清末 (下関市)
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清末 きよすえ | |
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国 | 日本 |
地方 | 中国地方 |
都道府県 | 山口県 |
自治体 | 下関市 |
旧自治体 | 清末村 |
面積 |
19.31km² |
世帯数 |
2,621世帯 |
総人口 |
6,502人 (登録人口、2011年12月31日現在) |
人口密度 |
336.72人/km² |
隣接地区 | 本庁地区、小月地区、王司地区、勝山地区、内日地区、菊川地区 |
下関市役所清末支所 | |
北緯34度3分50.52秒 東経131度1分17.36秒 / 北緯34.0640333度 東経131.0214889度座標: 北緯34度3分50.52秒 東経131度1分17.36秒 / 北緯34.0640333度 東経131.0214889度 | |
所在地 |
〒750-1152 山口県下関市清末陣屋5番20号 |
清末(きよすえ)とは、山口県下関市の清末地区(下関市役所支所設置条例で示された下関市役所清末支所の所管する区域)を指す地域名称。
本項では同地域にかつて所在した豊浦郡清末村(きよすえそん)についても述べる。
地域概要
[編集]下関中心市街地から北東へ約13km、下関市の東方に位置する地域である。登録人口は6,377人(2009年2月28日現在、下関市役所ホームページによる)、地区面積は19.31km2(2007年10月1日現在、下関市役所ホームページによる)。
北および東は小月地区と、南は神田川を挟んで王司地区と、西は内日地区と隣接する。
農地がひろがる田園地帯だが、国道491号(旧国道2号)沿線を中心に長府・小月地区のベッドタウンとして宅地化が進展しつつある。とくに北東隣の小月地区とは一体的な市街地を形成する。
域内には、国道2号(小月バイパス)、国道491号、主要地方道である山口県道40号豊浦清末線が通る。また域内にJR山陽本線や中国自動車道は通るものの駅およびインターチェンジはなく、1〜2km離れた小月駅や小月ICを利用することとなる。
地名由来と地域のあゆみ
[編集]きよすえそん 清末村 | |
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廃止日 | 1939年5月17日 |
廃止理由 |
編入合併 小月町、清末村、王司村、勝山村、吉見村 → 下関市 |
現在の自治体 | 下関市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方 |
都道府県 | 山口県 |
郡 | 豊浦郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 |
2,674人 (国勢調査、1935年) |
隣接自治体 |
下関市 豊浦郡小月町、王司村、勝山村、内日村、豊東村 |
清末村役場 | |
所在地 | 山口県豊浦郡清末村 |
座標 | 北緯34度3分50.5秒 東経131度1分17.4秒 / 北緯34.064028度 東経131.021500度 |
ウィキプロジェクト |
- 清末という地名については『櫟木氏文書』に清末別府と見られる。地名の由来については、湧水(清水)があり水が絶えず[要出典]、神功皇后の三韓征伐の際に渡海のための船を作るために厚狭郡で大樹を切り出したが、大樹は倒れ清水の池まで末枝部分が流れたため組み合わせて清末となったとする説がある。また、『地名淵鑑』には名田(田の所有者の名前で呼ばれる名前の田)を由来とするとある[1]。
- 江戸時代には、長州藩孫藩(長府藩支藩)である清末藩が設置され、藩庁がおかれるとともに藩校の育英館がおかれた。藩校は現在の清末小学校につながっている。また、国道491号以東の大部分は、江戸時代の干拓によって拓かれた土地である。
- 町村制施行により豊浦郡清末村となったが、1939年(昭和14年)に小月町などとともに(旧)下関市へ編入合併した。
自治体としての沿革
[編集]主な施設・名所など
[編集]- 高林寺 - 清末藩の菩提寺
- 内藤家(清末藩家老)表門
- 清末八幡宮
- 下関市立東部中学校 - 清末藩陣屋跡。清末、小月、王司の3地区を校区とする
脚注
[編集]- ^ 高橋文雄『山口県地名考』マツノ書店、1979年、211頁。