ドイツ本土空襲
ドイツ本土空襲 | |
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ハンブルク空襲で破壊された建物(1945年7月28日) | |
戦争:第二次世界大戦(西部戦線) | |
年月日:1940年8月24日 - 1945年5月3日 | |
場所:ドイツ | |
結果:イギリス、アメリカの勝利 | |
交戦勢力 | |
ドイツ国 | イギリス アメリカ合衆国 |
指導者・指揮官 | |
ヘルマン・ゲーリング、 アルベルト・ケッセルリンク、 フーゴ・シュペルレ、 ウァルター・フォン・アクストヘルム[注 1]、 ユルゲン・シュトゥムプフ |
リチャード・ペイーセ、 チャールズ・ポータル、 アーサー・ハリス、 ヘンリー・アーノルド、 カール・スパーツ、 カーチス・ルメイ |
戦力 | |
ドイツ空軍 | 爆撃機軍団、 第8航空軍 |
損害 | |
6万4578機、 搭乗員死者約10万3000人[1]、 住宅、インフラ、工場、基地、 住民、難民死傷約140万人[2] |
2万2010機、 1万8369機[1]、 搭乗員死者約15万9000人[3] |
ドイツ本土空襲(ドイツほんどくうしゅう、英: Allied bombing of Germany, 独: Luftangriffen der Alliierten auf das Deutsche Reich)は第二次世界大戦中の1940年8月24日からイギリス空軍、アメリカ陸軍航空軍によってドイツ全土に加えられ、延べ400回、350万戸が破壊され、750万人が家を失い、負傷者を除いた民間人死者60万人、うち子供の死者7万5000人に上る史上空前の空襲である[注 2][2][4]。
1945年5月3日にドイツが降伏の交渉に入る日(欧州戦線における終戦)まで続けられ、連合国ではパイロットなど搭乗員のみならず、整備兵、輜重兵、衛生兵、炊事兵ら180万人とそれらを支援する民間人が連合国空軍のために動員された[5]。このうち、ドイツ空軍の戦闘機と高射砲によってイギリス空軍とアメリカ航空軍の搭乗員約16万人が失われ、生き残った搭乗員も高々度で最大零下50度という超低温による凍傷や酸素マスクの不備による酸欠、猛烈な対空射撃を受けた戦闘のストレス、道徳心が欠如していると糾弾やレッテル貼りによる心的外傷に苦しんだ[6]。
1940年8月24日、ドイツ空軍によるロンドンの住宅地に対する誤爆から始まった攻撃(ザ・ブリッツ)はエスカレートを重ね、バトル・オブ・ブリテンにおいてドイツ空軍とイギリス空軍は指導部に振り回された。当初の軍事目標への精密爆撃はやがて人口密集地への絨毯爆撃に変わり、火災嵐を起こして焼き尽くす作戦が効率的だと考えられた。1944年の春頃にイギリス空軍とアメリカ航空軍は制空権を奪取すると敗色濃厚な戦争末期ドイツの都市に集中して行われた。多くのドイツ人が避難所とした地下室は猛火の自然現象で空気を奪われて窒息し、狭い地下道網ではパニックによる圧死が頻発した。戦後に行われた軍事裁判でドイツと日本への空襲による民間人殺傷が法的審査で問われることは一度としてなかった[2]。
背景
第一次世界大戦
1915年1月19日、第一次世界大戦中にドイツ帝国のツェッペリン飛行船はノーフォークの海岸で灯りを目標に爆弾を投下した。この攻撃で民間人4人の死者を出し、16人が負傷した。その後、19回に渡ってツェッペリン飛行船はイギリスに向かい、民間人498人、軍人58人を殺傷した。イギリスの首都ロンドンが最初に攻撃されたのは5月30日の夜で死者7人だった。1917年から1918年にかけて双発機(エンジン2基)ゴータスと4発機(エンジン4基)リーゼンの爆撃機が空襲を続け、死者836人、負傷者1994人を生じた。日中に飛行中のドイツの爆撃機は5機に1機が撃墜され、半数はロンドンを見つけることができなかった[7]。
1918年6月6日にイギリスは報復で、エアコー DH.4によるドイツのコブレンツやティオンヴィルに対する爆撃を始めた[8]。ドイツの首都ベルリンを目標にした攻撃こそなかったが、多数の都市に対する空襲でドイツ側は死者746人、負傷者1843人を生じた。しかし、これら双方の空襲合戦は数的に当時の年間交通事故死者にも満たなかった[9]。第一次世界大戦では航空機の攻撃で都市を完全に破壊するのは不可能だと考えられた。そこで、当時の軍需大臣であったウィンストン・チャーチルは1919年に1000機の爆撃機でベルリンを攻撃する計画を立てた。これは1919年6月28日にヴェルサイユ条約の署名によって終戦したため、実行に移されることはなかった[10]。
戦間期
戦力を挫くということは、敵の最も弱い点を攻撃することである。しかし、敵の戦力供給源を1回攻撃すれば、遥かに高い効果を上げることができる。敵の飛行場を1回攻撃すれば50機の航空機を破壊できるだろうが、現代の工業地帯は1日100機を生産できる。生産量は我々が戦線で破壊する量を遥かに上回っているのだ。だから、敵の工場を攻撃する方が生産量に遥かに甚大な損害を与えられる。 — イギリス空軍中将ヒュー・トレンチャード(1928年)、 United States Strategic Bombing Survey. Bd.I S.2. 1947. 訳者:香月恵里[11]
1914年から4年に渡る工業力を駆使した最初の総力戦が終わり、将来の戦争についての考察がしきりに行われた。伊土戦争を経て、第一次大戦に参戦したイタリアのジュリオ・ドゥーエは退役後の1921年に「制空」を発刊し、抜粋翻訳文も制作して配った。これは陸軍が守勢に回っている間に爆撃機を持つ空軍が都市を攻撃すれば民衆はパニックを起こし、厭戦気分が蔓延させれば、戦争を終戦させることが出来るというものだった[12]。アメリカのウィリアム・ミッチェルは1904年の日露戦争視察後、カーチスで飛行訓練を受けた。アメリカが第一次大戦に参戦後はフランスで航空課を設立し、イギリスやフランスの士官と協議を重ね、ヨーロッパの航空機とその戦略を知った。ミッチェルが唱えたのは工場、インフラ、港湾、農業生産など中枢(vital center)を叩き、敵の航空戦力を守勢に回らせ、早期終戦に持ち込むという理論だった。戦後、1921年にアメリカで始まった爆撃機で戦艦を攻撃する実験の成功で自信を深めたが、停船した戦艦に連続爆撃するなど本来の実験規定を破るなど周囲と対立を起こしながらも、1925年に「空軍による防衛」を発表してベストセラーとなり、軍内部では孤立したもののアメリカ国民の関心を買った[13]。
イギリス空軍生みの親ヒュー・トレンチャードは第一次大戦は個々の兵士の戦闘力より多くの兵器を生産する工業力に依存するようになったため、次の戦争は戦場ではなく、戦場の後方で生産力と生産者が所在する地域が勝敗を分けると主張した。同時に軍事的な生産、すなわち軍需工場は航空機そのものを作る工場だけを指すわけではない。航空機には多数の資材によって構成されており、この中では重要な圧延鋼板、ボールベアリング、ゴム、潤滑油、インジケーターが含まれ、そして労働者とその住居がある。トレンチャードは工場だけを見ていたわけではなく、爆撃の効果を減らさないために目標を広く見ていた。「敵の抵抗を挫き、戦意を低下させる効果的なもの全て」だった。そして、それこそが空軍の存続理由であると言い、戦争への備えとは都市への爆撃を意味した[11]。
爆撃論者の影響は世界中に広まり、平和主義者で知られるスタンリー・ボールドウィン首相は都市への爆撃に戦慄し、1932年11月10日に議会で「爆撃機は常に到達する」と発言したが、当時の軍国主義者も平和主義者も同じ誤りに陥っていた。到達する前に何かしらの障害が発生すると相場が決まっていた[11]。そうした爆撃論者の間違いはあれど、戦間期の縮小路線を逃れて世界初の空軍として独立を果たし、イギリス空軍は戦略攻勢の性格を持って整備された。目標こそ遠大な部分はあったものの、本国は戦闘飛行隊が守り、遠方を制するのは戦略爆撃飛行隊であるという構想だった。その反面、海軍と陸軍の作戦に協力する飛行隊が軽視された。結果、緒戦における海上爆撃は拙劣であり、ドイツ空軍とは真逆に陸軍に協力する爆撃機は実戦不適だったため、ベルギー戦、フランス戦では痛撃を受けた[14]。
史上初の絨毯爆撃はスペイン内戦中の1937年4月26日に起きた。ドイツ空軍がスペインの工業都市ビルバオを遮断するため行った都市ゲルニカへの爆撃(ゲルニカ爆撃)は世界中からの批判を呼んだ。当時、義勇軍のコンドル軍団に参加していたアドルフ・ガーランドは橋梁攻撃を指示されたが、都市への爆撃は聞いていないと主張したが、後にフォン・リヒトホーフェンの命令だったことが判明した。ゲルニカは亡命政府が設置された交通の要衝ではあったが、スペインのルール工業地帯であるバスク州に比べれば重要度は低く、政治色の強い攻撃だった。6月16日、フランコ将軍の軍はバスク州ビルバオを占領し、内戦は転換点を迎えた[15]。
1935年のエチオピア毒ガス爆撃(第二次エチオピア戦争)、1938年の重慶爆撃が当初の目標が軍隊や軍事施設で結果的に無差別爆撃に近い形になったように、ドイツ空軍のドクトリンはあくまで航空機工場と空軍基地への攻撃であり、1935年の教範「航空戦行動」(Luftkriegsführung)[注 3]では、「国民の士気を挫く」ことに重要性を置いていなかった。計画的でなかった重慶やゲルニカなど後の枢軸国による爆撃に対し、逆説的に中東のイラクやソマリランドで実践したイギリス空軍による爆撃の隠蔽はアメリカの精密爆撃の本質を曇らせることに違いなかった[16]。
爆撃戦争再び
第二次世界大戦は1939年9月1日に始まったが、ドイツ空軍とイギリス空軍が直接対峙するのは1940年7月10日のことだった[注 4]。イギリス空軍が戦略爆撃を開始した時、最初にわかったのは爆撃機が目標に到達しないことだった。戦略爆撃は爆撃論者が主張した原理や予言した側ではなく、ヘルマン・ゲーリング率いるドイツ空軍によって端緒が開かれた。これは計画も戦略でもなく、ただただ単純にドイツ空軍がイギリス海峡に面した海岸近くの空軍基地に進出し、そこからイギリス本土へと侵攻できたので爆撃を行っただけである。当初は空軍基地、工場、港湾を狙った精密爆撃を行っていたが、1940年9月からイギリス南部、中部の都市に対する戦略爆撃を開始し、1941年3月までに3万人の死者を出した。引き返すことが出来ない新時代への突入を可能にした第一歩は、奇妙な政治力学の背景があった[17]。
ヨーゼフ・ゲッベルスは1940年8月26日に報復で行われたベルリン空襲が失敗に終わったのを受け、ベルリン市民の雰囲気を吟味し、大興奮していると感じた。4時間鳴りっぱなしだった空襲警報に耐えた次の日の朝のことである。ベルリンには焼夷弾2発しか落ちず、被害はほとんどなかった。ゲッベルスはロンドンへの報復を望む声が燃え上がっていると記しているが、ベルリン市民はそのような攻撃に対して軽蔑を示しただけで、怒りの発作はナチス党員や政治家が作為的に起こしただけに過ぎなかった。ウィンストン・チャーチルはベルリン空襲に固執し、空軍のシリル・ニューアルに再度ベルリンの攻撃を求めた。航路をそれた爆撃機12機による誤爆とはいえ、ロンドンを攻撃された以上、徹底的にベルリンを攻撃しなければならないと強く言った。9月4日夜、ベルリン・クロイツベルクのゲルリッジ駅が爆撃を受け、死者10人を出した。その2日後はジーメンスシュタットが攻撃された。ゲッベルスは誰もアドルフ・ヒトラー総統の指示通りに避難せず、ヒトラー自身も、ベルリンが爆撃される時はベルリンに身を置き、激昂していると記している[17]。
ヒトラーはイギリスのベルリン空襲は週末に強化されると予想し、それが実行されたらロンドンへの爆撃を行い、対策として絵画、美術品を避難するよう指示した。そのため、翌5日は何も起きなかった。ゲッベルスは、「総統は今のところ慎重な姿勢を崩していない。それがいつまで続くだろうか。国民は秋には戦争が終わるだろうと思っている。もし、戦争が冬を越せばアメリカの参戦は確実だ。フランクリン・ルーズベルトはユダヤ人の奴隷だ。」と記したが、ヒトラーは演説で空襲について触れ、「(フランス降伏後も)3ヶ月も続いている。イギリス人が白昼に海峡を超えることができないから、決まって夜間だ。爆弾は住宅地だろうと駅であろうと村であろうと、どこにでも無差別に落ちてくる。いつかこの乱暴狼藉が止むだろうとの希望の下、我々は耐え忍んできた。しかし、イギリスはそれを弱さと受け止めたのである。その結果、毎夜毎夜の攻撃という回答を受け取っているのである。」と報復をほのめかした[18]。9月7日、ロンドンを目標にした爆撃が行われ、市民は死者300人の犠牲を出し、1300人が負傷した[19]。
ヘルマン・ゲーリングはロンドン空襲に疑問を持ち、参謀長のハンス・イェションネクに「ベルリンが廃墟になったら、ドイツは降伏するかね?」と尋ねた。イェションネクはイギリス人の士気はドイツ人より脆いはずだと答えたが、ゲーリングはイェションネクの解釈が間違っていると指摘しながらも、9月末までに降伏に持ち込めるかも知れないと考えるようになった。ゲッベルスやゲーリング、軍の幹部がイギリスの降伏について言及するのに対し、ヒトラーは何も答えず、決断を出せないでいた[19]。和平の申し入れを断られ、イギリス本土侵攻(アシカ作戦)は難しく、爆撃機に訴えるしかなくなっていた。一方で、イギリス空軍の爆撃機軍団副司令官ロバート・ソーンドビーは同じ応酬を見ながら、まったく別の解釈をしていた。戦闘機軍団の戦闘機と基地はドイツ空軍の攻撃を何度も受けたことで散々な目にあっていると考えた。実際に8月末はイギリスの戦闘機損失は生産量を上回っていたので、あと3週間すれば予備機を使い果たしてしまうのではないかと危惧した[20]。
ロンドンへの爆撃でチャーチルは「ドイツ空軍の攻撃が空軍基地からロンドンに向けられることによって窮状が緩和されたが、同時に民間人が被害に合うことを意味していたものの、戦闘の転換点となり、イギリス勝利の可能性を大いに増したのである。」と語った。当時、最も尊重された軍事研究家リデル・ハートも「首都ロンドンとその住民が受けた懲罰が、崩壊寸前の軍隊を救った要因である。」と記している。人間が盾となって流血したのは、それをさせた側、ドイツの汚点として宣伝し、それに耐え抜くロンドン市民を称えた。しかし、現実としてヒトラーはイギリス海峡に立って、ロシアと同盟を結んでいた[21]。チャーチルもまたドイツへの地上戦での反撃、海上経済封鎖の難しさから、戦略爆撃しか選択肢がなかった[22]。アメリカでは参戦に賛成する国民は7.7パーセントしかおらず、その5倍以上が反対していた。19パーセントの中間層は民主主義を守るために介入してもよいと考えており、ルーズベルト再選の鍵を握っていた[23]。
開戦後の変化
1940年8月の最後の週、チャーチルはダッチーズ・オブ・リッチモンド号に乗り込むヘンリー・ティザードを見送った。ティザード使節団と呼ばれる使節団は最高機密のレーダー技術、アメリカに先便をつけて進めているホイットルジェットエンジンの計画、ロールス・ロイス製マーリンエンジンを持ち込み、物理学者ルドルフ・パイエルスとオットー・フリッシュが同行した。この二人の科学者はウランの核分裂が爆発を引き起こす臨界量を算出しており、それがベルギー領コンゴに所在する世界最大規模のウラン埋蔵量を持つカタンガ鉱山(シンコロブエ鉱山)の情報も持っていた。また、レーダーは当時アメリカが独自で開発するSCR-268レーダーやCXAMレーダーより優れたマグネトロンを使うものだった。ルーズベルトは来たるべき同盟の前払いとして受け取った[21]。
ボールドウィンから首相を引き継いだネヴィル・チェンバレンは抑止力として大型爆撃機の整備を進めつつ、1938年6月21日に庶民院において、「市民を標的にした爆撃は国際法違反であり、未発行に終わったハーグ空戦条約の原案に基づき、イギリスは無差別爆撃を行わない」と公式に宣言していた。アメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトもドイツがポーランド侵攻を開始したその日に、市民や無防備な都市への攻撃は控えるべきだと主張した。実際、イギリスもドイツも第二次大戦直後は都市への爆撃には慎重だったが、バトル・オブ・ブリテンを経てそれまで控えていた無差別爆撃は報復措置として例外として扱うようになり、チャーチルは1942年2月11日に戦闘機の護衛を伴わないドイツ本土への昼間爆撃を中止して夜間爆撃のみ、民間人を対象に含む地域爆撃、事実上の無差別爆撃の実施を決定した[16]。
1940年11月のコヴェントリー爆撃に対する報復として始まった12月のマンハイム爆撃は双方の都市を焼き払ったが、ルール工業地帯などそれ以外の地域爆撃は天候や工場の煤煙に影響され、攻撃を受ける地上側よりする側の爆撃機の死者の方が多いと皮肉られるほど効果が薄かった。チャーチルによって無差別爆撃への制限は解除されたが、その効果もまた疑問視された。1942年2月22日、爆撃機軍団司令官に就任したアーサー・ハリスはそういったイギリス空軍内の様々な議論に終止符を打った。アーサー・ハリスは後に”ボマー”ハリスの異名をつけられるほど爆撃論者であった。ハリス主導で始まった3月28日のリューベック空襲は激しい火災となって、それは最初の火災嵐となって80パーセントの市街地が焼失した。古都リューベックは軍事施設の存在しない美しい街として知られていた[24]。また、1941年6月に始まった独ソ戦で参戦したソビエト連邦 [注 5]からの催促に対し、チャーチルは戦略爆撃がドイツでの第二戦線を形成しているという言い訳には無理があるにしても、イギリス空軍にはドイツ本土まで護衛できる戦闘機が不在であったため、アーサー・ハリスは地域爆撃を強く支持し、固執した[25]。
1942年以前のチャーチルはドイツとの戦争で地上軍を撃破しうる強力な空軍が手に入るとは思っていなかった。当時のイギリスに勝算はなく、ドイツの駐在武官が外電で伝えたようにアメリカ陸軍省もイギリスの勝利は望み薄で、敗色が濃くなったと判断していた。両国とも手詰まりに陥っており、戦争をやめるべきだったのに相手の失敗に期待していた。爆撃戦争は殺人への抑制をなくし、弱き者には虐殺ではなく保護を、という騎士道精神の仁義をも吹き飛ばしてしまった[26]。
発展した戦術と兵器
爆弾
1940年から1942年にかけてパイロットは爆弾を投下する時、命中したか外れたかの2つに1つだった。イギリス航空省の研究班は測量図と航空写真を仔細に調べ、防火帯を彩色し、攻撃対象となる都市に必要な爆弾投下量の構成を計算し、最新の空襲を分析しては学習したことを次の空襲に活かした。爆弾と一緒にフラッシュ爆弾を投下して、カメラが作動した。次の日には偵察機が飛んで、空襲の成果を写真に収めた。常に戦争は戦略家と手練れの戦士による経験によって得られた事実、着想、直感にもとづいていた。学問がそれに正確無比な仕事を付け加えた[27]。
火災を阻む障壁となる防火帯や防火壁は機能していた。それを十分に備えたベルリンのような都市は燃やすのが難しい。まず、防火壁を破壊しなければならなかった。それはブロックバスター爆弾で可能だった。通常爆弾は重量のある鋼鉄の殻を爆発で粉々に飛ばし、破片が人体を殺傷する。鉄筋コンクリート、レンガ、バラスト、砂袋で防御されたシェルターはそれを耐えられた。ブロックバスター爆弾は弾殻が薄く、爆薬が30から70パーセントの割合で含めれ、爆発時に炸裂すると同量のガスとなって高圧で拡大し、周囲の空気を圧縮して超音速で広がる衝撃波を生み出した。衝撃波は建物の壁、屋根、窓ガラスを吹き飛ばした。円筒形をしていたのでドイツ人からボイラーと呼ばれたブロックバスター爆弾は4,000ポンド(1,800キロ)の重量があり、ドイツ本土空襲を通じて6万8,000発が投下された[28][29][要文献特定詳細情報]。
8,000万発が使用された4ポンド焼夷弾は条件によって1,000倍から2,000倍の重量のある通常爆弾より広い範囲を壊滅できる。ただし、攻撃目標の地域を詳細に分析する必要があった。鉄筋コンクリートで覆われた建物、運河、そして橋を破壊するため、圧力と爆発効果のバランスを考えたミディアム・キャパシティ爆弾が製造された。これは500から2万2,000ポンド(230から900キロ)まで幅広い容量で製造され、通常爆弾に代わって75万個が使用された。開戦時、炸裂弾と高性能爆薬弾を中心に考えられていたが、爆薬では都市に損害を与えるに不十分であることがわかった。爆薬は燃焼物と結びついて、かつてない規模の威力を発揮する兵器だった。焼夷弾の混合割合、破片弾、ブロックバスター爆弾、投下する爆弾の順番、密度だった[27]。
火計
1941年秋にバット報告書[注 6]で明らかになったそれは、ほとんど標的に命中していないという事実だった[22]。イギリスは火器の殺傷能力改善のために開発の強化に乗り出した。通常爆弾は輸送が困難なわりに敵に対して損害を与えなかった。軽量の可燃物は大量に投下可能で、もし目標に当たれば被害は大きく拡大する[30]。それまではテルミットの焼夷弾がやみくもに投下され、都市の火災について考慮されなかった。イギリス空軍はそれらを解析できる専門家が欠けていた。消防の防火技術者が計画に加わることで、新しい学問が生まれた。火と戦う職業と火をつける職業は同じ可燃物に深く関わっており、ドイツの物理的な住宅特性から効率的な放火方法を導き出した。焼夷弾は命中から8分から30分の間、燃え続ける必要があった。その小さな火災の芽をどのように拡大し、障害物を超えて通りの空き地を横切り、数キロにわたって範囲を広げるかは数学者、統計学者、作戦分析官の仕事だった[28]。
空からの攻撃で都市は完全に焼き払うことが可能なことが学者たちの研究で明らかになった。レンガ作りで強固に見えていたドイツの都市も例外ではなかった。都市の外縁は19世紀と20世紀に建てられており、新しい住宅と工業地帯がある。これら外郭の建物には鋼鉄製を梁が通され、防火帯のために建物の間には広い空間があった。都市の内側に入ると18世紀の普仏戦争後に建てられた安請負の町並みが広がる街区があり、通気性が悪く、暗く、梁は木製で4階から7階建ての建物が林立し、屋根裏は物で一杯だった。都市の中央部まで来ると旧市街の地域となり、中世、近代初期の建築様式になる。壁は連続して建てられ、建物を支える梁は木製で屋根はレンガに変わったが、建築時は粘土が使われていて修繕も粘土だった。通りは狭く、入り組みながら建物が結びつき、火災が容易に隣へ広がる作りだった[27]。
イギリスのオペレーションズ・リサーチによって好都合な目標に選ばれたのは街区だった。急速な勢いで発展したため、住宅の中庭は狭いか空間がまったくない。可燃物が多数存在する倉庫や工場は木製だった。延焼を起こすには隙間を埋める必要があったが、レンガと木枠で組まれた屋根は燃えやすく、火がつけば下へと燃え広がった。1階ごとに約3時間を要するが、爆弾の信管を調整すれば爆発地点を下の階にすることもできた。火災の勢いを増すには通風も必要で、ブロックバスター爆弾が屋根や窓を吹き飛ばせば暖炉が完成した。そこに焼夷弾が雨となって降り注ぎ、放火術は出来上がった。追加して投下されるのは通常爆弾と時限信管付き爆弾だった。空襲後の消防隊は火元と水場に行く必要があったが、通常爆弾が地中にある水道管を引き裂いて通りを穴だらけにして行手を阻んだ。時限信管は爆撃機が去ってから数時間で爆発し、火元に向かう消防隊は避難を余儀なくされた[31]。消防隊に阻止されることがない勢力を保った「火災」は条件が良ければ「火災旋風」へと拡大し、「火災嵐」を引き起こした。そうした破壊の様子を地図、航空写真で経済学者、情報収集者、写真分析者からなる組織によってドイツの解剖図、「爆撃機用ベデカー旅行案内書」を作るのである[注 7][32]。
爆撃機
イギリス空軍の重爆撃機は1924年から開発が始まっていた。重爆撃機の役目は遠距離飛行に必要な燃料を搭載し、敵地を低空で攻め入ることであった。さらには戦闘機や高射砲から爆撃機の機能と搭乗員を保護するため、装甲板と機上火器を搭載したため、積み荷とあわさって重かった。戦争末期の最優の重爆撃機であるアブロ ランカスターとアメリカ製B-17 フライングフォートレス「空の要塞」はフル装備で25トンにもなり、B-24 リベレーターは27トンに達した。その重さゆえ速度は遅く、旋回は慎重さが求められ、高度を上げるには時間がかかった。このようなタイプの航空機は遠くの地域を攻撃可能であるが、受ける抵抗は最小限という計算で標的にたどり着くことだった。白昼に飛来し、攻撃目標が視界内にあり、こちらも敵から見られるかもしれないが、攻撃はされないという場合になる。そのどれもが現実とはそぐわないことが明らかになった[5]。
実戦に投入されたアームストロング・ホイットワース ホイットレイ、ハンドレページ ハンプデン、ビッカース ウェリントンなどは全て1930年代に設計、生産が始まった爆撃機で、時速300キロから400キロ、最高高度7,000メートル、爆弾の搭載量は1トンに満たなかった。こういった爆撃機による攻撃は政治的威嚇には使えたが、効果のある爆撃は向いてなかった。構想では少数で敵地に侵入し、協力して敵の戦闘機を締め出すのに集中援護射撃を行い、機体の尾部で回転可能なプレキシガラス製の半球や砲塔の動力銃座、あるいは銃架にそれぞれ射撃手がつき、二連装か多重の.303インチ(7.7mm)ヴィッカース機関銃で追い払う手筈だった。しかし、爆撃機それ自体が鈍重で大型であるため夜間でも攻撃されやすかった。9,000リットルの高オクタン価ガソリン、高性能な爆薬を詰め込んだ爆弾と焼夷弾、機関銃の弾薬と照明弾を搭載した爆撃機は火薬庫そのもので、耐火性を持たせる設備はなかった。いったん戦闘機に発見されれば、逃げきれる可能性はほぼなく、積み荷を捨てて急いで高度を上げ、運良く雲があればそれに隠れた。夜闇に紛れて敵の目をかいくぐるには単独で飛行したほうが危険が少なく、編隊飛行は1942年5月までできそうになかった。イギリス空軍の爆撃機は昼間爆撃での失敗から、闇夜に隠れて夜間の爆撃を行っていたが、これにも困難があった。航法と照準である[33]。
誘導
戦闘機と爆撃機の機能を持たせることができる双発機デ・ハビランド モスキートは1940年冬に登場した。当初800キロ、改良型は1.8トンの爆弾搭載量があり、高度1万2,000メートルまで上昇でき、最高速度は時速635キロで、ドイツ空軍がジェット戦闘機を装備するようになるまで速度で負けることはなかった。これは小規模な破壊をしながら、爆撃飛行隊の誘導に役立った。オーボエ誘導装置、後にH2Sレーダーといった高価な電波装置を搭載したモスキートは大きな抵抗を受けずに着色灯火で平面に照らすマーカー弾(照明弾)を投下することで、暗闇の中でも爆撃機を誘導するシステムが確立された。目標進入時には黄色のマーカー、爆撃時には赤と緑のマーカーで合図した。爆撃機は赤と緑のマーカーで形成された枠内に爆弾を投下した[34]。
1942年12月にオーボエが爆撃機へ装備が始まるまで爆撃飛行隊は暗闇の中で目標を探し続けた。海や河川のような光を反射する地形であれば識別が出来たが、月明かりが乏しければ地上のわずかに消されず残る電灯を頼りにして爆弾を投下した。当時、ハンブルクに対して行われた40回の爆撃のうち、20回はもともとリューベックとキールを狙ったものだった。海岸と河川に近い3つの都市は容易に到達できた。そのどの都市であるかの識別は重要ではなく、運が良ければ目標の都市に落ち、何もないところに爆弾は投下された[34]。オーボエは3万4,000トンの爆弾の投下を決める爆撃手のヘッドフォンに目標上空に飛来したタイミングで木管楽器オーボエに短いメロディが流れる。イギリスの基地から出される電波のパルス信号に反応して電波を送り返し、基地のオペレーターが距離の情報を送信した。手順は簡単で、モールス信号の要領で音や文字を送信して合図を送ることが出来た。目標に近づくと短音、航路から外れると長音が鳴り響き、それから短音が連続する。その音が鳴り止んだら爆撃手は投下ボタンを押した[35]。
モスキートとオーボエ、マーカー弾の組み合わせはパスファインダーとして部隊に形作られた。この部隊はより正確な爆撃のためにマーカー弾の投下を役割別に分けた。第1弾のパスファインダーはオーボエ、またはH2レーダーを確認して基地から指令されている目標に赤のマーカー弾を投下した。続いて第2弾のパスファインダーが侵入し、わずかに数秒しか確認はできないものの、赤く滝のような光で照らし出された都市の中心部を目視で探して、緑のマーカー弾を投下した。パスファインダーの隊長は照らされたマーカー弾の具合を確認して、良好と判断したら、爆撃飛行隊を呼び寄せる。何波にも分かれる爆撃の投下する順番は予め計算して決められており、最初の爆撃飛行隊はすぐさま攻撃体制に入った。マーカー弾はパラシュートでゆっくり落下しながら燃焼剤が燃え尽きるのに7分から12分で薄れてしまう。また、爆撃が開始されれば火災で発生した煙などに隠れたり、その日の天候によっては強風で流され、見えなくなるかもしれない。そこに火災で明るくなった都市を確認して、第3弾のパスファインダーが追加のマーカー弾を投下し、より正確な位置を知らせた。すかさず次の爆撃飛行隊がスタートする[36]。
爆撃機は夜空を疾駆するが、爆弾が投下されてから地上に叩きつけられるまで30秒から40秒かかった。その間、進行方向へと向かう力が働くので爆撃機は数秒前に投下した。しかし、爆弾がどう飛ぶかについての弾道学は十分ではなかったため、ブロックバスター爆弾や焼夷弾など、大きさも重さも異なることから同じ曲がり方をしなかった。他にもクリープバック現象で目標の手前に爆弾が落ちる問題があった。7月のハンブルク空襲でハマーブロークが攻撃されるように設定されたようにクリープバック現象は爆撃の計画段階から対策が取られた。こうして抽象化された目標に爆撃飛行隊の爆撃手は投下ボタンを押した。目標の選定も目標の合図も実際の爆撃も、それぞれ別々の人の手に委ねられていた[32]。
アメリカの参戦
1942年5月、アメリカ陸軍航空軍(後にアメリカ空軍)のカール・スパーツ率いる第8航空軍(後に第8空軍)がイギリスに到着した。最初の作戦は12機の「空の要塞」で、同年8月17日にフランス北部のルーアンにある操車場を爆撃するという小規模なものだった。その後、同月から9月にかけて、フランス北部のドイツ海軍Uボート基地、セーヌ川河口に所在する造船所、メオルトのポテ工場、アミアンの操車場、オランダのウィルトン造船所、そしてベルギーのコルトレイク・ウェフェルヘム飛行場に対する攻撃を行った。いずれもイギリス空軍の戦闘機による護衛が可能な距離だった[37][38]。
これらの昼間精密爆撃は成功させたが、ロッテルダム攻撃から帰投中の海峡でドイツ空軍の戦闘機から攻撃を受けることがあった。イギリス空軍の応戦にも関わらず、「空の要塞」B-17が被弾して搭乗員が重傷を負った。ドイツ空軍の戦闘機は「空の要塞」の機銃掃射によって撃墜された。これによって戦闘機の護衛がなくても対応できるということが示された[39][38]。航空戦争計画局のヘイウッド・ハンセルはワシントンにこれらの成果を持ち帰って、航空戦争計画局において対ドイツ戦に必要な航空機の数と機種の選定、部隊編成の計画を計算した[40][41][要文献特定詳細情報]。
第8航空軍の司令官カール・スパーツは基本的に作戦立案において爆撃が民間人に及ぼす影響についてイギリスと異なる立場を取っていた。1941年から1942年に策定されたアメリカの主要な作戦の中にドイツ国民の「士気を挫く」ことは重要視されていない。その理由として、ルーズベルトが1939年の時点でアメリカが無差別爆撃をやらないことを表明していた部分もあるが、軍内部はもとより、アメリカ国内から大きな反発があったからである。アメリカには様々な移民がいて、その中には当然ドイツ系の移民も含まれた。また、カール・スパーツに限らず、アメリカ航空軍の司令官ヘンリー・アーノルドもまたウィリアム・ミッチェルの影響を受けていた。インフラ、発電所を中心としたドイツの経済や産業システムの中枢に対するピンポイントの精密爆撃によって、継戦意欲は挫かれ、無差別爆撃に頼ることなく同様の影響を及ぼすことが可能だと想定していた[42]。
また、アメリカ本土のアメリカ陸軍航空軍司令部はヘイウッド・ハンセルによって持ち帰られた情報を元に対ドイツ戦において13万の軍用機を必要という推定で軍備計画を完成させたが、戦闘機や爆撃機の搭乗員訓練が必要であったため、当面の間、作戦行動は極めて限定的にせざるおえなかった。また、これらの計画は昼間精密爆撃を想定したものであり、チャーチルを始めとするイギリス空軍側に懸念や不満をもたらした。イギリスは政府を通じて、アメリカ政府に昼間爆撃へのこだわりに疑問を投げかけ、「第8航空軍によるフランス昼間精密爆撃を楽観視していられない」と伝えた。また、そういったアメリカの航空機産業が昼間爆撃用の爆撃機に生産を集中しないよう要請した。これらのやり取りはメディアでも取り上げられ、重爆撃機は昼間爆撃に向かないという認識はイギリスにおいて定着しつつあった[40][43]。
爆撃機
アメリカ航空軍は1943年7月に第8爆撃機軍団、第8戦闘機軍団合わせて1,823機、年末には2,893機がイギリス本土へと展開し、ドイツ本土空襲に参加した。イギリス空軍が3万6,000ソーティ(出撃回数)の夜間爆撃を行っている間、第8航空軍は昼間爆撃で1万2,000ソーティという低調具合だった[44]。一方で、重爆撃機の製造において最大の進歩を収めていた。1936年にウィリアム・ミッチェルは死去したが、その思想を色濃く影響されたアメリカ航空軍は本土防衛を名目にマーティン B-10を開発、製造し、さらにフライングフォートレスを開発した。これにはアメリカ本土に接近する敵を海上で攻撃するため、海上で軍艦を撃破を可能にする精密なノルデン爆撃照準器が搭載されていたが、「空の要塞」の爆撃手として従軍していたハワード・ジンの著書「テロリズムと戦争」(2003年)によれば、このノルデン爆撃照準器は4,000フィート(1,200メートル)以上では精度が悪くなり、実際は高射砲の攻撃を避けるため3万フィート(9,000メートル)上空から爆撃が行っていたが、海上に浮かぶ目標と違って地上の軍事目標を見つけられることはほぼ不可能だったと語っている[45]。
フライングフォートレスの火器はブローニング12.7mm機関銃13門、リベレーターは同14門をもち、全方向に対して有効な射撃を各編隊ごとに集団防御コンバット・ボックスで構成し、後方攻撃に対する有効射程距離に至っては800メートルもあった[46]。こうした「空の要塞」はドイツ空軍の戦闘機に脅威を感じさせることができたが、ドイツ空軍はその射撃密度に耐えられることを確認した。先頭の爆撃機が正面からのアプローチで攻撃されることにひどく弱かった。先頭機の動きが乱れるとドイツの戦闘飛行隊は散開し、爆撃機の編隊内部へと切り込んでいった。機動力があって大胆な動きがとれる戦闘機は鈍重な爆撃機に致命傷を与えることができた。爆撃機はやはり攻撃されやすかった。爆撃機が役目を果たすには従来の決闘、再び戦闘機同士で力比べをしなければならなかった[47]。
戦闘機
1941年6月にカーチス P-40 ウォーホーク、ベル P-39 エアラコブラがイギリスに到着して第8戦闘機軍団が編成されたが、第8爆撃機軍団司令官アイラ・エーカーはドイツ空軍の戦闘機との空中戦や航続距離を心配した[注 8]。イギリス空軍との相談の末、スーパーマリン スピットファイアを供与されたが、「空の要塞」と一緒にイギリスから発進してもフランス北部までしか援護ができなかった。1942年夏までに航続距離の長い大型戦闘機のロッキード P-38 ライトニングが到着したが、数回の護衛の後、北アフリカの第12航空軍へと引き抜かれてしまった。第8航空軍の爆撃任務は大幅に縮小され、攻撃の対象はフランス北部に集中した。その中にはUボート基地が置かれているサン=ナゼールもあってそこは護衛戦闘機の範囲外だったが、ドイツ空軍の戦闘機は姿を表すだけで積極的に攻撃してこなかった。ドイツ空軍は東部戦線に割かれた戦力を補充しており、フランス北部に重要な施設がなかったため、様子を見るに留めていた。1943年に入ってアメリカ航空軍に期待された新型機リパブリック P-47 サンダーボルトがイギリスへと到着したが、増槽に問題を抱えており、すぐにはドイツ本土爆撃への護衛に就けなかった[48]。
戦闘機は構造上の短所である航続距離を克服しなければならない。ドイツの本土奥深くにたどり着くには十分な燃料を搭載しなければならないが、そんなに重くては戦闘機の強みである機動力が落ち、使い物にならなくなる。サンダーボルトは大排気量のプラット・アンド・ホイットニー ツインワスプエンジンを搭載した大型の戦闘機であったため胴体内に多くの燃料を搭載できたが、低空での機動力に劣っていて上昇力にも難点を抱えていたためメッサーシュミット Bf109G型やフォッケウルフ Fw190A型と比肩しうる戦闘機ではなかった。他方、サンダーボルトはそれまでの戦闘機より長い航続距離を有し、1943年夏には410リットルのイギリス製圧力式増槽を装備することで爆撃機に護衛を付けることができた。サンダーボルトが増槽をつけて出撃したのは9月27日のエムデン爆撃であった。イギリスから発進して約430キロの間、初めて完全に随行してその援護によって「空の要塞」244機の損失はたったの7機で済んだが、空戦での戦闘は激化し、第8航空軍司令部はアメリカ航空軍の命令によりドイツ奥地も攻撃対象にしたので戦闘機も爆撃機も損失が増大した[49]。これはロールス・ロイスのマーリンエンジンが道を切り開いた。これ以降、アメリカ航空軍の爆撃機はP-51 マスタングが空中戦をしている間に邪魔されることなく本来の役割を全うでき、それは昼間の空で行われた。しかし、それは1943年末になるまで登場しなかった [33]。
ドイツ空軍の守り
年次 | 重砲(8.8cm, 10.5cm, 12.8cm) | 中・軽砲(2.0cm, 3.7cm, 5.0cm) | 照空灯(150cm, 200cm) |
---|---|---|---|
年 1939 |
(2,600門) 650個中隊 |
(6,700門) 560個中隊 |
(3,000基) 188個中隊 |
1940 | 423個〃 | 333個〃 | 143個〃 |
1941 | 537個〃 | 395個〃 | 138個〃 |
1942 | 744個〃 | 737個〃 | 174個〃 |
1943 | 1,234個〃 | 693個〃 | 350個〃 |
1944 | 1,508個〃 | 623個〃 | 375個〃 |
備考 | ・1個中隊あたり重砲4~5門、中・軽砲12~15門、照空灯16基 ・1940年の減少は本国から転出が上回ったため ・1945年2月15日時点 高射砲隊将兵82万1,300人 ・参考として日米開戦時の日本保有高射砲は陸軍500門、海軍200門の記載がある |
1926年に憲法違反を追求されて辞任することになったハンス・フォン・ゼークトはドイツ国防軍を立ち上げる委員会の主導をしていた。ゼークトが去った後、1933年に設立されたドイツ空軍は歩兵、砲兵、航空機が連携する諸兵科連合によって全ての火力を集中させて重要な拠点で粉砕するという作戦は、ゼークトのドクトリンに基づいていた。これは「国防」(Landesverteidigung. 1930年)[注 10]の出版でも述べられている[50]。1935年の教範「航空戦行動」によって陸軍との連携を確立すること、近接航空支援を重要視しており、空軍基地と航空機を防御するためには敵の空軍を攻撃することとしていた[51]。それらはスペイン内戦の教訓を経て、ドイツ空軍内部で研究、開発が進み、第二次世界大戦の開戦から軍事行動に貢献し続けた[52]。しかし、クレイス(1988年)[注 11]によれば、この教範では敵の戦闘機との戦闘は奨励されておらず、制空権獲得の定義は先制攻撃に留まっていたため、ドイツ空軍が守勢に回った事態を想定していなかった[51]。
航空機産業は第一次大戦直後のインフレ下にありながら、民間向けの旅客機で開発を始めている。ユンカースは1920年にユンカース F.13の製造を始め、航空路線拡大は国内に留まらなかった。他にも1930年代後半にはアメリカ資本が流入した自動車メーカーオペルの躍進があり、ドイツ政府はオペルを始めとするメーカーを早い段階から軍需産業への協力を要請し、オペルは爆撃機ユンカース Ju88の主要サプライヤーとして軍需産業の発展に貢献した[53]。高射砲もまたヴェルサイユ条約によって禁止されていたが、航空機の開発と同様に国外で進められた。ラインメタル社はスイスのゾロータン社に出資していたことから[注 12]、1920年代に37ミリFlak18を開発することが出来た。クルップ社はスウェーデン、ボフォース社の数部門を所有していたため、最新の開発情報がドイツへともたらされた。この水面下での成果によって、有名な88ミリ高射砲は1933年に生産が開始され、後に主力高射砲となった。ジェームズ・クラブツリーによれば[注 13]、秘密裏に設立された高射砲7個中隊は輸出向けに製造されていた75ミリ高射砲を使用し、僻地に隠されていたが、1932年に輸送部隊として組織された[注 14]。1933年にはドイツ航空スポーツ連盟が組織され、機関砲を装備した対空部隊が作られ、最初は1934年に航空省が飛行場防衛用のために陸軍へと編成されないよういくつか引き抜かれた。翌1935年にはドイツ空軍の下で7個大隊が新編された。これで合計は18個大隊が編成されることとなり、以降、大隊は2個大隊を基幹に連隊を作ってゆき、拡充されていった[54]。
ドイツ空軍は防空の役目も担ったが、その主体として拡大された高射砲部隊があり、通信部隊が迅速な行動を支援する手筈だった。第一次大戦での教訓から夜間に襲来する航空機を撃墜するのは高射砲と照空灯(サーチライト)であり、それ以外の方法がなかった。なぜなら、戦闘機も照空灯による誘導がなければ爆撃機を撃墜できなかった部分があり、昼間爆撃への対応にはダイムラー・ベンツ DB 601を搭載して優秀と判定されている迎撃戦闘機(要撃機)メッサーシュミット Bf109の開発があった。ドイツにおけるレーダーを始めとする電波を用いた装置の開発は行われていた。ただし、バトル・オブ・ブリテンにおいてイギリスの都市空襲で夜間の誘導に活躍した無線誘導装置があり、それの元を正せば夜間の着陸誘導を行う装置として始まっていた。国防軍が想定していた戦力化計画よりも第二次世界大戦の開戦が早かったため、防空システムが十分に構築されておらず、防空の責任を負っていた空軍管区(Luftgau 航空管区とも)によって高射砲部隊はより強化された。これは空襲を受けるベルリン市民の心理的な支えになると考えたヒトラーによって後押しされた[55]。
電波戦争
第二次大戦における主要戦線である欧州の戦いは、学問の学際的性質をはっきりとさせた。それまで幻の世界と思われるような電子装置は空から生じた。空っぽな空間から生じたそれは舞台となった。つい最近までそれらが勝敗を分けるだろうと思われておらず、科学者達はせいぜい敵より一歩先んじることを目指していた。ヨーロッパの空襲において先んじるための研究が次々と成果を出したが、全てが一方的な勝利へと繋がるわけではなかった。ドイツのクニッケバインからイギリスのオーボエ、オーボエからドイツのヴェルツブルク、ヴェルツブルクからイギリスのウィンドウ(チャフ)、ウィンドウからドイツのネプトゥン・レーダーが生まれたが、最終的にH2Sレーダーによって締め出された[56]。
イギリスもまた夜間の誘導装置として1937年から始まっていたジー航法装置と呼ばれる夜間着陸装置を発展させたが、夜間爆撃の必要に駆られて1940年に無線航法への転用を検討し始めた。オペレーションズ・リサーチはドイツ空軍を真似ることから始めた。これはジーのよる大まかな誘導とオーボエによる精密な誘導の装置を使い、航法が確立させるまで約2年かかった[57]。1941年5月からジーのテストが始まっていたが、ドイツ空軍はジーによる誘導にすぐ気づいて約8週間をかけてこれに対抗する手段が模索された。1940年に入手していたクニッケバインの説明書と実機を参考にし、イギリス空軍も誘導機とフレアを使用する方法で夜間爆撃の精度を上げていたが、1942年夏にジーへの電波妨害が実施された。ドイツ空軍は誘導装置を無効化しつつ、その位置を特定することでエッセンへ襲来した爆撃機64機を撃墜する成果を出した。しかし、イギリス空軍は電波妨害を察知すると、アンテナを追加して偽の電波を発信しながらドイツ側に探知されないミリ波の電波を使った[56]。
カムフーバー・ライン
イギリス空軍はワルシャワ爆撃に対する報復に取りかかったが、ドイツ空軍がフランスへ報復しないように海軍施設への限定攻撃にすることにした。そうしてドイツ本土への攻撃は1939年9月3日のヴィルヘルムスハーフェン海軍工廠への嫌がらせに近い小規模な爆撃から始まった。1940年の2,000人の死傷者を出したオランダ、ロッテルダム爆撃に対する回答にイギリス政府はルール地方の工業地帯に対する攻撃[注 15]を決定させ、この5月からドイツの都市に所在する工業地帯を狙った夜間爆撃が始まった。5月29日と30日の夜間にルール地方のエッセン、デュースブルク、デュッセルドルフに爆撃が行われた[24]。
1940年夏にはロンドンの爆撃に対する報復として本格的なベルリン空襲が行われた。その年の秋から1943年の夏にかけて、ドイツ空軍は地上レーダー、聴音機、照空灯、その上空を哨戒する戦闘機からなる長さ何百キロにも及ぶ防衛線が構築された。それは防衛地帯を生み出した責任者ヨーゼフ・カムフーバーからカムフーバー・ラインと呼ばれた。1940年9月に配備されたフライア・レーダーは120キロの探知範囲があったが、高度を測れず、8000メートル圏内なら高度を含めたすべてを見通すことが出来た。それから1年後にヴェルツブルク・レーダー[注 16]がフライアを補完した。ヴェルツブルクは53.3センチの波長でどんな高度の航空機でも探知できたが、近視眼でその範囲は35キロだった。最も遠い距離を測れるのは無線聴音機で、540キロ離れた航空機の離陸音を聞き取ることが出来た。これに続いてフライヤ、ヴェルツブルクが次々と爆撃機を探知して、その襲来を察知した。これらがヒンメルベッドの防御陣第1段階だった[58]。
1942年3月のリューベック空襲の被害を受け、ドイツ空軍はさらなる強化に乗り出して探知範囲を2倍にしたヴェルツブルク・リーゼが配備された。フライヤもヴェルツブルクも照空灯と接続され、レーダー探知した航空機を照らし出した。また、レーダーの探知データは夜間戦闘機司令部へと送信され、半透明のガラス版に位置を映し出した。これに味方の夜間戦闘機を指揮するセクターも表示された。イギリス海峡の背後に半径36キロの円で区切り、ヴェルツブルク・レーダーはその中央に配置された。ヨーゼフ・カムフーバーがヒンメルベッド(天蓋付きベッド)[注 17]と名付けた防空地帯に爆撃機が接近すると夜間戦闘機司令部がパトロールに出ている夜間戦闘機を割り当て、オペレーターから夜間戦闘機に対して無線で侵攻する爆撃機が照空灯で映し出される地点を連絡した。パイロットは3分で爆撃機を探し出し、最大でも10分を使って攻撃を開始して撃墜しなければならなかった。撃墜に失敗するか敵を見失った場合、追跡しないことになっていた。そうなると防衛線の第3段階に入った[59]。
ミュンスターからルール地方にかけて鎖状に照空灯群が立ち並び、これは30キロ先まで照らすことが出来る。1943年7月にはスカゲラク海峡からマルヌ川まで延伸された。さらに150センチの照空灯9基を3つの照空灯群に分け、中央に照空灯群を配した正方形に区切られた防空域を形成した。この照空灯は高度13,000メートル上空まで照射でき、ヴェルツブルク・リーゼの誘導で360度に回転した。この照射線の背後には、「光の夜襲」の戦闘機部隊が控えていた。これらが第3段階で、ヒンメルベッドの全貌だった。しかし、結果的にヒンメルベッドは失敗に終わった。イギリス空軍に対して4パーセントの損失を出させたが、平均化すると爆撃機の搭乗員1人あたり対して25回の出撃に1回の撃墜にしかならなかった。ヒンメルベッドは100箇所に増設され、それ1つにつき100人の要員が必要とされたことから、夜間戦闘機司令部はやがて手狭になり、半透明のガラス板もプラネタリウムへと改められ、アーネム、シュターデ、メス、デーべリッツ、シュライスハイムにマンモス級の司令部が設置された[60]。
フートン(1997年)[注 18]によれば、1942年末の時点では重高射砲中隊の30パーセントが目標探知装置を持たず、射撃管制レーダーを備えたものは30パーセント未満だったとしている。高射砲部隊は増強されていたが、肝心の重高射砲がドイツ国外に大部分が配置されたため、戦闘機で代替すべきであったと記している[61]。1942年2月のバイティング作戦では、ル・アーヴル北部に設置されたヴェルツブルク・レーダーのアンテナを外し、大胆にもイギリスへと持ち帰った。直ちにその性能が測定され、航空写真の撮影で確認されていた目立つ建造物は皿型受信機(パラボラアンテナ)であることが確認された[62]。
電波妨害の戦い
ドイツとイギリスでは科学者らが、ほぼ同時期に驚くべき発見をした。針金やアルミ箔といった取るに足らない素材が精巧なレーダーに与える影響に困惑した。ドイツ側では1943年1月にヘルマン・ゲーリングが対抗手段がないことを理由にイギリス側への漏洩を恐れ、その兵器の開発を禁止した。イギリス側ではトーチ作戦で始まった地中海戦線、例えば陸軍の部隊が上陸した直後の脆弱な陣地などがレーダー合戦の被害を受けないように秘匿し、センチュリーピの戦いで勝利してシチリアのカターニアへ道が開かれてから、チャーチルは金属片の使用を許可した[62]。1943年7月25日の夜、ドイツ側レーダーの周波数に合わせたアルミ箔が爆撃機から投下された。実際に存在しない1万1,000機がレーダーの基地に映し出され、レーダー要員も高射砲隊も照空灯隊も司令部も対応がわからず、その機能は15分に渡って完全に麻痺した[63]。
ヴェルツブルクは2,200機の爆撃機が撃墜に貢献してきたが、このウィンドウ(Window)と名付けられたチャフは7月のハンブルク空襲に向かう1,000機の爆撃機を救った。カムフーバー・ラインは一夜にして無力化された。しかし、ドイツの戦闘機パイロットはこういった防空システムを凝りすぎた狂気の沙汰と見ていた。技術的にはケチのつけようのない地上管制であったものの、動員される戦闘機があまりにも少なすぎた。イギリス空軍は1942年初頭、400足らずの爆撃機しか保有していなかったが、1943年夏のベルリン空襲には1,670機の爆撃機で編隊を組んで襲来するようになっていた。カムフーバー・ラインによる損失はやがて大したものではないという認識になっていた[62]。
電波戦は6ヶ月の優位しか持てなくなっていた。空の戦いを地上のくびきから開放するため、1942年末に両軍で機上レーダーの導入が始まった。ドイツ空軍のリヒテンシュタインレーダーはウィンドウに無力化された。イギリス空軍のH2Sレーダーはロッテルダム近郊で墜落した爆撃機から回収され、ドイツ側にその機密が漏洩していた。H2Sレーダーのサンプルは回収後に輸送先の研究所が爆撃で破壊されたため、完全に分析されなかったが、1943年9月にH2Sレーダーの逆探コルフとナクソスが開発された。また、ウィンドウの影響を受けないリヒテンシュタインSN-2が使用されていることはイギリス空軍に察知されていなかった。一方で、ドイツ空軍もオーボエの仕組みを解明できておらず、偽の電波に対する妨害で成功していると勘違いに陥っており、膠着状態になっていた[64]。
連合爆撃戦略
1943年1月14日に始まったカサブランカ会談の後、ヨーロッパにおける連合爆撃攻勢の目標がイギリスとアメリカで共有された[65]。2月4日、イギリス空軍は「軍事、産業、経済システムを段階的に破壊および撹乱させ、ドイツの武力抵抗が致命的に弱体化するまでドイツ国民の士気を喪失させる」[注 19]と改めて主張し、アメリカ航空軍は作戦目標の情報を要求した。イギリス戦時経済省はイギリス空軍、アメリカ航空軍にレポートを提出してアイラ・エーカーの修正案を取り入れて5月14日になって正式に取りまとめられた。大西洋の戦いにおいて脅威となっているUボートの造船所、航空機工場、ボールベアリング工場、石油生産施設、合成ゴム工場、軍用車両工場の6種類であり、後にドイツ空軍の戦闘機排除が追加されたが、6月にポイントブランクと呼ばれる指示において戦闘機工場が最優先目標に変更された[66]。
イギリス空軍の爆撃機軍団”ボマー”ハリスとアメリカの第8爆撃機軍団司令官アイラ・エーカー間で攻撃対象が共有されることはないまま、連合爆撃攻勢が開始された。両者はともに空軍による力で戦争を勝利に導けるという思想においては共通していたが、ハリスは地域爆撃によるドイツ国民の士気破壊を特段に強調した。最新鋭のアブロ ランカスターの配備数が強化されつつある中、その防御力は決して高いとはいえず照準器も高性能ではなかったが、アメリカの保有する爆撃機より爆弾の搭載量は圧倒的に多かったことから、夜間の都市に対する無差別爆撃には有用であると考えていた。エーカーの方はアメリカの爆撃機が防御砲火が強力で照準器も優れていて、特に「空の要塞」は防御力が高いことから、昼間、高高度、精密爆撃が可能だと考えた[67]。
ダム攻撃
ハリスは無差別爆撃以外の方法で大きな被害を出せる作戦を承認した。ルール地方の工業地帯に電力を供給しているメーネとエダという2つの大型ダムを爆撃してその発電機能を奪うだけでなく、洪水を引き起こして下流に存在する工業地帯とその周辺の家屋を含む全てを水で押し流すという作戦だった。19機のランカスターが出撃し、1943年5月16日に16機が爆撃任務を実行した。エダ・ダムの撃破によって1億5,400万立方メートルの水が流された。これは洪水が分散したため、46人の死者に留まった。メーネ・ダムの方は悲惨だった。1億1,600万立方メートルという貯水量のほとんどが吹き出し、下流650キロにわたって洪水を引き起こした。橋は押し流され、道路、ガス管とその貯蔵タンク、変電所が破壊され、125個の工場が浸水した。実行されたのが夜間だったこともあり、警報が鳴ってからの避難が遅れて避難先が地下の防空壕だった人々も洪水に巻き込まれ、1,294人の死者行方不明者を出した。50ヘクタールの農業、牧畜地が浸水し、農作物、乳牛、食用家畜などにも大きな打撃を与えた[68]。
ハンブルク空襲
連合爆撃攻勢の最初の一手はゴモラ作戦、ハンブルクにおいて実施された。1943年7月24日の夜間に開始されたイギリス空軍791機の爆撃機はブロックバスター、メディアム・キャパシティなど高性能爆弾1,346トン、焼夷弾938トンをハンブルク市内に投下した。翌25日と26日の昼間にアメリカ航空軍の爆撃機252機が造船所など海軍施設、航空機工場を狙った精密爆撃を行おうとしたが、前日のイギリス空軍による爆撃の煙が市内を覆っていたため、目標に正確な命中は出来なかった。27日夜間には再びイギリス空軍の787機による爆撃が再開され、高性能爆弾1,127トン、焼夷弾1,199トンがハンブルク東部を目標に投下され、29日夜間には火災で燃え盛る所にまたイギリス空軍の777機から高性能爆弾1,094トン、焼夷弾1,224トンが降り注いだ。非常に乾燥していた時期であったこともあり、この地域は猛烈な高温の炎に包まれて巨大な火炎が火災嵐となって荒れ狂った[69]。
この空襲でイギリス空軍が失った爆撃機は100機、その搭乗員552人、アメリカ航空軍は17機を失った。ハンブルクの市街地は75パーセントが焼き出され、生き残った住人約100万人が家を失った。ハンブルクの犠牲者は民間人4万4,600人の死者、3,700人の負傷者、軍人は800人の死者を出し、民間人死者の半分は女性、約4割が男性、残りは子どもと推定されている。犠牲者が多いのは家屋が密集したハンブルク東部であり、ナチス党員や実業家などの高所得者が住む西部はほとんど被害を出していない。イギリス空軍が狙った家屋密集地帯は労働者階級の住宅地であり、若い男性は兵役や徴兵のため不在だったことから女性、子どもの比率が高く、次いで兵役の対象にならない工場務めの中高年男性と高齢者が犠牲となった。その後の空襲や日本の空襲でのそうであったように、多くの場合、弱者が犠牲になる差別爆撃という性格を帯びていた[70]。
シュヴァインフルト・レーゲンスブルク爆撃
ハンブルクでウィンドウの使用が許可される以前も、その後も、ドイツ空軍の防空体制が直ちに脆弱になった訳ではない。1943年8月17日、アメリカ航空軍は軍需産業の基幹を支えるボールベアリング工場を狙ったシュヴァインフルト、レーゲンスブルクへ昼間爆撃を行った。これは投入した爆撃機の3分の1を失う損害を被った。特に2回目の、10月14日に行われた同時攻撃では、291機が出撃し、爆弾計500トン以上を投下することに成功し、約60発が住宅へと落ちてしまったが、工場へ約1,500発の直撃弾を浴びせる成果を上げた。しかし、第8航空軍はその同時攻撃で60機を失った。そのほとんどが航続距離の短い護衛戦闘機が帰投した後に、ドイツ空軍の戦闘機による包囲、反復攻撃で失われたものだった[71]。オペレーションズ・リサーチの検証によると最終的に8月31日までで487機の「空の要塞」が撃墜され、823機が戦闘機の攻撃で損傷、580機が高射砲で被弾したと報告された[72]。
イギリス空軍も8月23日から24日のかけてベルリン空襲で7.9パーセントという今までにない最大の損失を出し、ドイツ空軍が戦闘機を増強していることを確認した[44]。1944年1月、第8爆撃機軍団の維持に関わる損失だと痛感した司令官エーカーは、このドイツ空軍の戦闘機を地上、空中、基地、工場、問わず見かけ次第攻撃するよう戦闘機軍団に要請し、戦力回復に努めた[73]。
ドイツ空軍の戦力強化
1943年の初頭、西部戦線におけるドイツ空軍の戦闘機は670機まで増強されたが、11月頃にはさらに1,660機へと増強された[74]。2月に本土防衛の専門航空艦隊ライヒ航空艦隊[注 20]を設立した。また、斜めの音楽(ジャズ)を意味するシュレーゲムジーク[注 21]が採用された。およそ70度の角度をつけた20ミリ機関砲2つが戦闘機の上方に取り付けられ、パイロットは光学式照準器で上に向かって狙いをつけて撃つことができた。その角度の射撃位置に付かれたら、爆撃機からは見えなかった。戦闘機の射撃を受けてから爆撃機の搭乗員は気がついた。戦闘機のパイロットは燃料タンクがある翼のエンジン間を狙い、それは数秒で火が付いた。爆撃機それ自体が弾薬庫のようなものなので、爆撃機のパイロットは火を消す唯一の方法である急降下を試みる。イギリス空軍の攻撃者はベルリンやルール地方のような防備が厳重な場所であれば見渡す限り破滅の場面である。地上には高射砲が展開し、上空か後方には戦闘機が待ち構えている。前に進めば急降下する味方機との衝突の危険、耳を聾する轟音、周囲には爆撃機から吹き出す炎、その炎は飛び出したパラシュートに火を付けて爆撃機の搭乗員は恐怖した[75]。
イギリス側の高射砲は戦前の整備においてドイツのそれとひどく劣っていて、ドイツの高射砲を回避するため高度10,000フィート(約3,000メートル)で攻撃するよう指示していた。これがアメリカ航空軍にも共有され、実戦での猛烈な高射砲の攻撃に晒される結果となった。ヴァイマル共和国陸軍の高射砲教官だったギュンター・ルーデルは1930年に防空計画を立案し、高射砲整備を推進した。旧型の口径がバラバラの高射砲と廃し、8.8センチを標準砲に最低とした重高射砲の整備を訴えた。 1935年にヒトラーが政権を握ると高射砲隊はゲーリングのドイツ空軍指揮下に入り、ギュンター・ルーデルは高射砲兵総監へと昇進した。1937年から新たな防空計画が立案され、10.5センチ高射砲や150センチ照空灯など将来のより早くより高く飛べるように発展した爆撃機の登場に備えた。特に1937年10月からルール地方の高射砲防空地帯はヒトラーによって1939年10月までに完成させるよう命令されていた。10.5センチ高射砲は有効射程高度31,000フィート(約9,500メートル)、8.8センチ高射砲は有効射程高度26,000フィート(7,930メートル)あった。ドイツ空軍の地上配備レーダーの数が不足していたことから、1940年に夜間での防空が脆弱であることがイギリス空軍側に伝わってしまったが、これは通信網を整備して探知情報を連携することで対処した[76]。
こうした連合爆撃攻勢に対抗するためにドイツ空軍の本国防衛は強化の一途を図ったが、間接的に他戦線への資源供給が滞ったという側面もある。石津(2020年)によれば、爆撃から避難するため工場そのものを山岳地、森林、あるいは地下へ移転する分散型工業への移行により多大な労力と資材を要したという点である。イギリス、アメリカの集中型工業による莫大な生産量に対抗するのは無謀ではあったが、効率面で確実に衰えたのである。第二に高射砲隊の充実は高射砲の生産強化によって、対戦車砲などその他の生産に大きな影響を及ぼした点があり、1944年までに火砲生産30パーセント、重弾薬20パーセント、光学機器30パーセント、電子工学50パーセント、そして軍人とそれを支える民間人約200万人が防空システムに関連する任務、被災地の復興作業に従事していた。最後にドイツ空軍の機種が大幅に偏り始めた点である。イギリス、アメリカの爆撃機に対抗するため早急に戦闘機を増産する必要性にかられ、爆撃機その他の生産を犠牲にした結果きわめて歪んだ部隊編成となり、西部戦線でも東部戦線でも近接航空支援による爆撃機が必要な場面に足りなくなったのである[77]。
マスタングの登場まで
ドイツ空軍が各戦線から戦闘機を集めて高射砲の生産を強化したため、1944年3月のベルリンとニュルンベルクにおけるイギリス空軍の爆撃は多大な損失を出して失敗に終わった。イギリス空軍”ボマー”ハリスはハンブルク空襲の成功に自信を深め、ハンブルクの再現をベルリンで成功させればドイツの降伏は早まると確信していた。ベルリンへの爆撃再開は1943年8月で爆撃機モスキートのパスファインダーも投入して開始されたが、ベルリンまでの長い飛行距離、冬の悪天候によって爆撃機はベルリンに到達できず、組織だった爆撃の実施は出来なかった[78]。
天候の回復を待って大規模な攻撃を開始した11月19日から1944年3月まで、延べ16回、9,000機の爆撃機が動員され、ベルリンに相当な被害を与えたことは事実ではあるもののベルリンはハンブルクよりも大きな近代的な都市で防災に対する備えがあり、ドイツ空軍の防空体制も厳重であった。3月30日のニュルンベルク爆撃ではもっと手痛い損失を被り、ベルリンとニュルンベルクでイギリス空軍は1,047機の爆撃機を失い、1,682機が損傷した。アメリカ航空軍の統計専門家ロバート・マクナマラ(後の国防長官)の分析によれば、1943年後半から1944年春まで戦闘機による爆撃機の損失が相次いだため、出撃した爆撃機のうち20パーセントがエンジン不調などを口実に基地に戻ってしまったとしている[79]。しかし、1944年を前にしてセレイト ・レーダー探知機を搭載した夜間戦闘機型モスキートがベルリン上空に現れたことで、数こそ少ないがドイツ空軍の戦闘機も損失を出すようなった[80]。
政治的な背景にも関わらずヨーロッパへ増援を送り続け、ボールベアリング工場への攻撃以来、第8航空軍が低活発になったことに不満を覚えたアメリカ航空軍司令官アーノルドは1943年12月にヨーロッパ派遣航空軍の再編を決定した。イギリスの戦略空軍である第8航空軍と戦術空軍である第9航空軍はイタリアの第15航空軍と合流し、戦略航空軍と改められた。司令官はカール・スパーツが就任し、第8航空軍はジェイムズ・ドーリットルが任命され、第8爆撃機軍団のエーカーは地中海戦線への転属命令が出た[81]。1月にエーカーが出した戦闘機殲滅の方針に代わって、ジェイムズ・ドーリットルは戦闘機は爆撃機の側に常にいること、つまり、爆撃機編隊の前方に展開して迎撃ラインを作ることを命じた。ドーリットルの方針は時期という意味で成功だった。サンダーボルトだけでなく、新型戦闘機マスタングがイギリスに到着し始めた。最初にパイオニア・マスタング(P-51B型)として装備した第9航空軍の第336戦闘機飛行隊は前年の12月11日にエムデン爆撃の護衛に始まり、フライング・タイガース帰りのジェームズ・ハウエル・ハワードを始めとするベテランが合流し、急速に数を増やした[82]。
ビッグ・ウィーク
1944年2月20日に始まったアーギュメント作戦、ビッグ・ウィーク[注 22]の異名で知られる作戦はそうした状況から開始された。アメリカ戦略航空軍の800機の戦闘機、3,800機の爆撃機はイギリスの爆撃機軍団2,350機と共にドイツ本土の航空機工場を目標に1週間足らずの間に2万トンの爆弾で攻撃した。この大規模な攻撃を受けて工場が完全に操業を停止することなく、数カ月後にはより生産量が増加したことから爆撃自体は成功とは言い難く、アメリカは28機の戦闘機、90機の爆撃機、イギリスは131機の爆撃機を失った[83]。
連合爆撃攻勢は引き続き大きな損失を出したが、ボールベアリング工場攻撃時の30パーセントの喪失率に比べて、アメリカは14パーセント、イギリスは5.7パーセントと喪失率は遥かに低かった。この5日に渡るビッグ・ウィークは戦闘機同士の激しい航空戦となり、ドイツ空軍は262機の戦闘機が失われた。航空機工場のみならず、ネイメーヘン爆撃など空軍基地も攻撃の対象となり、最終日となった25日にはボールベアリング工場が集中するレーゲンスブルク、シュヴァインフルトが再び爆撃された。ドイツ空軍にとって戦闘機の生産を維持するという重大さから己の損失を顧みずに迎撃せざる終えなかった[84][要文献特定詳細情報]。
別の統計によると、1944年1月から5月までに2,605機の爆撃機と1,045機の戦闘機が失われたが、このうち戦闘機による被弾、故障は2.2パーセントであり、高射砲による被弾、故障は21.4パーセントだった。これも1943年6月から12月の戦闘機による被害7.4パーセント、高射砲による被害21.4パーセントであったことから、高射砲に対応策として高高度からの爆撃が必要不可欠だったが、それが可能な新型爆撃機B-29はアジア・太平洋戦線へ投入されることになっていた[85]。
ノルマンディー上陸作戦の準備
アメリカで戦略航空軍への組織改編が行われた同月、地中海作戦戦域からドワイト・D・アイゼンハワーとその参謀が丸ごと連合国遠征軍最高司令部としてイギリスへと移り、ノルマンディー上陸作戦の準備が始まった。アイゼンハワー連合軍最高司令官、アーサー・テッダー副司令官、イギリス空軍チャールズ・ポータル参謀総長、イギリス爆撃機軍団アーサー・ハリス、そしてアメリカ戦略航空軍カール・スパーツの5者を中心とした協議が開始された[81]。この中で、ノルマンディー周辺とドイツ本国間の兵員と物資移動を阻害するため鉄道網の徹底的な破壊をアーサー・テッダーは提唱した[86]。
ウィンストン・チャーチル首相はこの作戦に反対し、ノルマンディー周辺だけでなく鉄道の駅や路線付近のフランス国民に犠牲が出ることを憂慮して、「名誉を汚す」とルーズベルト大統領に書簡を送っている。しかし、参戦前まで無差別爆撃を自重するよう主張していたルーズベルトは、「上陸部隊の生命損失をこれ以上ださせないための作戦を規制することはできない」と政治的な回答をした。5月にも、「戦後に尾を引く問題になりかねず、2万人の死者を含む8万の死傷者が出る恐れがある」とルーズベルトに訴えたが、「総力戦における必要性の論理には答えがない」と決行を支持した[87]。
オイル計画と輸送計画
空軍内部でもアーサー・ハリスは無差別爆撃こそが終戦への近道だという意見を変えることはなく非協力的な姿勢を取り続けたが、1945年1月までチャールズ・ポータル参謀総長は複数回に渡っての説得により態度を改めた。また、戦略航空軍のカール・スパーツも反対し、連合爆撃攻勢の計画に沿ったドイツ空軍に航空燃料を供給する石油精製施設への攻撃を主張し、アイゼンハワー最高司令官はこれを支持した[88]。
スパーツによるオイル計画[注 23]はイタリア戦線の第15航空軍に対し、ルーマニアのプロイエシュティ油田と精製所の攻撃を命令し、ルール地方の燃料精製所、燃料備蓄施設、ブラバッグなど石炭液化(合成燃料)燃料精製所も攻撃の対象に含まれた[89]。1944年4月に始まった一連の攻撃は合計で57回の爆撃は建物、設備に対して2.2パーセントしか命中せず、効果は薄かった。1945年1月から4月かけて、ハリスの方針変更によりイギリス空軍の爆撃機も加わって74回、49箇所の燃料関連施設を爆撃した[90]。
1944年4月に航空作戦の指揮権がアイゼンハワーに移管するまで続いたルール地方への燃料関係施設、プロイエシュティ油田への攻撃、3月まで続いたベルリン空襲などにより第9航空軍が始めたフランス、ドイツの鉄道網に対する攻撃に対し、ドイツ空軍の反応は薄かった。アメリカ戦略航空軍の戦闘機との空戦で、ドイツ空軍は2,000人の戦闘機パイロットを失っていた。1944年2月から5月までの間に失われた戦闘機パイロットは爆撃機など全搭乗員の20パーセントを1月ごとに失っていた計算になる。5月にアイゼンハワーは確認のためスパーツに対し、再びプロイエシュティ油田への攻撃を命じたが、ドイツ空軍の防御が脆弱化していることが確認され、ドイツ空軍の残存戦闘機による抵抗が減り、爆撃機の損失は減少するようになった[91]。
こうしてフランス上空における制空権を確保し、ノルマンディー上陸だけでなくファレーズ・ポケットにおいても橋梁やトンネルへの爆撃によってドイツ陸軍の交通網を完全に麻痺させることに成功した。6月上旬までに上陸地域の東を結ぶフランス北西部全域が隔離された状態に陥り、ドイツ陸軍が身動きがとれない状況を作り出した[86]。また、アメリカ戦略航空軍ではイギリス、イタリア、ソ連の空軍基地を利用する計画「狂気作戦」[注 24]が立案された。イギリスからルーマニアなど遠方の目標を攻撃した場合、往復が難しいためソ連領の空軍基地に着陸してそこで燃料と爆弾を補給して復路で再び攻撃してから戻って来るという作戦だった。ソ連は物資の援助を見返りに基地の利用を承認した。この作戦は1944年6月22日から開始され、それまで攻撃の受けることがなかったポーランドの燃料精製所を攻撃するなど大きな成果を出したが、ウクライナのポルタバで駐機中のB-17「空の要塞」43機がドイツ空軍の戦闘爆撃機に奇襲攻撃で破壊された他、燃料や爆弾をアメリカから運ばなくてはならないという難題があったため、9月には中止された[92]。
多くの書籍で語られているように搭乗員の損耗、燃料の枯渇によってドイツ空軍の命運は決した。1944年7月までの3ヶ月間で燃料98パーセントの供給量減少があった。ドイツにおける戦闘機の生産量がまさにピークに達したその瞬間に、爆撃機の迎撃に向かう戦闘機の燃料がなくなり、新規に育成するパイロットを訓練する燃料も枯渇した[93]。このパイロットの育成は大きな影響を及ぼし、未熟なパイロットが出撃しては撃墜されるという悪循環を作り出し、1944年6月から10月にかけて1万3,000人の戦闘機パイロットが失われた[80]。副次的に燃料の枯渇はドイツ陸軍の戦車など装甲軍に対する影響を及ぼした。東部戦線ではシュレージエンがわずか2週間でソ連軍に奪われ(ヴィスワ=オーデル攻勢)、西部戦線でアルデンヌ攻勢(バルジの戦い)も備蓄燃料を切り崩すだけでは事足りず、攻勢を成功させる唯一の希望は連合軍から燃料を奪取することだった[93]。
飽和攻撃
ノルマンディー作戦後の秋、イギリス爆撃機軍団とアメリカ戦略航空軍はアイゼンハワーの指揮下から解放された。”ボマー”ハリスは圧倒的な爆撃機数の物量をもって、ドイツの戦争遂行能力を完全に破壊することを目論んだ。いわゆる「飽和攻撃」(Saturation bombing)[注 25]だった。その最も好例なルール地方の爆撃の再開、そして、3,000機以上の爆撃機による最大規模の爆撃を実施した[94]。1944年10月6日のドルトムント、14日と15日のデュイスブルク、ブラウンシュワイク、そして、28日にケルンを焼き払った。ルール地方以外では、9月11日にダルムシュタット爆撃が猛火に包まれた。ダルムシュタットでは、ドレスデンの予行演習として「扇」[注 26]と呼ばれるイギリスの爆撃手法がアメリカ戦略航空軍によって試された。照明弾による囲いではなく、一点を中心にして扇状に破滅の絨毯を形成した。高射砲が配置されておらず、同時期のシュツットガルトが坑道に住民が逃れたのに対して地下室しか逃れる先はなく、住民の10.7パーセントにあたる1万2300人の死者を出した[95]。
ドイツの軍事力が急速に弱まってきた1944年後半から連合爆撃による無差別爆撃は激しくなる一方だった。ドイツ空軍が強力で未だに力を持っていた時には、その報復措置を恐れて自己抑制機能がある程度働いていたが、それが弱体化したためにその抑制が効かなくなっていた。こうした変化はアメリカ戦略航空軍の爆弾比率に顕著に現れている。1944年9月1日から12月31日までの4ヶ月間に攻撃目標に対して14万807トンの爆弾を投下したが、そのうちの6割にあたる8万1,654トンが盲目爆撃(目標を確認しない)で投下された。従来の精密爆撃で使用された爆弾はわずか674トンだった[96]。
ドレスデン爆撃
ヨーロッパ戦線はドイツ陸軍のアルデンヌ攻勢の失敗によりライン川を遮る防衛部隊が崩壊し、東部でもハンガリーが占領されてルーマニアからの燃料供給が完全に遮断され、ソ連は1944年1月から東プロイセンへの侵攻を開始していた。そうした全戦線においてドイツが崩壊しつつある状況下、まったく必要のない無差別爆撃としてあげられるのがドレスデン爆撃である[97]。本来、「雷鳴計画」[注 27]と呼ばれるベルリンの完全破壊に準備された爆弾の半分が実際に11月25日から5日間でベルリンへ投下されたが、残りは修正案としてドレスデンなど東部の町へと降り注いだ。1945年2月13日から15日に渡るドレスデン爆撃はハンブルクの時をさらに酷くしたような火災、そこから火災旋風を起こし、火災嵐となった。当時のドレスデンには避難民と住民合わせて80万から100万人がいたと見られ、死者約4万人を出した[98]。
フランスからベルギー、オランダへの進軍によって、その地に配備されていたドイツのレーダーや通信施設は破壊、寸断された。また、カーペット・ジャマーとウィンドウを組み合わせた各種妨害装置により、ドイツ空軍のレーダー無効化、通信網が破壊されることで爆撃機編隊の襲来に対する早期警戒能力が失われつつあった。ドレスデンに襲来した爆撃機に対してドイツ空軍が発進できた戦闘機は27機で、残りは地上に待機したままだった[99]。ドレスデンの他にソビエト連邦の侵攻を助けるために東部の都市が主要目標に選ばれた。ケムニッツ、ライプツィヒ、ハレ、デッサウ、マグデブルク、そして、ベルリンも継続目標だった。空襲を受けていない、または、その被害が少ない市街地として目標選定委員会に選ばれたのはヒルデスハイム、ヴェルツブルク、プフォルツハイム、ヴォルムス、ニュルンベルクだった。これらは予備目標とされた[100]。
スヴィーネミュンデ空襲
ソビエト連邦は東プロイセンの多くを占領下に置き、1945年の初めの頃、ヴァイクセル川(ヴィスワ川)とオーダー川(オーデル川)間、シュテティン・ ダンツィヒまで侵攻してきた[101]。海岸沿いに避難民は西へと目指し、ウーゼドム島のスヴィーネミュンデ(シフィノウイシチェ)へと進んだ。3月12日、ケーニヒスベルクなどの避難民を乗せたポンメルン湾に大小様々な船がひしめき合う中でスヴィーネミュンデが爆撃を受けた。沿岸砲兵隊がバルト海に多数の爆撃機が迫っていると警報を出した時、ヴィルヘルム・グストロフの生存者約900人、海岸を徒歩で避難してきた女性たち、橋がソビエトの爆撃で破壊されてフェリーを待つ人々、橋の修理を待つ人々は保養公園に身を寄せていた[102]。アメリカ戦略航空軍はそれを知っていたので、爆弾が地上にぶつかる前に樹木の上で炸裂する近接信管を用意していた。港ではヤスムント、ヒルデ、ラーヴェンスブルク、ハイリンゲンハーフェン、トリーナ、コルディレラが撃沈され、アンドロスも被弾した。石炭が切れて港外で立ち往生していたヴィンリヒ・フォン・クニプローデ(SS Meduana)は被害が少ない方だった。爆撃機671機、戦闘機412機による虐殺の犠牲者は死者2万3,000人となっているが、正確な数は判明していない。氏名がわかっているのは1,667人だけだった。アメリカ戦略航空軍には避難民への攻撃の記録は存在せず、「操車場」への攻撃である[103][104]。
1945年2月22日から始まったクラリオン作戦では、戦争終結段階の必要のない爆撃のもう1つの典型例である。名目上は鉄道とその施設の破壊だったが、それまで空襲の被害が少なかった町や村が2日間に渡って、低空から爆撃や機銃掃射を受けた。かくして1945年の春までに60個の都市が完全に破壊され、空襲を受けた町や村は131に上る[105]。
終戦
1945年4月12日をもって欧州戦線における連合爆撃作戦は終了としている。イギリス陸軍の前線司令部が置かれたハンブルクにおいて降伏交渉が始まると、連合国最高司令部の一員でありイギリス第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリーは1945年5月3日をもって残る戦術爆撃機の発進を中止するよう連絡し、停戦に応じない、停戦できない一部の地域を除きつつもドイツ本土空襲は終了した[106]</ref>[要文献特定詳細情報]。
チャーチルの心境変化
空襲で得られるものはあまりない、単に恐怖を増すだけの爆撃は再検討するべきである。
ドレスデンの破壊は連合軍爆撃活動に関して重大な疑問を残すことになった。
— ウィンストン・チャーチル 1945年3月28日の参謀長委員会にて[注 28]、 訳者:田中利幸「空の戦争史」 2008[107]
どんなに印象的であろうとも単なる恐怖行為や残虐な破壊行為としてではなく、もっと軍事目標に絞った爆撃にすべきである。
チャーチルはドイツの敗北が近づいてくるにつれ、無差別爆撃の必要性に対して疑問を抱くようになった。ドレスデン爆撃から1ヶ月後、空軍に方針の転換を求めた。ロンドン空襲以後、強行に無差別爆撃の実施を主張していたが、終戦間際になって本当に必要だったかと態度を改めた。ポータル空軍参謀総長は今になって重大な問題があったと非難することは受け入れられず、参謀長委員会が容認できるような内容に表現を変えるべきだと伝えた[107]。
4月1日、「長期的に見て我々の攻撃が、敵の目下の戦争努力を損なうよりも、我々自身がさらなる害をもたらさぬよう留意すべきである」と修正文書を出した。連合爆撃作戦が終わった後の14日にはハリー・S・トルーマン大統領宛の書簡で、「戦争状況は今や我々に有利な状態になってきたので、ドイツ諸都市を大爆破するようなことは、もはや、以前のように重要ではなくなりました」とこれ以上の無差別爆撃は必要ないことを伝えた。また、チャーチルは終戦後に勲章の授与式に駆けつけ、陸海軍の指揮官を功労を讃えたにも関わらず、ハリスへの授与は避けた他、勝利宣言の演説でも、自著の回顧録でも、爆撃機軍団についてほとんど触れなかった[108]。
指導部と世論
”ボマー”ハリスは政府によって認可された爆撃であり、イギリス空軍の爆撃機軍団がこれまで行ってきた戦略的に正当な行為であり、陸軍はこれに大いに助けられ戦略的効果があったとし、ノーマン・ボトムリー副参謀長に終戦まで爆撃の続行を強く主張し、アイゼンハワーにも爆撃の正当性を書簡で送っていた。しかし、戦後に連合国最高司令部オマール・ブラッドレーは終戦間際の乱暴な無差別爆撃を激しく批判した[109]。
1945年2月にAP通信が新聞「イブニング・スター」においてアメリカ戦略航空軍がヨーロッパで恐怖爆撃を行っていると記事を掲載し、この恐怖爆撃に対する疑問が持ち上がった。戦略航空軍は記者会見で、「それらは誤解に基づくものでそのような爆撃方法は連合軍最高司令部の政策とも、戦略航空軍の方針とも一致しない」と記事を全面的に否定した。また、「意図的に恐怖爆撃を行ったことはこれまでまったくないし、今も行ってないし、将来も行うことはない」と断言した。アメリカ国務長官ヘンリー・スティムソン、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルらはソ連の要請に基づくと責任逃れを延べている[110]。
しかしながら、アメリカ戦略航空軍による爆撃は日本上空(日本本土空襲)で勢いを増して展開されつつあった[111]。
歴史学者の評価
ドイツ本土空襲を含め、第二次世界大戦中に行われた空襲を巡る問題に学者による多くの問いがある。実際に用いられた方針は妥当だったか、精密爆撃の目標は妥当で正当性があったのか、空軍を無差別爆撃以外に用いたほうが有用ではなかったか、無差別爆撃が戦争指導者や国民にどの程度の影響があったのか、最終的に第二次世界大戦の勝利へどの程度貢献したのか、そして、倫理的に正当化され得るのか、といった内容である[112]。
「戦略爆撃がドイツに対してどのような影響を与え、何を達成することができたか」という問いより、
「イギリスとアメリカの戦略爆撃がなければ、ドイツは何を達成することができたか」の問いに有用性を巡る問題である。
— イギリス歴史家リチャード・オウヴァリー、 訳者:石津朋之「総力戦としての第二次世界大戦」 2020[113]
アメリカ航空戦略軍に従軍していたジョン・ケネス・ガルブレイスによれば、「戦略爆撃によってドイツの生産力増加を阻止したという事実に囚われるべきではなく、その真の影響はドイツの生産力が飛躍的に増大した、まさにその時に増大を抑制したことに求められ、戦略爆撃とはドイツ工業力へのシーリング、きつめの蓋を閉めることに成功した」としている[77]。
しかし、各戦線において戦略爆撃の効果を戦後すぐに調査したアメリカ戦略爆撃調査団によれば、ドイツへの定量計算可能なインプット(投下された爆弾の量)と定量計算可能なアウトプット(ドイツの軍需生産量)との因果関係を分析し、「戦略爆撃は多大な犠牲を伴った戦略的破綻に過ぎない」と厳しい意見を出している[112]。イギリスの調査団はそれより低く見積もっており、1943年下半期の爆撃による破壊は全体で8.2パーセントしか生産高は減少しておらず、1944年下半期に7.2パーセント、1945年に9.7パーセントの低下に留まったと結論を出している[114]。
イギリス、アメリカを擁護する意見として、「ドイツ空軍がヨーロッパ全域において殺傷した民間人と比較すればイギリス、アメリカの連合爆撃機が殺傷した民間人はわずかに下回っている」とイギリスの歴史家アントニー・ビーヴァー(2012年)は「第二次世界大戦 1939-45」(日本語訳2015年)において記している[115]。
ドイツ本土空襲を扱う作品
- ヘンリー・キング監督(日本語字幕)『Twelve O'Clock High(頭上の敵機)』(映画)20th Century-Fox(セントラル映画社)、ロサンゼルス、1949年、該当時間: 132分。ISBN 4774715689。OCLC 154625879。
- ウォルター・グローマン監督(日本語字幕)『633 Squadron(633爆撃隊)』(パイオニアLDC)(映画)United Artists、カルバーシティ、1964年、該当時間: 101 分。OCLC 431624006。
- マイケル・ケイトン=ジョーンズ監督(日本語字幕)『Memphis Belle(メンフィス・ベル)』(映画)Lugano(ポニーキャニオン)、バーバンク(東京)、1990年、該当時間: 107分。ISBN 9780790703121。OCLC 23374099。
- ローランド・ズゾ・リヒター監督(日本語字幕)『Dresden(ドレスデン、運命の日)』(映画)EOS Entertainment, TeamWorx(アルバトロス)、München. Potsdam.(東京)、2006年、該当時間: 145分。OCLC 805087842。
- WGBH-TV (12 May 2010). "連合国はいかにしてドイツを爆撃したか". BS世界のドキュメンタリー ヨーロッパ戦線終結70年. 第1シリーズ. Episode Season 22. Episode 3 : The Bombing of Germany. NHK. NHK BS。
脚注
注釈
- ^ 航空情報編 1958, p. 251では、「高射砲兵監アックストヘルム大将」
- ^ 出典では死亡、怪我人という用語を使用しているが、以下、死者、負傷者、その両方を死傷者と記す。
- ^ 航空基地マニュアル第16号「航空作戦の遂行法」カウフマン 2006, p. 140の訳者:平田など。
- ^ 『万有ガイド・シリーズ 4⃣ 航空機 第二次大戦 I』21頁によると「バトルは1939年にフランスに送られたが、同年9月20日に、第二次世界大戦で初めてドイツ機に撃墜された航空機となった。」
- ^ 『万有ガイド・シリーズ 5⃣ 航空機 第二次大戦 II』228頁によると「ソ連軍のベルリンに対する最初の戦略爆撃は、1941年8月8日に夜間に行われた。この日、ソ連海軍の双発機編隊がベルリンを攻撃したのである。軍事的な効果は特に重要ではなく、この作戦は宣伝の勝利であった。」
- ^ 「バット報告書」石津 2020, p. 320による
- ^ Bombers' Baedekerの訳者:香月による翻訳。他にコフィ 1983, p. 254「爆撃機旅行案内書(ベイデイカー)」など。
- ^ 『万有ガイド・シリーズ 5⃣ 航空機 第二次大戦 II』27頁によると「イギリス空軍は(P-39Dを)675機を発注したが、英仏海峡でわずか数日間任務に就けた後に、受領を拒絶した。イギリス人パイロットは、P-39でドイツの戦闘機に立ち向かうことは自殺行為であると考えた。後に、イギリス空軍機のうち200機は、イギリスのソ連に対する援助としてソ連に送られた。」
- ^ 航空情報編 1958, p. 239より。1939年時における重砲、中・軽砲、照空灯の数はKreis 1988, p. 62と完全に一致しているが、Kreisはp.186など部隊が連隊、大隊規模での表記になっている。また、航空情報編 p.229とp.239で筆者の違いにより中隊数が異なっている。数が少ないp.239を記載。要確認。
- ^ Seeckt, Hans von. Gedanken eines Soldaten. 1935. 篠田英雄 訳 「一軍人の思想」 1940も参照
- ^ カウフマン 2006, p. 140にはジョン・クレイス「空戦および航空基地防空」(Air Warfare and Air Base Defense)とあるが、脚注はない。しかし、これはアメリカ政府DTICで公開されているKreis 1988, p. 34-36と推察。要確認。
- ^ 「ゾロータン」(en:Solothurn)カウフマン 2006, p. 138の訳者:平田による。
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関連項目
外部リンク
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