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[[画像:Japanese wartime obligations in 1942.JPG|thumb|280px|「大東亜戦争第一周年記念」として[[日本勧業銀行]]が販売した「戦時報国債券」]] |
[[画像:Japanese wartime obligations in 1942.JPG|thumb|280px|「大東亜戦争第一周年記念」として[[日本勧業銀行]]が販売した「戦時報国債券」]] |
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'''大東亜戦争'''(だいとうあせんそう、{{旧字体|大東亞戰爭}}、{{lang-en-short| |
'''大東亜戦争'''(だいとうあせんそう、{{旧字体|大東亞戰爭}}、{{lang-en-short|Great East Asia War}}){{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=44}}は、[[日本]]([[大日本帝国]])<!--「日本」表記は世界大百科事典(平凡社)の「太平洋戦争」の項目に従っている。「大日本帝国」にする場合はノートで合意を。-->が[[アメリカ合衆国]]や[[イギリス]]、[[中華民国]]などの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]との間に発生した[[戦争]]に対し、当時の日本政府が定義した名称。本項では「大東亜戦争」という呼称に関する議論について述べる。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[1941年]]([[昭和]]16年)[[12月8日]]の[[マレー作戦]]及び[[真珠湾攻撃]]後、同年[[12月12日]]の[[東條内閣]]での[[閣議|閣議決定]]により、「'''大東亜戦争'''」の[[名前|名称]]と[[定義]]が定められた。日本政府の[[宣戦布告]]は当初[[アメリカ合衆国|米]][[イギリス|英]]2国に対して行われたが、閣議決定では「情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭」を「支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱」するとなっているため、[[支那事変]]([[日中戦争]])、対[[オランダ|蘭]]戦、対[[ソビエト連邦|ソ連]]戦も「大東亜戦争」に含む<ref name=F>「大東亞戰爭ノ呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」説明基準(1942年1月内閣作成) |
[[1941年]]([[昭和]]16年)[[12月8日]]の[[マレー作戦]]及び[[真珠湾攻撃]]後、同年[[12月12日]]の[[東條内閣]]での[[閣議|閣議決定]]により、「'''大東亜戦争'''」の[[名前|名称]]と[[定義]]が定められた。日本政府の[[宣戦布告]]は当初[[アメリカ合衆国|米]][[イギリス|英]]2国に対して行われたが、閣議決定では「情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭」を「支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱」するとなっているため、[[支那事変]]([[日中戦争]])、対[[オランダ|蘭]]戦、対[[ソビエト連邦|ソ連]]戦も「大東亜戦争」に含む<ref name=F>「大東亞戰爭ノ呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」説明基準(1942年1月内閣作成)</ref>。 |
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一方で、大東亜戦争は[[太平洋戦争]]と同義であると認識されることも多い。これは、閣議決定にある「支那事變ヲモ含メ」という文言をいかに解釈するかという問題で、大東亜戦争の中に、[[1937年]](昭和12年)7月7日からの支那事変の全期間を含むと考えるのか、1941年(昭和16年)12月8日以降の[[中国大陸]]における[[戦闘]]のみを含むと考えるかの違いによって生起している。 |
一方で、大東亜戦争は[[太平洋戦争]]と同義であると認識されることも多い。これは、閣議決定にある「支那事變ヲモ含メ」という文言をいかに解釈するかという問題で、大東亜戦争の中に、[[1937年]](昭和12年)7月7日からの支那事変の全期間を含むと考えるのか、1941年(昭和16年)12月8日以降の[[中国大陸]]における[[戦闘]]のみを含むと考えるかの違いによって生起している。 |
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== 戦時中の呼称 == |
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=== 日本の呼称 === |
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[[第二次世界大戦]]中の日本では、対米英並びに対蘭及び対中戦争を「大東亜戦争」と呼称していた。この呼称は1941年(昭和16年)12月10日の大本営政府連絡会議によって決定され、同年12月12日に閣議決定された。閣議決定「今次戰爭ノ呼稱並ニ平戰時ノ分界時期等ニ付テ」<ref name=C>[http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00362.htm 「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」](昭和16年12月12日 閣議決定)、[[国立国会図書館]]</ref>は、その第1項で「今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス」と明記し、「大東亜戦争」の呼称と定義を正式に決定した。同日[[情報局]]より「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰爭と呼稱す。大東亞戰爭と呼稱するは、大[[東亜新秩序|東亞新秩序]]建設を目的とする戰爭なることを意味するものにして、戰爭地域を主として大東亞のみに限定する意味に非ず」と発表され、この戦争は[[アジア]]諸国における[[欧米]]の[[植民地]]支配の打倒を目指すものであると規定した<ref>瀬島龍三は「「大東亜戦争」とは・・・大東亜新秩序を建設するための戦争であるから「大東亜戦争」と呼ぶというわけのものではない・・」「単に大東亜の地域において戦われる戦争という意味合いに過ぎません」「大東亜の地域とは、おおむね、南はビルマ以東、北はバイカル湖以東の東アジアの大陸、並びにおおむね東経一八〇度以西すなわちマーシャル群島以西の西太平洋の海域を指すのであります。インド、豪州は含まれておりません」と記している(瀬島龍三『大東亜戦争の実相』P.23)。</ref>。この方針は[[1943年]](昭和18年)11月の[[大東亜会議]]で「再確認」がなされている。 |
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== 日本政府における「大東亜戦争」呼称決定の経緯== |
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「大東亜戦争」の呼称はもともとは[[大日本帝国陸軍|陸軍]]案として1941年(昭和16年)12月10日の大本営政府連絡会議に提出されたものである。[[大日本帝国海軍|海軍]]は呼称を決定する大本営政府連絡会議の席上で「太平洋戦争あるいは対米英戦争等」の呼称案を提出したが、陸軍側が「支那事変を含めるとなると適当ではない」と主張したため、採用されなかった<ref name=D>種村佐孝著『大本営機密日誌』(ダイヤモンド社、1952年)</ref>。 |
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1941年(昭和16年)12月8日の[[真珠湾攻撃]]により、日本とアメリカ合衆国・イギリスとの間に戦争が発生した。発生以前の検討の時期から発生後まもなくは、「対米英[[オランダ|蘭]]戦争」「対米英蘭[[蒋介石|蒋]]戦争」など交戦相手の名を用いた戦争名が用いられていた{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=44}}<ref>ただし、対オランダに関しては、1941年(昭和16年)12月1日の[[御前会議]]で開戦を決定したものの、同年12月8日の「[[s:米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書|米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告]]」では宣戦布告の対象から除かれており、1942年(昭和17年)1月11日の対蘭戦の開始および翌日の宣戦布告まで公式には「対米英蘭戦争」とは呼んでいない。</ref>。日本の政府および軍部ではこの戦争を正式にどう呼称するかについて検討が開始された。 |
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12月10日の[[大本営政府連絡会議]]では[[大日本帝国海軍|海軍]]から「太平洋戦争」「対米英戦争」、さらに「興亜戦争」などの案が出された{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=44}}。しかしこれらの案は「支那事変([[日中戦争]])」を含めた場合や、対[[ソビエト連邦]]との抗戦の可能性を考えると適当ではないと反対された{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=45}}<ref name=D>種村佐孝著『大本営機密日誌』(ダイヤモンド社、1952年)</ref>。[[大日本帝国陸軍|陸軍]]案のひとつであった「大東亜戦争」が採択された。 |
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対米英宣戦布告前から、日本の中央部では将来発生する可能性の高い戦争を「対米英蘭[[蒋介石政権|蒋]]戦争」、「対米英蘭戦争」、「対英米蘭戦争」などと呼んでいた。ただし、対オランダに関しては、1941年(昭和16年)12月1日の[[御前会議]]で開戦を決定したものの、同年12月8日の「[[s:米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書|米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告]]」では宣戦布告の対象から除かれており、1942年(昭和17年)1月11日の対蘭戦の開始および翌日の宣戦布告までは正式には「対米英蘭戦争」とは呼んでいない。 |
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12月12日には[[東條内閣]]の[[閣議]]において、正式な[[閣議決定]]が行われた。「今次戰爭ノ呼稱並ニ平戰時ノ分界時期等ニ付テ」<ref name=C>[http://www.ndl.go.jp/horei_jp/kakugi/txt/txt00362.htm 「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」](昭和16年12月12日 閣議決定)、[[国立国会図書館]]</ref>は、その第1項で「今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス」と明記し、「大東亜戦争」の呼称と定義を正式に決定した。 |
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=== 連合国における呼称 === |
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米英などの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]においては、戦時中から「第二次世界大戦[[太平洋]][[戦線]]」と呼称されていた。 |
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同日内閣[[情報局]]は「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰爭と呼稱す。大東亞戰爭と呼稱するは、大[[東亜新秩序|東亞新秩序]]建設を目的とする戰爭なることを意味するものにして、戰爭地域を主として大東亞のみに限定する意味に非ず」と発表され、この戦争は[[アジア]]諸国における[[欧米]]の[[植民地]]支配の打倒を目指すものであると規定した{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=45}}<ref>当時大本営参謀であった[[原四郎]]は情報局の発表について「情報局は何を血迷ったか」と批判している{{harv|庄治潤一郎|2011|pp=45}}</ref>。情報局の発表は[[1943年]](昭和18年)11月の[[大東亜会議]]で「再確認」がなされている。 |
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1942年(昭和17年)2月17日には法律において用いられる「支那事変」の呼称を「大東亜戦争」と改める法律第9号の閣議決定が行われている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=45}}。 |
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==「大東亜」の定義 == |
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日本において「大東亜」の名称が用いられ始めたのは、昭和15年(1940年)7月26日に[[第2次近衛内閣]]によって閣議決定された[[基本国策要綱]]以降である{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=45}}。この中では「日満支(日本・[[満州国]]・[[中華民国]])ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニアリ」という文言があり{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=45}}、また8月1日には[[松岡洋右]]外相が「[[大東亜共栄圏]]」という用語を初めて用いた談話を発表した{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=45}}。松岡は大東亜共栄圏を「従来東亜新秩序圏乃至は東亜安定圏と称せられてゐたものと同一」であるとし、日本・満州・中国大陸に加え、[[フランス領インドシナ]]、[[オランダ領東インド]]をも含めた範囲であると説明した{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=45}}。 |
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1942年(昭和17年)2月28日の大本営政府連絡会議では「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スヘキ大東亜ノ地域」を決定し、大東亜の地域を「日満支及東経九十度ヨリ東経百八十度迄ノ間ニ於ケル南緯十度以北ノ南方諸地域、其他ノ諸地域ニ関シテハ情勢ノ推移ニ応シ決定ス」と規定した{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=45}}。 |
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[[大本営]]参謀を務めた[[瀬島龍三]]は「大東亜の地域とは、おおむね、南はビルマ以東、北はバイカル湖以東の東アジアの大陸、並びにおおむね東経一八〇度以西すなわちマーシャル群島以西の西太平洋の海域を指すのであります。インド、豪州は含まれておりません」と記している<ref>(瀬島龍三『大東亜戦争の実相』P.23)</ref>。 |
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== 戦後の呼称 == |
== 戦後の呼称 == |
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=== GHQによる「大東亜戦争」使用の禁止 === |
=== GHQによる「大東亜戦争」使用の禁止 === |
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[[1945年]](昭和20年)8月の[[ポツダム宣言]]受諾後も、大東亜戦争の名称はしばらく使用されていた{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=46}}。しかし[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)は、[[軍国主義]]、[[全体主義]]、極端な[[国家主義]]などを日本から排除する[[政策]]を行うことを占領政策の柱としていた。 |
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[[1945年]](昭和20年)8月の日本進駐後、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ/SCAP)の[[民間情報教育局]](CIE)が中心となり、[[軍国主義]]、[[全体主義]]、極端な[[国家主義]]などを日本から排除する[[政策]]を行った。その一つが1945年(昭和20年)12月15日付けの日本政府に対する覚書「國家神道、神社神道ニ對スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ關スル件」(「[[神道指令]]」)<ref name=E>[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/hpbz198102_2_033.html 「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」]([[SCAPIN]] No.448、1945年12月25日)</ref>である。これにより、「大東亜戦争」は、[[日本語]]としての意味の連想が[[国家神道]]、軍国主義、国家主義と切り離せないと判断され、「[[八紘一宇]]」などとともに[[文書|公文書]]で使用することが禁止された。 |
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1945年(昭和20年)12月15日、GHQは日本政府に対する覚書「國家神道、神社神道ニ對スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ關スル件」(いわゆる「[[神道指令]]」)<ref name=E>[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/hpbz198102_2_033.html 「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」]([[SCAPIN]] No.448、1945年12月25日)</ref>を発した。この中で「『大東亜戦争』および『[[八紘一宇]]』などの、[[国家神道]]、軍国主義、国家主義に緊密に関連する言葉」の使用を[[文書|公文書]]において禁止することが指令された{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=46}}。これによって政府部内の「大東亜戦争調査会」などは「戦争調査会」と改称され、関連法令にある「大東亜戦争」の語句もすべて「戦争」に置き換えられた{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=46}}。 |
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同年12月8日(開戦4周年)には新聞各紙がCIE作成の「[[太平洋戰爭史]]」の掲載を開始、さらに翌日からは[[日本放送協会]]から「[[眞相はかうだ]]」のラジオ放送が開始され、「大東亜戦争」という用語は強制的に「太平洋戦争」に置き換えられていった<ref name="閉された"/><ref>勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪めたもの』(明成社、2005年)</ref>。 |
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また1945年9月10日には「[[ニューズ頒布についての覚書]]」、9月19日には「[[プレス・コード]](新聞規約)」が発出され、マスコミに対するGHQの規制も強化された。GHQはさらに「プレス・コードにもとづく検閲の要領にかんする細則」を発して新聞・雑誌がGHQの検閲を受けること、さらに「『大東亜戦争』『大東亜共栄圏』『八紘一宇』『英霊』のごとき戦時用語」の使用を避けるように指令した{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=47}}。 |
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占領軍が日本軍の残虐行為と国家の罪を強調するために行った[[政治宣伝|宣伝]]政策<ref>[[田中正明]]、[[パール判事の日本無罪論]]、小学館文庫、平成13年(2001年)</ref>について、文藝評論家の[[江藤淳]]はその著書で[[ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム]](「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」)としている<ref name="閉された">江藤淳著『閉された言語空間-占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋、平成元年(1989年))</ref>。 {{main|ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム}} |
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12月7日には[[朝日新聞]]が「太平洋戦争」の語を初めて使用し{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=47}}、12月8日(開戦4周年)には新聞各紙が[[民間情報教育局]](CIE)作成の「[[太平洋戰爭史]]」の掲載を開始した{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=47}}。さらに翌日からは[[日本放送協会]]から「[[眞相はかうだ]]」のラジオ放送が開始された。 |
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こうした経緯を「大東亜戦争」という用語は強制的に「太平洋戦争」に置き換えられていったと非難する論者もいる<ref name="閉された"/><ref>勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪めたもの』(明成社、2005年)</ref>。 |
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占領軍が日本軍の残虐行為と国家の罪を強調するために行った[[政治宣伝|宣伝]]政策<ref>[[田中正明]]、[[パール判事の日本無罪論]]、小学館文庫、平成13年(2001年)</ref>について、文藝評論家の[[江藤淳]]はその著書で[[ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム]](「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」)としている<ref name="閉された">江藤淳著『閉された言語空間-占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋、平成元年(1989年))</ref>。 |
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=== 呼称に対するGHQの検閲 === |
=== 呼称に対するGHQの検閲 === |
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{{see also|日本における検閲|プレスコード}} |
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GHQは[[出版|出版物]]についても検閲をおこない、「大東亜戦争」表記の排除を図った。まず占領政策の前期においては、あらゆる出版物が「事前検閲」を受け、「大東亜戦争」はすべて「太平洋戦争」に書き換えられた<ref>これらは、米国の[[メリーランド大学カレッジパーク校|メリーランド大学]]のマッケルデイン図書館に[[プランゲ文庫]]として保存されている膨大な占領文書によって確認することができる。現在、このプランゲ文庫の全ての資料が[[マイクロフィルム]]化されており、日本の[[国立国会図書館]]で閲覧可能である。また、[[勝岡寛次]]は自著『抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪めたもの』(明成社、2005年)の中で、原資料に基づき多くの検閲の実例を挙げて論証をおこなっている。</ref>。 |
GHQは[[出版|出版物]]についても検閲をおこない、「大東亜戦争」表記の排除を図った。まず占領政策の前期においては、あらゆる出版物が「事前検閲」を受け、「大東亜戦争」はすべて「太平洋戦争」に書き換えられた<ref>これらは、米国の[[メリーランド大学カレッジパーク校|メリーランド大学]]のマッケルデイン図書館に[[プランゲ文庫]]として保存されている膨大な占領文書によって確認することができる。現在、このプランゲ文庫の全ての資料が[[マイクロフィルム]]化されており、日本の[[国立国会図書館]]で閲覧可能である。また、[[勝岡寛次]]は自著『抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪めたもの』(明成社、2005年)の中で、原資料に基づき多くの検閲の実例を挙げて論証をおこなっている。</ref>。 |
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占領政策後期に入ると「事前検閲」は「事後検閲」へ変更された。[[印刷]]・[[製本]]済みの出版物を占領軍が検閲し、「大東亜戦争」その他占領軍に不都合な記述(GHQへの批判等)があれば、[[発禁]]処分をおこなった。出版社は莫大な損害を蒙ることになるため、自主的に占領軍の検閲に触れるような文章を執筆する著者を敬遠し、占領軍の意向に沿わない本を出版しなくなった。江藤淳は、これを「日本人の[[自己検閲]]」と呼び、この構造が言論機関に定着するに従い検閲は占領軍によってではなく、日本人自身の手によって行われるようになったと主張している<ref name="閉された"/>。 |
占領政策後期に入ると「事前検閲」は「事後検閲」へ変更された。[[印刷]]・[[製本]]済みの出版物を占領軍が検閲し、「大東亜戦争」その他占領軍に不都合な記述(GHQへの批判等)があれば、[[発禁]]処分をおこなった。出版社は莫大な損害を蒙ることになるため、自主的に占領軍の検閲に触れるような文章を執筆する著者を敬遠し、占領軍の意向に沿わない本を出版しなくなった。江藤淳は、これを「日本人の[[自己検閲]]」と呼び、この構造が言論機関に定着するに従い検閲は占領軍によってではなく、日本人自身の手によって行われるようになったと主張している<ref name="閉された"/>。 |
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=== 戦後の法令にみる呼称 === |
=== 戦後の法令にみる呼称 === |
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「昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク国有財産法中改正等ノ件」(昭和21年3月14日勅令第142号)等により、[[法律]]や[[勅令]]の文中に「大東亜戦争」の呼称を使用していた法令の文言は「今次ノ戦争」と改められている。 |
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GHQの神道指令により、「大東亜戦争」という[[用語]]を公文書で使用することは禁止された。しかし、神道指令が講和独立によって失効した後に制定された[[法令]]の条文などでも、大東亜戦争という言葉は使用されず、「太平洋戦争」あるいは「今次の戦争」という表現が使用されている。 |
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1952年4月11日に公布された「[[ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律]]」(法律第81号)では、ポツダム宣言受諾によって発された法令(いわゆる[[ポツダム命令]])について、別途法制化されない限り失効することとされた{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=48}}。日本政府は昭和21年3月14日勅令第142号について何等手続きを行わなかったため、現在では同法は失効している{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=48}}。 |
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「今次の戦争」という表現は、「[[罹災都市借地借家臨時処理法]]」(昭和21年8月27日法律第13号)、「認知の訴の特例に関する法律」(昭和24年6月10日法律第206号)といった戦後早い段階の法令にみられる。 |
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しかし、この後に制定された[[法令]]の条文などでも、大東亜戦争という言葉は使用されず、「太平洋戦争」あるいは「今次の戦争」という表現が使用されている。「今次の戦争」という表現は、「[[罹災都市借地借家臨時処理法]]」(昭和21年8月27日法律第13号)、「認知の訴の特例に関する法律」(昭和24年6月10日法律第206号)といった戦後早い段階の法令にみられる。 |
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また、「太平洋戦争」という用語は、「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年6月1日法律第173号)を皮切りに、「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」(昭和52年5月18日法律第40号)、「沖縄振興特別措置法」(平成14年3月31日法律第14号)等で使用されている。このうち「沖縄振興特別措置法」の別表には、「…指定区間内の国道を構成する敷地である土地のうち太平洋戦争の開始の日から復帰協定の効力発生の日の前日までに築造された道の敷地であったもの…」というくだりが見られるが、その開始日をはじめ「太平洋戦争」に関する定義を欠いている。他の法令も同様である。 |
また、「太平洋戦争」という用語は、「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年6月1日法律第173号)を皮切りに、「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」(昭和52年5月18日法律第40号)、「沖縄振興特別措置法」(平成14年3月31日法律第14号)等で使用されている。このうち「沖縄振興特別措置法」の別表には、「…指定区間内の国道を構成する敷地である土地のうち太平洋戦争の開始の日から復帰協定の効力発生の日の前日までに築造された道の敷地であったもの…」というくだりが見られるが、その開始日をはじめ「太平洋戦争」に関する定義を欠いている。他の法令も同様である。 |
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=== 戦後の公的機関による用語の使用 === |
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なお、「昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク国有財産法中改正等ノ件」(昭和21年3月14日勅令第142号)等により、[[法律]]や[[勅令]]の文中に「大東亜戦争」の呼称を使用していた物は「今次ノ戦争」と改められている。 |
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[[内閣官房]]が編纂した『内閣制度七十年史』(大蔵省印刷局、1955年)では「大東亜戦争」の語を用いている。また[[衆議院]]・[[参議院]]が共同で編纂した『議会制度七十年史』(1960年~1961年)では、「大東亜戦争・太平洋戦争」の語を並列で用いている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=71}}。また外務省が1969年に発刊した『外務省の百年』では、「大東亜戦争」の語を用いているが、他の省庁の編纂物では用いられていない{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=71}}。ただし『大蔵省百年史』に序文を書いた[[福田赳夫]](当時内閣総理大臣)が「大東亜戦争」の語を用いている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=72}}。『[[戦史叢書]]』の際には、本文には「大東亜戦争」や「支那事変」の語を用いることもあるが、可能な限り他の表現を用いることとされた{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=73-74}}。 |
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== 民間における戦争呼称 == |
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=== 太平洋戦争 === |
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{{see also|太平洋戦争#名称}} |
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[[日本国際政治学会]]は1962年(昭和37年)に『太平洋戦争への道』を発刊しているが、その中で大東亜戦争は日本側からの一般的呼称であるとし、学術的にも「War in the Pacific」の語が国際的に用いられていると説明している{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=49}}。その後も[[児島襄]]『太平洋戦争(上)・(下)』(中央公論社、1965年~ 66年)、[[家永三郎]]『太平洋戦争』(岩波書店、1968年)、[[林茂]]『日本の歴史 25 太平洋戦争』(中央公論社、1974年)などの著名な本の中で「太平洋戦争」の語が使用され、完全に定着している{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=49}}。[[日本新聞協会]]において正式な戦争名が討議されたことはないが、[[朝日新聞]]・[[読売新聞]]・[[毎日新聞]]・[[東京新聞]]([[中日新聞]])では圧倒的に「太平洋戦争」の使用例が多く{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=75}}、図書や雑誌の見出しでも同様である{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=76}}。このような流れから、1960年代にはすでに「大東亜戦争」の語がタブー視されるようになっていた{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=49}}。 |
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太平洋戦争の語自体は日米戦争を現すものとして戦前から使われており、戦争名討議の際にも海軍が提案している。また旧海軍軍人の中には戦後「日本にとって真の敵は([[中華民国]]やソ連ではなく)アメリカであり、したがって大東亜などと無駄に戦域を拡張するべきでなかった」との反省から、「太平洋戦争と(歴史的には)呼称すべきだ」と主張する人々が存在した<ref>[[佐藤和正]]著『艦長たちの太平洋戦争』([[潮書房|光人社]]、1983年)</ref>。 |
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=== 十五年戦争・アジア太平洋戦争 === |
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{{see also|アジア・太平洋戦争|十五年戦争}} |
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一方で[[1931年]](昭和6年)の満州事変と[[1937年]](昭和12年)の[[盧溝橋事件]]に始まる日中戦争を大東亜戦争と一体のものとみて、[[鶴見俊輔]]が1956年(昭和31年)に提唱した{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=61}}[[十五年戦争]]<ref>満州事変に関しては[[塘沽協定]]([[1933年]])で[[停戦]]が成立しており、一続きの戦争とみなすことについて否定的な見解もある。ただし、休戦や講和をはさんだ一連の戦争を一続きのものとしてとらえること自体は決して特異な見解ではない(例えば「[[百年戦争]]」や「[[三十年戦争]]」などの呼称が歴史学で使われている。これらも十五年戦争と同じく、後世の視点で一連の戦争を総括して呼ぶ呼称として生まれた)。庶民の日常感覚では、1937年以降が「戦争」であったことは、同時代の証言として[[徳田秋声]]の『縮図』冒頭部分の記述があり、戦後の証言としては[[安岡章太郎]]の回想がある。</ref>や[[柳沢英二郎]]が提唱した[[アジア・太平洋戦争]]と呼称すべきとする立場も存在する。これらの立場を取る論者でも、一般に通用しているという理由で「太平洋戦争」を用いることもある。[[マルクス主義]]歴史学をとる[[歴史学研究会]]は1953年(昭和28年)に『太平洋戦争史』を発刊しているが、発刊の言葉の中では、侵略戦争を美化した大東亜戦争や、アメリカのみを対象とする太平洋戦争は適当ではなく、アジアとの戦争を重視して「十五年戦争」と呼ぶべきであるが、一般にわかりやすい言葉として「太平洋戦争」の語を用いたとしている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=48-49}}。同様に[[家永三郎]]も「十五年戦争」であるという立場を取っているが、一般に浸透した言葉として「太平洋戦争」を用いている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=49}}。 |
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これらの立場はいずれも「大東亜戦争」を侵略を美化する言葉であるとする立場で共通している。「大東亜戦争」の使用を主張する側が大東亜戦争の思想背景でもある[[大東亜共栄圏]]の理念を揚げ、「植民地解放戦争だった」、「良い面もあった」といった見解を示す者が多いこと、「大東亜戦争」の使用が「戦争賛美」、「復古的[[国粋主義]]の煽動」、「中韓を初めとした[[特定アジア|アジア諸国]]への[[侵略]]に対する反省が乏しい」として、使用に反対している。 |
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「十五年戦争」の語は1995年まではこうした立場の人々に用いられていたが、近年では「アジア・太平洋戦争」の語が用いられるケースが増加している{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=76-77}}。 |
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=== その他の名称 === |
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『[[読売新聞]]』は、1989年2月の企画{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=67}}や[[2006年]](平成18年)8月13日の紙面で、[[満州事変]]から太平洋戦争終了までを「[[昭和戦争]]」と呼称するよう提唱したが、同紙以外で使用することは極めて稀である。また、[[中川八洋]]は自著にて、大東亜戦争を日中戦争+太平洋戦争の8年とした「8年戦争」という呼称を使用している<ref>[[中川八洋]]著『近衛文麿の戦争責任 大東亜戦争のたった一つの真実』(PHP研究所, 2010年,『近衛文麿とルーズヴェルト』,『大東亜戦争と「開戦責任」』改版)第一章</ref>。 |
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==「大東亜戦争」使用論 == |
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現在、「大東亜戦争」の語を用いる論者は右派系とされる論者に多い。時代が[[平成]]に変わる前後から「大東亜戦争」の語はこうした月刊誌で部分的に使われ始めた。[[1990年]](平成2年)に[[中村粲]]の『[[大東亜戦争への道]]』が出された前後から使用頻度が高くなっている(『[[諸君!]]』『[[正論 (雑誌)|正論]]』『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』『[[Voice (雑誌)|Voice]]』など)。一方、『[[前衛 (雑誌)|前衛]]』や『[[論座]]』など[[左派]]系の月刊誌で「大東亜戦争」が用いられる事は、現在もほぼ皆無である。この状況を[[秦郁彦]]は「著者の基本的歴史観を著すために、それ(戦争の呼称)が踏み絵の役割を果たしてきたことも事実だ」と指摘している{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=43-44}}。これら「大東亜戦争」を用いるべきとする立場からは左派の主張を[[自虐史観]]と非難している。また『[[産経新聞]]』も比較的「大東亜戦争」を多用している{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=75}}。 |
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一方で、「大東亜戦争肯定論」の立場に立たない論者もあえて「大東亜戦争」の語を用いることがある。こうした立場に立つ[[倉沢愛子]]や[[松浦正隆]]は著作において「大東亜戦争」の語を用いているが、この場合にはカギ括弧を付するなどしている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=57-58}}。 |
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=== 「大東亜戦争」論者の使用目的 === |
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==== 戦争目的・戦争の肯定 ==== |
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[[1964年]](昭和39年)に『大東亜戦争肯定論』を発表した[[林房雄]]や『[[大東亜戦争を見直そう]]』などの著作がある[[名越二荒之助]]のように、その日本の戦争目的や戦争自体を肯定する立場である{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=53}}。この立場からは「太平洋戦争」はアメリカ側の史観であるとされ、非難されている。 |
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==== 政府決定 ==== |
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元大本営参謀[[原四郎]]のように、「大東亜戦争」は日本の政府が正式に決定した名称であり、ポツダム命令も失効したため、正式な名称である「大東亜戦争」を用いるべきであるとする立場{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=53}}。 |
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==== 戦域の一致 ==== |
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「大東亜戦争」の「大東亜」はイデオロギー面とは無関係であり、戦争の範囲をあらわす名称であるという立場である。駐米大使や[[外務事務次官]]を務めた[[村田良平]]は、戦争の範囲が「より広義の東アジア」であり、アメリカの言う「太平洋」の範囲より適合しているとして、「大東亜戦争」の立場を用いるべきと主張していた{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=53}}。評論家の[[村上兵衛]]は「東アジアで行われた大きな戦争」の意味で「大東亜戦争」を用いるべきであるとした{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=53-54}}。原四郎も戦争目的は「アジアの新秩序建設」ではなく、「大東亜において戦われる戦争」であるから「大東亜戦争」であるという主張を行っている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=54}}。アメリカの歴史家ジョン・ステファンも「いささか決まり悪いものの」「大東亜戦争」という名称が日本がアジア、インド、ビルマなどで繰り広げようとした戦争目的を最も正確に表現しているとしている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=54}}。 |
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『アジア太平洋戦争』(1995年・岩波書店)を著した[[岡部牧夫]]は、「大東亜」を地域名称であると読み替えてしまえば、「アジア・太平洋戦争」の提唱の趣旨と変わらなくなり、呼称問題における対立の根拠は失われるかも知れないとしている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=54-55}}。 |
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==== 戦争の実体および同時代性 ==== |
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=== 呼称を巡る状況 === |
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肯定・否定の立場からではなく、「大東亜戦争」の用語は戦争の性質をあらわすという立場である。一般に左派系とされる歴史家[[信夫清三郎]]は、次善の策として「太平洋戦争」の語を用いる家永らを批判し、「大東亜新秩序(大東亜共栄圏)を目的とする戦争」という「歴史的意味」から「大東亜戦争」の語を用いていた{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=55}}。[[上山春平]]は『中央公論』1961年1月号において「大東亜戦争の思想的意味」を発表した。上山は「『太平洋戦争』が占領軍によって付与された米国側の見方である」とし、そのような考え方に慣れた日本人にショックを与えるためとして、あえて大東亜戦争を用いたとしている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=49}}。 |
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[[1952年]](昭和27年)の講和独立以降も、日本の[[公教育]]、公文書作製、言論出版界は「大東亜戦争」はほとんど使用せず、現在「大東亜戦争」を使用している、[[保守]]・[[右翼]]系の[[作家]]や[[評論家]]、雑誌・新聞も、この頃は洩れなく「太平洋戦争」と記述していた(一方、戦中派の一般国民には「大東亜戦争」を用いていた者も多かった)。 |
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[[保坂正康]]は「大東亜戦争」の語を用いないのは「前歴の否定」であるとし、あえて「太平洋・大東亜戦争」の語を用いるべきとしている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=56}}。 |
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このような風潮に対し反抗する著述が、[[1964年]](昭和39年)に出された[[林房雄]]『大東亜戦争肯定論』と[[1967年]](昭和42年)に出された[[名越二荒之助]]『[[大東亜戦争を見直そう]]』であった。この2冊の出版に対して、左右両派から賛否の声が挙がり、論議を呼んだ。この2冊はその後も版を重ね、[[社会主義]]思想の退潮等の他の要因とも相まって、日本人の先の大戦に関する考え方に少しずつ変化をもたらしていった。現在活動中の保守派[[知識人]]の多くが、かつてこの2冊を読んだことを述懐している。 |
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==== 戦争目的の両義性 ==== |
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[[1980年代]]に、作家の[[山中恒]]は、辺境社から出版した『ボクラ少国民』シリーズのなかで、戦争の目的を直視してそれに批判的であるためにあえて「大東亜戦争」の呼称を用いるべきだと主張した。また、時代が[[平成]]に変わる前後から「大東亜戦争」が右派系の月刊誌で部分的に使われ始め、[[1990年]](平成2年)に[[中村粲]]の『[[大東亜戦争への道]]』が出された前後から使用頻度が高くなっている(『[[諸君!]]』『[[正論 (雑誌)|正論]]』『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』『[[Voice (雑誌)|Voice]]』など)。一方、『[[前衛 (雑誌)|前衛]]』や『[[論座]]』など[[左派]]系の月刊誌で「大東亜戦争」が用いられる事は、現在もほぼ皆無である。 |
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信夫や[[後藤乾一]]、[[三輪公忠]]らは、「大東亜戦争」の名の元に示された理念が建前であったにしても、その理念に自己のアイデンティティを求めた人々が少なからず存在したと言うことをあげ、そうした人々を否定しないためにも「大東亜戦争」の語をあえて用いるとしていた{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=56-57}}。 |
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==== その他==== |
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日刊紙では「太平洋戦争」が主流であるが、『[[産経新聞]]』は比較的「大東亜戦争」を多用している。『[[読売新聞]]』は、[[2006年]](平成18年)8月13日の紙面で、[[満州事変]]から太平洋戦争終了までを「[[昭和戦争]]」と呼称するよう提唱したが、同紙以外で使用することは極めて稀である。 |
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児童文学家の[[山中恒]]は「ボクラ少国民」シリーズにおいて「大東亜戦争」の語を用いていたが、これは「こちら側の戦争」という同時代意識を現すためなどの理由で「大東亜戦争」の語を使用していたが、「『大東亜戦争』という用語に固執するのは『侵略戦争ではないと擁護する側の人たちが多い』」と考え、「アジア・太平洋戦争」の語を用いるようになった{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=57-58}}。 |
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=== 批判 === |
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放送局では、日本放送協会が[[1969年]](昭和44年)1月25日に放送した「[[日本の美]] 紅型〜沖縄の染物〜沖縄県」のナレーション内で「大東亜戦争」を使用している。 |
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[[斉藤孝 (歴史学者)|斉藤孝]]は信夫の主張を批判した『「大東亜戦争」と「太平洋戦争」』において、「大」の語は自らを誇示しようとしている語であり、地域名称であるとするならば「東アジア」でもいいとし、「大東亜戦争」の語は「占領軍の指令がなくとも、本来日本国民自身が否定すべきものであった」とした{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=58}}。 |
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[[中華人民共和国]]や[[大韓民国]]においては「大東亜戦争」の語は戦争や植民地支配を正当化するものとして批判されている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=58-59}}。 |
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「大東亜戦争」の呼称に否定的な立場からは、「大東亜戦争」の使用を主張する側が大東亜戦争の思想背景でもある[[大東亜共栄圏]]の理念を揚げ、「植民地解放戦争だった」、「良い面もあった」といった見解を示す者が多いこと、「大東亜戦争」の使用が「戦争賛美」、「復古的[[国粋主義]]の煽動」、「中韓を初めとした[[特定アジア|アジア諸国]]への[[侵略]]に対する反省が乏しい」として、使用に反対する意見も根強い。保守・[[右翼]]はこうした主張を[[自虐史観]]と非難している。 |
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なお、旧海軍軍人の中には戦後「日本にとって真の敵は([[中華民国]]やソ連ではなく)アメリカであり、したがって大東亜などと無駄に戦域を拡張するべきでなかった」との反省から、「太平洋戦争と(歴史的には)呼称すべきだ」と主張する人々が存在した<ref>[[佐藤和正]]著『艦長たちの太平洋戦争』([[潮書房|光人社]]、1983年)</ref>。 |
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== 海外における呼称 == |
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他の呼び方として、[[1931年]](昭和6年)の満州事変と[[1937年]](昭和12年)の[[盧溝橋事件]]に始まる日中戦争を大東亜戦争と一体のものとみて、[[十五年戦争]]や[[アジア・太平洋戦争]]<ref>[[岩波書店]]の書籍などで使用</ref>と呼称することもあるが、満州事変に関しては[[塘沽協定]]([[1933年]])で[[停戦]]が成立しており、一続きの戦争とみなすことについて否定的な見解もある。ただし、休戦や講和をはさんだ一連の戦争を一続きのものとしてとらえること自体は決して特異な見解ではない(例えば「[[百年戦争]]」や「[[三十年戦争]]」などの呼称が歴史学で使われている。これらも十五年戦争と同じく、後世の視点で一連の戦争を総括して呼ぶ呼称として生まれた)。庶民の日常感覚では、1937年以降が「戦争」であったことは、同時代の証言として[[徳田秋声]]の『縮図』冒頭部分の記述があり、戦後の証言としては[[安岡章太郎]]の回想がある。 |
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米英などの[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]においては、日本との戦争自体を形容する公式な呼称はなく、「太平洋戦線」など戦線名が用いられていた。現在のアメリカでも、「the War in the Pacific (Theater)」、「WWⅡ-Pacific Theatre」、もしくは「the Pacific Theatre in the Second World War」などと、第二次世界大戦の一[[戦線]]であると言う形容が成されている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=51}}。 |
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[イギリス]]の[[歴史家]][[クリストファー・ソーン (歴史家)|クリストファー・ソーン]]は「[[極東戦争]]」という呼称を提唱している。 |
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== 現在の日本政府による公式見解 == |
== 現在の日本政府による公式見解 == |
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*「太平洋戦争」という用語は、「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年法律第173号)等に使用されているが、「太平洋戦争」の定義を定める法令はなく、これに日中間の戦争が含まれるか否かは法令上定められていない<ref name="第165" />。 |
*「太平洋戦争」という用語は、「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年法律第173号)等に使用されているが、「太平洋戦争」の定義を定める法令はなく、これに日中間の戦争が含まれるか否かは法令上定められていない<ref name="第165" />。 |
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*「太平洋戦争」という用語は政府として定義して用いている用語ではなく、「大東亜戦争」と「太平洋戦争」は同一の戦争かについて回答することは困難である<ref name="第166">[http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/166006.htm 「大東亜戦争の定義等に関する質問主意書」に対する答弁書](第166通常国会答弁第6号、2007年2月6日)<br />※この質問を行った[[鈴木宗男]][[衆議院]]議員は、その後の質問では「太平洋戦争」という用語を使用している([http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/166219.htm 太平洋戦争中の中華民国国民政府の性格に関する質問主意書](第166通常国会質問第219号、2007年5月10日提出)。</ref>。 |
*「太平洋戦争」という用語は政府として定義して用いている用語ではなく、「大東亜戦争」と「太平洋戦争」は同一の戦争かについて回答することは困難である<ref name="第166">[http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/166006.htm 「大東亜戦争の定義等に関する質問主意書」に対する答弁書](第166通常国会答弁第6号、2007年2月6日)<br />※この質問を行った[[鈴木宗男]][[衆議院]]議員は、その後の質問では「太平洋戦争」という用語を使用している([http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/166219.htm 太平洋戦争中の中華民国国民政府の性格に関する質問主意書](第166通常国会質問第219号、2007年5月10日提出)。</ref>。 |
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*このため「[[戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話]]」(村山談話)などの[[内閣総理大臣]]の声明・演説では「大東亜戦争」や「太平洋戦争」などの用語は用いられず、「先の大戦」、「過去の戦争」、「過ぐる大戦」、「第二次世界大戦」などが用いられている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=70-71}}。 |
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なお、[[天皇]]が、この戦争について言及する際には「先の大戦」と表現することが通例となっている。 |
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*また[[天皇]]も「[[おことば]]」などで言及する際には「先の大戦」「あの不幸な戦争」といった表現を用い、「大東亜戦争」や「アジア・太平洋戦争」などの用語を使用しないのが通例となっている{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=70-71}}。2008年に[[宮内庁]]は「その([[人間宣言]])後も戦争名を頭に付けない表現を繰り返しているうちに定着した。特定の意図をもって○○戦争という言い方を避けているわけではない」と回答している{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=70-71}}。一方で記者会見などでは「第二次世界大戦」という言葉を用いることもある{{sfn|庄治潤一郎|2011|pp=70-71}}。 |
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== 戦争の始まりと終わりについての諸説 == |
== 戦争の始まりと終わりについての諸説 == |
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大日本帝国[[逓信省]](現在の[[日本郵便]])および日本の勢力下にあった各地で大東亜戦争を記念する切手や葉書が発行されている。日本では[[1942年]](昭和17年)12月8日に記念切手を発行しており、[[寄附金付切手|寄附金付]][[記念切手]]は、[[真珠湾]]と[[バターン半島]]の戦場を描いたものであったが、切手の題名は「大東亜戦争第一周年記念」と表記されており、開戦1周年目としていた。また[[1943年]](昭和18年)12月8日には二周年記念葉書として「大東亜戦争記念報国葉書第1集」を発行しており、埴輪の武人の額面つきの官製はがきの裏面にハワイ、香港、シンガポールの戦場を描いた図案で10銭の国防献金を含む30銭で販売した<ref>島田建造著、友岡正孝編「カラー復刻版日本記念葉書総図鑑」、2009年、50頁</ref>。また10銭の普通切手として大東亜共栄圏の地図を描く図案のものを発行している。 |
大日本帝国[[逓信省]](現在の[[日本郵便]])および日本の勢力下にあった各地で大東亜戦争を記念する切手や葉書が発行されている。日本では[[1942年]](昭和17年)12月8日に記念切手を発行しており、[[寄附金付切手|寄附金付]][[記念切手]]は、[[真珠湾]]と[[バターン半島]]の戦場を描いたものであったが、切手の題名は「大東亜戦争第一周年記念」と表記されており、開戦1周年目としていた。また[[1943年]](昭和18年)12月8日には二周年記念葉書として「大東亜戦争記念報国葉書第1集」を発行しており、埴輪の武人の額面つきの官製はがきの裏面にハワイ、香港、シンガポールの戦場を描いた図案で10銭の国防献金を含む30銭で販売した<ref>島田建造著、友岡正孝編「カラー復刻版日本記念葉書総図鑑」、2009年、50頁</ref>。また10銭の普通切手として大東亜共栄圏の地図を描く図案のものを発行している。 |
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また、日本の勢力下にあった[[満州国]]では1942年に中国語で「興亜はこの日より/興亜自期日」との加刷切手を発行<ref>日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」87頁</ref>したほか、フィリピンでも同様に発行された<ref>日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」204頁</ref>。また1943年には[[蒙古聯合自治政府]]が日本製の大東亜戦争二周年記念切手2種を発行している<ref>日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」126頁</ref>。 |
また、日本の勢力下にあった[[満州国]]では1942年に中国語で「興亜はこの日より/興亜自期日」との加刷切手を発行<ref>日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」87頁</ref>したほか、[[フィリピン第一共和国]]でも同様に発行された<ref>日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」204頁</ref>。また1943年には[[蒙古聯合自治政府]]が日本製の大東亜戦争二周年記念切手2種を発行している<ref>日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」126頁</ref>。 |
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== 文献 |
== 参考文献 == |
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* [[江藤淳]] 『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』 [[文藝春秋]]、のち[[文春文庫]]、1994年、ISBN 4167366088 |
* [[江藤淳]] 『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』 [[文藝春秋]]、のち[[文春文庫]]、1994年、ISBN 4167366088 |
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* [[勝岡寛次]] 『抹殺された大東亜戦争―米軍占領下の検閲が歪めたもの』 [[明成社]]、2005年8月、ISBN 4944219377 |
* [[勝岡寛次]] 『抹殺された大東亜戦争―米軍占領下の検閲が歪めたもの』 [[明成社]]、2005年8月、ISBN 4944219377 |
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* ジョン・トーランド、毎日新聞社訳 『大日本帝国の興亡』全5巻、[[毎日新聞社]]、のちハヤカワ文庫、1984年、※訳者は[[徳岡孝夫]]ほか。 |
* ジョン・トーランド、毎日新聞社訳 『大日本帝国の興亡』全5巻、[[毎日新聞社]]、のちハヤカワ文庫、1984年、※訳者は[[徳岡孝夫]]ほか。 |
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* {{Cite journal|和書|author=庄治潤一郎 |title=日本における戦争呼称に関する問題の一考察|date=2011|publisher=防衛研究所 |journal=防衛研究所紀要|url=http://www.nids.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j13-3_3.pdf |volume=13(3)|pages=13-19|ref=harv}} |
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== 関連書籍 == |
== 関連書籍 == |
2013年8月10日 (土) 18:28時点における版
大東亜戦争(だいとうあせんそう、旧字体:大東亞戰爭、英: Great East Asia War)[1]は、日本(大日本帝国)がアメリカ合衆国やイギリス、中華民国などの連合国との間に発生した戦争に対し、当時の日本政府が定義した名称。本項では「大東亜戦争」という呼称に関する議論について述べる。
概要
1941年(昭和16年)12月8日のマレー作戦及び真珠湾攻撃後、同年12月12日の東條内閣での閣議決定により、「大東亜戦争」の名称と定義が定められた。日本政府の宣戦布告は当初米英2国に対して行われたが、閣議決定では「情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭」を「支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱」するとなっているため、支那事変(日中戦争)、対蘭戦、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含む[2]。
一方で、大東亜戦争は太平洋戦争と同義であると認識されることも多い。これは、閣議決定にある「支那事變ヲモ含メ」という文言をいかに解釈するかという問題で、大東亜戦争の中に、1937年(昭和12年)7月7日からの支那事変の全期間を含むと考えるのか、1941年(昭和16年)12月8日以降の中国大陸における戦闘のみを含むと考えるかの違いによって生起している。
日本政府における「大東亜戦争」呼称決定の経緯
1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃により、日本とアメリカ合衆国・イギリスとの間に戦争が発生した。発生以前の検討の時期から発生後まもなくは、「対米英蘭戦争」「対米英蘭蒋戦争」など交戦相手の名を用いた戦争名が用いられていた[1][3]。日本の政府および軍部ではこの戦争を正式にどう呼称するかについて検討が開始された。
12月10日の大本営政府連絡会議では海軍から「太平洋戦争」「対米英戦争」、さらに「興亜戦争」などの案が出された[1]。しかしこれらの案は「支那事変(日中戦争)」を含めた場合や、対ソビエト連邦との抗戦の可能性を考えると適当ではないと反対された[4][5]。陸軍案のひとつであった「大東亜戦争」が採択された。
12月12日には東條内閣の閣議において、正式な閣議決定が行われた。「今次戰爭ノ呼稱並ニ平戰時ノ分界時期等ニ付テ」[6]は、その第1項で「今次ノ對米英戰爭及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戰爭ハ支那事變ヲモ含メ大東亞戰爭ト呼稱ス」と明記し、「大東亜戦争」の呼称と定義を正式に決定した。
同日内閣情報局は「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰爭と呼稱す。大東亞戰爭と呼稱するは、大東亞新秩序建設を目的とする戰爭なることを意味するものにして、戰爭地域を主として大東亞のみに限定する意味に非ず」と発表され、この戦争はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定した[4][7]。情報局の発表は1943年(昭和18年)11月の大東亜会議で「再確認」がなされている。
1942年(昭和17年)2月17日には法律において用いられる「支那事変」の呼称を「大東亜戦争」と改める法律第9号の閣議決定が行われている[4]。
「大東亜」の定義
日本において「大東亜」の名称が用いられ始めたのは、昭和15年(1940年)7月26日に第2次近衛内閣によって閣議決定された基本国策要綱以降である[4]。この中では「日満支(日本・満州国・中華民国)ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニアリ」という文言があり[4]、また8月1日には松岡洋右外相が「大東亜共栄圏」という用語を初めて用いた談話を発表した[4]。松岡は大東亜共栄圏を「従来東亜新秩序圏乃至は東亜安定圏と称せられてゐたものと同一」であるとし、日本・満州・中国大陸に加え、フランス領インドシナ、オランダ領東インドをも含めた範囲であると説明した[4]。
1942年(昭和17年)2月28日の大本営政府連絡会議では「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スヘキ大東亜ノ地域」を決定し、大東亜の地域を「日満支及東経九十度ヨリ東経百八十度迄ノ間ニ於ケル南緯十度以北ノ南方諸地域、其他ノ諸地域ニ関シテハ情勢ノ推移ニ応シ決定ス」と規定した[4]。
大本営参謀を務めた瀬島龍三は「大東亜の地域とは、おおむね、南はビルマ以東、北はバイカル湖以東の東アジアの大陸、並びにおおむね東経一八〇度以西すなわちマーシャル群島以西の西太平洋の海域を指すのであります。インド、豪州は含まれておりません」と記している[8]。
戦後の呼称
GHQによる「大東亜戦争」使用の禁止
1945年(昭和20年)8月のポツダム宣言受諾後も、大東亜戦争の名称はしばらく使用されていた[9]。しかし連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、軍国主義、全体主義、極端な国家主義などを日本から排除する政策を行うことを占領政策の柱としていた。
1945年(昭和20年)12月15日、GHQは日本政府に対する覚書「國家神道、神社神道ニ對スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ關スル件」(いわゆる「神道指令」)[10]を発した。この中で「『大東亜戦争』および『八紘一宇』などの、国家神道、軍国主義、国家主義に緊密に関連する言葉」の使用を公文書において禁止することが指令された[9]。これによって政府部内の「大東亜戦争調査会」などは「戦争調査会」と改称され、関連法令にある「大東亜戦争」の語句もすべて「戦争」に置き換えられた[9]。
また1945年9月10日には「ニューズ頒布についての覚書」、9月19日には「プレス・コード(新聞規約)」が発出され、マスコミに対するGHQの規制も強化された。GHQはさらに「プレス・コードにもとづく検閲の要領にかんする細則」を発して新聞・雑誌がGHQの検閲を受けること、さらに「『大東亜戦争』『大東亜共栄圏』『八紘一宇』『英霊』のごとき戦時用語」の使用を避けるように指令した[11]。
12月7日には朝日新聞が「太平洋戦争」の語を初めて使用し[11]、12月8日(開戦4周年)には新聞各紙が民間情報教育局(CIE)作成の「太平洋戰爭史」の掲載を開始した[11]。さらに翌日からは日本放送協会から「眞相はかうだ」のラジオ放送が開始された。
こうした経緯を「大東亜戦争」という用語は強制的に「太平洋戦争」に置き換えられていったと非難する論者もいる[12][13]。 占領軍が日本軍の残虐行為と国家の罪を強調するために行った宣伝政策[14]について、文藝評論家の江藤淳はその著書でウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」)としている[12]。
呼称に対するGHQの検閲
GHQは出版物についても検閲をおこない、「大東亜戦争」表記の排除を図った。まず占領政策の前期においては、あらゆる出版物が「事前検閲」を受け、「大東亜戦争」はすべて「太平洋戦争」に書き換えられた[15]。
占領政策後期に入ると「事前検閲」は「事後検閲」へ変更された。印刷・製本済みの出版物を占領軍が検閲し、「大東亜戦争」その他占領軍に不都合な記述(GHQへの批判等)があれば、発禁処分をおこなった。出版社は莫大な損害を蒙ることになるため、自主的に占領軍の検閲に触れるような文章を執筆する著者を敬遠し、占領軍の意向に沿わない本を出版しなくなった。江藤淳は、これを「日本人の自己検閲」と呼び、この構造が言論機関に定着するに従い検閲は占領軍によってではなく、日本人自身の手によって行われるようになったと主張している[12]。
戦後の法令にみる呼称
「昭和二十年勅令第五百四十二号「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件ニ基ク国有財産法中改正等ノ件」(昭和21年3月14日勅令第142号)等により、法律や勅令の文中に「大東亜戦争」の呼称を使用していた法令の文言は「今次ノ戦争」と改められている。
1952年4月11日に公布された「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律」(法律第81号)では、ポツダム宣言受諾によって発された法令(いわゆるポツダム命令)について、別途法制化されない限り失効することとされた[16]。日本政府は昭和21年3月14日勅令第142号について何等手続きを行わなかったため、現在では同法は失効している[16]。
しかし、この後に制定された法令の条文などでも、大東亜戦争という言葉は使用されず、「太平洋戦争」あるいは「今次の戦争」という表現が使用されている。「今次の戦争」という表現は、「罹災都市借地借家臨時処理法」(昭和21年8月27日法律第13号)、「認知の訴の特例に関する法律」(昭和24年6月10日法律第206号)といった戦後早い段階の法令にみられる。
また、「太平洋戦争」という用語は、「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年6月1日法律第173号)を皮切りに、「沖縄県の区域内における位置境界不明地域内の各筆の土地の位置境界の明確化等に関する特別措置法」(昭和52年5月18日法律第40号)、「沖縄振興特別措置法」(平成14年3月31日法律第14号)等で使用されている。このうち「沖縄振興特別措置法」の別表には、「…指定区間内の国道を構成する敷地である土地のうち太平洋戦争の開始の日から復帰協定の効力発生の日の前日までに築造された道の敷地であったもの…」というくだりが見られるが、その開始日をはじめ「太平洋戦争」に関する定義を欠いている。他の法令も同様である。
戦後の公的機関による用語の使用
内閣官房が編纂した『内閣制度七十年史』(大蔵省印刷局、1955年)では「大東亜戦争」の語を用いている。また衆議院・参議院が共同で編纂した『議会制度七十年史』(1960年~1961年)では、「大東亜戦争・太平洋戦争」の語を並列で用いている[17]。また外務省が1969年に発刊した『外務省の百年』では、「大東亜戦争」の語を用いているが、他の省庁の編纂物では用いられていない[17]。ただし『大蔵省百年史』に序文を書いた福田赳夫(当時内閣総理大臣)が「大東亜戦争」の語を用いている[18]。『戦史叢書』の際には、本文には「大東亜戦争」や「支那事変」の語を用いることもあるが、可能な限り他の表現を用いることとされた[19]。
民間における戦争呼称
太平洋戦争
日本国際政治学会は1962年(昭和37年)に『太平洋戦争への道』を発刊しているが、その中で大東亜戦争は日本側からの一般的呼称であるとし、学術的にも「War in the Pacific」の語が国際的に用いられていると説明している[20]。その後も児島襄『太平洋戦争(上)・(下)』(中央公論社、1965年~ 66年)、家永三郎『太平洋戦争』(岩波書店、1968年)、林茂『日本の歴史 25 太平洋戦争』(中央公論社、1974年)などの著名な本の中で「太平洋戦争」の語が使用され、完全に定着している[20]。日本新聞協会において正式な戦争名が討議されたことはないが、朝日新聞・読売新聞・毎日新聞・東京新聞(中日新聞)では圧倒的に「太平洋戦争」の使用例が多く[21]、図書や雑誌の見出しでも同様である[22]。このような流れから、1960年代にはすでに「大東亜戦争」の語がタブー視されるようになっていた[20]。
太平洋戦争の語自体は日米戦争を現すものとして戦前から使われており、戦争名討議の際にも海軍が提案している。また旧海軍軍人の中には戦後「日本にとって真の敵は(中華民国やソ連ではなく)アメリカであり、したがって大東亜などと無駄に戦域を拡張するべきでなかった」との反省から、「太平洋戦争と(歴史的には)呼称すべきだ」と主張する人々が存在した[23]。
十五年戦争・アジア太平洋戦争
一方で1931年(昭和6年)の満州事変と1937年(昭和12年)の盧溝橋事件に始まる日中戦争を大東亜戦争と一体のものとみて、鶴見俊輔が1956年(昭和31年)に提唱した[24]十五年戦争[25]や柳沢英二郎が提唱したアジア・太平洋戦争と呼称すべきとする立場も存在する。これらの立場を取る論者でも、一般に通用しているという理由で「太平洋戦争」を用いることもある。マルクス主義歴史学をとる歴史学研究会は1953年(昭和28年)に『太平洋戦争史』を発刊しているが、発刊の言葉の中では、侵略戦争を美化した大東亜戦争や、アメリカのみを対象とする太平洋戦争は適当ではなく、アジアとの戦争を重視して「十五年戦争」と呼ぶべきであるが、一般にわかりやすい言葉として「太平洋戦争」の語を用いたとしている[26]。同様に家永三郎も「十五年戦争」であるという立場を取っているが、一般に浸透した言葉として「太平洋戦争」を用いている[20]。
これらの立場はいずれも「大東亜戦争」を侵略を美化する言葉であるとする立場で共通している。「大東亜戦争」の使用を主張する側が大東亜戦争の思想背景でもある大東亜共栄圏の理念を揚げ、「植民地解放戦争だった」、「良い面もあった」といった見解を示す者が多いこと、「大東亜戦争」の使用が「戦争賛美」、「復古的国粋主義の煽動」、「中韓を初めとしたアジア諸国への侵略に対する反省が乏しい」として、使用に反対している。
「十五年戦争」の語は1995年まではこうした立場の人々に用いられていたが、近年では「アジア・太平洋戦争」の語が用いられるケースが増加している[27]。
その他の名称
『読売新聞』は、1989年2月の企画[28]や2006年(平成18年)8月13日の紙面で、満州事変から太平洋戦争終了までを「昭和戦争」と呼称するよう提唱したが、同紙以外で使用することは極めて稀である。また、中川八洋は自著にて、大東亜戦争を日中戦争+太平洋戦争の8年とした「8年戦争」という呼称を使用している[29]。
「大東亜戦争」使用論
現在、「大東亜戦争」の語を用いる論者は右派系とされる論者に多い。時代が平成に変わる前後から「大東亜戦争」の語はこうした月刊誌で部分的に使われ始めた。1990年(平成2年)に中村粲の『大東亜戦争への道』が出された前後から使用頻度が高くなっている(『諸君!』『正論』『文藝春秋』『Voice』など)。一方、『前衛』や『論座』など左派系の月刊誌で「大東亜戦争」が用いられる事は、現在もほぼ皆無である。この状況を秦郁彦は「著者の基本的歴史観を著すために、それ(戦争の呼称)が踏み絵の役割を果たしてきたことも事実だ」と指摘している[30]。これら「大東亜戦争」を用いるべきとする立場からは左派の主張を自虐史観と非難している。また『産経新聞』も比較的「大東亜戦争」を多用している[21]。
一方で、「大東亜戦争肯定論」の立場に立たない論者もあえて「大東亜戦争」の語を用いることがある。こうした立場に立つ倉沢愛子や松浦正隆は著作において「大東亜戦争」の語を用いているが、この場合にはカギ括弧を付するなどしている[31]。
「大東亜戦争」論者の使用目的
戦争目的・戦争の肯定
1964年(昭和39年)に『大東亜戦争肯定論』を発表した林房雄や『大東亜戦争を見直そう』などの著作がある名越二荒之助のように、その日本の戦争目的や戦争自体を肯定する立場である[32]。この立場からは「太平洋戦争」はアメリカ側の史観であるとされ、非難されている。
政府決定
元大本営参謀原四郎のように、「大東亜戦争」は日本の政府が正式に決定した名称であり、ポツダム命令も失効したため、正式な名称である「大東亜戦争」を用いるべきであるとする立場[32]。
戦域の一致
「大東亜戦争」の「大東亜」はイデオロギー面とは無関係であり、戦争の範囲をあらわす名称であるという立場である。駐米大使や外務事務次官を務めた村田良平は、戦争の範囲が「より広義の東アジア」であり、アメリカの言う「太平洋」の範囲より適合しているとして、「大東亜戦争」の立場を用いるべきと主張していた[32]。評論家の村上兵衛は「東アジアで行われた大きな戦争」の意味で「大東亜戦争」を用いるべきであるとした[33]。原四郎も戦争目的は「アジアの新秩序建設」ではなく、「大東亜において戦われる戦争」であるから「大東亜戦争」であるという主張を行っている[34]。アメリカの歴史家ジョン・ステファンも「いささか決まり悪いものの」「大東亜戦争」という名称が日本がアジア、インド、ビルマなどで繰り広げようとした戦争目的を最も正確に表現しているとしている[34]。
『アジア太平洋戦争』(1995年・岩波書店)を著した岡部牧夫は、「大東亜」を地域名称であると読み替えてしまえば、「アジア・太平洋戦争」の提唱の趣旨と変わらなくなり、呼称問題における対立の根拠は失われるかも知れないとしている[35]。
戦争の実体および同時代性
肯定・否定の立場からではなく、「大東亜戦争」の用語は戦争の性質をあらわすという立場である。一般に左派系とされる歴史家信夫清三郎は、次善の策として「太平洋戦争」の語を用いる家永らを批判し、「大東亜新秩序(大東亜共栄圏)を目的とする戦争」という「歴史的意味」から「大東亜戦争」の語を用いていた[36]。上山春平は『中央公論』1961年1月号において「大東亜戦争の思想的意味」を発表した。上山は「『太平洋戦争』が占領軍によって付与された米国側の見方である」とし、そのような考え方に慣れた日本人にショックを与えるためとして、あえて大東亜戦争を用いたとしている[20]。
保坂正康は「大東亜戦争」の語を用いないのは「前歴の否定」であるとし、あえて「太平洋・大東亜戦争」の語を用いるべきとしている[37]。
戦争目的の両義性
信夫や後藤乾一、三輪公忠らは、「大東亜戦争」の名の元に示された理念が建前であったにしても、その理念に自己のアイデンティティを求めた人々が少なからず存在したと言うことをあげ、そうした人々を否定しないためにも「大東亜戦争」の語をあえて用いるとしていた[38]。
その他
児童文学家の山中恒は「ボクラ少国民」シリーズにおいて「大東亜戦争」の語を用いていたが、これは「こちら側の戦争」という同時代意識を現すためなどの理由で「大東亜戦争」の語を使用していたが、「『大東亜戦争』という用語に固執するのは『侵略戦争ではないと擁護する側の人たちが多い』」と考え、「アジア・太平洋戦争」の語を用いるようになった[31]。
批判
斉藤孝は信夫の主張を批判した『「大東亜戦争」と「太平洋戦争」』において、「大」の語は自らを誇示しようとしている語であり、地域名称であるとするならば「東アジア」でもいいとし、「大東亜戦争」の語は「占領軍の指令がなくとも、本来日本国民自身が否定すべきものであった」とした[39]。
中華人民共和国や大韓民国においては「大東亜戦争」の語は戦争や植民地支配を正当化するものとして批判されている[40]。
海外における呼称
米英などの連合国においては、日本との戦争自体を形容する公式な呼称はなく、「太平洋戦線」など戦線名が用いられていた。現在のアメリカでも、「the War in the Pacific (Theater)」、「WWⅡ-Pacific Theatre」、もしくは「the Pacific Theatre in the Second World War」などと、第二次世界大戦の一戦線であると言う形容が成されている[41]。
[イギリス]]の歴史家クリストファー・ソーンは「極東戦争」という呼称を提唱している。
現在の日本政府による公式見解
現在の日本政府は、以下の立場を取っている。
- 昭和16年12月12日の閣議決定において、「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」とされているが、「大東亜戦争」の定義を定める法令はない[42]。
- 昭和20年12月15日付け連合国総司令部覚書以降、一般に政府として公文書において「大東亜戦争」という用語を使用していない[42]。
- 「太平洋戦争」という用語は、「在外公館等借入金の確認に関する法律」(昭和24年法律第173号)等に使用されているが、「太平洋戦争」の定義を定める法令はなく、これに日中間の戦争が含まれるか否かは法令上定められていない[42]。
- 「太平洋戦争」という用語は政府として定義して用いている用語ではなく、「大東亜戦争」と「太平洋戦争」は同一の戦争かについて回答することは困難である[43]。
- このため「戦後50周年の終戦記念日にあたっての村山首相談話」(村山談話)などの内閣総理大臣の声明・演説では「大東亜戦争」や「太平洋戦争」などの用語は用いられず、「先の大戦」、「過去の戦争」、「過ぐる大戦」、「第二次世界大戦」などが用いられている[44]。
- また天皇も「おことば」などで言及する際には「先の大戦」「あの不幸な戦争」といった表現を用い、「大東亜戦争」や「アジア・太平洋戦争」などの用語を使用しないのが通例となっている[44]。2008年に宮内庁は「その(人間宣言)後も戦争名を頭に付けない表現を繰り返しているうちに定着した。特定の意図をもって○○戦争という言い方を避けているわけではない」と回答している[44]。一方で記者会見などでは「第二次世界大戦」という言葉を用いることもある[44]。
戦争の始まりと終わりについての諸説
日付はいずれも日本時間である。
始まり
終戦
期間に関する問題
「大東亜戦争の開始は昭和12年(1937年)」と主張する人々がその根拠とするのは、当時の東條内閣が1942年(昭和17年)1月に「大東亞戰爭ノ呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」を帝国議会に提出する際、「大東亞戰爭ノ呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」説明基準[2]を添付したことである。その中には、「(イ)今次勃発ノ對米英戰ノミヲ支那事變ト區別シテ大東亞戰爭ト稱スルモノニ非ザルコトヲ示ス。」「(ロ) 更ニ、右決定(注・「今次戰爭ノ呼稱並ニ平戰時ノ分界時期等ニ付テ」[6]のこと)ハ、今後大東亞戰爭ナル呼稱ヲ用フル場合ニハ昭和十六年十二月八日前ノ支那事變ヲモ包含スルモノナルノ意ヲ含ム。」と記されている。
しかし、この文章が意味するところは、「昭和十六年十二月八日前ノ支那事變」自体が大東亜戦争に含まれるということではない。当時の法律の文中から「支那事変」という言葉が一切消え、「大東亜戦争」という言葉だけに変わってしまったが、今後も公債発行や農村負債処理のことなどでこれらの法律を運用していく際は、「昭和十六年十二月八日前ノ支那事變」期間中のことも引き続き適応対象となるというほどの意味である。
もっとも、この「大東亞戰爭呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律」(昭和17年2月18日法律第9号)によって「大東亜戦争」が指す期間の定義については、当時の国民の間にも様々に解釈が生じたことは事実である。例えば貴族院議員の村上恭一は、1945年(昭和20年)11月30日の第89回帝国議会・貴族院「昭和二十年勅令第五百四十二号(承諾を求むる件)特別委員会」において、昭和17年法律第9号がある以上「大東亜戦争の開戦は昭和12年ではないか」と質問している。これに対し、松本烝治国務大臣は、この法律によって「法律、勅令の適用の範囲」に付いては「支那事変」と「大東亜戦争」とは「一体を成して区分すべからざる状態」になったとしているが、支那事変と大東亜戦争は「観念に於いて区別がある」と答弁している[45]。
1941年(昭和16年)12月12日の閣議決定には「平時、戰時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス」とある。 戦没者を祀る靖國神社は、戦死者の数を1941年(昭和16年)12月8日より前の「支那事変」と「大東亜戦争」を分けて集計している。
発行物
大日本帝国逓信省(現在の日本郵便)および日本の勢力下にあった各地で大東亜戦争を記念する切手や葉書が発行されている。日本では1942年(昭和17年)12月8日に記念切手を発行しており、寄附金付記念切手は、真珠湾とバターン半島の戦場を描いたものであったが、切手の題名は「大東亜戦争第一周年記念」と表記されており、開戦1周年目としていた。また1943年(昭和18年)12月8日には二周年記念葉書として「大東亜戦争記念報国葉書第1集」を発行しており、埴輪の武人の額面つきの官製はがきの裏面にハワイ、香港、シンガポールの戦場を描いた図案で10銭の国防献金を含む30銭で販売した[46]。また10銭の普通切手として大東亜共栄圏の地図を描く図案のものを発行している。
また、日本の勢力下にあった満州国では1942年に中国語で「興亜はこの日より/興亜自期日」との加刷切手を発行[47]したほか、フィリピン第一共和国でも同様に発行された[48]。また1943年には蒙古聯合自治政府が日本製の大東亜戦争二周年記念切手2種を発行している[49]。
-
日本で発行された「大東亜戦争第一周年記念」切手(1942年)
-
日本軍占領下のフィリピンで発行された「大東亜戦争1周年記念切手」
-
「大東亜共栄圏」を表現した日本の10銭切手(1942年発行)
脚注
- ^ a b c 庄治潤一郎 2011, pp. 44.
- ^ a b 「大東亞戰爭ノ呼稱ヲ定メタルニ伴フ各法律中改正法律案」説明基準(1942年1月内閣作成)
- ^ ただし、対オランダに関しては、1941年(昭和16年)12月1日の御前会議で開戦を決定したものの、同年12月8日の「米国及英国ニ対スル宣戦ノ布告」では宣戦布告の対象から除かれており、1942年(昭和17年)1月11日の対蘭戦の開始および翌日の宣戦布告まで公式には「対米英蘭戦争」とは呼んでいない。
- ^ a b c d e f g h 庄治潤一郎 2011, pp. 45.
- ^ 種村佐孝著『大本営機密日誌』(ダイヤモンド社、1952年)
- ^ a b 「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」(昭和16年12月12日 閣議決定)、国立国会図書館
- ^ 当時大本営参謀であった原四郎は情報局の発表について「情報局は何を血迷ったか」と批判している(庄治潤一郎 2011, pp. 45)
- ^ (瀬島龍三『大東亜戦争の実相』P.23)
- ^ a b c 庄治潤一郎 2011, pp. 46.
- ^ 「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN No.448、1945年12月25日)
- ^ a b c 庄治潤一郎 2011, pp. 47.
- ^ a b c 江藤淳著『閉された言語空間-占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋、平成元年(1989年))
- ^ 勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪めたもの』(明成社、2005年)
- ^ 田中正明、パール判事の日本無罪論、小学館文庫、平成13年(2001年)
- ^ これらは、米国のメリーランド大学のマッケルデイン図書館にプランゲ文庫として保存されている膨大な占領文書によって確認することができる。現在、このプランゲ文庫の全ての資料がマイクロフィルム化されており、日本の国立国会図書館で閲覧可能である。また、勝岡寛次は自著『抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪めたもの』(明成社、2005年)の中で、原資料に基づき多くの検閲の実例を挙げて論証をおこなっている。
- ^ a b 庄治潤一郎 2011, pp. 48.
- ^ a b 庄治潤一郎 2011, pp. 71.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 72.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 73–74.
- ^ a b c d e 庄治潤一郎 2011, pp. 49.
- ^ a b 庄治潤一郎 2011, pp. 75.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 76.
- ^ 佐藤和正著『艦長たちの太平洋戦争』(光人社、1983年)
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 61.
- ^ 満州事変に関しては塘沽協定(1933年)で停戦が成立しており、一続きの戦争とみなすことについて否定的な見解もある。ただし、休戦や講和をはさんだ一連の戦争を一続きのものとしてとらえること自体は決して特異な見解ではない(例えば「百年戦争」や「三十年戦争」などの呼称が歴史学で使われている。これらも十五年戦争と同じく、後世の視点で一連の戦争を総括して呼ぶ呼称として生まれた)。庶民の日常感覚では、1937年以降が「戦争」であったことは、同時代の証言として徳田秋声の『縮図』冒頭部分の記述があり、戦後の証言としては安岡章太郎の回想がある。
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 48–49.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 76–77.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 67.
- ^ 中川八洋著『近衛文麿の戦争責任 大東亜戦争のたった一つの真実』(PHP研究所, 2010年,『近衛文麿とルーズヴェルト』,『大東亜戦争と「開戦責任」』改版)第一章
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 43–44.
- ^ a b 庄治潤一郎 2011, pp. 57–58.
- ^ a b c 庄治潤一郎 2011, pp. 53.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 53–54.
- ^ a b 庄治潤一郎 2011, pp. 54.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 54–55.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 55.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 56.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 56–57.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 58.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 58–59.
- ^ 庄治潤一郎 2011, pp. 51.
- ^ a b c 「大東亜戦争の定義に関する質問主意書」に対する答弁書(第165臨時国会答弁第197号、2006年12月8日)
- ^ 「大東亜戦争の定義等に関する質問主意書」に対する答弁書(第166通常国会答弁第6号、2007年2月6日)
※この質問を行った鈴木宗男衆議院議員は、その後の質問では「太平洋戦争」という用語を使用している(太平洋戦争中の中華民国国民政府の性格に関する質問主意書(第166通常国会質問第219号、2007年5月10日提出)。 - ^ a b c d 庄治潤一郎 2011, pp. 70–71.
- ^ 第89回帝国議会・貴族院「昭和二十年勅令第五百四十二号(承諾を求むる件)特別委員会」、1945年(昭和20年)11月30日、発言番号22,23参照、帝国議会会議録検索システム
- ^ 島田建造著、友岡正孝編「カラー復刻版日本記念葉書総図鑑」、2009年、50頁
- ^ 日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」87頁
- ^ 日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」204頁
- ^ 日本郵趣協会「日本切手専門カタログ2012」126頁
参考文献
- 江藤淳 『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』 文藝春秋、のち文春文庫、1994年、ISBN 4167366088
- 勝岡寛次 『抹殺された大東亜戦争―米軍占領下の検閲が歪めたもの』 明成社、2005年8月、ISBN 4944219377
- ジョン・トーランド、毎日新聞社訳 『大日本帝国の興亡』全5巻、毎日新聞社、のちハヤカワ文庫、1984年、※訳者は徳岡孝夫ほか。
- 庄治潤一郎「日本における戦争呼称に関する問題の一考察」『防衛研究所紀要』13(3)、防衛研究所、2011年、13-19頁。
関連書籍
- 種村佐孝 『大本営機密日誌』 ダイヤモンド社 1952年3月、芙蓉書房出版 1995年8月新装版、ISBN 4829501537
- 林房雄 『大東亜戦争肯定論』 番町書房 1964年8月/夏目書房(新装版) 2001年8月、ISBN 4931391923
- 田々宮英太郎 『大東亜戦争始末記 自決編』 経済往来社 1966年
- 名越二荒之助 『大東亜戦争を見直そう』 原書房 1968年8月/明成社(新装版) 2007年8月、ISBN 9784944219599
- 佐藤和正 『艦長たちの太平洋戦争―34人の艦長が語った勇者の条件』 光人社 1983年、ISBN 4769802072
- 中村粲 『大東亜戦争への道』 展転社 1990年12月、ISBN 4886560628
関連項目
- 仏印進駐
- 援蒋ルート
- ビルマの戦い
- 蘭印作戦
- ソロモン諸島の戦い
- マリアナ沖海戦
- フィリピンの戦い
- ソ連対日参戦
- 日本の終戦
- 連合国軍占領下の日本
- 極東国際軍事裁判
- 大東亜共同宣言
- 民間検閲支隊
- 発禁