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河原純一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
河原 純一
中日時代
(2009年7月16日、阪神甲子園球場にて)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 神奈川県川崎市中原区
生年月日 (1973-01-22) 1973年1月22日(51歳)
身長
体重
183 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1994年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 NPB / 1995年6月3日
最終出場 NPB / 2011年11月17日(日本シリーズ第5戦)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 愛媛マンダリンパイレーツ (2017 - 2021)

河原 純一(かわはら じゅんいち、1973年1月22日 - )は、東京都大田区生まれ、神奈川県川崎市中原区[1]出身の元プロ野球選手投手、右投右打)、監督2017年より2021年まで四国アイランドリーグplus愛媛マンダリンパイレーツの監督を務めた。

経歴

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プロ入り前

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小学4年生から野球を始め、中学時代にはエースピッチャーとなる[1]

神奈川県立川崎北高等学校では2年秋からエースになるも秋と春は初戦敗退[1]。3年時に出場した神奈川県大会でも初戦の岸根高校戦でKOされ降板するも延長12回に逆転サヨナラ勝ち[1]。準々決勝(対厚木高戦)で、後に横浜へ入団する川村丈夫と延長16回の投手戦の末に投げ勝ちベスト4まで進んだ[1]

卒業後は駒澤大学へ進学し、東都大学野球連盟の記録(当時)となる3度の最高殊勲選手に輝くなどエースとして活躍した[1]。同期生には高木浩之本間満がいる。リーグ通算53試合に登板し23勝10敗、防御率1.66、258奪三振。最優秀投手に2度、ベストナインに2度選ばれた。2年次は2学年先輩である田口昌徳とのバッテリーで鶴田泰との両輪で大学選手権優勝、4年次にも同大会を制して全日本アマチュア野球王座決定戦で社会人王者の日本通運を破って最高殊勲選手に選ばれ、日米大学野球でも最優秀投手となった。3年秋は明治神宮大会で優勝。また日米大学野球には2年から3年連続で日本代表に選出された[1]

1994年のプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツから1位指名(逆指名)を受け入団[1]福岡ダイエーホークスとの大争奪戦の末、交渉権を獲得しての入団だった。

巨人時代

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プロ初登板・初先発となった1995年6月3日広島東洋カープ9回戦(東京ドーム)では、野村謙二郎に初回先頭打者本塁打を浴びた。しかしその後は、右肘側副靱帯断裂で離脱した桑田真澄をカバーする形で先発陣に入り、新人ながら8勝(そのうち阪神タイガースからは3試合連続完封を含む6勝)を挙げるなど活躍した。

また、シーズン中の7月に結婚した[2]が、その後、妻がかつて覚醒剤使用で逮捕・起訴猶予になっていたことが発覚し[2]、10月に協議離婚[2]。妊娠中の子どもは河原が認知することとした[2]が、その後に死産となった[3]

1996年は、開幕からローテーションに入ったが、未勝利のまま5月末に右肘痛で一軍登録を抹消された[1]。同時期、週刊誌にて元妻による暴露記事が掲載され、その年の春季キャンプで元妻を同宿させていたことが判明。チームの統制を乱す行為として球団から厳重注意と罰金200万円を受ける[4]。その後は一軍に復帰できず、チームはリーグ優勝したものの、自身の登板は9試合にとどまった。

1997年は主に中継ぎで登板し、6月5日の対中日ドラゴンズ戦で616日ぶりの勝利[1]、11日の対横浜ベイスターズ戦ではプロ初セーブを挙げた。最終成績は25試合で2勝1敗1セーブ・防御率2.60だった。

しかし1998年に肩の故障[5]・肘も手術[6]し、一軍・二軍ともに登板がないまま終わった。

長いリハビリを経て、1999年8月8日の対広島戦に先発登板し勝利投手となる。先発での勝利は1995年9月23日の対阪神戦以来で1461日ぶりであった。しかし好調は長続きできず、わずか8試合の登板で2勝に終わる。

2000年はシーズン途中から先発入りし、3試合の完封勝利など[7]順調かと思われたが、この年も途中で故障離脱となりチームはリーグ優勝・日本一になったが日本シリーズにはまたしても登板出来なかった。7試合の登板で4勝無敗という成績に終わった。

2001年はキャンプ中の右手小指骨折により出遅れたものの5月末からローテーションに加わり、ルーキーイヤーに次ぐ12試合に先発登板した。しかし、結果が残せず終盤はリリーフに廻り、2セーブを記録した。これが翌年のストッパー転向の足掛かりとなる。防御率は5点台で登板数も21試合だったが4勝4敗2セーブの成績を残した。

2002年から原辰徳が監督に就任すると抑え投手に抜擢される。開幕4試合目の中日戦に初セーブを記録し原監督の初勝利に貢献。以降、5月29日の対ヤクルトスワローズ戦でアレックス・ラミレスにサヨナラホームランを打たれ初めて救援に失敗するまで抜群の安定感を見せた。7月は9試合に登板して1勝7セーブ・防御率0.00を記録し[8]オールスターゲームにファン投票で選出された。一方当時の投球フォームが2段モーション(後に禁止となった)だったためか、走者を出した時の投球が極端に安定しない弱点が見え隠れしていた。秋頃からは安定感を欠き、チームが優勝マジック1で迎えた9月24日の対阪神戦では、9回に濱中おさむに同点ホームランを打たれ、勝ちを逃してしまった(マジック対象のヤクルトが負けた為に試合途中にリーグ優勝は決まっていた)。それでも49試合に登板し、5勝3敗28セーブ・防御率2.70を記録。巨人のリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。日本シリーズにも初登板を果たし、第4戦では胴上げ投手になった。

2003年4月9日の対ヤクルト戦でシーズン初セーブをマークし、幸先良いスタートかと思われた。しかし徐々に救援失敗を繰り返すようになり、5月31日の阪神戦では4-2と2点リードの9回から登板するも1イニング11失点するきっかけを作ってしまうなど、成績不振で二軍落ちとなった。結局23試合の登板に終わり、3敗7セーブ・防御率9.41と極度の不振だった。この年はリリーフ陣の崩壊もありリーグ連覇を逃した。

2004年に就任した新監督の堀内恒夫はストッパーとしての復活に期待するが、故障で出遅れる。5月に一軍に合流し立て続けに2セーブを記録するが5月23日の対阪神戦では1点リードを守れずサヨナラ負けを喫し、早くも配置転換となった。この年は前年を下回る13試合の登板に留まった。

2005年3月27日に後藤光貴との交換トレード西武ライオンズへ移籍[9]

西武時代

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2005年開幕直後の移籍で4年ぶりに先発復帰となった。4月9日の福岡ソフトバンクホークス戦(福岡ドーム)で移籍後初先発初勝利を挙げると、6月11日の古巣・対巨人戦(東京ドーム)で勝利投手となったが、その後は自身も調子を崩して一軍での先発登板は自己最多の19試合だったが、2勝11敗と大きく負け越した。シーズン終了直前の対ソフトバンク戦で右膝靭帯を損傷する大怪我を負い、オフに手術を受ける。

2006年は手術の影響により一軍登板はなかった。

2007年は2度先発登板したものの0勝2敗、防御率12.19と不振で、オフに球団から戦力外通告を受けた。

浪人

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その後、同年11月17日12球団合同トライアウトへ参加するも獲得球団は現れず、12月に浪人を決意。駒澤大学で翌年のトライアウトに向けてトレーニングを行ない、この間に膝の故障を完治させている。2008年10月1日、大学の先輩でもある森繁和一軍バッテリーチーフコーチ(当時)と連絡をとって中日ドラゴンズの入団テストを受験し合格。1年ぶりの現役復帰を果たした。

中日時代

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2009年5月15日に2年ぶりに一軍昇格。5月24日の対北海道日本ハムファイターズ戦に2番手として登板し1回を0点に抑え、初ホールドを記録。以降は中継ぎとしてチームを支え、7月10日の対広島戦(ナゴヤドーム)で、2005年6月11日以来となる勝利を挙げた。この年は44試合の登板で15ホールド・防御率1点台と「復活」と呼ぶに相応しい結果を残した。

2010年は調整の遅れなどから7月に一軍入りを果たしたが怪我で再降格。終盤に再昇格するがレギュラーシーズンは4試合の登板にとどまった。ポストシーズン(巨人とのクライマックスシリーズロッテとの日本シリーズ)ではレギュラーシーズンを上回る計5試合に登板した。日本シリーズ第7戦では打ちこまれるなど期待に応えられず、チームも延長戦で勝ち越され日本一を逃した。

2011年は30試合に登板し、1勝4敗・防御率2.65の成績だったが、10月19日に球団から戦力外通告を受けていたことが明らかになり[10]10月29日に球団から正式に発表された。しかし、その後も日本シリーズ終了までチームに帯同し、ヤクルトとのクライマックスシリーズとソフトバンクとの日本シリーズの計3試合でリリーフ登板した。その後、12球団合同トライアウトに参加。

プロ野球珍プレー・好プレー大賞にて、同年4月20日、対ヤクルトスワローズ戦の9回裏・三塁線のバント処理で三塁へ送球するも無人だったため、三塁悪送球となり走者が生還しサヨナラ負けになったプレーで2011年度大賞を受賞した。

独立リーグ時代

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2012年2月22日愛媛マンダリンパイレーツとの入団に合意。3月13日に入団会見が行われた[11]。背番号は702013年2014年とも10試合程度の登板であった。2014年はシーズン中に数度、契約解除(練習生への降格)と再契約を受けている[12]

2015年は肩痛のため、シーズン開始直後の4月9日付で練習生に降格。公式戦への登板がないまま[12]10月27日に球団を通じて引退を発表した[13]

現役引退後

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2015年のシーズン中に愛媛球団主催の小中学生向け「投力向上プロジェクト」でメイン講師を務めた縁で、愛媛球団の薬師神績から「愛媛県内の野球の底辺拡大に手を貸して欲しい」と打診された。2016年1月に、星企画株式会社(薬師神が経営する地元の広告会社)へ入社。「More Baseball Project プロジェクトリーダー」という肩書で、県内の小中学生が怪我をせずに野球を続けられるような取り組みや、協賛企業の募集を始めたと報じられた[14]。同年5月には、愛媛と巨人3軍の定期交流戦をNHK松山放送局でテレビ中継した際に解説者として出演した[15][16]

2016年に再婚[5]した。

2017年1月4日オリックス・バファローズのコーチ就任に伴い退団した弓岡敬二郎の後任として愛媛の監督に就任することが発表された[17]。監督初年度の前期は最下位に終わる[18]2018年2019年の2年連続して後期優勝を達成したが[19][20]、年間総合優勝を決めるリーグチャンピオンシップには2年続けて敗退[21][22]。河原が率いる愛媛について、四国新聞は「投手陣の整備が進んだ後期に強さを発揮するも、前期は苦戦を強いられている」と評している[23]2020年はチームとして最下位に終わった[24]が、2021年1月6日に留任が発表された[25]。翌2021年もチームは前期・後期ともに最下位となり[26][27]、シーズン終了後の9月30日、今シーズンの任期満了をもって監督を退任すると発表された[28]。ただし球団には引き続きとどまり、「球団事業推進本部長(仮称)」という役職に就任する[28]

選手としての特徴・人物

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細身の体型から繰り出すスピンの効いた直球と抜群の制球力が武器[29][30]変化球スライダー[29]フォーク[30]カーブ[31]を投げ分ける。直球の球速は140km/h台と特別速くないものの、キレが良く手元で伸びる球で打者を翻弄。スライダーとのコンビネーションで高い奪三振率を誇る。解説者の江川卓は「(河原の)今日のボールは打てない」、掛布雅之は「ボールが生きている」などと河原の直球を絶賛していた[29]

マウンド上ではポーカーフェイスを貫き[32]、その姿から「鉄仮面」と形容された[29]

2007年に西武から戦力外通告を受け、一年間どの球団にも所属しない浪人生活を経て、NPB球団(中日)に復帰した異色の経歴を持つ[30]

中日時代は、自身が故障明けの一軍復帰戦で無失点に抑えると、監督の落合博満に「あいつをずっと待っていた」と言わしめるなど絶大な信頼を得ていた[33]

プロ野球人生で最も印象に残った打者としてロバート・ローズを挙げている[34]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1995 巨人 19 14 4 3 1 8 6 0 -- .571 452 106.0 96 6 50 3 1 94 6 0 43 39 3.31 1.38
1996 9 8 1 0 0 0 4 0 -- .000 216 50.0 53 6 19 0 2 45 1 0 25 25 4.50 1.44
1997 25 1 0 0 0 2 1 1 -- .667 197 45.0 37 1 25 4 2 35 7 0 14 13 2.60 1.38
1999 8 7 0 0 0 2 2 0 -- .500 129 29.2 36 6 5 0 1 25 1 0 17 16 4.85 1.38
2000 7 6 3 3 0 4 0 0 -- 1.000 166 44.1 29 4 9 0 1 30 1 0 7 7 1.42 0.86
2001 21 12 0 0 0 4 4 2 -- .500 334 72.2 91 19 28 1 4 39 0 0 52 48 5.94 1.64
2002 49 0 0 0 0 5 3 28 -- .625 196 50.0 44 8 6 2 0 61 1 0 16 15 2.70 1.00
2003 23 0 0 0 0 0 3 7 -- .000 113 22.0 37 4 7 1 2 23 2 0 26 23 9.41 2.00
2004 13 0 0 0 0 0 1 2 -- .000 68 15.1 20 5 5 0 0 10 0 0 11 11 6.46 1.63
2005 西武 20 19 0 0 0 2 11 0 0 .154 428 97.0 106 15 34 1 5 54 4 0 66 58 5.38 1.44
2007 3 3 0 0 0 0 2 0 0 .000 50 10.1 16 4 5 0 1 5 0 0 14 14 12.19 2.03
2009 中日 44 0 0 0 0 3 0 0 15 1.000 136 34.0 24 2 10 2 2 18 0 0 7 7 1.85 1.00
2010 4 0 0 0 0 0 1 0 2 .000 16 3.2 5 0 0 0 0 1 0 0 2 2 4.91 1.39
2011 30 0 0 0 0 1 4 0 10 .200 87 20.1 19 1 8 1 0 12 0 0 8 6 2.66 1.33
NPB:14年 275 70 8 6 1 31 42 40 27 .425 2588 600.1 613 81 211 15 21 452 23 0 308 284 4.26 1.37
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

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記録

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NPB投手記録
NPBその他の記録

独立リーグでの投手成績

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2013 愛媛 4.70 12 4 3 0 0 0 0 59.1 255 59 8 24 16 1 33 31 0 0
2014 3.28 10 2 3 0 0 0 0 49.1 204 58 2 17 7 1 22 18 2 0
通算:2年 4.05 22 6 6 0 0 0 0 108.2 459 117 10 41 23 2 55 49 2 0

背番号

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  • 15 (1995年 - 2005年途中)
  • 12 (2005年途中 - 2007年)
  • 60 (2009年 - 2011年)
  • 70 (2012年 - 2015年)
  • 87 (2017年 - 2021年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、174ページ
  2. ^ a b c d 日刊スポーツ1995年11月3日3面
  3. ^ 週刊ポスト1996年6月7日号
  4. ^ 読売新聞、朝日新聞、毎日新聞1996年6月16日の各スポーツ面
  5. ^ a b “「“鉄仮面”は楽だった」元G守護神・河原純一さんが明かした現役時代のホンネ”. スポーツ報知. (2017年10月21日). https://web.archive.org/web/20171022101322/http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20171020-OHT1T50178.html 2017年10月21日閲覧。 
  6. ^ 週刊ベースボール1999年プロ野球全選手名鑑号 ジャイアンツ情報で「昨年5月に右ヒジを手術してから、必死のリハビリに挑戦」とある一方名鑑では「右肩故障のため開幕直後からファーム」と内容がばらついていた。
  7. ^ 2001 ベースボール・レコード・ブック 95頁 2000年度主要記録集「3勝全て完封の河原」より。河原の3完封は6月16日の対阪神戦、7月9・30日の対中日戦である。同年の3完封は他にチームメイトのダレル・メイ小宮山悟(横浜ベイスターズ)が記録している。
  8. ^ 週刊ベースボール2002年12/16号 58頁「保存版 記録の手帳 公式戦出場全選手個人成績 2002年プロ野球ペナントレース統括 1位 読売ジャイアンツ」より。
  9. ^ 「河原トレード 西武・後藤光と」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2005年(平成17年)3月28日付朝刊、16面(スポーツ面)。
  10. ^ 中日スポーツ2011年10月20日号より。
  11. ^ “河原選手の入団会見を行いました!【チームからのお知らせ】”. 愛媛マンダリンパイレーツ公式サイト. (2012年3月13日). http://www.m-pirates.jp/news/entry/2012/03/002331.php 2012年3月13日閲覧。 
  12. ^ a b 詳細は四国アイランドリーグplus ウェブサイトの「登録・抹消公示」[1]を参照。
  13. ^ “引退会見のお知らせ【チームからのお知らせ】”. 愛媛マンダリンパイレーツ公式サイト. (2015年10月27日). http://www.m-pirates.jp/news/entry/2015/10/008373.php 2015年10月27日閲覧。 
  14. ^ 元MP投手・河原さん 社業として球児指導 | 愛媛新聞ONLINE - 2016年1月27日(水)
  15. ^ “【巨人】3軍VS愛媛の定期戦を両軍OBの河原純一氏が解説”. スポーツ報知. (2016年5月16日). https://web.archive.org/web/20160518001419/http://www.hochi.co.jp/giants/20160516-OHT1T50083.html 2017年3月26日閲覧。 
  16. ^ 愛媛MP NHKテレビ中継のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2016年5 月16日)
  17. ^ 新監督 『 河原 純一 』 就任のお知らせ【チームからのお知らせ】”. 愛媛マンダリンパイレーツ公式サイト (2017年1月4日). 2017年1月4日閲覧。
  18. ^ “最終戦黒星、愛媛MP最下位”. 愛媛新聞. (2017年5月29日). https://www.ehime-np.co.jp/article/news201705291713 2017年5月30日閲覧。 
  19. ^ “愛媛MP、2年ぶり5度目の後期優勝”. 愛媛新聞. (2018年9月19日). https://www.ehime-np.co.jp/article/news201809190264?utm_source=article&utm_medium=referral&utm_campaign=osusume&utm_content=news201809190263 2019年9月19日閲覧。 
  20. ^ “愛媛MP、後期優勝”. 愛媛新聞. (2019年9月10日). https://www.ehime-np.co.jp/article/news201909100175 2019年9月24日閲覧。 
  21. ^ “MP総合Vならず、香川に1点差 反撃届かず”. 愛媛新聞. (2018年10月3日). https://www.ehime-np.co.jp/article/news201810030024 2018年10月3日閲覧。 
  22. ^ “愛媛MP無念 総合V逃す 先制も徳島に逆転負け”. 愛媛新聞. (2019年9月24日). https://www.ehime-np.co.jp/article/news201909240043 2019年9月24日閲覧。 
  23. ^ “四国IL、ライバル3球団の戦力”. 四国新聞. (2020年6月18日). https://www.shikoku-np.co.jp/sports/iblj/20200618000149 2020年6月20日閲覧。 
  24. ^ “愛媛MP今季最終戦 劇的サヨナラ 徳島に1―0”. 愛媛新聞. (2020年10月26日). https://www.ehime-np.co.jp/article/news202010260103 2021年1月9日閲覧。 
  25. ^ 愛媛MP 監督続投のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2021年1月6日)
  26. ^ “愛媛MP、勝率ワースト更新 前期終了 わずか5勝で最下位”. 愛媛新聞. (2021年6月24日). https://www.ehime-np.co.jp/article/news202106240105 2021年9月30日閲覧。 (全文を読むには会員登録が必要)
  27. ^ “愛媛MP、徳島と3―3 後期最下位確定”. 愛媛新聞. (2021年9月19日). https://www.ehime-np.co.jp/article/news202109190079 2021年9月30日閲覧。 
  28. ^ a b 愛媛MP 河原純一監督退任のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2021年9月30日)2021年9月30日閲覧。
  29. ^ a b c d 全盛期の直球は衝撃! 巨人で守護神務め、落合中日でも重宝された右腕とは | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年5月19日閲覧。
  30. ^ a b c 【2009年5月24日】中日・河原純一が632日ぶり1軍マウンドでプロ初ホールド”. スポーツ報知 (2020年5月24日). 2021年5月19日閲覧。
  31. ^ 小宮山悟×武田一浩 技巧派OBが語り合う 変化球のこれまでとこれから | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE. 2021年5月19日閲覧。
  32. ^ 「“無職男”河原純一、執念の復活。~年俸600万円のポーカーフェイス~」number bunshun page2”. 2021年5月20日閲覧。
  33. ^ 落合監督「ずっと待ってた」河原復活 - 野球ニュース”. nikkansports.com. 2021年5月19日閲覧。
  34. ^ 巨人では抑えのエース。河原純一がNPBと独立リーグのギャップを語る|プロ野球|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva”. 集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva. 2021年5月19日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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