河本文一
河本 文一(かわもと ぶんいち、1882年(明治15年)12月24日[1] - 1960年(昭和35年)2月22日[2])は、日本の大蔵官僚。会計検査院長、枢密顧問官。
経歴
[編集]山口県美祢郡岩永下郷村(現:美祢市秋芳町岩永下郷)で、河本勝の四男として生まれ、河本兵四郎の養嗣子となる[1][2][3]。山口高等学校を経て[4]、1907年7月、京都帝国大学法科大学経済科を卒業[1][2][3]。
1907年8月、大蔵省に入省し税務監督局税務属兼大蔵属となり、東京税務監督局に配属された[1][4]。1908年11月、文官高等試験に合格[1][4]。以後、宇都宮税務監督局経理部長、税務監督官、秋田税務監督局所得審査委員、税務監督局事務官・仙台税務監督局直税部長、熊本税務監督局直税部長、税務副監督官・札幌税務監督局関税部長、広島税務監督局経理部長事務取扱、大蔵省主計局書記官・臨時官有財産課長、臨時国有財産整理部書記官・総務課長兼管理課長、国有財産整理局書記官、臨時震災救護事務局事務官、兼臨時営繕局書記官、大蔵省参事官兼臨時営繕局書記官・臨時営繕局総務部長心得、兼臨時議院建築局理事などを歴任[1]。
1924年6月6日、会計検査院に転じ検査官・第二部第三課長に就任[1]。その後、会計検査官懲戒裁判所予備裁判官、第二部第四課長、第二部第三課長、会計検査院部長・第三部主管、会計検査官懲戒裁判所裁判官、第二部主管、鉄道会議議員などを務め、1941年10月24日、会計検査院長となる[1]。
1946年6月10日に枢密顧問官に転じ1947年5月2日の枢密院廃止まで在任した[1]。
その後、公認会計士管理委員長、同審査会会長などを務めた[2]。
栄典
[編集]- 位階
- 1909年(明治42年)12月27日 - 従七位[5]
- 1913年(大正2年)2月28日 - 正七位[5]
- 1915年(大正4年)8月30日 - 従六位[5]
- 1919年(大正8年)1月30日 - 正六位[5]
- 1921年(大正10年)1月31日 - 従五位[5]
- 1924年(大正13年)7月1日 - 正五位[5]
- 1928年(昭和3年)7月1日 - 従四位[5]
- 1934年(昭和9年)7月16日 - 正四位[5]
- 1939年(昭和14年)8月1日 - 従三位[5]
- 1944年(昭和19年)8月15日 - 正三位[5]
- 勲章等
- 1924年(大正13年)7月26日 - 勲五等瑞宝章[5]
- 1926年(大正15年)2月15日 - 勲四等瑞宝章[5]
- 1928年(昭和3年)
- 1931年(昭和6年)5月1日 - 帝都復興記念章[5]
- 1934年(昭和9年)12月31日 - 旭日中綬章・昭和六年乃至九年事変従軍記章[5]
- 1937年(昭和11年)7月7日 - 勲二等瑞宝章[5]
- 1940年(昭和15年)
- 1943年(昭和18年)7月14日 - 勲一等瑞宝章[5]
著作
[編集]- 共著
- 『経済学全集』第19巻(財政学 上)、改造社、1930年。
脚注
[編集]参考資料
[編集]- 山口県教育会編『山口県百科事典』大和書房、1982年。
- 『国立公文書館所蔵 枢密院高等官履歴 第8巻』東京大学出版会、1997年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 人事興信所編『人事興信録』第14版 上、1943年。