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'''松尾 芭蕉'''(まつお ばしょう、[[寛永]]21年([[1644年]]) - [[元禄]]7年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]([[1694年]][[11月28日]] |
'''松尾 芭蕉'''(まつお ばしょう、[[寛永]]21年([[1644年]]) - [[元禄]]7年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]([[1694年]][[11月28日]])<ref name=SatoNen>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.248-249、松尾芭蕉関係年表]]</ref>)は、[[江戸時代]]前期の[[俳諧師]]。現在の[[三重県]][[伊賀市]]出身。幼名は金作<ref name=Sato30>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.30-34、芭蕉の生涯 伊賀上野時代(寛永~寛文期)]]</ref>。通称は甚七郎、甚四郎<ref name=Sato30 />。名は忠右衛門宗房<ref name=Sato30 />。[[俳号]]としては初め実名宗房を、次いで桃青、'''芭蕉'''(はせを)と改めた。[[北村季吟]]門下。 |
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'''[[蕉風]]'''と呼ばれる芸術性の極めて高い句風<ref>東聖子 『蕉風俳諧における〈季語 ・季題〉の研究』([[明治書院]]、2003年)、ISBN 4-625-44300-8-山本健吉文学賞(第4回)受賞</ref>を確立し、'''俳聖'''として世界的にも知られる、 |
'''[[蕉風]]'''と呼ばれる芸術性の極めて高い句風<ref>東聖子 『蕉風俳諧における〈季語 ・季題〉の研究』([[明治書院]]、2003年)、ISBN 4-625-44300-8-山本健吉文学賞(第4回)受賞</ref>を確立し、後世では'''俳聖'''、'''俳聖'''<ref name=Sato247>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.247、あとがき]]</ref>として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。 |
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芭蕉が弟子の[[河合曾良]]を伴い、元禄2年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]] |
芭蕉が弟子の[[河合曾良]]を伴い、[[元禄]]2年[[3月27日 (旧暦)|3月27日]](1689年5月16日)に[[江戸]]を立ち[[東北]]、[[北陸]]を巡り[[岐阜県|岐阜]]の[[大垣市|大垣]]まで旅した紀行文『[[おくのほそ道]]』がある。 |
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== 生涯 == |
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=== 伊賀国の宗房 === |
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[[伊賀国]](現在の[[三重県]][[伊賀市]])で、松尾与左衛門と妻・梅の[[次男]]として生まれる。松尾家は[[農業]]を生業としていたが、苗字を持つ家柄だった。出生地には、赤坂(現在の伊賀市[[上野市|上野]]赤坂町)説と柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説がある。これは芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。 |
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[[ファイル:MatsuoBasyoSeika.jpg|thumb|200px|left|[[芭蕉翁生家]](伊賀市)]] |
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[[伊賀国]](現在の[[三重県]][[伊賀市]])で生まれたが、その詳しい月日は伝わっていない<ref name=Sato30 />。出生地には、赤坂(現在の伊賀市[[上野市|上野]]赤坂町)説<ref name=Sato30 /> |
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と柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説がある。これは芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。 |
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[[阿拝郡]]柘植郷(現在の伊賀市柘植)の[[土豪]]一族出身の父・松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身とも言われる母・ |
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梅 |
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の間に[[次男]]として生まれる<ref name=Sato30 />。兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた<ref name=Sato30 />。 |
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松尾家は[[平氏]]の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は[[農業|農民]]だった<ref name=Ae16>[[#饗庭2001|饗庭(2001)、p.16-21、1.芭蕉、伊賀上野の頃]]</ref>。 |
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明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去<ref name=Sato30 />。 |
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13歳の時に父が死去。兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためであろうか、若くして伊賀国上野の[[侍大将]]・[[藤堂良清|藤堂新七郎良清]]の嗣子・主計[[蝉吟|良忠]](俳号は蝉吟)に仕え、2歳年上の良忠とともに北村季吟に師事して[[俳諧]]の道に入った。[[寛文]]2年([[1662年]])の年末に詠んだ句「春や来し 年や行けん 小晦日」が作成年次の判っている中では最も古いものである。寛文4年([[1664年]])には[[松江重頼]]撰『佐夜中山集』に初入集。しかし寛文6年([[1666年]])に良忠が歿するとともに仕官を退く。その後、寛文7年([[1667年]])に[[大和国]][[今井町]]の今西正盛撰『耳無草』(『詞林金玉集』)に発句1入集。 |
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兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためであろうか、 |
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異説も多いが[[寛文]]2年(1662)に<ref name=Ae16 />若くして伊賀国上野の[[侍大将]]・[[藤堂良清|藤堂新七郎良清]]の嗣子・主計[[蝉吟|良忠]](俳号は蝉吟)に仕えたが、その仕事は厨房役か料理人だったらしい<ref name=Sato30 />。2歳年上の良忠とともに[[京都]]の北村季吟に師事して[[俳諧]]の道に入り<ref name=Sato30 />、寛文2年の年末に詠んだ句 |
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{{Quotation|春や来し年や行けん小晦日 (はるやこし としやゆきけん こつごもり)}} |
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が作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳の[[立春]]の日に詠んだという<ref name=Ae16 />。寛文4年([[1664年]])には[[松江重頼]]撰『佐夜中山集』に、[[貞門派]]風の2句が「松尾宗房」の名で初入集した<ref name=Sato30 />。 |
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寛文6年(1666年)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている<ref name=Sato30 />。 |
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寛文12年([[1672年]])、処女句集『[[貝おほひ]]』を[[上野天満宮]](三重県伊賀市)に奉納。[[延宝]]3年([[1675年]])に[[江戸]]に下り、[[神田上水]]の工事に携わった後は延宝6年([[1678年]])に宗匠となり、職業的な俳諧師となった。延宝8年([[1680年]])に[[深川 (江東区)|深川]]に草庵を結ぶ。門人の李下から芭蕉を贈られ、[[バショウ|芭蕉]]の木を一株植え、大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けた。その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んだ。 |
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<blockquote>芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 芭蕉</blockquote> |
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[[天和 (日本)|天和]]2年(1682年)の[[天和の大火]](いわゆる[[八百屋お七]]の火事)で庵を焼失し、[[甲斐国|甲斐]][[谷村藩]]([[山梨県]][[都留市]])の国家老[[高山繁文]](通称・伝右衝門)に招かれ流寓する。 |
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しかし寛文6年に良忠が歿する。宗房は遺髪を[[高野山]][[報恩院 (高野山)|報恩院]]に納める一団に加わって<ref name=Ae16 />菩提を弔い<ref name=Sato30 />、仕官を退いた<ref name=Ae16 />。後の動向にはよく分からない部分もあるが、寛文7年(1667年)刊の『続山井』(湖春編)など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行く事があっても、上野に止まっていたと考えられる<ref name=Sato30 />。その後、萩野安静撰『如意宝珠』(寛永9年)に6句、岡村正辰撰『大和巡礼』(寛永10年)に2句、吉田友次撰『俳諧藪香物』(寛永11年)に1句がそれぞれ入集した<ref name=Ae16 />。 |
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しばしば旅に出て、『[[野ざらし紀行]]』・『[[鹿島紀行]]』・『[[笈の小文]]』・『[[更科紀行]]』などの紀行文を残した。元禄2年([[1689年]])、弟子の[[河合曾良]]を伴って『[[奥の細道]]』の旅に出、8月に[[大垣]]に到着。いったん故郷の伊賀上野へ帰ったが、翌元禄3年([[1690年]])、[[近江国|近江]]の弟子・[[膳所藩]]士[[菅沼曲翠]]の勧めにしたがって、[[滋賀郡]]国分の[[幻住庵]]に4ヶ月滞在。元禄4年([[1691年]])には粟津の無名庵から京都・嵯峨野に入り[[落柿舎]]に滞在。弟子たちと『猿蓑』を編纂。この巻之六が『幻住庵記』である。のち江戸に帰った。 |
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寛文12年(1672年)、29歳の宗房は処女句集『[[貝おほひ]]』を[[上野天満宮]](三重県伊賀市)に奉納した。これは30番の発句合で、[[談林派]]の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でも[[小唄]]や[[六方詞]]など流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となった<ref name=Sato30 />。また[[延宝]]2年(1674年)、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われた<ref name=Sato30 />。そしてこれらを機に、宗房は江戸へ向かった<ref name=Sato30 />。 |
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その最期も旅の途中であり、[[大阪|大坂]][[御堂筋]]の旅宿・花屋仁左衛門方で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死した(よく[[辞世の句]]と言われているが結果論である。「病中吟」との前詞があり、辞世とは当人も意識していなかった。なお、「'''秋深き 隣は何を する人ぞ'''」は死の床に臥す直前に書いた句である)。[[享年]]51。生前の「(墓は)[[源義仲|木曾殿]]の隣に」という遺言により、[[大津市|大津]]膳所(ぜぜ)の[[義仲寺]](ぎちゅうじ)にある木曾義仲の墓の隣に葬られた。 |
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=== 江戸日本橋の桃青 === |
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弟子に[[蕉門十哲]]と呼ばれる[[宝井其角]]・[[服部嵐雪]]・[[森川許六]]・[[向井去来]]・[[各務支考]]・[[内藤丈草]]・[[杉山杉風]]・[[立花北枝]]・[[志太野坡]]・[[越智越人]]や杉風・北枝・野坡・越人の代わりに蕉門十哲に数えられる[[河合曽良]]・[[広瀬惟然]]・[[服部土芳]]・[[天野桃隣]]、それ以外の弟子として[[万乎]]・[[野沢凡兆]]・[[蘆野資俊]]などがいる。 |
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延宝3年(1675年)初頭(諸説あり<ref name=Sato30 />)に[[江戸]]へ下った宗房が最初に住んだ場所には諸説あり、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の[[小沢卜尺]]の貸家<ref name=Sato34>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.34-37、芭蕉の生涯 江戸下向(延宝期)]]</ref>、[[久居藩]]士の向日八太夫が下向に同行し、後に終生の援助者となった魚問屋・[[杉山杉風]]の日本橋小田原町の宅に入ったともいう<ref name=Sato34 />。江戸では、在住の俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見とも言える[[磐城平藩]]主[[内藤義概]]のサロンにも出入りするようになった<ref name=Sato34 />。延宝3年5月には江戸へ下った[[西山宗因]]を迎え開催された興行の九吟百韻に加わり、この時初めて号「桃青」を用いた<ref name=Sato34 />。ここで触れた宗因の[[談林派]]俳諧に、桃青は大きな影響をうけた<ref name=Sato34 />。 |
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延宝5年(1677年)、[[水戸藩]]邸の防火用水に[[神田川 (東京都)|神田川]]を分水する工事に携わった事が知られる。卜尺の紹介によるものと思われるが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられる<ref name=Ae30>[[#饗庭2001|饗庭(2001)、p.30-42、3.談林風と江戸下向]]</ref>。この期間、桃青は現在の[[文京区]]に住み、そこは関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整備されている<ref name=Sato34 />。この年もしくは翌年の延宝6年(1678年)に、桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となった。ただし宗匠披露の通例だった万句俳諧が行なわれた確かな証拠は無いが、例えば『玉手箱』(神田蝶々子編、延宝7年9月)にある「桃青万句の内千句巻頭」や、『富士石』(調和編、延宝7年4月)にある「桃青万句」といった句の前書きから、万句俳諧は何らかの形で行われたと考えられる<ref name=Sato34 />。『桃青伝』(梅人編)には「延宝六牛年歳旦帳」という、宗匠の証である歳旦帳を桃青が持っていた事を示す文も残っている<ref name=Sato34 />。 |
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== その他 == |
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[[ファイル:Haiseiden.jpg|thumb|360px|[[俳聖殿]]]] |
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忌日である[[10月12日]](現在は[[新暦]]で実施される)は、桃青忌・時雨忌・翁忌などと呼ばれる。[[時雨]]は[[旧暦]]十月の異称であり、芭蕉が好んで詠んだ句材でもあった。例えば、[[猿蓑]]の発句「初時雨猿も小蓑を欲しげ也」などがある。 |
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宗匠となった桃青は江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。京の信徳が江戸に来た際に[[山口素堂]]らと会し、『桃青三百韻』が刊行された。この時期には談林派の影響が強く現れていた<ref name=Sato34 />。また批評を依頼される事もあり、『俳諧関相撲』(未達編、[[天和]]2年刊)の評価を依頼された18人の傑出した俳人のひとりに選ばれた。ただし桃青の評は散逸し伝わっていない<ref name=Sato34 />。 |
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「[[松島]]やああ松島や松島や」は、かつては芭蕉の作とされてきたが記録には残されておらず、近年この句は江戸時代後期の[[狂歌]]師・[[田原坊]]の作ではないかと考えられている。 |
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しかし延宝8年(1680年)、桃青は突然[[深川 (江東区)|深川]]に居を移す。この理由については諸説あり、新進気鋭の宗匠として愛好家らと面会する[[点者]]生活に飽いたという意見、[[火事]]で日本橋の家を焼け出された説、また談林諧謔に限界を見たという意見もある<ref name=Sato38>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.38-41、芭蕉の生涯 深川移居(延宝末~天和期)]]</ref>。いずれにしろ彼は、俳諧の純粋性を求め、世間に背を向けて[[老荘思想]]のように天(自然)に倣う中で安らぎを得ようとした考えがあった<ref name=Ae43>[[#饗庭2001|饗庭(2001)、p.43-54、4.隠者への道]]</ref>。 |
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『奥の細道』の旅の初め[[千住]]に滞在した日数が多いのに『奥の細道』には消息がないため、隠密としての任務を受けに行っていたのではないかとの憶測と出生地伊賀との関係、当時の[[日本人]]としては異常な速さの歩き方などから[[忍者]]ではなかったかという在野の説もある。(詳細は後述) |
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=== 江戸深川の芭蕉 === |
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[[徳川光圀]]と同時代の人物なので、時代劇では『[[水戸黄門]]』にたびたび登場している。 |
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深川に移ってから作られた句には、談林諧謔から離れや点者生活と別れを、静寂で孤独な生活を通して克服しようという意志が込められたものがある。また、『むさしぶり』(望月千春編、天和3年刊)に収められた |
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{{Quotation|侘びてすめ月侘斎が奈良茶哥}} |
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は、[[侘び]]への共感が詠まれている<ref name=Sato38 />。この『むさしぶり』では、新たな号「芭蕉」が初めて使われた。これは門人の李下から[[バショウ|芭蕉]]の株を贈られた事にちなみ、これが大いに茂ったので当初は[[杜甫]]の詩から採り「泊船堂」と読んでいた<ref name=Ae43 />深川の居を「芭蕉庵」へ変えた<ref name=Sato38 /><ref name=Sato14>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.14-17、俳諧の歴史と芭蕉 芭蕉における貞門・談林・天和調]]</ref>。その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んだ。 |
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{{Quotation|芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉}} |
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しかし天和2年(1682年)12月、[[天和の大火]](いわゆる[[八百屋お七]]の火事)で庵を焼失し、[[甲斐国|甲斐]][[谷村藩]]([[山梨県]][[都留市]])の国家老[[高山繁文]](通称・伝右衝門)に招かれ流寓した<ref name=Sato38 />。翌年5月には江戸に戻り、冬には芭蕉庵は再建されたが<ref name=Sato38 />、この出来事は芭蕉に、隠棲しながら棲家を持つ事の儚さを知らしめた<ref name=Ae43 />。 |
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芭蕉の終焉地は、御堂筋の拡幅工事のあおりで取り壊された。現在は石碑が[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]久太郎町3丁目5付近の御堂筋の本線と測道の間のグリーンベルトに建てられている。またすぐ近くの[[真宗大谷派難波別院]](南御堂)の境内にも辞世の句碑がある。 |
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その間『みなしぐり』(其角編)に収録された芭蕉句は、[[漢詩]]調や破調を用いるなど独自の吟調を拓き始めるもので、作風は「虚栗調(みなしぐりちょう)」と呼ばれる<ref name=Sato38 />。その一方で「笠」を題材とする句も目立ち、実際に自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」と名乗ることもあった。芭蕉は「笠」を最小の「庵」と考え、風雨から身を守るに侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じという思想を抱き、旅の中に身を置く思考の強まりがこのように現れ始めたと考えられる<ref name=Ae43 />。 |
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== 有名な句 == |
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* [[古池や蛙飛びこむ水の音]](ふるいけや かはずとびこむ みずのおと) |
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=== 蕉風の高まりと紀行 === |
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* 名月や池をめぐりて夜もすがら(めいげつや いけをめぐりて よもすがら) |
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[[貞享]]元年(1684年)8月、芭蕉は『[[野ざらし紀行]]』の旅に出る。[[東海道]]を西へ向かい、伊賀・[[大和国|大和]]・[[吉野]]・[[山城国|山城]]・[[美濃国|美濃]]・[[尾張]]を廻った。再び伊賀に入って越年すると、[[木曽路|木曽]]・[[甲斐国|甲斐]]を経て江戸に戻ったのは貞享2年(1685年)4月になった。これは元々[[美濃国]][[大垣市|大垣]]の木因に招かれて出発したものだが、前年に他界した母親の墓参をするため伊賀にも向かった。この旅には、門人の千里(粕谷甚四郎)が同行した<ref name=Sato41>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.41-44、芭蕉の生涯 『野ざらし紀行』の旅]]</ref>。 |
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* 夏草や兵どもが夢の跡(なつくさや つわものどもが ゆめのあと):[[岩手県]][[平泉町]]、以下五句は「[[おくのほそ道]]」より |
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* [[閑さや岩にしみ入る蝉の声]](しずかさや いわにしみいる せみのこえ):[[山形県]]・[[立石寺]] |
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紀行の名は、出発の際に詠まれた |
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* 五月雨をあつめて早し最上川(さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県[[大石田町]] |
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{{Quotation|野ざらしを心に風のしむ身哉}} |
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* 雲の峰いくつ崩れて月の山(くものみね いくつくずれて つきのやま):山形県・[[月山]] |
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に由来する。これ程悲壮とも言える覚悟で臨んだ旅だったが、後半には穏やかな心情になり、これは句に反映している。前半では漢詩文調のものが多いが、後半になると見聞きしたものを素直に述べながら、侘びの心境を反映した表現に変化する<ref name=Sato41 />。途中の[[名古屋]]で、芭蕉は尾張の俳人らと座を同じくし、詠んだ歌仙5巻と追加6句が纏められ『冬の日』として刊行された。これは「芭蕉七部集」の第一とされる<ref name=Sato41 />。この中で芭蕉は、日本や中国の架空の人物を含む古人を登場させ、その風狂さを題材にしながらも、従来の形式から脱皮した句を詠んだ<ref name=Sato41 />。これゆえ、『冬の日』は「芭蕉開眼の書」とも呼ばれる<ref name=Sato41 />。 |
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* 荒海や佐渡によこたふ天河(あらうみや さどによこたう あまのがわ):[[新潟県]][[出雲崎町]] |
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* 花の雲鐘は上野か浅草か(はなのくも かねはうえのかあさくさか):[[東京都]] |
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野ざらし紀行から戻った芭蕉は、貞享3年(1686年)の春に芭蕉庵で催した[[蛙]]の発句会で有名な |
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* 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也(はつしぐれさるもこみのをほしげなり):[[三重県]][[伊賀市]] |
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{{Quotation|[[古池や蛙飛びこむ水の音]] (ふるいけや かはづとびこむ みずのおと) 『蛙合』}} |
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* 月さびよ明智が妻の話せん(つきさびよ あけちがつまのはなしせん):[[福井県]][[坂井市]] |
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を詠んだ。[[和歌]]や[[連歌]]の世界では「鳴く」ところに注意が及ぶ蛙の「飛ぶ」点に着目し、それを「動き」ではなく「静寂」を引き立てるために用いる詩情性は過去にない画期的なもので、芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品となった<ref name=Sato44>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.44-47、芭蕉の生涯 草庵生活と『鹿島詣』『笈の小文』『更科紀行]』の旅]]</ref>。 |
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* 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る(たびにやんで ゆめはかれのをかけめぐる):[[辞世]]、[[難波]]([[大阪市]]) |
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貞享4年(1687年)8月14日から、芭蕉は弟子の[[河合曾良]]と宗波を伴い『[[鹿島詣]]』に行った。そこで旧知の根本寺前住職・仏頂禅師と[[月見]]の約束をしたが、あいにくの雨で約束を果たせず、句を作った。 |
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{{Quotation|月はやし梢は雨を持ちながら}} |
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同年10月25日からは、[[伊勢]]へ向かう『[[笈の小文]]』の旅に出発した。東海道を下り、[[鳴海宿|鳴海]]・[[宮宿|熱田]]・[[伊良湖岬|伊良湖崎]]・名古屋などを経て、同年末には伊賀上野に入った。貞享4年(1687年)2月に[[伊勢神宮]]を参拝し、一度父の33回忌のため伊賀に戻るが3月にはまた伊勢に入った。その後吉野・大和・[[紀伊]]と巡り、さらに[[大坂]]・[[須磨区|須磨]]・[[明石]]を旅して京都に入った<ref name=Sato44 />。 |
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京都から江戸への復路は、『[[更科紀行]]』として纏められた。5月に草鞋を履いた芭蕉は[[大津市|大津]]・[[岐阜]]・名古屋・鳴海を経由し、[[信州]][[更級郡|更科]]の[[姨捨山]]で月を展望し、[[善光寺]]へ参拝を果たした後、8月下旬に江戸へ戻った<ref name=Sato44 />。 |
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=== おくのほそ道 === |
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[[西行]]500回忌に当たる元禄2年(1689年)3月20日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『[[奥の細道]]』の旅に出た。[[下野国|下野]]・[[陸奥国|陸奥]]・[[出羽]]・[[越後]]・[[加賀国|加賀]]・[[越前国|越前]]など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行や[[能因]]らの[[歌枕]]や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた<ref name=Sato47>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.47-48、芭蕉の生涯 『おくのほそ道』の旅]]</ref>。 |
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{{Quotation|夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと):[[岩手県]][[平泉町]] </br> |
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[[閑さや岩にしみ入る蝉の声]] (しずかさや いわにしみいる せみのこえ):[[山形県]]・[[立石寺]]</br> |
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五月雨をあつめて早し最上川 (さみだれを あつめてはやし もがみがわ):山形県[[大石田町]]</br> |
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荒海や佐渡によこたふ天河 (あらうみや さどによこたう あまのがわ):[[新潟県]][[出雲崎町]]}} |
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この旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得した。特に[[金沢市|金沢]]で門人となった者たちは、後の加賀蕉門発展の基礎となった<ref name=Sato47 />。また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした<ref name=Sato47 />。 |
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芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600[[里]](約2400km)の旅を終えた。その後9月6日に[[伊勢神宮]]に向かって船出し<ref name=Sato47 />、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。12月には京都に入り、年末は近江[[義仲寺]]の無名庵で過ごした<ref name=Sato49>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.49-50、芭蕉の生涯 『猿蓑』の成立]]</ref>。 |
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=== 『猿蓑』と『おくのほそ道』の完成 === |
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元禄3年(1690年)正月に一度伊賀上野に戻るが、3月中旬には膳所へ行き、4月6日からは近江の弟子・[[膳所藩]]士[[菅沼曲翠]]の勧めにしたがって、静養のため[[滋賀郡]]国分の[[幻住庵]]に7月23日まで滞在した<ref name=Sato49 />。この頃芭蕉は[[風邪]]に持病の[[痔]]に悩まされていたが、京都や膳所にも出かけ俳諧を詠む席に出た<ref name=Sato49 />。 |
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元禄4年(1691年)4月から京都・嵯峨野に入り[[向井去来]]の別荘である[[落柿舎]]に滞在し、5月4日には京都の[[野沢凡兆]]宅に移った。ここで芭蕉は去来や凡兆らと『[[猿蓑]]』の編纂に取り組み始めた<ref name=Sato49 />。「猿蓑」とは、元禄2年9月に伊勢から伊賀へ向かう道中で詠み、巻頭を飾った |
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{{Quotation|初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 (はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり)}} |
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に由来する<ref name=Sato49 />。7月3日に刊行された『猿蓑』には、幻住庵滞在時の記録『幻住庵記』が収録されている<ref name=Sato49 />。9月下旬、芭蕉は京都を発って江戸に向かった<ref name=Sato49 />。 |
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芭蕉は10月29日に江戸に戻った。元禄5年(1692年)5月中旬には新築された芭蕉庵へ移り住んだ。しかし元禄6年(1693年)夏には暑さで体調を崩し、[[お盆|盆]]を過ぎたあたりから約1ヶ月の間庵に篭った。同年冬には三井越後屋の[[手代]]である[[志太野坡]]、[[小泉孤屋]]、[[池田利牛]]らが門人となり、彼らと『すみだはら』を編集した<ref name=Sato50>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.50-52、芭蕉の生涯 『おくのほそ道』の成立と「かるみ」への志向]]</ref>。これは元禄7年(1694年)6月に刊行されたが<ref name=Sato52>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.52-54、芭蕉の生涯 最後の旅へ]]</ref>、それに先立つ4月、何度も推敲を重ねてきた『おくのほそ道』を仕上げて清書へ廻した。完成すると紫色の糸で綴じ、表紙には自筆で題名を記して私蔵した<ref name=Sato50 />。 |
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=== 死去 === |
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元禄7年5月、芭蕉は寿貞尼の息子である[[次郎兵衛]]を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。途中[[大井川]]の増水で[[島田市|島田]]に足止めを食らった、5月28日には到着した。その後湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻った<ref name=Sato52 />。 |
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9月に奈良そして大坂へ赴いた<ref name=Sato52 />。大坂行きの目的は、門人の之道と珍碩の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの<ref name=Ae206>[[#饗庭2001|饗庭(2001)、p.206-216、17.晩年の芭蕉]]</ref>10日夜に発熱と頭痛を訴えた。20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。10月5日に[[御堂筋]]の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた<ref name=Sato52 />。8日、「病中吟」と称して |
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{{Quotation|旅に病んで夢は枯野をかけ廻る}} |
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を詠んだ<ref name=Sato52 />。この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した<ref name=Ae206 />。10日には[[遺書]]を書いた。そして12日申の刻(午前4時頃)、松尾芭蕉は息を引き取った<ref name=Sato52 />。 |
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13日、遺骸は陸路で近江義仲寺に運ばれ、翌日には遺言に従って[[木曾義仲]]の墓の隣に葬られた。焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという<ref name=Sato52 />。 |
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== 蕉門 == |
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門人に[[蕉門十哲]]と呼ばれる[[宝井其角]]<ref name=Sato61>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.61-66、蕉門を彩る人々 最初期から没後まで蕉門であり続けた人々]]</ref>・[[服部嵐雪]]<ref name=Sato61 />・[[森川許六]]<ref name=Sato66>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.66-71、蕉門を彩る人々 晩年に入門し「俳諧の心」を受け継いだ人々]]</ref>・[[向井去来]]<ref name=Sato72>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.72-73、蕉門を彩る人々 『猿蓑』を編集した対照的な二人]]</ref>・[[各務支考]]<ref name=Sato66 />・[[内藤丈草]]<ref name=Sato66 />・[[杉山杉風]]<ref name=Sato61 />・[[立花北枝]]・[[志太野坡]]<ref name=Sato66 />・[[越智越人]]<ref name=Sato74>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.74、蕉門を彩る人々 おわりに]]</ref>や杉風・北枝・野坡・越人の代わりに蕉門十哲に数えられる[[河合曾良]]<ref name=Sato74 />・[[広瀬惟然]]<ref name=Sato66 />・[[服部土芳]]<ref name=Sato190>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.190-192、芭蕉と蕉門の俳論 芭蕉と俳論]]</ref>・[[天野桃隣]]、それ以外の弟子として[[万乎]]・[[野沢凡兆]]<ref name=Sato72 />・[[蘆野資俊]]などがいる。 |
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この他にも地方でも門人らがあり、尾張・近江・伊賀・加賀などではそれぞれの蕉門派が活躍した<ref name=Sato74 />。 |
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== 芭蕉の風 == |
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=== 貞門・談林風 === |
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宗房の名乗りで俳諧を始めた頃、その作風は貞門派の典型であった。つまり、先人の文学作品から要素を得ながら、[[掛詞]]・[[見立て]]・[[頓知]]といった発想を複合的に加えて仕立てる様である。初入集された『佐夜中山集』の1句 |
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{{Quotation|月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿 (つきぞしるべ こなたへいらせ たびのやど)}} |
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は、[[謡曲]]『[[鞍馬天狗]]』の一節から題材を得ている<ref name=Sato14 />。2年後の作品 |
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{{Quotation|霰まじる帷子雪はこもんかな (あられまじる かたびらゆきは こもんかな)『続山井』}} |
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では、「帷子雪」(薄積もりの雪)と「帷子」(薄い着物)を掛詞とし、雪景色に降る霰の風景を、小紋(細かな模様)がある着物に見立てている<ref name=Sato14 />。また、「--は××である」という形式もひとつの特徴である<ref name=Sato14 />。江戸で桃青号を名乗る時期の作は談林調になったと言われるが、この頃の作品にも貞門的な謡曲から得た要素をユニークさで彩る特徴が見られる<ref name=Sato14 />。 |
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=== 天和期の特徴 === |
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天和年間、俳諧の世界では漢文調や字余りが流行し、芭蕉もその影響を受けた。また、芭蕉庵について歌った句を例にあげると、字余りの上五で外の情景を、中七と下五で庵の中にいる自分の様を描いている。これは[[和歌]]における上句「五・七・五」と下句「七・七」で別々の事柄を述べながら2つが繋がり、大きな内容へと展開させる形式と同じ手段を使っている。さらに中七・下五で自らを俳諧の題材に用いている点も特徴で、貞門・談林風時代の特徴「--は××である」と違いが見られる<ref name=Sato14 />。 |
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天和期は芭蕉にとって貞門・談林風の末期とみなす評価もあるが、芭蕉にとってこの時期は表現や句の構造に様々な試みを導入し、意識して俳諧に変化を生み出そうと模索する転換期と考えられる<ref name=Sato14 />。 |
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=== 芭蕉発句 === |
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貞享年間に入ると、芭蕉の俳諧は主に2つの句型を取りつつ、その中に多彩な表現を盛り込んだ作品が主流となる。2つの句型とは、「--哉(省略される場合あり)」と「--や/--(体言止め)」である。前者の例は、 |
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{{Quotation|馬をさへながむる雪の朝哉 (うまをさへ ながむるゆきの あしたかな) 『野ざらし紀行』}} |
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が挙げられる。一夜にして積もった雪景色の朝の風景がいかに新鮮なものかを、平凡な馬にさえ眼がいってしまう事で強調し、具象を示しながら一句が畳み掛けるように「雪の朝」へ繋げる事で気分を表現し、感動を末尾の「哉」で集約させている<ref name=Sato17>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.17-18、俳諧の歴史と芭蕉 芭蕉発句の成果]]</ref>。後者では、 |
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{{Quotation|菊の香やならには古き仏達 (きくのかや ならにはふるき ほとけたち) 『笈日記』}} |
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があり、字余りを使わずに「や」で区切った上五と中七・下五で述べられる別々の事柄が連結し、広がりをもって融和している<ref name=Sato17 />。 |
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さらに『三冊子』にて芭蕉は、「詩歌連俳はいずれも風雅だが、俳は上の三つが及ばないところに及ぶ」と言う。及ばないところとは「俗」を意味し、詩歌連が「俗」を切り捨てて「雅」の文芸として大成したのに対し、俳諧は「俗」さえ取り入れつつ他の3つに並ぶ独自性が高い文芸にあると述べている。この例では、 |
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{{Quotation|蛸壺やはかなき夢を夏の月 (たこつぼや はかなきゆめを なつのつき) 『猿蓑』}} |
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を見ると、「蛸壺」という俗な素材を用いながら、やがて捕食される事など思いもよらず夏の夜に眠る蛸を詠い、命の儚さや哀しさを表現している<ref name=Sato17 />。 |
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=== かるみの境地 === |
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元禄3年の『ひさご』前後頃から、芭蕉は「かるみ」の域に到達したと考えられる。これは『三冊子』にて『ひさご』の発句 |
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{{Quotation|木のもとに汁も鱠も桜かな (このもとに しるもなますも さくらかな)}} |
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の解説で「花見の句のかかりを心得て、軽みをしたり」と述べている事から考えられている<ref name=Sato216>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.216-223、芭蕉と蕉門の俳論 芭蕉と「かるみ」‐『別座舗』の場合]]</ref>。「かるみ」の明確な定義を芭蕉は残しておらず、わずかに「高く心を悟りて俗に帰す」(『三冊子』)という言が残されている<ref name=Sato50 />。試された解釈では、身近な日常の題材を、趣向作意を加えずに素直かつ平明に表すこと<ref name=Sato216 />、和歌の伝統である「風雅」を平易なものへ変換し、日常の事柄を自由な領域で表すこと<ref name=Ae217>[[#饗庭2001|饗庭(2001)、p.217-252、18.芭蕉の芸術論]]</ref>とも言う。 |
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この「かるみ」を句にすると、表現は作意が顔を出さないよう平明でさりげなくならざるを得ない。しかし一つ間違えると俳諧を平俗的・通俗的そして低俗なものへ堕落させる恐れがある。芭蕉は、高い志を抱きつつ「俗」を用い、俳諧に詩美を作り出そうと創意工夫を重ね、その結実を理念の「かるみ」を掲げ、実践した人物である<ref name=Sato223>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.223-226、芭蕉と芭門の俳論 元禄俳諧における名句]]</ref>。 |
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=== 俳評 === |
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芭蕉は俳諧に対する論評(俳評)を著さなかった<ref name=Sato190 />。芭蕉は実践を重視し、また門人が別の考えを持っても矯正する事は無く、「かるみ」の不理解や其角・嵐雪のように別な方向性を好む者も容認していた<ref name=Sato223 />。下手に俳評を残せばそれを盲目的に信じ、俳風が形骸化することを恐れたとも考えられる<ref name=Sato190 />。ただし、門人が書き留める事は禁止せず、土芳の『三冊子』や去来の『去来抄』を通じて知る事ができる<ref name=Sato190 />。 |
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「かるみ」にあるように「俗」を取り込みつつ、芭蕉は「俗談平話」すなわちあくまで日常的な言葉を使いながらも、それを文芸性に富む詩語化を施して、俳諧を高みに導こうとしていた。これを成すために重視した純粋な詩精神を「風雅の誠」と呼んだ<ref name=Sato192>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.192-195、芭蕉と芭門の俳論 俳諧文芸の本質・俳諧精神論‐「俗語を正す」「風雅の誠」]]</ref>。これは、[[宋学]]の世界観が言う万物の根源「誠」が意識されており、風雅の本質を掴む(『三冊子』では「誠を責むる」と言う)ことで自ずと俳諧が詠め、そこに作意を凝らす必要が無くなると説く<ref name=Sato192 />。この本質は固定的ではなく、おくのほそ道で得た「不易流行」の通り不易=「誠によく立ちたる姿」と流行=「誠の変化を知(る)」という2つの概念があり、これらを統括した観念を「誠」と定めている<ref name=Sato192 />。 |
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風雅の本質とは、詩歌では伝統的に「本意」と呼ばれ尊重すべきものとされたが、実態は形骸化しつつあった。芭蕉はこれに代わり「本情/本性」という概念を示し、俳諧に詠う対象固有の性情を捉える事に重点を置いた<ref name=Sato195>[[#佐藤編2011|佐藤編(2011)、p.195-198、芭蕉と芭門の俳論 対象把握の方法‐物我一如と本情論]]</ref>。これを直接的に述べた芭蕉の言葉が「松の事は松に習へ」(『三冊子』赤)である<ref name=Sato195 />。これは私的な観念をいかに捨てて、対象の本情へ入り込む「物我一如」「主客合一」が重要かを端的に説明している<ref name=Sato195 />。 |
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== その他 == |
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[[ファイル:Haiseiden.jpg|thumb|300px|[[俳聖殿]]]] |
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[[File:Basho by Hokusai-small.jpg|thumb|松尾芭蕉像([[葛飾北斎]]画)]] |
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[[File:Fermier celebrant la lune d'automne.jpg|thumb|『三日月の頃より待し今宵哉』([[月岡芳年]]『月百姿』)松尾芭蕉]] |
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忌日である10月12日(現在は[[新暦]]で実施される)は、桃青忌・時雨忌・翁忌などと呼ばれる。[[時雨]]は[[旧暦]]十月の異称であり、芭蕉が好んで詠んだ句材でもあった。例えば、猿蓑の発句「初時雨猿も小蓑を欲しげ也」などがある。 |
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「[[松島]]やああ松島や松島や」は、かつては芭蕉の作とされてきたが記録には残されておらず、近年この句は江戸時代後期の[[狂歌]]師・[[田原坊]]の作ではないかと考えられている。 |
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芭蕉の終焉地は、御堂筋の拡幅工事のあおりで取り壊された。現在は石碑が[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]久太郎町3丁目5付近の御堂筋の本線と測道の間のグリーンベルトに建てられている。またすぐ近くの[[真宗大谷派難波別院]](南御堂)の境内にも辞世の句碑がある。 |
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== 著作 == |
== 著作 == |
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== 隠密説 == |
== 隠密説 == |
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{{観点|date=2008年1月|section=1}} |
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45歳の芭蕉による『[[おくのほそ道]]』の旅程は六百里(2400キロ)にのぼり、一日十数里もの山谷跋渉もある。これは当時のこの年齢としては大変な健脚でありスピードである。 |
45歳の芭蕉による『[[おくのほそ道]]』の旅程は六百里(2400キロ)にのぼり、一日十数里もの山谷跋渉もある。これは当時のこの年齢としては大変な健脚でありスピードである。 |
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これに18歳の時に[[服部半蔵]]の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の息子に仕えたということが合わさって「芭蕉忍者説」が生まれた<ref>『歴史読本 決定版「忍者」のすべて』[[新人物往来社]]、[[平成]]3年([[1991年]])</ref>。 |
これに18歳の時に[[服部半蔵]]の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の息子に仕えたということが合わさって「芭蕉忍者説」が生まれた<ref>『歴史読本 決定版「忍者」のすべて』[[新人物往来社]]、[[平成]]3年([[1991年]])</ref>。 |
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また、この日程も非常に異様である。[[黒羽町|黒羽]]で13泊、[[須賀川市|須賀川]]では7泊して仙台藩に入ったが、出発の際に「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛した[[松島]]では1句も詠まずに1泊して通過している。この異様な行程は、仙台藩の内部を調べる機会をうかがっているためだとされる<ref>[[中名生正昭]]『奥の細道の謎を読む』南雲堂、[[平成]]10年([[1998年]])、ISBN 978-4-523-26326-5</ref>。『曾良旅日記』には、仙台藩の軍事要塞といわれる[[瑞巌寺]]、藩の商業港・[[石巻港]]を執拗に見物したことが記されている(曾良は幕府の任務を課せられ、そのカモフラージュとして芭蕉の旅に同行したともいわれている<ref>村松友次『謎の旅人 曽良』[[大修館書店]]、平成14年([[2002年]])、ISBN 978-4-469-22156-5</ref> |
また、この日程も非常に異様である。[[黒羽町|黒羽]]で13泊、[[須賀川市|須賀川]]では7泊して[[仙台藩]]に入ったが、出発の際に「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛した[[松島]]では1句も詠まずに1泊して通過している。この異様な行程は、仙台藩の内部を調べる機会をうかがっているためだとされる<ref>[[中名生正昭]]『奥の細道の謎を読む』南雲堂、[[平成]]10年([[1998年]])、ISBN 978-4-523-26326-5</ref>。『[[曾良旅日記]]』には、仙台藩の軍事要塞といわれる[[瑞巌寺]]、藩の商業港・[[石巻港]]を執拗に見物したことが記されている(曾良は幕府の任務を課せられ、そのカモフラージュとして芭蕉の旅に同行したともいわれている<ref>村松友次『謎の旅人 曽良』[[大修館書店]]、平成14年([[2002年]])、ISBN 978-4-469-22156-5</ref>)。 |
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== 日本以外での芭蕉像など == |
== 日本以外での芭蕉像など == |
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* Sierra社のゲーム、「Swat 2」には、「バショー」と名乗り、英語のおかしな俳句を読むテロ組織の黒幕が登場する。 |
* Sierra社のゲーム、「Swat 2」には、「バショー」と名乗り、英語のおかしな俳句を読むテロ組織の黒幕が登場する。 |
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* W.C.フラナガン名義の[[小林信彦]]の著作『ちはやふる 奥の細道』では上記の芭蕉隠密説に基づいた記述が見られる。ただし、旅の目的が佐渡金山の爆破であったり、それに水戸藩の隠密が絡むなど、史実とは全く関係のない独創的な記述が主である。 |
* W.C.フラナガン名義の[[小林信彦]]の著作『ちはやふる 奥の細道』では上記の芭蕉隠密説に基づいた記述が見られる。ただし、旅の目的が佐渡金山の爆破であったり、それに水戸藩の隠密が絡むなど、史実とは全く関係のない独創的な記述が主である。 |
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* ロバート |
* [[ロバート・クレイス]]の著作『モンキーズ・レインコート ロスの探偵エルヴィス・コール』(The Monkey's Raincoat) のタイトルは芭蕉の句「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」や蕉門の発句・連句集『[[猿蓑]]』に由来する。 |
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== 銅像・碑 == |
== 銅像・碑 == |
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画像:Kehi-jingu23s3872.jpg|[[氣比神宮]]にある銅像 |
画像:Kehi-jingu23s3872.jpg|[[氣比神宮]]にある銅像 |
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画像:MatsuoBasho.jpg|[[大垣市]]「奥の細道」結びの地 |
画像:MatsuoBasho.jpg|[[大垣市]]「奥の細道」結びの地 |
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画像:MatsuoBasyoSeika.jpg|[[芭蕉翁生家]](伊賀市) |
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画像:MatsuoBasyoZou.jpg|[[上野市駅]]前の像 |
画像:MatsuoBasyoZou.jpg|[[上野市駅]]前の像 |
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画像:MatsuoBshoIgaShisho.JPG|伊賀市役所伊賀支所にある銅像 |
画像:MatsuoBshoIgaShisho.JPG|伊賀市役所伊賀支所にある銅像 |
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== 脚 |
== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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*{{cite book|和書|title=松尾芭蕉|author=佐藤勝明 編|publisher=[[ひつじ書房]] |series = 21世紀日本文学ガイドブック(5) |edition=初版1刷|year=2011|oriyear=|isbn=978-4-89476-512-2 |ref=佐藤編2011}} |
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*{{cite book|和書|title=芭蕉|author=饗庭孝男|publisher=[[集英社]] |series = 集英社新書|edition=第1刷|year=2001|oriyear=|isbn=4-08-720089-2 |ref=饗庭2001}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{Commonscat|Matsuo Basho}} |
{{Commonscat|Matsuo Basho}} |
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* [[俳諧七部集]] - 「芭蕉七部集」の正式名 |
* [[俳諧七部集]] - 「芭蕉七部集」の正式名 |
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* [[俳句]] |
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* [[俳諧]] |
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* [[逸翁美術館]] |
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* [[柿衞文庫]] |
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* [[俳人の一覧]] |
* [[俳人の一覧]] |
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* [[松岡青蘿]] |
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* [[ |
* [[曾良旅日記]] |
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* [[内藤義英]] |
* [[内藤義英]] |
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* [[連歌]] |
* [[連歌]] |
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* [[日本の近世文学史]] |
* [[日本の近世文学史]] |
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* [[蕉門十哲]] |
* [[蕉門十哲]] |
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* [[わび・さび]] |
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* [[軽み]] |
* [[軽み]] |
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* [[芭蕉翁生家]] |
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* [[芭蕉翁記念館]] |
* [[芭蕉翁記念館]] |
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* [[明照寺 (彦根市)]] |
* [[明照寺 (彦根市)]] |
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* [[膳所藩]] |
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* [[菅沼曲水]] |
* [[菅沼曲水]] |
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* [[義仲寺]] |
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* [[大島稲荷神社]] |
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* [[竜が丘俳人墓地]] |
* [[竜が丘俳人墓地]] |
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* [[幻住庵]] |
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* [[次郎兵衛]] |
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* [[日本の書家一覧]] |
* [[日本の書家一覧]] |
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* [[バショウ]] |
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* [[ギャグマンガ日和]] |
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* [[隠密・奥の細道]] |
* [[隠密・奥の細道]] |
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* [[四寺廻廊]] |
* [[四寺廻廊]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://www.city.iga.lg.jp/index.html 伊賀市公式ホームページ] |
* [http://www.city.iga.lg.jp/index.html 伊賀市公式ホームページ] |
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* [http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/basyo_hdb.html 三省堂-芭蕉ハンドブック] |
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* [http://www.kcf.or.jp/basyo/index.html 江東区芭蕉記念館(江東区地域振興会HP内)] |
* [http://www.kcf.or.jp/basyo/index.html 江東区芭蕉記念館(江東区地域振興会HP内)] |
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* [http://www.bashouan.com/index.html 芭蕉庵ドットコム] |
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* [http://www.ict.ne.jp/~basho/index.html 芭蕉と伊賀] |
* [http://www.ict.ne.jp/~basho/index.html 芭蕉と伊賀] |
||
* [http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm 芭蕉DB] |
* [http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm 芭蕉DB] |
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* [http://www.warabi.jp/okuhoso/index.html ミュージカル「おくのほそ道」] |
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* [http://www.bashouan.com/psBashou_nenpu.htm 松尾芭蕉の総合年譜と遺書] |
* [http://www.bashouan.com/psBashou_nenpu.htm 松尾芭蕉の総合年譜と遺書] |
||
* [http://es.geocities.com/bosque_de_bambu/archivos/sendas_de_oku/00.html Bosque de Bambú, camino del haiku - Bashô - Oku no Hosomichi] ''Japones - Español'' |
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* [http://shijikairou.com/ 四寺廻廊] |
* [http://shijikairou.com/ 四寺廻廊] |
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{{Normdaten|TYP=p|GND=118653369|LCCN=n/81/14364|NDL=00270778|VIAF=12304628}} |
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[[Category:松尾芭蕉|*]] |
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[[Category:江戸時代の俳人]] |
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[[Category:伊賀国の人物]] |
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[[Category:1644年生]] |
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[[bs:Matsuo Basho]] |
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[[ca:Matsuo Bashō]] |
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[[cs:Macuo Bašó]] |
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2012年12月19日 (水) 04:09時点における版
松尾 芭蕉 | |
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与謝蕪村が描いた芭蕉像 | |
誕生 |
1644年??月??日 日本 伊賀国 |
死没 | 1694年11月28日 |
職業 | 俳諧師 |
ジャンル | 俳句 |
代表作 |
紀行文『おくのほそ道』 古池や蛙飛びこむ水の音 閑さや岩にしみ入る蝉の声 |
ウィキポータル 文学 |
松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)[1])は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作[2]。通称は甚七郎、甚四郎[2]。名は忠右衛門宗房[2]。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。
蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風[3]を確立し、後世では俳聖、俳聖[4]として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。
芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』がある。
生涯
伊賀国の宗房
伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれたが、その詳しい月日は伝わっていない[2]。出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説[2] と柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説がある。これは芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。 阿拝郡柘植郷(現在の伊賀市柘植)の土豪一族出身の父・松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身とも言われる母・ 梅 の間に次男として生まれる[2]。兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた[2]。 松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は農民だった[5]。
明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去[2]。 兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためであろうか、 異説も多いが寛文2年(1662)に[5]若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕えたが、その仕事は厨房役か料理人だったらしい[2]。2歳年上の良忠とともに京都の北村季吟に師事して俳諧の道に入り[2]、寛文2年の年末に詠んだ句
春や来し年や行けん小晦日 (はるやこし としやゆきけん こつごもり)
が作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳の立春の日に詠んだという[5]。寛文4年(1664年)には松江重頼撰『佐夜中山集』に、貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集した[2]。
寛文6年(1666年)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている[2]。
しかし寛文6年に良忠が歿する。宗房は遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わって[5]菩提を弔い[2]、仕官を退いた[5]。後の動向にはよく分からない部分もあるが、寛文7年(1667年)刊の『続山井』(湖春編)など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行く事があっても、上野に止まっていたと考えられる[2]。その後、萩野安静撰『如意宝珠』(寛永9年)に6句、岡村正辰撰『大和巡礼』(寛永10年)に2句、吉田友次撰『俳諧藪香物』(寛永11年)に1句がそれぞれ入集した[5]。
寛文12年(1672年)、29歳の宗房は処女句集『貝おほひ』を上野天満宮(三重県伊賀市)に奉納した。これは30番の発句合で、談林派の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でも小唄や六方詞など流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となった[2]。また延宝2年(1674年)、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われた[2]。そしてこれらを機に、宗房は江戸へ向かった[2]。
江戸日本橋の桃青
延宝3年(1675年)初頭(諸説あり[2])に江戸へ下った宗房が最初に住んだ場所には諸説あり、日本橋の小沢卜尺の貸家[6]、久居藩士の向日八太夫が下向に同行し、後に終生の援助者となった魚問屋・杉山杉風の日本橋小田原町の宅に入ったともいう[6]。江戸では、在住の俳人たちと交流を持ち、やがて江戸俳壇の後見とも言える磐城平藩主内藤義概のサロンにも出入りするようになった[6]。延宝3年5月には江戸へ下った西山宗因を迎え開催された興行の九吟百韻に加わり、この時初めて号「桃青」を用いた[6]。ここで触れた宗因の談林派俳諧に、桃青は大きな影響をうけた[6]。
延宝5年(1677年)、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。卜尺の紹介によるものと思われるが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられる[7]。この期間、桃青は現在の文京区に住み、そこは関口芭蕉庵として芭蕉堂や瓢箪池が整備されている[6]。この年もしくは翌年の延宝6年(1678年)に、桃青は宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師となった。ただし宗匠披露の通例だった万句俳諧が行なわれた確かな証拠は無いが、例えば『玉手箱』(神田蝶々子編、延宝7年9月)にある「桃青万句の内千句巻頭」や、『富士石』(調和編、延宝7年4月)にある「桃青万句」といった句の前書きから、万句俳諧は何らかの形で行われたと考えられる[6]。『桃青伝』(梅人編)には「延宝六牛年歳旦帳」という、宗匠の証である歳旦帳を桃青が持っていた事を示す文も残っている[6]。
宗匠となった桃青は江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。京の信徳が江戸に来た際に山口素堂らと会し、『桃青三百韻』が刊行された。この時期には談林派の影響が強く現れていた[6]。また批評を依頼される事もあり、『俳諧関相撲』(未達編、天和2年刊)の評価を依頼された18人の傑出した俳人のひとりに選ばれた。ただし桃青の評は散逸し伝わっていない[6]。
しかし延宝8年(1680年)、桃青は突然深川に居を移す。この理由については諸説あり、新進気鋭の宗匠として愛好家らと面会する点者生活に飽いたという意見、火事で日本橋の家を焼け出された説、また談林諧謔に限界を見たという意見もある[8]。いずれにしろ彼は、俳諧の純粋性を求め、世間に背を向けて老荘思想のように天(自然)に倣う中で安らぎを得ようとした考えがあった[9]。
江戸深川の芭蕉
深川に移ってから作られた句には、談林諧謔から離れや点者生活と別れを、静寂で孤独な生活を通して克服しようという意志が込められたものがある。また、『むさしぶり』(望月千春編、天和3年刊)に収められた
侘びてすめ月侘斎が奈良茶哥
は、侘びへの共感が詠まれている[8]。この『むさしぶり』では、新たな号「芭蕉」が初めて使われた。これは門人の李下から芭蕉の株を贈られた事にちなみ、これが大いに茂ったので当初は杜甫の詩から採り「泊船堂」と読んでいた[9]深川の居を「芭蕉庵」へ変えた[8][10]。その入庵の翌秋、字余り調で「芭蕉」の句を詠んだ。
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
しかし天和2年(1682年)12月、天和の大火(いわゆる八百屋お七の火事)で庵を焼失し、甲斐谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山繁文(通称・伝右衝門)に招かれ流寓した[8]。翌年5月には江戸に戻り、冬には芭蕉庵は再建されたが[8]、この出来事は芭蕉に、隠棲しながら棲家を持つ事の儚さを知らしめた[9]。
その間『みなしぐり』(其角編)に収録された芭蕉句は、漢詩調や破調を用いるなど独自の吟調を拓き始めるもので、作風は「虚栗調(みなしぐりちょう)」と呼ばれる[8]。その一方で「笠」を題材とする句も目立ち、実際に自ら竹を裂いて笠を自作し「笠作りの翁」と名乗ることもあった。芭蕉は「笠」を最小の「庵」と考え、風雨から身を守るに侘び住まいの芭蕉庵も旅の笠も同じという思想を抱き、旅の中に身を置く思考の強まりがこのように現れ始めたと考えられる[9]。
蕉風の高まりと紀行
貞享元年(1684年)8月、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出る。東海道を西へ向かい、伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張を廻った。再び伊賀に入って越年すると、木曽・甲斐を経て江戸に戻ったのは貞享2年(1685年)4月になった。これは元々美濃国大垣の木因に招かれて出発したものだが、前年に他界した母親の墓参をするため伊賀にも向かった。この旅には、門人の千里(粕谷甚四郎)が同行した[11]。
紀行の名は、出発の際に詠まれた
野ざらしを心に風のしむ身哉
に由来する。これ程悲壮とも言える覚悟で臨んだ旅だったが、後半には穏やかな心情になり、これは句に反映している。前半では漢詩文調のものが多いが、後半になると見聞きしたものを素直に述べながら、侘びの心境を反映した表現に変化する[11]。途中の名古屋で、芭蕉は尾張の俳人らと座を同じくし、詠んだ歌仙5巻と追加6句が纏められ『冬の日』として刊行された。これは「芭蕉七部集」の第一とされる[11]。この中で芭蕉は、日本や中国の架空の人物を含む古人を登場させ、その風狂さを題材にしながらも、従来の形式から脱皮した句を詠んだ[11]。これゆえ、『冬の日』は「芭蕉開眼の書」とも呼ばれる[11]。
野ざらし紀行から戻った芭蕉は、貞享3年(1686年)の春に芭蕉庵で催した蛙の発句会で有名な
古池や蛙飛びこむ水の音 (ふるいけや かはづとびこむ みずのおと) 『蛙合』
を詠んだ。和歌や連歌の世界では「鳴く」ところに注意が及ぶ蛙の「飛ぶ」点に着目し、それを「動き」ではなく「静寂」を引き立てるために用いる詩情性は過去にない画期的なもので、芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品となった[12]。
貞享4年(1687年)8月14日から、芭蕉は弟子の河合曾良と宗波を伴い『鹿島詣』に行った。そこで旧知の根本寺前住職・仏頂禅師と月見の約束をしたが、あいにくの雨で約束を果たせず、句を作った。
月はやし梢は雨を持ちながら
同年10月25日からは、伊勢へ向かう『笈の小文』の旅に出発した。東海道を下り、鳴海・熱田・伊良湖崎・名古屋などを経て、同年末には伊賀上野に入った。貞享4年(1687年)2月に伊勢神宮を参拝し、一度父の33回忌のため伊賀に戻るが3月にはまた伊勢に入った。その後吉野・大和・紀伊と巡り、さらに大坂・須磨・明石を旅して京都に入った[12]。
京都から江戸への復路は、『更科紀行』として纏められた。5月に草鞋を履いた芭蕉は大津・岐阜・名古屋・鳴海を経由し、信州更科の姨捨山で月を展望し、善光寺へ参拝を果たした後、8月下旬に江戸へ戻った[12]。
おくのほそ道
西行500回忌に当たる元禄2年(1689年)3月20日、弟子の曾良を伴い芭蕉は『奥の細道』の旅に出た。下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、彼にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた[13]。
この旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得した。特に金沢で門人となった者たちは、後の加賀蕉門発展の基礎となった[13]。また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした[13]。
芭蕉は8月下旬に大垣に着き、約5ヶ月600里(約2400km)の旅を終えた。その後9月6日に伊勢神宮に向かって船出し[13]、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。12月には京都に入り、年末は近江義仲寺の無名庵で過ごした[14]。
『猿蓑』と『おくのほそ道』の完成
元禄3年(1690年)正月に一度伊賀上野に戻るが、3月中旬には膳所へ行き、4月6日からは近江の弟子・膳所藩士菅沼曲翠の勧めにしたがって、静養のため滋賀郡国分の幻住庵に7月23日まで滞在した[14]。この頃芭蕉は風邪に持病の痔に悩まされていたが、京都や膳所にも出かけ俳諧を詠む席に出た[14]。
元禄4年(1691年)4月から京都・嵯峨野に入り向井去来の別荘である落柿舎に滞在し、5月4日には京都の野沢凡兆宅に移った。ここで芭蕉は去来や凡兆らと『猿蓑』の編纂に取り組み始めた[14]。「猿蓑」とは、元禄2年9月に伊勢から伊賀へ向かう道中で詠み、巻頭を飾った
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 (はつしぐれ さるもこみのを ほしげなり)
に由来する[14]。7月3日に刊行された『猿蓑』には、幻住庵滞在時の記録『幻住庵記』が収録されている[14]。9月下旬、芭蕉は京都を発って江戸に向かった[14]。
芭蕉は10月29日に江戸に戻った。元禄5年(1692年)5月中旬には新築された芭蕉庵へ移り住んだ。しかし元禄6年(1693年)夏には暑さで体調を崩し、盆を過ぎたあたりから約1ヶ月の間庵に篭った。同年冬には三井越後屋の手代である志太野坡、小泉孤屋、池田利牛らが門人となり、彼らと『すみだはら』を編集した[15]。これは元禄7年(1694年)6月に刊行されたが[16]、それに先立つ4月、何度も推敲を重ねてきた『おくのほそ道』を仕上げて清書へ廻した。完成すると紫色の糸で綴じ、表紙には自筆で題名を記して私蔵した[15]。
死去
元禄7年5月、芭蕉は寿貞尼の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。途中大井川の増水で島田に足止めを食らった、5月28日には到着した。その後湖南や京都へ行き、7月には伊賀上野へ戻った[16]。
9月に奈良そして大坂へ赴いた[16]。大坂行きの目的は、門人の之道と珍碩の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。当初は若い珍碩の家に留まり諭したが、彼は受け入れず失踪してしまった。この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉は之道の家に移ったものの[17]10日夜に発熱と頭痛を訴えた。20日には回復して俳席にも現れたが、29日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。10月5日に御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受けた[16]。8日、「病中吟」と称して
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
を詠んだ[16]。この句が事実上最後の俳諧となるが、病の床で芭蕉は推敲し「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻るゆめ心」とすべきかと思案した[17]。10日には遺書を書いた。そして12日申の刻(午前4時頃)、松尾芭蕉は息を引き取った[16]。
13日、遺骸は陸路で近江義仲寺に運ばれ、翌日には遺言に従って木曾義仲の墓の隣に葬られた。焼香に駆けつけた門人は80名、300余名が会葬に来たという[16]。
蕉門
門人に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角[18]・服部嵐雪[18]・森川許六[19]・向井去来[20]・各務支考[19]・内藤丈草[19]・杉山杉風[18]・立花北枝・志太野坡[19]・越智越人[21]や杉風・北枝・野坡・越人の代わりに蕉門十哲に数えられる河合曾良[21]・広瀬惟然[19]・服部土芳[22]・天野桃隣、それ以外の弟子として万乎・野沢凡兆[20]・蘆野資俊などがいる。
この他にも地方でも門人らがあり、尾張・近江・伊賀・加賀などではそれぞれの蕉門派が活躍した[21]。
芭蕉の風
貞門・談林風
宗房の名乗りで俳諧を始めた頃、その作風は貞門派の典型であった。つまり、先人の文学作品から要素を得ながら、掛詞・見立て・頓知といった発想を複合的に加えて仕立てる様である。初入集された『佐夜中山集』の1句
月ぞしるべこなたへ入せ旅の宿 (つきぞしるべ こなたへいらせ たびのやど)
は、謡曲『鞍馬天狗』の一節から題材を得ている[10]。2年後の作品
霰まじる帷子雪はこもんかな (あられまじる かたびらゆきは こもんかな)『続山井』
では、「帷子雪」(薄積もりの雪)と「帷子」(薄い着物)を掛詞とし、雪景色に降る霰の風景を、小紋(細かな模様)がある着物に見立てている[10]。また、「--は××である」という形式もひとつの特徴である[10]。江戸で桃青号を名乗る時期の作は談林調になったと言われるが、この頃の作品にも貞門的な謡曲から得た要素をユニークさで彩る特徴が見られる[10]。
天和期の特徴
天和年間、俳諧の世界では漢文調や字余りが流行し、芭蕉もその影響を受けた。また、芭蕉庵について歌った句を例にあげると、字余りの上五で外の情景を、中七と下五で庵の中にいる自分の様を描いている。これは和歌における上句「五・七・五」と下句「七・七」で別々の事柄を述べながら2つが繋がり、大きな内容へと展開させる形式と同じ手段を使っている。さらに中七・下五で自らを俳諧の題材に用いている点も特徴で、貞門・談林風時代の特徴「--は××である」と違いが見られる[10]。
天和期は芭蕉にとって貞門・談林風の末期とみなす評価もあるが、芭蕉にとってこの時期は表現や句の構造に様々な試みを導入し、意識して俳諧に変化を生み出そうと模索する転換期と考えられる[10]。
芭蕉発句
貞享年間に入ると、芭蕉の俳諧は主に2つの句型を取りつつ、その中に多彩な表現を盛り込んだ作品が主流となる。2つの句型とは、「--哉(省略される場合あり)」と「--や/--(体言止め)」である。前者の例は、
馬をさへながむる雪の朝哉 (うまをさへ ながむるゆきの あしたかな) 『野ざらし紀行』
が挙げられる。一夜にして積もった雪景色の朝の風景がいかに新鮮なものかを、平凡な馬にさえ眼がいってしまう事で強調し、具象を示しながら一句が畳み掛けるように「雪の朝」へ繋げる事で気分を表現し、感動を末尾の「哉」で集約させている[23]。後者では、
菊の香やならには古き仏達 (きくのかや ならにはふるき ほとけたち) 『笈日記』
があり、字余りを使わずに「や」で区切った上五と中七・下五で述べられる別々の事柄が連結し、広がりをもって融和している[23]。
さらに『三冊子』にて芭蕉は、「詩歌連俳はいずれも風雅だが、俳は上の三つが及ばないところに及ぶ」と言う。及ばないところとは「俗」を意味し、詩歌連が「俗」を切り捨てて「雅」の文芸として大成したのに対し、俳諧は「俗」さえ取り入れつつ他の3つに並ぶ独自性が高い文芸にあると述べている。この例では、
蛸壺やはかなき夢を夏の月 (たこつぼや はかなきゆめを なつのつき) 『猿蓑』
を見ると、「蛸壺」という俗な素材を用いながら、やがて捕食される事など思いもよらず夏の夜に眠る蛸を詠い、命の儚さや哀しさを表現している[23]。
かるみの境地
元禄3年の『ひさご』前後頃から、芭蕉は「かるみ」の域に到達したと考えられる。これは『三冊子』にて『ひさご』の発句
木のもとに汁も鱠も桜かな (このもとに しるもなますも さくらかな)
の解説で「花見の句のかかりを心得て、軽みをしたり」と述べている事から考えられている[24]。「かるみ」の明確な定義を芭蕉は残しておらず、わずかに「高く心を悟りて俗に帰す」(『三冊子』)という言が残されている[15]。試された解釈では、身近な日常の題材を、趣向作意を加えずに素直かつ平明に表すこと[24]、和歌の伝統である「風雅」を平易なものへ変換し、日常の事柄を自由な領域で表すこと[25]とも言う。
この「かるみ」を句にすると、表現は作意が顔を出さないよう平明でさりげなくならざるを得ない。しかし一つ間違えると俳諧を平俗的・通俗的そして低俗なものへ堕落させる恐れがある。芭蕉は、高い志を抱きつつ「俗」を用い、俳諧に詩美を作り出そうと創意工夫を重ね、その結実を理念の「かるみ」を掲げ、実践した人物である[26]。
俳評
芭蕉は俳諧に対する論評(俳評)を著さなかった[22]。芭蕉は実践を重視し、また門人が別の考えを持っても矯正する事は無く、「かるみ」の不理解や其角・嵐雪のように別な方向性を好む者も容認していた[26]。下手に俳評を残せばそれを盲目的に信じ、俳風が形骸化することを恐れたとも考えられる[22]。ただし、門人が書き留める事は禁止せず、土芳の『三冊子』や去来の『去来抄』を通じて知る事ができる[22]。
「かるみ」にあるように「俗」を取り込みつつ、芭蕉は「俗談平話」すなわちあくまで日常的な言葉を使いながらも、それを文芸性に富む詩語化を施して、俳諧を高みに導こうとしていた。これを成すために重視した純粋な詩精神を「風雅の誠」と呼んだ[27]。これは、宋学の世界観が言う万物の根源「誠」が意識されており、風雅の本質を掴む(『三冊子』では「誠を責むる」と言う)ことで自ずと俳諧が詠め、そこに作意を凝らす必要が無くなると説く[27]。この本質は固定的ではなく、おくのほそ道で得た「不易流行」の通り不易=「誠によく立ちたる姿」と流行=「誠の変化を知(る)」という2つの概念があり、これらを統括した観念を「誠」と定めている[27]。
風雅の本質とは、詩歌では伝統的に「本意」と呼ばれ尊重すべきものとされたが、実態は形骸化しつつあった。芭蕉はこれに代わり「本情/本性」という概念を示し、俳諧に詠う対象固有の性情を捉える事に重点を置いた[28]。これを直接的に述べた芭蕉の言葉が「松の事は松に習へ」(『三冊子』赤)である[28]。これは私的な観念をいかに捨てて、対象の本情へ入り込む「物我一如」「主客合一」が重要かを端的に説明している[28]。
その他
忌日である10月12日(現在は新暦で実施される)は、桃青忌・時雨忌・翁忌などと呼ばれる。時雨は旧暦十月の異称であり、芭蕉が好んで詠んだ句材でもあった。例えば、猿蓑の発句「初時雨猿も小蓑を欲しげ也」などがある。
「松島やああ松島や松島や」は、かつては芭蕉の作とされてきたが記録には残されておらず、近年この句は江戸時代後期の狂歌師・田原坊の作ではないかと考えられている。
芭蕉の終焉地は、御堂筋の拡幅工事のあおりで取り壊された。現在は石碑が大阪市中央区久太郎町3丁目5付近の御堂筋の本線と測道の間のグリーンベルトに建てられている。またすぐ近くの真宗大谷派難波別院(南御堂)の境内にも辞世の句碑がある。
著作
- 『校本芭蕉全集』 (全10巻別巻1)、 富士見書房-現在は品切絶版
- 『松尾芭蕉集』 小学館<新編日本古典文学全集70.71>
- 『芭蕉文集』、『芭蕉句集』 <新潮日本古典集成>新潮社
- 岩波文庫で、『おくのほそ道 付曾良旅日記』(奥の細道)、 『芭蕉俳句集』
『芭蕉俳文集』(上下)、『芭蕉紀行文集』、『芭蕉書簡集』、『芭蕉連句集』、『芭蕉七部集』。 - 角川ソフィア文庫で、『芭蕉全句集 現代語訳付』(雲英末雄ほか訳・校注、2010年11月刊)
- 『芭蕉書簡大成』 『芭蕉年譜大成』 今栄蔵編著 角川学芸出版
- 『全釈芭蕉書簡集』 田中善信 新典社注釈叢書11
- 『俳諧七部集』 白石悌三・上野洋三校注、岩波書店〈新日本古典文学大系70〉。
隠密説
45歳の芭蕉による『おくのほそ道』の旅程は六百里(2400キロ)にのぼり、一日十数里もの山谷跋渉もある。これは当時のこの年齢としては大変な健脚でありスピードである。 これに18歳の時に服部半蔵の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族である藤堂新七郎の息子に仕えたということが合わさって「芭蕉忍者説」が生まれた[29]。
また、この日程も非常に異様である。黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台藩に入ったが、出発の際に「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛した松島では1句も詠まずに1泊して通過している。この異様な行程は、仙台藩の内部を調べる機会をうかがっているためだとされる[30]。『曾良旅日記』には、仙台藩の軍事要塞といわれる瑞巌寺、藩の商業港・石巻港を執拗に見物したことが記されている(曾良は幕府の任務を課せられ、そのカモフラージュとして芭蕉の旅に同行したともいわれている[31])。
日本以外での芭蕉像など
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- ウクライナの中学2年生の教科書には、2ページにわたって松尾芭蕉のことが書かれている[32]。
- Sierra社のゲーム、「Swat 2」には、「バショー」と名乗り、英語のおかしな俳句を読むテロ組織の黒幕が登場する。
- W.C.フラナガン名義の小林信彦の著作『ちはやふる 奥の細道』では上記の芭蕉隠密説に基づいた記述が見られる。ただし、旅の目的が佐渡金山の爆破であったり、それに水戸藩の隠密が絡むなど、史実とは全く関係のない独創的な記述が主である。
- ロバート・クレイスの著作『モンキーズ・レインコート ロスの探偵エルヴィス・コール』(The Monkey's Raincoat) のタイトルは芭蕉の句「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」や蕉門の発句・連句集『猿蓑』に由来する。
銅像・碑
芭蕉句碑は全国に存在するが芭蕉の生れ故郷 伊賀では句碑ではなく芭蕉塚と呼ぶ。
脚注
- ^ 佐藤編(2011)、p.248-249、松尾芭蕉関係年表
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 佐藤編(2011)、p.30-34、芭蕉の生涯 伊賀上野時代(寛永~寛文期)
- ^ 東聖子 『蕉風俳諧における〈季語 ・季題〉の研究』(明治書院、2003年)、ISBN 4-625-44300-8-山本健吉文学賞(第4回)受賞
- ^ 佐藤編(2011)、p.247、あとがき
- ^ a b c d e f 饗庭(2001)、p.16-21、1.芭蕉、伊賀上野の頃
- ^ a b c d e f g h i j 佐藤編(2011)、p.34-37、芭蕉の生涯 江戸下向(延宝期)
- ^ 饗庭(2001)、p.30-42、3.談林風と江戸下向
- ^ a b c d e f 佐藤編(2011)、p.38-41、芭蕉の生涯 深川移居(延宝末~天和期)
- ^ a b c d 饗庭(2001)、p.43-54、4.隠者への道
- ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.14-17、俳諧の歴史と芭蕉 芭蕉における貞門・談林・天和調
- ^ a b c d e 佐藤編(2011)、p.41-44、芭蕉の生涯 『野ざらし紀行』の旅
- ^ a b c 佐藤編(2011)、p.44-47、芭蕉の生涯 草庵生活と『鹿島詣』『笈の小文』『更科紀行]』の旅
- ^ a b c d 佐藤編(2011)、p.47-48、芭蕉の生涯 『おくのほそ道』の旅
- ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.49-50、芭蕉の生涯 『猿蓑』の成立
- ^ a b c 佐藤編(2011)、p.50-52、芭蕉の生涯 『おくのほそ道』の成立と「かるみ」への志向
- ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.52-54、芭蕉の生涯 最後の旅へ
- ^ a b 饗庭(2001)、p.206-216、17.晩年の芭蕉
- ^ a b c 佐藤編(2011)、p.61-66、蕉門を彩る人々 最初期から没後まで蕉門であり続けた人々
- ^ a b c d e 佐藤編(2011)、p.66-71、蕉門を彩る人々 晩年に入門し「俳諧の心」を受け継いだ人々
- ^ a b 佐藤編(2011)、p.72-73、蕉門を彩る人々 『猿蓑』を編集した対照的な二人
- ^ a b c 佐藤編(2011)、p.74、蕉門を彩る人々 おわりに
- ^ a b c d 佐藤編(2011)、p.190-192、芭蕉と蕉門の俳論 芭蕉と俳論
- ^ a b c 佐藤編(2011)、p.17-18、俳諧の歴史と芭蕉 芭蕉発句の成果
- ^ a b 佐藤編(2011)、p.216-223、芭蕉と蕉門の俳論 芭蕉と「かるみ」‐『別座舗』の場合
- ^ 饗庭(2001)、p.217-252、18.芭蕉の芸術論
- ^ a b 佐藤編(2011)、p.223-226、芭蕉と芭門の俳論 元禄俳諧における名句
- ^ a b c 佐藤編(2011)、p.192-195、芭蕉と芭門の俳論 俳諧文芸の本質・俳諧精神論‐「俗語を正す」「風雅の誠」
- ^ a b c 佐藤編(2011)、p.195-198、芭蕉と芭門の俳論 対象把握の方法‐物我一如と本情論
- ^ 『歴史読本 決定版「忍者」のすべて』新人物往来社、平成3年(1991年)
- ^ 中名生正昭『奥の細道の謎を読む』南雲堂、平成10年(1998年)、ISBN 978-4-523-26326-5
- ^ 村松友次『謎の旅人 曽良』大修館書店、平成14年(2002年)、ISBN 978-4-469-22156-5
- ^ NHK衛星ハイビジョン2009年1月11日16:00『地球特派員スペシャル』にて岡本行夫がウクライナから持ち帰った中学2年生の教科書を示して
参考文献
- 佐藤勝明 編『松尾芭蕉』(初版1刷)ひつじ書房〈21世紀日本文学ガイドブック(5)〉、2011年。ISBN 978-4-89476-512-2。
- 饗庭孝男『芭蕉』(第1刷)集英社〈集英社新書〉、2001年。ISBN 4-08-720089-2。
関連項目
- 俳諧七部集 - 「芭蕉七部集」の正式名
- 逸翁美術館
- 柿衞文庫
- 俳聖殿
- 俳人の一覧
- 松岡青蘿
- 曾良旅日記
- 内藤義英
- 連歌
- 日本の近世文学史
- 蕉門十哲
- 軽み
- 芭蕉翁記念館
- 明照寺 (彦根市)
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