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板倉重郷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
板倉 重郷
板倉重郷像
時代 江戸時代前期
生誕 元和5年(1619年
死没 寛文元年12月17日1662年2月5日
戒名 恵日院殿徳峯源清大居士
墓所 愛知県西尾市貝吹町入の長圓寺
官位 従五位下、長門守、阿波
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行
主君 徳川家綱
下総関宿藩
氏族 板倉氏
父母 父:板倉重宗、母:戸田氏鉄の娘
兄弟 重郷重形
正室:酒井忠吉の娘
亀、重常、隼(堀田正休正室)、三十郎
養子:養女内藤忠次室のち中山信行室)
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板倉 重郷(いたくら しげさと)は、下総関宿藩の第2代藩主。板倉家宗家3代。

生涯

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元和5年(1619年)、京都所司代である初代藩主・板倉重宗の長男として生まれる。寛永5年(1628年)に父と親しい安楽庵策伝の話を父と共に聞いたことが策伝から献呈された『醒睡笑』に記されている[1]。寛永13年(1636年)11月に3代将軍徳川家光に拝謁、12月29日従五位下長門守に叙位・任官し、寛永14年(1637年)に阿波守に遷任する[2][3]

慶安元年(1648年)に京都所司代を務める父が病に倒れたため、その看病と補佐のために京都に上る。明暦2年(1656年8月18日に父と共に関宿へ出向いたが、12月に父が死去したため、翌明暦3年(1657年3月23日家督を継ぐ[2][3]。明暦4年(1658年4月4日奏者番に任じられ、7月4日寺社奉行を兼任する形で任命された。寛文元年(1661年)11月26日に全ての職を辞職し、12月13日には弟の重形摂津島下郡内5000石と新田4000石を分与したため、板倉氏は4万5000石の大名となる。それから4日後の12月17日に死去した。享年43。跡を長男の重常が継いだ[2][4][5]

系譜

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脚注

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参考文献

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  • 藩主人名事典編纂委員会編『三百藩藩主人名事典 一』新人物往来社、1986年。
  • 藩主人名事典編纂委員会編『三百藩藩主人名事典 二』新人物往来社、1986年。
  • 工藤寛正編『江戸時代全大名家事典』東京堂出版、2008年。
  • 熊倉功夫『熊倉功夫著作集 第5巻 寛永文化の研究』思文閣出版、2017年。