)11月23日、従五位下伊予守に叙任する。竹橋門番を務めた後の文久3年(1863年)10月に山田奉行(第48代目)に任じられている。

明治2年(1869年)6月、版籍奉還により知藩事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官された。その後、上野東照宮社司を務めた。明治17年(1884年)の華族令で子爵となる。明治31年(1898年)6月24日に死去した。享年66。家督は外孫の忠鋒が継いだ。

家族

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父母

子女

養子


日本の爵位
先代
叙爵
子爵
神戸本多家初代
1884年 - 1898年
次代
本多忠鋒