コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

植村家包

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
植村家包
時代 江戸時代中期
生誕 宝永7年(1710年
死没 元文3年8月13日1738年9月26日
別名 政文(別名)、刑部(通称
戒名 実応性遍縁院
墓所 奈良県高市郡高取町上子島の宗泉寺
官位 従五位下、刑部少輔、出羽
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
大和国高取藩
氏族 植村氏
父母 植村政広中山直好の娘
養父植村家敬
正室佐野察行の娘
娘(大村純保正室)、娘(蒔田定保正室)
養子家道
テンプレートを表示

植村 家包(うえむら いえかね / いえかつ)は、大和高取藩の第5代藩主

生涯

[編集]

宝永7年(1710年)、第2代主・植村家貞の弟・植村政春の孫に当たる2500石の旗本植村政広の長男として生まれる。享保10年(1725年)、父の死去により家督を継いで旗本となる。しかし本家で第4代藩主・植村家敬の嫡男・高堅や養子の稲之助らが早世したため、享保14年(1729年)4月21日、家敬の養子となり、享保16年(1731年)に家敬が死去したため、跡を継いだ。このとき、2500石は幕府によって収公されている。

元文3年(1738年)8月13日に死去した。享年29。跡を家敬の実子の家道が継いだ。