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ノート:小金牧

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これはこのページの過去の版です。仕事中の (会話 | 投稿記録) による 2013年12月29日 (日) 08:17個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (東葛飾高校の土塁: その後、確認できましたが)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

地図について

小金宿のノートでリクエストをいただいていたので、小金牧の地図を作りました。案外大作業になっちまったぜ、ぜいぜい。

んで、手持ち資料で野馬堀の場所が明確に記載されているものもあるのですが、全体像として入手できた資料は縮尺が大きく(つまり、おもいっきし小さく)、また現行地図と重ねてみたところ必ずしもきっちり合致せず、精度に難があったので、エッジは500mくらいの幅でグラデーションをかけてあります。ま、大半、このグラデーションの中に野馬堀がはいってくれているんじゃないだろうかと期待します。

牧内に含まれる駅名や関係地名を引き継いだ駅名などを全部盛り込むことにした結果、かなり巨大なサイズの図版になってしまいましたが、ま、牧そのものが巨大なものだったのでごかんべんってことで。--Nekosuki600 2007年12月27日 (木) 10:28 (UTC)[返信]

  1. 庄内牧の表記
手元資料(崙書房「柏 その歴史・地理 cf.画像ファイル」「イラストながれやま物語」のコピー)では「荘内牧」という表記のように読めるのですが、記事内の「庄内牧」という表記は別表記でしょうか、誤表記でしょうか。可能ならばご確認ください。--Nekosuki600 2007年12月27日 (木) 10:28 (UTC)[返信]
  1. 印西牧内「印西牧の原駅」の場所
資料の縮尺が大きく精度がいまいちなので断言できませんが、手元資料では印西牧の原駅は印西牧に含まれる場所にはないようです(印西牧東縁から5kmほど離れており、精度問題による誤差かどうかは微妙)。印西牧の原駅がある場所の旧地名が字宗甫であるのは正しいのですが、「同駅少し北の印西市字木戸には」と表記されているわりに、印西牧の原駅の北側には「木戸」の地名が発見できませんでした。そして、隣の千葉ニュータウン中央駅は、明らかに印西牧の中にはいっていて、そしてその北側には「牧の木戸」という地名が現存しているのですな(=^_^;=)。原資料が牧の原駅と千葉ニュータウン駅をとっちらかっている可能性とか、ないでしょーか。ま、牧の原駅の北方2キロ地点には東京都営競馬小林牧場なんてのがあったりして、ここらへんもまあ馬とはかかわりの深い場所ではあったようで、つっこんで調べるほどの価値があることかどうかはビミョーではありますが(=^_^;=)。--Nekosuki600 2007年12月27日 (木) 10:28 (UTC)[返信]

追記。

作成に使ったPhotoshopのPSDファイルは残してありますし、大胆な修正だとできるかどうかわかりませんが、微調整レベルならば可能です。また、そのPSDファイルのレイヤの中には原図として使ったディジタル地図が含まれているのでそれを削除しないとまずいかしれませんが、作り直しをしたいという要望があればPSDファイルを提供することも可能です。

小金牧のマップは、Web上では見かけませんし、近場の図書館であさった範囲ではあまり一般的な情報ではないようです。せっかくなので、これを機会として高い精度のマップが作れればいいなあと思っております。つっこみヨロシクです。--Nekosuki600 2007年12月29日 (土) 12:32 (UTC)[返信]

感激です。地図ありがとうございました。
庄内牧ですが、野田市等の資料にも庄内領だったため、とありますので庄内牧が正しいと言えば正しいと思います。ただ、江戸時代まで、地名人名には何通りかの字が使われることが多く、荘内の表記もあったかと思えます。
印西牧の東の境界がどうもあいまいです。縮小前の牧は牧の原駅を含んでいたと思ってよいようです。木戸についてはおっしゃるとおりです。--221.170.22.103 2008年1月6日 (日) 05:59 (UTC)[返信]
これを機に精度の高いマップができるといいですね。青木更吉氏の本に土手の位置がかなりのっています。(今一つ地図がわかりにくいのですが。)
庄内牧、了解です。うちんちのノート関連差分)に表記違いについての問い合わせが来ているので、小項目名あるいは本文にでも、「庄内牧(荘内牧)」といった並列表記をしていただけるとありがたいです(とりあえず自分ではやらずにおきます)。ま、表記はかなり揺れてますから、厳密にどっちが正しいかとかやってもあまり意味はないでしょうし。
青木氏の本は、行った図書館には一冊しか存在せず、その中には地図は発見できませんでした。流山市立博物館の「流山のむかし」という本に流山市内の野馬堀の残存状況情報が、また前出「柏 その歴史・地理」に南柏駅周辺の野馬堀の残存状況情報(というか、破壊状況情報)が、掲載されていました。引き続き、のんびりと調べてみたいと思います。--Nekosuki600 2008年1月6日 (日) 07:06 (UTC)[返信]
「野馬土手は泣いている」にも部分的な地図しかないですね。その地図ですが、元小学校の先生なら私にもわかるような地図にしてほしいです。何か事情があるのかも。「柏 その歴史・地理」の地図はかなり歪んでます。要注意。牧の原駅関係は「悪意のない荒らし」への対抗措置です。詳しくは非表示部分を。「柏市史」の地図は松戸市資料を転載したものですが、水戸街道道中図のようなものがあったと思います。--221.170.22.117 2008年1月8日 (火) 09:37 (UTC)[返信]
↑前文に失礼な表現があるので「プライバシーへの配慮から地図があえてわかりにくくしてあるものと思われます」に訂正します。また「かなり歪んで」るのは著者による地図ではなく迅速測図です。不勉強の頃とは言え(今も変わらないか)お詫びします。--仕事中の 2010年6月3日 (木) 13:03 (UTC)[返信]

地図、微調整しました。「荘内牧」のみだった表示に「庄内牧」を付記、またある程度確からしい境界について、グラデーションを狭くしました(南柏北方と初石北西部あたり)。ま、微調整ですけど。とりあえずご報告まで。--Nekosuki600 2008年1月10日 (木) 17:54 (UTC)[返信]

上野牧の字を豊四季南、豊四季に移動していただけるとより正確かと思います。しかし、鎌倉大仏には笑いました。--221.170.22.19 2008年7月21日 (月) 05:12 (UTC)[返信]

更なる地図作り

最近Yahoo!ワイワイマップというサービスにはまっているのですが、それに野馬堀の位置情報を持っている方にご参加いただいてスポットをぼこぼこ打ち込んでいけばそれなりにより詳しい地図を作るための情報集積ができるんじゃないかとか思いつきました。というわけで、以下にそのためのワークスペースを作ってあります。

Yahoo!IDを取らないと書き込めませんが、どーせタダだし、主旨にご賛同いただける方おいでになればよろしくです。とりあえず見やすさとか考えず、100メートル単位くらいでわかっている野馬堀の位置をぼこぼこ付け加えていけばよろしいんじゃないだろうかと。そのうちある程度情報が集まったら清書して地図にまとめるくらいはするかもしれません(他のひとがやってくれてもいいわけで、約束はしない(=^_^;=))。では、よろしくどうぞ。--Nekosuki600 2008年9月15日 (月) 16:43 (UTC)[返信]

素晴しい。電話線接続なのでお役に立てるか判りませんが。 ところで、鉄道連隊の線路でも、新京成は土手の上、東武線は土手を切るという違いがありそうです。 で、両方とも車両基地近くに土手が残存しているようです。 基地と土手両方に詳しい方といえばNekosukiさんかと思いますが。--221.170.22.143 2008年9月16日 (火) 08:34 (UTC)[返信]

どもです。Yahoo!マップは当分はまぁ存続するでしょうし、年単位で放置しちゃうくらいのーんびりやっていくつもりなので、そのうち環境が整ったときにでもよろしくどうぞで。なんかね、あれもせっかくマップというネタがあるのに資料作りとかに使うひとが少ないサービスでそこらへんが不憫だからはじめてみた、みたいな面もありますし、ぜんぜん急ぎません。
電話回線速度だとつらいかもしれませんが、航空写真に切り替えて見たりすると「おぉ、こんなふうに野馬堀が残ってるのね」みたいな感動があったりもします。野田線を横切るあたりから柏駅付近までのつながりは、はじめてイメージが明確になりましたです。--Nekosuki600 2008年9月19日 (金) 11:54 (UTC)[返信]

まだ粘っている地図作り

あどーも。下の分割ネタとも微妙に関連。

とりあえず上野牧と高田台牧の2牧についてだけども、詳細図を作れないもんだろうかと思って、現代地図上に遺構情報がある場所のマッピングをしてみた。だけどまあ、えらい途切れているんだよねえ。そこでふと気付いた、「谷戸とかでは土手が築かれなかった場所もある」ってことに。そこで国土地理院の地図を持ってきて等高線から谷戸らしき場所を判別してそれもマッピングしてみた。暇としか言いようがないが。

そしたら、案外つながるんですね。土手が途切れると谷戸が出てくる。谷戸が途切れると土手が出てくる。まあとりあえず現状ではもろもろ情報不足で牧の位置確定ができるような状況には全然なっていませんが、野馬堀を散策してみたいひとにとってはそれなりに役に立つ地図くらいには仕上がってるような気がする。まあ、そんなもんは「独自の研究」ですけれども。

文献調査も並行して行い、でも個人的にはそういうのより好きな実踏調査とかもやって、遊んでみようかとか思ってます。もうちょっとまとまったら個人サイトの方にでもその地図上げておくから、役立ててくださいまし。--Nekosuki600 2008年9月27日 (土) 18:39 (UTC)[返信]

とりあえず途中経過。つながっていない部分をつなげるくらいならとにかく、実踏調査とかになるとかなり手間がかかる部類になりますので、この先はもう劇的な進展というのはないものと思ってください(=^_^;=)。--Nekosuki600 2008年9月28日 (日) 08:09 (UTC)[返信]

農業環境研究所で迅速図が見られます。上野牧部分は歪みが大きいのと柏駅付近は地図の継ぎ目で土手を簡単に記した方の地図だけですが。進展があるかと。欄外のスケッチはカットされています。 柏駅線路の土手は、駅をはさんでほぼ直線でつながる道があるので安易にその線かと思ってましたが、一小から(左に行くと鉄道ホビー店)まっすぐ駅方向で焼き鳥屋さんに当るので確定できませんね。 後は、航空写真の立体視ですか。--221.170.22.76 2008年10月1日 (水) 06:24 (UTC)[返信]

お知恵拝借

非表示にしてありますが、印旛沼へ下る斜面に土手が残存していました…が、斜面の途中のため、野馬土手かどうか確信が持てません。記事に入れたものでしょうか?

大隈重信の屋敷は三井組の事務所を買ったものと思われます。屋敷としたままでいいものか?--221.170.22.71 2008年7月28日 (月) 08:37 (UTC)[返信]

「中野牧」部分の分割について

最近、史跡関連の整理をしており、いったん「中野牧」部分を「下総小金中野牧跡」へ分割、移動いたしましたが、「下総小金中野牧跡」は「中野牧」のほんの一部を占めるにすぎません。そこで、ノート:下総小金中野牧跡の御指摘も受けて「中野牧」の記事を別にあらためて作成しましたが、その間、分割提案をおろそかにしていました。わたくしの不手際であり、申し訳なく思います。「小金牧」に関しては、2008年9月8日 (月) 08:51の版(執筆者:221.171.21.221さん)にリバートし、「中野牧」に関してはいったん白紙化し、ここに、あらためて「小金牧」から「中野牧」部分の分割を提案します。いかがでしょうか。--Greenland4 2008年9月15日 (月) 20:58 (UTC)[返信]

賛同いたします。この間、執筆を進められた方々には申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。--КОЛЯ 会話 2008年9月15日 (月) 22:13 (UTC)[返信]
賛成です。どさくさに紛れて自分の間違いを訂正しておきます。あと、(小金牧全体にも関わる)小金宿の奉行や金ヶ作の陣屋の件は中野牧だけの記述にするべきか否か、ご意見をお願いします。--221.170.22.143 2008年9月16日 (火) 08:38 (UTC)[返信]
小金牧全体にかかわることは記述すべきであり、記事「小金牧」で扱うのが妥当だと思います。個人的には、「下総小金中野牧跡」を史跡指定部分に限定して記述した結果、中野牧だけを分割するのも中途半端なような気がしてきました。ですから、分割提案をしておきながら何ですが、いっそ、このまま分割なしでいくか、それとも庄内牧を除く上野牧以下の小金五牧をそれぞれ分割するか、どちらかにした方がいいようにも思います。小金牧全体にかかわる記述が、ある程度まとまったものになるのか、それとも、微少なものになるのかにもよりますね。このあたりも含めて再検討いただければと思います。「国指定文化財等データベース」(史跡名勝天然記念物→千葉県→下総小金中野牧跡)などをみると、記述すべきことはまだあるようにも思います。引きつづき御審議のほど宜しくおねがいします。--Greenland4 2008年9月16日 (火) 12:01 (UTC)[返信]
全体に関わることは冒頭或いは最初の方の節で軽く触れておいて、詳しい部分は中野牧など各節で述べるという感じでしょうか。
本文を改めて見てみますと、現状、分割したいと言われれば構いませんし、敢えて分割する必要がないと言われればそれもそうだという印象です。分割した方が今後加筆しやすいのでしたら分割した方がいいのかもしれません。--КОЛЯ 会話 2008年9月16日 (火) 13:48 (UTC)[返信]
◆うーん。微妙。反対寄り。
まあなんだ、おれが基本大項目主義なせいかしれないけど、密接に関係しているものはまとめといた方がいいような気がするのよね。小金牧について知りたいというひとは、現状とか倍とか5倍とか程度のテキストは読めるんじゃないだろうかという気がする。最近はパソコンも回線も高性能になってきてるからサイズによる待ち時間とかもさほど気にしなくていいし。
ただ、大項目でいく場合、構成が悪いとすげえわかりにくくなっちゃうから、適宜構成の改善を念頭に置く必要は出てきますわね。でもまあ、こんなマニアックな項目だ、書き手側にその力量を求めても裏切られることはないだろう、なんてけっこう楽観視してます(これが鉄道項目とかアニメ項目とかだったらそんなのんきなことは言っていらんないわけだが(=^_^;=))。
いかがなもんでしょ。--Nekosuki600 2008年9月16日 (火) 18:20 (UTC)[返信]
全体にも関わる陣屋、歴史的な経緯、概略に入れられそうな街道等はまとめておいて、(自分で書いてて思ったのですが)土手の現状などは個々にもっていったらいかがでしょう。--221.170.22.91 2008年9月18日 (木) 11:00 (UTC)[返信]
「個々にもっていく」ということは、要するに221.170.22.91さんは「記事を分割した方がよい」という意見であると見なしてよろしいのでしょうか。そのあたりの御意見を、理由も添えて詳しくお示しくだされば幸いです。--Greenland4 2008年9月19日 (金) 12:48 (UTC)[返信]
見なして下さい。分割賛成です。幕府・開墾・陣屋・街道等との関係は小金牧全体に関わると思いますが、(自分で書いた)土手の位置やら現状は(私のような)地元民しか興味ないのでは?と思いますし、記事が長くなる主因でもあります。長い記事は重複記述の原因にもなります。逆に(私のように)土手の方に関心のある者(というか本当は歴史が苦手な者)にとっては「土手案内」のような記事の充実が望まれます。よって土手がどこにあるという記述は「土手の現状詳細については上野牧を参照」等として分割してはいかがでしょう。(分割後、画像が充実するといいのですが、別件ですのでまた改めて)--221.170.22.171 2008年9月20日 (土) 01:57 (UTC)[返信]
いかがしましょうか。221.170.22.171さんは分割した方がよいという意見のようですが、Nekosuki600さんはどちらかというと分割反対ということですね。КОЛЯさんはどちらでもよいとのことですが、わたしも現状では、さほど分割しなくてはならない必要性を感じません。どちらでもいいっていうのが偽らざる気持ちです。ただ、Nekosuki600さんは「マニアックな項目」とおっしゃいますが、私自身は必ずしも、そう思いません。概要部分はもっと充実できるんじゃないかと思いますし、牧に興味のある人は多いと思います。Nekosuki600さんの「密接に関係しているものはまとめといた方がいい」というのは同感で、現状のまま分割しちゃうと土地勘のない人はつらいのではないかなと思います。分割するのであれば、各牧を切り離しても、それなりにそれぞれの牧が地名の説明ふくめて完結しており、概略がつかめるのが理想的なわけです。それまで分割は待ってもいいのではないかと思うのですが、どうでしょうか。--Greenland4 2008年9月24日 (水) 14:42 (UTC)[返信]
私も絶対にというほどではありませんが。分割賛成の理由としてしいてあげるなら、半分以上土手がどうしたのというマニアックな記事にしてしまった(すみません)というところでしょうか。私はログインしてませんし、多数決等でもよろしいかと。結果がどうであれウィキペディアはだれにも編集権があるところを、分割提案の手順を踏んで下さったことに感謝します。--221.170.22.33 2008年9月25日 (木) 09:31 (UTC)[返信]
土手がどーしたネタですが、言葉で説明しようとすると長大になるのはしょうがないわけで、牧ごとの地図とか作れないかなーとか思ってます。あ、でも思ってるだけです。思ってるだけなんですってば(=^_^;=)。
別ネタではけっこう使っていた米軍撮影の航空写真(1940~1950年代)を思い出して、それからも位置データを拾ってるところですが、なんせエリアが広く、ついでに必ずしも緻密につながるように写真が撮られてるわけじゃないようで、まあそれなりにむずかしいですね。まあ、写真から「それっぽい」と思ったとして、それで線を引いていいわけじゃなくて、現地にいって確かめる&文献確認くらいは最低でもしないとだめなわけですが。--Nekosuki600 2008年9月25日 (木) 11:55 (UTC)[返信]
◆ただなんだね。言葉で数十行を費やしているような土手の位置説明ですが、地図が完成したら「図版一枚」で済んでしまうんですよね。見た目の量は激減することになります(似たような問題は「水戸街道」も抱えていたような気がするわけだが(=^_^;=))。まあ、そのときに改めて統合するという手もあるかもしれませんが。--Nekosuki600 2008年9月25日 (木) 14:19 (UTC)[返信]
そういえば、地図依頼の動機が、字で書くと長い、でした。史跡の牧跡が分離されていれば分離しなくても良いかも知れませんね。--221.171.21.226 2008年9月28日 (日) 05:32 (UTC)[返信]

さて、いかがしましょうか。地図づくりの方も進行しているようですし、分割に関しては、仮にそれが必要だとしても、今はまだ時期尚早のように思われます。いったんは分割提案を取り消してもよろしいでしょうか。--Greenland4 2008年10月2日 (木) 14:19 (UTC)[返信]

あの地図いつになったら完成するんだかわかりませんよー・・・と思ったけど、別に詳細な土手図面が必要とされているわけじゃないんで、あとは「現存/非現存」あたりの情報を追加すれば説明としてはおっけーなのか・・・。興味を引かれて野馬堀を見たくなったひととかのためには、図版に解説文字情報とか入れておいたのがいいのかな。「ここは見学の価値あり」とか「ここはわざわざ行ってもがっかりするだけだぞ」とかいうような内容のもの。「観光ガイドじゃねーぞ」とか言われちゃうかもしれないが。--Nekosuki600 2008年10月3日 (金) 10:28 (UTC)[返信]
牧跡が分割されたので提案は取り消されても良いかと思います。観光というか探検ガイド(独自研究でもある)におつきあいいただき有難うございます。土手の写真も充実するといいですね。ヒガンバナ同様期待しています。--221.170.22.37 2008年10月4日 (土) 01:42 (UTC)[返信]

合意が得られたものとみて分割提案を取り消します。御意見、ありがとうございました。--Greenland4 2008年10月4日 (土) 10:23 (UTC)[返信]

とりあえず地図貼ったけど

文字情報一切なしの地図を貼っておいたけれども、どういじくるとわかりやすくなると思う? ご意見よろしくです。ダウンロードしていじくって上書きとかしてくれてもかまいません。--Nekosuki600 2008年10月20日 (月) 11:03 (UTC)[返信]

しばらく留守してました。最終的には、例えば、あった事が明確な土手・推定される土手を実線点線で、現存する・しないを色分けとかで表示できたら良いかなと思います。あと意味不明の名のりを始めました。--仕事中の 2008年12月13日 (土) 04:33 (UTC)[返信]
了解です。いやあ、かなり手間がかかる調査になるので近々になんとかなるとは思わないのだけれども、実地調査用の地図も作りましたし、ぽつぽつと現場を歩いて地図の補正をしていこうと思います。ま、画像の独自研究性あたりは微妙かもしれませんが、さほど角つき合わせて対立するひとが出てくるような話でもありませんから、なんとかなるでしょう(=^_^;=)。
いやあしかしなんだね。つくばエクスプレスの工事が本格化する前に着手しておくべきネタだったと、しみじみ後悔してます。柏の葉キャンパスとかおおたかの森とか、あそこらへんはもうだめかもしれません。--Nekosuki600 2008年12月13日 (土) 17:15 (UTC)[返信]
おっしゃるとおり。TXの前に見ておけば…。そのうち、写真持ってる人とか出てくることを期待しますか。現物があれば独自研究ではない…と詭弁を弄してみます。
文章の方も、牧士の名前や馬頭観音の位置を除いてだいたい知ってることは書きましたし。--仕事中の 2008年12月14日 (日) 00:29 (UTC)[返信]
と思ったら鎌ヶ谷市教育委員会が地図つきの資料出してました。「中野牧が最も重視された」的な記述にニヤリとした気分ですが。ほかの市町村も見習ってほしいです。ま、のんびりお願いします。--仕事中の 2008年12月20日 (土) 03:06 (UTC)[返信]
あったことが明確か、推定にすぎないかは、それがわかれば苦労しないぞぉ、という部分だったりするのでパスして(=^_^;=)、実踏調査をした結果を反映しました。
燈色は推測される線(で、まだ歩いていないところ)、緑色は土塁が現存するところ、紫色は崖など自然地形が外縁として使われていたと思われる場所(人工の土手・堀があったとは思いにくい場所)、赤色はあったかどうかわからんくらい破壊されている場所、です。土手がなくても水路は残ってるところをどうするか迷ったんですが、それが野馬堀跡なのか無関係な農業用水路なのかはわかりませんから、それは赤分類にしました。
まだまだ先は長いぞ(ふっ)。--Nekosuki600 2008年12月27日 (土) 06:57 (UTC)[返信]
◆うーん。水路あるいは暗渠が残っており、推測位置と一致する場合には、青線かなんかにするというのを考えました。次回、そうするかもしれません。そうしないかもしれませんが(水路の付替えが行われている場所があるようなので、微妙に迷っている)。--Nekosuki600 2009年1月9日 (金) 13:55 (UTC)[返信]

見出しほか

庄内牧と小金五牧が同格の扱いになってますが?--221.170.22.184 2008年9月23日 (火) 07:35 (UTC)[返信]

十分な説明はなされていますし、わざわざ「=」を増やすとかする意味もないし、いいんじゃないかなー。--Nekosuki600 2008年9月23日 (火) 08:33 (UTC)[返信]

御礼

いくら何でもも何も、以前、鎌倉大仏を見逃してましたから。訂正どうも。

HPの柏神社裏の稲荷神社の考察、素晴らしいので載せてはどうでしょう。何回も見ているのに気がつきませんでした。神域に小社が点在している例はよくありますね。 経緯から考えると、諏訪神社等古い神社等を避けて小金牧の区画を決めたようです。牧内に寺社が置かれなかったのは同じですが。 「昔、ここに土手があった」という方が出て来てくれたら…と思います。--2009年1月9日 (金) 07:07 利用者:仕事中の会話 / 投稿記録 / 記録

ども。いやあ、あの稲荷神社、由緒を調べていないんですよ。おれんところのページでは推測として書き飛ばしちゃいますが、Wikipediaに書くとしたら由緒調べてからにしませんと(=^_^;=)。柏神社にヒアリングにいけばわかることがあるかもしれないんですが。
先日の実踏調査の際に諏訪神社 (流山市)に寄って来ました。んで神社の自己紹介パンフをもらってきて、多少諏訪神社の項目の方に加筆しておきました。今は脇社になっている幾多の神社、けっこうご近所から引っ越してきているようですね。ただ、元の所在地がわかっている神社はその全てが牧外であったようで、牧内には原則として寺社が置かれなかったという情報を覆すものはありませんでした(鞍掛から引っ越してきた神社が一社あったが、それは創建が1887年なので、牧内にあったということにはならない)。
なんとなくマイブームになっちゃったので、次は高田台牧を歩いてこようかと思います。柏の葉キャンパスの開発に伴う破壊に直面している部分は、なるべく早く歩いておきませんと。--Nekosuki600 2009年1月9日 (金) 14:08 (UTC)[返信]

なんとなくマイブーム…引っ張り込んだかいがあります。末永くよろしく。前回署名忘れました。--仕事中の 2009年1月10日 (土) 01:33 (UTC)[返信]

常磐線でも流山から柏に入る時、少し登りになっていて土手がほんの少しの台地の縁に作られたことがわかります。ただ、鉄道用語が判らないので何と記述していいのか。 素人考えですが、柏駅をつくる前の図面がどこかにありそうな気がします。 くぬぎ山駅ホーム北端から土手跡が見えます。--仕事中の 2009年1月12日 (月) 01:58 (UTC)[返信]

櫻株稲荷

どこかで聞いたと思ったら、柏市HP掲載の「かしわのむかしばなし」にありました。 ただし、水戸候は参勤交代免除だったので、単に水戸に帰る途中が正しいでしょう。 水戸屋は例の鳥瞰図に載っています。(一度、木戸屋と誤認しました。)水戸屋ビルは現存します。 鳥瞰図には稲荷神社も載っています。 で、稲荷と柏神社との関係は不明のままです。稲荷は水戸街道関係ですか。是非、第一発見者?の手で記載を。--仕事中の 2009年1月13日 (火) 08:04 (UTC)[返信]

お。興味深い情報どうも。そうですか櫻株稲荷は古い神社だったんですね。おそらくまあ、あの一角はまとめて無主の寺社地であり(寺は・・・あれ・・・ないか。なんでないんだろう?)、そこに稲荷神社も同居させてもらったということなんでしょう。ほとんどの寺社地は、入会地というか無主地でしたからね。
「木戸屋」と「水戸屋」の勘違いにはくすりとさせていただきました。これはしかしおかしさがわかるひと少ないだろうなあ(=^_^;=)。
柏市のサイト、年代や、その水戸藩の当主が誰なのか書いてないのが痛いですね。ま、電話一本かければわかる話ではありますが(そこから先が泥沼になったりして・・・)。
ま、おれは、そこに存在していて近所の人は誰もが知っていたであろうことに気付いただけですから、発見者になっちゃったらそれはコロンブスなのですが(「アメリカ大陸は昔からあったぞ」ってやつ)、せっかくだからややトーンをダウンして、簡単に木戸もからめて書き加えておきますです。--Nekosuki600 2009年1月14日 (水) 12:55 (UTC)[返信]
HPの徒歩取材もすごいですね。土手がなくなった所は残念ですが、痕跡でさえ貴重な記録と思います。松井天山の鳥瞰図も、今も残る書店・銭湯・石材店があるので、一度ご覧を(すでにご存じ?)。--仕事中の 2009年2月14日 (土) 06:40 (UTC)[返信]

ネタ帳

ちょくちょく編集しないで、サーバー負担軽減のため、本文に現時点で入れてない事を書いておきます。ある程度たまったり確認がとれたら自分で書くつもりですが、どなたか執筆ついでに書いて下さるとサーバーが助かるかと。

  • リンク。すでに書いた所以外、地方自治体HPに小金牧が載ってます。特に船橋市。京葉ガスにも参考になる資料があります。以上はリンク入れていただけると内容が充実するでしょう。ただし、ほかにも官庁役所公的機関で参考にした資料は、大量にあります。すべて外部リンクすると大変かと(私見です)。
  • 高木村の道路元票は小台です。馬込沢近くに、明治まで残った土手があったようです。旧沼南町、大木戸近くも同様で、近くに馬頭観音の石碑があります。
  • 佐倉牧では、新堀がシンボリルドルフの語源になっています。新堀、新堀牧場、シンボリ牧場です。
  • 相原正義氏の本も文献に入れる価値があると思います。--仕事中の 2009年7月24日 (金) 04:14 (UTC)[返信]

やたら長い位置情報の解決を目指して

まあ、問題解決にはぜんぜんつながらないと思うんだが、新たなアプローチを思いついた。えーと、それなりに永続してくれそうな外部の地図サイトを使うっていう手はないだろうか。以下のものはおれんところのサイト用に作ったものでWikipedia用ではぜんぜんないのだが、何人かでよってたかって作ればWikipedia用の地図を作るのはそれほど難しくないような気がする。

仕事中のさん、あいかわらず電話線接続なんだっけ? 電話線接続だとGoogleMapはつらいかもしんない。巨頭の参加がないと、そもそも実現可能性に難があるような気もしますが(=^_^;=)。--Nekosuki600 2010年4月22日 (木) 19:07 (UTC)[返信]

一応、中くらいのブロードバンドにしました(笑)が、自分の大脳に画像編集をインストールしないと。ホント、文字が長いですね。一時、千葉県教育委員会あたりにやってほしい、とも思いましたが、今では調べて歩く楽しみ奪わないで、という気持ちです。
別件ですが、外部リンクは最小限にというウィキペディア編集指針に従い少し編集しました。--仕事中の 2010年5月1日 (土) 01:28 (UTC)[返信]

あどーもで。

Wikipedia:井戸端/subj/やたら長くなる地理的記述についてというのを立ててみました。直接には小金牧には関係しないのですが、水戸街道あたりには直結するんじゃないかという気がしなくもないんですが(=^_^;=)、まあ関係はするだろうということで。

かなりややこしいネタではあるし、日本語版にとどまらない話かもしれないという指摘はすでににちゃんねるで出てるし、個人的にも「ほんとにGoogleMapとかに依存しちゃっていいのか」という疑念はあるし、落としどころを考えずに出しているものですから、参加は期待しないっていうか、個人的な知人レベルには「しばらく静観しといてくれ」と個別にお願いをしたかったりもするくらいに(=^_^;=)、展開が読めない議論提起ではあるのですが。いちおう、関連議論ってことでお知らせまで。--Nekosuki600 2010年5月3日 (月) 17:01 (UTC)[返信]

なるほど。自分は地図依頼した立場ですし、他人に作った地図をちょこまかいじられるのもなんですしねえ。「ネット上、一番詳細な地図を作ったのは俺だ」って自負されてもいいかと。将来的に画像直結の新しい記事の体裁もありでしょうか?あと、日本どころか千葉県北西部に特化した記事ってウィキペディア的にはどうなんでしょうか?--仕事中の 2010年5月4日 (火) 01:58 (UTC)[返信]
各項の書き方も整理したい所です。地図で示せれば一気に整理できますが。あと、上野牧の木釘、加筆の時直します。ほかの人でも歓迎。--仕事中の 2010年6月1日 (火) 04:11 (UTC)[返信]

東葛飾高校の土塁

推定情報で本文に書くほどでもないのでここに書いて後で本文削ります。 東葛飾高校、流山街道沿いの土塁ですが、当時学校軍隊の周りの土塁は珍しくない、という事実もある一方、柏の昔の写真集をみると、1.建設前の道よりやや高い所にいる県の視察団の写真、2.土塁と道の間の隙間、3.土塁を築いたにしては妙な正門のつくり、4.街道沿いで土手がある場所に該当、あたりから、土塁が土手の可能性があります。ただし、二重土手に見えるにある写真は土手と植栽です。校舎があって確実に土手がない写真があれば否定できますが。--仕事中の 2010年7月9日 (金) 23:35 (UTC)補足すると、校舎があって土手が少しだけある写真はあります。--仕事中の 2010年7月31日 (土) 00:39 (UTC)[返信]

その後、東葛の創立記念誌を見る機会があり…結果、野馬土手がある旨書かれていたので、本文も合わせ中です。ただ、同校のホームページなど見ると、2013年末現在、校名の葛の字の字体さえ統一されてないという状況で、同校だけではないのですが、どうも、書道を含めた文系の教員が地域の文化財にあまり興味がないのか?と思います。高校関係から記事に役立つ資料を期待するのは厳しいようです。--仕事中の会話2013年12月29日 (日) 08:17 (UTC)[返信]

ナポレオン三世の馬

について書いていたら長くなって、小金牧に直接関係ない事も入ってきたのでナポレオン三世の馬として別項にしようかと思います。ご意見を。--仕事中の 2010年9月28日 (火) 04:02 (UTC)[返信]

感想

わざわざ章を立てて言うのもなんですが、この記事すげー!尊敬する零細系統保護協会 2010年11月9日 (火) 05:13 (UTC)[返信]

どうも。土手マニアが高じてこうなった次第です。競馬にお詳しいと思いますが、競馬関係の記事で小金牧特別について書いた所はないでしょうか?--仕事中の 2010年11月14日 (日) 15:17 (UTC)[返信]
「野馬奉行」の記事を作成しようとして、大谷貞夫氏の『江戸幕府の直営牧』(岩田書店、2009年)を参考にして記事を起こす所存なのですが、同氏は野馬奉行の成立を享保16年以後であることを立証された他、『鎌ケ谷市史』の小金牧の記述を担当されるなど小金・佐倉牧に関する著作・研究も多いにも関わらず、同氏の著作などが引用されていないことがちょっと違和感を覚えました(決して、青木氏の業績を否定する気はないのですが、大谷氏の成果を取り上げないのも勿体ないなと思います)。--水野白楓 2011年1月22日 (土) 03:02 (UTC)[返信]
亀レスですみません。小金牧特別の件ですが、多分ないと思いますね。PJ競馬の観点では、条件クラスの競走の単独記事は特筆性未満で削除される可能性が高いです。地方競馬は重賞の記事すらまだ充足していません。現状では公営Bクラスの競走では難しいでしょう。基本的に競走の名前は、「単にその名前をつけた」というだけで、なにか競走そのものと縁があるというわけではないですし。--零細系統保護協会 2011年1月22日 (土) 13:46 (UTC)[返信]
皆様、ご教示ありがとうございます。遅くなってすみません。
『江戸幕府の直営牧』、千葉県教育委員会の『房総の近代牧』『牧跡』に比べ、はるかに優れた資料と思いますが、図書館でちょっと見た程度なので、よく知らない事を書く訳にいかず、という状況です。今のところ、北から、野田・柏・松戸と来て、鎌ヶ谷手前で止まっているような感じです。
小金牧特別、そうですか…、競馬には疎いもので、どうもありがとうございます。競馬学校、落としてました。--仕事中の 2011年2月12日 (土) 03:30 (UTC)[返信]
だいぶ時間が経ってますが…大谷氏の著作は青木氏も引用されてますし、優れた内容については多少存じております。自己満足的な方針として、出典は原則として、1.インターネットか現地で誰でも確認できるもの、2.公共機関が無料配布または出版し図書館においている資料としています。研究者への敬意を示す手段として、著作権を侵害しない範囲で柏駅のホームなどに青木氏の見解を記しました。というわけで大谷氏の著作について書けない(自縄自縛)という訳です。青木氏の著作、後で読んだら私が調べたたいがいの資料に触れてあったのが実情です。--仕事中の会話2012年8月15日 (水) 02:40 (UTC)[返信]

わかりやすい記事を目指して

小金牧についての情報量、すごいですね。同じく小金牧に興味を持つものとしてうれしく思います。

しかしながら、情報量の多さが災いし読みにくいとも感じました。

この記事では、沿革や共通する項目についての解説にとどめ、小金牧内のそれぞれの牧については、記事を独立させたほうがよいのではないかと思います。いかがでしょうか。

--HidE会話2013年3月14日 (木) 12:10 (UTC)[返信]

ご意見ありがとうございます。実はおっしゃる通りの事で、どうしたものかと思ってました。むしろ、記事を立ち上げて(引継いでというか押し付けられて)以来の悩みの種です。自分が、野馬土手マニアのため、生じた問題点でもあります。次のような策を考えました。

1、地図にする…自分も編集しにくいし、文中に学校名がやたら多い事でお気づきでしょうが、期待している地元の方の「いついつまで土手があった」等の情報が入りにくいというのが難点です。見やすいが書きにくい、というところでしょうか?
2、各牧を分ける…上の方で(ある記事の分割ついでに)一度、提案したのですが、地図を作って下さった方(故人)から、反対され、全面的な分割は見送りました。各牧は少し手を加えれば、独立できるようにはしてありますが、完全独立は極端かと思います。
ゆえに、次の案のどれか、と思いますのでご意見をお願いします。
3、各牧の中に、「野馬土手」の節を設け、読み飛ばしても良いようにする…今の「地誌」で準備中です。書き方もいくつかサンプルをお見せしています。下野牧の形を、もっと、簡略にしても良いかとも思います。
4、「小金牧の野馬土手」という記事を新設する…土手マニア以外、面白くも何ともない内容になりそうです。

よろしくお願いします。--仕事中の会話2013年3月16日 (土) 09:04 (UTC)[返信]

私も(無責任ですが)思ったことを一例としてあげておきます。一つのアイデアと思って聞いてください。
(1)節をもっと細かく分け、各節の冒頭に短く概要を述べる。仕事中のさんであればおそらく記事の内容について熟知してらっしゃると思いますが、よそから来た人がパッと見て記事の内容、全貌を把握するのは難しいです。ボリュームと情報量が多いので。なので、細かく節をわけ、トピック毎に一文程度の概要・まとめを書き、各節の冒頭の一文だけをパッパッと読んでいけば、全体の概略が大雑把に把握できるようにする。概要を書くというのはしばしば難しいことで、内容を細かく精通している方でないと難しい場合が多いですが、仕事中のさんにとってはきっと楽勝でしょう。節を細かく分けるというのは、見映え的な点で好まない方もいるかもしれません。私はむしろ節が細かく分かれている方が好きです。最近私がつくった北海道の神社の歴史は4万バイト弱で、小金牧の5分の1ぐらいのボリュームしかありませんが、節は倍ほど細かくなっています。(私の記事がすばらしいお手本ってことじゃあないですよ!節の中には2、3文しかないものもありますし、こんなに無駄に細かくしやがって、って思う方もいるでしょうしね。)
(2)写真や図を増やす。物理的に容易かどうか(要は時間とか費用とか意思とかとの兼ね合いで撮影しにいく可能性があるのかどうか)はわかりませんが、各牧に1枚づつ程度、現在の様子を撮した写真があったとしても、写真が多すぎるとは思いません。もちろん、規模が数百メートルからキロの単位で広がっていて、しかも遺構がほとんどない、あるいは、どこにあったのかもはっきりしない、なんてものの「現在の様子」を撮影しろというのはいささかムリな話なのかもしれないのですが、たとえば「現在の◯◯付近の様子。住宅街が広がっている」みたいなキャプションとともに住宅街の写真があったとしても、私はいいと思いますね。最高に理想的なのは、文字では伝えにくいことをパッと視覚的に表現できることであり、その次には文字による説明を補う資料としての写真なんですが、私は、画面全体を文字列が覆うのを回避するためのちょっとしたワンポイント程度の役割で適当に写真がパラついていてもいいと思います。あるいは、図書館あたりで(著作権には入念なチェックが必要ですが)古い写真を探してきて(あくまでも実際には個別的に確認は必要でしょうが、昭和初期頃までに発表された写真は、既に何十年も前に著作権が切れています)、これを掲載するという事もできます。--零細系統保護協会会話2013年3月16日 (土) 10:28 (UTC)[返信]

零細系統保護協会様、いつもご指導ありがとうございます。節を分け、わかりやすい見出しと冒頭の説明を入れる、あたりで進めてみようかと思います。数年前だと、量の多い記事だと開くのが大変でしたが、今なら大丈夫と思いますし。

下野牧のような書き方だと、編集方針に反するかと思いますが、どうなんでしょうか?

皆様、ご意見よろしくお願いします。あと、忘れていた改行をいれました。ご了承下さい。--仕事中の会話2013年3月17日 (日) 00:40 (UTC)[返信]

       ・
       :\ 
       ┃
・‥‥‥‥━‥・五香十字路
子和清水   :
       |
‥痕跡もない所、-痕跡が認められる所、━土手が残る所

本格的な地図だと自分が編集しにくいので、こんなサンプルを考えてみました。あくまで牧の部分部分を示すもので、斜線など未解決の点が多いのですが。--仕事中の会話) 2013年3月17日 (日) 08:16 (UTC) さらに追記します。実は10年くらい前、個人的につくった、空中写真に重ねた土手の地図を持ってます。空中写真をもとにつくった地図もあるのですが、編集を繰り返すうち、jpeg特有の問題が出てきました。手書き風の味が出て良い、と言う向きもありますが。ほかの方が編集しにくいというのが最大の難点です。ここにあるぞ、とか、いつまであったとか、です。とちあえず、見出しをつけて少し分けようと思います。--仕事中の会話) 2013年4月7日 (日) 01:37 (UTC) 地図、入れて見ました。100年以上前の地図を基に、目分量で作ったので著作権には触れ(ようが)ないと思います。その後の更新がうまくいかないほか、いくつか問題がありますが、とりあえず、本文バッサリを考えています。--仕事中の会話2013年8月1日 (木) 04:40 (UTC)[返信]

地図、携帯経由で入れたせいか、今ひとつですね。だれもが、編集修正できると良いのですが。--仕事中の会話2013年9月21日 (土) 07:54 (UTC)[返信]
とりあえず、「承諾」は感想ではないので、理由のない削除と同等であり、「荒しについて」に従い、復元します。今後の同様の編集についても、「荒しについて」に従い対処します。「可能性」等の表現については、とりあえずの対処後に。--仕事中の会話2013年12月1日 (日) 13:52 (UTC)[返信]
↑段下げ追加しました。逆順ですが、まず、年の表記。1.「スタイルマニュアル」「表記法」には「推奨されるが絶対に従う方針ではない」旨、書かれていたはずです。2.このうち、記事の立ち上げ時、「スタイルマニュアル」には年月日の書き方は未記述でした。()は全角か半角かも議論中。3.資料とすることが強く推奨されている研究者による論文では、半世紀前から今世紀まで、・・(・年)式で書かれており、同じ表記の方が、僅かに、無用の混乱を減らし、参照を容易にし、4.容量を減らします。『年』の記述がはるかに少ない小金原御鹿狩では・・年(・年)にしてあります。「誰でも編集できる」ウィキペディア、置換によりごく簡単に編集できますから、誰かが変更するのは別に止めはしません。ただし、論文の原文引用部分まで変えると、間違いになります。--仕事中の会話2013年12月2日 (月) 14:54 (UTC)[返信]
西暦と和暦の表記については、過去に相当な議論があって、Wikipedia‐ノート:表記ガイド/過去ログ9#西暦和暦併記についてをみても分かる通り、完全決着はしていません。要するに、最近の話ならともかく、西暦(グレゴリオ暦)採用前(=明治6年以前)や、グレゴリオ歴採用前(1582年以前)の内容を記事に含む時は、とりわけ注意が必要になります。表記ガイドでも<原則として西暦を先に表記します。しかし旧暦を採用している時期などで、出典から正確な西暦の日付を特定できない場合などには、それ以外の暦を先に表記することができます。>とあります。
本記事はまさにこれらの時代を横断する記事でして、出典との兼ね合いで日付の取り扱いにはよくよく注意が必要です。(仕事中のさんにとっては言うまでも無いことだと思いますが)往々にしてこれらの地代に関する文献、特に戦前に書かれたような文献・原典には、和暦表記しかありません。実際、原典となりうる文献は間違いなく和暦のみで書かれてきたでしょうから、それを引用するにあたっては和暦で書いておけば間違いはないのですが、うっかり西暦に直すと、いろいろ間違いが起こる可能性があります。
個人的には、特に日付まで特定できるような場合には『明治5年11月9日(1872年12月9日)』のように書いていただくとカンペキ、安心です。これを『1872年(明治5年)12月9日』とか『明治5年(1872年)11月9日』のように書かれると、不安になります。んー、これどっちだろう、と。うっかり『1872年(明治5年)11月9日』みたいに書くと完全に間違いなわけで。(このへんも参照。)
仕事中のさんがおっしゃるとおり、表記ガイドは「絶対に従う方針ではない」わけで、参考文献・出典が和暦しか表記していない場合には、和暦<ref>出典は○○</ref>(西暦…西暦部分は記事執筆者が換算)という表記のほうがむしろ望ましいとすら思いますね。出典に西暦が併記されているような場合には、ひとまずそれをそのまま転記してもいいだろうと思いますが、出典の精度には注意が必要でしょう。(だいたい、地域史みたいなものを書く方はそこらへんの細かいことにはこだわりがある人が多いので大丈夫なことが多いのですが、もうちょっとマルっとした本の場合には旧暦時代の西暦変換が怪しいのが結構あります)。
あとは、この時代の文献をよく読むような人でないとわからないと思うのですが、西暦で書かれるより和暦で書かれたほうがわかりやすかったりするんですよね。1894年?えーと、なんだっけ、明治廿七年の戦役?ああ、日清戦争か、みたいな。出典が「明治20年代のはじめごろ」とか書いてあると西暦に置き換えるのを悩んじゃったり。
できれば記事の冒頭や注釈などを利用して、「本記事では日付の表記はこれこれに基づいて行なう」とかって宣言してもらえると気が利くなあと思います。--零細系統保護協会会話2013年12月3日 (火) 01:22 (UTC)[返信]
零細系統保護協会さん、いつも、ご指導ご支援ありがとうございます。「本記事では…行なう」気がつきませんでした。是非、実行したいと思います。
さて、放置していた、「考えられる・可能性」等の表現です。記事の内容をきちんと理解された方には不要と思いますが、今後の編集の方向性のため、書いておきます。これこそ、ノートに書くべき内容でもありますので。
確か(に)「という可能性がある」等は避けたい表現にあります(?)が、独自研究(説の合成も含む)を載せない・壮言を書かない方がより上位にあります。「考えられる」と書く理由は次の通りです。
1.編集方針として引用が推奨される二次資料である複数の論文に半世紀前から今世紀まで使われている。ある程度の読解力があるか引用元を参照すれば、個人的感想でないことは容易に理解できるというより、個人的感想とは最初から「思わない」でしょう。英語だと、be considered toでよく使われます。表現を変えると整合性が失われます。むしろ、英語直訳調の表現の多用の方が問題なくらいです。
2.独自研究を載せないため。例えば、中野牧捕込に一本椚牧捕込と書かれた資料があります。名称が一本椚牧捕込だったのは確かですが、ここが一本椚牧だった(と個人的独自研究では思いますが)とは断定できません。「一本椚牧捕込と書かれている」だけでは、一本椚牧であるという独自研究に誘導することになります。独自研究を載せないなら「一本椚牧であった可能性がある」と可能性にすぎないことを明記すべきです。
3.論理的にそのようにしか考えられない内容。迅速図に書かれており、現地に土手が残る場合などです。ただし、迅速図(と県教委の地図)では、100メートル程度の誤差は当たり前なので、「と考えられる」となります。資料に「上野と日暮里の間の駅」とあっても、鶯谷とはないので、「鶯谷と考えられる・の可能性がある」でないと、資料の改竄に当たります。まだ、ほかの理由もありますが、いずれにせよ、ある程度の読解力があれば、容易に理解できる話です。--仕事中の会話2013年12月14日 (土) 05:38 (UTC)[返信]

なお、本当に個人的感想にあたるところを「めがとろん」さんが見つけたとしても、一度、理由にならない理由で白紙化をしてしまった以上、よほどのことがない限り、どのような理由をつけても、同様の行為は理由の後づけになり、今度は確実に「荒らし」になります。荒らしによる白紙化の復元をしたら、警告タグをつけなけらばならないので、方針に従おってつけようと思います。--仕事中の会話2013年12月14日 (土) 05:38 (UTC)[返信]