上田中町 (下関市)
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上田中町 | |
---|---|
上田中町にある早鞆高等学校 | |
北緯33度57分47秒 東経130度56分13秒 / 北緯33.96306度 東経130.93694度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 山口県 |
市町村 | 下関市 |
面積 | |
• 合計 | 0.698972 km2 |
人口 (2015年)[1] | |
• 合計 | 4,823人 |
• 密度 | 6,900人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
750-0009[2] |
市外局番 | 083 |
ナンバープレート | 下関 |
上田中町(かみたなかまち)は山口県下関市にある地名。郵便番号は750-0009[2]。当地域の人口は2015年の国勢調査によると4823人で、世帯数は2314[1]。
地理
[編集]下関市の南部付近に存在する。北東部は貴船町、北部は山の口町、西部は向洋町、南部は丸山町と名池町と田中町、南東部は幸町と隣接する。
歴史
[編集]沿革
[編集]- 明治9年(1876年)西之端町出身の人玉江利兵衛が護国寺を開基。のち人玉江利兵衛は善斉院日成と改名し、2代目住職となる[4]。
- 明治13年(1880年)智玄院日諦上人が護国寺を開山[4]。
- 明治19年(1886年)宣教師のG・H・アップルトンが下関バプテスト教会を創始[5]。
- 大正13年(1924年)伊崎町出身の田中真了が願久寺を創建する[6]。
- 昭和7年(1932年)4月、文関尋常小学校開校[7]。
- 昭和22年(1947年)5月1日、下関市立第一中学校開校[8]。
- 昭和26年(1951年)1月1日、下関市立第一中学校が下関市立日新中学校に改称[9]。
- 昭和26年(1951年)早鞆高等学校を上田中町に新築・移転[10]。
- 昭和29年(1954年)上田中町として大字関後地村から分離し、制定される[3]。
- 昭和35年(1960年)家庭裁判所下関支部と簡易裁判所貴船町から移り、設置[3]。
- 昭和41年(1966年)
- 昭和44年(1969年)10月23日に下関図書館(下関市立図書館とは異なる)開館[11]。
地域区分の変遷
[編集]- 昭和41年(1966年)大字関後地村、後田、大坪、田中町から一部を編入[3]。
小・中学校の学区
[編集]市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[12]。
町丁 | 番地・号 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
上田中町一丁目 | 全域 | 下関市立文関小学校 | 下関市立日新中学校 |
上田中町二丁目 | 全域 | ||
上田中町三丁目 | 全域 | 下関市立名池小学校 | 下関市立名陵中学校 |
上田中町四丁目 | 全域 | 下関市立文関小学校 | 下関市立日新中学校 |
上田中町五丁目 | 1番、2番1~10号、6番31~38号、8番1~13号、9~15番、16番1~8号 | ||
2番11~21号、3~5番、6番1~30号、7番、8番14~20号、16番9号 | 下関市立名池小学校 | 下関市立名陵中学校 | |
上田中町六丁目 | 全域 | ||
上田中町七丁目 | 1~3番、8~9番、11番16~31号 | ||
4~7番、10番、11番1~15号・32~37号、12~14番 | 下関市立文関小学校 | 下関市立日新中学校 | |
上田中町八丁目 | 全域 |
被害
[編集]1950年代、上田中町では比較的多く火災に見舞われた。1950年には8月だけで2件も起こっており、8月12日に電気通信関連の工事所で七棟が焼失、8月23日に文関小学校で火災が起きた。この2つだけで損害額は約1500万にもなっている[13]。さらにそれ以来も2年毎に、1952年、1954年、1956年、1958年に各1件見られる[14]。
施設・史跡
[編集]出身・ゆかりのある人物
[編集]- 安倍晋三(衆議院議員、内閣総理大臣) - 下関の自宅が上田中町二丁目[15]。
- 中部利三郎(林兼産業社長、大洋漁業副社長) - 住所が上田中町[16]。
- 藤井啓一(弁護士、衆議院議員) - 住所が上田中町[17]。
- 藤井五一郎(裁判官、弁護士、公安調査庁初代長官) - 藤井啓一の長男[17]。
- 松本清張(作家) - 4-8歳の時の住所が上田中町一丁目四番地付近にあったとされる[18]。
脚注
[編集]- ^ a b c “人口統計ラボ 山口県下関市”. 2020年2月8日閲覧。
- ^ a b “郵便番号検索 山口県 > 下関市”. 日本郵政. 2020年2月2日閲覧。
- ^ a b c d e f 角川日本地名大辞典編纂委員会、竹内理三『角川日本地名大辞典 35 山口県』角川春樹発行、1988年、281頁頁。
- ^ a b c 下関市市史編集委員会 1989, pp. 691–692.
- ^ a b 下関市市史編集委員会 1989, p. 700.
- ^ a b 下関市市史編集委員会 1989, p. 683.
- ^ 下関市市史編集委員会 2011, p. 152.
- ^ 下関市市史編集委員会 2011, p. 169.
- ^ 下関市市史編集委員会 2011, p. 175.
- ^ 下関市市史編集委員会 2011, p. 172.
- ^ 下関市市史編集委員会 2011, p. 193.
- ^ 下関市立小・中学校の通学区域について(DL元) - PDF(2017年4月1日) 2020年2月8日閲覧。
- ^ 下関市市史編集委員会 1989, p. 907.
- ^ 下関市市史編集委員会 1989, pp. 907–910.
- ^ 『人事興信録 第38版』あ20頁。
- ^ 『大衆人事録 第二十三版 西日本編』な594頁。
- ^ a b 。『人事興信録 第10版 下』フ44頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年5月21日閲覧。
- ^ 『松本清張研究』第二十一号(北九州市立松本清張記念館)85頁。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第10版 下』人事興信所、1934年。
- 広瀬弘『大衆人事録 第二十三版 西日本編』帝国秘密探偵社、1963年。
- 下関市市史編集委員会『下関市史・終戦―現在』下関市発行、1989年。
- 下関市市史編集委員会『下関市の年表』下関市発行、2011年。