コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「北条氏綱」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
野島崎沖 (会話 | 投稿記録)
(10人の利用者による、間の20版が非表示)
1行目: 1行目:
{{基礎情報 武士
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 北条氏綱
| 氏名 = 北条 氏綱
| 画像 = Ujituna_Hojo.jpg
| 画像 = Ujituna_Hojo.jpg
| 画像サイズ = 200px
| 画像サイズ = 200px
26行目: 26行目:
}}
}}
<!--- 「高源院(堀越貞基室)」と「娘(吉良頼康室)」って、同一人物じゃないでしょうか? --->
<!--- 「高源院(堀越貞基室)」と「娘(吉良頼康室)」って、同一人物じゃないでしょうか? --->
'''北条 氏綱'''(ほうじょううじつな)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]、[[相模国|相模]]の[[戦国大名]]である
'''北条 氏綱'''(ほうじょううじつな)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]、[[相模国]]の[[戦国大名]]。[[伊豆国]]・[[相模国]]を平定した[[北条早雲]]の後を継い領国を[[武蔵国|武蔵]]半国、[[下総国|下総]]の一部そして[[駿河国|駿河]]半国にまで拡大させた


なお、当初は伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の[[大永]]3年([[1523年]])頃である。父の[[北条早雲]]生涯、北条氏を称することはなく伊勢盛時或いは伊勢宗瑞と名乗ったが、ここでは北条氏及び北条早雲で統一する。
なお、当初は[[伊勢氏]]を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の[[大永]]3年([[1523年]])頃である。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく伊勢盛時伊勢宗瑞と名乗ったが、氏綱[[後北条氏]]の2代目と数えられる。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 家督相続 ===
=== 家督相続 ===
長享元年(1487年)、伊勢盛時(伊勢宗瑞、北条早雲)の嫡男として生まれる。従来、父早雲は没年88歳とされていたが、これを64歳とする説が唱えられており<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.16-17.</ref>、その説によれば、早雲が32歳の時に氏綱が生まれたことになる。母は盛時の正室で幕府奉公衆[[小笠原政清]]の娘・南陽院殿である。[[幼名]]は伊豆千代丸。氏綱が生まれた年に父・早雲は小鹿範満を討って、甥の龍王丸([[今川氏親]])を[[今川氏|今川家]]の当主に据えており、その功により[[興国寺城]]主となっている。
長享元年(1487年)、[[北条早雲]]の嫡男として生まれる。[[永正]]15年([[1518年]])、父の[[隠居]]により家督を継ぎ、当主となる。ただし、かなり前から実権を譲渡されていたか、もしくは父と二元政治を行なっていた可能性がある。永正16年([[1519年]])に父が死去したため、名実共に北条氏の当主となった。


氏綱の文書上の初見は永正9年(1512年)で早雲の後継者として活動していたことがうかがえ<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],p.56;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.62-63.</ref>、早雲が[[大森氏]]から奪取した[[相模国]][[小田原城]]に在番していたと推定されている<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],p.57;[[#森(2005)|森(2005)]],pp.63-64.</ref>。
従来、父早雲は没年88歳とされていたが、これを64歳とする説が唱えられており、その説によれば、早雲が32歳のときに氏綱が生まれたことになる。


[[永正]]15年([[1518年]])、早雲の[[隠居]]により家督を継ぎ、当主となる。永正16年([[1519年]])に早雲が死去したため、名実共に伊勢(後北条)氏の当主となった。
=== 武蔵・下総侵攻 ===
早雲の時代、北条氏の居城は伊豆の[[韮山城]]であったが、氏綱は居城を相模の[[小田原城]]に移した。この時期に氏綱は姓を伊勢から北条へと改めたと推定される。


=== 北条氏への改称 ===
[[大永]]4年([[1524年]])、氏綱は、[[上杉朝興|扇谷上杉朝興]]が[[上杉憲房|山内上杉憲房]]との和睦のために川越城に在城している隙に[[扇谷上杉氏]]の家臣・[[太田資高]]を寝返らせて[[江戸城]]を攻略する。江戸城を攻略後すぐに追撃を開始して、板橋にて板橋某・市大夫兄弟を討ち取る。同年2月2日に大永2年に当時まで味方であったことが確認できる岩付太田氏が敵対したために[[岩付城]]を攻撃し落城させ太田備中守(太田資頼の兄)を討ち取った。また、毛呂城主の毛呂太郎・岡本将監が北条方に属したため、毛呂~石戸間を手中におさめ敵の松山城~川越城間の遮断に成功する。だが、大永4年6月18日に太田資頼が朝興に帰参してしまった。同年7月20日には、朝興からの要請により武田信虎が武蔵国まで出張り岩付城を攻め落とした。これを背景として、太田資頼は岩付城に復帰することができた。[[享禄]]3年([[1530年]])には嫡男・氏康と共に[[上杉朝興]]と[[多摩川]]河原の小沢原で戦い、これに大勝した([[小沢原の戦い]])。天文6年([[1537年]])には朝興が死去して、若年の[[上杉朝定]]が後を継いだことにつけ込んで侵攻し、[[河越城]]を奪取した。
[[File:Hakonejinja -02.jpg|thumb|250px|left|箱根神社。[[神奈川県]][[足柄下郡]][[箱根町]]。]]
氏綱の家督相続とともに伊勢(後北条)氏は虎の[[印判状]]を用いるようになっている<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],p.56-57;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.64.</ref>。印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を抑止する体制が整えられた<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.66-67;[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.207.</ref>。それまで、守護が直接百姓に文書を発給することはなかったが、印判状の出現により戦国大名による村落・百姓への直接支配が進むようになる<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],p.57;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.67.</ref>。


早雲の時代、伊勢(後北条)氏の居城は伊豆の[[韮山城]]であったが、氏綱はそれまで在番していた相模の[[小田原城]]を本城化させた<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],pp.57-58.</ref>。また家督相続に伴う代替わり[[検地]]の実施と、安堵状の発給を行っている<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.69-70;[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.218.</ref>。
[[関東公方]]足利晴氏を婿として和睦した。当時、扇谷・山内の両上杉家は関東公方足利家配下の[[管領]]を称していた。氏綱は、このうち扇谷家の「管領」を後継することが公方により承認(義父としての強要?)され、後に氏康がこれを後継したとも言う。しかし、山内家の関東管領が扇谷家よりいくらかの正統性と実質を伴っており、以降も管領家とされることが普通で、氏綱や氏康が管領を自称した記録は無い。


[[大永]]年間([[1521年]] - [[1527年]])から氏綱は[[寒川神社]]宝殿・[[箱根神社|箱根三所大権現]]宝殿の再建そして相模六所宮・[[伊豆山権現]]の再建といった寺社造営事業を盛んに行っており、その際に「相州太守」を名乗り(氏綱が相模守になった事実はない)、事実上の相模の支配者たるを主張している<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],pp.69-70.</ref>。
天文7年([[1538年]])には、[[小弓公方]]の[[足利義明]]と[[安房国|安房]]の[[里見義堯]]らの連合軍と戦う([[国府台合戦]])。氏綱は足利・里見連合軍に大勝し、義明を討ち取って小弓公方を滅ぼし、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功した。


[[大永]]3年([[1523年]])6月から9月の間に氏綱は[[名字]]を伊勢氏から北条氏(後北条氏)へと改めたと推定される<ref name=mori60>[[#森(2005)|森(2005)]],p.60.</ref>。父・早雲は[[明応の政変]]([[1493年]])を契機に幕府の承認を受けて伊豆に侵攻して領国化し、さらには相模をも平定したが、山内・扇谷両上杉氏をはじめとする旧来からの在地勢力からは「他国の逆徒」と呼ばれて反発を受けていた<ref name=mori60/>。領国支配を正当化するために自らを関東とゆかりの深い[[執権]][[北条氏]]の後継者たらんとする発想は早雲の時代からあり、氏綱の代にこれを実現したことになる<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],pp.68-69;[[#森(2005)|森(2005)]],p.60;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.70-72.</ref>。近年の研究では、この北条改称は単なる自称ではなく、朝廷に願い出て正式に認められたものであると考えられている<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],pp.60-61.</ref>。改称から数年後には執権北条氏の古例に倣った[[左京大夫]]に任じられ<ref group="注釈">左京大夫は[[北条義時]]・[[北条泰時|泰時]]が任じられた官職である。[[#森(2005)|森(2005)]],p.61.</ref>、家格的にも周辺の[[今川氏]]や[[武田氏]]、[[上杉氏]]と同等になっている<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],p.61;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.72.</ref>。
=== 最期 ===
{{-}}
氏綱は関東に勢力を拡大する一方で、父早雲の代より主従関係にあった[[駿河国]]の[[今川氏親]]との駿相同盟に基づいて[[甲斐国]]の[[武田信虎]]と甲相国境で争い、天文5年(1536年)に今川氏で[[今川義元|義元]]が家督を継承して甲駿同盟が成立すると相駿同盟が破綻し、今川とも抗争した([[河東の乱]])。これにより、今川氏との主従関係を完全に解消して独立を果たした。


=== 扇谷上杉氏との攻防 ===
関東において氏綱に敗れた扇谷上杉家の朝定が、[[山内上杉家]]の[[上杉憲政]]と手を結んで反攻の兆しを見せ始め、さらに今川軍との戦いも長期化する中、天文10年(1541年)に病に倒れ、7月19日に死去した。享年55。(日付は異説あり)
{|style="float:right"
|-
!!! 北条氏綱関係図
|-
|style="width:1em"|
|style="vertical-align:top;white-space:nowrap"|
{{Location map+|Location map Japan Kanto|width=350|AlternativeMap=Former Japanese kanto.png|alt=|float=right|caption=|places=
{{Location map~|England|label=<small>第一次国府台合戦</small>|position=|lat=54.5|long=-1.5|mark=Battle_icon_(crossed_swords).svg|marksize=20}}
{{Location map~|England|label=<center>凸<br><small>小机城</small></center>|background=|position=left|lat=53.05|long=-1.5|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center><small>興国寺城</small><br>凸</center>|background=|position=left|lat=52.0|long=-5.0|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center><small>  小田原城</small><br>凸</center>|background=|position=left|lat=52.3|long=-3.6|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center>凸<br><small>真里谷城</small></center>|background=|position=left|lat=52.5|long=0.2|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center>凸 <small>古河城</small></center>|background=|position=left|lat=55.5|long=-0.7|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center>凸<br><small>蕨城</small></center>|background=|position=left|lat=54.1|long=-1.3|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center>凸<br><small>韮山城</small></center>|background=|position=left|lat=51.3|long=-4.2|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center>凸 <small>葛西城</small></center>|background=|position=left|lat=53.9|long=0.1|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center>凸<br><small>小弓城</small></center>|background=#FFF|position=left|lat=53.3|long=0.4|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center>凸<br><small>津久井城</small></center>|background=|position=left|lat=53.3|long=-3.2|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center>凸<br><small>玉縄城</small></center>|background=|position=left|lat=52.5|long=-2.0|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center>凸<br><small>松山城</small></center>|background=|position=left|lat=55.2|long=-2.3|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center>凸<br><small>毛呂城</small></center>|background=|position=left|lat=54.6|long=-3.2|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center>凸<br><small>河越城</small></center>|background=|position=left|lat=54.6|long=-2.0|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center>凸<br><small>岩付城</small></center>|background=|position=left|lat=54.6|long=-1.0|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
{{Location map~|England|label=<center>凸<br><small>江戸城</small></center>|background=|position=left|lat=53.6|long=-0.7|mark=Steel pog.svg|marksize=1}}
}}
|}
永正16年(1519年)氏綱は父・早雲の政策を継承して[[房総半島]]に出兵して[[小弓公方]][[足利義明]]と[[真里谷氏|真里谷武田氏]]を支援したが、その後の数年間は軍事行動を控えていた。

大永3年([[1523年]])までに[[武蔵国]]南西部の[[久良岐郡]]([[横浜市]]の西部に相当)一帯を経略し、さらに武蔵国西部・南部の国人を服属させている<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],pp.70-71</ref>。危機感を持った[[上杉朝興|扇谷上杉朝興]]は[[山内上杉家]]と和睦をして氏綱に対抗しようとするが、大永4年([[1524年]])正月に氏綱は武蔵に攻め込んで高縄原の戦いで扇谷勢を撃破すると[[太田資高]]を寝返らせて[[江戸城]]を攻略する<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],p.71;[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.226.</ref>。江戸城を攻略後すぐに追撃を開始して、板橋にて板橋某・市大夫兄弟を討ち取る。2月2日に[[太田資頼]]の寝返りにより<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],p.63;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.75-76.</ref>、[[岩付城]]を攻撃して落城させ太田備中守(太田資頼の兄)を討ち取った。続いて[[蕨城]]も攻略し、また、[[毛呂城]](山根城)城主の毛呂太郎・岡本将監が北条方に属したため、毛呂~石戸間を手中におさめ敵の[[松山城 (武蔵国)|松山城]]~[[川越城|河越城]]間の遮断に成功する。

これに対して扇谷上杉朝興は[[上杉憲房|山内上杉憲房]]の支援を受けて態勢を立て直すと、古河公方[[足利高基]]と和睦し、さらに甲斐守護[[武田信虎]]とも結んで反撃を開始した<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],p.71.</ref>。6月18日に太田資頼が朝興に帰参してしまい。7月20日には、朝興からの要請により[[武田信虎]]が武蔵国まで出張り岩付城を攻め落とした。これを背景として、太田資頼は岩付城に復帰することができた。氏綱は朝興と和睦を結び、毛呂城引き渡しを余儀なくされた<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],p.72</ref>。

翌大永5年([[1524年]])2月に氏綱は和睦を破って岩付城を奪還するが、朝興は山内上杉憲房・[[上杉憲寛|憲寛]]父子との連携のもとで逆襲を行い、大永5年から大永6年([[1525年]])にかけて武蔵の諸城を奪い返し、相模国[[玉縄城]]にまで迫った<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],p.72.</ref>。朝興は関東管領山内上杉家、古河公方、甲斐の武田信虎のみならず、早雲時代には友好関係にあった上総国の真里谷武田氏、小弓公方そして[[安房国]]の[[里見氏]]とも手を結んで包囲網を形成し、氏綱は[[四面楚歌]]に陥った<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],p.63;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.76-77.</ref>。同年5月には里見氏の軍勢が[[鎌倉市|鎌倉]]を襲撃し、[[鶴岡八幡宮]]が焼失している<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],p.63;[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.231.</ref>。[[享禄]]3年([[1530年]])に嫡男・氏康が朝興方の軍勢と[[多摩川]]河原の[[小沢原の戦い|小沢原で戦い]]、これに大勝したものの<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.94.</ref>、享禄4年([[1531年]])には朝興に岩付城を奪回されている<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],p.73.</ref>。

=== 領国の拡大 ===
氏綱の苦境は敵陣営の内紛によって救われる。天文2年(1533年)に里見氏で内訌が起き、[[里見義豊]]が叔父の[[里見実堯|実堯]]と[[正木時綱]]を粛清した<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],p.76.</ref>。氏綱は実堯の遺児・[[里見義堯|義堯]]を援助して義豊を滅ぼさせ、里見氏が包囲網から脱落する<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],pp.76-78.</ref>。小弓公方を擁立する真里谷武田氏でも内紛が起き、小弓公方の勢力が弱まることになった<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],p.64.</ref>。天文6年([[1537年]])に朝興が死去して、若年の[[上杉朝定 (扇谷上杉家)|上杉朝定]]が跡を継ぐと、氏綱は武蔵に出陣して扇谷上杉家の本拠[[河越城]]を陥れ、三男の[[北条為昌|為昌]]を城代に置いた<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],p.81;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.79-80.</ref>。天文7年([[1538年]])には[[葛西城]]を攻略して房総への足がかりを築く<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],p.64;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.80.</ref>。

氏綱は関東に勢力を拡大する一方で、父・早雲の代より形式的には主従関係にあった[[駿河国]]の[[今川氏]]との駿相同盟に基づいて[[甲斐国]]の[[武田信虎]]と甲相国境で相争った。天文4年(1535年)には今川家当主・[[今川氏輝|氏輝]]の要請に応えて甲斐に出陣し、武田信虎の弟・[[武田信友|信友]]を討ち取る大勝を収めている<ref>[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.263.</ref>。天文5年(1536年)に今川氏輝が急死すると家督を巡って[[花倉の乱]]と呼ばれる[[お家騒動]]が起こり、氏綱は栴岳承芳を支持した。承芳が勝利して[[今川義元]]として家督を相続するが、翌天文6年([[1437年]])に義元は信虎の娘[[定恵院]]を娶って甲駿同盟を成立させる。氏綱はこれに激怒して相駿同盟が破綻し、今川との抗争が勃発した([[河東の乱]])。後北条軍は駿河国の河東地方([[富士川]]以東)に侵攻して占領し、これにより、今川氏との主従関係を完全に解消して独立を果たした<ref>[[#黒田(2011)|黒田(2011)]],p.45.</ref>。

後北条氏の房総進出は小弓公方と対立する古河公方の利害と一致するものであり、小弓公方足利義明が古河・関宿への攻撃を画策すると古河公方[[足利晴氏]]は氏綱・氏康父子に対し「小弓御退治」を命じた<ref>[[#市村(2009)|市村(2009)]],pp.81-82.</ref>。天文7年([[1538年]])10月7日、氏綱は[[小弓公方]]・足利義明と安房の里見義堯らの連合軍と戦う([[国府台合戦|第一次国府台合戦]])。氏綱・氏康父子は足利・里見連合軍に大勝し、義明を討ち取って小弓公方を滅ぼし、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功した<ref>[[#黒田(2011)|黒田(2011)]]、p.49.</ref>。

『伊佐早文書』によれば、古河公方足利晴氏は合戦の勝利を賞して氏綱を関東管領に補任したという<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],p.65;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.85.</ref>。関東管領補任は幕府の権限であり、関東管領[[上杉憲政|山内上杉憲政]]が存在する以上<ref group="注釈">[[享徳の乱]]以降、室町幕府による関東管領補任は行われなくなっており、山内上杉家の家督と一体化して扱われるようになっていた。[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.85.</ref>、正式なものにはなり得ないが、古河公方を奉ずる氏綱・氏康は東国の伝統勢力に対抗する政治的地位を得たことになる<ref>[[#森(2005)|森(2005)]],p.65;[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.85-86.</ref>。天文8年([[1539年]])には氏綱は娘(芳春院)を晴氏に嫁がせ、古河公方との紐帯を強めるとともに足利氏の「御一家」の身分も与えられた<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.85-86.</ref>。

=== 領国支配 ===
氏綱の時代に後北条氏の[[支城]]体制が確立しており、小田原城を本城に伊豆国の[[韮山城]]、相模国の[[玉縄城]]、[[三崎城]](新井城)、武蔵国の[[小机城]]、[[江戸城]]、[[河越城]]が支城となり各々領域支配の拠点となった<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.86-89.</ref>。支城には伊豆入部以来の重臣や一門が置かれたが、このうち玉縄城主となった三男・為昌は後に河越城主も兼ねて広大な領域を管轄しており、氏綱の晩年には嫡男・氏康に匹敵する重要な地位を占めるようになっていた<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],pp.88-89.</ref>。

氏綱は早雲の郷村支配を継承したが、独自の施策として中世になって廃絶していた[[伝馬]]制度を復活させて領内における物資の流通・輸送を整備している<ref>[[#下山(1999)|下山(1999)]],pp.105-106.</ref>。また、検地によって増分した田地や公収した[[隠田]]そして交通の要所に積極的に御領所(直轄地)を設置し、その代官には信頼できる側近を任命した<ref>[[#下山(1999)|下山(1999)]],pp.108-109.</ref>。

氏綱の時代に積極的にすすめられた築城や寺社造営のために職人集団を集めており<ref>[[#下山(1999)|下山(1999)]],pp.110-110.</ref>、後北条氏は商人・職人に対する統制を行い年貢とは別に諸役・諸公事を課し、小田原城下の津田藤兵衛に発した藍瓶銭([[藍染]]業者への賦課金)の徴収を許す享禄3年(1530年)付の虎の印判状が現存している<ref>[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.238.</ref>。天文7年(1538年)には伊豆と相模の[[皮作]](皮革を加工する職人階層)に触頭を置き、武具製作に不可欠な皮作を掌握した<ref>[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],pp.276-277.</ref>。
[[File:Tsurugaoka Hachiman-Shrine 02.jpg|250px|thumb|鶴岡八幡宮。神奈川県鎌倉市。]]
領国拡大以外の氏綱の大事業としては[[鎌倉]][[鶴岡八幡宮]]の造営がある。鶴岡八幡宮は大永6年(1526年)に戦火によって焼失しており、造営事業は天文元年([[1532年]])から始まり、[[興福寺]]の番匠を呼び寄せて翌年から工事が着手された<ref name=mori66>[[#森(2005)|森(2005)]],p.66.</ref>。氏綱は関東の諸領主に奉加を求めたが、両上杉氏はこれを拒否している<ref name=kuroda200589>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.89.</ref>。天文9年([[1540年]])に上宮正殿が完成し、氏綱ら北条一門臨席のもとで盛大な落慶式が催された<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.89;[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.281.</ref>。この造営事業は氏綱の没後まで続き、完成は氏康の代の天文13年(1544年)になった<ref name=kuroda200589/>。[[源頼朝]]以来の武門の守護神たる鶴岡八幡宮の再興事業を主導することは執権北条氏や鎌倉公方といった東国武家政権の政治的後継者を主張するに等しい意味を持っていた<ref name=mori66/>。

=== 死去 ===
氏綱に敗れた扇谷上杉朝定が、[[山内上杉家]]の[[上杉憲政]]と手を結んで反攻の兆しを見せ始め、さらに今川軍との戦いも長期化する中、天文10年(1541年)に病に倒れ、7月19日に死去した<ref>[[#クロニック戦国全史(1995)|クロニック戦国全史(1995)]],p.283.</ref>。享年55。

後を嫡男の[[北条氏康]]が継いだ。氏綱は若い氏康の器量を心配して、死の直前の天文10年(1541年)5月に氏康に対して5か条の訓戒状を伝えている。(しかし、前文では「其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候得ハ」と氏康の器量を評価している。)

{{Quotation|<br>一、大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。<br>一、侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない。<br>一、驕らずへつらわず、その身の分限を守るをよしとすべし。<br>一、倹約に勤めて重視すべし。<br>一、いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし。|北条氏綱|五か条の訓戒(要旨<ref group="注釈">原文は2000文字程度のもの。<br>{{cite web|title=五箇条の御書置の書き下し文と訳 - 出典サーチ|url=http://www.kokin.rr-livelife.net/syutten_search.html?a1=%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E7%B6%B1&b1=%E4%BA%94%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E6%9B%B8%E7%BD%AE|publisher=古今名言集~座右の銘にすべき言葉~|author=|page=|accessdate=2012年7月30日}}</ref>)}}

氏綱の時代に後北条氏は早雲からの伊豆・相模に加えて、武蔵半国と下総の一部そして駿河半国を領国としていた。[[北条記]]は氏綱を「二世氏綱君は父のあとをよく守って後嗣としての功があった」と評価している。

神奈川県箱根町の金湯山[[早雲寺]]に残る氏綱を含む北条5代の墓所は、江戸時代の寛文12年([[1672年]])に、[[北条氏規]]の子孫で[[狭山藩]]北条家5代目当主の[[北条氏治]]が、北条早雲の命日に当たる8月15日に建立した供養塔である。氏綱の本来の墓所は、かつての広大な旧早雲寺境内の春松院に葬られたが、旧早雲寺の全伽藍は豊臣秀吉の軍勢に焼かれたため、その位置は不明となっている。

== 妻子 ==
氏綱には2人の妻と4男6女の存在が確認されている<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.90,92</ref>。


*[[正室]]:養珠院
後を嫡男の[[北条氏康]]が継いだ。なお、氏綱は天文7年([[1538年]])に家督を氏康に譲って[[隠居]]していたという説もある。
**長男:[[北条氏康]]
*継室:近衛殿:[[関白]][[近衛尚通]]の娘。
*母親不明
**次男:某:早世
**三男:[[北条為昌]]
**四男:[[北条氏尭]]
**女子:浄心院:[[太田資高]]室
**女子:大頂院:[[北条綱成]]室
**女子:[[吉良頼康]]室
**女子:芳春院:[[古河公方]]・[[足利晴氏]]室
**女子:崎姫(高源院):[[堀越貞基]]室
**女子:ちよ:[[葛山氏元]]室
*養子:[[北条綱成]]:駿河福島氏出身。


正室の養珠院の出自は不明である。継室の近衛殿は関白近衛尚通の娘で享禄4年(1531年)から天文元年(1532年)頃に結婚したと推測されるが、弟の近衛稙家はこの頃には31歳になっており、当時の女性としては晩婚のため、外交的な必要からの名目的なものと考えられている<ref>[[#黒田(2005)|黒田(2005)]],p.91.</ref>。
== 墓所 ==
現在、神奈川県箱根町の金湯山早雲寺に残る氏綱を含む北条5代の墓所は、江戸時代の寛文12年([[1672年]])に、北条氏規の子孫で[[狭山藩]]北条家5代目当主の[[北条氏治]]が、北条早雲の命日に当たる8月15日に建立した供養塔。氏綱の本来の墓所は、かつての広大な旧早雲寺境内の春松院に葬られたが、旧早雲寺の全伽藍は豊臣秀吉の軍勢に焼かれたため、氏綱の墓所の位置は不明となっている。


==脚注==
== 人物・逸話 ==
{{脚注ヘルプ}}
*伊勢氏が北条氏と改姓したのは、氏綱のときで大永3年([[1523年]])6月~9月の間である。これは、かつて[[鎌倉時代]]に関東を支配した執権北条氏(伊勢氏と同族)の末裔であるとして、関東支配の正統性が自分にあることを示すためであったとされている。
=== 注釈 ===
*「虎」、「郡」の印判を使用しており、多くの文書が現存する。
{{Reflist|group="注釈"|2}}
*政治家としては父を凌駕したとまで言われている。戦国大名として検地を発案し相模国で実施した。家臣団と領民統制に尽力した。また、評定衆・奉行衆の設置、さらには早雲時代の北条氏の統治は諸豪族による連合体制だったが、氏綱は豪族統制に強権を発動して豪族領の[[治外法権]]を否定するなど、北条家繁栄の基礎を築き上げている。
*氏綱は若い氏康の器量を心配して、天文10年(1541年)5月に氏康に対して5か条の訓戒状を伝えている。(しかし、前文では「其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候得ハ」と氏康の器量を評価している。)
*[[北条記]]においては、「二世氏綱君は父のあとをよく守って後嗣としての功があった」と評価されている。


===出典===
== 五か条の訓戒 ==
{{reflist|colwidth=30em}}
*一、大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。
*一、侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない。
*一、驕らずへつらわず、その身の分限を守るをよしとすべし。
*一、倹約に勤めて重視すべし。
*一、いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし。


== 家系 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=[[池上裕子]]、[[小和田哲男]]、小林清治、[[池享]]、黒川直則 (編集) |year=1995|chapter=|title=クロニック戦国全史|series=|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062060165|ref=クロニック戦国全史(1995)}}
* 父:北条早雲
*{{Cite book|和書|author=森幸夫|translator=|editor=|year=2005|chapter=第二代 北条氏綱|title=戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡|series=|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=4404033168|ref=森(2005)}}
* 母:[[小笠原元長]]の娘
*{{Cite book|和書|author=[[市村高男]]|translator=|editor=|year=2009|chapter=|title=東国の戦国合戦|series=戦争の日本史10|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642063203|ref=市村(2009)}}
* 兄弟
*{{Cite book|和書|author=[[黒田基樹]]|translator=|editor=|year=2005|chapter=|title=戦国 北条一族|series=|publisher=新人物往来社|isbn=440403251X|ref=黒田(2005)}}
** 北条氏時
*{{Cite book|和書|author=黒田基樹|translator=|editor=|year=2011|chapter=|title=戦国関東の覇権戦争|series=|publisher=洋泉社|isbn=978-4862487643|ref=黒田(2011)}}
** 北条氏広
*{{Cite book|和書|author=[[下山治久]]|translator=|editor=|year=1999|chapter=|title=北条早雲と家臣団|series=|publisher=[[有隣堂]]|isbn=4896601564|ref=下山(1999)}}
** [[北条幻庵]](長綱、宗哲)
* 養珠院:正室
** [[北条氏康]]
* 近衛殿:後室
** 娘:[[北条綱成]]室
** 浄心院:[[太田資高]]室
** 崎姫(高源院):堀越貞基室
** 芳春院:[[古河公方]]・足利晴氏室
ほか


== 関連項目 ==
== 登場する作品 ==
*[[後北条氏]]
*[[戦国時代の人物一覧]]
*『[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]』(2007年 NHK大河ドラマ 演:[[品川徹]])
*『[[風林火山 (NHK大河ドラマ)|風林火山]]』(2007年 NHK大河ドラマ 演:[[品川徹]])


{{先代次代|[[後北条氏|後北条氏当主]]|第2代:1512年 - 1541年|[[北条早雲|北条早雲(伊勢盛時)]]|[[北条氏康]]}}
{{後北条氏歴代当主||第2代:1512年 - 1541年}}


{{DEFAULTSORT:ほうしよう うしつな}}
{{DEFAULTSORT:ほうしよう うしつな}}
[[Category:戦国大名]]
[[Category:戦国大名]]
[[Category:後北条氏|うしつな]]
[[Category:後北条氏|うしつな]]
[[Category:神奈川県歴史]]
[[Category:相模国人物]]
[[Category:1487年生]]
[[Category:1487年生]]
[[Category:1541年没]]
[[Category:1541年没]]
102行目: 164行目:
[[en:Hōjō Ujitsuna]]
[[en:Hōjō Ujitsuna]]
[[es:Hōjō Ujitsuna]]
[[es:Hōjō Ujitsuna]]
[[fr:Hōjō Ujitsuna]]
[[ko:호조 우지쓰나]]
[[ko:호조 우지쓰나]]
[[nl:Hojo Ujitsuna]]
[[nl:Hojo Ujitsuna]]

2012年8月8日 (水) 14:35時点における版

 
北条 氏綱
北条氏綱肖像画(小田原城所蔵)
時代 戦国時代
生誕 長享元年(1487年
死没 天文10年7月19日1541年8月10日
改名 伊豆千代丸(幼名)→伊勢氏綱
→北条氏綱
別名 通称:新九郎
戒名 春松院快翁活公
墓所 早雲寺神奈川県足柄下郡箱根町
官位 従五位下 左京大夫
主君 今川氏親
氏族 伊勢氏後北条氏
父母 父:北条早雲(伊勢盛時)、母:小笠原政清
兄弟 氏綱氏時葛山氏広長綱(幻庵)
正室:養珠院、
継室:近衛殿(近衛尚通女)
氏康為昌氏尭、大頂院殿(北条綱成室)、浄心院(太田資高室)、高源院(堀越貞基室)、芳春院(足利晴氏継室)、ちよ(葛山氏元室)、女(吉良頼康室)
テンプレートを表示

北条 氏綱(ほうじょううじつな)は、戦国時代武将相模国戦国大名伊豆国相模国を平定した北条早雲の後を継いで領国を武蔵半国、下総の一部そして駿河半国にまで拡大させた。

なお、当初は伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父の死後の大永3年(1523年)頃である。父の早雲は北条氏を称することは生涯なく、伊勢盛時、伊勢宗瑞と名乗ったが、氏綱は後北条氏の2代目と数えられる。

生涯

家督相続

長享元年(1487年)、伊勢盛時(伊勢宗瑞、北条早雲)の嫡男として生まれる。従来、父早雲は没年88歳とされていたが、これを64歳とする説が唱えられており[1]、その説によれば、早雲が32歳の時に氏綱が生まれたことになる。母は盛時の正室で幕府奉公衆小笠原政清の娘・南陽院殿である。幼名は伊豆千代丸。氏綱が生まれた年に父・早雲は小鹿範満を討って、甥の龍王丸(今川氏親)を今川家の当主に据えており、その功により興国寺城主となっている。

氏綱の文書上の初見は永正9年(1512年)で早雲の後継者として活動していたことがうかがえ[2]、早雲が大森氏から奪取した相模国小田原城に在番していたと推定されている[3]

永正15年(1518年)、早雲の隠居により家督を継ぎ、当主となる。永正16年(1519年)に早雲が死去したため、名実共に伊勢(後北条)氏の当主となった。

北条氏への改称

箱根神社。神奈川県足柄下郡箱根町

氏綱の家督相続とともに伊勢(後北条)氏は虎の印判状を用いるようになっている[4]。印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を抑止する体制が整えられた[5]。それまで、守護が直接百姓に文書を発給することはなかったが、印判状の出現により戦国大名による村落・百姓への直接支配が進むようになる[6]

早雲の時代、伊勢(後北条)氏の居城は伊豆の韮山城であったが、氏綱はそれまで在番していた相模の小田原城を本城化させた[7]。また家督相続に伴う代替わり検地の実施と、安堵状の発給を行っている[8]

大永年間(1521年 - 1527年)から氏綱は寒川神社宝殿・箱根三所大権現宝殿の再建そして相模六所宮・伊豆山権現の再建といった寺社造営事業を盛んに行っており、その際に「相州太守」を名乗り(氏綱が相模守になった事実はない)、事実上の相模の支配者たるを主張している[9]

大永3年(1523年)6月から9月の間に氏綱は名字を伊勢氏から北条氏(後北条氏)へと改めたと推定される[10]。父・早雲は明応の政変1493年)を契機に幕府の承認を受けて伊豆に侵攻して領国化し、さらには相模をも平定したが、山内・扇谷両上杉氏をはじめとする旧来からの在地勢力からは「他国の逆徒」と呼ばれて反発を受けていた[10]。領国支配を正当化するために自らを関東とゆかりの深い執権北条氏の後継者たらんとする発想は早雲の時代からあり、氏綱の代にこれを実現したことになる[11]。近年の研究では、この北条改称は単なる自称ではなく、朝廷に願い出て正式に認められたものであると考えられている[12]。改称から数年後には執権北条氏の古例に倣った左京大夫に任じられ[注釈 1]、家格的にも周辺の今川氏武田氏上杉氏と同等になっている[13]

扇谷上杉氏との攻防

北条氏綱関係図

Lua エラー モジュール:Location_map/multi 内、27 行目: Location mapのモジュール「"Module:Location map/data/Location map Japan Kanto"」もしくはテンプレート「"Template:Location map Location map Japan Kanto"」が作成されていません。

永正16年(1519年)氏綱は父・早雲の政策を継承して房総半島に出兵して小弓公方足利義明真里谷武田氏を支援したが、その後の数年間は軍事行動を控えていた。

大永3年(1523年)までに武蔵国南西部の久良岐郡横浜市の西部に相当)一帯を経略し、さらに武蔵国西部・南部の国人を服属させている[14]。危機感を持った扇谷上杉朝興山内上杉家と和睦をして氏綱に対抗しようとするが、大永4年(1524年)正月に氏綱は武蔵に攻め込んで高縄原の戦いで扇谷勢を撃破すると太田資高を寝返らせて江戸城を攻略する[15]。江戸城を攻略後すぐに追撃を開始して、板橋にて板橋某・市大夫兄弟を討ち取る。2月2日に太田資頼の寝返りにより[16]岩付城を攻撃して落城させ太田備中守(太田資頼の兄)を討ち取った。続いて蕨城も攻略し、また、毛呂城(山根城)城主の毛呂太郎・岡本将監が北条方に属したため、毛呂~石戸間を手中におさめ敵の松山城河越城間の遮断に成功する。

これに対して扇谷上杉朝興は山内上杉憲房の支援を受けて態勢を立て直すと、古河公方足利高基と和睦し、さらに甲斐守護武田信虎とも結んで反撃を開始した[17]。6月18日に太田資頼が朝興に帰参してしまい。7月20日には、朝興からの要請により武田信虎が武蔵国まで出張り岩付城を攻め落とした。これを背景として、太田資頼は岩付城に復帰することができた。氏綱は朝興と和睦を結び、毛呂城引き渡しを余儀なくされた[18]

翌大永5年(1524年)2月に氏綱は和睦を破って岩付城を奪還するが、朝興は山内上杉憲房・憲寛父子との連携のもとで逆襲を行い、大永5年から大永6年(1525年)にかけて武蔵の諸城を奪い返し、相模国玉縄城にまで迫った[19]。朝興は関東管領山内上杉家、古河公方、甲斐の武田信虎のみならず、早雲時代には友好関係にあった上総国の真里谷武田氏、小弓公方そして安房国里見氏とも手を結んで包囲網を形成し、氏綱は四面楚歌に陥った[20]。同年5月には里見氏の軍勢が鎌倉を襲撃し、鶴岡八幡宮が焼失している[21]享禄3年(1530年)に嫡男・氏康が朝興方の軍勢と多摩川河原の小沢原で戦い、これに大勝したものの[22]、享禄4年(1531年)には朝興に岩付城を奪回されている[23]

領国の拡大

氏綱の苦境は敵陣営の内紛によって救われる。天文2年(1533年)に里見氏で内訌が起き、里見義豊が叔父の実堯正木時綱を粛清した[24]。氏綱は実堯の遺児・義堯を援助して義豊を滅ぼさせ、里見氏が包囲網から脱落する[25]。小弓公方を擁立する真里谷武田氏でも内紛が起き、小弓公方の勢力が弱まることになった[26]。天文6年(1537年)に朝興が死去して、若年の上杉朝定が跡を継ぐと、氏綱は武蔵に出陣して扇谷上杉家の本拠河越城を陥れ、三男の為昌を城代に置いた[27]。天文7年(1538年)には葛西城を攻略して房総への足がかりを築く[28]

氏綱は関東に勢力を拡大する一方で、父・早雲の代より形式的には主従関係にあった駿河国今川氏との駿相同盟に基づいて甲斐国武田信虎と甲相国境で相争った。天文4年(1535年)には今川家当主・氏輝の要請に応えて甲斐に出陣し、武田信虎の弟・信友を討ち取る大勝を収めている[29]。天文5年(1536年)に今川氏輝が急死すると家督を巡って花倉の乱と呼ばれるお家騒動が起こり、氏綱は栴岳承芳を支持した。承芳が勝利して今川義元として家督を相続するが、翌天文6年(1437年)に義元は信虎の娘定恵院を娶って甲駿同盟を成立させる。氏綱はこれに激怒して相駿同盟が破綻し、今川との抗争が勃発した(河東の乱)。後北条軍は駿河国の河東地方(富士川以東)に侵攻して占領し、これにより、今川氏との主従関係を完全に解消して独立を果たした[30]

後北条氏の房総進出は小弓公方と対立する古河公方の利害と一致するものであり、小弓公方足利義明が古河・関宿への攻撃を画策すると古河公方足利晴氏は氏綱・氏康父子に対し「小弓御退治」を命じた[31]。天文7年(1538年)10月7日、氏綱は小弓公方・足利義明と安房の里見義堯らの連合軍と戦う(第一次国府台合戦)。氏綱・氏康父子は足利・里見連合軍に大勝し、義明を討ち取って小弓公方を滅ぼし、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功した[32]

『伊佐早文書』によれば、古河公方足利晴氏は合戦の勝利を賞して氏綱を関東管領に補任したという[33]。関東管領補任は幕府の権限であり、関東管領山内上杉憲政が存在する以上[注釈 2]、正式なものにはなり得ないが、古河公方を奉ずる氏綱・氏康は東国の伝統勢力に対抗する政治的地位を得たことになる[34]。天文8年(1539年)には氏綱は娘(芳春院)を晴氏に嫁がせ、古河公方との紐帯を強めるとともに足利氏の「御一家」の身分も与えられた[35]

領国支配

氏綱の時代に後北条氏の支城体制が確立しており、小田原城を本城に伊豆国の韮山城、相模国の玉縄城三崎城(新井城)、武蔵国の小机城江戸城河越城が支城となり各々領域支配の拠点となった[36]。支城には伊豆入部以来の重臣や一門が置かれたが、このうち玉縄城主となった三男・為昌は後に河越城主も兼ねて広大な領域を管轄しており、氏綱の晩年には嫡男・氏康に匹敵する重要な地位を占めるようになっていた[37]

氏綱は早雲の郷村支配を継承したが、独自の施策として中世になって廃絶していた伝馬制度を復活させて領内における物資の流通・輸送を整備している[38]。また、検地によって増分した田地や公収した隠田そして交通の要所に積極的に御領所(直轄地)を設置し、その代官には信頼できる側近を任命した[39]

氏綱の時代に積極的にすすめられた築城や寺社造営のために職人集団を集めており[40]、後北条氏は商人・職人に対する統制を行い年貢とは別に諸役・諸公事を課し、小田原城下の津田藤兵衛に発した藍瓶銭(藍染業者への賦課金)の徴収を許す享禄3年(1530年)付の虎の印判状が現存している[41]。天文7年(1538年)には伊豆と相模の皮作(皮革を加工する職人階層)に触頭を置き、武具製作に不可欠な皮作を掌握した[42]

鶴岡八幡宮。神奈川県鎌倉市。

領国拡大以外の氏綱の大事業としては鎌倉鶴岡八幡宮の造営がある。鶴岡八幡宮は大永6年(1526年)に戦火によって焼失しており、造営事業は天文元年(1532年)から始まり、興福寺の番匠を呼び寄せて翌年から工事が着手された[43]。氏綱は関東の諸領主に奉加を求めたが、両上杉氏はこれを拒否している[44]。天文9年(1540年)に上宮正殿が完成し、氏綱ら北条一門臨席のもとで盛大な落慶式が催された[45]。この造営事業は氏綱の没後まで続き、完成は氏康の代の天文13年(1544年)になった[44]源頼朝以来の武門の守護神たる鶴岡八幡宮の再興事業を主導することは執権北条氏や鎌倉公方といった東国武家政権の政治的後継者を主張するに等しい意味を持っていた[43]

死去

氏綱に敗れた扇谷上杉朝定が、山内上杉家上杉憲政と手を結んで反攻の兆しを見せ始め、さらに今川軍との戦いも長期化する中、天文10年(1541年)に病に倒れ、7月19日に死去した[46]。享年55。

後を嫡男の北条氏康が継いだ。氏綱は若い氏康の器量を心配して、死の直前の天文10年(1541年)5月に氏康に対して5か条の訓戒状を伝えている。(しかし、前文では「其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候得ハ」と氏康の器量を評価している。)


一、大将から侍にいたるまで、義を大事にすること。たとえ義に違い、国を切り取ることができても、後世の恥辱を受けるであろう。
一、侍から農民にいたるまで、全てに慈しむこと。人に捨てるようなものはいない。
一、驕らずへつらわず、その身の分限を守るをよしとすべし。
一、倹約に勤めて重視すべし。
一、いつも勝利していると、驕りが生まれ、敵を侮ったり、不行儀なことがあるので注意すべし。 — 北条氏綱、五か条の訓戒(要旨[注釈 3]

氏綱の時代に後北条氏は早雲からの伊豆・相模に加えて、武蔵半国と下総の一部そして駿河半国を領国としていた。北条記は氏綱を「二世氏綱君は父のあとをよく守って後嗣としての功があった」と評価している。

神奈川県箱根町の金湯山早雲寺に残る氏綱を含む北条5代の墓所は、江戸時代の寛文12年(1672年)に、北条氏規の子孫で狭山藩北条家5代目当主の北条氏治が、北条早雲の命日に当たる8月15日に建立した供養塔である。氏綱の本来の墓所は、かつての広大な旧早雲寺境内の春松院に葬られたが、旧早雲寺の全伽藍は豊臣秀吉の軍勢に焼かれたため、その位置は不明となっている。

妻子

氏綱には2人の妻と4男6女の存在が確認されている[47]

正室の養珠院の出自は不明である。継室の近衛殿は関白近衛尚通の娘で享禄4年(1531年)から天文元年(1532年)頃に結婚したと推測されるが、弟の近衛稙家はこの頃には31歳になっており、当時の女性としては晩婚のため、外交的な必要からの名目的なものと考えられている[48]

脚注

注釈

  1. ^ 左京大夫は北条義時泰時が任じられた官職である。森(2005),p.61.
  2. ^ 享徳の乱以降、室町幕府による関東管領補任は行われなくなっており、山内上杉家の家督と一体化して扱われるようになっていた。黒田(2005),p.85.
  3. ^ 原文は2000文字程度のもの。
    五箇条の御書置の書き下し文と訳 - 出典サーチ”. 古今名言集~座右の銘にすべき言葉~. 2012年7月30日閲覧。

出典

  1. ^ 黒田(2005),pp.16-17.
  2. ^ 森(2005),p.56;黒田(2005),pp.62-63.
  3. ^ 森(2005),p.57;森(2005),pp.63-64.
  4. ^ 森(2005),p.56-57;黒田(2005),p.64.
  5. ^ 黒田(2005),pp.66-67;クロニック戦国全史(1995),p.207.
  6. ^ 森(2005),p.57;黒田(2005),p.67.
  7. ^ 森(2005),pp.57-58.
  8. ^ 黒田(2005),p.69-70;クロニック戦国全史(1995),p.218.
  9. ^ 市村(2009),pp.69-70.
  10. ^ a b 森(2005),p.60.
  11. ^ 市村(2009),pp.68-69;森(2005),p.60;黒田(2005),pp.70-72.
  12. ^ 森(2005),pp.60-61.
  13. ^ 森(2005),p.61;黒田(2005),p.72.
  14. ^ 市村(2009),pp.70-71
  15. ^ 市村(2009),p.71;クロニック戦国全史(1995),p.226.
  16. ^ 森(2005),p.63;黒田(2005),pp.75-76.
  17. ^ 市村(2009),p.71.
  18. ^ 市村(2009),p.72
  19. ^ 市村(2009),p.72.
  20. ^ 森(2005),p.63;黒田(2005),pp.76-77.
  21. ^ 森(2005),p.63;クロニック戦国全史(1995),p.231.
  22. ^ 黒田(2005),p.94.
  23. ^ 市村(2009),p.73.
  24. ^ 市村(2009),p.76.
  25. ^ 市村(2009),pp.76-78.
  26. ^ 森(2005),p.64.
  27. ^ 市村(2009),p.81;黒田(2005),pp.79-80.
  28. ^ 森(2005),p.64;黒田(2005),p.80.
  29. ^ クロニック戦国全史(1995),p.263.
  30. ^ 黒田(2011),p.45.
  31. ^ 市村(2009),pp.81-82.
  32. ^ 黒田(2011)、p.49.
  33. ^ 森(2005),p.65;黒田(2005),p.85.
  34. ^ 森(2005),p.65;黒田(2005),pp.85-86.
  35. ^ 黒田(2005),p.85-86.
  36. ^ 黒田(2005),pp.86-89.
  37. ^ 黒田(2005),pp.88-89.
  38. ^ 下山(1999),pp.105-106.
  39. ^ 下山(1999),pp.108-109.
  40. ^ 下山(1999),pp.110-110.
  41. ^ クロニック戦国全史(1995),p.238.
  42. ^ クロニック戦国全史(1995),pp.276-277.
  43. ^ a b 森(2005),p.66.
  44. ^ a b 黒田(2005),p.89.
  45. ^ 黒田(2005),p.89;クロニック戦国全史(1995),p.281.
  46. ^ クロニック戦国全史(1995),p.283.
  47. ^ 黒田(2005),p.90,92
  48. ^ 黒田(2005),p.91.

参考文献

  • 池上裕子小和田哲男、小林清治、池享、黒川直則 (編集) 編『クロニック戦国全史』講談社、1995年。ISBN 978-4062060165 
  • 森幸夫「第二代 北条氏綱」『戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡』新人物往来社、2005年。ISBN 4404033168 
  • 市村高男『東国の戦国合戦』吉川弘文館〈戦争の日本史10〉、2009年。ISBN 978-4642063203 
  • 黒田基樹『戦国 北条一族』新人物往来社、2005年。ISBN 440403251X 
  • 黒田基樹『戦国関東の覇権戦争』洋泉社、2011年。ISBN 978-4862487643 
  • 下山治久『北条早雲と家臣団』有隣堂、1999年。ISBN 4896601564 

登場する作品