ノート:寄生獣
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情報の削除について
記載内容について意見が一致しないようなので[1]こちらに意見を書きます。まずWikipedia:編集方針にあるように「情報は保存する(ように努める)」が原則です。ある人にとっては蛇足でも他の人にとってもそうとは限りません。とくに具体的にどんな評者がどのような言葉で作品を評したかというのは有用な情報でしょう。評者が偏っているのなら追加すればいいだけです。『デビルマン』との関係についても、個人の憶測ならともかく作者本人が類似を認める発言をしているなら十分記載に足る内容です。
私の意見は以上ですが、このまま意見の一致が見られないならWikipedia:コメント依頼などで解決したいと思います。とりあえずrevertされた方の意見を伺いたい。--Metronome 2007年2月18日 (日) 08:50 (UTC)
- まず、全ての「各人の評、他作品との類似についての記述」が蛇足だといっているわけではありません。
- >「人はどこから来てどこへ向かうのか? 人類の存在意義は?」など『寄生獣』のテーマと非常に近いものを持つ作品として永井豪による『デビルマン』がある。
- まず、この記述に無理を感じます。このような内容をテーマとする作品は多数ありますが、デビルマンはここで特記するほど寄生獣に似ているのですか?出典の内容にも拠るのでしょうが、本文の論調ではこの断定を皮切りに下記の独立した項目に
- 寄生獣とデビルマンのテーマは似ている(とても広い意味で)
- 寄生獣とデビルマンのストーリー展開が似ていることは作者も認めている(※要出典)
- デビルマンアンソロジーコミック『ネオデビルマン』には読み切り作品を寄稿している。
- 因果関係を含めているように思います。(たとえば「この作品はデビルマンに強い影響を受けて書かれた。後年、作者は念願の永井豪のアンソロジーに参加した。」とか)出典次第ではありますが、現状でこれは書きすぎでしょう。また、どちらかといえば作者の記事に書かれるべきでは無いかと考えます。こちらについては蛇足は言いすぎでしたね。
- >哲学者の鶴見俊輔はこの作品を「人生二度目の衝撃」と評し、社会学者の熊田一雄は「官僚制的消費資本主義社会における高度な宗教」と評している。また評論家の加藤典洋は大学でテキストとして使用していた。
- 誰しも感想は持ちます。寄生獣のような作品ですと尚更です。著名な人物の批評、感想、リスペクト宣言など、たくさんあります。「情報は保存する(ように努める)」が原則ですが、Wikipediaはデータベースでもありません。本作の評価に何らかの影響を及ぼした批評でないと、わざわざ記事に載せるべきではないと思うのですがいかがでしょうか。少なくとも今挙げられている三つの例はこの記事にとってはただのノイズでしかありません。--218.222.43.170 2007年2月18日 (日) 10:28 (UTC)
- 返答ありがとうございます。
- 『デビルマン』との類似に関して
- 指摘されている問題点については私も同意します。この点については作者が認めている(らしい)ということもあり、修正の余地はあるにしろ削除はやりすぎと考え「要出典」付きで復帰しました。現状の記述に問題がある、ということであれば<!--正確性に疑問あり。出典の情報などノートに願う-->というような注意書きをした上で該当の文章をコメントアウトしておく、ということでどうでしょうか。暇のあるときに私のほうでも資料を探しておきますので。
- 各人の評に関して
- この点に関しては同意しかねます。「作品の評価に何らかの影響を及ぼした評」のみ載せる、ということですが、ある批評が作品の評価に影響があったかどうかを誰がどうやって判定するのでしょうか?個人による恣意的な判断にならざるを得ないと思います。例えば『寄生獣』が好きな著名人の名前を羅列していく、というようなことであればおっしゃるようにただのデータベースであり不要なものでしょうが、「誰がどう評したか」を記載していくことは作品発表当時の反応やその後の影響を知る上で有用な情報ですし、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかでいう「データベース」に当たるとは思いません。量がある程度増えた場合は「評価」の節でも設けてまとめればよいことでしょう。この部分の除去には反対します。
- あと余計なことですが、会話ではハイライト(これ)は使わない方がいいと思いますよ。角が立つ場合があるので。--Metronome 2007年2月18日 (日) 11:52 (UTC)
- 返答ありがとうございます。
- ご丁寧なお答えありがとうございます。先の太字装飾は括弧書きの代わりくらいに使用したものでして、特に皮肉な他意などはありません。『デビルマン』との類似に関して は、ご提案のようにしていただければ、こちらとしても異論はありません。
- で、各人の評について。「ある批評が作品の評価に影響があったかどうかを誰がどうやって判定するのでしょうか」という問いについてですが、「一定の評価を受けた論文、著書、もしくはそれに準ずる表現活動」とするのが個人的には妥当だと思います。世間一般に(学術的に)通用する基準というのもその辺りではないでしょうか。「誰が~した、誰が~思った」というだけでは…。
- ただ、私はこの件についてはもう少し具体的な投稿記録の吟味から記事の妥当性を判断したいと思います。件の一文を本記事に付け加えた利用者:58.1.219.233氏はその前の編集で、文中の「熊田一雄」氏の著作(「“男らしさ”という病?」ーポップ・カルチャーの新・男性学)を社会学的考察として挙げています。(ちなみにこの方は熊田一雄氏の記事のみを中心に活動されています。また、熊田一雄氏関連の記事には同様の投稿傾向を持つIPユーザの方が多いように見受けられます。)私には熊田氏がこの本で述べたとされる「官僚制的消費資本主義社会における高度な宗教」という批評が充分に世間一般(学会での評価でもかまいません)からの精錬を受けたとは思えません。確たる論拠も無しに、このような衒学的な記述がWikipediaの当該記事の冒頭を飾ることはふさわしくないと思います。「寄生獣」に初めて触れる方にとってもそれは不幸なことではないのでしょうか。--218.222.43.201 2007年2月18日 (日) 18:40 (UTC)(IP変わってますが、先と同一人物です。)
- ご丁寧なお答えありがとうございます。先の太字装飾は括弧書きの代わりくらいに使用したものでして、特に皮肉な他意などはありません。『デビルマン』との類似に関して は、ご提案のようにしていただければ、こちらとしても異論はありません。
(インデント戻す)『デビルマン』についての記述は上のようにしておきました。引き続き各人の評に関する議論を続けます。
上で「ある批評が作品の評価に影響があったかどうかを誰がどうやって判定するのでしょうか?」と書きましたが、それは「ある批評の価値無価値に関して(誰でも納得できるような)客観的な指標や基準などないのではないか」という意味で述べたもので、あなたの提示した
- >一定の評価を受けた論文、著書、もしくはそれに準ずる表現活動
では解決になりません。まず「一定の評価」が曖昧です。その「評価」はどこでどのような形でなされているのでしょうか。新聞の書評でしょうか、文芸雑誌でしょうか、漫画情報誌でしょうか。そして「一定」の評価であるかどうかどうやって判断するのですか?上の媒体などで取り上げられた回数でしょうか(だとしたら何回?)あるいはグーグルのヒット数でしょうか(いったい何件がその基準になるのか?)。どちらにしろ、その判定基準や判定方法の取り決めは恣意的なものにならざるを得ないでしょう。
仮に蓋然性から判断するとして、ではその批評が一定の評価を受けているかどうかを「誰が」判断するのでしょうか?明確で客観的な基準が設けられないまま私やあなたが「これはいい、これは駄目」という風に投稿された文章を選別しては、投稿するほうもうんざりし、しまいには有意な投稿までなされなくなってしまうでしょう。それは避けるべきです。
「論文、著書、もしくはそれに準ずる表現活動」というのも曖昧です。「それに準ずる表現活動」とはどこからどこまでを含めるのでしょうか。エッセーは?対談は?大学の講義だって表現活動です。いずれにしろその範囲の取り決めも恣意的なものにならざるを得ないはずです。
- >「誰が~した、誰が~思った」というだけでは…。
それがきちんと文書化されており、確認できることであれば記載する価値があると思います。論文や著書ならよくて上のようなものが不適格だという基準の根拠が分かりません。
どのような形態でなされたどのような言動に価値があるのか、という客観的な判断基準が無く、また各人によってその基準が違うからこそ(現に私とあなたの基準がちがっています)編集方針に上に挙げた「何をするにせよ、情報は保存するよう努めて下さい。」という文章があるのでしょう。やはり該当の文章は残すべきです。
- 熊田一雄氏に関して
関係者による投稿を疑っておられるようですが、それはするべきではないでしょう。熊田氏周辺の記事ばかり投稿しているからといって、それが関係者であるのか、熊田氏の著作に感銘をうけた一般人なのか我々には判断できません(同じことをすれば、アフタヌーンとモーニングの作家記事ばかり編集している私は講談社の回し者ということになってしまいます)。「どのような動機でなされた文章か」ではなく「なされた文章が妥当なものであるかどうか」のみを判断すべきで、前者のやり方をすれば個人攻撃に繋がりかねません。
私自身は熊田一雄という人物をよく知りませんし、もしかしたらいわゆるトンデモ学者なのかもしれません。また個人的には熊田氏の「資本主義社会における・・・」という評は「ちょっとどうかな・・・」と思っています。ですが熊田氏の評(著作)が「充分に世間一般(学会での評価でもかまいません)からの精錬を受けたとは思えません」というあなたの判断は明らかに行き過ぎです。ある著作が十分な評価を受けたかどうかの客観的な基準が存在しない以上、その著作が有意義なものであるかどうかを判断するのは閲覧者であり、我々編集者ではありません。全く判断力の無い閲覧者を想定して、価値のある情報と価値の低い情報を我々の側で選り分けなければならないと考えているなら、それは閲覧者にとって失礼でしょう。
熊田氏の著作を宣伝と判断して除去されたようですが、これも『寄生獣』に関する論考が収録されているのなら復帰するべきです。ここは『寄生獣』の公式ページでも紹介ページでもないのですから、著作のレベルが低いとかトンデモ本であるとか人口に膾炙していないという理由で除去するべきではありません。正規のルートできちんと出版されている書籍であるなら記載される資格があります。稚拙(かどうかは読んでないので分かりませんが、仮に)な著作や評が関連情報として記載されることに抵抗を感じるのは私にも良く分かりますが(大幅に手を加え整えた記事に「何でそんな余計なものを加える?」と思わざるを得ないような投稿をされた経験は私にもあります)、我々の判断で価値無価値を判断しあらかじめ情報を除去してしまっては、そのような情報があることを知らされない閲覧者は価値無価値の判断をする機会をも持てないということになります。それは事典として健全なあり方ではないでしょう。--Metronome 2007年2月19日 (月) 19:44 (UTC)(長文失礼)
- 熊田一雄です。私の著書は学術論文集であり、うち丸一章を「寄生獣」の社会学的分析に割いています。しかし、自己宣伝と思われるのが嫌なので、私に関わる記述の削除を希望します。2007年2月28日(水)--—以上の署名の無いコメントは、219.97.128.166(会話・履歴)氏によるものです。Metronomeによる署名補填
- こんにちは。まず仮にとはいえトンデモ学者扱いしてしまったことをお詫びします。上の提案(もう実行されてしまってますが)について、現時点では貴方が熊田氏本人であるかどうか確認できませんし、「本人が言っているから」との理由で記述の追加や除去はするべきでないと思われます(「なりすまし」の可能性もありますし)。ただ今回は、当該の記述が記事全体からすれば比較的些末なものである点、また熊田氏が「漫画」という分野に限って言えば著名な人物ではない点(たぶんこのために上の方は宣伝を疑われたのだと思いますが)を考え、熊田氏の評は除いておく、ということで同意したいと思います。この点でもし記述の復帰を希望する者が出た場合はノートに誘導した上で改めて議論を行うことにしましょう。
ただ、まとまった論考が載っているということであれば熊田氏の著作『“男らしさ”という病?』については「関連書籍」として、現在岩明均の項目に記載されている『生命をめぐる冒険』(佐倉統著)とともに記載するつもりです。こういった論考があるという情報は未知の閲覧者にとって有益だと思いますし、出版という形である意味著者の手を離れたものの情報を著者の一存で消すべきではないとも思われますので、この点は同意を頂きたいと思います。--Metronome 2007年3月1日 (木) 01:32 (UTC)
- こんにちは。まず仮にとはいえトンデモ学者扱いしてしまったことをお詫びします。上の提案(もう実行されてしまってますが)について、現時点では貴方が熊田氏本人であるかどうか確認できませんし、「本人が言っているから」との理由で記述の追加や除去はするべきでないと思われます(「なりすまし」の可能性もありますし)。ただ今回は、当該の記述が記事全体からすれば比較的些末なものである点、また熊田氏が「漫画」という分野に限って言えば著名な人物ではない点(たぶんこのために上の方は宣伝を疑われたのだと思いますが)を考え、熊田氏の評は除いておく、ということで同意したいと思います。この点でもし記述の復帰を希望する者が出た場合はノートに誘導した上で改めて議論を行うことにしましょう。
:熊田です。以上の点に同意します。
「 『 ゛地球上の誰か ; 』 とは・・・!? 」について
なんかrevert合戦になりかけですかね?書くべき内容があるのなら項目を作るだけでなく中身もつければいいと思いますよ。でも作者のコメントしてる以外に何も設定が無いならそれ以上誰も知りようがないので作る必要が無いんじゃないかと。--58.81.51.123 2007年10月1日 (月) 09:13 (UTC)
この「 『 ゛地球上の誰か ; 』 とは・・・!? 」に関しては作者のコメント以外にも、その漫画の内容の中で所々に『 ゛その存在; 』を臭わせるセリフや部分があります。例えば・・・
第2巻で田宮良子が人間の脳を奪ったときに「この種を食い殺せ」という命令が来たと言うこと・・・・。
泉新一が身体を貫かれてミギーの細胞で修復した際に体の中に(その細胞)が取り込まれた事により新一が変貌したこと、この(変貌した新一)は『 ゛その誰か ; 』を幻影したものではないだろうか・・・!?
第9巻の山岸二佐による「ヤツらは生物ではない、悪魔が操縦する機械だ」と言う言葉にもその何なり樽ものが伺える。 -- (219.183.98.228 2007年10月8日 (月) 14:48 (UTC))
- Wikipedia:独自研究は載せないをお読みください。--Metronome 2007年10月8日 (月) 16:25 (UTC)
- 横レスで失礼します。“地球上の誰か”の前後にある濁点とセミコロンは一体なんなのでしょうか。大きな口はたたけませんが、まっとうな言葉で編集に参加していただきたいです。--Bqddxyx 2007年10月11日 (木) 17:21 (UTC)
- 関係ない話で失礼します。この物語の見所としてはスタイリッシュな戦闘シーンに加え『寄生獣側』『人間側』そしてその中間者としての新一とミギー、利害が一致しない者同士の高度な知略戦もあるのではないかと思います。ですから「高度な知略戦」という項目を追加することを提案いたします。—以上の署名の無いコメントは、Lucifer092983(会話・履歴)さんが[2007年12月7日 (金) 05:28 (UTC)]に投稿したものです(Kickahaによる付記)。
- 何か具体的に書けるような内容があるなら追加すればいいかと思います。ただ、勢力(?)として直接対立しているような場面はせいぜい市役所の話くらいしか無さそうな気がするんですが。--58.81.51.123 2007年12月7日 (金) 12:23 (UTC)
- Lucifer092983さんは、上に書かれているWikipedia:独自研究は載せないは、お読みになりましたか? その内容ですと、独自研究にならずに書くのは難しそうな気がします。また、記事の右上からリンクされている「プロジェクト - 漫画作品」の所にも、記事の書き方が説明されていますので、参考にしてみてください(例えば「登場人物」は、主要キャラクター程度・詳細な説明は不要とされています)。--Kickaha 2007年12月7日 (金) 13:25 (UTC)
- 何か具体的に書けるような内容があるなら追加すればいいかと思います。ただ、勢力(?)として直接対立しているような場面はせいぜい市役所の話くらいしか無さそうな気がするんですが。--58.81.51.123 2007年12月7日 (金) 12:23 (UTC)
広川の能力について
この編集を差し戻しました。以前にも同じ方の編集を私が差し戻しているので、ノートに書きます。28話「平和な日々」で選挙演説の台上の人数をミギーが数えた時の事を言っているのでしょうが、ここでは後藤を2人以上に数えているというのが普通の解釈で(かなり後に後藤自身が、ひとつに統一出来るようになったのは最近だと語っている)、逆に台上に普通の人間がいた事、広川が普通の人間である可能性を示しており、作品の代表的な伏線としてよく取り上げられる箇所です。広川の特殊能力について作中では全く触れられていませんので、推測・独自研究と言わざるを得ないでしょう。--Kickaha 2008年4月7日 (月) 13:28 (UTC)
平間について
この編集の平間についての部分を差し戻しました。肝心な点は「平間が新一に対し『本当に(特に後藤について)何も知らなかったのか、53人も死ななくて済んだのではないか』と問い詰めた箇所が、現実なのか、それとも新一の見た夢なのかが、不明だという点です。作中の描写では、どこまでが現実で、どこからが新一の見た夢なのか不明瞭です(もちろん明瞭に示されている、というのであれば、ソースを示して下さい)--Space123 2011年7月3日 (日) 01:59 (UTC)
- Space123さんの意図が理解できたのでそのように加筆修正しました。--チンドレ・マンドレ 2011年7月3日 (日) 05:41 (UTC)
”言葉を濁さない”との事ですが
>爆発で寄生部分が吹き飛んだため、この時点では人間側に情報は渡らなかった。 というのは実際のところ原作に渡ったとも渡ってないとも書かれてるわけではないので、”と思われる”という付け足しがよくないのであれば元から書かれるべきでない一文と思いますが、いかがでしょうか。 「収集された皮膚片に妙な形の物を発見、調査の結果既知の生物の物とは合致しなかったが発表はされなかった」などといった想像も十分に出来る範囲かと。--111.234.184.85 2014年8月15日 (金) 06:26 (UTC)
- 基本、確定事項でないものは除去したほうがいいですね。執筆者の「想像」も裏付けがないのであれば書かないほうが無難です。ガイドラインWikipedia:スタイルマニュアル (フィクション関連)#物語世界内の観点に立った記述の問題点には「ウィキペディアの記事ではこのような方法を採用するべきではありません。物語世界内の観点は不正確で誤解を招きやすく、検証不可能な独自研究を招き入れます。」→「物語に矛盾があったり連続性が絶たれている箇所があるときに、それをそのまま伝えずに想像で補ってしまうこと。」とあり、Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクション関連)#結論には「個人の見解・記事主題に対する解釈・一次情報源は、未出版であったり広く公表されていないものは使用できません。独自研究を避けてください。」とあります。--チンドレ・マンドレ(会話) 2014年8月15日 (金) 09:38 (UTC)
- せいぜい「この時点では人間側に情報が渡ったかどうかは不明。」と書ける位です。不要といえば不要ですね。--チンドレ・マンドレ(会話) 2014年8月15日 (金) 09:44 (UTC)
- 読み飛ばしているかもしれませんが、コミックスの4巻に島田の解剖・分析の指揮をとった由井が「その生命構造、特性を知る上では願ってもないサンプルでした」と言っていますが、では「Aの死体は回収されていた」かどうなのかは断定出来ませんね。--チンドレ・マンドレ(会話) 2014年8月15日 (金) 10:28 (UTC)
- 今更ですが「犬」や「名前不明の人に寄生したパラサイト」にも同じ事が言えてしまいますね(本編では死体の後処理については何も言及されていません)。--チンドレ・マンドレ(会話) 2014年11月16日 (日) 15:19 (UTC)
- コメント ウィキペディアでは、分からないことを類推で補うような独自研究は記事本文に書くべきではなく、捻らずに読み取れる情報のみを書くしかないでしょう。ですがまあ、可能性を類推するだけなら色々推察できると思います。
- 由井の台詞にはその後に「死体と言えどこれを手に入れた」とも言っているので、「A」のように爆破されて焼かれたわけではないイヌや、名前の分からない第1巻表紙のパラサイトなどは、少なくともちゃんとした形では死体を回収されていなかったと読み取れます。一方で「島田秀雄」の事件の際、由井はその正体を寄生生物だと悟り、警察に生け捕りを要求している描写があるので、存在自体はそれ以前から掴んでいたことが明示されています。「A」の一件で何らかの情報を得ていたという解釈も不可能ではないでしょう。ただ、主人公が直接関わった以外の、物語中で触れられていない事件で一悶着あったという裏設定があるという解釈も可能なので、「A」の一件で何らかの情報が渡ったのだと断じるのもまた早計です。
- ちなみに舞台を21世紀に変更しているテレビアニメ版『セイの格率』では、学校の防犯カメラの映像に「A」の頭が変形する様子が一瞬だけ映る描写があります。原作の舞台となる1990年代にも、フィルムカメラや磁気テープに録画するビデオカメラはあったのですから、劇中の社会で公表されなかった何らかの記録が残った可能性はあります。でも「A」に関しては田宮先生が証拠隠滅しちゃったんじゃないかなぁとも予想できます。いずれにせよ結局のところこの件では想像の余地が大きすぎて、劇中の描写から「これだけは独自研究に頼らず確実に読み取れる」範囲はそう多くなさそうに思えます。--Kanohara(会話) 2014年11月16日 (日) 17:06 (UTC)
- 今更ですが「犬」や「名前不明の人に寄生したパラサイト」にも同じ事が言えてしまいますね(本編では死体の後処理については何も言及されていません)。--チンドレ・マンドレ(会話) 2014年11月16日 (日) 15:19 (UTC)
- 読み飛ばしているかもしれませんが、コミックスの4巻に島田の解剖・分析の指揮をとった由井が「その生命構造、特性を知る上では願ってもないサンプルでした」と言っていますが、では「Aの死体は回収されていた」かどうなのかは断定出来ませんね。--チンドレ・マンドレ(会話) 2014年8月15日 (金) 10:28 (UTC)
- せいぜい「この時点では人間側に情報が渡ったかどうかは不明。」と書ける位です。不要といえば不要ですね。--チンドレ・マンドレ(会話) 2014年8月15日 (金) 09:44 (UTC)
- コメント その後問題の記述は「島田秀雄」の解説へと移動されていますが、現在でも「推察され」「伺える」などとする、言葉を濁した記述となっています。更に「島田秀雄」の解説として「作中では日本における初めてのパラサイトのサンプルと語られている」とする記述がありますが、原作の第25話前後を参照しても、そのよう語られている台詞を発見できませんでした。私が見落としているだけかも知れないので、{{要ページ番号}}や{{出典無効}}をつけましたが、ウィキペディアの編集者が、「願ってもいないサンプル」という台詞の意味を、独自研究でそのように解釈しただけではないかとも思っています。
- なお、アフタヌーンKC版第7巻p.175(第44話)には、「たしかにいくつかのサンプルも手に入り、「ヤツら」のパワーその他の能力についてもかなりの部分が解明された……」という平間の台詞があります。この時点で、人間側に遺体が渡ったことが明白に描写されているのは、(1)「島田秀雄」と(2)加奈を殺害したパラサイトの2体だけで、(3)倉森が同行しているときに新一とミギーに倒されたパラサイトの遺体は広川集団に回収されたことが語られており、(4)「三木」と(5)「後藤」は生還しています。仮にサンプルが2体だけだとすると「いくつかのサンプル」という表現はやや不自然で、劇中で描写されている以外にも人間に倒されたパラサイトがいるか、あるいは「島田秀雄」以前に新一とミギーに倒されたパラサイトのサンプルが人間側に渡っているとも解釈可能です。「いくつか」=2体と解釈することも決して不自然ではありませんが、どちらとも受け取れる表現を元に断定するのは危うく感じます。
- 結局のところ、別に最初のサンプルなのかそうでないのかという点に拘らなくても、劇中の表現通り「パラサイトの生命構造や特性を知るための重要なサンプル」と書けば事足りると思いますし、いや「島田秀雄」の劇中での役割を説明するためにどうしても「初めて」に拘るべきだというのなら、「劇中において遺体が人間側に渡ったことが初めて描写されている」といった表現にすればよいと思います。どうでしょうか?--Kanohara(会話) 2015年1月11日 (日) 12:12 (UTC)
あらすじが長すぎで、分かりづらい
このあらすじは、なんとかならないでしょうか? 以前の短いままのほうが、まだ内容を理解できます。同じ内容を書くにしても、半分程度の分量に、大幅に削除していくべきだと思います。--116.89.199.66 2014年11月16日 (日) 13:19 (UTC)
- 返信 (116.89.199.66さん宛) あらすじに加筆した者です。以前の短いあらすじは全10巻中の第2巻までの内容しか書かれていないため、全体の内容を把握できる内容になっておらず、{{不十分なあらすじ}}のテンプレートが貼られた状態でした。ウィキペディアでは現状、物語のプロローグのみを記した短いあらすじの記事が多いのですが、こうしたあらすじは宣伝的であり百科事典的ではなく、結末までの内容が把握できるような内容に修正すべきだというのがテンプレートの趣旨です。ウィキペディアにおけるあらすじの書き方のガイドラインである「Wikipedia:あらすじの書き方」には、長すぎるのも良くないけれど、物語の肝心な部分を伏せるべきではなく、作品の中の重要で特徴的な過程がわかるように説明すべきだという趣旨のことが書かれています。
- 私としてもできればもう少し短くまとめたかったのですが、本作は記事中に書かれているようにテーマ性が評価された作品でもあるので、劇中で提示されているドラマを拾うように心がけたところ、うまく短くまとまらなかったというのが正直なところです。一応、宇田や加奈や倉森といった重要な登場人物のエピソードをざっくり省いているのですが、それでも長めです。もちろん短くしようと思えば、
- 新一は母親を乗っ取ったパラサイトに殺されるが蘇生して復讐を遂げる。田村玲子は新一に興味を持って色々調べるが色々あって死ぬ。地球環境の益になると考えてパラサイトを支援していた広川市長は突入してきた自衛隊に射殺される。新一は広川の仲間であった後藤に狙われてピンチになるが色々あって返り討ちにする。新一は物語の最後に浦上という人間の殺人鬼に襲われるが退ける。おわり。
- といった文章にもできるでしょうけれど、田村玲子のエピソードは物語全体において主要な位置を占めているし、広川と後藤のエピソードは著者もあとがきで色々触れているものでありますし、浦上のエピソードも物語の結論に当たる部分なので、省略してしまうと「作品の中の重要で特徴的な過程」が分からず、具合が良くありません。内容を保持したままで、切り詰められるところを切り詰めるよい文案があるというのであれば、内容によっては賛成しますけれど、以前のあらすじのように、序盤の展開の紹介に絞って内容をバッサリとカットしてしまうような内容であれば反対です。--Kanohara(会話) 2014年11月16日 (日) 14:31 (UTC)
- コメント長さに関しては特に問題あるとは思いません。可読性に難ありという話であれば、節を設けてはみてはいいのではないでしょうか。その場合「1巻」「2巻」と区切るよりも、「母親の死」「後藤との対決」とかで区切ったほうがいいですかね。--チンドレ・マンドレ(会話) 2014年11月16日 (日) 14:55 (UTC)
- 返信 (チンドレ・マンドレさん宛) うーん、タイトルを付けてセクションを分けることは、私も真っ先に考えていたのですが、しっくり来なかったのでやめた経緯があります。なお展開で分ける場合、中盤には島田秀雄編、加奈編、倉森編……とも言える区切りのエピソードがあると思うのですが、現状のあらすじでは「幾度となくパラサイトと戦うこととなる」という文章でざっくり省略してしまっています。これ以上長くするのも難ですし迷うところです。何かよい案はないですかね。--Kanohara(会話) 2014年11月16日 (日) 15:19 (UTC)
- コメント長さに関しては特に問題あるとは思いません。可読性に難ありという話であれば、節を設けてはみてはいいのではないでしょうか。その場合「1巻」「2巻」と区切るよりも、「母親の死」「後藤との対決」とかで区切ったほうがいいですかね。--チンドレ・マンドレ(会話) 2014年11月16日 (日) 14:55 (UTC)
- コメント 私も「無駄に」長いとは思いませんでした。ただ「複数のパラサイトを敵に回しても作戦で圧倒する狡猾さをもった「田村玲子」だが」の部分は削っても良いかなとは思いました。それと逆に「物語を締め括る総括があり、そこで物語は幕を下ろす」の部分は、共生というテーマに関わる部分なのでもっと丁寧に書いたほうがいいのかなとも思いました。手元に実物が無いもので、口を出すだけになってしまい申し訳ないのですが、そのように感じました。内容には関係ありませんが真実や安全などの無用な内部リンクがあることは気になりました。--にょきにょき(会話) 2014年11月16日 (日) 15:30 (UTC)
- 返信 (にょきにょきさん宛) 田村玲子は単に草野らに追い立てられて広川グループを逃げ出したのではなく、きっちり草野を返り討ちにしているので、その辺のニュアンスが正確になるように書くのに悩んであのような表現になりました。それと最後の締め括り云々については私も本当は色々盛り込みたかったし、テレビアニメ版『セイの格率』主題歌の歌詞中にも引用されている「寄生=寄り添い生きる」という部分などにも触れたかったのですが、最終2話で語られている総括には寄生と共生、広川や浦上が掲げた主張への反論、他人への共感とはどういうことか、といった複雑な内容を含んでいるので、独自研究にならない範囲で「これが結論だ」と短くまとめるのは無理だと判断しました。テーマの解題を試みた批評家による、信頼できる二次情報源などを幾つか集めて、あらすじとは切り離して別のセクションにまとめるのが理想的だと考えていますが、そうした資料の持ち合わせがないので、現状としては劇中でどのような議論が登場人物の間で交わされたのかを簡単に紹介するに留め、興味のある人は原典である作品それ自体を読んで下さい……という書き方にしかできないと考えています。--Kanohara(会話) 2014年11月16日 (日) 17:26 (UTC)
- Kanoharaさん、ご丁寧に返信ありがとうございます。なるほど、確かにラストは下手に書いてしまうと自説の発表になってしまうかもしれませんね。現時点ではハッキリさせないのも大事かと納得いたしました。作品の持つテーマについての解説は大事なところなのに、下手に自分の考えは書けない。んー、何とももどかしいですね。--にょきにょき(会話) 2014年11月17日 (月) 14:18 (UTC)
- 返信 (にょきにょきさん宛) 田村玲子は単に草野らに追い立てられて広川グループを逃げ出したのではなく、きっちり草野を返り討ちにしているので、その辺のニュアンスが正確になるように書くのに悩んであのような表現になりました。それと最後の締め括り云々については私も本当は色々盛り込みたかったし、テレビアニメ版『セイの格率』主題歌の歌詞中にも引用されている「寄生=寄り添い生きる」という部分などにも触れたかったのですが、最終2話で語られている総括には寄生と共生、広川や浦上が掲げた主張への反論、他人への共感とはどういうことか、といった複雑な内容を含んでいるので、独自研究にならない範囲で「これが結論だ」と短くまとめるのは無理だと判断しました。テーマの解題を試みた批評家による、信頼できる二次情報源などを幾つか集めて、あらすじとは切り離して別のセクションにまとめるのが理想的だと考えていますが、そうした資料の持ち合わせがないので、現状としては劇中でどのような議論が登場人物の間で交わされたのかを簡単に紹介するに留め、興味のある人は原典である作品それ自体を読んで下さい……という書き方にしかできないと考えています。--Kanohara(会話) 2014年11月16日 (日) 17:26 (UTC)
- コメント:人物紹介もますます読み辛くなりましたね。なんで冒頭に人間・人間・人間と記入しいちいち読者の目を煩わせるのでしょうか?私がした編集のように人間・パラサイトと大別し、人物紹介順も時系列的な記載をした意義をわかってくれず残念です。konoharaさんの独自の世界に陥っていませんか?
- Kanoharaさん自身に都合にいい編集は、初版から記事を守ってきた者には受け入れられないですね。旧読者のことも考え体裁の伝統は守るべきでしょう。記事には項目ごとに文章の見通しというものがあります。その独善的オナニー編集なんとかならないでしょうか?個人の主観も多く、あらすじを含め明瞭シンプルの逆を行く編集にうんざりです。寄生獣ページの意味は寄生獣を読み込んだ経験者が、調べ者をする初心者によりやさしくよりわかりやすく明瞭に編集すべきで、読み込んだKanoharaさんとその他私らで内容はその通りだ満足だ満足だではいけないと思います。元のスタイルに戻しても、入れ込んでいるだけにKanoharaさんはただちに他人の編集を取り消すなど自分の意見を押し通す傾向が見られます。「節を設けてはみてはいいのではないでしょうか」逆に曲解し可読性難になってしまいました。過ぎたるは及ばざるが如しの典型的な編集例だと思います--153.142.78.112 2014年11月18日 (火) 03:18 (UTC)
- 返信 (153.142.78.112さん宛) ご意見拝見しましたが、153.142.78.112さんには「初版から記事を守ってきた者」としての自負が勝ちすぎて、記事に入れ込み、記事の所有権が自分にあるという意識を抱いているのではないでしょうか。ウィキペディアの記事は誰のものでもありません。「Wikipedia:ページの編集は大胆に」という方針もあります。第一に考えるべきは、「調べ者をする初心者によりやさしくよりわかりやすく明瞭に」という点であって、初版から参加してきた編集者への配慮や、「旧読者」なる存在への配慮なるものは不要かと思います。
- 私は、私が編集に参加する以前の形を「明瞭シンプル」とは思いません。冗長な説明や、トリビアも多いですし(まだ手を付けていないものの、現状でも除去や補足が必要な内容も多いと感じています)、物語全体の構成や、その登場人物がどのように物語に関わるのかという点について読み取るのが困難で、調べ物をする初心者にとってハードルの高い構成になっていたと感じました。人物紹介順も「時系列的な記載」にはなっておらず、人間、パラサイトと往復しながら読まなければならない構造でした。特にミギーやジョーのように主人公に協力的な側の登場人物を、敵キャラクターに混ぜて書くのは、整理のための整理に陥ってはいないでしょうか。それに第1話に登場したイヌのパラサイトや、序盤の登場であった主人公の母親に寄生したパラサイトなどは記事の一番下にありましたので、元々時系列順ではなかったでしょう。記事が小規模であった頃ならそのような構成でも良かったかも知れませんが、ある程度育った記事では不適当に見えます。もちろん記事を最初から見てきた人であれば、どこに何が書かれているのか分かるでしょうし、原作を読み込んでいる人ならこの構成でも不自由はしないと思いますけれど、記事がそうした人たちにとっての自己満足になってはならないと考えます。--Kanohara(会話) 2014年11月18日 (火) 04:53 (UTC)
- この作品を知らない人から言わせていただくと、文章の長さに関してはともかく人物紹介の分け方に関しては現在の方が明らかに見やすいです。153.142.78.112さんの方が逆にスタイルにとらわれていらっしゃるように思われます。--Aquamarin456(会話) 2014年11月18日 (火) 09:56 (UTC)
- スレ主です。あらすじについては、単に「長い」のではなくて、「無駄に長い」のです。無駄な修飾語や言い回し、不必要な伏線の記述などが、理解を阻害しています。百科事典のあらすじなのですから、無駄な記述は最低限に留めて、可能な限りシンプルにするべきです。文章のセンスが悪いので、いったん差し戻して、再記述してもいいレベルかと思われます。現状から削除していくと、かえって改悪になりかねません。
- 書き方次第では、半分程度に圧縮することは可能なはずです。この文章の場合、少なくとも30%程度の削減はしていくべきでしょう。文章は、書けばいいものではありません。--116.89.199.66 2014年11月18日 (火) 09:45 (UTC)
- 他の方の文章を「センスが悪い」とまで批評されるのなら、どういった形がセンスがいいのかを具体的に示して説得されるべきじゃないでしょうか。このノートページか、アカウントを取得されてご自分のサンドボックスに116.89.199.66さんの「センス」で書かれたあらすじを例示されて、コミュニティの合意を得てから加筆されると揉めなくてよいでしょう(Wikipedia:合意形成)。幸い、この話題では比較的多数の方が参加しているようなので、複数の視点から思う存分ジャッジして頂けると思います。--Garakmiu2(会話) 2014年11月18日 (火) 23:16 (UTC)
- 返信 (116.89.199.66さん宛) 本作は設定よりも、テーマ性やドラマチックな展開が評価された作品なので(出典を参照)、「なぜそういう展開になったのか」という因果関係(116.89.199.66さんの言う「伏線」)を含めたストーリーの解説は必要だと考えています。もちろん短く書こうと思えば、2014年11月16日 (日) 14:31 (UTC) の発言で示したようにどれだけでも短くできますけど、必要な情報を盛り込むと、現状程度の文章量になってしまうのはやむを得ないとも考えています。私としても短い方がベターだと思いますし、切り詰められる部分は可能な限り切り詰めて投稿したつもりですが、これ以上は短くできませんでした。
- 「いったん差し戻して再記述」という提案ですが、それには反対です。この記事には2004年11月に投稿された初版から私が編集に参加する2014年11月までの間、結末までの内容を把握できるようなあらすじが記述されておらず、{{不十分なあらすじ}}が貼られた状態でした。10年間に渡って誰も書くことができなかったのですから、「消せば誰かが書いてくれる」というのは幾ら何でも楽観論が過ぎると思います。以前までの記事のように、結末までのあらすじとしてまとまった文章がない状態では、読者は膨大な登場人物と設定の文章をつなぎ合わせてストーリーを理解せねばならず、もっと大量の文章を長々と読む羽目になってしまいます。自分の文章がセンスあるとは思いませんけれど、以前よりはベターな状態にできたとは自負しています。
- Garakmiu2さんが言うように、少なくとも文案を示して頂けなければ、良いとも悪いとも言えません。「自分ならもっと短い文章にできる」と言うだけなら誰にでも言えますが、そう言う人の文章センスが私より良いのか悪いのかは、実例を見なければ判断できません。--Kanohara(会話) 2014年11月19日 (水) 01:08 (UTC)
- 他の方の文章を「センスが悪い」とまで批評されるのなら、どういった形がセンスがいいのかを具体的に示して説得されるべきじゃないでしょうか。このノートページか、アカウントを取得されてご自分のサンドボックスに116.89.199.66さんの「センス」で書かれたあらすじを例示されて、コミュニティの合意を得てから加筆されると揉めなくてよいでしょう(Wikipedia:合意形成)。幸い、この話題では比較的多数の方が参加しているようなので、複数の視点から思う存分ジャッジして頂けると思います。--Garakmiu2(会話) 2014年11月18日 (火) 23:16 (UTC)
ハッピーライフ研究会 『『寄生獣』パラサイト研究報告書(ハッピーライフシリーズ) 』 メディアソフト、2014年、10-11頁。では、「作中で起きた出来事を大まかにおさらしておこう」として、
- パラサイト誕生(第1-4話)
- Aの襲撃(第5-8話)
- 母の異変(第9-16話)
- 島田(第17-25話)
- 加奈(第26-31話)
- 名探偵・倉森(第32-38話)
- 三木と後藤(第39-41話)
- 田村玲子の死(第42-48話)
- 市役所襲撃(第49-56話)
- ミギーとの別れ(第57-最終話)
というように分けていました。参考にならないかもしれませんが、一応報告しておきます。--チンドレ・マンドレ(会話) 2014年11月19日 (水) 11:57 (UTC)
- 返信 (チンドレ・マンドレさん宛) ストーリーの観点から劇中で起きた出来事を時系列順にまとめると、そうなるだろうと思います。プロットの観点から説明する場合、因果とその結果については重点的に説明するとして、A、島田、加奈、倉森、三木や後藤との最初の戦いといった中間過程のエピソードについては、物語全体の中でどのような位置を担ったのかをざっくり説明するに留めた方が良いのではないかと考えました。詳細は登場人物のセクションで説明されていますし。クライマックスの部分はもっと短くまとめられないかと試行錯誤もしてみたのですが、物語の結論の部分でもあり、あとがきでも触れられている部分なので、ざっくりとした説明では誤解を招きそうにも感じられ、私の文章ではやや多めの文章量を使っています。--Kanohara(会話) 2014年11月19日 (水) 12:29 (UTC)
- 更に省略できそうな所を見て圧縮しておきました。--124.44.232.183 2014年11月23日 (日) 03:04 (UTC)
- コメント お疲れ様です。ただ、主語の不明瞭な文や、削りすぎに感じられた部分もあったので、少し推敲させて頂きました。--Kanohara(会話) 2014年11月23日 (日) 04:49 (UTC)
- 更に省略できそうな所を見て圧縮しておきました。--124.44.232.183 2014年11月23日 (日) 03:04 (UTC)
コメント 利用者:Dy0524(会話 / 投稿記録)さんによって、物語前半部の内容に関して長大な加筆が行われましたが、いくらなんでも冗長で、読者の興味を煽ろうとする思わせぶりな文体や、枝葉の内容が多く見受けられ、「Wikipedia:あらすじの書き方」に反した編集のように感じられます。これだけの加筆は大変だったのだろうとは思いますが、Dy0524さんの編集にはあらすじ以外にも「〔アニメ版の里美は〕第一話でミギーに寄生された新一に痴漢紛いの行為をされた時点では面識はなく」などといった誤った記述が見受けられ(アニメ版では最初から面識があるように描写されていますし、原作でミギーに気安く触られるのは里美ではありません)、申し訳ないと思いつつも全て差し戻しさせて頂きました。--Kanohara(会話) 2014年11月26日 (水) 19:18 (UTC)
コメント その後停滞気味ですが、少々まとめます。議論が提案されてからしばらく経ちますが、その後具体的な文案の提示はありません。124.44.232.183さんの編集を経て多少短くなったものの、116.89.199.66さんが主張した半分、あるいは30パーセント削減という目標には達していません。
さて、その116.89.199.66さんと153.142.78.112さんは、このノートを一見すると「以前のようにあらすじは最低限にして、登場人物のセクションでストーリーを説明していた状態に戻すべき」という意見で一致しているように見えます。ですが2人は以前から登場人物の記述順序を巡り、「自分の方が見やすい」として編集合戦を繰り返しており[2][3][4][5]、実際のところは万人が納得するような「見やすい記事」のビジョンを、意見の賛同者にすら示すことができていませんでした。また、そもそも登場人物のセクションでストーリーを説明するのは「Wikipedia:あらすじの書き方#登場人物節との関係」にあるように、ウィキペディアにおけるあらすじのガイドラインに反しています。
私としては、多少長文になったとしてもガイドラインに沿って、あらすじのセクションでストーリー全体の内容を説明してから登場人物のセクションの説明に移る、といった書式の方が、登場人物の記述順序にこだわらずに済むのではないかと思います。以前に述べたように、目先のあらすじの短さにこだわった結果、記事全文を読まなければ「この作品がどのような話なのか」を理解できないような記事構成では本末転倒で、社会的反響や批評家の評価、メディアミックス展開について説明する上でも支障があるでしょう。私は、現状程度の長さで過不足ないと考えます。--Kanohara(会話) 2014年11月29日 (土) 08:02 (UTC) リンクミス修正。--Kanohara(会話) 2014年12月2日 (火) 10:15 (UTC)
- 特別:投稿記録/153.142.78.112と特別:投稿記録/116.89.199.66は、編集傾向から見て、無期限ブロックされているきのえもん(会話 / 投稿記録 / 記録)=ブルーノ・(会話 / 投稿記録 / 記録)=アルバーノ(会話 / 投稿記録 / 記録)=アファーレ(会話 / 投稿記録 / 記録)=エクスペリア(会話 / 投稿記録 / 記録)のブロック逃れでしょうから、意見が一致しているのではなく、同一人物でしょう。--Tasetebills(会話) 2014年12月2日 (火) 09:52 (UTC)
- 返信 (Tasetebillsさん宛) うーん、編集合戦が自作自演であるようには見えませんし、その辺の事情は分かりかねます。仮にブロック逃れだと判断されれば然るべき対応があることでしょう。--Kanohara(会話) 2014年12月2日 (火) 10:15 (UTC)
- お疲れ様です。なるほどこの2つのIPアドレスの間では共通項はないのですね。ブロックユーザーとの同一性もないのでしょうか?--Tasetebills(会話) 2014年12月2日 (火) 12:36 (UTC)
- 確証(編集傾向が酷似しているとか)があるのならWikipedia:管理者伝言板/投稿ブロック/ソックパペットで報告といった感じですかね。--チンドレ・マンドレ(会話) 2014年12月2日 (火) 12:46 (UTC)
- お返事ありがとうございます。そちらの方は別途報告済みです。お気遣いありがとうございます。--Tasetebills(会話) 2014年12月2日 (火) 12:50 (UTC)
- 確証(編集傾向が酷似しているとか)があるのならWikipedia:管理者伝言板/投稿ブロック/ソックパペットで報告といった感じですかね。--チンドレ・マンドレ(会話) 2014年12月2日 (火) 12:46 (UTC)
- 編集履歴はともかくとして、他の方々や文章に対しこうもあからさまに侮蔑するようなコメントを書くIPの方が、同じ場にほぼ同時に登場するものなのだろうか?という違和感は個人的にあります。それはそうと、完結済みの物語であるからには、現状のものである程度の完成型が出来ているのでしたら合意形成を図って良いと思いますよ。他に具体的な文案の提示もないようですし。--CHELSEA ROSE(会話) 2014年12月2日 (火) 17:42 (UTC)
登場人物「A」の記述について
登場人物の一人であるパラサイト「A」の解説文における、田宮良子に子供を妊娠させたという旨の記述について、IP:223.135.188.164(会話 / 投稿記録)さんから記事内のコメントアウトという形で「田宮項で記述済みであり、再びの記述は過剰だと思います。作中でもA自身がこのことに触れておらず、Aにとっても、さしたる重要事項と思えず・・・記載にこだわる理由がわからない」という指摘を頂いたので、編集合戦に陥る前に意図を説明しておきます。
まず「A」の説明ですが、単に新一とミギーに警戒心を抱いて学校を襲撃したと言うだけの解説文では、記事の読者からは物語上さしたる重要でないキャラクターのように見えてしまいます。そもそも、ただ登場して主人公に敗北しただけで、物語全体に影響を及ぼしたわけではない怪人であるなら、「プロジェクト:漫画/過剰な内容の整理」の方針に従って記事から除去してしまうべきです(そういう意味では、原作第2話に登場したパラサイト犬や、原作第3話に登場した名前不詳のパラサイトも、あまり重要でない登場人物と言えそうです)。ですが「A」は、劇中において数話のみの登場ながらもそれなりに大きく扱われた登場人物であり、実写映画版でも前編における最大の宿敵のように描かれています。そして、登場人物としての存在意義として何が大きかったかと思い返してみれば、田宮良子の子の父親としてその後も物語に影響を与えていくことであると考えました。私は、この記述がなければ、「A」は物語上においてなぜ重要なのかを説明できないと考えます。
一方、「プロジェクト:漫画/過剰な内容の整理#解決方法」には「Aというキャラクターの説明を書く時、「AはBの勧めでサッカーを始め、B、C、らと共に上達していく」という文章は、「(サッカーを勧めたのが)Bである」ということそのものが後々のストーリー展開に大きな影響を与える場合以外は、「Aは友人の勧めでサッカーを始め、仲間たちと共に上達していく」というように修正してください」という文があります。翻って田宮良子/田村玲子というキャラクターの説明を書く場合、劇中において田村玲子は自分が出産した赤ん坊が誰の間にできた子供であったかについて大して意識している描写がないので、「A」の子供であること自体は後々のストーリー展開に影響を与えておらず、田宮良子/田村玲子のキャラクター解説として記載するほどの情報ではないとも言えます。ですので、重複する記述が気になるというのでしたら、除去すべきは「A」の項で赤ちゃんに触れている内容よりも、田宮良子/田村玲子の項で「A」に触れている箇所であろうと考えました。
どうでしょうか?--Kanohara(会話) 2014年12月11日 (木) 19:24 (UTC)
登場人物紹介が長すぎで、分かりづらい
- コメント ここの登場人物紹介は、なんとかならないでしょうか?Kanoharaさんが編集に携わって以来、冗長でありどうでもいい内容と主観がかなり加筆されました。以前の短いままのほうが、まだ内容をすばやく理解できます。同じ内容を書くにしても、半分程度の分量に、いやせめて文章量3割くらいは推敲して吟味して減らせると思います。ざっくりとした説明では誤解を招くかもしれませんが、短文ゆえ誤解した他の編集者の編集があってから加筆しても遅くないと思います。ほとんど最近はKanoharaさんの独断場であり、調べ物をする初心者にとってハードルの高い構成になることぐらいわかっているくせに、だらだらと加筆が続いています。かなり入れ込んでいるようで自分の世界観に浸る。出典を見つけるたびに嬉しく舞い上がって加筆してしまう満足感。それゆえ前項のような指摘も受けちゃっていると思っています。
- Kanoharaさんの批判をしましたが、文才はおありのようで、無駄に長い「あらすじ」についてはだいぶ指摘を受けてそれなりに圧縮・努力した成果を評価します。登場人物紹介もその力量を出せないですかね?せっかく加筆した自分の文章を減量するのは屈辱かと思います。しかしKanoharaさんもわかっているはずでしょ?wikipediaの本質とはなんぞや?百科事典とはなんぞや?初心者が手軽に調べられて、明瞭に理解できる簡潔な内容にすべきであることを。--210.173.154.82 2014年12月16日 (火) 11:25 (UTC)
- 返信 (210.173.154.82さん宛) 私は原作の登場人物紹介のセクションに関しては、記述順序を入れ替えたり、独自研究に陥らないよう一部の記述に出典を明示したものの、内容についてはほとんどノータッチですので、なにもかも私のせいだと考えておられるのなら真っ赤な濡れ衣です。ですが、私が編集に参加する以前の内容[6]は正直、バトルの場面に関してのみプロレスの実況中継のように詳しかったり、かと思えば肝心の、その登場人物が物語にどう関わってくるのかとか、原作者の意図や批評家による分析といった百科事典的な説明がおざなりだったりして「以前の短いままのほうが、まだ内容をすばやく理解できます」というのは同意しかねます。今もひどい有様だと思いますが。私がノータッチなのは単に大がかりな編集を行う時間がないからなのですが、もっと内容を吟味して減らすべきだというのは全面的に同意します。特にパラサイト側の主要登場人物に関しては、もっと記述を減らせるでしょう。原作者も「プロットありきで登場人物を作った」旨をあとがきで説明しているのですから、ストーリーの中で果たす役目については肝心としても、「パンチによる一撃で顎部を砕かれた」といったディティールの部分はもっと簡略化して良いはずです。
- テレビアニメ版の登場人物、および実写映画版の登場人物に関しては、現在のように原作と分けて書くのがよいと思っています。これが原作の進行と同時に早い段階からメディアミックス化が進行して、アニメ版やドラマ版の描写が原作へとフィードバックされているような作品であれば、また違った書き方になるでしょう。ですが、これらは原作の完結から評価が固まり20年も経ってから映像化されたものですから、そのような原作へのフィードバックはあり得ません。『ロミオとジュリエット』の作品解説に『ロミオ×ジュリエット』の設定を書き込むような編集は、有益ではないでしょう。ただテレビアニメ版に関しては、「原作通りと書けばウソになるし、触れなければ記事との整合性が取れないけれど、敢えて違いを挙げようとしても大して書くことがない」という微妙な変更内容なので、どのように書くべきか悩ましいところです。現在の段階で「原作は新一の高校3年間を舞台にしているけれど、アニメ版はひと冬の出来事を描いている」などと書くと独自研究になってしまうので自重していますが、テレビアニメの放送終了後にその辺りの整理が必要だと考えています。--Kanohara(会話) 2014年12月16日 (火) 12:57 (UTC)
- 上の節でも言いましたけど、批判するからにはその方は自分が編集したらこのように改良される、というのを例示して頂くといいかと思います。
- 話は変わりますが、見やすさ、ということなら、この記事のアニメ・映画の部分はそろそろ分割してもいいのかもしれません。しっかり出典も付けていただいたし、それぞれの作品としての独立性は分かるようになってます。本体である漫画も、もともと哲学者に称賛されるなどの評価がしっかり書かれているので分割して内容が貧しくなることもありません。--Garakmiu2(会話) 2014年12月16日 (火) 13:11 (UTC)
- (コメント)横入り失礼。ですから、瑣末な内容や、余計な表現や修飾語などが多すぎるんですよ。だから他人から見ると、分かりづらくなるのです。重要と思われることのみに絞り、要点のみを書けばいいんですよ。Wikipediaには百科事典ですから、枝葉は必要なく、可能な限りシンプルでいいのです。それが理解できないなら、編集に参加するべきではありません。
- どうもKanoharaさんは、指摘されても反発や言い訳ばかりですよね。あなたのコメントを見るだけでも、余計な内容ばかりで非常に分かりづらいのが、よく分かります。--119.148.214.110 2014年12月20日 (土) 11:21 (UTC)
- で?具体例を示す気は結局無いんですか?--Garakmiu2(会話) 2014年12月20日 (土) 12:16 (UTC)
- コメント自体が「具体例」って言ってるでしょ。--119.148.214.110 2014年12月22日 (月) 14:05 (UTC)
- 具体例の示し方をご存じないようなので説明します。記事そのものを編集された結果を例として挙げられる場合はその編集差分を示す(こういった[7]リンクを挿入する)、ノートページに示される場合はWP:COPYWITHINに従って帰属表示を付けて項目からコピーをし、その改変の具体例を下に並べ何がどのように修正されたのか分かるようにすることです。他の人はその具体例を見て、IPさんの言い分がもっともかそうでないかを判断するでしょう。それと上でも言いましたけど、アカウントを取得して説明責任を果たされる気はないんでしょうか。方針として定められているものではないので強制はできませんが、雑草取り以上のことをして議論にも噛んでやろうと考えるならアカウントを取るのは最低限の責任だと思います。--Garakmiu2(会話) 2014年12月22日 (月) 14:45 (UTC)
- コメント自体が「具体例」って言ってるでしょ。--119.148.214.110 2014年12月22日 (月) 14:05 (UTC)
- で?具体例を示す気は結局無いんですか?--Garakmiu2(会話) 2014年12月20日 (土) 12:16 (UTC)
- コメント 同じ内容なら短い方が良いとしても、ウィキペディアでは独自研究に陥らず、また言葉を濁さないような表現を用いて書く必要があることは指摘しておきます。編集者間で解釈が分かれる内容は特にそうです。
- 例えば私が編集に参加してからの内容だと「浦上は死刑囚か未決囚か」という内容について、双方が「死刑囚/未決囚なのは劇中の描写から見て誰が見ても自明」という態度で編集を行いかけましたが、現在は記事を見ての通り「どちらにも受け取れ、断定するだけの根拠がない」という体裁になっています(作者があまり深く考えていなかっただけなのかも知れないし、敢えて曖昧にしたのかも知れません)。これを編集者間の合意で「死刑囚である/未決囚である」という見解に統一してしまえば、あらすじや登場人物節における説明文を大きく簡略化させることができるでしょうけれど、それはウィキペディアではやってはいけないことです。反発とか言い訳以前の問題なので、そこはご了承下さい。--Kanohara(会話) 2014年12月22日 (月) 15:11 (UTC)
分割提案
別節で話題にもしましたが、本項目の映画関連部分を寄生獣 (映画)に分割することを提案します。漫画部分、映画部分とも出典が充分あり、与えた影響に関する説明もあるため、分割してもスタブになる心配はありません。映画に関しては今後第2部も公開されるため、さらに記述が増える見込みであり、20万バイトを超える記事の見づらさの解消のためにも分割が必要であると思われます。反対意見のない場合は1週間後に分割します。--Garakmiu2(会話) 2014年12月20日 (土) 15:16 (UTC)
- 反対 はじめまして、赤羽さんです。さて、本題ですが私は現時点では反対です。記事を分割するにはまだ時期尚早だと思います。私個人の見解ですが、確かに映画の項で内容は多いなあとは思いましたが、特に見づらいとは思いませんでしたし、分割する程に情報量が多いとも思いませんでした。でも、第二部が公開され、その際に新たな記述や出典の掲示により本記事全体の容量が増加し、今以上に見辛くなってきたら様子を見て分割すればいいと思います。--赤羽さん(会話) 2014年12月23日 (火) 11:49 (UTC)
- 賛成 分割に賛成します。ガイドラインWikipedia:ページの分割と統合#分割の検討の「ページの分量が肥大化したため、読者にとって全体の見通しが悪く不便な場合」に該当すると思います。また長いページにも掲載されているので分割は妥当だと思います。--チンドレ・マンドレ(会話) 2014年12月23日 (火) 12:39 (UTC)
コメント この分割に関しては、現時点で二次資料からの有意な言及による「映画作品」としての特筆性が充分に示されている、ということも提案の理由です。分量に対する主観のみでの判断でしたらもう一度お考え直し下さい。また分量だけの話をしても、現在の映画部分の記述はおおよそ31000バイト程度あり、一般的な映画記事1本分の容量にすでに達しています。それに加えて、今後の第2部公開で容量が必ず増える見込みであるのなら現時点で分割しその上で記述していく方が記事にとって現実的でありプラスになります。--Garakmiu2(会話) 2014年12月23日 (火) 15:49 (UTC)
コメント 分割には賛成でも反対でもありません。ただ、現在の記事構成は、2014年になって急に映像化が相次いだ経緯を映画版のセクションに記述していたり、映画版やアニメ版のストーリー内容についても原作のセクションを読んでいることを前提とした内容になっていたりします。分割のガイドライン通り、双方の記事を行き来しなくても、内容を理解できる記述に書き改める必要はあると感じます。--Kanohara(会話) 2014年12月23日 (火) 23:21 (UTC)
コメント 確かに私の先ほどの発言は主観が入っておりましたが、まだまだ文章力が乏しいので誤解を招きかねないような発言になってしまいましたが、分量に対する主観のみでの発言でない事はご理解願います。Garakmiu2さんやチンドレ・マンドレさんのコメントを受けて再びコメントや、Wikipedia:独立記事作成の目安などを閲覧して参りました。その上で発言しますが、私は記事の分割に必ずしも反対というわけではありません。Garakmiu2さんの提案理由も含めてもやっぱりまだ早いのではないかなと思います。もう一度記事を見直してみましたが、分割の前に記述の改善ができるように見受けられました。確かに映画の項目に関しては容量は多いし、分割の条件は満たしていると思います。そこで提案ですが、概要節を作成するというのは如何でしょうか?これはWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)#「概要」節を作る場合に拠るものです。といっても、単に作って記述を移動させるのではなく、「概要」節を作る場合の記載にある通り、記事の内容や構成を十分に考えた上での項目の新設です。いくつかの記述はそれに移動できるかとは思いますし、早急に分割する事もなく全体の見通しを改善できるのではないかなとも思います。確かに第2部の公開に際して記述は確実に増加すると予想されますが、それはその時に考えればいいのではないでしょうか?楽観的かとは思いますが、現時点では公開日が4月25日であることと一部のキャスト以外あまり情報は出てきてませんし、先ずはその双方の記事を行き来しなくても内容を理解できる記述に書き改める方が先なのではないかと思います。ですので、それを踏まえてからの分割なら私は賛成です。--赤羽さん(会話) 2014年12月24日 (水) 13:36 (UTC)
- コメント すみません。なぜ概要節を作ると分割をしなくていいのかよく分かりません。記事全体の構成が現状まずいのと分割の是非はまた別の問題のような気がするのですが。作品として独立しているから分けてしまったほうがいい、というのが私の提案の背景でもあります。--Garakmiu2(会話) 2014年12月24日 (水) 18:48 (UTC)
- コメントそういう事ではありません。私は記事の分割自体に反対ではありませんが、その前に改善すべき点があるのではないかという事を言いたいのです。概要節云々に関しては記事の構成を見直せばまだ変わるかな?と思っての提案です。これは新設しなくても構いませんが、少なくとも、分割しても分割先の記事まで行かなくてもある程度読者の方々が概要を把握出来るような記事構成にし直すべきかとは思います。記事全体の構成と分割の是非が別問題であってもです。どうでしょうか?--赤羽さん(会話) 2014年12月25日 (木) 15:02 (UTC)
- Garakmiu2さんが仰る通りで「分割」の話と「概要節を設ける」話は、別問題です。概要節を設けたければ、分割後でも別にいいでしょう(分割せずに「概要」を加筆すれば更に記事が長くなります)。長いページも概要節さえ設ければ分割する必要がなくなるということはないです。「概要は不要」という意見が出てこない限りは「概要」の話は、赤羽さんが独自に進めていけばよいと思います。第二部が公開されるまで分割を待つことはないでしょう。--チンドレ・マンドレ(会話) 2014年12月25日 (木) 15:38 (UTC)
- Wikipedia:サマリースタイルにあるとおり、分割後に分割された記事の概要を残すことは推奨されており、当方としては自明のこととして当然そのようにするつもりでおります。赤羽さんの言われるほうの概要節うんぬんについてはそちら様の理念が理解できないし、下手なものを作って非難されるのも嫌なので私は手を出しません。
- 一応、赤羽さんは分割自体に反対でないということなら、本件の分割作業は予定通り実行してもよろしいのでしょうか。ウィキペディアの議論は妙な目に見えない制約も多くて、過去にはほとんどの参加者が賛成している中でたった一人の反対者がゴネ続けたり小姑めいた揚げ足取りを続けてに合意形成がなされていないと主張したり、提案者がやる気を失くしてお流れになる議題をいくつも見ましたので念のため確認しておきます。--Garakmiu2(会話) 2014年12月25日 (木) 16:05 (UTC)
- コメントそういう事ではありません。私は記事の分割自体に反対ではありませんが、その前に改善すべき点があるのではないかという事を言いたいのです。概要節云々に関しては記事の構成を見直せばまだ変わるかな?と思っての提案です。これは新設しなくても構いませんが、少なくとも、分割しても分割先の記事まで行かなくてもある程度読者の方々が概要を把握出来るような記事構成にし直すべきかとは思います。記事全体の構成と分割の是非が別問題であってもです。どうでしょうか?--赤羽さん(会話) 2014年12月25日 (木) 15:02 (UTC)
インデント戻します) ええ、そういう事でしたら。ではGarakmiu2さん、分割作業の方どうぞ宜しくお願い致します。では、私は寄生獣の方の記事を可能な限り編集していくつもりです。もしかしたら、寄生獣 (映画)の方の編集にも参加させてもらうかもしれませんが、その際は何卒宜しくお願い致します。あと私の理念とか何とか仰られたようですが、一応、冒頭部分が長いなあと感じ、改行してからの“謎の寄生生物と〜”の文から“〜(各媒体の詳細はそれぞれの節を参照)。”までの文を概要節に移動できるかなと思ったのに加えて、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)#「概要」節を作る場合に基いた提案であり、理念という訳ではないのですが。。。。。それに関して何かまずい点でもあったでしょうか?これはあくまで提案段階であり、反対意見があったらしないつもりでいます。あと、最後に私の理念はWikipediaの基本的なルールや記事内で決められたルールを逸脱しないように編集するというところですかね。駄文失礼致しました。--赤羽さん(会話) 2014年12月25日 (木) 18:36 (UTC)
- 済 分割を実行しました。
- >赤羽さん
- 理念というのは、秀逸な記事などに選ばれている記事にも導入部が結構長いものがあり、わざわざ分ける必要がないのではと私個人は感じたため、必要性を感じられないといった意味で申しましたが、他の方がガイドラインを理解された上で必要と感じて実行することに対してはとくに反対しません。とりあえず、このような形で分割いたしましたが、双方の記事とも編集へのご協力は歓迎いたします。こちらもいろいろと追求がきつく失礼な点があったかもしれませんが、今後ともよろしくおねがいします。--Garakmiu2(会話) 2014年12月27日 (土) 17:28 (UTC)
後藤は「五頭」か?
登場人物「後藤」の名前の由来について、先月頃に編集合戦気味になりかけた話題なので、一応ノートで意図を説明しておきます。
まずパラサイト・後藤の名前の由来については、劇中に明確な説明はありません。原作全巻を読み直しましたが、そのように説明されている場面はありませんでした。にもかかわらず記事では「後藤の名前の由来は五頭」という趣旨の記述が、私が編集に参加する以前からあり、2014年11月24日の編集で{{独自研究範囲}}を追加しました。一方、それに対して202.229.181.96さんは2014年12月6日の加筆で、「「五頭」→「ごとう」に由来することは劇中内の名前に無頓着の設定から、読者は容易に察せられるとみる」と加筆しました。
ですが劇中のパラサイトたちか自らを「一頭、二頭」と数えることはないので、私はこの解釈に疑問を感じます。それよりは、複数のパラサイトを統べる「五統」という可能性の方がありそうに思えますし、作者は当初、後藤を大自然の代表者的な存在として想定していたそうですから、「God」とのダブルミーミングという可能性もありそうです。実は単に宿主の名前が後藤で、その名前を聞いた田村玲子が実際に五体を宿らせることを思いついた……という解釈はさすがに無理矢理ですが、劇中で「そうでない」とは断定されていないのですから、パロディ同人誌のネタとしてはアリかも知れません。いずれにせよ、幾つかの解釈が可能で、何が正解であるかは想像で補うしかない状況なので、これだと断定するのは独自研究になってしまいます。
そもそもパラサイトたちが名前に無頓着というのはフィクション上の設定であり、現実に名前を決めているのは漫画の作者です。フィクションの設定と現実を混同すべきではありません。実際のところ、当初は「三寄」の意味に誤誘導されていた「三木」のように、(劇中における「三木」の発言とは裏腹に)凝ったネーミングがなされていた例もありますし、作者自身が他の漫画作品と比較していい加減な名前をつけているという事実はないと考えます。主人公の相棒である「ミギー」という名前についても、名は体を表す優れたネーミングだと思いますし、それを安易に思わせないよう、主人公自身にツッコミを入れさせたり、「名前に無頓着」という合理的な設定を与えることで、ストーリー展開上のギミックにしてしまう辺りなどは、よく練られていると思います。
こうした内容を「読者は容易に察せられる」と断定するのは問題があると考え、コメントアウトで対処しましたが、その後「作者はこう言っていた」といった出典の提示もないようです。こうした内容は、本来コメントとしても残すべきではないと思うので、記事から除去させていただきます。コメントアウト部分を記事から除去した202.79.153.234さんの編集は妥当と考えます。--Kanohara(会話) 2015年1月9日 (金) 20:28 (UTC) 既に除去されていたので、発言内容を訂正。--Kanohara(会話) 2015年1月9日 (金) 20:37 (UTC)