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吉川友兼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉川友兼
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代
生誕 保元4年/平治元年(1159年
死没 正治2年1月21日1200年2月7日[1]
別名 小次郎[1]、小二郎[2]、小杉二郎[1]、小杉友兼、兼友
戒名 道哲
墓所 安養寺
官位 左衛門尉[1][2]
主君 鎌倉幕府
氏族 藤原南家工藤流吉川氏
父母 父:吉川経義[1][2]
二階堂氏女(二階堂行政息女?)
朝経[1]
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吉川 友兼(きっかわ ともかね)は、鎌倉時代武士御家人吉川氏2代当主。

生涯

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文治5年(1189年)の源頼朝に従い奥州合戦に出陣。その武勇を認められ、翌建久元年(1190年)、頼朝の初入洛にも従った。建久4年(1193年)の富士の巻狩りの警護役を務め、曾我兄弟の仇討ちに伴う混乱への対応にも当たった。

正治2年(1200年)の梶原景時一族追討(梶原景時の変)の際に所領のある駿河国で、梶原景時一行の不審な動きを捕捉し、他の在地武士と共に襲撃して、景時の三男で豪勇で知られる梶原景茂を討ち取る[注釈 1]も、友兼も深手を負っており、そのまま死去した。

友兼は死亡したが、子の朝経が加増され、梶原氏の所領であった播磨国揖保郡福井荘の地頭に任ぜられた。

脚注

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  1. ^ この合戦で友兼が景時を討つ際に用いたとされる太刀はその後代々吉川氏に伝えられ、「狐ヶ崎」の名で現在も財団法人吉川報效会が所有している(国宝)。

参考文献

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  • 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多小西四郎竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQISBN 4404012403NCID BN00172373OCLC 11260668全国書誌番号:84023599 
  • 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQNCID BN01905560全国書誌番号:84027305 
  • 北広島町史
  • 中国新聞社『歴史紀行 安芸吉川氏』新人物往来社、1988年6月。ISBN 4-404-01517-8 
  • 洞院公定 著「藤原南家」、今泉定介 編『尊卑分脈』 第3巻、吉川弘文館、東京〈故実叢書〉、1899年。 NCID BN12488942全国書誌番号:40013115 オープンアクセスNDLJP:771957/39

関連項目

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