山口県立柳井高等学校
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山口県立柳井高等学校 | |
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北緯33度57分57.8秒 東経132度5分50.3秒 / 北緯33.966056度 東経132.097306度座標: 北緯33度57分57.8秒 東経132度5分50.3秒 / 北緯33.966056度 東経132.097306度 | |
過去の名称 |
【高等女学校】 柳井町立柳井女学校 柳井町立柳井高等女学校 玖珂郡立柳井高等女学校 山口県立柳井高等女学校 山口県立柳井女子高等学校 【旧制中学校】 山口県立周東中学校 山口県立柳井中学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 山口県 |
学区 | 全県一学区 |
校訓 | 右文尚武 |
設立年月日 | 1907年(柳井女学校) |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 単位制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 | 2学期制 |
学校コード | D135210000069 |
高校コード | 35110F |
所在地 | 〒742-0032 |
山口県柳井市古開作611-1 | |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
山口県立柳井高等学校(やまぐちけんりつ やないこうとうがっこう)は、山口県柳井市古開作に所在する公立の高等学校。略称は「柳高」(りゅうこう)。硬式野球部は、1958年夏(第40回)で優勝している。
概要
[編集]1907年(明治40年)創立の高等女学校を前身とする「山口県立柳井女子高等学校」と1921年(大正10年)創立の旧制中学校を前身とする「山口県立柳井高等学校」(男子校)の2校が1949年(昭和24年)に統合され「山口県立柳井高等学校」(男女共学)となった。
全日制課程普通科を設置している。校是は「右文尚武」(読みは「ゆうぶんしょうぶ」。「文武両道」と同義。)。
校歌は旧制中学校時代の1922年(大正11年)に制定。作詞は久継啓作、作曲は近藤義次による。歌詞は3番まであり、3番に校名の「柳高」が登場する。これは旧制中学校時代「柳中」であったものが新制高等学校発足時に「柳高」に変更されたものである。応援歌は「門出の歌」、「応援歌第一号」、「応援歌第二号」がある。
同窓会は「柳高同窓会」と称し、以下の支部を置いている。
- 山口県外 - 東京支部、近畿支部、広島支部(鯉柳会)
- 山口県内 - 山口支部、周南支部、岩国支部(錦柳会)、田布施支部(琴柳会)、玖西支部(岩国市周東町)、大和支部(光市)、宇部・小野田支部、下関支部、由宇支部
山口県教育委員会は当校の生徒募集を2026年度(令和8年度)に停止し、周辺5高校(当校、柳井商工高校、熊毛南高校、田布施農工高校、熊毛北高校)の普通科と商業科を統合した新たな高校を、当校の校舎・敷地に設置する方針を固めている[1]。
沿革
[編集]高等女学校時代
[編集]- 1907年(明治40年)4月 - 「柳井町立柳井女学校」として開設。
- 1910年(明治43年)6月 - 「柳井町立柳井高等女学校」と改称。
- 1914年(大正3年)6月 - 郡立移管により、「玖珂郡立柳井高等女学校」と改称。
- 1921年(大正10年)
- 1月 - 冬服を和服から洋服へ変更。
- 4月 - 夏服も和服から洋服へ変更。
- 1923年(大正12年)4月 - 県立移管により「山口県立柳井高等女学校」と改称。
- 1932年(昭和7年)6月 - 制服が山口県共通となる。
- 1941年(昭和16年)4月 - 戦時体制により、制服が丸襟・モンペに変更される。
- 1944年(昭和19年)6月 - 光海軍工廠への学徒動員が開始。
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)4月 - 修業年限が5年となる(ただし4年で卒業することもできた)。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。
- 高等女学校の募集を停止する。
- 新制中学校を併設し(名称:山口県立柳井高等女学校併設中学校、以下・併設中学校)、高等女学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
- 併設中学校は経過措置として暫定的に設置されたもので、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
- 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革により高等女学校が廃止され、新制高等学校「山口県立柳井女子高等学校」が発足。
- 高等女学校卒業者(5年修了者)を新制高校3年生、高等女学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業者(3年修了者)を新制高校1年生として収容。
- 通常制普通課程(全日制課程 普通科)と家庭課程(家政科)を設置。
- 併設中学校を継承し(名称:山口県立柳井女子高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に高等女学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
- 1949年(昭和24年)
- 3月31日 - 併設中学校を廃止。
- 4月1日 - 統合により、「山口県立柳井高等学校 東校舎」となる。
旧制中学校(男子校)時代
[編集]- 1921年(大正10年)4月 - 「山口県立周東中学校」が創立。
- 入学資格を尋常小学校を卒業した12歳以上の男子とし、修業年限を5年(現在の中1から高2に相当)とする。
- 1922年(大正11年)4月 - 現在位置に校舎が完成し移転を完了。校歌を制定。
- 1923年(大正12年)4月 - 「山口県立柳井中学校」と改称。
- 1924年(大正13年)11月 - 第1回大運動会を実施。青龍、朱雀、白虎、玄武の4組に分かれて競技を行う。
- 1925年(大正14年)8月 - 野球部、第11回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園大会の前身)に初出場。
- 1931年(昭和6年)4月 - 制服を山口県共通のものに変更。
- 1933年(昭和8年)3月 - 第1回防空演習を実施。
- 1940年(昭和15年)- 柳中体操(現・柳高体操)を創作。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令の施行により、入学資格が国民学校初等科を修了した12歳以上の男子に変更となる。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限が4年(現在の中1から高1に相当)となる。
- 1944年(昭和19年)6月 - 光海軍工廠への学徒動員が開始。
- 1945年(昭和20年)
- 3月 - 4年生(1941年(昭和16年)入学生)と5年生(1940年(昭和15年)入学生)の合同卒業式が行われる。
- 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、中等学校令の施行される前に入学した生徒にも修業年限4年が適用されることとなったため。
- 4月 - 学校での授業が停止となる。ただし動員は継続。
- 8月14日(終戦前日)- 空襲により光・岩国で動員されていた生徒16名が犠牲となる。
- 8月15日 - 終戦。
- 9月 - 授業を再開。
- 3月 - 4年生(1941年(昭和16年)入学生)と5年生(1940年(昭和15年)入学生)の合同卒業式が行われる。
- 1946年(昭和21年)4月 - 修業年限が5年となる(ただし4年で卒業することもできた)。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。
- 旧制中学校の募集を停止する。
- 新制中学校を併設し(名称:山口県立柳井中学校併設中学校、以下・併設中学校)、旧制中学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
- 併設中学校は経過措置として暫定的に設置されたもので、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
- 1948年(昭和23年)
- 4月1日 - 学制改革により旧制中学校が廃止され、新制高等学校「山口県立柳井高等学校」が発足。
- 旧制中学校卒業者(5年修了者)を新制高校3年生、旧制中学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業者(3年修了者)を新制高校1年生として収容。
- 通常制普通課程(全日制課程 普通科)を設置。
- 併設中学校を継承し(名称:山口県立柳井高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に旧制中学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
- 5月 - PTAが発足。
- 4月1日 - 学制改革により旧制中学校が廃止され、新制高等学校「山口県立柳井高等学校」が発足。
- 1949年(昭和24年)
- 3月31日 - 併設中学校を廃止。
- 4月1日 - 統合により、「山口県立柳井高等学校 西校舎」となる。
統合
[編集]- 1949年(昭和24年)4月1日 - 上記2校が統合され、「山口県立柳井高等学校」(男女共学)となる。通常制普通課程と家庭課程を設置。
- 旧男子校を「西校舎」、旧女子校を「東校舎」として使用を継続。
- 1950年(昭和25年)11月 - 第1回男女合同運動会を開催。
- 1951年(昭和26年)4月 - 補習科を設置。
- 1958年(昭和33年)8月 - 野球部、第40回全国高等学校野球選手権大会において全国優勝を果たす(旧制中学時代を含めると5回目の出場)。
- 1960年(昭和35年)
- 7月 - 12教室を増築。
- 9月 - 東校舎(旧・女子校)を廃止。水洗トイレを設置。
- 1961年(昭和36年)3月 - 9教室を増築。
- 1962年(昭和37年)3月 - 3教室を増築。
- 1963年(昭和38年)
- 4月 - 家庭科を家政科に変更。
- 6月 - 理科特別教室が完成。
- 1965年(昭和40年)4月 - 家庭美術特別教室が完成。
- 1967年(昭和42年)3月 - 本館が完成。
- 1968年(昭和43年)3月 - 屋内運動場(体育館)が完成。
- 1969年(昭和44年)
- 4月 - 家庭経営保育室・音楽教室・補習科教室が完成。
- 12月 - 男子生徒の長髪を許可。
- 1970年(昭和45年)
- 4月 - 格技場が完成。
- 8月 - 第1回集団宿泊訓練を岩城山で実施。
- 1972年(昭和47年)12月 - 動員学徒慰霊碑「紅」が設置される。
- 1974年(昭和49年)6月 - 柳井文化福祉会館前に「柳井高等女学校跡」石碑を建立。
- 1975年(昭和50年)
- 1978年(昭和53年)9月 -「運動会」の呼称を「体育祭」に変更。
- 1981年(昭和56年)4月 - 家政科の募集を停止。
- 1982年(昭和57年)3月 - 多目的教室が完成。
- 1983年(昭和58年)3月 - 家政科を廃止。
- 1984年(昭和59年)3月 - 視聴覚教室が完成。
- 1985年(昭和60年)2月 - 野球部雨天投球練習場が完成。
- 1986年(昭和61年)3月 - 「柳井高等学校史」を発刊。
- 1989年(平成元年)3月 - 柔剣道場・雨天練習場が完成。
- 1992年(平成4年)4月 - 普通科に科学英語コースを設置。
- 1993年(平成5年)12月 - 生徒会長に初めて女子が選出される。
- 1994年(平成6年)3月 - LL教室を整備。
- 1999年(平成11年)4月 - 全クラスが男女混合クラスとなる。
- 2002年(平成14年)
- 2月 - 普通教室棟を改築。
- 4月 - 理数科を設置。普通科科学英語コースの募集を停止。45分7限授業を開始。
- 2003年(平成15年)4月 - 山口県立柳井商業高等学校・山口県立柳井工業高等学校の2校と学校間連携を開始。
- 2004年(平成16年)3月 - 普通科科学英語コースを廃止。
- 2006年(平成18年)
- 4月 - 理数科の生徒募集を停止。
- 5月 - スクールカウンセラーを配置。
- 2007年(平成19年)
- 1月 - 理科・美術・家庭特別教室が完成。
- 10月 - 創立100周年記念式典を挙行。
- 2008年(平成20年)3月 - 理数科を廃止。
学校行事
[編集]- 前期
-
- 文化祭
- 1970年(昭和45年)に「文化部発表会」の名称を「文化祭」に変更。1991年(平成3年)まで9月開催。1992年(平成4年)からは6月開催。2004年(平成16年)からは7月実施。
- 後期
部活動
[編集]- 運動部
- 硬式野球部
- 春のセンバツ甲子園大会 - 全国大会に4回出場。
- 夏の甲子園大会 - 全国大会に7回出場。
- 軟式野球部
- 卓球部
- バスケットボール部
- バレーボール部
- ソフトテニス部
- 陸上競技部
- 弓道部
- 剣道部
- 柔道部(休部中)
- 文化部
著名な出身者
[編集]→「Category:山口県立柳井高等学校出身の人物」も参照
政治
[編集]経済
[編集]- 沖原隆宗 - 三菱UFJフィナンシャルグループ会長
- 藤中章三 - 日本経営数理コンサルティング創業者・社長
学術
[編集]- 伊藤敬一 - 元北海道薬科大学学長
- 玉野井芳郎 - 元東京大学教授
- 茅原郁生 - 拓殖大学名誉教授
- 難波和彦 - 東京大学大学院教授
- 広中平祐 - フィールズ賞受賞者・元ハーバード大学教授・元山口大学学長
- 米田雅子 - 慶應義塾大学理工学部教授・内閣府規制改革会議委員
文化
[編集]芸能
[編集]野球
[編集]- 鍵谷康司 - 元プロ野球選手
- 岡村隆則 - 元プロ野球選手
- 杉田屋守 - 元プロ野球選手(ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグが出場した第2回日米野球大会の日本選抜メンバー)・元黒鷲軍監督
- 戸川一郎 - 元プロ野球選手・元プロゴルファー
- 遠井吾郎 - 元プロ野球選手
- 増本一郎 - 元プロ野球選手
- 原田豊 - 元柳井高校野球部監督・北海道日本ハムファイターズ二軍監督
放送
[編集]その他
[編集]- 田中良子 - 元卓球選手
脚注
[編集]- ^ 「県立高校 再編統合で5校を2校に 柳井地域・周南地域」『山口 NEWS WEB』日本放送協会、2023年9月6日。2023年10月5日閲覧。