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樺山可也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
樺山可也

樺山 可也(かばやま かなり、1876年明治9年)10月14日 - 1932年昭和7年)10月27日)は、日本の海軍軍人(最終階級は海軍少将)、政治家鹿児島市長)。族籍は鹿児島県士族[1]。元フィギュアスケート選手・八木沼純子曾祖父[2]

経歴

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鹿児島県薩摩郡藺牟田村(現・薩摩川内市祁答院町藺牟田)出身[2]。医者の次男である[2]1877年、父が西南戦争西郷軍軍医として出征、戦死した[2]。可也は貧しい少年時代を送った[2]。教科書を買う金がなかったため友達から借りて書き写し勉強した[2]

1898年12月、海軍兵学校26期)を卒業し、1900年1月、海軍少尉任官。「大和」航海長などを経て、日露戦争に「和泉」分隊長として出征し、同砲術長となった。「日進」砲術長、海兵教官、「石見」砲術長などを経て、1910年11月、海軍大学校(甲種8期)を首席で卒業した。

肥前」「鞍馬」の各砲術長、第2艦隊参謀軍令部参謀、アメリカ駐在、カナダ駐在、「鹿島」副長、第3艦隊参謀、軍令部参謀(第2班第4課長)などを歴任し、1917年12月、海軍大佐に進級。

周防艦長、海大教官、「生駒」「長門」の各艦長、横須賀防備隊司令などを経て、1922年12月、海軍少将に昇進した。海軍砲術学校長、第1艦隊参謀長、呉鎮守府付、同参謀長、軍令部出仕を経て、1925年12月、予備役に編入された。のち、1929年7月から死去するまで鹿児島市長を務めた。

人物

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住所は東京麻布三河台町[1][2]

栄典

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位階
勲章

家族・親族

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樺山家
  • 父・健助(医者、西南の役軍医)[2]
  • 兄・武熊(小学校校長[2]
  • 甥・研吉(鹿児島士族[1]、1900年 - )
  • 妻・ムメ(鹿児島士族・森長保の三女、1882年 - )[1]
  • 男・資英(外交官、1907年 - 1947年)[1][2] - 東京帝国大学法学部に進学し、1935年に外務省に入省、吉田茂駐英大使時代の日本大使館に勤め、1937年のジョージ6世 (イギリス王) の戴冠式パレードの日本向け実況中継も担当した[2]。翌年駐伊日本大使館に転任し、日独伊三国軍事同盟締結時には外務大臣松岡洋右の秘書官を務め、戦後吉田内閣の外務省情報部に勤務したが、胃がんにより39歳で早世[2]。1936年に結婚した妻の米子は松方正義の子・乙彦の娘で、夫の没後シティバンクに勤めて遺児を育て、定年退職後もホテルのコンシェルジュとして69歳まで働き続けた[2]。長男はドイツで就業、長女はイタリアへ留学し、その長女の子にフィギュアスケーターの八木沼純子がいる[2]
親戚
  • 義兄 長﨑卓見 - 陸軍将校、姉・樺山トクの夫[要出典]

脚注

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  1. ^ a b c d e 『人事興信録 第7版』か39頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年1月7日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「八木沼純子2人の総理大臣 激動の歳月」、『ファミリーヒストリー』2015年9月11日放送。
  3. ^ 『官報』第4989号「叙任及辞令」1900年2月21日。
  4. ^ 『官報』第5539号「叙任及辞令」1901年12月18日。
  5. ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
  6. ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
  7. ^ 『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。
  8. ^ 『官報』第1647号「叙任及辞令」1918年1月31日。
  9. ^ 『官報』第3126号「叙任及辞令」1923年1月4日。
  10. ^ 『官報』第4045号「叙任及辞令」1926年2月20日。
  11. ^ 『官報』第8679号「叙任及辞令」1912年5月27日。
  12. ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。
  13. ^ 『官報』第3728号「叙任及辞令」1925年1月28日。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。


公職
先代
白男川譲介
鹿児島市長
9代:1929 - 1932
次代
岩元禧