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{{mapplot|132.4589|34.4028|広島城}} |
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[[ファイル:Hiroshima castle before bomb.jpg|thumb|200px|right|被爆数年前の広島城]] |
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{{地図|広島県|132.4589|34.4028}} |
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'''広島城'''(ひろしまじょう)は、[[広島県]][[広島市]]中区基町にある[[城|城郭]]。鯉城(りじょう)ともいう。国の[[史跡]]。広島城全域が'''広島城址公園'''(ひろしまじょうしこうえん)となっており、復元された大天守は歴史[[博物館]]として利用されている。[[広島市中央公園]]と隣接している。 |
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'''広島城'''(ひろしまじょう)は、[[広島県]][[広島市]][[中区 (広島市)|中区]][[基町]]にある[[城|城郭]]。国の[[史跡]]。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[日本100名城]]の一つ。現在は内堀に囲まれた本丸と二ノ丸が現存し、広さ約12万平方メートル<ref name="sirouya03">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya03.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第3号|accessdate=2012-03-31}}</ref>。 |
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それまでの毛利氏の居城・[[吉田郡山城]]は[[尼子氏]]の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の毛利氏には適した位置であった。しかし、天正末期になり、天下が安定する頃になると、中国地方9か国120万石の太守であった毛利氏に吉田郡山城は政務所としても手狭なものとなり始めた。また吉田郡山城は山間部にあり、商業の中心地としては不適切であったことから、海上交易路である[[瀬戸内海|瀬戸内]]の水運が生かせ、[[城下町]]の形成が可能な平野がある海沿いへの拠点を移動すべきという意思もあった。一説には[[永禄]]年間([[1558年]]-[[1569年]])の輝元の祖父・[[毛利元就]]のころから現在の広島の平野部への築城構想はあったという。 |
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広島城全域が'''広島城址公園'''(ひろしまじょうしこうえん)となっており、復元された大天守は歴史[[博物館]]として利用されている。城址公園全体は[[公益財団法人]]広島市みどり生きもの協会が、博物館(天守閣)のみ[[財団法人]]広島市未来都市創造財団が[[指定管理者]]として、[[広島護国神社]]は同神社が運営管理している。 |
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[[1589年]](天正17年)、[[二宮就辰]]らの指揮の下、ついに築城が開始された。広島築城は川の中州の埋め立てと、堀の[[浚渫]]が初段の大工事となった。城の構造は[[大坂城]]を参考とし、近世城郭として築城された。縄張りは[[聚楽第]]に範を取っているといわれる。軟弱な[[三角州]]地盤に築城したため、石垣の重量を分散させる工夫がなされている。また、堀は三重に巡らされ、馬出を多数備える実戦的な城構えであった。この築城は同時期に進行しつつあった[[豊臣秀吉]]の[[文禄・慶長の役|朝鮮征伐]]の後方基地としての期待もあり、秀吉は築城技術のサポートとして側近の[[黒田孝高|黒田如水]]を派遣し、自らも建設中に広島城に滞在したという話も残る。 |
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[[近世]]では西日本有数の城下町のシンボルとして、[[近代]]は軍都広島の中心として、アメリカ軍による[[広島市への原子爆弾投下]]の際には破壊目標地点となった。初代の大天守は、[[城#近世|近世城郭]]の代表的な天守で、昭和初期までは日本最古のものだった。天守は原爆による爆風でなく、自壊したことが近年の研究で判明している<ref name="hiroshimapeacemedia2010-07-15">{{Cite web|date=2010-07-15|publisher=中国新聞|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100714152701761_ja|title=広島城天守閣は自壊 原爆爆風説を覆す 学芸員が推定|accessdate=2012-04-01}}</ref>。また本丸に[[大本営]]が置かれたことがあるという稀有な歴史を持っている。 |
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完成当初は当時の大坂城に匹敵する規模の城だったといわれるが、[[関ヶ原の戦い]]で減封されて広島を去った毛利輝元に代わって城主となった[[福島正則]]による改築があり、築城当時の広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明である。 |
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[[広島市中央公園]]と隣接している。 |
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関ヶ原の戦いの後、[[1600年]](慶長5年)に福島正則が毛利輝元に替わって広島城に入城。この時代に、それまで二葉の里付近から城の北側を通っていた[[西国街道]]を、城下の南側を通るように付け替えるとともに[[雲石街道]]を整備した(一説には毛利輝元時代)といわれ、町人町が拡大した。しかし、幕府に無届けで修築したためそれをとがめられ、二段にしてあった本丸の上段石垣を破却している。これは現在でも確認できる。 |
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== 別称 == |
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結局、福島正則は[[1619年]](元和5年)に[[改易]]の憂き目を見ることになり、以降は[[浅野氏]]の居城となった。 |
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別称は鯉城(りじょう)。ここ一体は昔「己斐浦」と呼ばれ、広島市[[西区 (広島市)|西区]][[己斐]]の地名は[[延喜式]]で嘉字地名とされる前は「[[コイ|鯉]]」であったと言われていることから、この名がついた<ref name="sirouya15">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya15.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第15号|accessdate=2012-03-31}}</ref><ref>{{Cite web|author=玉置和弘 |publisher=広島城|url=http://ww7.enjoy.ne.jp/~kazu-tamaki/rijo.html|title=広島城と鯉城|accessdate=2012-04-01}}</ref><ref name="sirouya09" />。一説には堀にたくさんの鯉がいたからとも、天守が黒いからとも言われる。 |
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現存する資料の中で鯉城の名前が使われた最も古い資料は江戸時代の終わりごろ、[[頼山陽]]の息子[[頼聿庵]]が読んだ漢詩の一節「''原文不明''(振り返れば鯉魚(りぎょ)の城)」である<ref name="sirouya15" /><ref>{{Cite web|date=2011-09-17|publisher=中国新聞|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Tenpu/Te201109170071.html|title=カープの名付け親|accessdate=2012-04-02}}</ref>。由来については江戸時代に書かれた資料はなく、現在一般的に知られる由来は明治時代以降の資料からである<ref name="sirouya15" />。よって一部では鯉城の由来は明治期に考えられたと唱えるものもいる<ref name="sirouya15" />。 |
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浅野藩政時代の広島城は内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城であったが、[[明治維新]]後には[[1911年]]([[明治]]44年)に外堀が埋められ、さらに原爆の瓦礫で中堀が埋められて現在の規模になった。広島市内の「八丁堀」、「薬研堀」などの地名は堀があった名残である。八丁堀は約8丁(約880メートル)あった東側の外堀にちなむ。また市内の庭園「[[縮景園]]」は、元々は城内だった。外堀は南側では現在の相生通りの南半を東西に走っており、現在の紙屋町西交差点あたりに[[大手門]]があった。北端は現在の城北通りであり、外堀の水は[[三篠橋]]付近の[[旧太田川|本川]](旧太田川)から引いていた。 |
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2003年、中区八丁堀の[[国土交通省]]中国[[地方整備局]]太田川河川事務所での発掘作業で、「鯉の[[金箔]]瓦」が1点出土している<ref>{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/kinpakukeifu.html|title=金箔瓦の系譜|accessdate=2012-04-01}}</ref>。金箔が施されていることから毛利氏時代のもの(下記金鯱瓦の項もあわせて参照)と推定されているが、天守と関係あるものかは不明<ref>{{Cite web|author=玉置和弘 |publisher=広島城|url=http://ww7.enjoy.ne.jp/~kazu-tamaki/kimpaku.html|title=広島城の金箔瓦について|accessdate=2012-04-01}}</ref>。 |
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=== 天守 === |
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[[ファイル:Hiroshima Castle 11.JPG|thumb|200px|東小天守の跡]] |
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[[天守]]は連結式と呼ばれるもので特に複合連結式ともいい、大天守から[[櫓|渡櫓]]で2つの小天守を南と東に連結するものであった。望楼型で黒漆塗りの下見板が張られた壁面は豊臣秀吉の大坂城天守を模したともいわれ、[[屋根]]には金箔[[瓦]]が施されていたともいうが、内部は天井も張られていない簡素なものであったという。 |
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[[鯉城通り]]、鯉城会館、鯉城高校(現[[広島県立広島国泰寺高等学校]])など、市内中心部にある施設に鯉城を冠した名前のものが多い。 |
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明治期に小天守を失い、大天守のみが保存されることとなり、戦前は他の現存する建造物とともに旧制の国宝に指定されていた。太平洋戦争末期の[[広島市への原子爆弾投下|原子爆弾投下]]の際には、爆発時の熱線に耐えたものの、その直後の爆風の衝撃波と圧力により下部2層が上部の重さに耐えきれず倒壊、間もなく上部3層も崩落し、大量の建材が天守台や北東の堀に散乱したという<ref>[http://sankei.jp.msn.com/region/chugoku/hiroshima/100802/hrs1008020405002-n1.htm 原爆投下時の広島城、爆風で下層部崩れる。博物館調査で倒壊過程判明][[産経新聞]]([[2010年]][[8月2日]])</ref>。建材のその後に関しては定かではないが、生活に困窮した市民が使用したという証言があるほか、[[被爆者]]を救済するため、[[瀬戸内海]]の製塩業者に建材と塩を[[広島市]]が交換したともいう。公式文書には、このことは一切記されていない。 |
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また鯉城から「[[広島東洋カープ]]」(英語で鯉がCARP)のチーム名が付けられた<ref name="sirouya15" />。ちなみにカープが毎年シーズン前に必勝祈願に訪れる[[広島護国神社]]はここ城址公園内にある。 |
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== 歴史 == |
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現在の大天守は[[1958年]](昭和33年)に「[[広島復興大博覧会]]」が開催された際、鉄骨鉄筋コンクリート造で外観復元された。ただし最上階層は木造で復元されている。 |
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=== 前史 === |
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この地は[[太田川]]下流域にあたり、上流から土砂が堆積し[[三角州]]を形成し、[[中世]]には小島や[[砂州]]に小規模な集落が点在していた<ref>[[#原爆戦災誌]]、p.5。</ref><ref name="rijo-castle-1">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/sub4a.html|title=築城前の広島|accessdate=2012-03-26}}</ref>。 |
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[[承久の乱]]以降、その戦功により[[安芸国]][[守護]]に命じられた[[武田氏]]により当地は治められていたが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]になると[[毛利元就]]が武田氏を滅ぼし[[厳島の戦い]]で[[陶氏]]([[大内氏]])に勝利したことにより、以降当地は[[毛利氏]]によって支配されることになる<ref name="rijo-castle-1" /><ref name="sensai6">[[#原爆戦災誌]]、p.6。</ref>。 |
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=== 別称 === |
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広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は「鯉」であったと言われ、ここから鯉城の別名がついた。一説には堀にたくさんの[[コイ|鯉]]がいたからとも、天守が黒いからとも言われる。またこの別名から「[[広島東洋カープ]]」のチーム名が付けられた。カープは英語で鯉の意味である。 |
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それまでの毛利氏の居城である[[吉田郡山城]]は、[[尼子氏]]の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また[[山陰地方|山陰]]・[[山陽地方|山陽]]を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していた<ref name="rijo-castle-2">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/sub4b.html|title=広島城築城|accessdate=2012-03-26}}</ref>。ただ[[毛利輝元]]時代の[[天正]]末期になり天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを[[城下町]]として整備し領国の政務・商業の中心地として発展させる「[[城#近世|近世城郭]]」建築の時代になる<ref name="rijo-castle-2" />。中国地方9か国120万石の太守であった毛利氏にとって、山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭なものとなり始めた<ref name="rijo-castle-2" /><ref name="zakzak2012-01-27">{{Cite web|author=[[濱口和久]] |publisher=zakzak|date=2012-01-27|url=http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120127/dms1201270835003-n1.htm|title=毛利輝元が威信かけた広島城|accessdate=2012-03-28}}</ref>。そこで、海上交易路である[[瀬戸内海|瀬戸内]]の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めた<ref name="rijo-castle-2" />。 |
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[[1588年]](天正16年)、輝元は上洛の際に[[大阪城]]や[[聚楽第]]を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われている<ref name="rijo-castle-2" />。一説には[[永禄]]年間([[1558年]]-[[1569年]])の輝元の祖父である元就のころから現在の広島の平野部への築城構想はあった<ref name="rijo-castle-1" />という。 |
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== 歴史 == |
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=== 近世 === |
=== 近世 === |
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==== 安土桃山時代 ==== |
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|寄せ= |
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[[1589年]]([[天正]]17年)に毛利氏の当主・[[毛利輝元]]が、交通の要衝である太田川三角州(当時の名称は五箇村)に築城を開始した。 |
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|1=Terumoto Mouri.jpg |
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|2=毛利輝元。 |
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|3=Masanori Fukushima.JPG |
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|4=福島正則。 |
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|5=Nagaakira Asano.jpg |
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|6=浅野長晟。 |
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{{See also|広島藩}} |
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[[1589年]](天正17年)2月、輝元は現地調査のため吉田郡山を出発し、明星院山(現[[東区 (広島市)|東区]][[二葉山]])・新山(現東区[[牛田 (広島市)|牛田]])・己斐松山(現[[西区 (広島市)|西区]][[己斐]][[旭山神社]]付近)の3箇所に登り太田川下流域を検地した結果、「最も広い島地」である五箇村(あるいは五ヶ村)に築城することに決めた<ref name="sensai6" /><ref name="rijo-castle-2" />。 |
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同年、[[二宮就辰]]らの指揮の下、築城が開始された。この築城は同時期に進行しつつあった[[豊臣秀吉]]の[[文禄・慶長の役|朝鮮征伐]]の後方基地としての期待もあり、秀吉は築城技術のサポートとして側近の[[黒田孝高|黒田如水]]を派遣し、自らも建設中に広島城に滞在したという話も残る。城の構造は大坂城を参考として、縄張は聚楽第に範を取っているといわれ、一説には縄張を如水が思案したとも言われている<ref name="zakzak2012-01-27" />。築城は川の中州の埋め立てと、堀の[[浚渫]]が初段の大工事となった。また、堀は三重に巡らされ、馬出を多数備える実戦的な城構えであった。 |
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[[1590年]](天正18年)末、本丸のみ竣工したことから、[[1591年]](天正19年)1月8日に輝元は入城した<ref name="rijo-castle-2" /><ref name="sensai6" />。[[1593年]]([[文禄]]2年)石垣が完成、[[1599年]]([[慶長]]4年)に全工事が完了し落成した<ref name="rijo-castle-2" />。なお「広島」という名はこの頃に付けられたと言われている(詳細は[[広島市#市名の由来]]参照)<ref name="zakzak2012-01-27" />。 |
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完成当初は当時の大坂城に匹敵する規模の城だった<ref name="zakzak2012-01-27" />といわれるが、[[関ヶ原の戦い]]で減封されて広島を去った毛利輝元に代わって、[[1600年]](慶長5年)城主となった[[福島正則]]による改築<ref name="rijo-castle-3">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/sub4c.html|title=福島氏の入国と改易|accessdate=2012-03-26}}</ref>があり、築城当時の広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明である。 |
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[[1599年]]([[慶長]]5年)に完成。 |
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[[福島氏]]時代、[[穴太衆]]を雇入れ大規模な整備が行われた<ref name="rijo-castle-3" />。外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城となったのはこの頃である<ref name="rijo-castle-3" />。二葉の里付近から城の北側を通っていた[[西国街道]]を城下の南側を通るように付け替える<ref name="rijo-castle-3" />とともに[[雲石街道]]を整備した(一説には毛利輝元時代)といわれ、町人町が拡大<ref name="rijo-castle-3" />した。しかし、[[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]5年)、福島正則は洪水による被害の修復を幕府から無届け改築ととがめられ、[[改易]]され信濃国川中島へ転封された<ref name="rijo-castle-3" />。 |
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==== 江戸時代 ==== |
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[[関ヶ原の戦い]]後、毛利氏は防長二国(長州藩)に減封され、広島城は[[福島正則]]の居城となった。 |
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同年8月8日、[[浅野長晟]]入城以降は[[浅野氏]]の居城となり、[[明治|明治時代]]に至るまで12代約250年間続いた<ref name="rijo-castle-4">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/sub4d.html|title=浅野氏の治世|accessdate=2012-03-26}}</ref>。広島城の改修は福島氏の段階で完了していたと考えられていたが、近年の調査で一部の[[櫓台]]石垣は浅野氏時代に構築されたと判明している<ref name="rijo-castle-4" />。浅野氏時代には城普請はほぼ行われなかったが、大規模な[[干拓]]事業は引き続き行われ、約250年間で当初の域より5から6倍規模にまで広がった<ref name="sensai6" />。 |
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[[1619年]]([[元和 (日本)|元和]]5年)に洪水による被害の修復を幕府から無届け改築ととがめられ、[[改易]]され、信濃国川中島へ転封された。 |
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代わって[[紀伊国|紀伊]][[和歌山市|和歌山]]より[[浅野長晟]]が入城し、その後は、[[明治|明治時代]]に至るまで12代約250年間にわたって浅野氏の居城であった。『[[忠臣蔵]]』で知られる[[赤穂藩]]の[[浅野長矩]]は分家にあたる。 |
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[[1864年]]([[元治]]元年)第一次[[長州征討]]の際[[徳川慶勝]]を総督とする幕府軍の本営となる。この際、慶勝によって撮影された幕末の広島城の写真が現在に残る。 |
[[1864年]]([[元治]]元年)第一次[[長州征討]]の際、[[徳川慶勝]]を総督とする幕府軍の本営となる<ref name="rijo-castle-4" />。この際、慶勝によって撮影された幕末の広島城の写真が現在[[徳川林政史研究所]]に残る<ref>{{Cite web|publisher=徳川林政史研究所|url=http://www.tokugawa.or.jp/institute/image_holder02/syasin01-mokuroku.pdf|format=PDF|title=徳川林政史研究所所蔵写真資料目録|accessdate=2012-04-03}}</ref>。[[戊辰戦争]]になると広島藩は[[官軍]]として戦ったため、城に被害はなかった。つまり、築城から[[江戸時代]]の間、この城は戦の舞台にはならなかったことになる<ref name="sirouya09" />。 |
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=== 近代 === |
=== 近代 === |
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[[File:Hiroshima map circa 1930.PNG|300px|thumb|[[1930年]]頃([[昭和]]初頭)の[[広島市|廣島市]]の地図。広島城は中央やや上にあり、周辺も含めて[[日本軍]]の施設が集中した。]] |
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|寄せ= |
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[[1894年]]の[[日清戦争]]に際し、[[広島大本営]]が城内に設置される。 |
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|幅= 200px |
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|1=Hiroshima Chindai Headquarters.JPG |
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|2=明治期の広島鎮台。後に第五師団司令部、大本営、史跡化、中国軍管区司令部になる。左上に広島城天守が見える。 |
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|3=Imperial General Headquarters in Hiroshima.JPG |
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|4=広島大本営(右の建物)。左隅は[[昭憲皇太后]]御座所。左上に広島城天守が見える。 |
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|5=Hiroshima map circa 1930.PNG |
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|6=[[1930年]]頃([[昭和]]初頭)の[[広島市|廣島市]]の地図。広島城は中央やや上にあり、周辺も含めて日本軍の施設が集中した。 |
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|7=AtomicEffects-p7a.jpg |
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|8=被爆前の市内中心部。同心円の中心が爆心地。右上の矩形が広島城。 |
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|9=AtomicEffects-p7b.jpg |
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|10=被爆後。 |
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|11=Hiroshima - Extend Of Fire & Limits Of Blast Damage.jpg |
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|12=被爆による被害分布図。赤色が全焼区域。 |
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[[1871年]]([[明治]]4年)7月14日、[[廃藩置県]]。浅野氏による藩政体制は終りをつげ[[広島県]]が発足し、本丸に[[広島県庁舎]]が設置された<ref name="rijo-castle-5">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/sub4f.html|title=近代の広島城|accessdate=2012-03-27}}</ref>。同年12月、本丸に鎮西[[鎮台]](のちの熊本鎮台)第一分営が置かれると県庁舎は三の丸に移転した<ref name="rijo-castle-5" />。[[1873年]](明治6年)1月、広島鎮台が正式に発足し、以降広島城には[[大日本帝国陸軍]]の施設が建てられるようになる一方で解体や火事により江戸時代の建物は失われている<ref name="rijo-castle-5" />。同年3月、三の丸に[[兵営]]が置かれる<ref name="rijo-castle-5" />と、県庁舎は[[国泰寺 (広島市)|国泰寺]]へ移っていった。[[1875年]](明治8年)4月[[歩兵連隊|歩兵第十一連隊]]設置、同年6月西練兵場設置<ref name="rijo-castle-5" />。 |
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[[1887年]](明治20年)、広島の開基地ということから、旧城廓内であるこの地を正式に「[[基町]]」と名付けられたと言われている<ref name="sensai303" />。 |
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[[1931年]]([[昭和]]6年)[[国宝]]に指定される。 |
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[[1888年]](明治21年)5月、広島鎮台は[[第5師団 (日本軍)|第五師団]]に改編されると本格的に軍としての機能を拡大させ、広島市は軍都として近代都市へと発展していった<ref name="rijo-castle-5" /><ref name="sensai7">[[#原爆戦災誌]]、p.7。</ref>。当時は基町全域が軍用地であった<ref name="sensai303" />。 |
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[[1945年]](昭和20年)[[8月6日]]午前8時15分[[広島市への原子爆弾投下|原子爆弾投下]]により天守などすべての建物が倒壊。 |
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[[1894年]](明治27年)7月、[[日清戦争]]が勃発すると城内に[[広島大本営]]が設置される(設置理由など詳細は広島大本営を参照)<ref name="rijo-castle-5" /><ref name="sensai7" />。同年[[9月15日]]から[[1895年]](明治28年)[[4月27日]]まで[[明治天皇]]は広島に[[行幸]]した<ref name="sensai7" />。これに伴い[[第7回帝国議会]]も広島で召集され、短期間ながら臨時[[首都]]として機能した<ref name="rijo-castle-5" /><ref name="sensai7" />。なお、大本営解散の後は「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」として保存されていた。当時、従軍記者として訪れた[[正岡子規]]は1句残している<ref name="sensai303">[[#原爆戦災誌]]、p.303。</ref>。 |
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{{Quotation|春暁や 城あらはるる 松の上|正岡子規|<ref name="sensai303" />}} |
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[[1897年]](明治30年)4月、広島陸軍地方幼年学校(のちの[[広島陸軍幼年学校]])が城内に設置される<ref name="sensai7" />。ちなみに同年に市内の別の場所に陸軍中央糧秣廠宇品支廠([[宇品陸軍糧秣支廠]])や大阪砲兵工廠広島派出所(のちの[[広島陸軍兵器補給廠]])が設置されている<ref name="sensai7" />。 |
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日清戦争および[[日露戦争]]以降、広島市は爆発的に人口増加していき、その中で広島城の堀の悪臭が目立つようになる<ref name="rijo-castle-5" /><ref name="sensai7" />。そこで明治40年代になると市により外堀や城下町時代の運河として使われていた西塔川や平田屋川の埋め立てが始まり、[[1911年]](明治44年)11月外堀埋立完了、[[1912年]]([[大正]]元年)西塔川埋立完了、[[1915年]](大正4年)平田屋川埋立(減幅して溝に)完了した<ref name="rijo-castle-5" /><ref name="sensai7" />。その埋め立てられた土地には、1912年から[[1918年]](大正7年)にかけて道路や広島電気軌道([[広島電鉄本線]])が整備されると、旧外堀の一部は繁華街となっていった<ref name="sensai7" /><ref name="sirouya05" />。 |
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その中で広島城の歴史的価値を見出され、[[1926年]](大正15年)10月大本営跡が[[史跡]]指定、[[1931年]]([[昭和]]6年)1月天守閣が[[国宝]]指定される<ref name="rijo-castle-5" />。 |
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[[太平洋戦争]]末期には[[本土決戦]]に備え、[[広島師管区]]司令部は[[中国軍管区 (日本軍)|中国軍管区]]司令部に改編され、城内の大本営跡に司令部を置き、本丸の南端で内堀の石垣に沿って[[シェルター]]化した防空作戦室(現在の[[中国軍管区司令部跡]])を建設した。[[1945年]](昭和20年)4月、西練兵場の南端に中国[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]司令部本部が置かれた<ref name="sensai303" />。 |
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また戦争末期まで、天守閣、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など、江戸時代からの建物が残っていた<ref name="rijo-castle-5" />。ただこれらの施設には軍の重要書類が多数積み込まれていた<ref name="sensai305">[[#原爆戦災誌]]、p.305。</ref>。市内には高いビルが建設されていたが、まだこの当時は天守閣を市内どこからも見ることができた<ref name="sensai303" />。また軍施設ということから一般人の立ち入りは許可されていなかった<ref name="sensai308">[[#原爆戦災誌]]、p.308。</ref>。 |
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[[1945年]](昭和20年)[[8月6日]]午前8時15分、[[広島市への原子爆弾投下]]。軍事施設が集中していたことから、破壊目標となった<ref>[[#原爆戦災誌]]、p.27。</ref>。ここは[[爆心地]]からほぼ1キロメートル離れたところに位置した<ref name="sirouya02" />。 |
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建物が爆風により一瞬にして倒壊、火災により消失している<ref name="rijo-castle-5" /><ref name="sensai305" />。なお天守は爆風や火災によるものではなく、自壊している(下記天守の項を参照)<ref name="hiroshimapeacemedia2010-07-15" />。樹木は、根こそぎ引きぬかれたものや、真ん中から裂けたり折れたりしたものが多数だった<ref name="sensai308" />。兵士は食事中あるいは朝礼最中の事で<ref>[[#原爆戦災誌]]、p.304-p.305。</ref>、彼らは軽々と吹き飛び<ref name="sensai305" />、あるものは即死<ref>[[#原爆戦災誌]]、p.263。</ref>、またあるものは倒壊した建物により圧死した<ref>[[#原爆戦災誌]]、p.307。</ref>。生き残ったものはほぼ北([[牛田 (広島市)|牛田]]に[[工兵]]第5連隊作業場があった)へ逃げている<ref name="sensai308" />。中国軍管区司令官[[藤井洋治]]陸軍中将は西練兵場南西端にあった庁舎で被爆しそこで死んでいる<ref name="sensai308" />。当時ここ一帯には約1万人の兵士が居たが、建物と共にすべての部隊は壊滅した<ref>[[#原爆戦災誌]]、p.309。</ref>。 |
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唯一倒壊せず原型をとどめていた建物が防空作戦室だった<ref name="sensai305" />。ここから被爆の第一報を通信している(詳細は[[中国軍管区司令部跡]]および[[広島市への原子爆弾投下#第一報 8月6日]]参照)。 |
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火災が収まると、逃げ切れなかったものを手当てするため城内に臨時救護所が設けられたが、薬品不足など十分な医療行為が行えない事情から、そのまま死んでいくものも多かった<ref name="sensai313">[[#原爆戦災誌]]、p.313。</ref>。 |
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翌[[8月7日]]、[[松村秀逸]]中国軍管区参謀長による指揮の下、防空作戦室前にテントを設け、軍の再建を図ることになった<ref name="sensai313" />。[[8月15日]]終戦。[[8月16日]]、停戦および復員命令が下され、9月から11月にかけて各部隊は解散した<ref name="sensai314">[[#原爆戦災誌]]、p.314。</ref>。中国軍管区は11月末に一旦解散後、[[第一復員省]]中国復員監理部として再編された<ref name="sensai314" />。 |
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=== 現代 === |
=== 現代 === |
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[[ファイル:Hiroshima Aftermath 1946 USAF Film.ogg|thumbtime=1:40 |right|thumb|200px|1946年[[三村明]]が撮影した米軍映画撮影隊による映像。戦後すぐこの付近には仮設住宅が建てられた。]] |
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*[[1951年]](昭和26年) - [[第6回国民体育大会|広島国体]]にあわせて木造仮設天守閣が作られる。国体終了後に解体された<ref>[https://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1204155719035/html/common/4de337d6032.html 広報ひろしま(平成20年3月1日号)]</ref>。 |
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[[ファイル:Hiroshima Castle 1988.jpg|thumb|200px|right|1988年。{{国土航空写真}}門や櫓が無いことが分かる。]] |
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*[[1953年]](昭和28年) - [[3月31日]]に国の史跡に指定された。 |
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戦後、西練兵場で中国からの[[引揚者]]が開墾し始めた<ref name="sensai314" />。[[1948年]](昭和23年)になるとそこに市営の住居が建っており、[[1949年]](昭和24年)には川沿いに[[バラック]]が建ち始め<ref name="sensai314" />、後に[[原爆スラム]]が形成される。官公庁の庁舎も建ち始め、[[広島児童文化会館]]建設が決まるなど、周囲は再開発されていった<ref>[[#原爆戦災誌]]、p.315。</ref>。 |
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*[[1954年]](昭和29年) - [[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[府中町]]所在の[[多家神社]]宝蔵が広島県の重要文化財に指定。三の丸にあった稲荷社が明治7年([[1874年]])同社に移築されたもので、現存する広島城の建造物としては唯一。 |
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*[[1958年]](昭和33年) - 大天守が鉄骨鉄筋コンクリート造で外観復元される。 |
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*[[1989年]](平成元年)から[[1994年]](平成6年)にかけて、いくつかの建造物が木造で復元されている。 |
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<!--*[[2006年]](平成18年)4月6日 - [[日本100名城]](73番)に選定された。[[2007年]](平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。--><!--左の件は「観光」の欄に記載--> |
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ただ、本丸及び二の丸は用途の決まらないまま放置され、草むらと化していた<ref name="sirouya02">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya02.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第2号|accessdate=2012-03-31}}</ref>。市民の中では当初、内堀を埋め立て平地にし再開発を唱えるものもいた<ref name="sirouya02" />。平和運動の一環として[[長田新]][[広島文理科大学 (旧制)|旧制広島文理大学]]教授を中心に、本丸に[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神]]のレプリカを建てる運動も起こった<ref name="sirouya02" /><ref>{{Cite web|publisher=ヒロシマ平和メディアセンター|url=http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20100903101404599_ja|title=ヒロシマの記録1947 7月|accessdate=2012-03-31}}</ref>。市や市議会は大本営跡を[[原爆十景|原爆記念保存物]]に選ぶなど被爆により荒廃した広島で新たな観光の目玉を欲していた<ref>{{Cite web|publisher=中国新聞|date=2007-04-30|url=http://www.chugoku-np.co.jp/abom/2007/hiroshima_kiroku/2007043001.html|title=ヒロシマの記録―甦る「原爆十景」|accessdate=2012-03-31}}</ref>ことから天守再建を望んだが、文化財関係者は被爆により廃墟になった現状こそ価値があると再建反対に回った<ref name="sirouya10">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya10.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第10号|accessdate=2012-03-31}}</ref>。なお、被爆数年後の本丸の映像は1952年公開の[[新藤兼人]]監督『[[原爆の子 (映画)|原爆の子]]』で見ることが出来る<ref name="chugoku2010-07-15">{{Cite web|date=2011-04-09|publisher=中国新聞|url=http://www.chugoku-np.co.jp/Tenpu/Te201004090107.html|title=鯉城の痕跡|accessdate=2012-04-03}}</ref>。 |
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ファイル:多家神社04.JPG|多家神社の宝蔵 |
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[[1951年]](昭和26年)、[[第6回国民体育大会|広島国体]]にあわせて木造仮設天守閣が作られる<ref name="rijo-castle-5" />。地元紙[[中国新聞]]は以下の報道をしている。 |
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ファイル:多家神社05.JPG|[[正倉|校倉造り]]だが、他に例の少ない四角形に近い断面六角形の校木を使用している |
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{{Quotation|あの水都の象徴であった鯉城が原爆以来五年目にふたたび出現、広島市民の郷愁を呼び起こしている。|1951年3月13日付中国新聞|<ref name="sirouya09" />}} |
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国体終了後に解体されたが、後の天守再建の機運へとつながった<ref name="rijo-castle-5" />。 |
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[[1953年]](昭和28年)[[3月31日]]、城跡が国の史跡に指定されると天守再建の機運が高まった<ref name="rijo-castle-5" />。戦後の[[高度経済成長]]の中で、[[1958年]](昭和33年)市政70周年を迎えるにあたり[[広島復興大博覧会]]開催が決まり、[[広島平和記念資料館]]開館と共に博覧会の目玉として天守再建が決定した<ref name="rijo-castle-5" /><ref>{{Cite web|publisher=広島平和記念資料館公式|url=http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/visit/est/panel/A4/4303_2.htm|title=広島復興大博覧会の開催|accessdate=2012-03-27}}</ref>。これには[[渡辺忠雄]]市長と市側の復元への強い想いが大きく作用した<ref name="sirouya10" />。[[1957年]](昭和32年)10月20日着工、翌1958年3月26日竣工<ref name="rijo-castle-5" />。同年6月1日、広島城郷土館(現在の博物館)開館した<ref name="rijo-castle-5" />。また、この時期に[[広島護国神社]]が本丸に移転再建されている。 |
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築城400周年・市政100周年を迎えたことにより改修を行い、[[1989年]](平成元年)から[[1994年]](平成6年)にかけて、二の丸の復元が行われ、博物館も展示内容を見なおされている<ref name="rijo-castle-5" /><ref>{{Cite web|publisher=広島県観光|url=http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/hiroshima/spot/1471.html|title=広島城|accessdate=2012-03-28}}</ref>。 |
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[[2006年]](平成18年)4月6日、[[日本100名城]](73番)に選定された。[[2007年]](平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。 |
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{{wide image|Hiroshima Castle panorama view.jpg|800px|天守閣展望からのパノラマ撮影。左が東北東方向、右が南方向にあたる。左に[[広島市立白島小学校]]や[[中国放送]]、[[広島高等裁判所]]が見える。}} |
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== 構造 == |
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=== 縄張 === |
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[[ファイル:Hiroshima Castle Town 1644.jpg|thumb|300px|right|安芸国広島城所絵図。]] |
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藩政時代の広島城は、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の、広さ約90万平方メートルの規模があった<ref name="sirouya03" />。外堀は、南端が今の[[相生通り]]<ref name="sirouya04">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya04.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第4号|accessdate=2012-03-31}}</ref>、北端はほぼ[[城北通り]]、東端が[[白島通り]]の1本西側の道路で北側の一部が白島通りに一致する<ref>{{Cite web|author=玉置和弘 |publisher=広島城|url=http://ww7.enjoy.ne.jp/~kazu-tamaki/sototanken.html|title=広島城の痕跡|accessdate=2012-04-01}}</ref>。外郭を整備した福島正則は[[旧太田川]](本川)を西側の外堀と位置づけ、ここより西の大名(主に周防長門へ転封した毛利氏)からの攻撃を想定し、特に西側を増強していた<ref>{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya19.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第19号|accessdate=2012-03-31}}</ref>。外堀の水は[[三篠橋]]付近の本川から引いていた。 |
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広島市には城が由来の地名が残っている。「[[紙屋町・八丁堀|八丁堀]]」「[[薬研堀]]」などの地名は堀があった名残である。八丁堀は約8丁(約880メートル)あった東側の外堀にちなむ。八丁堀の「京口門」バス停留所は、城から東方向([[京都]])へ向かう門があった場所にある<ref name="sirouya04" />。現在の紙屋町西交差点あたりに[[大手門]]があった。[[大手町通り (広島市)|大手町通り]]や[[広島本通商店街|本通り]]<ref>{{Cite web|publisher=中国新聞|url=http://www.chugoku-np.co.jp/tokusyuu/mitikikou/m021124.html|title=みち紀行|accessdate=2012-04-03}}</ref>は毛利氏による城下町整備の際にできた通りである。 |
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戦前から同地に建っている[[福屋八丁堀本店]]本館は、相生通りに面して平行ではなく少しズレた状況で建っている。これは外堀を埋め立てた際に整備された当時の相生通りに対して平行に建てられたためで、戦後に相生通りを整備した際にズレる形となった<ref name="sirouya05">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya05.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第5号|accessdate=2012-03-31}}</ref>。つまり福屋本館は広島城の外堀に対して平行に建っていることになる<ref name="sirouya05" />。 |
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[[明治維新]]後には[[1911年]]([[明治]]44年)に外堀が埋められ、さらに原爆の瓦礫で中堀が埋められて現在の規模になった。 |
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=== 天守 === |
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[[ファイル:Hiroshima castle before bomb.jpg|thumb|300px|right|被爆数年前の広島城。]] |
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{{multiple image |
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| footer = 被爆前後の本丸および二の丸。本丸中央が旧大本営、当時は中国軍管区司令部。小天守2つはこの時点で存在していないと分かる。 |
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| align = right |
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| width = 150 |
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| image1 = Hiroshima Castle 25july1945.jpg |
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| caption1 = 被爆前。 |
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| image2 = Hiroshima Castle 11august1945.jpg |
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| caption2 = 被爆後。 |
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}} |
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;初代 |
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初代[[天守]]は連結式と呼ばれるもので特に複合連結式ともいい、大天守から[[櫓|渡櫓]]で2つの小天守を南と東に連結するものであった。望楼型で黒漆塗りの下見板が張られた壁面は豊臣秀吉の大坂城天守を模した<ref name="sirouya04" />ともいわれ、[[屋根]]には金箔[[瓦]]が施されていたともいうが、内部は天井も張られていない簡素なものであったという。 |
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大天守の東側と南側には小天守があった。明治期に2つ共に取り壊され、昭和期に大天守を復元した際には小天守は復元されなかった<ref name="sirouya08">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya08.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第8号|accessdate=2012-03-31}}</ref>。現在の博物館入口前の広場が南の小天守と廊下にあたり、東の小天守は基礎が残っている<ref name="sirouya08" />。 |
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<gallery widths="150px" heights="150px"> |
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ファイル:Hiroshima Castle 10.JPG|南小天守の石垣。 |
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ファイル:Hiroshima Castle 11.JPG|東小天守の跡(奥の石垣)。手前は初代大天守の礎石を移設したもの。 |
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</gallery> |
</gallery> |
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戦前は他の現存する建造物とともに旧制の国宝に指定されていた。太平洋戦争末期の原子爆弾投下の際には、爆発時の熱線に耐えたものの、その直後の爆風の衝撃波と圧力により下部2層が上部の重さに耐えきれず倒壊、間もなく上部3層も崩落し、大量の建材が天守台や北東の堀に散乱した、ということが近年の研究で判明している<ref name="hiroshimapeacemedia2010-07-15" />。倒壊後はしばらくそのまま放置されている<ref name="chugoku2010-07-15" />。建材のその後に関しては定かではないが、生活に困窮した市民が使用したという証言がある<ref name="sirouya08" />ほか、[[被爆者]]を救済するため、[[瀬戸内海]]の製塩業者に建材と塩を[[広島市]]が交換したともいう。公式文書には、このことは一切記されていない。 |
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== 金鯱瓦 == |
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[[2009年]]3月、広島城内であった広島市中区の合同庁舎建設前調査の用地から発見された[[井戸]]跡より、[[金箔]]を施した鯱瓦が一対発見されたことが発表された。この金箔瓦は築城当時のものと推定され、[[豊臣政権]]の権威の象徴として設置されたと考えられている。金箔瓦は[[織田信長]]の[[安土城]]が最初とされ、その後[[豊臣秀吉]]の[[大坂城]]に引き継がれ、豊臣政権下では金箔瓦の設置は豊臣政権に近い有力大名にしか認めていなかったとされる。 |
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;2代目 |
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この瓦は、広島城[[本丸]]の本丸櫓門の棟上に飾られていた金鯱瓦と推定され、金箔瓦は過去にも広島城内の武家屋敷での出土が確認され、鯱瓦については[[甲府城]]での出土例もあるが、ほぼ完全な状態での出土は日本初となる。 |
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1951年(昭和26年)、広島国体開催に合わせて再建された仮設の木造天守閣<ref name="sirouya09">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya09.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第9号|accessdate=2012-03-31}}</ref>。天守を博物館として利用し始めたのはこの頃からである<ref name="sirouya09" />。夜はライトアップされ、アトラクションとして天守の周りを「スイッチバック・レールウェイ(木製の[[ローラーコースター|ジェットコースター]])」が設置された<ref name="sirouya09" />。竣工時期は不明、国体終了と共に取り壊された<ref name="sirouya09" />。なお仮設でありながら大型台風の[[ルース台風]]にも倒壊せず耐えている<ref name="sirouya09" />。 |
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;3代目(現在) |
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用地で発見された井戸跡は、多くの瓦が詰め込まれたような状態で発見され、金鯱瓦の他にも金箔の施されていない鯱瓦一対と[[ホタテ貝]]の模様の入った瓦、[[鬼瓦]]も同時に出土した。井戸跡に埋められていた理由について、[[三浦正幸]]は「毛利輝元が防長2国に移封された後に広島城に入った[[福島正則]]が本丸櫓門から取り外し、城主交代を広く知らしめるために、儀式的な意味で丁重に井戸に沈めて埋納したのではないか」と推測した<ref>[[中国新聞]]、2009年3月5日。</ref>。また地元研究者{{誰|date=2010年11月}}は「毛利輝元の家臣が、関ヶ原の敗北後に急いで瓦を廃棄した」と主張している。 |
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[[ファイル:Hiroshima Castle by night.JPG|thumb|200px|right|夜の広島城。2009年。]] |
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現在の大天守は[[1958年]](昭和33年)に「[[広島復興大博覧会]]」が開催された際、外観復元された<ref name="sirouya10" />。総事業費約3,600万円<ref name="rijo-castle-5" />。施工は藤田組(現[[フジタ]])<ref>{{Cite web|publisher=フジタ|url=http://www.fujita.co.jp/100th_town/fujita_town/001347.html|title=フジタのある街> 広島城|accessdate=2012-04-03}}</ref>。再建するにあたり、以下の方針がとられた<ref name="sirouya10" />。 |
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*初代天守を忠実に再現する。 |
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*最上階で市内を展望できるようにする。 |
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*博物館として利用する。 |
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火災対策のため、木造から[[鉄骨鉄筋コンクリート構造|SRC造]]に変更(ただし最上階層は木造)している。自重増加のため天守台を補強することになり[[モルタル]][[グラウト]]により栗石を固めた<ref name="sirouya10" />。瓦の復元の際には、堀に沈んだものを探したり、古い広島城のものを新聞紙面上で募集したりしている<ref name="sirouya10" />。 |
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=== 櫓 === |
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[[ファイル:Hiroshima Castle 03.JPG|thumb|200px|right|二の丸南東端にある太鼓櫓。]] |
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{{main|広島大本営}} |
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2012年現存する櫓は1989年(平成元年)の大改修の際に再建されたものである。 |
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広島城の敷地内に、全国六[[鎮台]]の一つが設置され広島は軍都として発展していくこととなった。[[歩兵連隊|歩兵第十一連隊]]や[[広島陸軍幼年学校]]などが城内に設置された。日清戦争の際に大本営が東京から広島へ移され[[1894年]][[9月15日]]から[[1895年]][[4月27日]]まで[[明治天皇]]は広島に行幸した。これに伴い[[帝国議会]]も広島城内で召集され、短期間ながら臨時[[首都]]として機能した。大本営解散の後は「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」として保存されていた。 |
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;太鼓櫓 |
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[[鼓楼|太鼓櫓]]としては、[[姫路城]](平櫓のもの)のものと、[[掛川城]]のものと共に日本に現存する代表的なものである。 |
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=== 島普請 === |
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広島に大本営が置かれたことには、戦場であった大陸に通じる朝鮮半島に近い位置にあり<!--当時は電信技術が未発達だった理由から、情報収集や命令伝達が容易であった(この部分意味がつながらないように思うのですが?)-->、[[山陽鉄道]](現在の[[山陽本線]])が[[1894年]]6月に広島まで延伸され、また宇品港(現在の[[広島港]])が[[1889年]]に大型船舶が停泊できるように整備され、交通の便が比較的良かったことが最大の理由となっている。 |
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島普請とは、現在で言う[[地盤改良]]と[[浚渫]]、築堤工事のことを指す<ref name="mlit">{{Cite web|publisher=国交省太田川工事事務所|url=http://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/chiebukuro/search/rekisi/No_149.html|title=太田川の洪水とその克服|accessdate=2012-03-28}}</ref><ref name="kazu-tamaki">{{Cite web|author=玉置和弘 |publisher=広島城|url=http://ww7.enjoy.ne.jp/~kazu-tamaki/siro.html|title=広島城に関する基礎データ|accessdate=2012-03-28}}</ref>。 |
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当地は太田川下流域三角州の低地にあり、軟弱地盤上に城を築くために「千本杭」と呼ばれる木杭を砂地盤に打ち込んだ上に基礎を築いた工法<ref>{{Cite web|publisher=宮島観光協会|url=http://www.miyajima.or.jp/sightseeing/ss_ootorii.html|title=大鳥居|accessdate=2012-03-28}}</ref>が採用されたと伝えられてきた<ref name="kazu-tamaki"/>。ただ近年の発掘ではその証拠が見つかっていないことから、実際に行われたか否定的な意見を唱えるものもいる<ref name="kazu-tamaki"/>。 |
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浅野氏が支配した250年間で洪水にたびたび悩まされており、洪水被害やそれを修復した記録が多数残っている<ref name="mlit" /><ref name="rijo-castle-4" /><ref>{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya06.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第6号|accessdate=2012-03-31}}</ref>。 |
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|[[ファイル:広島大本営跡.jpg|200px|thumb|広島大本営跡]] |
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|[[ファイル:歩兵第十一連隊後.jpg|200px|thumb|歩兵第十一連隊跡]] |
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== 遺構 == |
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|[[ファイル:広島陸軍幼年学校跡.jpg|200px|thumb|広島陸軍幼年学校跡]] |
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=== 石垣 === |
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|} |
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1589年(天正17年)8月、毛利輝元は家来に堀の工事と石材の収集を命令したと伝えられている<ref name="sirouya07">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya07.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第7号|accessdate=2012-03-31}}</ref>。 |
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石材の殆どは加工の容易なことから[[花崗岩]]が用いられている<ref name="sirouya07" />。瀬戸内海は良質な花崗岩の産地が多いことから主に沿岸部から運び込まれており、近年の調査で[[黄金山 (広島市)|黄金山]]や[[江波山公園|江波山]](この当時は島だった)、[[倉橋島]]、[[周防大島]]などの島々からも運び込まれたと判明している<ref name="sirouya07" />。 |
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軟弱な三角州地盤に築城したため、石垣の重量を分散させる工夫がなされている。 |
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本丸北東付近、本丸上段東端に不規則につまれた状態で途切れている石垣は、福島正則の改易騒動の史実を裏付けるものと考えられている<ref name="sirouya16">{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya16.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第16号|accessdate=2012-03-31}}</ref>。正則の改易の少し前に、幕府は一度条件付きで正則を許している<ref name="sirouya16" />。その条件の一つに修築した石垣の破壊が盛り込まれていた<ref name="sirouya16" />。この部分は正則が破壊した石垣の境界部分と考えられている<ref name="sirouya16" />。 |
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広島市への原子爆弾投下の際に、内堀の一部石垣が崩れていることが米軍の空中写真により分かる(上被爆前後の写真参照)。表御門や中御門の一部の石垣に焦げたような跡があるのは被爆により発生した火災によるものである<ref>{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya26.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第26号|accessdate=2012-03-31}}</ref>。 |
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=== 金鯱瓦 === |
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[[2009年]]3月、広島市中区上八丁堀の広島地方合同庁舎5号館建設の前調査の際に、[[金鯱]]瓦が一対発見された<ref name="chugoku2009-03-05">{{Cite web|publisher=中国新聞|date=2009-03-05|url=http://web.archive.org/web/20090309070726/http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200903050135.html|title=広島城の金箔鯱瓦出土 ほぼ完全形、全国初|accessdate=2012-04-01}}</ref>。発見された場所は、本丸から見て東側の中堀と外堀の間にあたる武家屋敷にあたり、[[井戸]]跡の底に大量の瓦と共に埋まっていた<ref name="chugoku2009-03-05" /><ref name="asahi2009-11-30">{{Cite web|publisher=朝日新聞|date=2009-11-30|url=http://www.asahi.com/kansai/kouiki/OSK200911300016.html|title=広島城跡から金の鯱瓦がほぼ完全形で発見 全国で初めて|accessdate=2012-04-01}}</ref>。 |
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発見された珍しい瓦は以下のとおり<ref name="chugoku2009-03-05" />。これらは築城当時の毛利氏時代のものと推定され、地下水に浸っていたため腐食しなかったと考えられている<ref name="chugoku2009-03-05" />。 |
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[[ファイル:HiroshimaCastleDetail7226.jpg|thumb|200px|right|現在の鯱瓦(復元)。]] |
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*ほぼ完全な形の金鯱瓦一対 |
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**高さ約70センチ☓幅約30センチ<ref name="asahi2009-11-30" />。粘土製で、下地として黒漆と赤漆が塗られている<ref name="asahi2009-11-30" />。ほぼ完全な状態での出土は日本初。本丸櫓門の棟上に飾られていた金鯱瓦と推定されている。 |
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*金箔の施されていない鯱瓦一対 |
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**高さ約40センチ。 |
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*[[ホタテ貝]]の模様の入った瓦 |
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*[[鬼瓦]] |
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*家紋と見られる印が入った瓦 |
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金箔瓦は当時の[[豊臣政権]]下では「権威の象徴」<ref name="chugoku2009-03-05" />とみなされ、この瓦の設置は秀吉の許可が必要だった<ref name="chugoku2009-03-05" />ことから、近い有力大名にしか認めていなかったとされる。 |
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井戸跡に埋められていた理由について、[[三浦正幸]]広島大学教授は「毛利輝元が防長2国に移封された後に広島城に入った福島正則が本丸櫓門から取り外し、城主交代を広く知らしめるために、儀式的な意味で丁重に井戸に沈めて埋納したのではないか」<ref name="chugoku2009-03-05" />と推測した。また地元研究者{{誰|date=2010年11月}}は「毛利輝元の家臣が、関ヶ原の敗北後に急いで瓦を廃棄した」と主張している。 |
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=== 旧広島城の遺構 === |
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上記の通り、被爆により全壊しているが、旧広島城の建物は現存している。それは[[安芸郡 (広島県)|安芸郡]][[府中町]]にある[[多家神社]]で、元々は三の丸にあった稲荷社が[[1874年]](明治7年)に移築されたもの。その後火災により消失し、宝蔵のみが現在旧広島城時代の建物としては唯一のものとなっている。 |
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[[1954年]](昭和29年)、多家神社宝蔵が広島県の重要文化財に指定された。 |
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ファイル:多家神社04.JPG|多家神社の宝蔵。 |
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ファイル:多家神社05.JPG|[[正倉|校倉造り]]だが、他に例の少ない四角形に近い断面六角形の校木を使用している。 |
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=== 被爆遺構 === |
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[[ファイル:広島護国神社03.JPG|thumb|200px|right|中国軍管区司令部跡。]] |
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1993年、広島市は[[爆心地]]から5キロメートル以内に位置する[[被爆建造物]]を洗い直し、それぞれそれぞれ「被爆建物」「被爆樹木」「被爆橋梁」台帳に登録した。以下、城址公園内にある被爆遺構を列挙する。 |
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;被爆建物 |
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*[[中国軍管区司令部跡]] - 爆心地から790メートル。広島護国神社境内、南側内堀石垣の際にある半地下式鉄筋コンクリート造の平屋建ての建物。旧名「中国軍管区司令部防空作戦室」。被爆の第一報を伝令した歴史的に重要な建物である。 |
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;被爆樹木 |
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江戸時代末期、城外からの目隠しとして内堀の際に松や杉・雑木が多数植えられていた<ref name="sirouya03" />。その後も生き続けていたが被爆によりそのほとんどが倒壊した<ref name="sirouya03" />。2012年現在、被爆後も生き続けている被爆樹木が3本ある。 |
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*[[クロガネモチ]] - 爆心地から910メートル。本丸の広島大本営跡の南側に生息している。元々は大本営前の前庭にあたり車周りの植え込みの一つだった<ref>{{Cite web|publisher=NHK広島放送局|url=http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibakumap/spot/TR-0011.html|title=クロガネモチ(広島城跡)|accessdate=2012-03-28}}</ref>。 |
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*[[ユーカリ]]・[[マルバヤナギ]] - 爆心地から740メートル。二の丸の中御門前の土橋の両端に生息している<ref>{{Cite web|publisher=NHK広島放送局|url=http://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibakumap/spot/TR-0007.html|title=ユーカリ・マルバヤナギ(広島城二の丸跡)|accessdate=2012-03-28}}</ref>。 |
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ファイル:HiroshimaCastleEucalyptus7206.jpg|ユーカリ。 |
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ファイル:Hiroshima Castle 07.JPG|中御門跡とマルバヤナギ。 |
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</gallery> |
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;その他 |
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以下、被爆建物台帳に記載されていない被爆遺構である。 |
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*旧広島護国神社鳥居 - 爆心地から370メートル(移転前)。裏御門付近に移された旧広島護国神社鳥居。元々護国神社は旧外郭の南西付近、西練兵場の西側、現在の[[広島商工会議所]]の北側にあり、この鳥居は相生通りから北側すぐにあった。被爆により鳥居だけは残った。護国神社が本丸に移転した際に、旧鳥居を現在地に移転している。 |
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*広島大本営跡 - 爆心地から900メートル。明治期に作られた大本営は被爆により全壊したが基礎部分のみ残っている。 |
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ファイル:広島護国神社02.JPG|旧広島護国神社鳥居。 |
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ファイル:大本営石碑.JPG|広島大本営跡。 |
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</gallery> |
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== 現在の広島城址 == |
== 現在の広島城址 == |
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現在、広島城の敷地内には以下の施設がある。 |
現在、広島城の敷地内には以下の施設がある。 |
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ファイル:Hiroshima castle.jpg|広島城天守と桜 |
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ファイル:Hiroshima castle 002.JPG|広島城天守東側 |
ファイル:Hiroshima castle 002.JPG|広島城天守東側 |
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ファイル:Hiroshima-jo.JPG|広島城天守 北西方向から |
ファイル:Hiroshima-jo.JPG|広島城天守 北西方向から |
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ファイル:Hiroshima castle 2.jpg|広島城天守 望楼部分 |
ファイル:Hiroshima castle 2.jpg|広島城天守 望楼部分 |
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ファイル:Hiroshima-jo-2nomaru.jpg|広島城二の丸、平櫓・多聞櫓・太鼓櫓・表御門<br />[[1994年]](平成6年)に木造で復元された |
ファイル:Hiroshima-jo-2nomaru.jpg|広島城二の丸、平櫓・多聞櫓・太鼓櫓・表御門<br />[[1994年]](平成6年)に木造で復元された |
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ファイル:Gate of Hiroshima castle.jpg|広島城二の丸、表御門 |
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ファイル:Hiroshima Castle 01.JPG|平櫓・多聞櫓・太鼓櫓 |
ファイル:Hiroshima Castle 01.JPG|平櫓・多聞櫓・太鼓櫓 |
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ファイル:Hiroshima Castle 05.JPG|平櫓内部 |
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ファイル:広島大本営跡.jpg|広島大本営跡。 |
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ファイル:Hiroshima-gokoku-zinzya.jpg|[[広島護国神社]]<br /><!--初詣の参拝者は広島の神社仏閣で最も多い。-->本丸跡に位置する。 |
ファイル:Hiroshima-gokoku-zinzya.jpg|[[広島護国神社]]<br /><!--初詣の参拝者は広島の神社仏閣で最も多い。-->本丸跡に位置する。 |
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ファイル:Rcc.jpg|[[中国放送]] (RCC)<br />広島城の敷地内にある中国放送([[Japan News Network|JNN]]系列)の本社社屋。 |
ファイル:Rcc.jpg|[[中国放送]] (RCC)<br />広島城の敷地内にある中国放送([[Japan News Network|JNN]]系列)の本社社屋。 |
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ファイル:広島市中央バレーボール場.jpg|広島市中央バレーボール場<br />バレーボールだけではなく、多くのスポーツ大会が行われている。 |
ファイル:広島市中央バレーボール場.jpg|広島市中央バレーボール場<br />バレーボールだけではなく、多くのスポーツ大会が行われている。 |
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ファイル:広島城噴水.jpg|広島城内の噴水。 |
ファイル:広島城噴水.jpg|広島城内の噴水。 |
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ファイル:歩兵第十一連隊後.jpg|歩兵第十一連隊跡。 |
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ファイル:広島陸軍幼年学校跡.jpg|広島陸軍幼年学校跡。 |
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ファイル:Model of Hiroshima.JPG|博物館に展示してある広島城城下町の模型 |
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|専門分野=[[歴史]] |
|専門分野=[[歴史]] |
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|事業主体=[[広島市]] |
|事業主体=[[広島市]] |
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|管理運営=[[広島市 |
|管理運営=[[広島市未来都市創造財団|財団法人広島市未来都市創造財団]] |
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|年運営費= |
|年運営費= |
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|延床面積= |
|延床面積= |
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}} |
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=== 概要 === |
=== 概要 === |
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広島復興大博覧会開催に合わせ外観復元された天守を利用して1958年(昭和33年)に、前身となった「広島城郷土館」が設置された。郷土館は、広島城の他に広島の歴史、民俗、自然史などに関する資料を展示した博物館(博物館類似施設)であったが、1989年(平成元年)に改装と展示物の入れ替えを行い、現在は、博物館「広島城」として開館している<ref> |
広島復興大博覧会開催に合わせ外観復元された天守を利用して1958年(昭和33年)に、前身となった「広島城郷土館」が設置された。郷土館は、広島城の他に広島の歴史、民俗、自然史などに関する資料を展示した博物館(博物館類似施設)であったが、1989年(平成元年)に改装と展示物の入れ替えを行い、現在は、博物館「広島城」として開館している<ref>{{Cite web|publisher=広島城公式|url=http://www.rijo-castle.jp/rijo/pdf/sirouya12.pdf|format=PDF|title=しろうや!広島城 第12号|accessdate=2012-03-31}}</ref>。 |
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=== 内容 === |
=== 内容 === |
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<br clear="all" /> |
<br clear="all" /> |
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== 交通アクセス == |
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=== 交通 |
=== 鉄道・新交通システム === |
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==== 鉄道・新交通システム ==== |
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* [[山陽本線]]・[[呉線]]・[[可部線]]・[[芸備線]][[広島駅]]から城南通りを通り、徒歩で20分、タクシーで10分 |
* [[山陽本線]]・[[呉線]]・[[可部線]]・[[芸備線]][[広島駅]]から城南通りを通り、徒歩で20分、タクシーで10分 |
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* [[広島電鉄宇品線]]・[[広島電鉄宮島線|宮島線]]・[[広島電鉄江波線|江波線]][[紙屋町東駅]]・[[紙屋町西駅]]から徒歩で15分 |
* [[広島電鉄宇品線]]・[[広島電鉄宮島線|宮島線]]・[[広島電鉄江波線|江波線]][[紙屋町東駅]]・[[紙屋町西駅]]から徒歩で15分 |
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* [[広島高速交通広島新交通1号線|アストラムライン]][[県庁前駅 (広島県)|県庁前駅]]から北へ徒歩約15分・[[城北駅]]から南回りもしくは東回りで徒歩約15分 |
* [[広島高速交通広島新交通1号線|アストラムライン]][[県庁前駅 (広島県)|県庁前駅]]から北へ徒歩約15分・[[城北駅]]から南回りもしくは東回りで徒歩約15分 |
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=== 車・バス === |
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* 紙屋町バス停・紙屋町県庁前バス停・[[広島バスセンター]]から北へ徒歩約15分 |
* 紙屋町バス停・紙屋町県庁前バス停・[[広島バスセンター]]から北へ徒歩約15分 |
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; 駐車場 |
; 駐車場 |
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: 最寄りの広島中央駐車場(地下)か基町パーキング(同)を利用可能。各駐車場からは北へ徒歩約10分。他にも広島城周辺(基町・上八丁堀地区)にコインパーキングが多数ある。 |
: 最寄りの広島中央駐車場(地下)か基町パーキング(同)を利用可能。各駐車場からは北へ徒歩約10分。他にも広島城周辺(基町・上八丁堀地区)にコインパーキングが多数ある。 |
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=== その他 === |
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[[2006年]](平成18年)4月6日、[[日本100名城]](73番)に選定された。[[2007年]](平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
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{{reflist}} |
{{reflist|2}} |
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== 参考資料 == |
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* {{Cite book|和書 |
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|author = 広島市 |
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|title = 広島原爆戦災誌 |
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|origdate = 1971 |
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|url = http://a-bombdb.pcf.city.hiroshima.jp/pdbj/bookdownload/sensai0.pdf |
|||
|format=PDF |
|||
|accessdate = 2012-03-27 |
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|edition = 改良版 |
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|date = 2005 |
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|ref = 原爆戦災誌 |
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}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[日本の城一覧]] / [[佐東銀山城]] - [[三入高松城]] - [[桜尾城]] - [[草津城]] - [[己斐城]] - [[仁保城]] - [[府中出張城]] - [[矢野城]] - [[三原城]] - [[宮尾城]] |
* [[日本の城一覧]] / [[佐東銀山城]] - [[三入高松城]] - [[桜尾城]] - [[草津城]] - [[己斐城]] - [[仁保城]] - [[府中出張城]] - [[矢野城]] - [[三原城]] - [[宮尾城]] |
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* [[中国地方の史跡一覧]] |
* [[中国地方の史跡一覧]] |
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* [[日本100名城]] |
* [[日本100名城]] |
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* [[広島藩]] |
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* [[毛利輝元]] |
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* [[広島大本営]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{commonscat|Hiroshima Castle}} |
{{commonscat|Hiroshima Castle}} |
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* [http://www.rijo-castle.jp/ 広島城(博物館)] |
* [http://www.rijo-castle.jp/ 広島城(博物館)] |
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* [http://yutaka901.web.infoseek.co.jp/page9zz64b.html 旧広島城稲荷社:多家神社・宝蔵] |
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* [http://www.bunka.go.jp/bsys/index.asp 国指定文化財等データベース] |
* [http://www.bunka.go.jp/bsys/index.asp 国指定文化財等データベース] |
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* [http://www.rcc.co.jp/camera/ RCCライブカメラ] |
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* [http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0200000000/0203000000 正保城絵図(国立公文書館デジタルアーカイブ)]安芸国広島城所絵図あり |
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* [http://yutaka901.web.infoseek.co.jp/page9zz64b.html 旧広島城稲荷社:多家神社・宝蔵] |
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* [http://maps.google.co.jp/maps?hl=&rlz=1B7GGLL_enJP400JP402&ie=UTF8&q=%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%9F%8E&fb=1&gl=jp&hq=%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%9F%8E&hnear=%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%9F%8E&cid=0,0,17688988339655644722&brcurrent=3,0x355a98a0a350bb7d:0xee91cc6dbc9ae5d8,0&layer=c&cbll=34.403526,132.459557&panoid=iWjniLVuKFWxH7UjXimV6Q&cbp=12,230.91,,0,-9.32&ll=34.403528,132.459669&spn=0.008817,0.01929&source=embed&utm_campaign=en&utm_medium=et&utm_source=en-et-na-us-gns-svn 広島城ストリートビュー] |
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{{日本100名城}} |
{{日本100名城}} |
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[[Category:広島県にある国指定の史跡]] |
[[Category:広島県にある国指定の史跡]] |
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[[Category:広島市の歴史]] |
[[Category:広島市の歴史]] |
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[[Category:広島市の観光地]] |
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[[Category:広島藩|城*ひろしま]] |
[[Category:広島藩|城*ひろしま]] |
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[[Category:安芸国]] |
[[Category:安芸国]] |
2012年4月3日 (火) 20:54時点における版
広島城 (広島県) | |
---|---|
復元天守と水堀 | |
別名 | 鯉城、当麻城 |
城郭構造 | 輪郭式平城 |
天守構造 |
複合連結式望楼型5重5階(1599年・非現存) 外観復元(SRC造・1958年再) |
築城主 | 毛利輝元 |
築城年 | 1589年 |
主な改修者 | 福島正則 |
主な城主 | 毛利氏、福島氏、浅野氏 |
廃城年 | 1874年 |
遺構 | 石垣、堀 |
指定文化財 | 国の史跡 |
再建造物 | 大天守・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓・表御門 |
位置 | 北緯34度24分10.13秒 東経132度27分32.28秒 / 北緯34.4028139度 東経132.4589667度座標: 北緯34度24分10.13秒 東経132度27分32.28秒 / 北緯34.4028139度 東経132.4589667度 |
Lua エラー モジュール:Location_map 内、547 行目: Location mapのモジュール「"Module:Location map/data/広島県"」もしくはテンプレート「"Template:Location map 広島県"」が作成されていません。 広島城(ひろしまじょう)は、広島県広島市中区基町にある城郭。国の史跡。
概要
日本100名城の一つ。現在は内堀に囲まれた本丸と二ノ丸が現存し、広さ約12万平方メートル[1]。
広島城全域が広島城址公園(ひろしまじょうしこうえん)となっており、復元された大天守は歴史博物館として利用されている。城址公園全体は公益財団法人広島市みどり生きもの協会が、博物館(天守閣)のみ財団法人広島市未来都市創造財団が指定管理者として、広島護国神社は同神社が運営管理している。
近世では西日本有数の城下町のシンボルとして、近代は軍都広島の中心として、アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下の際には破壊目標地点となった。初代の大天守は、近世城郭の代表的な天守で、昭和初期までは日本最古のものだった。天守は原爆による爆風でなく、自壊したことが近年の研究で判明している[2]。また本丸に大本営が置かれたことがあるという稀有な歴史を持っている。
広島市中央公園と隣接している。
別称
別称は鯉城(りじょう)。ここ一体は昔「己斐浦」と呼ばれ、広島市西区己斐の地名は延喜式で嘉字地名とされる前は「鯉」であったと言われていることから、この名がついた[3][4][5]。一説には堀にたくさんの鯉がいたからとも、天守が黒いからとも言われる。
現存する資料の中で鯉城の名前が使われた最も古い資料は江戸時代の終わりごろ、頼山陽の息子頼聿庵が読んだ漢詩の一節「原文不明(振り返れば鯉魚(りぎょ)の城)」である[3][6]。由来については江戸時代に書かれた資料はなく、現在一般的に知られる由来は明治時代以降の資料からである[3]。よって一部では鯉城の由来は明治期に考えられたと唱えるものもいる[3]。
2003年、中区八丁堀の国土交通省中国地方整備局太田川河川事務所での発掘作業で、「鯉の金箔瓦」が1点出土している[7]。金箔が施されていることから毛利氏時代のもの(下記金鯱瓦の項もあわせて参照)と推定されているが、天守と関係あるものかは不明[8]。
鯉城通り、鯉城会館、鯉城高校(現広島県立広島国泰寺高等学校)など、市内中心部にある施設に鯉城を冠した名前のものが多い。 また鯉城から「広島東洋カープ」(英語で鯉がCARP)のチーム名が付けられた[3]。ちなみにカープが毎年シーズン前に必勝祈願に訪れる広島護国神社はここ城址公園内にある。
歴史
前史
この地は太田川下流域にあたり、上流から土砂が堆積し三角州を形成し、中世には小島や砂州に小規模な集落が点在していた[9][10]。
承久の乱以降、その戦功により安芸国守護に命じられた武田氏により当地は治められていたが、戦国時代になると毛利元就が武田氏を滅ぼし厳島の戦いで陶氏(大内氏)に勝利したことにより、以降当地は毛利氏によって支配されることになる[10][11]。
それまでの毛利氏の居城である吉田郡山城は、尼子氏の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していた[12]。ただ毛利輝元時代の天正末期になり天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを城下町として整備し領国の政務・商業の中心地として発展させる「近世城郭」建築の時代になる[12]。中国地方9か国120万石の太守であった毛利氏にとって、山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭なものとなり始めた[12][13]。そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めた[12]。
1588年(天正16年)、輝元は上洛の際に大阪城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われている[12]。一説には永禄年間(1558年-1569年)の輝元の祖父である元就のころから現在の広島の平野部への築城構想はあった[10]という。
近世
1589年(天正17年)2月、輝元は現地調査のため吉田郡山を出発し、明星院山(現東区二葉山)・新山(現東区牛田)・己斐松山(現西区己斐旭山神社付近)の3箇所に登り太田川下流域を検地した結果、「最も広い島地」である五箇村(あるいは五ヶ村)に築城することに決めた[11][12]。
同年、二宮就辰らの指揮の下、築城が開始された。この築城は同時期に進行しつつあった豊臣秀吉の朝鮮征伐の後方基地としての期待もあり、秀吉は築城技術のサポートとして側近の黒田如水を派遣し、自らも建設中に広島城に滞在したという話も残る。城の構造は大坂城を参考として、縄張は聚楽第に範を取っているといわれ、一説には縄張を如水が思案したとも言われている[13]。築城は川の中州の埋め立てと、堀の浚渫が初段の大工事となった。また、堀は三重に巡らされ、馬出を多数備える実戦的な城構えであった。
1590年(天正18年)末、本丸のみ竣工したことから、1591年(天正19年)1月8日に輝元は入城した[12][11]。1593年(文禄2年)石垣が完成、1599年(慶長4年)に全工事が完了し落成した[12]。なお「広島」という名はこの頃に付けられたと言われている(詳細は広島市#市名の由来参照)[13]。
完成当初は当時の大坂城に匹敵する規模の城だった[13]といわれるが、関ヶ原の戦いで減封されて広島を去った毛利輝元に代わって、1600年(慶長5年)城主となった福島正則による改築[14]があり、築城当時の広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明である。
福島氏時代、穴太衆を雇入れ大規模な整備が行われた[14]。外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城となったのはこの頃である[14]。二葉の里付近から城の北側を通っていた西国街道を城下の南側を通るように付け替える[14]とともに雲石街道を整備した(一説には毛利輝元時代)といわれ、町人町が拡大[14]した。しかし、1619年(元和5年)、福島正則は洪水による被害の修復を幕府から無届け改築ととがめられ、改易され信濃国川中島へ転封された[14]。
同年8月8日、浅野長晟入城以降は浅野氏の居城となり、明治時代に至るまで12代約250年間続いた[15]。広島城の改修は福島氏の段階で完了していたと考えられていたが、近年の調査で一部の櫓台石垣は浅野氏時代に構築されたと判明している[15]。浅野氏時代には城普請はほぼ行われなかったが、大規模な干拓事業は引き続き行われ、約250年間で当初の域より5から6倍規模にまで広がった[11]。
1864年(元治元年)第一次長州征討の際、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となる[15]。この際、慶勝によって撮影された幕末の広島城の写真が現在徳川林政史研究所に残る[16]。戊辰戦争になると広島藩は官軍として戦ったため、城に被害はなかった。つまり、築城から江戸時代の間、この城は戦の舞台にはならなかったことになる[5]。
近代
1871年(明治4年)7月14日、廃藩置県。浅野氏による藩政体制は終りをつげ広島県が発足し、本丸に広島県庁舎が設置された[17]。同年12月、本丸に鎮西鎮台(のちの熊本鎮台)第一分営が置かれると県庁舎は三の丸に移転した[17]。1873年(明治6年)1月、広島鎮台が正式に発足し、以降広島城には大日本帝国陸軍の施設が建てられるようになる一方で解体や火事により江戸時代の建物は失われている[17]。同年3月、三の丸に兵営が置かれる[17]と、県庁舎は国泰寺へ移っていった。1875年(明治8年)4月歩兵第十一連隊設置、同年6月西練兵場設置[17]。
1887年(明治20年)、広島の開基地ということから、旧城廓内であるこの地を正式に「基町」と名付けられたと言われている[18]。
1888年(明治21年)5月、広島鎮台は第五師団に改編されると本格的に軍としての機能を拡大させ、広島市は軍都として近代都市へと発展していった[17][19]。当時は基町全域が軍用地であった[18]。
1894年(明治27年)7月、日清戦争が勃発すると城内に広島大本営が設置される(設置理由など詳細は広島大本営を参照)[17][19]。同年9月15日から1895年(明治28年)4月27日まで明治天皇は広島に行幸した[19]。これに伴い第7回帝国議会も広島で召集され、短期間ながら臨時首都として機能した[17][19]。なお、大本営解散の後は「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」として保存されていた。当時、従軍記者として訪れた正岡子規は1句残している[18]。
春暁や 城あらはるる 松の上 — 正岡子規、[18]
1897年(明治30年)4月、広島陸軍地方幼年学校(のちの広島陸軍幼年学校)が城内に設置される[19]。ちなみに同年に市内の別の場所に陸軍中央糧秣廠宇品支廠(宇品陸軍糧秣支廠)や大阪砲兵工廠広島派出所(のちの広島陸軍兵器補給廠)が設置されている[19]。
日清戦争および日露戦争以降、広島市は爆発的に人口増加していき、その中で広島城の堀の悪臭が目立つようになる[17][19]。そこで明治40年代になると市により外堀や城下町時代の運河として使われていた西塔川や平田屋川の埋め立てが始まり、1911年(明治44年)11月外堀埋立完了、1912年(大正元年)西塔川埋立完了、1915年(大正4年)平田屋川埋立(減幅して溝に)完了した[17][19]。その埋め立てられた土地には、1912年から1918年(大正7年)にかけて道路や広島電気軌道(広島電鉄本線)が整備されると、旧外堀の一部は繁華街となっていった[19][20]。
その中で広島城の歴史的価値を見出され、1926年(大正15年)10月大本営跡が史跡指定、1931年(昭和6年)1月天守閣が国宝指定される[17]。
太平洋戦争末期には本土決戦に備え、広島師管区司令部は中国軍管区司令部に改編され、城内の大本営跡に司令部を置き、本丸の南端で内堀の石垣に沿ってシェルター化した防空作戦室(現在の中国軍管区司令部跡)を建設した。1945年(昭和20年)4月、西練兵場の南端に中国憲兵隊司令部本部が置かれた[18]。
また戦争末期まで、天守閣、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など、江戸時代からの建物が残っていた[17]。ただこれらの施設には軍の重要書類が多数積み込まれていた[21]。市内には高いビルが建設されていたが、まだこの当時は天守閣を市内どこからも見ることができた[18]。また軍施設ということから一般人の立ち入りは許可されていなかった[22]。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島市への原子爆弾投下。軍事施設が集中していたことから、破壊目標となった[23]。ここは爆心地からほぼ1キロメートル離れたところに位置した[24]。 建物が爆風により一瞬にして倒壊、火災により消失している[17][21]。なお天守は爆風や火災によるものではなく、自壊している(下記天守の項を参照)[2]。樹木は、根こそぎ引きぬかれたものや、真ん中から裂けたり折れたりしたものが多数だった[22]。兵士は食事中あるいは朝礼最中の事で[25]、彼らは軽々と吹き飛び[21]、あるものは即死[26]、またあるものは倒壊した建物により圧死した[27]。生き残ったものはほぼ北(牛田に工兵第5連隊作業場があった)へ逃げている[22]。中国軍管区司令官藤井洋治陸軍中将は西練兵場南西端にあった庁舎で被爆しそこで死んでいる[22]。当時ここ一帯には約1万人の兵士が居たが、建物と共にすべての部隊は壊滅した[28]。
唯一倒壊せず原型をとどめていた建物が防空作戦室だった[21]。ここから被爆の第一報を通信している(詳細は中国軍管区司令部跡および広島市への原子爆弾投下#第一報 8月6日参照)。
火災が収まると、逃げ切れなかったものを手当てするため城内に臨時救護所が設けられたが、薬品不足など十分な医療行為が行えない事情から、そのまま死んでいくものも多かった[29]。
翌8月7日、松村秀逸中国軍管区参謀長による指揮の下、防空作戦室前にテントを設け、軍の再建を図ることになった[29]。8月15日終戦。8月16日、停戦および復員命令が下され、9月から11月にかけて各部隊は解散した[30]。中国軍管区は11月末に一旦解散後、第一復員省中国復員監理部として再編された[30]。
現代
戦後、西練兵場で中国からの引揚者が開墾し始めた[30]。1948年(昭和23年)になるとそこに市営の住居が建っており、1949年(昭和24年)には川沿いにバラックが建ち始め[30]、後に原爆スラムが形成される。官公庁の庁舎も建ち始め、広島児童文化会館建設が決まるなど、周囲は再開発されていった[31]。
ただ、本丸及び二の丸は用途の決まらないまま放置され、草むらと化していた[24]。市民の中では当初、内堀を埋め立て平地にし再開発を唱えるものもいた[24]。平和運動の一環として長田新旧制広島文理大学教授を中心に、本丸に自由の女神のレプリカを建てる運動も起こった[24][32]。市や市議会は大本営跡を原爆記念保存物に選ぶなど被爆により荒廃した広島で新たな観光の目玉を欲していた[33]ことから天守再建を望んだが、文化財関係者は被爆により廃墟になった現状こそ価値があると再建反対に回った[34]。なお、被爆数年後の本丸の映像は1952年公開の新藤兼人監督『原爆の子』で見ることが出来る[35]。
1951年(昭和26年)、広島国体にあわせて木造仮設天守閣が作られる[17]。地元紙中国新聞は以下の報道をしている。
あの水都の象徴であった鯉城が原爆以来五年目にふたたび出現、広島市民の郷愁を呼び起こしている。 — 1951年3月13日付中国新聞、[5]
国体終了後に解体されたが、後の天守再建の機運へとつながった[17]。
1953年(昭和28年)3月31日、城跡が国の史跡に指定されると天守再建の機運が高まった[17]。戦後の高度経済成長の中で、1958年(昭和33年)市政70周年を迎えるにあたり広島復興大博覧会開催が決まり、広島平和記念資料館開館と共に博覧会の目玉として天守再建が決定した[17][36]。これには渡辺忠雄市長と市側の復元への強い想いが大きく作用した[34]。1957年(昭和32年)10月20日着工、翌1958年3月26日竣工[17]。同年6月1日、広島城郷土館(現在の博物館)開館した[17]。また、この時期に広島護国神社が本丸に移転再建されている。
築城400周年・市政100周年を迎えたことにより改修を行い、1989年(平成元年)から1994年(平成6年)にかけて、二の丸の復元が行われ、博物館も展示内容を見なおされている[17][37]。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(73番)に選定された。2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
構造
縄張
藩政時代の広島城は、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の、広さ約90万平方メートルの規模があった[1]。外堀は、南端が今の相生通り[38]、北端はほぼ城北通り、東端が白島通りの1本西側の道路で北側の一部が白島通りに一致する[39]。外郭を整備した福島正則は旧太田川(本川)を西側の外堀と位置づけ、ここより西の大名(主に周防長門へ転封した毛利氏)からの攻撃を想定し、特に西側を増強していた[40]。外堀の水は三篠橋付近の本川から引いていた。
広島市には城が由来の地名が残っている。「八丁堀」「薬研堀」などの地名は堀があった名残である。八丁堀は約8丁(約880メートル)あった東側の外堀にちなむ。八丁堀の「京口門」バス停留所は、城から東方向(京都)へ向かう門があった場所にある[38]。現在の紙屋町西交差点あたりに大手門があった。大手町通りや本通り[41]は毛利氏による城下町整備の際にできた通りである。
戦前から同地に建っている福屋八丁堀本店本館は、相生通りに面して平行ではなく少しズレた状況で建っている。これは外堀を埋め立てた際に整備された当時の相生通りに対して平行に建てられたためで、戦後に相生通りを整備した際にズレる形となった[20]。つまり福屋本館は広島城の外堀に対して平行に建っていることになる[20]。
明治維新後には1911年(明治44年)に外堀が埋められ、さらに原爆の瓦礫で中堀が埋められて現在の規模になった。
天守
- 初代
初代天守は連結式と呼ばれるもので特に複合連結式ともいい、大天守から渡櫓で2つの小天守を南と東に連結するものであった。望楼型で黒漆塗りの下見板が張られた壁面は豊臣秀吉の大坂城天守を模した[38]ともいわれ、屋根には金箔瓦が施されていたともいうが、内部は天井も張られていない簡素なものであったという。
大天守の東側と南側には小天守があった。明治期に2つ共に取り壊され、昭和期に大天守を復元した際には小天守は復元されなかった[42]。現在の博物館入口前の広場が南の小天守と廊下にあたり、東の小天守は基礎が残っている[42]。
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南小天守の石垣。
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東小天守の跡(奥の石垣)。手前は初代大天守の礎石を移設したもの。
戦前は他の現存する建造物とともに旧制の国宝に指定されていた。太平洋戦争末期の原子爆弾投下の際には、爆発時の熱線に耐えたものの、その直後の爆風の衝撃波と圧力により下部2層が上部の重さに耐えきれず倒壊、間もなく上部3層も崩落し、大量の建材が天守台や北東の堀に散乱した、ということが近年の研究で判明している[2]。倒壊後はしばらくそのまま放置されている[35]。建材のその後に関しては定かではないが、生活に困窮した市民が使用したという証言がある[42]ほか、被爆者を救済するため、瀬戸内海の製塩業者に建材と塩を広島市が交換したともいう。公式文書には、このことは一切記されていない。
- 2代目
1951年(昭和26年)、広島国体開催に合わせて再建された仮設の木造天守閣[5]。天守を博物館として利用し始めたのはこの頃からである[5]。夜はライトアップされ、アトラクションとして天守の周りを「スイッチバック・レールウェイ(木製のジェットコースター)」が設置された[5]。竣工時期は不明、国体終了と共に取り壊された[5]。なお仮設でありながら大型台風のルース台風にも倒壊せず耐えている[5]。
- 3代目(現在)
現在の大天守は1958年(昭和33年)に「広島復興大博覧会」が開催された際、外観復元された[34]。総事業費約3,600万円[17]。施工は藤田組(現フジタ)[43]。再建するにあたり、以下の方針がとられた[34]。
- 初代天守を忠実に再現する。
- 最上階で市内を展望できるようにする。
- 博物館として利用する。
火災対策のため、木造からSRC造に変更(ただし最上階層は木造)している。自重増加のため天守台を補強することになりモルタルグラウトにより栗石を固めた[34]。瓦の復元の際には、堀に沈んだものを探したり、古い広島城のものを新聞紙面上で募集したりしている[34]。
櫓
2012年現存する櫓は1989年(平成元年)の大改修の際に再建されたものである。
- 太鼓櫓
太鼓櫓としては、姫路城(平櫓のもの)のものと、掛川城のものと共に日本に現存する代表的なものである。
島普請
島普請とは、現在で言う地盤改良と浚渫、築堤工事のことを指す[44][45]。
当地は太田川下流域三角州の低地にあり、軟弱地盤上に城を築くために「千本杭」と呼ばれる木杭を砂地盤に打ち込んだ上に基礎を築いた工法[46]が採用されたと伝えられてきた[45]。ただ近年の発掘ではその証拠が見つかっていないことから、実際に行われたか否定的な意見を唱えるものもいる[45]。
浅野氏が支配した250年間で洪水にたびたび悩まされており、洪水被害やそれを修復した記録が多数残っている[44][15][47]。
遺構
石垣
1589年(天正17年)8月、毛利輝元は家来に堀の工事と石材の収集を命令したと伝えられている[48]。
石材の殆どは加工の容易なことから花崗岩が用いられている[48]。瀬戸内海は良質な花崗岩の産地が多いことから主に沿岸部から運び込まれており、近年の調査で黄金山や江波山(この当時は島だった)、倉橋島、周防大島などの島々からも運び込まれたと判明している[48]。
軟弱な三角州地盤に築城したため、石垣の重量を分散させる工夫がなされている。
本丸北東付近、本丸上段東端に不規則につまれた状態で途切れている石垣は、福島正則の改易騒動の史実を裏付けるものと考えられている[49]。正則の改易の少し前に、幕府は一度条件付きで正則を許している[49]。その条件の一つに修築した石垣の破壊が盛り込まれていた[49]。この部分は正則が破壊した石垣の境界部分と考えられている[49]。
広島市への原子爆弾投下の際に、内堀の一部石垣が崩れていることが米軍の空中写真により分かる(上被爆前後の写真参照)。表御門や中御門の一部の石垣に焦げたような跡があるのは被爆により発生した火災によるものである[50]。
金鯱瓦
2009年3月、広島市中区上八丁堀の広島地方合同庁舎5号館建設の前調査の際に、金鯱瓦が一対発見された[51]。発見された場所は、本丸から見て東側の中堀と外堀の間にあたる武家屋敷にあたり、井戸跡の底に大量の瓦と共に埋まっていた[51][52]。
発見された珍しい瓦は以下のとおり[51]。これらは築城当時の毛利氏時代のものと推定され、地下水に浸っていたため腐食しなかったと考えられている[51]。
金箔瓦は当時の豊臣政権下では「権威の象徴」[51]とみなされ、この瓦の設置は秀吉の許可が必要だった[51]ことから、近い有力大名にしか認めていなかったとされる。
井戸跡に埋められていた理由について、三浦正幸広島大学教授は「毛利輝元が防長2国に移封された後に広島城に入った福島正則が本丸櫓門から取り外し、城主交代を広く知らしめるために、儀式的な意味で丁重に井戸に沈めて埋納したのではないか」[51]と推測した。また地元研究者[誰?]は「毛利輝元の家臣が、関ヶ原の敗北後に急いで瓦を廃棄した」と主張している。
旧広島城の遺構
上記の通り、被爆により全壊しているが、旧広島城の建物は現存している。それは安芸郡府中町にある多家神社で、元々は三の丸にあった稲荷社が1874年(明治7年)に移築されたもの。その後火災により消失し、宝蔵のみが現在旧広島城時代の建物としては唯一のものとなっている。
1954年(昭和29年)、多家神社宝蔵が広島県の重要文化財に指定された。
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多家神社の宝蔵。
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校倉造りだが、他に例の少ない四角形に近い断面六角形の校木を使用している。
被爆遺構
1993年、広島市は爆心地から5キロメートル以内に位置する被爆建造物を洗い直し、それぞれそれぞれ「被爆建物」「被爆樹木」「被爆橋梁」台帳に登録した。以下、城址公園内にある被爆遺構を列挙する。
- 被爆建物
- 中国軍管区司令部跡 - 爆心地から790メートル。広島護国神社境内、南側内堀石垣の際にある半地下式鉄筋コンクリート造の平屋建ての建物。旧名「中国軍管区司令部防空作戦室」。被爆の第一報を伝令した歴史的に重要な建物である。
- 被爆樹木
江戸時代末期、城外からの目隠しとして内堀の際に松や杉・雑木が多数植えられていた[1]。その後も生き続けていたが被爆によりそのほとんどが倒壊した[1]。2012年現在、被爆後も生き続けている被爆樹木が3本ある。
- クロガネモチ - 爆心地から910メートル。本丸の広島大本営跡の南側に生息している。元々は大本営前の前庭にあたり車周りの植え込みの一つだった[53]。
- ユーカリ・マルバヤナギ - 爆心地から740メートル。二の丸の中御門前の土橋の両端に生息している[54]。
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ユーカリ。
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中御門跡とマルバヤナギ。
- その他
以下、被爆建物台帳に記載されていない被爆遺構である。
- 旧広島護国神社鳥居 - 爆心地から370メートル(移転前)。裏御門付近に移された旧広島護国神社鳥居。元々護国神社は旧外郭の南西付近、西練兵場の西側、現在の広島商工会議所の北側にあり、この鳥居は相生通りから北側すぐにあった。被爆により鳥居だけは残った。護国神社が本丸に移転した際に、旧鳥居を現在地に移転している。
- 広島大本営跡 - 爆心地から900メートル。明治期に作られた大本営は被爆により全壊したが基礎部分のみ残っている。
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旧広島護国神社鳥居。
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広島大本営跡。
現在の広島城址
現在、広島城の敷地内には以下の施設がある。
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広島城天守と桜
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広島城天守東側
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広島城天守 北西方向から
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広島城天守 望楼部分
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広島城二の丸、平櫓・多聞櫓・太鼓櫓・表御門
1994年(平成6年)に木造で復元された -
広島城二の丸、表御門
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平櫓・多聞櫓・太鼓櫓
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平櫓内部
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広島大本営跡。
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広島護国神社
本丸跡に位置する。 -
灘尾弘吉元衆議院議長銅像
広島県出身の政治家 -
広島市中央バレーボール場
バレーボールだけではなく、多くのスポーツ大会が行われている。 -
広島城内の噴水。
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歩兵第十一連隊跡。
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広島陸軍幼年学校跡。
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博物館に展示してある広島城城下町の模型
博物館
広島城 | |
---|---|
施設情報 | |
正式名称 | 広島城 |
前身 | 広島城郷土館 |
専門分野 | 歴史 |
事業主体 | 広島市 |
管理運営 | 財団法人広島市未来都市創造財団 |
開館 | 1958年6月 |
所在地 |
〒730-0011 広島市中区基町21-1 |
プロジェクト:GLAM |
概要
広島復興大博覧会開催に合わせ外観復元された天守を利用して1958年(昭和33年)に、前身となった「広島城郷土館」が設置された。郷土館は、広島城の他に広島の歴史、民俗、自然史などに関する資料を展示した博物館(博物館類似施設)であったが、1989年(平成元年)に改装と展示物の入れ替えを行い、現在は、博物館「広島城」として開館している[55]。
内容
内部は、5層のうち1層-3層は常設展示、第4層は企画展示、第5層(最上階)は展望室となっている。
常設展示は、広島城の成立と役割、城下町広島のくらしと文化をテーマとしており、甲冑・刀剣等も展示されている。また、歴史と広島城に関する企画展示も実施されている。
利用情報
- 休館日
- 年末年始(12月29日から1月2日)のみ
- 入場料
- 一般:360円(280円)、小・中・高校生:180円(100円)
- ()内は30人以上の団体料金、幼児は無料
- 駐車場
- なし
交通アクセス
鉄道・新交通システム
- 山陽本線・呉線・可部線・芸備線広島駅から城南通りを通り、徒歩で20分、タクシーで10分
- 広島電鉄宇品線・宮島線・江波線紙屋町東駅・紙屋町西駅から徒歩で15分
- アストラムライン県庁前駅から北へ徒歩約15分・城北駅から南回りもしくは東回りで徒歩約15分
車・バス
- 紙屋町バス停・紙屋町県庁前バス停・広島バスセンターから北へ徒歩約15分
- 駐車場
- 最寄りの広島中央駐車場(地下)か基町パーキング(同)を利用可能。各駐車場からは北へ徒歩約10分。他にも広島城周辺(基町・上八丁堀地区)にコインパーキングが多数ある。
脚注
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参考資料
- 広島市『広島原爆戦災誌』(PDF)(改良版)、2005年(原著1971年) 。2012年3月27日閲覧。