千葉貞幹
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千葉 貞幹(ちば ていかん、1852年 2月29日〈嘉永5年2月10日[1]〉 - 1913年〈大正2年〉3月26日[2])は、明治から大正にかけての裁判官・官僚。県知事。
経歴
[編集]十津川郷士・千葉清宗の長男として生まれる[1]。高野山三宝院で学ぶ[1]。慶応3年12月(1868年1月)、鷲尾隆聚の高野山挙兵に参加[1]。
1873年1月、宮内省に出仕し雑掌に就任。1874年8月、司法省に転じ十一等出仕となる。1875年8月、四級判事補に任官。以後、長崎上等裁判所、名古屋裁判所、山田区裁判所(所長)、大阪上等裁判所で勤務。1881年5月、検事に任官。以後、大阪上等裁判所、和歌山支庁、和歌山始審裁判所、大津始審裁判所で勤務[1]。
1887年12月、司法省参事官に発令され、翌年1月から刑事局に配属された。1890年11月、判事に任官。以後、東京控訴院判事、大津地方裁判所長、大阪控訴院部長、岡山地方裁判所長、神戸地方裁判所長、裁判所書記登用試験委員長、行政裁判所評定官を歴任した[1]。
1906年7月、大分県知事に就任。大分港の築港を推進し、また、県下の産業振興を図った[3]。
1911年7月、長野県知事に転任。1913年3月26日、長野師範学校卒業式で式辞を述べ、その後、知事公邸で心臓麻痺のため死去した[2]。なお、『官報』では翌日の27日に薨去と発表している[4]。墓所は雑司ヶ谷霊園[要出典]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 内閣「長野県知事正四位勲二等千葉貞幹」大正2年、アジア歴史資料センター レファレンスコード: A10112762300