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大神氏 (豊後国)

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大神氏
家紋
左三つ巴
本姓 大神朝臣
家祖 大神比義大神良臣
種別 社家武家社家
主な根拠地 豊後国国東郡大野郡直入郡大分郡速見郡日向国高千穂豊前国
著名な人物 大神惟基
緒方惟栄
支流、分家 緒方氏(武家)
賀来氏(武家)
臼杵氏(武家)
小山田氏
小原氏
上野氏
大野氏
戸次氏(武家)
祝氏(社家)
等々39家(武家・社家)
凡例 / Category:日本の氏族

大神氏(おおがし)は、古墳時代から室町時代にかけての豊前国豊後国氏族。家祖は不明だが大神比義大神良臣などが挙げられる。豊後大神氏とも呼ばれる。

概要

大神氏の家祖の祖は、古墳時代の568年(欽明天皇29年)に豊国に入って宇佐神宮前身の鷹居社を建立した大神比義(おおがのひぎ)である。また、大神氏は、宇佐神宮に大宮司禰宜などとして奉仕していたが、摂関政治が始まって劣勢となり、速見郡大神郷に移住したという説や、豊前国大野郡に移住したなどの説がある。また、宇佐神宮での立場を宇佐氏に座を明け渡した結果、天喜元年(1053年)頃に、武士であり家祖の大神惟基が現れたという説もある[1]

ただ事物からすれば、家祖の惟基は、7世紀前半に豊後国豊前国で神社興しや開拓を行っていたことがうかがえる(後述)。

中世期には豊後における有力な在地武士の一族であったが、鎌倉時代には、代官として大友氏初代当主能直の弟である古庄重能が豊後国に下向し守護に任じられたため、大神氏系の一族はこの入国の際に激しく抵抗した。しかし、第3代大友氏当主の頼泰以降は大友氏との養子縁組等により、大友氏の土着化が進み、大神氏の勢力は衰退し、次第に大友氏家臣団に組み込まれた。

その後の戦国時代には、御紋衆の大友氏と国衆(土着)の大神氏庶家との間で、賀来の騒動などの紛争も生じている[注釈 1]

地域

かつて豊後国速見郡大神郷の大神村大神比義館跡大神八幡があり、同郷の深江村浜口には深江城があったとされている[2]大野川及び大分川の流域の大野郡直入郡も本拠地のひとつであったとされている。

建武(1334年 - 1336年)のころに大神仙介が築城した日出城(速見郡日出町)も居城のひとつであったが、この城は1586年の天正の戦で落城したという[3]

家祖について

大神比義説

大神比義が568年(欽明天皇29年)に勅命を受けて豊前国に入り、神社を建立したり祈祷につとめ[4]、その子孫は宇佐神宮の創祀や宮司職に関わっていたとするものである。のちの710年(和銅3年)には勅定を得て宇佐神宮を建立し、その子孫は祝部小山田の2氏を始めとして数百の家に繁栄したという、中野幡能の説。

宇佐郡
大神比義(敬神崇祖)
欽明天皇廿九年應神天皇の神霊八幡大神の御名を顕し奉りて朝廷に奏聞し 神主と成りて常に奉仕し後 復元明天皇和銅三年 鷹居山にて神勅を受け 辛島勝乙目と共に朝廷に奏聞し 勅定を得て 始て八幡大神の宮殿を建て奉仕せり 此即ち大神氏の祖にして 子孫祝部 小山田の両家を始め数百家に繁栄せり
大分県教育会『修身科郷土資料集成』[5]

養老4年(720年)の隼人の乱の逸話に、宇佐八幡に神託を仰いだ朝廷に対し八幡神が「我ゆきて降しおろすべし」と自ら征討に赴いたというものがあるが、このことにも祭司であり武家であった大神氏の関与がありうる。

大神氏は禰宜職、及び後には大宮司職を継ぎ、769年の道鏡事件の頃に宇佐氏と争ったという逸話もある。ただし小山田氏は宇佐神宮を離れていない[注釈 2][注釈 3]

家祖の惟基もまた神社興しを行っている。また、仁聞が創設したとされる六所権現阿南神社、惟基の息子とされる阿南の荘)は、仁聞(人聞)の日本書紀での記録が第11代垂仁天皇紀から第21代雄略天皇紀であるため6世紀の造営である可能性があるが、養老年間の創建とする説もある。

大神良臣説

仁和2年(886年)に豊後介大神良臣(おおみわのよしおみ)が入り、その子庶幾が大野郡領としてとどめられ、さらにその子の惟基(おおが これもと)が豊後大神氏の始祖となったとするものである。

畿内の大神氏側の『大神家系図』によれば、大神吉成(筑後介、従六位下)から九州へ移住しており、また『日本三代実録』(仁和3年3月)によれば、大神良臣(豊後介、従五位下)の官位請求の史実とそれを朝廷が認めたとあり、実在が証明されている。

1975年、大分県地方史研究会『大分縣地方史』第79号(昭和50年10月)は、「左大史外従五位下豊後介貞観四年改賜大神朝臣姓寛平四年三月再任豊後介既満期任當去其職百姓惜慕請留其子庶幾」(大神朝臣良臣の時に農民から懇願され寛平4年(892年)3月に豊後介(豊後守)に再任された)との記述を指摘し、大神良臣が豊後国の国司となり領民から懇願され留まったのは事実であるとした。

大神良臣説をとる儒学者三浦安貞(三浦晋、三浦晋安貞、三浦梅園とも)によれば、家紋は左三つ巴である[6]

系図

著名な人物

続柄不明の大神姓の人物も含め主な人物を挙げる。各庶家の著名な人物は各記事を参考。

大神比義

568年(欽明天皇29年)に宇佐郡馬城嶺に大菩薩として出現した応神天皇の魂を祀るために鷹居八幡神社(宇佐神宮の前身、鷹居社)を建立した。571年(欽明32年)には託宣により誉田天皇広幡八幡麻呂(八幡神)を奉斎した。

子孫に春麻呂、諸男、田麻呂、大神杜女などがおり、大神朝臣を賜った[7]

大神良臣

壬申の乱で活躍した三輪子首の4世孫。 寛平4年(892年)豊後介の任期を終えて帰京する際、百姓が惜しみ慕って良臣の子・庶幾を同国に留めるように請願した。そのため、庶幾は外従六位下・大野郡擬大領に叙任され、子孫は代々郡司を務めたという[8]。庶幾の玄孫に大神惟基がいる[9]

大神邦利

翌長保6年(1004年)3月に宇佐八幡宮、大宮司・大神邦利ら宇佐の神職・神人ら数百名が上京して陽明門前で惟仲の苛政を愁訴する事件が発生する[10]。宇佐神宮側は、大宰府による神宮や宮司への多くの特権侵害、特に惟仲による神宮宝殿の検封を第一に訴えた。これに対して、朝廷では度々陣定が開催され、右衛門権佐・藤原孝忠ら推問使の下向が行われる[11]。一方で、惟仲や妻の藤原繁子が猛運動を試みたり、藤原道長の指示により惟仲の弟の生昌が九州に下向したほか[12]、公卿の中でも権中納言・源俊賢が推問使の派遣に反対するなど、惟仲を養護する動きがあった。結局、宇佐神宮側の訴えは認められ、6月に惟仲の釐務停止が決定、12月には大宰帥を解任(後任として藤原高遠が大弐に任官)されたが、罪には問われず中納言の官職は留任となった。

大神惟基

大神良臣の子・大神庶幾の玄孫とされる[9]

平家物語』や『源平盛衰記』には、惟基は山岳信仰祖母岳大明神のご神体である大蛇と人間の娘との交わりから誕生したという伝説がある。また、その大蛇がいたという洞窟には、白雉2年(651年)に健男霜凝日子神社が建立されている。

養老年間(717年 - 724年)、豊後国に六所権現(現・阿南神社)が建立されている。

また、青井阿蘇神社は、阿蘇神社の神主の尾方権助大神惟基が神託により、806年(大同元年9月9日に阿蘇三社に分祀したものとされている。

また惟基は、812年(弘仁壬辰)に日向国天岩戸神社の再興に関わったとされている[13]

子については男子5人説、男子9人説があり、娘については記録されていない。また三浦安貞の『豊後事蹟考』などによれば、子は男子7人で、庶家は大神氏含め37氏族となった[14][15]

大神道国

元禄元年(877年)、豊後国速見郡内成にはオオヤマツミを祀る神社があったが、比義の後裔であるという大神道国が八幡神を勧請して大神峰神社(おおがみねじんじゃ、別府市内成)を建立した旨が、お江戸時代に作成されたと見られる文書にある[16][17][注釈 4]

緒方惟栄

惟基の5代の孫で緒方氏の祖である緒方惟栄平安末期、源頼朝以仁王の命に応じ平家に対して挙兵したあと(治承・寿永の乱、源平合戦)、養和元年(1181年)に豊後国目代を追放されて源氏につき、元暦元年(1184年)には平家についた宇佐神宮を焼き討ちにしたり葦屋浦の戦いで戦勲を挙げるなど大いに活躍し、従来の支配階級に代わり武士勢力の存在感と支配力を強めた。

大神仙介

建武(1334年 - 1336年)年間に大神氏居城として日出城速見郡日出町)を建造。

鎮西九党

九州有力武士団である鎮西九党の惟住氏や惟任氏もまた大神氏が祖であるとされている。

佐伯惟治

大永年間に、豊後国海部郡(あまべぐん)に在し、大神氏末裔といわれる佐伯氏の居城となる栂牟礼城を築いた。佐伯氏第10代当主。

天正の戦の関係者

1586年の天正の戦(豊薩合戦)では、大神氏庶家の武家とされる大津留氏橋爪氏武宮氏などは大友軍に属し、島津軍から大友氏の城を防衛したと言われている[3]

庶家

光吉氏幸弘氏吉籐氏十時氏由布(油布)氏、三重氏、野津原氏、堅田氏、高野氏、松尾氏、吉藤氏、行弘氏、太田氏、板井氏、釘宮氏、上野氏、早稲田氏などが大神氏族であるという説[要出典]もある。

脚注

注釈
  1. ^ もっとも1568年の一萬田鑑実(大友氏庶家)の伯父高橋鑑種の謀反など、大友氏同士の紛争もあった。
  2. ^ 近年に宇佐神宮隣の屋敷跡地を自治体に寄付しており、大神比義命の祠もその小山田記念公園に祀られている。
  3. ^ 菊池武房を始祖とする肥後甲斐氏が家督争いに敗れ日向高千穂に土着した例がある。
  4. ^ なお、近い時代の神社として神御子美牟須比命神社(みわの みこ みむすひめ じんじゃ、奈良県宇陀郡菟田野町大神、式内社、893年建立)があるが、同神社在所のかつての地名は大和国宇陀郡大神村(おおがみむら)なので、奈良でも「おおみわ」、「おおが」、「おおがみ」の読みの別があったと思われる。[18]
出典
  1. ^ 中野幡能『諸説の多い氏族』(大分放送
  2. ^ 佐藤蔵太郎 1905.
  3. ^ a b 唐橋世済 1803.
  4. ^ 宇佐市『大神比義命』
  5. ^ 大分県教育会 1936.
  6. ^ 日羅の研究 : 「宇佐大神氏進出説」批判(3)』(1984年)。
  7. ^ 中野幡能「大神氏 諸説の多い氏族 」大分放送『大分歴史事典』
  8. ^ 『豊後国誌』
  9. ^ a b さとうたくみ「『緒方家譜』による三輪一族と豊後大神氏」[1]
  10. ^ 『御堂関白記』寛弘元年3月24日条
  11. ^ 『権記』寛弘元年4月28日条
  12. ^ 『小右記』寛弘元年7月1日条
  13. ^ 天岩戸神社
  14. ^ #賀来惟達、p.31.
  15. ^ #唐橋世済
  16. ^ 岡部富久市 2007.
  17. ^ 別府市『別府の文化財 神社縁起』(1988年)。
  18. ^ 国立歴史民俗博物館『旧高旧領取調帳データベース』。
  19. ^ 姓氏家系大辞典. 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130845/145 2022年1月10日閲覧。
  20. ^ 豊後国志 : 附・箋釈豊後風土記 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1181222 47/185(p65) 2022年1月9日閲覧。
  21. ^ 辻の台 武宮城址 (coocan.jp)http://ooitanoyama.in.coocan.jp/sub3663.html 2022年1月9日閲覧。
  22. ^ 姓氏家系大辞典. 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130845/787 2022年1月10日閲覧。

参考文献

  • 國學院大學日本文化研究所、『神道事典』P326、弘文堂

関連項目

外部リンク