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水野寅次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
水野寅次郎
みずの とらじろう
生年月日 1854年9月29日
出生地 日本の旗 日本 土佐国
没年月日 (1909-06-23) 1909年6月23日(54歳没)
前職 内閣書記官
所属政党 (立憲帝政党→)
称号 正五位

奈良県の旗 官選 第4代 奈良県知事
在任期間 1896年12月26日 - 1899年2月21日
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水野 寅次郎(みずの とらじろう、1854年9月29日(嘉永7年8月8日[1] - 1909年明治42年)6月23日[2])は、明治期の政治家新聞編集者内務官僚。官選奈良県知事

経歴

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土佐国土佐藩士・水野幾七の二男として生まれる。立志社に加わり自由民権運動に参加。1877年西南戦争において西郷軍に加わろうとして逮捕された[3]1880年10月、立志社を離脱して同志と「共行社」を起こし民権運動から離れた[4]。同年10月、内務省御用掛となり[5]、さらに和歌山県書記官を務めた[3]

1882年に退官し、同年、東洋新報社長に就任。福地源一郎丸山作楽立憲帝政党を結成したが翌年に解散した。1886年警視庁三等警視に任官。以後、小石川警察署長、内閣書記官を歴任。1896年12月、奈良県知事に就任。郡制の実施、県立八木測候所の設立、生駒郡農事試験場の設置などを推進[3]1899年2月21日、知事を非職となる[6]。その後退官し帰郷[3]

1905年日露戦争の終結について非講和論を唱えた[3]。1909年6月、病のため故郷で死去した[2]

栄典

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脚注

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  1. ^ 『日本人名大辞典』1820頁。
  2. ^ a b 東京朝日新聞』1909年7月10日朝刊、1面「死亡広告」。
  3. ^ a b c d e 『新編日本の歴代知事』713頁。
  4. ^ 『明治密偵史』78頁。
  5. ^ 「高知県士族水野寅次郎御用掛準奏任ノ件」
  6. ^ 『官報』第4690号、明治32年2月22日。
  7. ^ 『官報』第4081号「叙任及辞令」1897年2月12日。

参考文献

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  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 宮武外骨『明治密偵史』〈明治表裏叢書 ; 2〉有限社、1926年。
  • 太政官「高知県士族水野寅次郎御用掛準奏任ノ件」明治13年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-010-00・公02891100