流星 (航空機)
愛知 流星 B7A
艦上攻撃機「流星」は、太平洋戦争末期に登場した大日本帝国海軍の艦上攻撃機である。設計・開発は愛知航空機。略符号はB7A。連合国によるコードネームはGrace。
概要
[編集]多任務艦上攻撃機であり、急降下爆撃・水平爆撃・雷撃を行える。すなわち艦上爆撃機と艦上雷撃機の両機種の役割を兼ねる。
当時の空母は対艦攻撃用の航空機として艦上爆撃機と艦上攻撃機を搭載していた。しかし、両機種は活躍できる状況が異なるため、空母の限られた搭載機数を活用することは困難だった。それを解決するためにつくられたのが流星である。
- 1機種にて艦攻艦爆を兼ね、水平爆撃・急降下爆撃・雷撃が可能なこと。
- 最大速度は、各爆弾を搭載した状態で、高度5000mで300kt(555.6km/h)以上。
- 航続距離は、500kg爆弾搭載時、正規状態で1000海里(1852km)以上、過荷重状態で1800海里(3333.6km)以上。
- 離昇能力は、800kg爆弾搭載時の過荷重状態にて離艦滑走距離100m以下(風速12m/s)。
- 着艦速度は、爆撃正規状態で65kt(120.4km/h)以下。
- 爆弾の場合は、800kg1発、または500kg1発、または250kg2発、または60kg6発のいずれも装備できること。
- 魚雷の場合は、850kg1発、または1000kg1発のいずれも装備できること。
- 武装は翼内7.7mm機銃2挺、後上方7.7mm旋回機銃1挺(後に翼内20mm機銃2挺、後上方13mm旋回機銃1挺に変更)。
- 空戦性能は、九九式艦上爆撃機に匹敵する運動性以上。
- 構造は堅牢で整備が簡単、工作が容易で量産に適すこと。
(以上の文面は、機体設計者の尾崎紀男の手記の表現によるもの)
要求内容は過酷、加えて愛知航空機は現用機の量産と改良に追われ、試作作業は停滞する。誉一一型発動機を搭載した試作1号機が、ようやく1942年12月に完成。十六試艦攻は、昭和18年8月以降の新名称付与様式によって試製流星と命名される。1945年3月に制式採用され「流星改」の制式名を受けた[4]。
単発レシプロ機。2人乗りで全金属製、応力外皮(モノコック)構造で作られている。主脚は内側引き込み式で尾輪をもつ。
爆弾倉は胴体内部下部に内蔵する(ただし航空魚雷については外部に懸吊する)。主翼は中翼単葉形式かつ逆ガル翼を採用し、外見上の大きな特徴となっている。
日本海軍の定義では急降下爆撃が可能な機体は「爆撃機」、雷撃が可能な機体は「攻撃機」に分類されるが(水平爆撃は両機種とも可能)、本機は「爆撃機」に準じた名称を持つ(彗星など「星」が付く名称は単発爆撃機用と定められていた。天山など攻撃機は「山」が付く名称)が、「B7A」の略符号が示す(愛知航空機製(A)、7番目の艦上攻撃機(B7))様に機体分類は「攻撃機」になっている[注釈 1]。因みに同様に急降下爆撃と雷撃を兼用する陸上機である銀河は「爆撃機」に分類されている。
他の単発艦攻や艦爆と比較して傑出した性能をもっていたが、本機は重量過大のため艦上機として運用するのは困難であり、実際は陸上機として運用された。
残存機
[編集]終戦後、日本を占領する連合国の一国として進駐したアメリカ軍によって4機が接収され、そのうちの1機はワシントンD.C.のスミソニアン航空博物館にて分解状態で保管されている。
2014年(平成26年)2月23日に、「流星」の風防の一部が熊本県八代市で見つかっていたことが発表された。「流星」の機体を製造していた第21海軍航空廠(長崎県大村市)へ部品を納入していた三陽航機八代工場の関係者が、機体の一部を戦後も保存しており、これが他者に譲渡されたものを調査したところ「流星」の風防であることが確認された。日本国内に現存する唯一の「流星」の機体の一部だと考えられており[6]、現在は熊本県球磨郡錦町の錦町立人吉海軍航空基地資料館(山の中の海軍の町 ひみつ基地ミュージアム)にて展示されている。[7]
機体の特徴
[編集]高速性能を得るために空気抵抗となる爆弾は胴体内爆弾倉に搭載する。ただし航空魚雷は爆弾倉外の胴体下面に懸吊する。
必然的に中翼配置となり、直径 3.45mのプロペラと着艦時の衝撃耐性は主脚を長く重い物にする事が確実だったが、逆ガル翼にする事で主脚は若干短く軽くなり、脚の取付軸も翼厚がある内翼寄りへ、翼内燃料の搭載スペースも微増した。内翼の下反角は 6.5度、外翼の上反角は 8.5度。主翼取付角は翼根 2度/翼端 0.5度で、1.5度の捩り下げが付いている。主翼縦横比は 5.85、フラップは愛知独自のダブルスロテッドフラップ[注釈 2]で水上偵察機瑞雲[8]と水上攻撃機晴嵐[9]にも採用され[注釈 3]、ファウラーフラップと同等以上の揚力係数を発揮する。なおエルロンもフラップに連動して 15度下がるようになっていたが急降下中にエルロンがトラレ[注釈 4]る不具合が発生[10]、フラップとの連動を解く事で解決したため結局廃止されている。主翼の折り畳みと展開は油圧式[11]。
翼型は独He100の翼型に手を加えた物で、矢高は翼根2%/翼端1%、前縁半径は翼根1.5%/翼端1.3%、翼厚は翼根16%/翼端10%、最大厚さ位置は翼弦の36%位置。主脚タイヤ(直径 85cm)を引込むスペースを確保するため主桁はその後ろ41%位置に通し[12]、邪魔にならないよう操縦席直後の胴体を貫通する。これによって翼根の位置がほぼ確定し、そこから空力平均翼弦位置を機体重心に適合させるため、前縁後退角1度という中島戦闘機のような主翼平面形となった。後縁ラインは2段テーパー(先細)で主翼屈曲部の外側、フラップとエルロンの境界を起点に内側12度、外側17度となっている。わざわざ2段にした理由はフラップを下げた時の横安定悪化に配慮し、フラップ部の主翼後縁ラインを少しでも浅い角度にするためである。一般にフラップを下げると上反角の効果が低下し横安定の悪化を招くが[13]、フラップに後退角がある場合は逆に横安定が向上、前進角がある場合はいっそう低下する[14]。本機は逆ガル翼で内側には下反角を持ち、この部分でフラップ面積の半分以上を占めるため横安定への悪影響に慎重であった事がうかがわれる[15][注釈 5]。
急降下爆撃の任に当たる本機は引き起こし荷重 7Gに耐えねばならなかったが[16]、空技廠の巌谷英一技術中佐によれば重量過大なうえ強度計算に大きな誤りがあり、強度試験に再三失敗[17]、補強問題が相次ぎ、最終的に独ヘンシェル社の軽量な板骨式構造とプレス加工技術を導入、生産簡易化も織り込み主翼全般の設計変更を行ったと記している[18]。一方、設計者の尾崎紀男はこれを否定しており、試作1号機の機体重量は計画通りで完成したが、対米戦争の始まりを受け、限られた資材と設備での生産性向上を求められ、多少の重量増は許容する方向で改造を行ったと記している[19]。それでも各部の工夫や防弾取外しに等より約60kgの重量軽減になった[20]。なお、試作1号機は楕円翼だったとする説は否定されている[19]。
急降下制動板は彗星と同形式でフラップの直前にあり、通常は翼下面の一部を形成し、フラップ使用時はフラップの効率を高めるため内側に引込んで隙間の形を有利に整形、急降下時には外に大きく開いて過速を抑える[注釈 6]。
水平尾翼は安定板の角度を空中で変更できる機構を持ち、ダブルスロテッドフラップを下げた際に起きる強烈な機首下げモーメント[21]や、急降下爆撃で制動板使用時に起きる縦トリムの変化を自動で打ち消すようになっている[22]。また水平尾翼取付位置を高くし、キリモミ離脱に効く『水平尾翼下面の胴体側面積』を広く取るとともに、不意自転の原因になる『高迎角での方向安定低下』を防いでいる[23]。垂直尾翼は回転流れであるプロペラ後流を受け、右向きの微弱揚力を発生し機首を左に偏向させるが、これを中和するため左に 1.75度の取付角を持っている[24]。
操縦席は爆弾倉の上、エンジンより一段高く配置され優れた前下方視界を得ている。胴体断面も卵型とし視界と射界に配慮した。風防形状も洗練されたものとなり、閉めた時には可動部と固定部の段差がないよう設計されている。胴体構造は後部、前上部、前下部の 3つに分割でき、陸送や船積みに対応している[25]。
爆弾倉は発動機の背後にレイアウトされ前面投影面積を抑えるとともに、防火壁を 10度傾斜させて 3.66mに及ぶ長い爆弾倉を得ている[注釈 7]。翼内武装には九九式二号20ミリ四型機銃が搭載され、胴体中央から 1875mmの位置、主脚柱の上に銃身が通されている[26]。
急降下爆撃時は降下角 80度までは投下枠により爆弾がプロペラ圏外に誘導される。 500kgと 800kgの爆弾は機軸中央線から 145mm左の爆弾倉内に、魚雷は同 370mm左側に 1.5度の頭下げで機外に懸吊され、雷装による最高速度の低下は約 20ノット(37km/h)と推算されていた[27]。九七艦攻や天山艦攻は魚雷をプロペラの振り下ろし側(右側)にずらして懸吊し、トルクの影響をやわらげているが、本機はプロペラの振り上げ側(左側)に懸吊しておりトルクの悪影響が出やすい。空中雷道を安定させるため魚雷尾部に付ける框板は天山の箱型とは異なり十文字型の四式型板である[28]。
燃料タンクは主翼内に左右各5個づつ、主桁前方、翼折り畳み部を境にして内側に一番タンク、外側に外翼タンク。主桁後方、胴体側から順に二番、三番、四番タンクの配置になっている(容量は一番タンクから順に240L/195L/165L/125L/外翼タンク220L)[注釈 8]。左二番タンクは集合タンクで、他のタンクを使用する場合も一度このタンクを通してエンジンに供給される。右四番タンクは水メタノール用とされ、さらに爆弾倉内には500Lの増設タンクを懸吊可能である。オイルは防火壁前上部の100Lタンクに90Lを搭載する[29]。
また、九七艦攻や天山が三座(操縦、偵察、電信)であったものが、本機では複座となり偵察員が電信を兼務している。
量産機には離昇出力1,825馬力の中島の「誉」一二型を搭載し、これを流星改と呼ぶという。これが誤情報と言う記事が最近広まっているが、これを決定付ける証拠資料はまだ見つかっていない。[30]。詳細は下記の型式名・諸元の旧説と新説を閲覧。[注釈 9] 、出力に合わせ住友金属工業がライセンス生産したドイツVDM社の4翅定速プロペラを採用している[32]。
推力式単排気管はカウルフラップの隙間から出す安易な方法を避け、カウルフラップから少し離した後方に最小限の突出で配列されている。
試験飛行と改修
[編集]高岡迪によれば初飛行は試作1号機が完成した直後の1942年12月で、高岡は愛知のテストに参加する形で飛んだという[33]。離着艦テスト[注釈 10]は横空第二飛行隊の薬師寺一男大尉(艦爆操縦員)が実施し、着艦は極めて容易の判定を受けたほか[35][36]、補助ロケットを使い空母雲龍からの発艦テストも行われている[37]。同じく横空第三飛行隊付兼審査部員でもあった大多和達也少尉(艦攻操縦員)によると、魚雷を積んで高度4000mからダイブすると350ノットを軽く超えたという[38]。また、30度の緩降下テスト中に引起し不能に陥り、地面が迫る中を引起し操作とは逆に操縦桿を押し、その揺り戻しを利用して引起しに成功。調査の結果、水平安定板の取付角が狂っていた事が判明し、全機再点検のうえ改修が施された[39]。攻撃第五飛行隊の降爆訓練では、高度600mからの引起し中に右傾して修正できず地上に突っ込む事故が続き、原因究明のため1番クセの強い機体を使い、後席に空技廠山名正夫技術中佐を乗せ冨士栄一大尉が操縦、安全な高度から山名中佐の要求に従ってあらゆる降下角度と降下速度の組み合わせでテストを繰り返し、エルロンの改造によって欠陥を治したという[40]。本機は愛知だけでなく第二十一海軍航空廠でも製造されていたが、愛知製に比べ故障が多く飛行特性もクセが強かったため攻撃第五飛行隊の搭乗員、整備員の両方から嫌われていた[41][注釈 11]。また詳しい資料は残っていないが建造中で甲板が完成し、呉港へ出港する数日前に空母信濃で流星、紫電改二(紫電の艦載機型)、彩雲等の新鋭艦載機の発着艦試験を行っている。
塗装
[編集]流星の量産機の基本塗装は機体上面は愛知航空だと彗星や銀河と同じで薄みがかった緑に日の丸の縁はグリーン、機体下面の日の丸の縁は白、機体下面はオフホワイト、機体の上面と下面の塗り分けは波線で迷彩の用になっていた。第21航空廠は暗緑色、機体下面はアイボリー、日の丸は白縁がついていて、機体下面の日の丸は縁がない。カウルは九七艦攻や九九艦爆の前期生産型のように黒く塗られていて操縦席に近づくにつれて斜めになっていく。機体上面と下面の塗り分けは直線になっている。また水平尾翼にある、後方旋回銃座標準測定線は愛知航空機の機には入っている機と入っていない機がいて、第21航空廠の機は全機に入っていた。
量産と実戦配備
[編集]量産型の生産は1944年4月から行われているが、高性能な機体ゆえに、またB-29による爆撃と1944年12月7日に発生した東南海地震による工場の被災もあり、生産は遅々として進まなかった。生産拠点の分散のため、大村の第二十一海軍航空廠での転換生産も行われていたが、やはり生産速度は上がらず[43]終戦を迎えた。最終的な生産機数は試作機9機を含めても111機であるが様々な説があり、詳細は不明。
流星の着艦を可能にする三式着艦制動装置(機体重量6tに対応)は信濃、大鳳、雲龍、葛城、天城、神鷹、雲鷹、に搭載されていたが[44][45]、大鳳、雲鷹、神鷹、信濃、雲龍と次々に沈められ空母機動部隊の再建は断念[注釈 12]。残る葛城、天城での運用も検討したが、エレベーターの搭載重量を遥かに超えている[要検証 ]流星は甲板露天で運用するしかなく、そうすると搭載機数もかなり少数となり、他の艦載機と共同で使用しても発艦は流星が最優先、着艦は他の艦載機が最優先と不便でしかない事と、そもそも中型正規空母を航行させる分の燃料はなく、現時点で航行できているのは日本海軍航空母艦で甲板全長は龍驤より長いが、全長が日本海軍空母最小という商船改造空母海鷹のみであり、海鷹で運用するにしても、天山を運用できず、旧式の九七艦攻を運用している海鷹には無理な話であった。そのため流星は艦載機でありながら、空母信濃と雲龍で発着艦試験を行ったのみで艦載機として運用されることは一度もなかった。
一部が横須賀海軍航空隊で実験機として使用されたが、終戦までの間に実戦部隊で「流星」を運用したのは第一〇〇一海軍航空隊と攻撃第五飛行隊(第一三一海軍航空隊、第七五二海軍航空隊)のみであった。 「流星」を装備した第七五二海軍航空隊・攻撃第五飛行隊は、1945年5月以降、千葉県の木更津海軍航空基地に展開し、終戦直前の1945年7月下旬(7月25日)から同年8月15日の終戦当日までの数回にわたり、当時、関東沖を中心として日本本土近海に接近し、日本本土各地に対する空襲作戦を遂行していた米・英海軍高速空母機動部隊に対する攻撃を(7月25日夜半に第一波攻撃隊として出撃した6機編成の急降下爆撃隊と第二波攻撃隊として出撃した5機編成の夜間雷撃隊による夜間雷撃を含めて)少数機により敢行した。7月25日の爆雷連合攻撃隊は、米軍の空襲では銀紙をばら撒かれたため、急降下爆撃隊は銀紙を撒き散らしながら降下した。しかし戦果は不明、損失機は4機であった。同日、第一次流星隊6機が出撃、2機が引き返し、戦果不明。8月9日には第二次流星隊が8機出撃し、第4区隊の二機全てが引き返し、6機が艦隊へ向かい、数機が迎撃機で撃墜され、数機が敵艦隊に到達し、1機が超低空から米駆逐艦DD-704「ボリー」に突入し大破させた。ボリーは死者、負傷者が大量に出て、搭載していた800キログラム爆弾は吹き飛び空中で炸裂、(突入寸前に搭乗員が投下した可能性もあり)艦全体が激しく炎上した。ボリーは大破したが駆逐艦アボット、軽巡アトランタの支援と曳航のもと、前線離脱に成功した。(突入したのは米軍は九九艦爆(Val)と認識していたが出撃記録はなく第二次流星隊の流星の可能性が高いが601空の彗星三三型の可能性もある。)その後数機が対空砲で撃墜され、残りの1機は米軍機に紛れて急接近し、敵艦隊へ突入した。流星は米空母CV-18ワスプの直上に迫った。そして急降下すると同時に敵戦闘機(F4Uコルセア)と対空砲員が気づき、一斉射撃し、対空砲が風防を直撃、操縦士を負傷か、死亡させるも、それでもなおものすごい速度で降下してくるので翼を集中攻撃し、流星は翼が折れ、火を吹きながら飛行甲板からわずか数メートル離れた海面にものすごい勢いで衝突した。そして8月13日の第三次流星隊は2機引き返し全機撃墜され、戦果なし。[46]。 終戦当日、木更津海軍航空基地から2機が出撃し、1機(一番機、山木中尉・尾瀬本飛曹長ペア)の主脚が引き込まず引き返し、二番機(縄田准二一飛曹・中内理一飛曹ペア)のみが米艦隊へ向かった。その後、CV-10ヨークタウンに特別攻撃を行った。この特攻は失敗に終わり、流星は艦隊へ到達するも、対空砲により撃墜された。この特別攻撃隊は海軍公式記録上「最後の特攻」となった[注釈 13][47]。なお、特攻流星隊は尾翼の付いていない特攻用爆弾を使い[48][49]、爆弾が落下しないよう胴体にしばりつけたと伝えられる。[50][注釈 14] しかし、第二次流星隊の中で爆弾を駆逐艦に投下して撃墜されたこともあり、流星隊の爆弾は固定されていなかった可能性が高い。また、流星隊は護衛機がおり、硫黄島の戦いで戦闘機隊は壊滅したが、全損したわけではなく、一区隊に2〜4機ついていた。第四次流星隊の尾瀬本飛曹長は752空司令の寺内長官が指揮下の飛行機全てを終戦当日に特攻させる考えで、護衛の零戦にも、護衛が終了したら基地に戻り、爆装して特攻出撃させようとしたと語っており、四次に渡る流星隊の出撃には一区隊ごとに2〜3機の零戦の護衛機がついていた。[51]
型式名・諸元の旧説と新説
[編集]主な違いは量産型を『流星改/B7A2』とするか『流星/B7A1』とするかにあり、以下に両論を併記する。正式な名称は不明である。詳細は上記の「試験飛行と改修」の発動機についてを閲覧。
旧説
[編集]戦後数十年、関係者が存命の時代に広く受け入れられた説である。
旧説の型式
[編集]- B7A1
- 中島 誉一一型を装備した試作1号機と増加試作機2~8号機。
- B7A2
- 発動機を誉一二型、または二一型に変更した生産型、引込式だった尾輪を固定化。
- B7A3
- 発動機を三菱ハ43に変更した性能向上型。計画のみに終わった。
旧説の諸元
[編集]名称 | 試製流星 | 流星改 | 試製流星改一 |
---|---|---|---|
略符号 | B7A1 | B7A2 | B7A3 |
全幅 | 14.40 m (主翼折り畳み時8.30 m) | ||
全長 | 11.473 m | 11.49 m | 11.73 m |
全高 | 3.97 m | 4.075 m | 4.07 m |
翼面積 | 35.5 m2 | 35.40 m2 | |
翼面荷重 | 139.2 kg/m2 | 161.02 kg/m2 | 169 kg/m2 |
自重 | 3150 kg | 3614 kg | 4030 kg |
正規全備重量 | 4942 kg | 5700 kg | 6000 kg |
発動機 | 誉11型(1800馬力) |
|
三菱ハ43(離昇出力2200馬力) |
プロペラ直径 | 3.5 m | 3.45 m | |
最高速度 | 563 km/h(高度6000m) | 542.6 km/h(高度6200 m) | 567 km/h(高度6000 m) |
上昇力 | 4000 mまで7分30秒 | 6000 m まで10分20秒 | 不明 |
航続性能 | 正規:1000カイリ
過荷:1800カイリ |
|
|
武装[52] |
|
| |
爆装 |
|
胴体:500 – 800 kg爆弾1発、または250 kg爆弾2発 | |
雷装 | 850 – 1,060 kg魚雷1本 | 不明 |
新説
[編集]海軍省内令兵第87号(昭和19年11月20日)や、海軍試作機性能要目一覧表(昭和20年8月22日、第一海軍技術廠調製)、海軍機略符号一覧表(昭和20年4月、海軍航空本部)など海軍公式文書を根拠としている。
新説の型式
[編集]- B7A1
- 流星の基本型。発動機は試作機・増加試作機は中島 誉一一型、量産機からは初期生産型においては1850馬力の「誉12型」、後期生産型では2000馬力の「誉21型」エンジンを搭載、。試作1号機と増加試作機2~8号機作られ、量産機も含め生産機数は一番同じ意見が多いものだと111機であるが、その他にも生産機数についてはいくつもの説があるので正確な生産機数は不明である。別名流星11型。
- B7A2
- 発動機を誉二三型に変更した性能向上機型。試作1号機のみで終わった。別名流星改。
- B7A3
- 発動機を三菱ハ43に変更した性能向上型。計画のみに終わった。別名流星改一。
新説の諸元
[編集]名称 | 試製流星 | 流星改 | 試製流星改一 |
---|---|---|---|
略符号 | B7A1 | B7A1 | B7A3 |
全幅 | 14.40 m (主翼折り畳み時8.30 m) | ||
全長 | 11.473 m | 11.49 m | 11.73 m |
全高 | 3.97 m | 4.075 m | 4.07 m |
翼面積 | 35.5 m2 | 35.4 ㎡ | |
翼面荷重 | 139.2 kg/m2 | 161.02 kg/m2 | 169 kg/m2 |
自重 | 3150 kg | 3614 kg | 4030 kg |
正規全備重量 | 4942 kg | 5700 kg | 6000 kg |
発動機 | 誉11型(1800馬力) |
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三菱ハ43(離昇出力2200馬力) |
プロペラ直径 | 3.45 m | ||
最高速度 | 563 km/h(高度6000m) | 542.6 km/h(高度6200 m) | 567 km/h(高度6000 m) |
上昇力 | 4000 mまで7分30秒 | 6000 m まで10分20秒 | 不明 |
航続性能 | 正規:1000カイリ
過荷:1800カイリ |
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武装 |
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爆装 |
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胴体:500 – 800 kg爆弾1発、または250 kg爆弾2発 | |
雷装 | 850 – 1,060 kg魚雷1本 | 不明 |
登場作品
[編集]漫画
[編集]- 『戦場まんがシリーズ』
- シリーズの一編「流星北へ飛ぶ」にて登場。
- シリーズの一編「交響死「棺桶」第五番」にて主人公の九九艦爆が向かうエリオット島の新鋭攻撃機として魚雷を抱いて出撃する。塗装は第21航空廠のもの。
- 『戦空の魂』
- シリーズの一編「艦上攻撃機 流星改 流れ星に愛を」にて登場。
小説
[編集]- 『征途』『レッドサン ブラッククロス』『遙かなる星』
- 『ラバウル烈風空戦録』
アニメ
[編集]- 『荒野のコトブキ飛行隊』
- 5話に登場。20 mm機関砲で零式艦上戦闘機五二型1機と四式重爆飛龍を撃墜した。
ゲーム
[編集]- 『War Thunder』
- 日本の空軍ツリーに「流星(B7A2)」として登場。プレイヤーが操縦できる。
- 『アズールレーン』
- 重桜の攻撃機として流星が登場する。
- 『艦隊これくしょん -艦これ-』
- 艦上攻撃機カテゴリーの装備として、流星、流星改、流星改(熟練)が登場する。また架空の機体として、流星(六〇一空)、流星改(一航戦)、流星改(一航戦/熟練)が登場する。
- 『荒野のコトブキ飛行隊 大空のテイクオフガールズ!』
- 各キャラクターの搭乗可能機体として登場。
- 『バトルフィールド1942』
- 日本軍の雷撃機として、外見が九九式艦上爆撃機の「流星改」が登場する。
- 『エアコンフリクト・パシフィックキャリアー』
- ダウンロード版でのみ追加される日米英独の7機種の中の1機として登場する。塗装は横須賀空の試験用機。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 設計側としてはあくまで急降下爆撃機に雷撃能力を付加した機体であり、艦攻の「B」ではなく、艦爆を意味する「D」を冠して欲しかったと尾崎紀男は書いている。[5]
- ^ 屈曲部を境に内方 25度、外方 20度
- ^ フラップ角度は両機とも共通で、親フラップ 20度、子フラップ 30度(親から見た子の角度なので実質50度)。
- ^ 速度が250~270ノットに達すると操縦桿が急激に右または左に取られ、機体が左右に揺さぶられる現象で、流星の最大の欠点であった。
- ^ フラップの面積重心を、上反角が有る外側に寄せる工夫として、フラップの先細比を主翼より小さくし、外側でより翼弦%を大きく取っている。ただしフラップ前縁ラインの前進角は深まる。
- ^ 重量4.95tでの90度垂直降下で終速度300ノット、60度で同330ノット、30度で同350ノットに押さえる事を目標としていた。空戦フラップとしても使用できスプリットフラップのように浅い角度で開く、晴嵐では 30度。
- ^ 250kg爆弾 2発は並列に懸吊
- ^ 米海軍A-1スカイレイダーの燃料タンクは操縦席直後の単一タンク(約1400リットル)に集約しており、容量当たりの防漏ゴム被覆重量を軽減している。
- ^ 設計者自身の選択で海軍の命令ではない 。[31]
- ^ 空母信濃で行った紫電改の発着艦テストは、流星との合同テストであったと菊原静男は書いている。[34]
- ^ 『機体の出来あがりが悪いし、リベットの打ち忘れというのも、現実にあるんです。』[42]
- ^ 航空母艦航空隊である六〇一空も陸に上げられている。
- ^ 前日に特攻を命じた三航艦司令長官の寺岡謹平中将は、立場上すでに終戦を知っていたと言われる。1番機が不時着した30分後にはラジオから玉音放送が流れた。
- ^ 突入の衝撃で爆弾が脱落し、敵艦に与えるダメージが軽くなる事を恐れたと思われる。
出典
[編集]- ^ 野沢正 『日本航空機総集 愛知・空技廠篇』 出版協同社、1959年、104頁。全国書誌番号:53009885。
- ^ 吉野泰貴『流星戦記』p.20(大日本絵画、2005年) ISBN 4-499-22868-9
- ^ 秋本実『日本軍用機航空戦全史<第4巻>本土防空の勇者を目指して』p.283(グリーンアロー出版社、1996年) ISBN 4-7663-3174-5
- ^ 愛知時計電機『愛知時計電機85年史』1984年、251頁 。
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参考文献
[編集]- 尾崎紀男『設計主務者が語る「流星」開発秘話』(光人社NF文庫 『艦攻艦爆隊』の中の一章 109頁-122頁 2019年)
- 大多和達也『最後の艦攻「流星」テスパイ試乗記』(光人社NF文庫 『艦攻艦爆隊』の中の一章 123頁-132頁 2019年)
- 冨士栄一『遅れてきた名機「流星」最後の奮戦』(光人社NF文庫 『海軍攻撃機隊』の中の一章 83頁-92頁 2020年)
- 鈴木四郎『戦火をくぐりぬけた艦攻搭乗員の航跡』(光人社NF文庫『海軍攻撃機隊』の中の一章 50頁--52頁 2020年)
- 小瀬本國雄『激闘艦爆隊』朝日ソノラマ 1994年
- 吉野泰貴『流星戦記 蒼空の碧血碑、海軍攻撃第五飛行隊史話』(大日本絵画、2005年) ISBN 4-499-22868-9
- 大内建二著『間に合わなかった軍用機』 光文社NF文庫、2004年、143-152頁。
- 渡辺洋二『重い飛行機雲』文春文庫 1999年 197頁-224頁 「流星」の名のごとく
- 丸 2014年8月号
- 日本海軍航空機図鑑