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{{Infobox 人物
'''ウィリアム・インブリー'''(William Imbrie、[[1845年]][[1月1日]] - [[1928年]][[8月4日]])は、[[アメリカ合衆国長老教会|アメリカ長老教会]]の[[宣教師]]である。
|氏名 = William Imbrie
|ふりがな = ウィリアム・インブリー
|画像 = William Imbrie3.jpg
|画像サイズ = 150
|画像説明 = ウィリアム・インブリーの肖像写真
|出生名 =
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1845|1|1|no}}
|生誕地 = {{USA}}<br />[[ニュージャージー州]]{{仮リンク|ラーウェイ (ニュージャージー州)|en|Rahway, New Jersey|label=ラーウェイ}}
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1845|1|1|1928|8|4|}}
|死没地 = {{USA}}<br />[[イリノイ州]][[エバンストン (イリノイ州)|エバンストン]]
|死因 =
|墓地 = イリノイ州{{仮リンク|スコキー (イリノイ州)|en|Skokie, Illinois|label=スコキー}}のメモリアルパーク墓地
|記念碑 =
|住居 =
|国籍 =
|別名 =
|民族 =
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|教育 =
|出身校 = [[コロンビア大学]]<br />[[プリンストン大学]]<br />[[プリンストン神学校]]
|職業 =
|著名な実績 = [[宣教師]]として[[日本]]で[[キリスト教]]の布教活動を行った
|業績 =
|宗教 = [[キリスト教]]
|宗派 = [[アメリカ合衆国長老教会]]
|配偶者 = エリザベス・ドリマス・ジュエル(1873 - 1928、<small>インブリーの死</small>)
|受賞 = 「勲4等旭日小綬章」(1909年)
|署名 = <!-- 画像ファイル名 -->
|署名サイズ =
|公式サイト =
|補足 =
}}
'''ウィリアム・インブリー'''({{Lang-en|'''William Imbrie'''}} , [[1845年]][[1月1日]] - [[1928年]][[8月4日]])は、[[1875年]]([[明治]]8年)に[[日本]]を訪れて以後、40年以上もの長きにわたり[[キリスト教]]の布教活動を行った[[アメリカ合衆国長老教会]]の[[宣教師]]である。歴代訪日宣教師の中でも顕著な業績を残しているが、彼の業績について言及された文献はきわめて少ない。そのために「[[インブリー事件]]」の被害者として最もよく知られる。


==生==
== い立ち ==
ウィリアム・インブリーは[[1845年]][[1月1日]]に[[アメリカ合衆国]]の[[ニュージャージー州]]{{仮リンク|ラーウェイ (ニュージャージー州)|en|Rahway, New Jersey|label=ラーウェイ}}第一長老[[教会]]の[[牧師館]]で父のチャールズ・キッセルマン・インブリー(1814–1891)と母のエリザベス・ミラー・インブリー(1815–1891)の長男として生まれた<ref>[[#中島, 辻, 大西(2003年)|中島, 辻, 大西(2003年)]] p.130</ref>。両親ともに[[スコットランド]]出身の祖先を持つ{{仮リンク|スコットランド系アメリカ人|en|Scottish American}}(父方の祖母の祖先は[[イングランド]]出身)である<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] pp.16-22</ref>。姉1人と弟2人がいたが、末弟のジョンは生後間もなく亡くなった<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.23</ref>。7歳になって間もなく、父のチャールズは同じニュージャージー州の[[ジャージーシティ]]第一長老教会に転任となり、一家は[[マンハッタン|マンハッタン島]]対岸の市街地区へ転居した<ref name="中島24">[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.24</ref>。チャールズは定年となる1888年まで40年近く第一長老教会の[[牧師]]を務めた<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.22</ref>。
インブリーは[[ニュージャージー州]]のラーウェイの第一長老教会の牧師館で、[[スコットランド系アメリカ人]]父チャールズ・インブリーと母エリザベスの長男として生まれた。


姉や弟とともにチャールズから[[初等教育]]を受け、10歳になるとマンハッタン島の[[グリニッジ・ヴィレッジ]]にあるクッケンボス・スクールに通い始めた<ref name="中島24" />。1858年にチャールズの教会で[[信仰告白]]を体験した<ref name="中島24" />。クッケンボス・スクールを卒業後、同じマンハッタン島にある監督教会([[米国聖公会|アメリカ聖公会]]系)の[[コロンビア大学]]に入学した<ref name="中島24" />。コロンビア大学で2年間過ごした後、1863年9月に[[プリンストン大学]]の1865年クラスに編入し、[[寄宿舎]]生活を始めた<ref name="中島24" />。[[南北戦争]]が終結した2か月後の1865年6月にプリンストン大学を最優秀で卒業した<ref>[[#中島, 辻, 大西(2003年)|中島, 辻, 大西(2003年)]] p.132</ref>。
幼少期は父から初等教育を受けた。[[1855年]]には、[[マンハッタン]]のグリニッチ・ヴィレッジにあるクッケンボス博士の学校に通い始めた。その間父親の教会で信仰告白をした。


== 実業界から教職界へ ==
[[1863年]]、クッケンボス・スクールを卒業すると、1863年9月に監督教会([[聖公会]])の[[コロンビア大学]]に入学した。インブリーはコロンビア大学で2年間過ごすと、3年目に[[プリンストン大学]]の1865年組に編入して、寄宿舎生活を始めた。プリンストン大学では、ギリシア古典、ローマ古典、数学、化学、生物、[[天文学]]、[[航海術]]、政治経済、歴史、憲法、[[修辞学]]、[[弁証法]]、文章学などを学んだ。
[[File:William Imbrie.jpg|right|175px|thumb|[[プリンストン神学校]]のアルバムより]]
プリンストン大学を卒業した後は[[ウォール街]]の[[証券会社]]に就職し、次いで[[ペンシルバニア鉄道|ペンシルベニア鉄道会社]]に転職したが、長続きせずにどちらも半年で辞めた<ref name="中島27">[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.27</ref>。父と同様に[[教役者|教職者]]を志すことを決意し、1年間入学試験の準備を行った後、1867年秋に[[プリンストン神学校]]に入学した<ref name="中島27" />。神学校の同級生には従兄の[[エドワード・ローゼイ・ミラー]]、のちに在日[[ミッション]]の同僚となる[[オリバー・マクリーン・グリーン]]らがいた<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.29</ref>。インブリーは1870年クラスを[[首席]]で卒業した<ref>[[#茂(1991年)|茂(1991年)]] p.131</ref>。


1871年4月18日にジャージーシティ長老教会で[[按手|按手礼]]を受けた後しばらくはチャールズの教会で奉仕活動を続け、その間に[[1873年]][[9月9日]]にチャールズの司式により同教会信徒で[[実業家]]の娘のエリザベス・ドリマス・ジュエル(1845–1931)との結婚式をあげた<ref name="中島30">[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.30</ref>。同年10月8日にジャージーシティ長老会からニュージャージー州レイクビュー長老教会の牧師に任命された<ref name="中島30" />。従弟のミラーはプリンストン神学校の専門研究科を修了した後、1872年4月1日にジャージーシティ長老会から[[日本]]派遣の[[宣教師]]に任命され、その2か月後に単身で日本を目指して出発した<ref name="中島, 辻, 大西134">[[#中島, 辻, 大西(2003年)|中島, 辻, 大西(2003年)]] p.134</ref>。
[[1865年]]6月にプリンストン大学を最優秀で卒業した。[[ウォール街]]の証券会社やペンシルバニア鉄道会社を経て、1867年秋に[[プリンストン神学校]]に入学した。インブリーの同級生には、従弟の[[エドワード・ローゼイ・ミラー|E・R・ミラー]]と[[オリバー・マクリーン・グリーン|O・M・グリーン]]らがいた。


ミラーが日本に派遣されて3年後、長老教会海外伝道局からチャールズを経由してインブリーのもとに宣教師として日本に赴任するよう要請が届き<ref name="中島30" />、これを受けて彼は1875年1月にレイクビュー長老教会牧師の任を解かれた<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.32</ref>。同年6月21日に海外伝道局は宣教師派遣選考委員会を開き、インブリーの日本派遣を正式に決定した<ref name="中島35">[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.35</ref>。[[アメリカ合衆国長老教会]]では宣教師の派遣は本人の所属する長老会が任命していたが、インブリーに限っては例外的に海外伝道局が直接任命したいわばお墨付きであった<ref name="中島, 辻, 大西134" /><ref name="中島35" />(インブリーの父親は海外伝道局の理事も務めていた<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.31</ref>)。
[[1871年]]4月に[[プリンストン神学校]]を卒業して、4月18日には、ジャージーシティー長老教会で[[按手礼]]を受け、その後父の教会で[[牧師]]をしていた。1873年9月9日には、教会の信徒の娘である、エリザベス・ドレマス・ジュールと父親の司式で結婚した。そして、10月8日に、ニュージャージー州のレイク・ビュー・チャーチの牧師に任命された。従弟のミラーは、プリンストン神学校の専門研究科を修了した後に、1872年4月1日にジャージーシティー長老会から、日本派遣宣教師の任命を受けて、6月に単身で日本に出発した。


1875年8月末に、インブリーとエリザベス夫人はジャージーシティを出発し、[[大陸横断鉄道]]に乗って西へと移動し、[[サンフランシスコ]]から{{仮リンク|パシフィック・メール汽船会社|en|Pacific Mail Steamship Company}}所有の[[蒸気船|汽船]]『チャイナ』号に乗船し日本へと向かった<ref name="中島35" />。
そして、ミラーが日本に派遣されて3年後に、長老教会海外伝道局からインブリーの元に、宣教師として、日本に赴任するように要請が届いた。1875年1月レイク・ビュー・チャーチの牧師を辞めて、6月21日に特別委員会で、海外伝道局の直接任命により、インブリーの日本派遣が正式に決定された。


== 日本での宣教師活動 ==
1875年9月26日に早朝に、チャイナ号に乗り、[[横浜港]]に到着した。そして、ミラーにより、横浜山手のミラーの家に落ち着いた。
=== 最初の訪日 ===
インブリー夫妻を乗せた汽船は1875年([[明治]]8年)9月26日に[[横浜港]]に到着した<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] pp.71-72</ref>。インブリーにとってこの日のことはとても印象深かったようで、彼は後年に「私は初めて日本の陸地を眼にした時のことを決して忘れません。(中略)私は過去と未来に思いを走らせ、私の前におかれた人生を心に描いてみました。それは私が今まで描いていた人生とはかなり異なるものでした」と述懐している<ref>[[#インブリー(1982年)|インブリー(1982年)]] p.9</ref>。夫妻はすぐに従兄のミラーの好意で、[[横浜市]][[山手 (横浜市)|山手]]にあるミラー夫妻が少し前まで住んでいた彼らの持ち家に落ち着いた<ref>[[#中島, 辻, 大西(2003年)|中島, 辻, 大西(2003年)]] p.135</ref><ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.72</ref>。しばらく横浜に滞在した後、翌1876年(明治9年)1月初めに、[[東京]]の[[築地]]にある[[外国人居留地]]相対借地域の南小田原町四丁目五番地の[[日本の住宅|日本家屋]]に転居した<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.73</ref>。同年5月に「{{Lang|en|Jesus}}」の[[外国語の日本語表記|日本語表記]]問題で特別宣教師会議の決定を不服として在日ミッション宣教師を辞任した[[クリストファー・カロザース]]とその妻の[[ジュリア・カロザース]]が退去した後の<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] pp.73-75</ref>、「ショッキングなほど汚い」築地居留地六番Aの宣教師館に入居した<ref>[[#中島, 辻, 大西(2003年)|中島, 辻, 大西(2003年)]] p.137</ref>。


インブリーは横浜で、[[ジェームス・カーティス・ヘボン|ヘボン]]、ルーミス、グリーンと在日ミッションの方向性を相談した。1877年に、米国長老教会、アメリカ・[[オランダ改革派教会]]、スコットランド一致長老教会のミッションが合同して長老主義にづく[[日本基督一致教会]]を立したそして、インブリーが合同事業の心として活躍した。
1877年(明治10年)9月17日アメリカ合衆国長老教会、[[アメリカ・オランダ改革派教会]]、[[スコットランド一致長老教会]]在日3ミッションが合同して[[長老制|長老主義]]もとづく[[日本基督一致教会]]をすることが決定したが、の合同事業を主導たのがインブリーだった<ref>[[#島(2011年)|中島(2011年)]] p.80</ref>。日本に到着してから2年足らずのうちに「教会の統一」を成遂げ彼の手腕に対し、[[ジェームス・カーティス・ヘボン|ジェームズ・カーティス・ヘボン]]をはじめ関係ミッションすべての宣教師が称賛を与えた<ref>[[#中島, 辻, 大西(2003年)|中島, 辻, 大西(2003年)]] p.138</ref>


さらにインブリーが作成に参画した報告書に従い、1877年10月7日に合同[[神学校]]の[[東京一致神学校]]が開校し、彼自身も「[[新約聖書]]釈義」と「[[キリスト]]伝」の[[教育]]を担当した<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.81</ref>。専任教授の一人として[[日本人]]教職者を養成するため[[神学]]教育に多くの時間を割いた<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.85</ref>。3年後の1880年(明治13年)4月26日に[[築地大学校]]が築地居留地七番に移転し、その筆頭教授を兼務することになった<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.84</ref>。
そして、1877年10月7日に合同神学校である、[[東京一致神学校]](後の、[[明治学院]])を設立した。その際にインブリーは神学聖書釈義とキリスト伝を担当した。1883年10月23日にインブリー一家は一時帰国した。インブリーはこの休暇の最中に東京一致神学校で講義してきたキリスト伝をまとめて1884年9月に『The Life of Christ』という題で、東京一致神学校から出版した。そして、日本宣教への業績をたたえて、[[名誉神学博士]]号がプリンストン大学から授与された。


推進した諸事業が軌道に乗り出したので海外伝道局に賜暇休暇を願い出て、インブリー一家は1883年(明治16年)10月23日に『シティー・オブ・ペキン』号に乗って横浜を後にし、アメリカ本国に一時帰国した。この際、夫婦の他に4歳の長男マルカムと2歳の次男チャールズも一緒であった<ref>[[#中島, 辻, 大西(2003年)|中島, 辻, 大西(2003年)]] pp.140-141</ref>。インブリーは休暇の最中に東京一致神学校で講義してきたキリスト伝をまとめて1884年9月に『{{Lang|en|The Life of Christ}}』([[井深梶之助]]訳『福音史 一名基督言行録』)という題で、東京一致神学校から出版した<ref name="中島86">[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.86</ref>。これに先立つ同年6月、日本における宣教師としての顕著な働きをたたえて母校のプリンストン大学から[[名誉神学博士]]号を授与された<ref name="中島86" />。
1886年の帰国後に、東京一致神学校、東京一致英和学校、英和予備校を統合して、明治学院を設立した。1887年1月19日に[[東京府]]より、設置の許可が下りた。インブリーは中心的な役割を果たし、専門学部と邦語神学部の教授に就任して、[[新約聖書]]注解と教会政治を担当した。


=== 二度目の訪日 ===
1890年5月17日、明治学院白金倶楽部と[[第一高等学校 (旧制)|第一高等中学校]]の野球の試合が本郷向ヶ丘グランドで行われた。インブリーが応援に行くと、一高応援団がインブリーを取り囲み、暴行を加え、顔面に重傷を負わせる事件があった。一時外交問題に発展しそうになったが、インブリーの配慮で事件は収まった。([[インブリー事件]])
1885年(明治18年)7月にインブリー一家は1年9か月の休暇を終えて日本に戻り、もとの住まいの築地居留地一六番の宣教師館に落ち着いた<ref name="中島86" />。


1887年(明治20年)1月19日に[[東京府]]より、東京一致神学校、[[東京一致英和学校]]、英和予備校を統合した一大カレッジとなる[[明治学院大学|明治学院]]の設置の認可が下りた<ref name="中島86" />。インブリーは学院設立の最も重要な会計委員を務め、専門学部と邦語[[神学部]]の教授に就任して新約聖書注解と教会政治を担当した<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.87</ref>。
1922年12月3日にインブリー夫妻は日本を離れた。その冬を[[カリフォルニア]]で過ごし、翌年1923年春長男マルコムが住む[[シカゴ]]で余生を送っていた。1928年8月4日に、シカゴ郊外の[[エバンストン (イリノイ州)|エバンストン]]の病院で亡くなった。


日本基督一致教会と[[日本組合基督教会]]合同の機運が高まると、インブリーは合併草案の作成委員長および「日本聯合基督教会」草案細条目編成委員長として2年間にわたる両派の合同実現の運動を主導したが、[[新島襄]]らが教会合同に強い反対を示したことから組合教会内の反対勢力の意見が強まり、1889年(明治22年)5月に両教会の合同は不成立の結論に達した<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.88</ref>。日本基督一致教会は合同の可能性がなくなると、憲法草案作成委員長インブリーが日本人教職者を指導して従来のミッション主導による教会政治体制から日本人のキリスト教会独自の教会憲法作成に動き出した。1890年(明治23年)12月3日と4日に開催された一致教会第6回大会では新憲法が採択され、同時に教会の名称を[[日本基督教会]]と改めた<ref>[[#中島, 辻, 大西(2003年)|中島, 辻, 大西(2003年)]] p.144</ref>。この時に採択されたインブリーが起草した信仰告白文は長く影響力を保ち続け、1953年([[昭和]]28年)の「日本基督教会信仰の告白」や1954年(昭和29年)の「日本基督教団信仰告白」も同じような形式で制定されている<ref>[[#インブリー(1982年)|インブリー(1982年)]] p.123<small>(五十嵐喜和「あとがき」)</small></ref>。
==参考文献==
*『長老・改革派来日宣教師事典』新教出版社、2003年


インブリーは今後の教勢拡張は外国人宣教師の手に委ねるのではなく、日本人キリスト者自らが行うべきだと考えた<ref>[[#インブリー(1982年)|インブリー(1982年)]] pp.102-103</ref>。彼は日本に派遣される際に海外伝道局から与えられた宣教師としてのすべての使命を果たしたことを実感し、成長する息子たちの教育という理由も重なり、日本における奉仕に終止符を打ってアメリカ本国に帰国することを決意した。1893年(明治26年)4月29日に一家4人は『オセアニック』号に乗って横浜の港を後にした<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.146</ref>。
{{明治時代の来日宣教師}}


アメリカに戻った一家はニュージャージー州{{仮リンク|ローレンスビル (ニュージャージー州)|en|Lawrenceville, New Jersey|label=ローレンスビル}}にある[[ローレンスビル・スクール]]の教員住宅に落ち着き、帰国後のインブリーはそこから各地の長老会議に呼ばれて講演や[[説教]]を行い、母校のプリンストン神学校で連続講義の講師を依頼されたり、伝道局会議に出席したりと多忙な日々を送った<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.147</ref>。
{{DEFAULTSORT:いんふり ういりあむ}}

[[田村直臣]]が1893年の再渡米に際し、英文で出版した『[[日本の花嫁]]』は[[キリスト教]]から見た日本の結婚制度や家庭における女性の地位の低さについて書かれたものであるが、[[国粋主義]]の風潮が急激に高まる日本の各新聞・雑誌からその内容が繰り返し非難され、ついには所属する日本基督教会も弾劾裁判を開いて1894年(明治27年)7月6日に彼の牧師の資格を剥奪するという判決を下した。インブリーはこの裁判に先立ちコメントを裁判に提出したいと依頼状を送ってきた田村に対し、1894年5月14日付けで「この著書は刺激的ではあるけれども、日本を侮辱する意図のもとに、あるいは記述の内容が偽りであることを承知の上で書かれたとは思っていない」とアメリカから返事を書いて田村の著作に理解を示している<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] pp.149-150</ref>。

息子のマルコムとチャールズの二人がそれぞれ17歳と15歳に成長し、希望するプリンストン大学への進学に目処がついてきたことから、インブリーは再び日本を訪れる決心をした<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.152</ref>。

=== ノルマントン号事件 ===
{{main|ノルマントン号事件}}
[[1886年]](明治19年)[[10月24日]]に[[イギリス]]船籍の[[貨物船]]『ノルマントン』号が暴風に遭い、[[座礁]]して[[沈没]]したさい、[[イギリス人]]乗組員全員が[[救命ボート]]で脱出して助かる一方で、乗客である日本人25人全員が[[溺死]]するという「[[ノルマントン号事件]]」が起こり、11月5日の[[神戸市|神戸]]駐在の在日イギリス領事による[[海難審判]]で[[船長]]の[[ジョン・ウイリアム・ドレーク]]が無[[過失]]と判定されたため、この判定は[[不平等条約]]による[[領事裁判権]]がもたらしたものとして日本国民の激昂を招いた<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] pp.101-102</ref>。

この事件で在[[京浜]]の[[プロテスタント]]宣教師を代表して[[スポークスパーソン]]的な役割を果たしたのがインブリーだった。11月16日に在京浜の宣教師90余名は彼の名のもとに日本人犠牲者の遺族に対する義捐金を拠出して哀悼の意を表明した<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.107</ref>。また、彼はその8日後に事件に対する見解を公表するよう求めた[[福澤諭吉]]の要請に90余名を代表して『[[時事新報]]』紙上で回答を行い、福澤の指摘するイギリス人乗組員の「不思議不徳義」を全面的に肯定した<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] pp.105-106</ref>。

=== インブリー事件 ===
{{main|インブリー事件}}
[[第一高等学校 (旧制)|第一高等中学校]]ベースボール会対明治学院白金倶楽部の[[野球|ベースボール]]の試合<ref>[[#大和(1977年)|大和(1977年)]] pp.39-40</ref>が[[1890年]][[5月17日]]に[[向丘 (文京区)|向ヶ丘]]のグラウンドで行われた。興味を持って応援に駆けつけたインブリーが試合開始時間に遅れて到着したために入り口がわからず垣根をまたいでグラウンドに入ったところ、一高応援団が直ちに彼を取り囲み、押し問答を繰り返すうちに、生徒の一人が凶器で彼の顔面に重傷を負わせる事件が発生した<ref>[[#中島, 辻, 大西(2003年)|中島, 辻, 大西(2003年)]] p.143</ref>。この「[[インブリー事件]]」に在日外国人の[[世論]]が沸騰し、ついには[[駐日アメリカ合衆国大使|駐日アメリカ全権公使]]の{{仮リンク|ジョン・F・スウィフト|en|John Franklin Swift}}が[[外務省]]に正式に抗議したために公式に日米間の外交問題となった。しかしながら、陳謝する一中当局者に対してインブリーも率直に自分の非礼をわびて簡単に謝罪し、なおかつ彼が終始穏便に済ませようとしたこともあり、問題の拡大は回避された<ref>[[#池井(1976年)|池井(1976年)]] pp.31-33</ref>。[[大和球士]]はこの事件を「明治野球史上の大事件」と位置付けており<ref>[[#大和(1977年)|大和(1977年)]] p.33</ref>、中島耕二も『近代日本の外交と宣教師』(2011年)の中で24[[頁|ページ]]を割いて紹介している<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] pp.114-138</ref>。

=== 三度目・四度目の訪日 ===
[[File:Meiji Gakuin University Imbrie-kan.jpg|right|275px|thumb|[[明治学院大学]]白金キャンパス内に建つ「[[インブリー館]]」。1897年(明治30年)から1922年(大正11年)までインブリー夫妻が暮らした]]
1897年5月31日にサンフランシスコを出港したインブリー夫妻は6月14日に再び横浜の港に到着し、明治学院白金キャンパスの第4号宣教師館に入居して、直ちに明治学院神学部教授に就任した<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.153</ref>。[[ニューイングランド]]の住宅の伝統をよく表し、インブリー夫妻が住居としたこの館は現在は「インブリー館」の名で知られ、1998年([[平成]]10年)12月25日に国の[[重要文化財]]に指定されている<ref>{{cite web|url=http://www.meijigakuin.ac.jp/guide/imbrie/important.html|title=「インブリー館」国指定重要文化財に|publisher=[[明治学院大学|MeijiGakuin.ac.jp]]|accessdate=2015年8月17日}}</ref>。[[東京都]]内に現存する最古の宣教師館であり、日本では二番目の古さと言われている<ref>[[#三舩(2007年)|三舩(2007年)]] p.106</ref>。
{{main|インブリー館}}

[[第2次松方内閣]]は1899年(明治32年)7月(および8月)の[[条約改正|不平等条約改正]]実施に向けて法的整備を開始した<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.158</ref>。その一環として、[[文部省]]は1899年8月3日に学校教育における宗教教育の禁止を打ち出した「訓令12号」を発令したため、インブリーら宣教師は危機感を募らせて直ちに行動を起こした<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.163</ref>。彼らは井深梶之助ら日本の有力なキリスト者とともに、手分けをして[[内閣総理大臣]]の[[山縣有朋|山県有朋]]、[[伊藤博文]]、[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]の[[樺山資紀]]、[[貴族院議長]]の[[黒田清隆]]、[[衆議院議長]]の[[片岡健吉]]らと直接面談して法令の廃止を訴えた<ref>[[#中島, 辻, 大西(2003年)|中島, 辻, 大西(2003年)]] p.146</ref>。この努力が報われて徐々に文部省の法令適用が緩和され、1903年(明治36年)にはキリスト教主義諸学校は従来の権利を回復させることができた<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.181</ref>。

インブリーは在日ミッションを[[社団法人]]にするために総理大臣の[[桂太郎]]も含めた政府関係者との交渉を地道に続け、[[内務省]]を説得してついに1901年(明治34年)11月8日に「在日本プレスビテリアン宣教師社団」として社団法人設立許可を取得した。手始めに京浜の旧居留地に残るミッションの資産を評価1円にして最小の[[租税|税]]を納めて移管を終えた後、明治学院に無償譲渡するという以後の在日各教派の模範となる方式を実行している<ref name="中島, 辻, 大西147">[[#中島, 辻, 大西(2003年)|中島, 辻, 大西(2003年)]] p.147</ref><ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.206</ref>。
[[File:William Imbrie1909.jpg|right|250px|thumb|「[[宣教開始50年記念会]]」園遊会において(1909年10月9日)]]
[[日本国政府|大日本帝国政府]]は[[日露戦争]]が始まると[[ロシア帝国]]側の宣伝する「[[白人|白色人種]]と[[モンゴロイド|黄色人種]]」「キリスト教国と異教国」の戦争論に対し、国際社会に反論を示す必要が生じた<ref name="中島, 辻, 大西147" />。1904年(明治37年)5月中旬にインブリーは井深を[[通訳]]として同行させ、[[総理大臣官邸]]において総理大臣の桂太郎と面談した<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.235</ref>。インブリーは桂の意向を受けて彼との会談内容を即日、「{{Lang|en|AN INTERVIEW WITH COUNT KATSURA}}」(桂伯会見記)と題して4,000字の英文にまとめ、[[内閣総理大臣秘書官]]を務める[[中島久万吉]]に数日経ることなく郵送した<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.236</ref>。その後にこのコピーを[[イギリス]]およびアメリカ合衆国に送った<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.238</ref>。[[ロンドン]]ではまず『{{仮リンク|スペクテイター (雑誌)|en|The Spectator|label=スペクテイター}}』誌がこれを掲載し、続いて『[[タイムズ]]』紙も載せたと言われている<ref>[[#明治学院(1971年)|明治学院(1971年)]] p.87</ref>。インブリーと桂の会見記事はこの他にも欧米のいくつかの新聞に掲載され、その結果、桂のもとに直接海外の有力者から多くの激励の手紙が届くことになった<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.239</ref>。会見の内容が広く知れ渡ると、逆説的に日本は野蛮なロシアから{{仮リンク|文明におけるキリスト教会の役割|en|Role of the Christian Church in civilization|label=キリスト教文明}}を守る国と見られるまでになった<ref>[[#Kowner(2007年)|Kowner(2007年)]] p.155</ref>。

1904年6月29日に横浜を出航して一時帰国の途についた。1905年(明治38年)10月に[[ポーツマス条約]]の締結を見届けて日本に戻るが、その間に機会あるごとに桂の言葉も引用してアメリカのクリスチャンに対し、日本の立場を説明し続けた<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] pp.239-240</ref>。

1909年(明治42年)2月15日に日露戦争時の功績が評価され、[[明治天皇]]から[[旭日章]]の[[勲等|等級]]「勲4等旭日小綬章」を贈られた<ref name="中島, 辻, 大西148">[[#中島, 辻, 大西(2003年)|中島, 辻, 大西(2003年)]] p.148</ref>。翌1910年(明治43年)にスコットランドの[[エディンバラ]]で開催された[[エディンバラ宣教会議]]にはアメリカ合衆国長老教会の在日代表者として(井深らとともに)出席した<ref>[[#Stanley(2009年)|Stanley(2009年)]] p.232</ref>。

1917年([[大正]]6年)5月に4度目の一時帰国の途についた<ref name="明治">{{cite web|url=http://www.meijigakuin.ac.jp/guide/imbrie/lifetime.html|title=William Imbrieの生涯|publisher=MeijiGakuin.ac.jp|accessdate=2015年8月17日}}</ref>。

== 帰国と晩年 ==
1919年(大正8年)11月5日に明治学院神学部教授を辞任して[[名誉教授]]となった<ref name="明治" />。

1922年(大正11年)12月3日にインブリー夫妻は日本を離れ、その年の冬を[[カリフォルニア州]]で過ごした<ref name="中島, 辻, 大西148" />。翌1923年春から長男マルコムが住む[[シカゴ]]に移り、同地で余生を送っていたが、[[1928年]][[8月4日]]にシカゴ郊外の[[エバンストン (イリノイ州)|エバンストン]]にある病院で亡くなった。83歳没<ref name="中島, 辻, 大西148" />。イリノイ州{{仮リンク|スコキー (イリノイ州)|en|Skokie, Illinois|label=スコキー}}のメモリアルパーク墓地に[[埋葬]]された<ref name="中島, 辻, 大西148" />。夫人のエリザベスは1931年3月24日に次男チャールズの[[牧会]]の地である[[ニューヨーク州]][[キングストン (ニューヨーク州)|キングストン]]で亡くなり、夫の隣に埋葬された<ref>[[#中島, 辻, 大西(2003年)|中島, 辻, 大西(2003年)]] pp.148-149</ref>。

== 後世の評価 ==
中島耕二はウィリアム・インブリーが歴代訪日宣教師の中で最も明治期の日本の[[政治]]・[[外交]]と関わりを持った宣教師であったにも関わらず<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] pp.2-3</ref>、ほとんど研究対象になって来なかったため、彼に関する文献は関係者の思い出話などの新聞・雑誌記事を除き、管見の限りわずかに井深梶之助とウエンライトによる追悼文があるのみだと述べている<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.6</ref>。日本基督一致教会の正史である[[山本秀煌]]の『日本基督教会史』(1915年)で語られることがきわめて少なく、日本のプロテスタント史研究の基本文献である[[佐波亘]]の『植村正久と其の時代』(1938年)や小沢三郎の『幕末明治耶蘇教史研究』(1944年)、[[隅谷三喜男]]の『近代日本の形成とキリスト教』(1950年)および小沢三郎の『日本プロテスタント史研究』(1964年)と日本プロテスタント史の代表的通史である大内三郎の『日本プロテスタント史』(1970年)や土肥昭夫の『日本プロテスタント・キリスト教史』(1980年)においても彼の業績は一切言及されなかった<ref>[[#中島(2011年)|中島(2011年)]] p.70</ref>。

== 脚注 ==
{{Reflist|2}}

== 著書 ==
[[著作権]]が消滅しているため、著作はすべてインターネット上で閲覧可能となっている。
; 国立国会図書館のデジタルコレクション
* ''[{{NDLDC|825088}} 福音史 : 一名・基督言行録]'' [[東京一致神学校]](1884年)
* ''[{{NDLDC|825431}} 加拉太書註解]'' [[井深梶之助]](1892年)
* ''[{{NDLDC|825485}} 哥羅西書註解]'' [[高橋五郎 (翻訳家)|高橋五郎]](1893年)
* ''[{{NDLDC|824902}} 天の門]'' 基督教書類会社(1901年)
* ''[{{NDLDC|825116}} 古井の傍]'' 基督教書類会社(1901年)
* ''[{{NDLDC|824231}} 基督を何と思ふや]'' 基督教書類会社(1902年)
* ''[{{NDLDC|824400}} 基督略伝]'' 基督教書類会社(1902年)
* ''[{{NDLDC|824092}} 大なる法と大なる真]'' 基督教書類会社(1903年)
* ''[{{NDLDC|912478}} 基督教信仰要義]'' [[教文館]](1913年)
* ''[{{NDLDC|971069}} 腓立比書註解]'' 日本基督教興文協会(1923年)
* ''[{{NDLDC|971131}} ピリピ書註解]'' 日本基督教興文協会(1925年)
; アメリカの図書館のデジタルコレクション
* ''[https://archive.org/details/cu31924077073876 Handbook of English-Japanese Etymology]'' Tokyo: R. Meiklejohn.(1880年)
* ''[https://archive.org/details/churchofchristin00imbr The Church of Christ in Japan: A Course of Lectures]''. Philadelphia, Westminster Press.(1906年)
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== 参考文献 ==
; 書籍
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* {{Cite book|和書|author=[[池井優]]|title=白球太平洋を渡る―日米野球交流史|year=1976|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4121004475|ref=池井(1976年)}}
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* {{Cite book|author=Brian Stanley|title=The World Missionary Conference, Edinburgh 1910 (Studies in the History of Christian Missions)|year=2009|publisher=William B. Eerdmans Publishing Company|language=英語|isbn=978-0802863607|ref=Stanley(2009年)}}
; 論文
* {{Cite book|和書|author=茂義樹|date=1991年|title=「D・C・グリーンの手紙」[[梅花女子大学短期大学部|梅花短期大学]]研究紀要第'''39'''号 |ref=茂(1991年)}}
== 外部リンク ==
*{{Commonscat-inline|William Imbrie}}
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2015年9月3日 (木) 15:26時点における版

ウィリアム・インブリー

William Imbrie
ウィリアム・インブリーの肖像写真
生誕 (1845-01-01) 1845年1月1日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニュージャージー州ラーウェイ英語版
死没 (1928-08-04) 1928年8月4日(83歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イリノイ州エバンストン
墓地 イリノイ州スコキー英語版のメモリアルパーク墓地
出身校 コロンビア大学
プリンストン大学
プリンストン神学校
著名な実績 宣教師として日本キリスト教の布教活動を行った
宗教 キリスト教アメリカ合衆国長老教会
配偶者 エリザベス・ドリマス・ジュエル(1873 - 1928、インブリーの死
受賞 「勲4等旭日小綬章」(1909年)
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ウィリアム・インブリー英語: William Imbrie , 1845年1月1日 - 1928年8月4日)は、1875年明治8年)に日本を訪れて以後、40年以上もの長きにわたりキリスト教の布教活動を行ったアメリカ合衆国長老教会宣教師である。歴代訪日宣教師の中でも顕著な業績を残しているが、彼の業績について言及された文献はきわめて少ない。そのために「インブリー事件」の被害者として最もよく知られる。

生い立ち

ウィリアム・インブリーは1845年1月1日アメリカ合衆国ニュージャージー州ラーウェイ英語版第一長老教会牧師館で父のチャールズ・キッセルマン・インブリー(1814–1891)と母のエリザベス・ミラー・インブリー(1815–1891)の長男として生まれた[1]。両親ともにスコットランド出身の祖先を持つスコットランド系アメリカ人英語版(父方の祖母の祖先はイングランド出身)である[2]。姉1人と弟2人がいたが、末弟のジョンは生後間もなく亡くなった[3]。7歳になって間もなく、父のチャールズは同じニュージャージー州のジャージーシティ第一長老教会に転任となり、一家はマンハッタン島対岸の市街地区へ転居した[4]。チャールズは定年となる1888年まで40年近く第一長老教会の牧師を務めた[5]

姉や弟とともにチャールズから初等教育を受け、10歳になるとマンハッタン島のグリニッジ・ヴィレッジにあるクッケンボス・スクールに通い始めた[4]。1858年にチャールズの教会で信仰告白を体験した[4]。クッケンボス・スクールを卒業後、同じマンハッタン島にある監督教会(アメリカ聖公会系)のコロンビア大学に入学した[4]。コロンビア大学で2年間過ごした後、1863年9月にプリンストン大学の1865年クラスに編入し、寄宿舎生活を始めた[4]南北戦争が終結した2か月後の1865年6月にプリンストン大学を最優秀で卒業した[6]

実業界から教職界へ

プリンストン神学校のアルバムより

プリンストン大学を卒業した後はウォール街証券会社に就職し、次いでペンシルベニア鉄道会社に転職したが、長続きせずにどちらも半年で辞めた[7]。父と同様に教職者を志すことを決意し、1年間入学試験の準備を行った後、1867年秋にプリンストン神学校に入学した[7]。神学校の同級生には従兄のエドワード・ローゼイ・ミラー、のちに在日ミッションの同僚となるオリバー・マクリーン・グリーンらがいた[8]。インブリーは1870年クラスを首席で卒業した[9]

1871年4月18日にジャージーシティ長老教会で按手礼を受けた後しばらくはチャールズの教会で奉仕活動を続け、その間に1873年9月9日にチャールズの司式により同教会信徒で実業家の娘のエリザベス・ドリマス・ジュエル(1845–1931)との結婚式をあげた[10]。同年10月8日にジャージーシティ長老会からニュージャージー州レイクビュー長老教会の牧師に任命された[10]。従弟のミラーはプリンストン神学校の専門研究科を修了した後、1872年4月1日にジャージーシティ長老会から日本派遣の宣教師に任命され、その2か月後に単身で日本を目指して出発した[11]

ミラーが日本に派遣されて3年後、長老教会海外伝道局からチャールズを経由してインブリーのもとに宣教師として日本に赴任するよう要請が届き[10]、これを受けて彼は1875年1月にレイクビュー長老教会牧師の任を解かれた[12]。同年6月21日に海外伝道局は宣教師派遣選考委員会を開き、インブリーの日本派遣を正式に決定した[13]アメリカ合衆国長老教会では宣教師の派遣は本人の所属する長老会が任命していたが、インブリーに限っては例外的に海外伝道局が直接任命したいわばお墨付きであった[11][13](インブリーの父親は海外伝道局の理事も務めていた[14])。

1875年8月末に、インブリーとエリザベス夫人はジャージーシティを出発し、大陸横断鉄道に乗って西へと移動し、サンフランシスコからパシフィック・メール汽船会社英語版所有の汽船『チャイナ』号に乗船し日本へと向かった[13]

日本での宣教師活動

最初の訪日

インブリー夫妻を乗せた汽船は1875年(明治8年)9月26日に横浜港に到着した[15]。インブリーにとってこの日のことはとても印象深かったようで、彼は後年に「私は初めて日本の陸地を眼にした時のことを決して忘れません。(中略)私は過去と未来に思いを走らせ、私の前におかれた人生を心に描いてみました。それは私が今まで描いていた人生とはかなり異なるものでした」と述懐している[16]。夫妻はすぐに従兄のミラーの好意で、横浜市山手にあるミラー夫妻が少し前まで住んでいた彼らの持ち家に落ち着いた[17][18]。しばらく横浜に滞在した後、翌1876年(明治9年)1月初めに、東京築地にある外国人居留地相対借地域の南小田原町四丁目五番地の日本家屋に転居した[19]。同年5月に「Jesus」の日本語表記問題で特別宣教師会議の決定を不服として在日ミッション宣教師を辞任したクリストファー・カロザースとその妻のジュリア・カロザースが退去した後の[20]、「ショッキングなほど汚い」築地居留地六番Aの宣教師館に入居した[21]

1877年(明治10年)9月17日にアメリカ合衆国長老派教会、アメリカ・オランダ改革派教会スコットランド一致長老教会の在日3ミッションが合同して長老主義にもとづく日本基督一致教会を創立することが決定したが、その合同事業を主導したのがインブリーだった[22]。日本に到着してから2年足らずのうちに「教会の統一」を成し遂げた彼の手腕に対し、ジェームズ・カーティス・ヘボンをはじめ関係ミッションすべての宣教師が称賛を与えた[23]

さらにインブリーが作成に参画した報告書に従い、1877年10月7日に合同神学校東京一致神学校が開校し、彼自身も「新約聖書釈義」と「キリスト伝」の教育を担当した[24]。専任教授の一人として日本人教職者を養成するため神学教育に多くの時間を割いた[25]。3年後の1880年(明治13年)4月26日に築地大学校が築地居留地七番に移転し、その筆頭教授を兼務することになった[26]

推進した諸事業が軌道に乗り出したので海外伝道局に賜暇休暇を願い出て、インブリー一家は1883年(明治16年)10月23日に『シティー・オブ・ペキン』号に乗って横浜を後にし、アメリカ本国に一時帰国した。この際、夫婦の他に4歳の長男マルカムと2歳の次男チャールズも一緒であった[27]。インブリーは休暇の最中に東京一致神学校で講義してきたキリスト伝をまとめて1884年9月に『The Life of Christ』(井深梶之助訳『福音史 一名基督言行録』)という題で、東京一致神学校から出版した[28]。これに先立つ同年6月、日本における宣教師としての顕著な働きをたたえて母校のプリンストン大学から名誉神学博士号を授与された[28]

二度目の訪日

1885年(明治18年)7月にインブリー一家は1年9か月の休暇を終えて日本に戻り、もとの住まいの築地居留地一六番の宣教師館に落ち着いた[28]

1887年(明治20年)1月19日に東京府より、東京一致神学校、東京一致英和学校、英和予備校を統合した一大カレッジとなる明治学院の設置の認可が下りた[28]。インブリーは学院設立の最も重要な会計委員を務め、専門学部と邦語神学部の教授に就任して新約聖書注解と教会政治を担当した[29]

日本基督一致教会と日本組合基督教会合同の機運が高まると、インブリーは合併草案の作成委員長および「日本聯合基督教会」草案細条目編成委員長として2年間にわたる両派の合同実現の運動を主導したが、新島襄らが教会合同に強い反対を示したことから組合教会内の反対勢力の意見が強まり、1889年(明治22年)5月に両教会の合同は不成立の結論に達した[30]。日本基督一致教会は合同の可能性がなくなると、憲法草案作成委員長インブリーが日本人教職者を指導して従来のミッション主導による教会政治体制から日本人のキリスト教会独自の教会憲法作成に動き出した。1890年(明治23年)12月3日と4日に開催された一致教会第6回大会では新憲法が採択され、同時に教会の名称を日本基督教会と改めた[31]。この時に採択されたインブリーが起草した信仰告白文は長く影響力を保ち続け、1953年(昭和28年)の「日本基督教会信仰の告白」や1954年(昭和29年)の「日本基督教団信仰告白」も同じような形式で制定されている[32]

インブリーは今後の教勢拡張は外国人宣教師の手に委ねるのではなく、日本人キリスト者自らが行うべきだと考えた[33]。彼は日本に派遣される際に海外伝道局から与えられた宣教師としてのすべての使命を果たしたことを実感し、成長する息子たちの教育という理由も重なり、日本における奉仕に終止符を打ってアメリカ本国に帰国することを決意した。1893年(明治26年)4月29日に一家4人は『オセアニック』号に乗って横浜の港を後にした[34]

アメリカに戻った一家はニュージャージー州ローレンスビル英語版にあるローレンスビル・スクールの教員住宅に落ち着き、帰国後のインブリーはそこから各地の長老会議に呼ばれて講演や説教を行い、母校のプリンストン神学校で連続講義の講師を依頼されたり、伝道局会議に出席したりと多忙な日々を送った[35]

田村直臣が1893年の再渡米に際し、英文で出版した『日本の花嫁』はキリスト教から見た日本の結婚制度や家庭における女性の地位の低さについて書かれたものであるが、国粋主義の風潮が急激に高まる日本の各新聞・雑誌からその内容が繰り返し非難され、ついには所属する日本基督教会も弾劾裁判を開いて1894年(明治27年)7月6日に彼の牧師の資格を剥奪するという判決を下した。インブリーはこの裁判に先立ちコメントを裁判に提出したいと依頼状を送ってきた田村に対し、1894年5月14日付けで「この著書は刺激的ではあるけれども、日本を侮辱する意図のもとに、あるいは記述の内容が偽りであることを承知の上で書かれたとは思っていない」とアメリカから返事を書いて田村の著作に理解を示している[36]

息子のマルコムとチャールズの二人がそれぞれ17歳と15歳に成長し、希望するプリンストン大学への進学に目処がついてきたことから、インブリーは再び日本を訪れる決心をした[37]

ノルマントン号事件

1886年(明治19年)10月24日イギリス船籍の貨物船『ノルマントン』号が暴風に遭い、座礁して沈没したさい、イギリス人乗組員全員が救命ボートで脱出して助かる一方で、乗客である日本人25人全員が溺死するという「ノルマントン号事件」が起こり、11月5日の神戸駐在の在日イギリス領事による海難審判船長ジョン・ウイリアム・ドレークが無過失と判定されたため、この判定は不平等条約による領事裁判権がもたらしたものとして日本国民の激昂を招いた[38]

この事件で在京浜プロテスタント宣教師を代表してスポークスパーソン的な役割を果たしたのがインブリーだった。11月16日に在京浜の宣教師90余名は彼の名のもとに日本人犠牲者の遺族に対する義捐金を拠出して哀悼の意を表明した[39]。また、彼はその8日後に事件に対する見解を公表するよう求めた福澤諭吉の要請に90余名を代表して『時事新報』紙上で回答を行い、福澤の指摘するイギリス人乗組員の「不思議不徳義」を全面的に肯定した[40]

インブリー事件

第一高等中学校ベースボール会対明治学院白金倶楽部のベースボールの試合[41]1890年5月17日向ヶ丘のグラウンドで行われた。興味を持って応援に駆けつけたインブリーが試合開始時間に遅れて到着したために入り口がわからず垣根をまたいでグラウンドに入ったところ、一高応援団が直ちに彼を取り囲み、押し問答を繰り返すうちに、生徒の一人が凶器で彼の顔面に重傷を負わせる事件が発生した[42]。この「インブリー事件」に在日外国人の世論が沸騰し、ついには駐日アメリカ全権公使ジョン・F・スウィフト英語版外務省に正式に抗議したために公式に日米間の外交問題となった。しかしながら、陳謝する一中当局者に対してインブリーも率直に自分の非礼をわびて簡単に謝罪し、なおかつ彼が終始穏便に済ませようとしたこともあり、問題の拡大は回避された[43]大和球士はこの事件を「明治野球史上の大事件」と位置付けており[44]、中島耕二も『近代日本の外交と宣教師』(2011年)の中で24ページを割いて紹介している[45]

三度目・四度目の訪日

明治学院大学白金キャンパス内に建つ「インブリー館」。1897年(明治30年)から1922年(大正11年)までインブリー夫妻が暮らした

1897年5月31日にサンフランシスコを出港したインブリー夫妻は6月14日に再び横浜の港に到着し、明治学院白金キャンパスの第4号宣教師館に入居して、直ちに明治学院神学部教授に就任した[46]ニューイングランドの住宅の伝統をよく表し、インブリー夫妻が住居としたこの館は現在は「インブリー館」の名で知られ、1998年(平成10年)12月25日に国の重要文化財に指定されている[47]東京都内に現存する最古の宣教師館であり、日本では二番目の古さと言われている[48]

第2次松方内閣は1899年(明治32年)7月(および8月)の不平等条約改正実施に向けて法的整備を開始した[49]。その一環として、文部省は1899年8月3日に学校教育における宗教教育の禁止を打ち出した「訓令12号」を発令したため、インブリーら宣教師は危機感を募らせて直ちに行動を起こした[50]。彼らは井深梶之助ら日本の有力なキリスト者とともに、手分けをして内閣総理大臣山県有朋伊藤博文文部大臣樺山資紀貴族院議長黒田清隆衆議院議長片岡健吉らと直接面談して法令の廃止を訴えた[51]。この努力が報われて徐々に文部省の法令適用が緩和され、1903年(明治36年)にはキリスト教主義諸学校は従来の権利を回復させることができた[52]

インブリーは在日ミッションを社団法人にするために総理大臣の桂太郎も含めた政府関係者との交渉を地道に続け、内務省を説得してついに1901年(明治34年)11月8日に「在日本プレスビテリアン宣教師社団」として社団法人設立許可を取得した。手始めに京浜の旧居留地に残るミッションの資産を評価1円にして最小のを納めて移管を終えた後、明治学院に無償譲渡するという以後の在日各教派の模範となる方式を実行している[53][54]

宣教開始50年記念会」園遊会において(1909年10月9日)

大日本帝国政府日露戦争が始まるとロシア帝国側の宣伝する「白色人種黄色人種」「キリスト教国と異教国」の戦争論に対し、国際社会に反論を示す必要が生じた[53]。1904年(明治37年)5月中旬にインブリーは井深を通訳として同行させ、総理大臣官邸において総理大臣の桂太郎と面談した[55]。インブリーは桂の意向を受けて彼との会談内容を即日、「AN INTERVIEW WITH COUNT KATSURA」(桂伯会見記)と題して4,000字の英文にまとめ、内閣総理大臣秘書官を務める中島久万吉に数日経ることなく郵送した[56]。その後にこのコピーをイギリスおよびアメリカ合衆国に送った[57]ロンドンではまず『スペクテイター』誌がこれを掲載し、続いて『タイムズ』紙も載せたと言われている[58]。インブリーと桂の会見記事はこの他にも欧米のいくつかの新聞に掲載され、その結果、桂のもとに直接海外の有力者から多くの激励の手紙が届くことになった[59]。会見の内容が広く知れ渡ると、逆説的に日本は野蛮なロシアからキリスト教文明英語版を守る国と見られるまでになった[60]

1904年6月29日に横浜を出航して一時帰国の途についた。1905年(明治38年)10月にポーツマス条約の締結を見届けて日本に戻るが、その間に機会あるごとに桂の言葉も引用してアメリカのクリスチャンに対し、日本の立場を説明し続けた[61]

1909年(明治42年)2月15日に日露戦争時の功績が評価され、明治天皇から旭日章等級「勲4等旭日小綬章」を贈られた[62]。翌1910年(明治43年)にスコットランドのエディンバラで開催されたエディンバラ宣教会議にはアメリカ合衆国長老教会の在日代表者として(井深らとともに)出席した[63]

1917年(大正6年)5月に4度目の一時帰国の途についた[64]

帰国と晩年

1919年(大正8年)11月5日に明治学院神学部教授を辞任して名誉教授となった[64]

1922年(大正11年)12月3日にインブリー夫妻は日本を離れ、その年の冬をカリフォルニア州で過ごした[62]。翌1923年春から長男マルコムが住むシカゴに移り、同地で余生を送っていたが、1928年8月4日にシカゴ郊外のエバンストンにある病院で亡くなった。83歳没[62]。イリノイ州スコキー英語版のメモリアルパーク墓地に埋葬された[62]。夫人のエリザベスは1931年3月24日に次男チャールズの牧会の地であるニューヨーク州キングストンで亡くなり、夫の隣に埋葬された[65]

後世の評価

中島耕二はウィリアム・インブリーが歴代訪日宣教師の中で最も明治期の日本の政治外交と関わりを持った宣教師であったにも関わらず[66]、ほとんど研究対象になって来なかったため、彼に関する文献は関係者の思い出話などの新聞・雑誌記事を除き、管見の限りわずかに井深梶之助とウエンライトによる追悼文があるのみだと述べている[67]。日本基督一致教会の正史である山本秀煌の『日本基督教会史』(1915年)で語られることがきわめて少なく、日本のプロテスタント史研究の基本文献である佐波亘の『植村正久と其の時代』(1938年)や小沢三郎の『幕末明治耶蘇教史研究』(1944年)、隅谷三喜男の『近代日本の形成とキリスト教』(1950年)および小沢三郎の『日本プロテスタント史研究』(1964年)と日本プロテスタント史の代表的通史である大内三郎の『日本プロテスタント史』(1970年)や土肥昭夫の『日本プロテスタント・キリスト教史』(1980年)においても彼の業績は一切言及されなかった[68]

脚注

  1. ^ 中島, 辻, 大西(2003年) p.130
  2. ^ 中島(2011年) pp.16-22
  3. ^ 中島(2011年) p.23
  4. ^ a b c d e 中島(2011年) p.24
  5. ^ 中島(2011年) p.22
  6. ^ 中島, 辻, 大西(2003年) p.132
  7. ^ a b 中島(2011年) p.27
  8. ^ 中島(2011年) p.29
  9. ^ 茂(1991年) p.131
  10. ^ a b c 中島(2011年) p.30
  11. ^ a b 中島, 辻, 大西(2003年) p.134
  12. ^ 中島(2011年) p.32
  13. ^ a b c 中島(2011年) p.35
  14. ^ 中島(2011年) p.31
  15. ^ 中島(2011年) pp.71-72
  16. ^ インブリー(1982年) p.9
  17. ^ 中島, 辻, 大西(2003年) p.135
  18. ^ 中島(2011年) p.72
  19. ^ 中島(2011年) p.73
  20. ^ 中島(2011年) pp.73-75
  21. ^ 中島, 辻, 大西(2003年) p.137
  22. ^ 中島(2011年) p.80
  23. ^ 中島, 辻, 大西(2003年) p.138
  24. ^ 中島(2011年) p.81
  25. ^ 中島(2011年) p.85
  26. ^ 中島(2011年) p.84
  27. ^ 中島, 辻, 大西(2003年) pp.140-141
  28. ^ a b c d 中島(2011年) p.86
  29. ^ 中島(2011年) p.87
  30. ^ 中島(2011年) p.88
  31. ^ 中島, 辻, 大西(2003年) p.144
  32. ^ インブリー(1982年) p.123(五十嵐喜和「あとがき」)
  33. ^ インブリー(1982年) pp.102-103
  34. ^ 中島(2011年) p.146
  35. ^ 中島(2011年) p.147
  36. ^ 中島(2011年) pp.149-150
  37. ^ 中島(2011年) p.152
  38. ^ 中島(2011年) pp.101-102
  39. ^ 中島(2011年) p.107
  40. ^ 中島(2011年) pp.105-106
  41. ^ 大和(1977年) pp.39-40
  42. ^ 中島, 辻, 大西(2003年) p.143
  43. ^ 池井(1976年) pp.31-33
  44. ^ 大和(1977年) p.33
  45. ^ 中島(2011年) pp.114-138
  46. ^ 中島(2011年) p.153
  47. ^ 「インブリー館」国指定重要文化財に”. MeijiGakuin.ac.jp. 2015年8月17日閲覧。
  48. ^ 三舩(2007年) p.106
  49. ^ 中島(2011年) p.158
  50. ^ 中島(2011年) p.163
  51. ^ 中島, 辻, 大西(2003年) p.146
  52. ^ 中島(2011年) p.181
  53. ^ a b 中島, 辻, 大西(2003年) p.147
  54. ^ 中島(2011年) p.206
  55. ^ 中島(2011年) p.235
  56. ^ 中島(2011年) p.236
  57. ^ 中島(2011年) p.238
  58. ^ 明治学院(1971年) p.87
  59. ^ 中島(2011年) p.239
  60. ^ Kowner(2007年) p.155
  61. ^ 中島(2011年) pp.239-240
  62. ^ a b c d 中島, 辻, 大西(2003年) p.148
  63. ^ Stanley(2009年) p.232
  64. ^ a b William Imbrieの生涯”. MeijiGakuin.ac.jp. 2015年8月17日閲覧。
  65. ^ 中島, 辻, 大西(2003年) pp.148-149
  66. ^ 中島(2011年) pp.2-3
  67. ^ 中島(2011年) p.6
  68. ^ 中島(2011年) p.70

著書

著作権が消滅しているため、著作はすべてインターネット上で閲覧可能となっている。

国立国会図書館のデジタルコレクション
アメリカの図書館のデジタルコレクション

参考文献

書籍
  • 中島耕二、辻直人、大西晴樹『長老・改革教会来日宣教師事典 (日本キリスト教史双書)』新教出版社、2003年。ISBN 978-4400227403 
  • 中島耕二『近代日本の外交と宣教師』吉川弘文館、2011年。ISBN 978-4642038096 
  • William Imbrie『日本伝道事始め : 日本キリスト教会史話』日本基督教会歴史編纂委員会、1982年。 NCID BN06353701 
  • 池井優『白球太平洋を渡る―日米野球交流史』中央公論新社、1976年。ISBN 978-4121004475 
  • 大和球士『真説日本野球史 明治篇』ベースボール・マガジン社、1977年。ISBN 978-4583017716 
  • 三舩康道『出会いたい東京の名建築―歴史ある建物編』新人物往来社、2007年。ISBN 978-4404034977 
  • 『井深梶之助とその時代〈第3巻〉』明治学院、1971年。ASIN B000J9AQWO 
  • Rotem Kowner (2007) (英語). 「White Mongols? The war and American discourses on race and religion」The Impact of the Russo-Japanese War (Routledge Studies in the Modern History of Asia). Routledge. ISBN 978-0415368247 
  • Brian Stanley (2009) (英語). The World Missionary Conference, Edinburgh 1910 (Studies in the History of Christian Missions). William B. Eerdmans Publishing Company. ISBN 978-0802863607 
論文
  • 茂義樹『「D・C・グリーンの手紙」梅花短期大学研究紀要第39号』1991年。 

外部リンク