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青木良雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
青木 良雄
あおき よしお
生年月日 1869年2月24日
出生地 日本の旗 日本 岩国藩大島郡東安下庄
(現:山口県大島郡周防大島町
没年月日 没年不詳
出身校 帝国大学法科大学法律学科(英法)卒業
(現・東京大学法学部
前職 大阪府内務部長
現職 戸山町会顧問
称号 正五位
勲四等
配偶者 青木夛満

在任期間 1914年7月7日 - 1917年5月29日

奈良県の旗 官選 第8代 奈良県知事
在任期間 1907年7月20日 - 1909年6月14日
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青木 良雄(あおき よしお、1869年2月24日明治2年1月14日[1] - 没年不詳)は、日本の逓信内務官僚。官選奈良県知事、山口県下関市長。族籍は山口県平民[2]正五位勲四等[3]

経歴

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周防国大島郡東安下庄 [4](現・山口県大島郡周防大島町)で青木東輔の二男[1]として生まれる。

1895年7月、帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業[5]逓信省に入省し郵便為替貯金書記兼逓信属となり通信局に配属された[1][4]

逓信事務官、郵便為替貯金管理所為替課長、通信事務官、逓信大臣秘書官兼逓信事務官、新潟郵便電信局長などを歴任。1899年6月、内務省に転じ宮城県参事官に就任。以後、群馬県書記官、同県事務官・第一部長、三重県事務官・第一部長、大阪府事務官・第一部長兼第三部長、同府内務部長などを歴任[1][4]

1908年7月20日、奈良県知事に就任。奈良県史の編纂を推進した[1]1910年6月14日、知事を休職[6]1912年6月13日、休職満期となり退官した[7]1914年7月7日、下関市長に就任。上水道ろ過池増設の実施、下関青物市場規則・使用料条例制定、壇之浦道路拡張工事の実施などを行った。1917年5月29日に市長を辞任した[8]

市長退任後は東京市牛込区(現・東京都新宿区)に居住して、戸山町会顧問を務めた[3]

家族・親族

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青木家

山口県下関市、東京四谷南寺町[2][9]

  • 兄:春雄(山口県平民)[2]
  • 妻:夛満(大審院判事・筧元忠の二女)[2]
1881年生まれ
  • 男:榮一[2]
1904年生まれ
  • 長女:藤[2]
1901年生まれ
  • 二女:秀[2]
1902年生まれ
  • 三女:光[2]
1905年生まれ
1908年生まれ
1914年生まれ
1919年生まれ
親戚

脚注

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  1. ^ a b c d e 『新編日本の歴代知事』715頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 4版』あ34-35頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年3月31日閲覧。
  3. ^ a b 畠中惣治郎『帝都紳士淑女列伝 : 奉祝今上陛下御即位記念』帝都彰行社、1929年、27-28頁。 
  4. ^ a b c 「青木良雄山口県下関市長就任ノ件」
  5. ^ 『東京帝国大学一覧 從大正2年 至大正3年』75頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年3月29日閲覧。
  6. ^ 『官報』第8093号、明治43年6月15日。
  7. ^ 『官報』第8699号、明治45年6月19日。
  8. ^ 『日本の歴代市長』第3巻、156頁。
  9. ^ a b c 『人事興信録 6版』あ38頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年4月1日閲覧。

参考文献

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  • 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 從大正2年 至大正3年』東京帝国大学、1913-1924年。
  • 人事興信所編『人事興信録 4版』人事興信所、1915年。
  • 人事興信所編『人事興信録 6版』人事興信所、1921年。
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第3巻、歴代知事編纂会、1985年。
  • 内閣「青木良雄山口県下関市長就任ノ件」大正3年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-019-00・任B00715100
  • 畠中惣治郎著『帝都紳士淑女列伝 : 奉祝今上陛下御即位記念』帝都彰行社、1929年