「ポール・セザンヌ」の版間の差分
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'''ポール・セザンヌ'''({{Lang|fr|Paul Cézanne}} |
'''ポール・セザンヌ'''({{Lang|fr|Paul Cézanne}}, [[1839年]][[1月19日]] - [[1906年]][[10月22日]]([[10月23日]]説もある<ref group="注釈">近年(特に[[1993年]]以降)の文献では、死没日を10月23日とするものが多くなっている。[[#浅野|浅野 (2000: 68)]] は、最近の調査で死亡時刻が10月23日午前7時であったことが判明したと指摘している。また、[[#ルイス|ルイス (2005: 339)]] は、セザンヌの墓碑に記された10月22日という死没日は誤記であるとしている。</ref>))は、[[フランス]]の[[画家]]。当初は[[クロード・モネ]]や[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]らとともに[[印象派]]のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。[[ポスト印象派]]の画家として紹介されることが多く、[[キュビスム]]をはじめとする[[20世紀美術|20世紀の美術]]に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。 |
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後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えた。 |
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彼の肖像はその作品と共に[[ユーロ]]導入前の最後の100[[フランス・フラン]]紙幣に描かれていた。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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南フランスの[[エクス=アン=プロヴァンス]]に、銀行家の父の下に生まれた。中等学校で下級生だった[[エミール・ゾラ]]と親友となった。当初は、父の希望に従い、法学部に通っていたが、先にパリに出ていたゾラの勧めもあり、1861年、絵を志してパリに出た(→''[[#出生から学生時代]]'')。パリで、後の[[印象派]]を形作る[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]や[[クロード・モネ|モネ]]、[[ピエール=オーギュスト・ルノワール|ルノワール]]らと親交を持ったが、この時期の作品はロマン主義的な暗い色調のものが多い。サロンに応募したが、落選を続けた。1869年、後に妻となるオルタンス・フィケと交際を始めた(→''[[#画家としての出発(1860年代)]]'')。ピサロと戸外での制作をともにすることで、明るい印象主義の技法を身につけ、第1回と第3回の印象派展に出展したが、厳しい批評が多かった(→''[[#印象主義の時代(1870年代)]]'')。1879年頃から、制作場所を故郷のエクスに移した。印象派を離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画を追求するようになった。友人の伝手を頼りに1882年に1回サロンに入選したほかは、公に認められることはなかったが、若い画家や批評家の間では、徐々に評価が高まっていった。他方、長年の親友だったゾラが1886年に小説『作品』を発表した頃から、彼とは疎遠になった(→''[[#エクスでの隠遁生活(1880年代)]]'')。1895年に画商[[アンブロワーズ・ヴォラール]]がパリで開いたセザンヌの個展が成功し、パリでも知られるようになった(→''[[#個展の成功(1895年)]]'')。晩年までエクスで制作を続け、若い画家たちが次々と彼のもとを訪れた。その1人、エミール・ベルナールに述べた「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、後のキュビスムにも影響を与えた言葉として知られる。1906年、制作中に発病した肺炎で死亡した(→''[[#最晩年(1900年 - 1906年)]]'')。 |
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セザンヌは[[カミーユ・ピサロ|ピサロ]]ら印象派の画家とも交流があり、1874年の第1回印象派展にも出品しているが、やがて印象派のグループから離脱し、故郷の南仏・[[エクス=アン=プロヴァンス]]のアトリエで独自の探求を続けていた。印象派の絵画が、[[ジャン=バティスト・カミーユ・コロー|コロー]]、[[ギュスターヴ・クールベ|クールベ]]らに連なる写実主義の系譜上にあるのに対し、セザンヌは自然の模倣や再現から離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画世界を構築しようとした。 |
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セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことであった。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、没後の1907年、[[サロン・ドートンヌ]]で開催されたセザンヌの回顧展は後の世代に多大な影響を及ぼした。この展覧会を訪れた画家としては、[[パブロ・ピカソ]]、[[ジョルジュ・ブラック]]、[[フェルナン・レジェ]]、[[アンリ・マティス]]らが挙げられる。 |
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[[ファイル:Cézanne Nature morte au panier.jpg||thumb|240px|right|『台所のテーブル』(1889頃) [[オルセー美術館]]]] |
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セザンヌは風景、人物、静物のいずれの画題の作品も多数手がけている。初期の作品には[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]の影響が強く、ロマン主義的な傾向もみられたが、後半生に繰り返し描いた故郷の山・サント=ヴィクトワール山の風景や、晩年に描いた水浴群像などには主題に伴う物語性は希薄で、平面上に色彩とボリュームとからなる秩序だった世界を構築すること自体が目的となっている。西洋の伝統的絵画においては、線遠近法という技法が用いられ、事物は固定された単一の視点から眺められ、遠くに位置する事物ほど、画面上では小さく描かれるのが常であった。これに対し、セザンヌの作品では、複数の異なった視点から眺められたモチーフが同一画面に描き込まれ、モチーフの形態は単純化あるいはデフォルメされている。『台所のテーブル』を見ると、果物籠の上部の果物は斜め上から見下ろしているが、籠の側面は真横から描かれている。テーブル上のショウガ壺と砂糖壺・水指しは異なった視点から描かれている。テーブル面の角度やテーブルの手前の縁が描く線はテーブルクロスの右と左とでは異なっており、テーブル上、右端の梨は不釣合いに大きい<ref>ベックス=マローニー、2001、pp55 - 57及びボルゲージ、2007、pp96 - 97</ref>。こうした、西洋絵画の伝統的な約束事から離れた絵画理論は後の世代の画家たちに多大な影響を与えた。[[モーリス・ドニ]]は1900年に『セザンヌ礼賛』という絵を描いており、[[エミール・ベルナール (画家)|エミール・ベルナール]]は、1904年にエクスのセザンヌのもとに1か月ほど滞在し、後に『回想のセザンヌ』という著書でセザンヌの言葉を紹介している。 |
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後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えた。 |
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セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことであった。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、没後の1907年、[[サロン・ドートンヌ]]で開催されたセザンヌの回顧展(出品作品56点)は後の世代に多大な影響を及ぼした。この展覧会を訪れた画家としては、[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]、[[ジョルジュ・ブラック|ブラック]]、[[フェルナン・レジェ|レジェ]]、[[アンリ・マティス|マティス]]らが挙げられる。また、詩人の[[ライナー・マリア・リルケ|リルケ]]は、当時滞在していたパリでこの展覧会を鑑賞し、その感動を妻あての書簡に綴っている。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 出生から学生時代 === |
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{{Image label begin |width=300 |image=France Regions et departements.png |float=right}} |
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[[1839年]]1月19日、ポール・セザンヌは南フランスの[[エクス=アン=プロヴァンス]]に生まれた<ref name="Lindsay6">Lindsay (1969: 6)。</ref>。同年2月22日、教区の教会で[[洗礼]]を受けた<ref name="Lindsay6" />。父のルイ=オーギュスト・セザンヌ(1798年-1886年)は、[[銀行]]の共同創設者であり、このため、ポールは画家になってからも、同時代の画家たちには望むべくのない財政的支援を父から受けることができ、また後には多大な遺産を受け継ぐことができた<ref name="Biography.com">{{Cite web |url=http://www.biography.com/articles/Paul-Cezanne-9542036 |title=Paul Cézanne Biography (1839–1906) |accessdate=2013-09-28 |work=Biography.com}}</ref>。母アン・エリザベス・オノリーヌ・オベール(1814年-1897年)は、快活でロマンチストだが、気が短い女性で、ポールの想像力は母から受け継いだものと言われている<ref>Vollard (1984: 16)。</ref>。ポールには2人の妹、マリーとローズがおり、妹たちと一緒に小学校に通っていた<ref name="Lindsay6" />。 |
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{{Image label small |scale=300 |x=0.52 |y=0.25 |text=[[ファイル:Red pog.svg|6px]][[パリ]]}} |
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{{Image label small |scale=300 |x=0.72 |y=0.73 |text=[[ファイル:Red pog.svg|6px]][[エクス=アン=プロヴァンス|エクス]]}} |
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{{Image label small |scale=300 |x=0.50 |y=0.23 |text=[[ファイル:Red pog.svg|6px]][[ポントワーズ]]}} |
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{{Image label end}} |
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[[1839年]]1月19日、ポール・セザンヌは、南フランスの[[エクス=アン=プロヴァンス]]に生まれた。同年2月22日、教区の教会で[[洗礼]]を受けた。父のルイ=オーギュスト・セザンヌ(1798年-1886年)は、最初は帽子の行商人であったが、商才があり、地元の[[銀行]]を買収して銀行経営者となった成功者であった<ref>[[高階|高階・上 (1975: 124)]]。</ref>。母アンヌ=エリザベート・オーベール(1814年-1897年)は、エクスの椅子職人の娘で、もともとルイ=オーギュストの使用人であった。セザンヌの出生時には2人は[[内縁]]関係にあり、1841年に妹マリーが生まれた後、[[1844年]]に入籍した。1854年、妹ローズが生まれた<ref>[[#新関|新関 (2000: 16)]]。</ref>。 |
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{{Multiple image |
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10歳の時、エクスのサン・ジョセフ校に入学した<ref>Machotka (1996: 9)。</ref>。1852年(13歳の時)、コレージュ・ブルボンに入り、そこで下級生だった[[エミール・ゾラ]]と友達になった<ref name="Biography.com" /><ref>Vollard (1984: 14)。</ref>。パリ生まれのゾラはエクスではよそ者で、級友から除け者にされていた。ある時セザンヌがゾラに親しく話しかけたため、級友と喧嘩になる。その翌日、ゾラはセザンヌにリンゴを1籠贈り、これが縁で親友になったというエピソードがある。もう1人の少年バティスタン・バイユ(後に[[天文学者]])も併せた3人は、親友として絆を深めた<ref>{{cite web|url=http://www.nga.gov/exhibitions/2006/cezanne/chronology2.shtm |title=National Gallery of Art timeline |publisher=Nga.gov |accessdate=2013-09-28}}</ref>。同校に6年間在籍する間、[[1857年]]にエクスの市立素描学校に通い始め、ジョセフ・ジベールに素描を習った<ref>Gowing (1988: 215)。</ref>。1858年から1861年まで、父の希望に従い、[[エクス=マルセイユ大学|エクス大学]]の法学部に通い、同時に素描の勉強も続けていた<ref>Cézanne (1941: 10)。</ref>。 |
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| footer= 父の別荘ジャス・ド・ブッファンに描いた春・夏・冬・秋の壁画(1860年頃)。現在[[プティ・パレ|プティ・パレ美術館]]。 |
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| image1= Cézanne, Le Printemps.jpg | width1= 45 |
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| image2= Cézanne, L'Été.jpg | width2 = 50 |
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10歳の時、エクスのサン・ジョセフ校に入学した。[[1852年]](13歳の時)、ブルボン中等学校に入り、そこで下級生だった[[エミール・ゾラ]]と友達になった。パリ生まれで親を亡くしていたゾラは、エクスではよそ者で、級友からいじめられていた<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 14)]]。</ref>。セザンヌは、村八分を破ってゾラに話しかけたことで級友から袋叩きに遭い、その翌日、ゾラがリンゴの籠を贈ってきたというエピソードを、後に回想して語っている<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 24)]]。</ref>。もう1人の少年{{仮リンク|バティスタン・バイユ|en|Baptistin Baille}}(後に[[天文学者]])も併せた3人は、親友として絆を深めた<ref>{{Cite web|url=http://www.nga.gov/exhibitions/2006/cezanne/chronology2.shtm |title=National Gallery of Art timeline |publisher=Nga.gov |accessdate=2013-09-28}}</ref>。彼らは、散歩、水泳を楽しみ、[[ホメーロス]]、[[ウェルギリウス]]の詩、[[ヴィクトル・ユーゴー]]、[[アルフレッド・ド・ミュッセ]]への情熱を共有した<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 14-15)]]。</ref>。セザンヌは、同校に6年間在籍する間、[[1857年]]にエクスの市立素描学校に通い始め、ジョゼフ・ジベールに素描を習った<ref>[[#ルイス|ルイス (2005: 18)]]。</ref>。[[1858年]]から[[1861年]]まで、父の希望に従い、[[エクス=マルセイユ大学|エクス大学]]の法学部に通い、同時に素描の勉強も続けていた<ref>Cézanne (1941: 10)。</ref>。父が1859年に購入した別荘ジャス・ド・ブッファンの1階の壁画に、四季図と父の肖像画を描いた<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 29)]]。</ref>。 |
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セザンヌは、法律の勉強にはなじめず、次第に大学の勉強を怠けるようになった。[[1859年]]2月、ゾラがパリの母親のもとに発ち、残されたセザンヌは、ゾラとの文通を始め、詩や恋愛について語り合った<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 15-17)]]。</ref>。ゾラは、絵の道に進むかどうか迷うセザンヌに、早くパリに出てきて絵の勉強をするようにと繰り返し勧めている。ゾラからセザンヌ宛ての手紙には「勇気を持て。まだ君は何もしていないのだ。僕らには理想がある。だから勇敢に歩いていこう。」、「僕が君の立場なら、アトリエと法廷の間を行ったり来たりすることはしない。弁護士になってもいいし、絵描きになってもいいが、絵具で汚れた法服を着た、骨無し人間にだけはなるな。」とあった。 |
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=== 画家としての出発(1860年代) === |
=== 画家としての出発(1860年代) === |
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[[ファイル:Paul cezanne 1861.jpg|thumb|right|160px|1861年頃(22歳頃)の写真。]] |
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セザンヌは、ゾラの勧めもあって、大学を中退し、絵の勉強をするために[[1861年]]4月にパリに出た。[[ルーヴル美術館]]で[[ディエゴ・ベラスケス]]や[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]の絵に感銘を受けた。しかし、美術学校への入学が断られたため、その年のうちにエクスに帰り、父の銀行で働きながら、美術学校に通った<ref name="Biography.com" />。銀行勤めはうまく行かず、[[1862年]]、再びパリを訪れ、アカデミー・シュイスで絵を勉強した。[[ロマン主義]]の[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]、[[写実主義]]の[[ギュスターヴ・クールベ]]、のちに[[印象派]]の父と呼ばれる[[エドゥアール・マネ]]らから影響を受けた<ref name="Biography.com" />。この時期(1860年代)の作品は、ロマン主義的な暗い色調のものが多い。 |
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セザンヌは、ゾラの勧めもあって、大学を中退し、絵の勉強をするために[[1861年]]4月に[[パリ]]に出た。[[ルーヴル美術館]]で[[ディエゴ・ベラスケス|ベラスケス]]や[[ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ|カラヴァッジオ]]の絵に感銘を受けた。しかし、官立の美術学校([[エコール・デ・ボザール]])への入学が断られたため、画塾{{仮リンク|アカデミー・シュイス|en|Académie Suisse}}に通った。ここで、[[カミーユ・ピサロ]]や[[アルマン・ギヨマン]]と出会った<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 22)]]。</ref>。朝はアカデミー・シュイスに通い、午後はルーヴル美術館か、エクス出身の画家仲間{{仮リンク|ジョセフ・ヴィルヴィエイユ|fr|Joseph Villevieille}}のアトリエでデッサンをしていたという。そのほか、ゾラや、同じくエクス出身の画家{{仮リンク|アシル・アンプレール|fr|Achille Empéraire}}と交友を持った<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 57-58)]]。</ref>。 |
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しかし同年9月にはエクスに帰り、父の銀行で働きながら、美術学校に通った。後年、セザンヌは、この時の話題には触れたがらなかったようである<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 67)]]。</ref>。銀行勤めはうまく行かず、翌[[1862年]]秋、再びパリを訪れ、アカデミー・シュイスで絵を勉強した。この時、[[クロード・モネ]]や[[ピエール=オーギュスト・ルノワール]]と出会ったようである<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 23)]]。</ref>。また、エクス出身の彫刻家で終生の友人となった{{仮リンク|フィリップ・ソラーリ|en|Philippe Solari}}とも知り合い、共同生活を送った<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 74-75)]]。</ref>。[[ロマン主義]]の[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]、[[写実主義]]の[[ギュスターヴ・クールベ]]、後に[[印象派]]の父と呼ばれる[[エドゥアール・マネ]]らから影響を受けた。この時期(1860年代)の作品は、[[ロマン主義]]的な暗い色調のものが多い。 |
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[[1863年]]、[[サロン・ド・パリ]]に応募したが落選し、同年開かれた[[落選展]]に出展した。翌1864年から1869年にかけても毎年サロンへの応募を繰り返したが、落選し続けた。 |
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[[1863年]]、[[ナポレオン3世]]が開いた[[落選展]]に、マネが『[[草上の昼食]]』を出品してスキャンダルを巻き起こし、セザンヌもこれを見たと思われるが、セザンヌ自身が出品した記録はない<ref group="注釈">ジョン・リウォルド『印象派の歴史』(1946年)に、セザンヌは落選展のカタログから漏れているが出品したと記載されていることから、これに従う文献もあるが、出品したという根拠や何を出品したかは示されておらず、近年はセザンヌは落選展を見ただけとする文献が多い。[[#新関|新関 (2000: 37, 330)]]。</ref>。[[1865年]]には、[[サロン・ド・パリ]]に応募したが、落選した。応募の時、ピサロに、「学士院の連中の顔を怒りと絶望で真っ赤にさせてやるつもりです」と書いている<ref>セザンヌのピサロ宛1865年3月15日付け書簡。[[#新関|新関 (2000: 148)]]。</ref><ref group="注釈">この年が、セザンヌがサロンに応募したことが資料上推定できる最初の年である。[[#新関|新関 (2000: 148)]]。</ref>。[[1866年]]5月には、文学の道を選んだゾラがサロン評をまとめた『わがサロン』を刊行し、その序文でセザンヌに触れるなど、ゾラとの強い友情は続いていた<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 25)]]。</ref>。セザンヌは、同年5月から8月まで、[[セーヌ川]]沿いの小村{{仮リンク|ベンヌクール|fr|Bennecourt}}で制作活動を行ったが、ここを訪れたゾラは、「セザンヌは仕事をしている。彼はその性格の赴くままに、ますます独創的な道を突き進んでいる。彼には大いに希望が持てるよ。とはいっても、彼は向こう10年は落選するだろうとも僕らは踏んでいるんだ。今、彼はいくつかの大作を、4メートルから5メートルはある画布の作品をやろうと目論んでいる。」と友人に報告している<ref>ゾラのニュマ・コスト宛1866年7月26日付け書簡。[[#新関|新関 (2000: 62-63)]]。</ref>。美術批評家としての地位を確立しつつあったゾラは、マネを囲む革新的画家がたむろする{{仮リンク|カフェ・ゲルボワ|en|Café Guerbois}}の常連となり、セザンヌもこれに加わった<ref>[[#新関|新関 (2000: 20-21)]]。</ref>。 |
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1865年頃に「カフェ・ゲルボワ」の常連たち(後の[[印象派]]グループ)と知り合い、とくに9歳年長の[[カミーユ・ピサロ]]と親しくなった。[[1869年]]、後に妻となるオルタンス・フィケ(当時19歳)と知り合い後に同棲するが、厳格な父を恐れ彼女との関係を隠し続けた。 |
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[[1869年]]、後に妻となる{{仮リンク|オルタンス・フィケ|en|Marie-Hortense Fiquet}}(当時18歳)と知り合い、後に同棲するが、厳格な父を恐れ彼女との関係を隠し続けた<ref>[[#新関|新関 (2000: 68)]]。</ref>。父からの月200[[フランス・フラン|フラン]]の仕送りで2人の生活を支えなければならず、経済的には苦しくなった<ref>[[#新関|新関 (2000: 231)]]。</ref>。 |
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[[1870年]]に[[普仏戦争]]が勃発したが、母がエクスから約30キロ離れ地中海に面した村[[エスタック]]に用意してくれた家にフィケとともに移り、兵役を逃れた<ref>オーグ (2000: 44-45)。</ref>。 |
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[[1870年]]のサロンには、画家仲間アシル・アンプレールを描いた肖像画を応募し、またも落選した<ref>[[#新関|新関 (2000: 156)]]。</ref>。この年の7月19日に[[普仏戦争]]が勃発したが、母がエクスから約30キロ離れ[[地中海]]に面した村[[エスタック]]に用意してくれた家にフィケとともに移り、兵役を逃れた<ref>[[#オーグ|オーグ (2000: 44-45)]]。</ref>。 |
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ファイル:Paul Cézanne 130.jpg|『「レヴェヌマン」紙を読む画家の父』1866年、198.5 × 119.3 cm。[[ナショナル・ギャラリー (ワシントン)|ナショナル・ギャラリー]]。 |
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ファイル:Paul Cézanne 045.jpg|『略奪』1867年頃、90.5 × 117 cm。[[フィッツウィリアム美術館]]。 |
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ファイル:Paul Cézanne 127.jpg|『アシル・アンプレールの肖像』1868年頃、200 × 120 cm。[[オルセー美術館]]。 |
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ファイル:Overture.jpg|『ピアノを弾く若い娘』(『[[タンホイザー]]序曲』)1869-70年頃、57 × 92 cm。[[エルミタージュ美術館]]。 |
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ファイル:Cezanne - Die Orgie.jpg|『饗宴』1870年頃、130 × 81 cm。個人コレクション。 |
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ファイル:Paul Cézanne 065.jpg|『草上の昼食』1870-71年頃、60 × 81 cm。個人コレクション。 |
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ファイル:Paul Cézanne 217.jpg|『聖アントワーヌの誘惑』1870年頃。油彩、キャンバス、52 × 73 cm。[[ビュールレ・コレクション]]。 |
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ファイル:Cézanne Pastorale.jpg|『田園詩』1870年頃、65 × 81 cm。[[オルセー美術館]]。 |
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</gallery> |
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=== 印象主義の時代(1870年代) === |
=== 印象主義の時代(1870年代) === |
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[[パリ・コミューン]]の混乱が終わり、[[フランス第三共和政]]が発足すると、パリを逃れていた画家たちが戻ってきた。セザンヌも、[[1872年]]夏にはエスタックからパリに戻ったようである<ref>[[#新関|新関 (2000: 69-70)]]。</ref>。同年、フィケと1月に生まれたばかりの息子ポールを連れてパリ北西の[[ポントワーズ]]に移り、ピサロとイーゼルを並べて制作した。そのすぐ後、ピサロとともに近くの[[オーヴェル=シュル=オワーズ]]に移り住んだ。ここでアマチュア画家の医師[[ポール・ガシェ]]とも親交を結んだ<ref>[[#新関|新関 (2000: 70)]]。</ref>。1873年にパリ・[[モンマルトル]]に店を開いた絵具商[[タンギー爺さん]]ことジュリアン・タンギーも、ピサロの紹介で知り合ったセザンヌの作品を熱愛した<ref>[[#新関|新関 (2000: 334)]]。</ref>。セザンヌは、この時期にピサロから印象主義の技法を習得し、セザンヌの作品は明るい色調のものが多くなった。セザンヌは、印象派からの影響について、後年次のように語っている。 |
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[[ファイル:Paul Cézanne - La Maison du pendu.jpg|thumb|200px|right|『オーヴェールの首吊りの家』1872年-73年、オルセー美術館]] |
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{{Quote|私だって、何を隠そう、印象主義者だった。ピサロは私に対してものすごい影響を与えた。しかし私は印象主義を、美術館の芸術のように堅固な、長続きするものにしたかったのだ<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 243)]]。</ref>。}} |
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[[ファイル:Paul Cezanne, A Modern Olympia, c. 1873-1874.jpg|thumb|200px|『モデルヌ・オランピア』(第2作)1873年頃]] |
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また、これに続けて、モネについて、「モネは一つの眼だ、絵描き始まって以来の非凡なる眼だ。私は彼には脱帽するよ。」とも語っている<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 244)]]。</ref>。 |
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エスタックからパリに戻った後、[[1872年]]にはフィケと生まれたばかりの息子ポールを連れて[[ポントワーズ]]に移り、ピサロとイーゼルを並べて制作した。この時期にピサロから印象主義の技法を習得してセザンヌの作品は明るい色調のものが多くなった。 |
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[[ファイル:Atelier Nadar 35BoulevardDesCapucines 1860 Nadar.jpg|thumb|right|180px|第1回印象派展が行われたパリの[[ナダール]]写真館。]] |
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[[1874年]]、モネ、ドガらが開いた第1回印象派展に『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』など3作品を出品した<ref>オーグ (2000: 51)。</ref>。中でも『モデルヌ・オランピア』には、新聞紙上で「腰を折った女を覆った最後の布を黒人女が剥ぎとって、その醜い裸身を肌の茶色いまぬけ男の視線にさらしている」と書かれるなど、厳しい酷評・皮肉が集中した<ref>オーグ (2000: 53-55)。</ref>。 |
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[[1874年]]、モネ、ドガらが開いたグループ展に『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』など3作品を出品した<ref>[[#オーグ|オーグ (2000: 51)]]。</ref>。『モデルヌ・オランピア』は、マネの『[[オランピア (絵画)|オランピア]]』に対抗して、より明るい色調と速いタッチで近代の絵画の姿を示そうとした作品であった<ref>[[#新関|新関 (2000: 49)]]。</ref>。この展覧会は、後に第1回[[印象派]]展と呼ばれることになるが、モネの『[[印象・日の出]]』を筆頭に、世間から酷評された<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 38-39)]]。</ref>。セザンヌの『モデルヌ・オランピア』も、新聞紙上で「腰を折った女を覆った最後の布を黒人女が剥ぎとって、その醜い裸身を肌の茶色いまぬけ男の視線にさらしている」と書かれるなど、厳しい酷評・皮肉が集中した<ref>[[#オーグ|オーグ (2000: 53-55)]]。</ref>。他方、ゾラは、マルセイユの新聞「セマフォール・ド・マルセイユ」に、無署名記事で、「その展覧会で心打たれた作品は多いが、中でも、ポール・セザンヌ氏の非常に注目すべき一風景画をここに特筆しておきたい。[……]その作はある偉大な独創性を証明していた。ポール・セザンヌ氏は長年苦闘を続けているが、真に大画家の気質を示している。」と援護している<ref>1874年4月18日「パリ便り」。[[#新関|新関 (2000: 87-89)]]。</ref>。また、『首吊りの家』は、アルマン・ドリア伯爵に300フランの高値で買い上げられた<ref>[[#新関|新関 (2000: 84)]]。</ref>。セザンヌは、この年の秋に母に書いた手紙で、「私が完成を目指すのは、より真実に、より深い知に達する喜びのためでなければなりません。世に認められる日は必ず来るし、下らないうわべにしか感動しない人々より、ずっと熱心で理解力のある賛美者を獲得するようになると本当に信じてください。」と自負心を表している<ref>セザンヌの1874年9月26日付け書簡。[[#新関|新関 (2000: 85-86)]]。</ref>。 |
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その後、パリとエクスの間を行ったり来たりした。 |
その後、パリとエクスの間を行ったり来たりした。[[1876年]]の第2回印象派展には出品していない。辛辣な批評に自信を失って出品を断ったとも言われるが、サロンに応募を続けるセザンヌの姿勢が、グループ展に参加するからにはサロンに応募すべきではないという[[エドガー・ドガ]]の方針に反したためとも言われる<ref>[[#新関|新関 (2000: 95)]]。</ref>。 |
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絵画収集家{{仮リンク|ヴィクトール・ショケ|de|Victor Chocquet}}の励ましもあり、[[1877年]]の第3回印象派展に、油彩13点、水彩3点の合計16点を出品した。ここには、既に、肖像画、風景画、静物、動物、水浴図、物語的構成図という、セザンヌが扱う主題が全て含まれていた<ref>[[#新関|新関 (2000: 96-103)]]。</ref>。その中に含まれていたショケの肖像は再び厳しい批評にさらされたが、一方で、「『水浴図』を見て笑う人たちは、私に言わせれば[[パルテノン神殿|パルテノン]]を批判する未開人のようだ」と述べたジョルジュ・リヴィエールのほか、エドモン・デュランティ、テオドール・デュレのように、セザンヌの作品を賞賛する批評家も現れた<ref>[[#オーグ (2000: 55)]]。</ref>。ゾラも、「セマフォール・ド・マルセイユ」紙に「ポール・セザンヌ氏は確かに、このグループ[印象派]で最高の偉大な色彩画家である」との賛辞を書いている<ref>[[#新関 (2000: 119)]]。</ref>。 |
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しかし、1878年頃から、時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の確固とした存在感がなおざりにされがちな印象派の手法に不満を感じ始め、同時期から印象派の他のメンバーとの交流が少なくなり、制作場所もパリを離れ故郷のエクスに戻した。1878年から1879年にかけて、エクスとエスタックに滞在することが多くなった<ref>オーグ (2000: 65)。</ref>。この頃、妻子の存在を父に知られたことで、父子の関係は悪化し、毎月の送金を減らされ、数か月間ゾラの援助に頼った<ref>オーグ (2000: 80)。</ref>。 |
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=== 1880年代 === |
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ファイル:Paul Cézanne - La Maison du pendu.jpg|『[[オーヴェル=シュル=オワーズ|オーヴェル]]の首吊りの家』1872-73年、55 × 66 cm。[[オルセー美術館]]。 |
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1880年代には、主にエクスの周辺で制作を続け、この時期から規則的な筆触を用いて対象物を再構築するという独特の制作手法が現れ始めた。 |
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ファイル:Paul Cezanne, A Modern Olympia, c. 1873-1874.jpg|『モデルヌ・オランピア』(第2作)1873年頃、46 × 55 cm。オルセー美術館。 |
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ファイル:Paul Cézanne 144.jpg|『肘掛け椅子に座るヴィクトール・ショケ』1877年、46 × 38 cm。[[コロンバス美術館]]。 |
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ファイル:Paul Cézanne 004.jpg|『女性水浴図』1875-77年、38.1 × 46 cm。[[メトロポリタン美術館]]。 |
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=== エクスでの隠遁生活(1880年代) === |
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初めてサロン(官展)に入選したのは43歳([[1882年]])のときである(このとき出品したのは[[1866年]]に制作された『画家の父』である)。このとき、セザンヌは友人の審査委員に頼み込み、やっとの思いで入選を果たしたという。 |
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セザンヌは、[[1878年]]頃から、時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の確固とした存在感がなおざりにされがちな印象派の手法に不満を感じ始めた。 |
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そして、セザンヌは、モネ、ルノワール、ピサロとの友情は保ちながらも、第4回印象派展以降には参加していない。[[1879年]]4月、ピサロに対し、「私のサロン応募のことで論争が起こっている折から、私は印象派展覧会に参加しない方がよいのではないかと考えます。また他方では、作品搬入の面倒さから来る苦労を避けたくもありますし。それにここ数日のうちにパリを発つのです。」と書き送っている<ref>セザンヌの1879年4月1日付けピサロ宛書簡。[[#新関|新関 (2000: 106)]]。</ref>。印象派グループの中でも、モネやルノワールと、ドガとの対立が鋭くなり、ドガが出品する第4回(1879年)、第5回([[1880年]])印象派展を、モネやルノワールがボイコットするという事態になっていた<ref>[[#新関|新関 (2000: 107-08)]]。</ref><ref group="注釈">モネは、第4回印象派展に出品を断ったが、[[ギュスターヴ・カイユボット]]が所蔵者から借り集めて取り繕った。[[#新関|新関 (2000: 107-08)]]。</ref>。 |
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[[1886年]]、17年間同棲していたオルタンス・フィケと結婚した。その数か月後、父が死去した<ref name="Biography.com-3">{{Cite web |url=http://www.biography.com/people/paul-cezanne-9542036?page=3 |title=Paul Cezanne: Mature Work |publisher=Biography.com |accessdate=2013-10-05 }}</ref>。父から相続した遺産は40万フランであり、経済的には何も不安がなくなった<ref>Lindsay (1969: 232)。</ref>。 |
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セザンヌは、同時期から、制作場所をパリから故郷のエクスに戻した。第3回印象派展の後、1895年に最初の個展を開くまで、パリの画壇からは知られることなく制作を続けた<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 51)]]。</ref>。1878年から[[1879年]]にかけて、エクスとエスタックに滞在することが多くなった<ref>[[#オーグ|オーグ (2000: 65)]]。</ref>。この頃、妻子の存在を父に感付かれたことで、父子の関係は悪化し、1878年4月から8月頃、毎月の送金を半分に減らされ、ゾラに月60フランの援助を頼んだ<ref>[[#オーグ|オーグ (2000: 80)]]、[[#新関|新関 (2000: 231)]]。</ref>。画材をタンギーの店で買い、代金代わりに絵を渡すことも多く、[[ポール・ゴーギャン]]、[[フィンセント・ファン・ゴッホ]]はこの店でセザンヌを研究した。また、ショケ、ピサロ、ガシェなどもタンギーの店でセザンヌの作品を買った<ref>[[#新関|新関 (2000: 231-32)]]。</ref>。ゴーギャンは、ピサロに、「セザンヌ氏は万人に認められる作品を描くための正確な定式を発見したでしょうか。[……]どうか彼に[[ホメオパシー]]の神秘的な薬を与えて、眠っている間にそれをしゃべらせ、できるだけ早く私たちに報告しにパリまで来てください。」という手紙を送っている<ref>ゴーギャンのピサロ宛1881年書簡。[[#新関|新関 (2000: 343)]]。</ref>。 |
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同じ1886年、ゾラが小説『{{仮リンク|制作 (小説)|en|L'Œuvre (novel)|label=制作}}』を発表した。ゾラはこの小説の中でセザンヌとマネをモデルにしたと見られる画家の主人公の芸術的失敗を描いた。この小説がきっかけとなり、セザンヌとゾラの友情は断たれてしまった。 |
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[[ファイル:Médan - Maison d'Émile Zola01.jpg|thumb|right|180px|小説『[[居酒屋 (小説)|居酒屋]]』(1877年)で成功したゾラがメダンに買った別荘。友人の文学者たちが多数招待された<ref>[[#新関|新関 (2000: 227)]]。</ref>。]] |
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サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けたが、絵はなかなか理解されなかった。 |
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1880年代前半には、10月から2月頃までは南仏で過ごし、エクスの父の家と[[マルセイユ]]の妻子のいる家とエスタックの自分の家を行き来し、サロンのシーズンが始まる3月にはパリに出て、パリのアパルトマンを借りたり、[[ムラン]]やポントワーズといった近郊の町に下宿したりする、という生活を繰り返していた<ref>[[#新関|新関 (2000: 228-29)]]。</ref>。パリを訪れた時は、ゾラが[[セーヌ川]]沿いの{{仮リンク|メダン (フランス)|en|Médan|label=メダン}}に買った別荘に招待されることも度々であった<ref>[[#新関|新関 (2000: 227-28)]]。</ref>。 |
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[[1882年]]、『L・A氏の肖像』という作品で初めて[[サロン・ド・パリ]](官展)に入選した。この時、彼は、サロンの審査員となっていた友人{{仮リンク|アントワーヌ・ギュメ|fr|Antoine Guillemet}}の弟子という形にしてもらい、審査員が弟子の1人を入選させることができるという特権を使って入選させてもらったという<ref>[[#新関|新関 (2000: 111)]]。</ref><ref group="注釈">『L・A氏の肖像』という作品は、セザンヌの父ルイ=オーギュストの肖像であると推定される。経済的に支え続けてくれた父に入選の名誉を捧げたかったとの推測もされている。[[#新関|新関 (2000: 157, 165-77)]]。</ref>。 |
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=== 晩年(1890年代 - 1906年) === |
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[[ファイル:Paul Cézanne - Les Joueurs de cartes.jpg|thumb|240px|left|『カード遊びをする人々』(1890 - 1892) オルセー美術館]] |
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[[1895年]]、[[アンブロワーズ・ヴォラール]]の画廊で初個展を開き、一部の若い画家たちから注目され始めた。「オーヴェルの納屋の庭」と「エスタック」の2点が、[[ギュスターヴ・カイユボット]]からの遺贈によりリュクサンブール美術館に収められた。モネ、ドガ、ルノワール、ゴーギャンも、セザンヌを賞賛した<ref>オーグ (2000: 101)。</ref>。この頃手掛けた多数の水彩画は簡略な描線と淡彩によって描かれ、透明な色の重なりが影を、塗り残された紙の地の色が光を表し、色面で把握されモティーフが全体的な調和の中で画面を構築している。静物画のみならず、水浴をテーマとした水彩画「水浴の女たち」や「釣り」にもその例を見ることができる。 |
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[[1886年]]、ゾラが小説『{{仮リンク|作品 (小説)|en|L'Œuvre (novel)|label=作品}}』を発表した。ゾラはこの小説の中でセザンヌとマネをモデルにしたと見られる画家クロード・ランティエの主人公の芸術的失敗を描いた。同年4月、ゾラから献本されたこの本をエクスで受け取ったセザンヌは、ゾラに、「君の送ってくれた『作品』を受け取ったところだ。この思い出のしるしを[[ルーゴン・マッカール叢書|ルーゴン・マッカール]]の著者に感謝し、昔の年月のことを思いながら握手を送ることを許していただきたい。」という短い手紙を送った<ref>[[#新関|新関 (2000: 251)]]。</ref>。この小説がきっかけとなり、セザンヌとゾラの友情は断たれてしまったというのが、セザンヌ研究の第一人者{{仮リンク|ジョン・リウォルド|en|John Rewald}}の説であり、定説化しているが、これに対しては、『作品』にはセザンヌの助言が反映されており2人の関係を破綻させるような内容ではなく、むしろメダンの館に雇われていた女性{{仮リンク|ジャンヌ・ロズロ|fr|Jeanne Rozerot}}をめぐる恋愛関係が2人の距離を遠くしたとの説が唱えられている<ref>[[#新関|新関 (2000: 13-15, 244-52)]]。</ref>. |
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[[ファイル:Paul Cézanne 108.jpg|thumb|240px|right|『サント・ヴィクトワール山』(1904) [[フィラデルフィア美術館]]]] |
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[[1900年]]にパリで開かれた[[パリ万国博覧会 (1900年)|万国博覧会]]の企画展である「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちと共に出品し、これ以降セザンヌは様々な展覧会に積極的に作品を出品するようになった。[[1904年]]から[[1906年]]までは、まだ創設されて間もなかった[[サロン・ドートンヌ]]にも3年連続で出品した。 |
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同年(1886年)4月28日、17年間同棲していたオルタンス・フィケと結婚した。同年10月、父が88歳で死去した<ref>[[#新関|新関 (2000: 252)]]。</ref>。父から相続した遺産は40万フランであり、経済的には不安がなくなった。 |
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「自然を円筒、球、円錐によって扱いなさい」というフレーズは、1904年4月15日付けのエミール・ベルナール宛ての書簡に出てくるものである。このフレーズは後のキュビスムに影響を与えたものだが、セザンヌの真の意図については諸説ある。 |
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サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けたが、絵はなかなか理解されなかった。[[1889年]]に[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]で旧作『首吊りの家』が目立たない場所に展示されたほか、[[1890年]]、[[ブリュッセル]]の[[20人展]]に招待されて3点の油彩画を送ったが、余り反響はなかった<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 65)]]。</ref>。しかし、前衛的な若い画家や批評家の間では、セザンヌに対する評価が高まりつつあった。ポール・ゴーギャン、[[アルベール・オーリエ]]、[[エミール・ベルナール (画家)|エミール・ベルナール]]、[[モーリス・ドニ]]、[[ポール・セリュジエ]]、[[ギュスターヴ・ジェフロワ]]、{{仮リンク|ジョルジュ・ルコント|en|Georges Lecomte}}、シャルル・モリスなどである<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 65)]]。</ref>。 |
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1906年10月15日に野外で制作中に大雨に打たれ[[肺炎]]にかかり、同年10月22日(または10月23日)に死去した。 |
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ルコントは、[[1892年]]の著書『印象主義者の芸術』の中で、「セザンヌは、最も平凡な対象を描く時でも常にそれを高貴なものにする。」、「限りなく柔らかな色調と、豊かな広がりをうまく抑制できる極めて単純な色彩の均一性にもかかわらず、彼の絵画には力強さがみなぎっている。」と賞賛し、ジェフロワも、[[1894年]]の『芸術生活』第3巻の一つの章をセザンヌに割いている<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 65-66)]]。</ref>。[[ギュスターヴ・カイユボット]]が、[[1893年]]、ルーヴル美術館に入れられることを条件として印象派の絵画コレクションを[[遺贈]]したことも世間の注目を集めた<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 66)]]。</ref>。 |
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彼の「絵画は、堅固で自律的な再構築物であるべきである」という考え方は、続く[[20世紀美術]]に決定的な影響を与えた。 |
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1890年頃からは、年齢と[[糖尿病]]のため、戸外制作が困難になり、人物画に重点を移すようになった<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 67)]]。</ref>。 |
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== ギャラリー == |
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<gallery> |
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<center><gallery widths="180px" heights="180px"> |
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ファイル:Paul Cézanne |
ファイル:Paul Cézanne 107.jpg|『サント・ヴィクトワール山』1887年頃、67 × 92 cm。[[コートールド・ギャラリー]]。 |
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ファイル: |
ファイル:Paul Cézanne 082.jpg|『[[カード遊びをする人々]]』1890-92年、65 × 81 cm。[[メトロポリタン美術館]]。 |
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ファイル:Paul Cézanne |
ファイル:Paul Cézanne 005.jpg|『男性水浴図』1892-94年、26 × 40 cm。[[エルミタージュ美術館]]。 |
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ファイル:Paul Cézanne |
ファイル:Paul Cézanne, The Basket of Apples.jpg|『リンゴの籠のある静物』1890-94年。[[シカゴ美術館]]。 |
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ファイル:Paul Cézanne |
ファイル:Paul Cézanne 124.jpg|『黄色い椅子のセザンヌ夫人』1893-95年、81 × 85 cm。個人コレクション。 |
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</gallery> |
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ファイル:Paul Cézanne 047.jpg|『大水浴図』 1898 - 1905 [[フィラデルフィア美術館]] |
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ファイル:Paul Cézanne 179.jpg|『リンゴとオレンジのある静物』 1895-1900 [[オルセー美術館]] |
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=== 個展の成功(1895年) === |
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ファイル:Paul Cézanne, The Basket of Apples.jpg|『リンゴの籠のある静物』 1890 - 1894 [[シカゴ美術館]] |
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[[1895年]]11月、パリの[[アンブロワーズ・ヴォラール]]の画廊で初個展を開いた。ヴォラールにセザンヌの個展を開くことを勧めたのはピサロであり、ヴォラールがセザンヌの子を通じて南仏の彼に連絡を取ると、1868年頃から1895年までの集大成といえる約150点の油彩画が送られてきた。ピサロは、息子ジョルジュへの手紙で、「実に見事だ。静物画と大変美しい風景画、何とも奇妙な水浴者たちがとても落ち着いて描かれている。」、「蒐集家たちは仰天している。彼らは何も分かっていないが、セザンヌは驚くべき微妙さ、真実、古典主義を持った第一級の画家だ。」と書いている<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 66-67)]]。</ref>。 |
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ファイル:Paul Cézanne 148.jpg|『アヌシー湖』 1896 [[コートールド・ギャラリー]] |
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<gallery> |
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ファイル:Paul Cézanne O castelo de Medan.jpg|『メダンの館』 1879 - 1881 [[バレル・コレクション]] |
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ファイル: |
ファイル:Cezanne Ambroise Vollard.jpg|『アンブロワーズ・ヴォラールの肖像』1899年、[[プティ・パレ|プティ・パレ美術館]]。 |
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ファイル:Paul Cézanne 179.jpg|『リンゴとオレンジのある静物』1895-1900年、[[オルセー美術館]]。 |
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</gallery></center> |
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ファイル:Paul Cézanne 148.jpg|『アヌシー湖』1896年、[[コートールド・ギャラリー]]。 |
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</gallery> |
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同郷の友人の息子で詩人だった{{仮リンク|ジャワシャン・ガスケ|en|Joachim Gasquet}}が、[[1896年]]、セザンヌと知り合い、後に彼の伝記を書いている<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 138)]]。</ref>。[[1897年]]、母が亡くなると、ジャス・ド・ブッファンは売られてしまった。ガスケによれば、セザンヌは、父の形見として大事にしていた肘掛け椅子や机が家族に処分のため燃やされてしまったことに、絶望を露わにしたという<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 21-22, 175)]]。</ref>。[[1898年]]と[[1899年]]には一時パリで過ごしたが、[[1900年]]以降はエクスでの制作に専念するようになった<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 169, 174)]]。</ref>。しかし、エクスでは周囲に理解されず、ゾラが[[ドレフュス事件]]で『私は弾劾する』(1898年)を発表したときなどは、その友人としてセザンヌを中傷する記事が地元の新聞に掲載されたこともあった<ref>[[#ガスケ|ガスケ (2009: 192)]]。</ref>。 |
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=== 最晩年(1900年 - 1906年) === |
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{{Multiple image |
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|align=right |
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|image1=Paul Cézanne 192.jpg |width1=112|caption1=セザンヌ『果物入れ、グラス、りんご』1879-82年。 |
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|image2=Paul Gauguin 099.jpg |width2=80 |caption2=[[ポール・ゴーギャン|ゴーギャン]]『マリー・デリアンの肖像』1890年。 |
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|image3=Maurice Denis Homage to Cezanne 1900.jpg |width3=125|caption3=[[モーリス・ドニ]]『{{仮リンク|セザンヌ礼賛|en|Homage to Cézanne}}』1900年。 |
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}} |
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[[1900年]]にパリで開かれた[[パリ万国博覧会 (1900年)|万国博覧会]]の企画展である「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちとともに出品し、これ以降セザンヌは様々な展覧会に積極的に作品を出品するようになった。[[1904年]]から[[1906年]]までは、まだ創設されて間もなかった[[サロン・ドートンヌ]]にも3年連続で出品した。 |
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[[ナビ派]]の画家[[モールス・ドニ]]は、1900年、画商ヴォラールの画廊を舞台として、セザンヌの静物画の周囲に、ドニ自身のほか、[[ピエール・ボナール]]、[[エドゥアール・ヴュイヤール]]、[[ポール・ランソン]]、{{仮リンク|ルーセル|en|Ker-Xavier Roussel}}、[[ポール・セリュジエ]]というナビ派の仲間、ヴォラール、批評家{{仮リンク|アンドレ・メレリオ|en|André Mellerio}}が、巨匠[[オディロン・ルドン]]と向い合って立っている作品『セザンヌ礼賛』を制作し、これを[[1901年]]の{{仮リンク|国民美術協会 (フランス)|en|Société Nationale des Beaux-Arts|label=国民美術協会}}サロンに出品した<ref>[[#高階|高階・下 (1975: 4-9)]]。</ref>。セザンヌは、一般社会からはまだ顧みられていなかったが、若い画家たちからは強い敬愛を受けていたことを示している<ref>[[#高階|高階・下 (1975: 4-5)]]。</ref>。このセザンヌの静物画は、ゴーギャンが愛蔵し、その肖像画の中に画中画として描き入れた絵でもあった<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 4-5)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Émil Bernard, Paul Cézanne in his studio at Les Lauves, 1904.jpg|thumb|left|180px|『大水浴図』の前に座るセザンヌ(エミール・ベルナール撮影、1904年3月)。]] |
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晩年には、セザンヌを慕うエミール・ベルナールや{{仮リンク|シャルル・カモワン|en|Charles Camoin}}といった若い芸術家たちと親交を持った<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 51)]]。</ref>。ベルナールは、[[1904年]]にエクスのセザンヌのもとに1か月ほど滞在し、後に『回想のセザンヌ』という著書でセザンヌの言葉を紹介している。ベルナールによれば、セザンヌは、朝6時から10時半まで郊外のアトリエで制作し、いったんエクスの自宅に戻って昼食をとり、すぐに風景写生に出かけ、夕方5時に帰ってくるという日課を繰り返していたという<ref>[[#ベルナール|ベルナール (1953: 22-23)]]。</ref>。また、日曜日には教会の[[ミサ]]に熱心に参加していたという<ref>[[#ベルナール|ベルナール (1953: 34)]]。</ref>。セザンヌは、同年4月15日付けのベルナール宛の書簡で、次のような芸術論を語っている。 |
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{{Quote|ここであなたにお話したことをもう一度繰り返させてください。つまり自然を[[円筒]]、[[球]]、[[円錐]]によって扱い、全てを遠近法の中に入れ、物やプラン(平面)の各側面が一つの中心点に向かって集中するようにすることです。水平線に平行な線は広がり、すなわち自然の一断面を与えます。もしお望みならば、全知全能にして永遠の父なる神が私たちの眼前に繰り広げる光景の一断面といってもいいでしょう。この水平線に対して垂直の線は深さを与えます。ところで私たち人間にとって、自然は平面においてよりも深さにおいて存在します。そのために、赤と黄で示される光の振動の中に、空気を感じさせるのに十分なだけの青系統の色彩を入れねばなりません<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 51-52)]]。</ref><ref>[[#ベルナール|ベルナール (1953: 57-58)]]。</ref>。}} |
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この「自然を円筒、球、円錐によって扱う」というフレーズは、幾何学的形態への還元を勧めるものと解釈され、後のキュビスムに理論的基盤を与えたが<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 52)]]。</ref>、セザンヌの真の意図については様々な解釈がある。 |
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[[1906年]]9月21日のベルナール宛書簡では、「私は年をとった上に衰弱している。絵を描きながら死にたいと願っている。」と書いている<ref>[[#ベルナール|ベルナール (1953: 71)]]。</ref>。その年の10月15日に野外で制作中に大雨に打たれ[[肺炎]]にかかり、同月22日(または23日)に死去した。 |
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ファイル:Paul Cézanne 047.jpg|『大水浴図』1898 - 1905年。[[フィラデルフィア美術館]]。 |
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ファイル:Paul Cézanne 108.jpg|『サント・ヴィクトワール山』1904年。[[フィラデルフィア美術館]]。 |
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</gallery> |
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== 後世 == |
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[[1907年]]、サロン・ドートンヌの一部として、セザンヌの回顧展が行われ、油彩画を中心とする56点が展示された<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 75)]]。</ref>。[[オーストリア]]の詩人[[ライナー・マリア・リルケ]]は、この回顧展を見て感動し、妻に「僕は今日もまたセザンヌの絵を見に行った。……セザンヌの絵の実存が一つのまとまった巨大な『現実』を作り出している。」といった手紙を書いている<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 73)]]。</ref>。 |
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1900年に『男の裸体』を描いた[[アンリ・マティス]]、1907年に『水浴者たち』を描いた[[アンドレ・ドラン]]など、[[フォーヴィスム]]の画家にも影響を与えた<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 75)]]。</ref>。マティスの1910年から1917年までの実験的な作品の中には、色彩による構築というセザンヌの手法への理解が見られ、マティスは、さらに、色彩の単純化と構図の平面化を押し進めていった<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 6)]]。</ref>。ドランは、自分の部屋の壁に、セザンヌの『5人の浴女たち』の複製写真をかけており、『水浴者たち』は原始美術とセザンヌの影響を総合した作品であった<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 78)]]。</ref>。 |
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[[ジョルジュ・ブラック]]は、1902年にはセザンヌの絵画を見ており、1904年には自分の絵の中にセザンヌの要素を取り入れている。さらに、1907年、南仏滞在の記憶をもとに描いた『家々のある風景』では、セザンヌによる細部の省略を推し進め、建物を幾何学的な形態に変化させている<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 79-80)]]。</ref>。 |
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彼の肖像はその作品とともに[[ユーロ]]導入前の最後の100[[フランス・フラン]]紙幣に描かれていた。 |
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== 作品 == |
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=== カタログ === |
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{{仮リンク|ジョン・リウォルド|en|John Rewald}}が、1984年にセザンヌの水彩画のカタログ・レゾネを、1996年に油彩画のカタログ・レゾネを刊行し、今日のセザンヌ研究の基礎となっている<ref>[[#新関|新関 (2000: 14-15)]]。</ref>。 |
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=== 作風 === |
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美術史家の{{仮リンク|リオネロ・ヴェントーリ|en|Lionello Venturi}}は、セザンヌの油彩画の発展段階を、(1)[[アカデミズム]]と[[ロマン主義]]の時期(1858年-71年)、(2)印象主義の時期(1872年-77年)、(3)構成主義の時期(1878年-87年)、(4)総合の時期(1888年-1906年)に分けて考察している<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 3)]]。</ref>。 |
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初期の絵画は、内面の情念を露骨に表出したものが多く、絵具を力強く盛り上げて描いている<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 25-27)]]。</ref>。この時期のセザンヌに最も大きな影響を与えたのは、[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]と[[ギュスターヴ・クールベ]]であった<ref>[[#高階|高階・上 (1975: 125)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Paul Cézanne O castelo de Medan.jpg|thumb|right|200px|『メダンの館』1879-81年。油彩、キャンバス、59.1 x 72.4 cm。{{仮リンク|バレル・コレクション|en|Burrell Collection}}([[グラスゴー]])。]] |
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パリで、ピサロから、戸外で自然を見て描くという印象主義の発想を教えられ、田園の風景画を描き始める<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 37, 42)]]。</ref>。彼は、印象派を通して、色彩を解放することを知った<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 6)]]。</ref>。しかし、印象派のモネや[[アルフレッド・シスレー]]が、色彩によって、瞬間的な色調の変化や、その場の雰囲気を伝えようとしたのに対し、セザンヌは、色彩による堅固な造形を目指している点に特徴がある<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 6-7)]]。</ref>。第1回印象派展に出品した『首吊りの家』においては、明るい色彩を用いながら、一瞬の映像ではなく、建物の力強い実在感や、空間を構成しようとする意図が表れている<ref>[[#高階|高階 (1975: 125-26)]]。</ref>。ゾラが[[セーヌ川]]沿いに購入した家を描いた『メダンの館』でも、水平線と垂直線が作り出す構図の中に、小さな筆触(タッチ)が秩序立って並べられており、キャンバスの表面における秩序が追求されている<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 6-7)]]。</ref>。 |
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[[ファイル:Paul Cézanne 188.jpg|thumb|left|200px|『果物籠のある静物』1888-90年、64 × 80 cm。[[オルセー美術館]]。]] |
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こうした落ち着いた古典主義的作品を制作した一方で、1880年代の静物画では、緊張感をはらんだ歪み([[デフォルマシオン]])が現れる<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 10)]]。</ref>。オルセー美術館にある『果物籠のある静物』では、砂糖壺が傾いていたり、壺が上から覗き込んでいるように描かれているのに対し果物籠が横から見たように描かれているなど複数の視点が混在していたり、テーブルの左右の稜線が食い違っていたりという、多くのデフォルマシオンが生じている。それが物の圧倒的な存在感をもって見る者に迫ってくる要素となっている。こうした独特の造形は、同時代の人々からは激しく非難されたが、やがて[[パブロ・ピカソ]]や[[ジョルジュ・ブラック]]の[[キュビスム]]によって評価されることになる<ref>[[#浅野|浅野 (2000: 10-11, 48-49)]]。</ref>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist}} |
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<references group="注釈" /> |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Cite book |和書 |author=浅野春男 |title=セザンヌとその時代 |others=中森義宗、永井信一、小林忠、青柳正規監修 |series=世界美術双書 |publisher=[[東信堂]] |year=2000 |ref=浅野}} |
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* {{Cite book |和書 |author=ミシェル・オーグ |others=[[高階秀爾]]監修、村上尚子訳 |title=セザンヌ――孤高の先駆者 |publisher=[[創元社]] |series=[[「知の再発見」双書]] |year=2000 |id=ISBN 4-422-2152-8 |ref=オーグ}} |
* {{Cite book |和書 |author=ミシェル・オーグ |others=[[高階秀爾]]監修、村上尚子訳 |title=セザンヌ――孤高の先駆者 |publisher=[[創元社]] |series=[[「知の再発見」双書]] |year=2000 |id=ISBN 4-422-2152-8 |ref=オーグ}} |
||
* {{Cite book |和書 |author= |
* {{Cite book |和書 |author=ジョワシャン・ガスケ |title=セザンヌ |others=[[與謝野文子]]訳 |series=[[岩波文庫]] |publisher=[[岩波書店]] |year=2009 |origyear=1921 |id=ISBN 978-4-00-335731-6 |ref=ガスケ}} |
||
* {{Cite book |和書 |author= |
* {{Cite book |和書 |author=[[高階秀爾]] |title=近代絵画史――ゴヤからモンドリアンまで |publisher=[[中央公論新社]] |series=[[中公新書]] |year=1975 |id=(上)ISBN 978-4121003850、(下)ISBN 978-4121003867|ref=高階}} |
||
* {{Cite book |和書 |author |
* {{Cite book |和書 |author=[[新関公子]] |title=セザンヌとゾラ――その芸術と友情 |publisher=ブリュッケ |year=2000 |id=ISBN 4-7952-1679-7 |ref=新関}} |
||
* {{Cite book |和書 |author=[[エミール・ベルナール (画家)|エミール・ベルナール]] |others=[[有島生馬]]訳 |title=回想のセザンヌ |edition=改訳 |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波文庫]] |year=1953 |origyear=1912 |ref=ベルナール}} |
|||
* {{Cite book |last=Cézanne |first=Paul |coauthors=John Rewald, Émile Zola, and Marguerite Kay |title=Paul Cézanne, letters |year=1941 |publisher=B. Cassirer |isbn=0-87817-276-9 |oclc=1196743}} |
|||
* {{Cite book |和書 |author=メアリー=トンプキンズ・ルイス |others=宮崎克己訳 |title=セザンヌ |publisher=岩波書店 |series=岩波 世界の美術 |year=2005 |origyear=2000 |id=ISBN 4-00-008981-1 |ref=ルイス}} |
|||
* {{Cite book|last=Gowing|first=Lawrence|coauthors=Adriani, Götz; Krumrine, Mary Louise; Lewis, Mary Tompkins; Patin, Sylvie; Rewald, John|year=1988|title=Cézanne: The Early Years 1859–1872|publisher=Harry N. Abrams}} |
|||
* {{Cite book |last= Lindsay |first=Jack |title=Cézanne: His Life and Art |year= 1969|publisher=New York Graphic Society |location=United States |isbn=0-8212-0340-1 |oclc=18027 |ref=Lindsay}} |
|||
* {{Cite book |last= Machotka |first=Pavel |title=Cézanne: Landscape into Art |year= 1996|publisher=Yale University Press |location=United States |isbn=0-300-06701-1 |oclc=34558348 |ref=Machotka}} |
|||
* {{Cite book |last=Vollard |first=Ambroise |title=Cézanne |year= 1984|publisher=Courier Dover Publications |location=England |isbn=0-486-24729-5 |oclc=10725645 |ref=Vollard}} |
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== 関連文献 == |
== 関連文献 == |
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; 著作、交友のあった人物達による評伝 |
; 著作、交友のあった人物達による評伝 |
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* 『セザンヌ 絶対の探求者』 山梨俊夫編訳 (二玄社 1997年) |
* 『セザンヌ 絶対の探求者』 山梨俊夫編訳 (二玄社 1997年) |
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* P. M. ドラン編 『セザンヌ回想』 高橋幸次訳・村上博哉訳 ([[淡交社]] 1995年) |
* P. M. ドラン編 『セザンヌ回想』 高橋幸次訳・村上博哉訳 ([[淡交社]] 1995年) |
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* ジャワシャン・ガスケ 『セザンヌ』 [[與謝野文子]]訳 ([[岩波文庫]]、2009年、初版・求龍堂) |
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; 近年刊行の研究書 |
; 近年刊行の研究書 |
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* メアリー・トンプキンズ・ルイス 『セザンヌ 岩波世界の美術』 宮崎克己訳([[岩波書店]] 2005年) |
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* アンリ・ペリュショ 『セザンヌ』 [[矢内原伊作]]訳、[[みすず書房]] |
* アンリ・ペリュショ 『セザンヌ』 [[矢内原伊作]]訳、[[みすず書房]] |
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* 『[[吉田秀和]]全集18.セザンヌ』 [[白水社]]、2002年 |
* 『[[吉田秀和]]全集18.セザンヌ』 [[白水社]]、2002年 |
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* 前田英樹 『セザンヌ 画家のメチエ』 [[青土社]]、2000年 |
* 前田英樹 『セザンヌ 画家のメチエ』 [[青土社]]、2000年 |
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* 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 臨時増刊号 還ってきたセザンヌ』 1996年8月号、青土社 |
* 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 臨時増刊号 還ってきたセザンヌ』 1996年8月号、青土社 |
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* {{Cite book |和書 |author=レイチェル・バーンズ編 |title=セザンヌ |others=永井隆則訳 |publisher=[[日本経済新聞社]] |year=1991}} |
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* アンリ・ララマン 『セザンヌ』 千足信行監修、小田部麻利子訳([[日本経済新聞社]]、1996年) |
* アンリ・ララマン 『セザンヌ』 千足信行監修、小田部麻利子訳([[日本経済新聞社]]、1996年) |
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* コンスタンス・ノベール=ライザー 『セザンヌ 岩波世界の巨匠』 山梨俊夫訳 (岩波書店、1993年) |
* コンスタンス・ノベール=ライザー 『セザンヌ 岩波世界の巨匠』 山梨俊夫訳 (岩波書店、1993年) |
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* 浅野春男 『セザンヌとその時代』 (世界美術双書、東信堂、2000年) |
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* 永井隆則『セザンヌ受容の研究』(中央公論美術出版、2007年) |
* 永井隆則『セザンヌ受容の研究』(中央公論美術出版、2007年) |
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* 永井隆則『もっと知りたいセザンヌ』(東京美術、2012年) |
* 永井隆則『もっと知りたいセザンヌ』(東京美術、2012年) |
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*永井隆則/工藤弘二/三浦篤/新畑泰秀『シンポジウム「セザンヌーパリとプロヴァンス」展から見る今日のセザンヌ』(記録集)(国立新美術館、2013年) |
* 永井隆則/工藤弘二/三浦篤/新畑泰秀『シンポジウム「セザンヌーパリとプロヴァンス」展から見る今日のセザンヌ』(記録集)(国立新美術館、2013年) |
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* 秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房、2013年) |
* 秋丸知貴『ポール・セザンヌと蒸気鉄道――近代技術による視覚の変容』(晃洋書房、2013年) |
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; カタログ・レゾネ |
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* {{Cite book |first=John |last=Rewald |title=Paul Cézanne: The Watercolors |location=Boston |publisher=Little Brown and Compagny |year=1983}} |
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* {{Cite book |first=John |last=Rewald |title=The Paintings of Paul Cézanne: A Catalogue Raisonné |location=New York |publisher=Harry N. Abrams |year=1996}} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{Commons| |
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* [http://www.cezanne-ecole.com/ Ecole Spéciale de dessin] |
* [http://www.cezanne-ecole.com/ Ecole Spéciale de dessin] |
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2014年11月15日 (土) 00:53時点における版
ポール・セザンヌ Paul Cézanne | |
---|---|
生誕 |
1839年1月19日 フランス エクス=アン=プロヴァンス |
死没 |
1906年10月22日 (67歳没) フランス エクス=アン=プロヴァンス |
国籍 | フランス |
教育 | アカデミー・シュイス(画塾) |
著名な実績 | 画家 |
代表作 | 『カード遊びをする人々』、『大水浴図』、『サント=ヴィクトワール山』 |
運動・動向 | ポスト印象派 |
影響を受けた 芸術家 | ウジェーヌ・ドラクロワ、エドゥアール・マネ、カミーユ・ピサロ |
影響を与えた 芸術家 | ジョルジュ・ブラック、アンリ・マティス、パブロ・ピカソ、アーシル・ゴーキー |
ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839年1月19日 - 1906年10月22日(10月23日説もある[注釈 1]))は、フランスの画家。当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。
概要
南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに、銀行家の父の下に生まれた。中等学校で下級生だったエミール・ゾラと親友となった。当初は、父の希望に従い、法学部に通っていたが、先にパリに出ていたゾラの勧めもあり、1861年、絵を志してパリに出た(→#出生から学生時代)。パリで、後の印象派を形作るピサロやモネ、ルノワールらと親交を持ったが、この時期の作品はロマン主義的な暗い色調のものが多い。サロンに応募したが、落選を続けた。1869年、後に妻となるオルタンス・フィケと交際を始めた(→#画家としての出発(1860年代))。ピサロと戸外での制作をともにすることで、明るい印象主義の技法を身につけ、第1回と第3回の印象派展に出展したが、厳しい批評が多かった(→#印象主義の時代(1870年代))。1879年頃から、制作場所を故郷のエクスに移した。印象派を離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画を追求するようになった。友人の伝手を頼りに1882年に1回サロンに入選したほかは、公に認められることはなかったが、若い画家や批評家の間では、徐々に評価が高まっていった。他方、長年の親友だったゾラが1886年に小説『作品』を発表した頃から、彼とは疎遠になった(→#エクスでの隠遁生活(1880年代))。1895年に画商アンブロワーズ・ヴォラールがパリで開いたセザンヌの個展が成功し、パリでも知られるようになった(→#個展の成功(1895年))。晩年までエクスで制作を続け、若い画家たちが次々と彼のもとを訪れた。その1人、エミール・ベルナールに述べた「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、後のキュビスムにも影響を与えた言葉として知られる。1906年、制作中に発病した肺炎で死亡した(→#最晩年(1900年 - 1906年))。
セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことであった。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、没後の1907年、サロン・ドートンヌで開催されたセザンヌの回顧展は後の世代に多大な影響を及ぼした。この展覧会を訪れた画家としては、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、フェルナン・レジェ、アンリ・マティスらが挙げられる。
後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムの画家たちに大きな影響を与えた。
生涯
出生から学生時代
1839年1月19日、ポール・セザンヌは、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれた。同年2月22日、教区の教会で洗礼を受けた。父のルイ=オーギュスト・セザンヌ(1798年-1886年)は、最初は帽子の行商人であったが、商才があり、地元の銀行を買収して銀行経営者となった成功者であった[1]。母アンヌ=エリザベート・オーベール(1814年-1897年)は、エクスの椅子職人の娘で、もともとルイ=オーギュストの使用人であった。セザンヌの出生時には2人は内縁関係にあり、1841年に妹マリーが生まれた後、1844年に入籍した。1854年、妹ローズが生まれた[2]。
10歳の時、エクスのサン・ジョセフ校に入学した。1852年(13歳の時)、ブルボン中等学校に入り、そこで下級生だったエミール・ゾラと友達になった。パリ生まれで親を亡くしていたゾラは、エクスではよそ者で、級友からいじめられていた[3]。セザンヌは、村八分を破ってゾラに話しかけたことで級友から袋叩きに遭い、その翌日、ゾラがリンゴの籠を贈ってきたというエピソードを、後に回想して語っている[4]。もう1人の少年バティスタン・バイユ(後に天文学者)も併せた3人は、親友として絆を深めた[5]。彼らは、散歩、水泳を楽しみ、ホメーロス、ウェルギリウスの詩、ヴィクトル・ユーゴー、アルフレッド・ド・ミュッセへの情熱を共有した[6]。セザンヌは、同校に6年間在籍する間、1857年にエクスの市立素描学校に通い始め、ジョゼフ・ジベールに素描を習った[7]。1858年から1861年まで、父の希望に従い、エクス大学の法学部に通い、同時に素描の勉強も続けていた[8]。父が1859年に購入した別荘ジャス・ド・ブッファンの1階の壁画に、四季図と父の肖像画を描いた[9]。
セザンヌは、法律の勉強にはなじめず、次第に大学の勉強を怠けるようになった。1859年2月、ゾラがパリの母親のもとに発ち、残されたセザンヌは、ゾラとの文通を始め、詩や恋愛について語り合った[10]。ゾラは、絵の道に進むかどうか迷うセザンヌに、早くパリに出てきて絵の勉強をするようにと繰り返し勧めている。ゾラからセザンヌ宛ての手紙には「勇気を持て。まだ君は何もしていないのだ。僕らには理想がある。だから勇敢に歩いていこう。」、「僕が君の立場なら、アトリエと法廷の間を行ったり来たりすることはしない。弁護士になってもいいし、絵描きになってもいいが、絵具で汚れた法服を着た、骨無し人間にだけはなるな。」とあった。
画家としての出発(1860年代)
セザンヌは、ゾラの勧めもあって、大学を中退し、絵の勉強をするために1861年4月にパリに出た。ルーヴル美術館でベラスケスやカラヴァッジオの絵に感銘を受けた。しかし、官立の美術学校(エコール・デ・ボザール)への入学が断られたため、画塾アカデミー・シュイスに通った。ここで、カミーユ・ピサロやアルマン・ギヨマンと出会った[11]。朝はアカデミー・シュイスに通い、午後はルーヴル美術館か、エクス出身の画家仲間ジョセフ・ヴィルヴィエイユのアトリエでデッサンをしていたという。そのほか、ゾラや、同じくエクス出身の画家アシル・アンプレールと交友を持った[12]。
しかし同年9月にはエクスに帰り、父の銀行で働きながら、美術学校に通った。後年、セザンヌは、この時の話題には触れたがらなかったようである[13]。銀行勤めはうまく行かず、翌1862年秋、再びパリを訪れ、アカデミー・シュイスで絵を勉強した。この時、クロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールと出会ったようである[14]。また、エクス出身の彫刻家で終生の友人となったフィリップ・ソラーリとも知り合い、共同生活を送った[15]。ロマン主義のウジェーヌ・ドラクロワ、写実主義のギュスターヴ・クールベ、後に印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネらから影響を受けた。この時期(1860年代)の作品は、ロマン主義的な暗い色調のものが多い。
1863年、ナポレオン3世が開いた落選展に、マネが『草上の昼食』を出品してスキャンダルを巻き起こし、セザンヌもこれを見たと思われるが、セザンヌ自身が出品した記録はない[注釈 2]。1865年には、サロン・ド・パリに応募したが、落選した。応募の時、ピサロに、「学士院の連中の顔を怒りと絶望で真っ赤にさせてやるつもりです」と書いている[16][注釈 3]。1866年5月には、文学の道を選んだゾラがサロン評をまとめた『わがサロン』を刊行し、その序文でセザンヌに触れるなど、ゾラとの強い友情は続いていた[17]。セザンヌは、同年5月から8月まで、セーヌ川沿いの小村ベンヌクールで制作活動を行ったが、ここを訪れたゾラは、「セザンヌは仕事をしている。彼はその性格の赴くままに、ますます独創的な道を突き進んでいる。彼には大いに希望が持てるよ。とはいっても、彼は向こう10年は落選するだろうとも僕らは踏んでいるんだ。今、彼はいくつかの大作を、4メートルから5メートルはある画布の作品をやろうと目論んでいる。」と友人に報告している[18]。美術批評家としての地位を確立しつつあったゾラは、マネを囲む革新的画家がたむろするカフェ・ゲルボワの常連となり、セザンヌもこれに加わった[19]。
1869年、後に妻となるオルタンス・フィケ(当時18歳)と知り合い、後に同棲するが、厳格な父を恐れ彼女との関係を隠し続けた[20]。父からの月200フランの仕送りで2人の生活を支えなければならず、経済的には苦しくなった[21]。
1870年のサロンには、画家仲間アシル・アンプレールを描いた肖像画を応募し、またも落選した[22]。この年の7月19日に普仏戦争が勃発したが、母がエクスから約30キロ離れ地中海に面した村エスタックに用意してくれた家にフィケとともに移り、兵役を逃れた[23]。
-
『「レヴェヌマン」紙を読む画家の父』1866年、198.5 × 119.3 cm。ナショナル・ギャラリー。
-
『略奪』1867年頃、90.5 × 117 cm。フィッツウィリアム美術館。
-
『アシル・アンプレールの肖像』1868年頃、200 × 120 cm。オルセー美術館。
-
『ピアノを弾く若い娘』(『タンホイザー序曲』)1869-70年頃、57 × 92 cm。エルミタージュ美術館。
-
『饗宴』1870年頃、130 × 81 cm。個人コレクション。
-
『草上の昼食』1870-71年頃、60 × 81 cm。個人コレクション。
-
『聖アントワーヌの誘惑』1870年頃。油彩、キャンバス、52 × 73 cm。ビュールレ・コレクション。
-
『田園詩』1870年頃、65 × 81 cm。オルセー美術館。
印象主義の時代(1870年代)
パリ・コミューンの混乱が終わり、フランス第三共和政が発足すると、パリを逃れていた画家たちが戻ってきた。セザンヌも、1872年夏にはエスタックからパリに戻ったようである[24]。同年、フィケと1月に生まれたばかりの息子ポールを連れてパリ北西のポントワーズに移り、ピサロとイーゼルを並べて制作した。そのすぐ後、ピサロとともに近くのオーヴェル=シュル=オワーズに移り住んだ。ここでアマチュア画家の医師ポール・ガシェとも親交を結んだ[25]。1873年にパリ・モンマルトルに店を開いた絵具商タンギー爺さんことジュリアン・タンギーも、ピサロの紹介で知り合ったセザンヌの作品を熱愛した[26]。セザンヌは、この時期にピサロから印象主義の技法を習得し、セザンヌの作品は明るい色調のものが多くなった。セザンヌは、印象派からの影響について、後年次のように語っている。
私だって、何を隠そう、印象主義者だった。ピサロは私に対してものすごい影響を与えた。しかし私は印象主義を、美術館の芸術のように堅固な、長続きするものにしたかったのだ[27]。
また、これに続けて、モネについて、「モネは一つの眼だ、絵描き始まって以来の非凡なる眼だ。私は彼には脱帽するよ。」とも語っている[28]。
1874年、モネ、ドガらが開いたグループ展に『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』など3作品を出品した[29]。『モデルヌ・オランピア』は、マネの『オランピア』に対抗して、より明るい色調と速いタッチで近代の絵画の姿を示そうとした作品であった[30]。この展覧会は、後に第1回印象派展と呼ばれることになるが、モネの『印象・日の出』を筆頭に、世間から酷評された[31]。セザンヌの『モデルヌ・オランピア』も、新聞紙上で「腰を折った女を覆った最後の布を黒人女が剥ぎとって、その醜い裸身を肌の茶色いまぬけ男の視線にさらしている」と書かれるなど、厳しい酷評・皮肉が集中した[32]。他方、ゾラは、マルセイユの新聞「セマフォール・ド・マルセイユ」に、無署名記事で、「その展覧会で心打たれた作品は多いが、中でも、ポール・セザンヌ氏の非常に注目すべき一風景画をここに特筆しておきたい。[……]その作はある偉大な独創性を証明していた。ポール・セザンヌ氏は長年苦闘を続けているが、真に大画家の気質を示している。」と援護している[33]。また、『首吊りの家』は、アルマン・ドリア伯爵に300フランの高値で買い上げられた[34]。セザンヌは、この年の秋に母に書いた手紙で、「私が完成を目指すのは、より真実に、より深い知に達する喜びのためでなければなりません。世に認められる日は必ず来るし、下らないうわべにしか感動しない人々より、ずっと熱心で理解力のある賛美者を獲得するようになると本当に信じてください。」と自負心を表している[35]。
その後、パリとエクスの間を行ったり来たりした。1876年の第2回印象派展には出品していない。辛辣な批評に自信を失って出品を断ったとも言われるが、サロンに応募を続けるセザンヌの姿勢が、グループ展に参加するからにはサロンに応募すべきではないというエドガー・ドガの方針に反したためとも言われる[36]。
絵画収集家ヴィクトール・ショケの励ましもあり、1877年の第3回印象派展に、油彩13点、水彩3点の合計16点を出品した。ここには、既に、肖像画、風景画、静物、動物、水浴図、物語的構成図という、セザンヌが扱う主題が全て含まれていた[37]。その中に含まれていたショケの肖像は再び厳しい批評にさらされたが、一方で、「『水浴図』を見て笑う人たちは、私に言わせればパルテノンを批判する未開人のようだ」と述べたジョルジュ・リヴィエールのほか、エドモン・デュランティ、テオドール・デュレのように、セザンヌの作品を賞賛する批評家も現れた[38]。ゾラも、「セマフォール・ド・マルセイユ」紙に「ポール・セザンヌ氏は確かに、このグループ[印象派]で最高の偉大な色彩画家である」との賛辞を書いている[39]。
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『モデルヌ・オランピア』(第2作)1873年頃、46 × 55 cm。オルセー美術館。
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『肘掛け椅子に座るヴィクトール・ショケ』1877年、46 × 38 cm。コロンバス美術館。
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『女性水浴図』1875-77年、38.1 × 46 cm。メトロポリタン美術館。
エクスでの隠遁生活(1880年代)
セザンヌは、1878年頃から、時間とともに移ろう光ばかりを追いかけ、対象物の確固とした存在感がなおざりにされがちな印象派の手法に不満を感じ始めた。
そして、セザンヌは、モネ、ルノワール、ピサロとの友情は保ちながらも、第4回印象派展以降には参加していない。1879年4月、ピサロに対し、「私のサロン応募のことで論争が起こっている折から、私は印象派展覧会に参加しない方がよいのではないかと考えます。また他方では、作品搬入の面倒さから来る苦労を避けたくもありますし。それにここ数日のうちにパリを発つのです。」と書き送っている[40]。印象派グループの中でも、モネやルノワールと、ドガとの対立が鋭くなり、ドガが出品する第4回(1879年)、第5回(1880年)印象派展を、モネやルノワールがボイコットするという事態になっていた[41][注釈 4]。
セザンヌは、同時期から、制作場所をパリから故郷のエクスに戻した。第3回印象派展の後、1895年に最初の個展を開くまで、パリの画壇からは知られることなく制作を続けた[42]。1878年から1879年にかけて、エクスとエスタックに滞在することが多くなった[43]。この頃、妻子の存在を父に感付かれたことで、父子の関係は悪化し、1878年4月から8月頃、毎月の送金を半分に減らされ、ゾラに月60フランの援助を頼んだ[44]。画材をタンギーの店で買い、代金代わりに絵を渡すことも多く、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホはこの店でセザンヌを研究した。また、ショケ、ピサロ、ガシェなどもタンギーの店でセザンヌの作品を買った[45]。ゴーギャンは、ピサロに、「セザンヌ氏は万人に認められる作品を描くための正確な定式を発見したでしょうか。[……]どうか彼にホメオパシーの神秘的な薬を与えて、眠っている間にそれをしゃべらせ、できるだけ早く私たちに報告しにパリまで来てください。」という手紙を送っている[46]。
1880年代前半には、10月から2月頃までは南仏で過ごし、エクスの父の家とマルセイユの妻子のいる家とエスタックの自分の家を行き来し、サロンのシーズンが始まる3月にはパリに出て、パリのアパルトマンを借りたり、ムランやポントワーズといった近郊の町に下宿したりする、という生活を繰り返していた[48]。パリを訪れた時は、ゾラがセーヌ川沿いのメダンに買った別荘に招待されることも度々であった[49]。
1882年、『L・A氏の肖像』という作品で初めてサロン・ド・パリ(官展)に入選した。この時、彼は、サロンの審査員となっていた友人アントワーヌ・ギュメの弟子という形にしてもらい、審査員が弟子の1人を入選させることができるという特権を使って入選させてもらったという[50][注釈 5]。
1886年、ゾラが小説『作品』を発表した。ゾラはこの小説の中でセザンヌとマネをモデルにしたと見られる画家クロード・ランティエの主人公の芸術的失敗を描いた。同年4月、ゾラから献本されたこの本をエクスで受け取ったセザンヌは、ゾラに、「君の送ってくれた『作品』を受け取ったところだ。この思い出のしるしをルーゴン・マッカールの著者に感謝し、昔の年月のことを思いながら握手を送ることを許していただきたい。」という短い手紙を送った[51]。この小説がきっかけとなり、セザンヌとゾラの友情は断たれてしまったというのが、セザンヌ研究の第一人者ジョン・リウォルドの説であり、定説化しているが、これに対しては、『作品』にはセザンヌの助言が反映されており2人の関係を破綻させるような内容ではなく、むしろメダンの館に雇われていた女性ジャンヌ・ロズロをめぐる恋愛関係が2人の距離を遠くしたとの説が唱えられている[52].
同年(1886年)4月28日、17年間同棲していたオルタンス・フィケと結婚した。同年10月、父が88歳で死去した[53]。父から相続した遺産は40万フランであり、経済的には不安がなくなった。
サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けたが、絵はなかなか理解されなかった。1889年にパリ万国博覧会で旧作『首吊りの家』が目立たない場所に展示されたほか、1890年、ブリュッセルの20人展に招待されて3点の油彩画を送ったが、余り反響はなかった[54]。しかし、前衛的な若い画家や批評家の間では、セザンヌに対する評価が高まりつつあった。ポール・ゴーギャン、アルベール・オーリエ、エミール・ベルナール、モーリス・ドニ、ポール・セリュジエ、ギュスターヴ・ジェフロワ、ジョルジュ・ルコント、シャルル・モリスなどである[55]。
ルコントは、1892年の著書『印象主義者の芸術』の中で、「セザンヌは、最も平凡な対象を描く時でも常にそれを高貴なものにする。」、「限りなく柔らかな色調と、豊かな広がりをうまく抑制できる極めて単純な色彩の均一性にもかかわらず、彼の絵画には力強さがみなぎっている。」と賞賛し、ジェフロワも、1894年の『芸術生活』第3巻の一つの章をセザンヌに割いている[56]。ギュスターヴ・カイユボットが、1893年、ルーヴル美術館に入れられることを条件として印象派の絵画コレクションを遺贈したことも世間の注目を集めた[57]。
1890年頃からは、年齢と糖尿病のため、戸外制作が困難になり、人物画に重点を移すようになった[58]。
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『サント・ヴィクトワール山』1887年頃、67 × 92 cm。コートールド・ギャラリー。
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『カード遊びをする人々』1890-92年、65 × 81 cm。メトロポリタン美術館。
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『男性水浴図』1892-94年、26 × 40 cm。エルミタージュ美術館。
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『リンゴの籠のある静物』1890-94年。シカゴ美術館。
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『黄色い椅子のセザンヌ夫人』1893-95年、81 × 85 cm。個人コレクション。
個展の成功(1895年)
1895年11月、パリのアンブロワーズ・ヴォラールの画廊で初個展を開いた。ヴォラールにセザンヌの個展を開くことを勧めたのはピサロであり、ヴォラールがセザンヌの子を通じて南仏の彼に連絡を取ると、1868年頃から1895年までの集大成といえる約150点の油彩画が送られてきた。ピサロは、息子ジョルジュへの手紙で、「実に見事だ。静物画と大変美しい風景画、何とも奇妙な水浴者たちがとても落ち着いて描かれている。」、「蒐集家たちは仰天している。彼らは何も分かっていないが、セザンヌは驚くべき微妙さ、真実、古典主義を持った第一級の画家だ。」と書いている[59]。
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『アンブロワーズ・ヴォラールの肖像』1899年、プティ・パレ美術館。
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『リンゴとオレンジのある静物』1895-1900年、オルセー美術館。
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『アヌシー湖』1896年、コートールド・ギャラリー。
同郷の友人の息子で詩人だったジャワシャン・ガスケが、1896年、セザンヌと知り合い、後に彼の伝記を書いている[60]。1897年、母が亡くなると、ジャス・ド・ブッファンは売られてしまった。ガスケによれば、セザンヌは、父の形見として大事にしていた肘掛け椅子や机が家族に処分のため燃やされてしまったことに、絶望を露わにしたという[61]。1898年と1899年には一時パリで過ごしたが、1900年以降はエクスでの制作に専念するようになった[62]。しかし、エクスでは周囲に理解されず、ゾラがドレフュス事件で『私は弾劾する』(1898年)を発表したときなどは、その友人としてセザンヌを中傷する記事が地元の新聞に掲載されたこともあった[63]。
最晩年(1900年 - 1906年)
1900年にパリで開かれた万国博覧会の企画展である「フランス美術100年展」に他の印象派の画家たちとともに出品し、これ以降セザンヌは様々な展覧会に積極的に作品を出品するようになった。1904年から1906年までは、まだ創設されて間もなかったサロン・ドートンヌにも3年連続で出品した。
ナビ派の画家モールス・ドニは、1900年、画商ヴォラールの画廊を舞台として、セザンヌの静物画の周囲に、ドニ自身のほか、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、ポール・ランソン、ルーセル、ポール・セリュジエというナビ派の仲間、ヴォラール、批評家アンドレ・メレリオが、巨匠オディロン・ルドンと向い合って立っている作品『セザンヌ礼賛』を制作し、これを1901年の国民美術協会サロンに出品した[64]。セザンヌは、一般社会からはまだ顧みられていなかったが、若い画家たちからは強い敬愛を受けていたことを示している[65]。このセザンヌの静物画は、ゴーギャンが愛蔵し、その肖像画の中に画中画として描き入れた絵でもあった[66]。
晩年には、セザンヌを慕うエミール・ベルナールやシャルル・カモワンといった若い芸術家たちと親交を持った[67]。ベルナールは、1904年にエクスのセザンヌのもとに1か月ほど滞在し、後に『回想のセザンヌ』という著書でセザンヌの言葉を紹介している。ベルナールによれば、セザンヌは、朝6時から10時半まで郊外のアトリエで制作し、いったんエクスの自宅に戻って昼食をとり、すぐに風景写生に出かけ、夕方5時に帰ってくるという日課を繰り返していたという[68]。また、日曜日には教会のミサに熱心に参加していたという[69]。セザンヌは、同年4月15日付けのベルナール宛の書簡で、次のような芸術論を語っている。
ここであなたにお話したことをもう一度繰り返させてください。つまり自然を円筒、球、円錐によって扱い、全てを遠近法の中に入れ、物やプラン(平面)の各側面が一つの中心点に向かって集中するようにすることです。水平線に平行な線は広がり、すなわち自然の一断面を与えます。もしお望みならば、全知全能にして永遠の父なる神が私たちの眼前に繰り広げる光景の一断面といってもいいでしょう。この水平線に対して垂直の線は深さを与えます。ところで私たち人間にとって、自然は平面においてよりも深さにおいて存在します。そのために、赤と黄で示される光の振動の中に、空気を感じさせるのに十分なだけの青系統の色彩を入れねばなりません[70][71]。
この「自然を円筒、球、円錐によって扱う」というフレーズは、幾何学的形態への還元を勧めるものと解釈され、後のキュビスムに理論的基盤を与えたが[72]、セザンヌの真の意図については様々な解釈がある。
1906年9月21日のベルナール宛書簡では、「私は年をとった上に衰弱している。絵を描きながら死にたいと願っている。」と書いている[73]。その年の10月15日に野外で制作中に大雨に打たれ肺炎にかかり、同月22日(または23日)に死去した。
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『大水浴図』1898 - 1905年。フィラデルフィア美術館。
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『サント・ヴィクトワール山』1904年。フィラデルフィア美術館。
後世
1907年、サロン・ドートンヌの一部として、セザンヌの回顧展が行われ、油彩画を中心とする56点が展示された[74]。オーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケは、この回顧展を見て感動し、妻に「僕は今日もまたセザンヌの絵を見に行った。……セザンヌの絵の実存が一つのまとまった巨大な『現実』を作り出している。」といった手紙を書いている[75]。
1900年に『男の裸体』を描いたアンリ・マティス、1907年に『水浴者たち』を描いたアンドレ・ドランなど、フォーヴィスムの画家にも影響を与えた[76]。マティスの1910年から1917年までの実験的な作品の中には、色彩による構築というセザンヌの手法への理解が見られ、マティスは、さらに、色彩の単純化と構図の平面化を押し進めていった[77]。ドランは、自分の部屋の壁に、セザンヌの『5人の浴女たち』の複製写真をかけており、『水浴者たち』は原始美術とセザンヌの影響を総合した作品であった[78]。
ジョルジュ・ブラックは、1902年にはセザンヌの絵画を見ており、1904年には自分の絵の中にセザンヌの要素を取り入れている。さらに、1907年、南仏滞在の記憶をもとに描いた『家々のある風景』では、セザンヌによる細部の省略を推し進め、建物を幾何学的な形態に変化させている[79]。
彼の肖像はその作品とともにユーロ導入前の最後の100フランス・フラン紙幣に描かれていた。
作品
カタログ
ジョン・リウォルドが、1984年にセザンヌの水彩画のカタログ・レゾネを、1996年に油彩画のカタログ・レゾネを刊行し、今日のセザンヌ研究の基礎となっている[80]。
作風
美術史家のリオネロ・ヴェントーリは、セザンヌの油彩画の発展段階を、(1)アカデミズムとロマン主義の時期(1858年-71年)、(2)印象主義の時期(1872年-77年)、(3)構成主義の時期(1878年-87年)、(4)総合の時期(1888年-1906年)に分けて考察している[81]。
初期の絵画は、内面の情念を露骨に表出したものが多く、絵具を力強く盛り上げて描いている[82]。この時期のセザンヌに最も大きな影響を与えたのは、ウジェーヌ・ドラクロワとギュスターヴ・クールベであった[83]。
パリで、ピサロから、戸外で自然を見て描くという印象主義の発想を教えられ、田園の風景画を描き始める[84]。彼は、印象派を通して、色彩を解放することを知った[85]。しかし、印象派のモネやアルフレッド・シスレーが、色彩によって、瞬間的な色調の変化や、その場の雰囲気を伝えようとしたのに対し、セザンヌは、色彩による堅固な造形を目指している点に特徴がある[86]。第1回印象派展に出品した『首吊りの家』においては、明るい色彩を用いながら、一瞬の映像ではなく、建物の力強い実在感や、空間を構成しようとする意図が表れている[87]。ゾラがセーヌ川沿いに購入した家を描いた『メダンの館』でも、水平線と垂直線が作り出す構図の中に、小さな筆触(タッチ)が秩序立って並べられており、キャンバスの表面における秩序が追求されている[88]。
こうした落ち着いた古典主義的作品を制作した一方で、1880年代の静物画では、緊張感をはらんだ歪み(デフォルマシオン)が現れる[89]。オルセー美術館にある『果物籠のある静物』では、砂糖壺が傾いていたり、壺が上から覗き込んでいるように描かれているのに対し果物籠が横から見たように描かれているなど複数の視点が混在していたり、テーブルの左右の稜線が食い違っていたりという、多くのデフォルマシオンが生じている。それが物の圧倒的な存在感をもって見る者に迫ってくる要素となっている。こうした独特の造形は、同時代の人々からは激しく非難されたが、やがてパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックのキュビスムによって評価されることになる[90]。
脚注
注釈
- ^ 近年(特に1993年以降)の文献では、死没日を10月23日とするものが多くなっている。浅野 (2000: 68) は、最近の調査で死亡時刻が10月23日午前7時であったことが判明したと指摘している。また、ルイス (2005: 339) は、セザンヌの墓碑に記された10月22日という死没日は誤記であるとしている。
- ^ ジョン・リウォルド『印象派の歴史』(1946年)に、セザンヌは落選展のカタログから漏れているが出品したと記載されていることから、これに従う文献もあるが、出品したという根拠や何を出品したかは示されておらず、近年はセザンヌは落選展を見ただけとする文献が多い。新関 (2000: 37, 330)。
- ^ この年が、セザンヌがサロンに応募したことが資料上推定できる最初の年である。新関 (2000: 148)。
- ^ モネは、第4回印象派展に出品を断ったが、ギュスターヴ・カイユボットが所蔵者から借り集めて取り繕った。新関 (2000: 107-08)。
- ^ 『L・A氏の肖像』という作品は、セザンヌの父ルイ=オーギュストの肖像であると推定される。経済的に支え続けてくれた父に入選の名誉を捧げたかったとの推測もされている。新関 (2000: 157, 165-77)。
出典
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- ^ ガスケ (2009: 74-75)。
- ^ セザンヌのピサロ宛1865年3月15日付け書簡。新関 (2000: 148)。
- ^ 浅野 (2000: 25)。
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参考文献
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