久米成夫
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久米 成夫 | |
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生年月日 | 1882年12月1日 |
出生地 | 鹿児島県薩摩郡山崎村麓大窪 |
没年月日 | 1954年9月29日(満71歳) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学 |
前職 | 鹿児島市長 |
在任期間 | 1928年6月29日 - 1929年7月5日 |
在任期間 | 1931年12月18日 - 1932年6月28日 |
在任期間 | 1932年6月28日 - 1934年2月1日 |
久米 成夫(くめ なりお、1882年(明治15年)12月1日 - 1954年(昭和29年)9月29日[1])は、日本の内務官僚。政友会系官選県知事、鹿児島市長。
経歴
[編集]鹿児島県薩摩郡山崎村麓大窪(現さつま町)で、山崎村長を務めた久米岳、シメ夫妻の長男として生まれる[1]。鹿児島県立川内中学校、第七高等学校造士館(首席卒業)を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し千葉県属となる[1][2][3]。
その後、千葉県試補、神奈川県愛甲郡長、同県理事官・知事官房主事、同県商工課長、秋田県理事官・教育兵事課長、岩手県警察部長、神奈川県警察部長、山形県内務部長、岩手県書記官・内務部長、広島県書記官・内務部長などを歴任[1][2]。
1928年6月、大分県知事に就任。1929年7月、濱口内閣の成立により知事を休職[2]。1931年12月、愛媛県知事に就任[4]。1932年6月、奈良県知事に転任。不況対策に尽力[5]。1934年2月1日、依願免本官となり知事を辞職し退官した[6]。
その後、満洲国に転じ、奉天省総務庁長、満洲国国務院総理・鄭孝胥のもとで文教部総務司長などを務めた。1940年7月から1944年7月まで鹿児島市長を務めた。戦後、公職追放となり[7]、晩年は故郷の生家で暮らした[1]。
1954年9月29日早朝、自宅を出たまま行方不明となり、夜になって自宅近くの海岸で水死体で発見された[8]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 宮之城町史談会編さん委員会編『宮之城人物伝 第1集』宮之城町史談会、1983年。
公職 | ||
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先代 伊地知四郎 |
鹿児島市長 12代:1940 - 1944 |
次代 岩切重雄 |