「ダ埼玉」の版間の差分
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'''ダ埼玉'''(ダさいたま)は、「[[ダサい]]」と「[[埼玉県]]」を掛け合わせた[[造語]]である<ref name="日本俗語大辞典">{{Cite book| |
'''ダ埼玉'''(ダさいたま)は、「[[ダサい]]」と「[[埼玉県]]」を掛け合わせた[[造語]]である<ref name="日本俗語大辞典">{{Cite book|和書|author=[[米川明彦]] |title=日本俗語大辞典|publisher=[[東京堂出版]]|year=2003|isbn=978-4490106381|page=340}}</ref>。この造語は[[1980年代]]初頭にタレントの[[タモリ]]によって考案されたもので<ref name="史の会">{{Cite book|和書|author=史の会 編|title=昭和史の埼玉 激動の60年|publisher=さきたま出版会|year=1986|isbn=4-87891-0310-3|page=267}}</ref>、埼玉県を「野暮ったい」「垢抜けない」ものと見做して嘲笑することを目的とした<ref name="日本俗語大辞典"/>。 |
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== 経緯 == |
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=== 造語の誕生と波及 === |
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芸能界デビューから[[1980年代]]にかけての[[タモリ]]は攻撃的な言動の芸風で知られ<ref name="All About">{{Cite web|author=広川峯啓|url=http://allabout.co.jp/gm/gc/452480/|title=タモリ・小田和正「歴史的和解」までの長い道のり|publisher=All About,Inc.|date=2015年2月27日|accessdate=2015年11月14日}}</ref>、「表面的には明るく振る舞うが、内面に暗さを抱える人物」に対して「[[ネクラ]]」と対義語の「ネアカ」いう表現<ref>{{Cite web|author=もりひろし|url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20131121/256169/?P=2|title=タモリさんと「あの言葉」の関係(前編)その攻撃的芸風を振り返る|publisher=[[日経ビジネス|日経ビジネスオンライン]]|date=2013年11月26日|accessdate=2015年11月14日}}</ref>、[[愛知県]]出身者の使用する[[名古屋弁]]に対して「エビフリャー」([[エビフライ]]の意)などの表現を好んで使うなど<ref name="日経20131203-2">{{Cite web|author=もりひろし|url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20131127/256414/?P=1|title=タモリさんと「あの言葉」の関係(後編)着眼点を発信する芸人|publisher=日経ビジネスオンライン|page=1|date=2013年12月3日|accessdate=2015年11月14日}}</ref>、自身の番組内でさまざまな人々や地域やジャンルを笑いの対象としていた<ref name="All About"/>。 |
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タモリが埼玉に関心を持ったのは、[[1981年]](昭和56年)[[2月]]に放送された、自身がパーソナリティを務めるラジオ番組『[[タモリのオールナイトニッポン]]』の「思想のない歌」コーナーの中で[[さいたまんぞう]]の『なぜか埼玉』という[[コミックソング]]を取り上げた時からといわれている<ref name="鶴崎10-14">{{Cite book|和書|author=鶴崎敏康 |year=2010 |title=< さいたま > の秘密と魅力|publisher=[[埼玉新聞社]]|isbn=978-4-87889-329-2 |page=10-14}}</ref>。 |
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[[ファイル:竹の子族集合写真.jpg|250px|thumb|1980年代初頭、タモリは埼玉県民や千葉県民などで構成される竹の子族の垢抜けない服装に着目し、「ダ埼玉」の造語を生み出した。]] |
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そのタモリが埼玉に関心を持ったのは、[[1981年]](昭和56年)[[2月26日]]<ref name="ダイヤモンド20120112">{{Cite web|author=まがぬまみえ|url=http://diamond.jp/articles/-/15637?page=3|title=『なぜか埼玉』の大ヒットから30年一匹羊として進化する「さいたまんぞう」の食生活|publisher=[[ダイヤモンド社|ダイヤモンド・オンライン]]|date=2012年1月12日|accessdate=2015年11月14日}}</ref>に放送された『[[タモリのオールナイトニッポン]]』の「思想のない歌」コーナーの中で[[さいたまんぞう]]の『なぜか埼玉』という[[コミックソング]]を取り上げた時からといわれている<ref name="鶴崎10-11">[[#鶴崎 2010|鶴崎 2010]]、10-11頁</ref>。当初、この歌は売り上げが芳しくなかったが、2月26日付けの放送が全国オンエアされると聴取者の間で抑揚のない歌い方とメロディが評判となり、さいたはメジャーデビューに至った<ref name="ダイヤモンド20120112"/><ref name="鶴崎10-11"/>。 |
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⚫ | その後、当時の若者の間で流行していた[[竹の子族]]という風俗の愛好者に埼玉県や[[千葉県]]出身者が多いことが調査結果により明らかになると<ref name="史の会"/><ref name="鶴崎10-11"/>、タモリはこうした若者達が[[もんぺ]]風の衣装など世間一般には「垢抜けない」と見做される服装<ref name="史の会"/>あるいは奇抜な服装を身に付けていたことから<ref name="鶴崎10-11"/>「ダサい」と評するようになり<ref name="史の会"/><ref name="鶴崎10-11"/>、[[1982年]](昭和57年)[[10月4日]]から[[フジテレビ系列]]で放送開始された『[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]』の中で「ダ埼玉」という言葉を頻繁に使用し、当時の[[流行語]]となった<ref name="史の会"/><ref name="埼玉19840313">{{Cite book|和書|chapter="ダサイタマ"論争、県会でも 知事ハッスル答弁|title=[[埼玉新聞]]|volume=1984年3月13日 11面}}</ref>。 |
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埼玉県では問題を深刻に捉え、県発行の広報誌において問題をテーマにした紙上討論会を掲載し<ref name="史の会"/>、[[埼玉県庁]]内にイメージアップのための調査研究グループを設立した<ref name="史の会"/>。こうした埼玉県の動向を知ったタモリは更に関心を持ち<ref name="史の会"/>、[[愛知県]]出身者の使用する[[名古屋弁]]と共に埼玉県を笑いの対象と見做して自身の出演する番組内で揶揄した<ref name="鶴崎10-14"/>。 |
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1980年代当時、タモリは『タモリのオールナイトニッポン』の番組内に「お国批判にしひがし」というコーナーを設け聴取者から笑いのネタを募ると、自身の出身地である[[福岡県]]を皮切りに、愛知県や埼玉県に限定せず全国各地を笑いの対象として揶揄していたが<ref name="All About"/>、地域を笑いの対象とした理由について[[1980年]](昭和55年)[[9月30日]]放送の同番組内で次のように発言している<ref name="日経20131203-2"/>。 |
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{{Quotation|別に本当に恨みがあるわけじゃございません。ある地方を[[肴|サカナ]]にして、推測と理論でワァワァ笑ってる、というだけのことでしてねえ。だからわかってるひとは笑ってくれている。ムクレているのは女子供と爺っちゃん連中だけという<ref name="日経20131203-2"/>。|タモリ}} |
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なお、新語ウォッチャーのもりひろしは「タモリがひそかに発信したのは『言葉』ではなく『着眼点』だったように思う。彼が媒介となって地域[[コンプレックス]]をあぶり出し、言葉やアイデアの面白さを増幅させた」と評しているが<ref>{{Cite web|author=もりひろし|url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20131127/256414/?P=4|title=タモリさんと「あの言葉」の関係(後編)着眼点を発信する芸人|publisher=日経ビジネスオンライン|page=4|date=2013年12月3日|accessdate=2015年11月14日}}</ref>、埼玉に関しては造語の発信だけでなく、『笑っていいとも!』の番組内において「昨今の風潮を子供が気にしているので、当事者自身の言葉で否定してほしい」と訴える視聴者の主婦からの投書を「…ええ、真実を隠すことになりますので、嘘は言えませーん」と撥ねつけ笑いものにするパフォーマンスを行ったことや(『笑っていいとも!』1983年2月10日放送分<ref name="漫遊記">{{Cite book|和書|author=矢島栄二|title=Go!Go!埼玉漫遊記|publisher=まつやま書房|year=1985|asin=B000J6PH44|page=216}}</ref>)、タモリとは言明されていない「あるタレント」がテレビ視聴者に対して後進的なイメージを植え付けるため<ref name="埼玉19840313"/>、前時代的な「[[肥料|下肥え]]担ぎ」のパフォーマンスを行ったことが記録として残されている<ref name="埼玉19840313"/>。 |
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埼玉県では問題を深刻に捉え、[[1983年]](昭和58年)6月に[[埼玉県庁]]内にイメージアップのための調査研究グループを設立<ref name="埼玉19840313"/>、県発行の広報誌『県民だより』昭和58年9月号において問題をテーマにした紙上討論会を開き<ref name="史の会"/>、埼玉県知事の[[畑和]]、[[埼玉大学]]名誉教授の小野文雄、タレントの[[所ジョージ]]のコメントや読者からの投書を掲載した<ref name="県民だより">{{Cite book|和書|chapter=紙上討論会 なぜダサイ玉|title=県民だより|volume=昭和58年9月号 3面|publisher=[[埼玉県]]広聴広報課|year=1983}}</ref>。 |
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{{Quotation|昨年、県が行った県民意識調査では肯定的意見が大多数を占め86%の人が「埼玉県を好き」と答えている。「あかぬけない」「田舎臭い」というのは、東京との比較で言ってるのでしょうが、埼玉には埼玉ならではの、例えば「人情味がある」「緑が多い」とかの良さがあるということです<ref name="県民だより"/>。|畑和}} |
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{{Quotation|ダサイと軽蔑するのは、他より優れた地位に就きたいという人間の心理でしょう。優越感は劣等感の裏返し。気にすることはありません。埼玉の良いところは人々が寛容であっさりとしているところ。豊かな自然と共に、住んでいる人にとってはとてもいいところです。ただ、東京と違って都市環境が劣っているのは事実です。今後、このような面が改良されれば、ダサイと言われても何でもないのですが<ref name="県民だより"/>。|小野文雄}} |
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{{Quotation|タモリが言ってるのはあれは冗談。お仕事なんです。でも、オレが言ってるのは本当にそう思ってるから。別に埼玉という土地を嫌いなわけじゃないし悪さを感じている訳でもないけど、特に若い奴らを見てると「オレたちは田舎者じゃない、東京がなんだ」なんて強がりを言ったり、見栄をはっているところがダサイんだよ。何をしたって東京には勝てっこないんだから若い奴らはもっと東京指向でいいと思う。でも、まあ子供を育てるにはいいところだと思うね。自然も残っているし<ref name="県民だより"/>。|所ジョージ}} |
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一連の動向を知ったタモリは更に関心を持ち<ref name="史の会"/><ref name="鶴崎12">[[#鶴崎 2010|鶴崎 2010]]、12頁</ref>、『笑っていいとも!』の生放送中に埼玉県庁に電話取材を試みると<ref name="史の会"/>、[[埼玉県議会]]の議題に取り上げられる事態へと発展した<ref name="史の会"/><ref name="鶴崎12"/>。1984年3月13日付けの『[[埼玉新聞]]』は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]選出議員の片貝光次と畑知事との間で質疑応答が行われた際、畑知事のアピールに議会が沸き立ったと報じた<ref name="埼玉19840313"/>。また、同年4月に調査研究グループによる報告書『埼玉の魅力―イメージアップをめざして』が出版された際、研究グループのリーダーは「タモリが教わることはあっても、こちらが学ぶことはありません」と回答したと言われているが<ref name="漫遊記"/>、当の埼玉県民はタモリの言動を「一種のユーモア」として楽しむ者<ref name="県民だより"/>、言葉通りに受け取り反応する者<ref name="埼玉19840313"/>、それを冷笑する者<ref name="埼玉19840313"/>などに分かれた。 |
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一方、『県民だより』昭和58年9月号に掲載された読者からの一部報告例や<ref name="県民だより"/>、1984年3月13日付けの『埼玉新聞』の報道にあるように<ref name="埼玉19840313"/>、「ダ埼玉」という言葉や埼玉県を揶揄する風潮は1980年代を通じて全国に波及した<ref name="鶴崎12"/>。紙上討論会にコメントを掲載した[[所沢市]]<ref>{{Cite web|url=http://www.inlifeweb.com/reports/report_148.html|title=男の履歴書 所ジョージ|publisher=インライフ|accessdate=2015年11月14日}}</ref>出身の所は[[1984年]](昭和59年)頃、自身の出演番組内で埼玉県を揶揄するジョークを繰り返し、マイナスイメージの定着に一役買う結果となった<ref>{{Cite book|和書|author=[[上之郷利昭]]|title=先端知事・畑和の新・現実主義を生きる|publisher=[[講談社]]|year=1988|isbn=978-4062037655|page=66-67}}</ref>。 |
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⚫ | こうした風潮は[[2000年代]]頃まで続き<ref name="三浦、日本史倶楽部27">[[#三浦、日本史倶楽部 2009|三浦、日本史倶楽部 2009]]、27頁</ref>、東京への良好なアクセスと住環境<ref name="官界199510">{{Cite book|和書|chapter=埼玉県浦和、大宮、与野の三市合併 主導権争いの行方―三市それぞれ思惑乱れて―|title=月刊官界|volume=1995年10月号|publisher=行政問題研究所|page=212-215}}</ref>あるいは県内の独自性や著名な人物の存在<ref name="三浦、日本史倶楽部27"/>などといった地域特性を無視し、否定的な評価を受ける機会が多かったと言われる<ref name="三浦、日本史倶楽部27"/><ref name="官界199510"/>。 |
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=== 行政の対応 === |
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[[1992年]](平成4年)6月、元[[参議院議長]]の[[土屋義彦]]が埼玉県知事に就任した。土屋はかねてから県民の東京に対する依存意識の根深さ<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、211頁</ref>、県を揶揄する風潮<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、104頁</ref>、[[経済企画庁]]が発表する「豊かさ指標」による低評価<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、112-113頁</ref>、前例踏襲的で柔軟性を欠いた県政に疑問を感じていたといい<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、19頁</ref>、マイナスイメージからの脱却を掲げ<ref name="鶴崎13">[[#鶴崎 2010|鶴崎 2010]]、13頁</ref>、同年[[11月14日]]の県民の日に合わせて「[[彩の国]]」という県の愛称を制定した<ref>{{Cite web|title=県の愛称「彩の国」について|publisher=埼玉県ホームページ|url=https://www.pref.saitama.lg.jp/a0301/saitama-profile/sainokuni.html|date=2015年2月16日|accessdate=2015年11月14日}}</ref><ref name="平成19年12月定例会">{{Cite web|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/s-gikai/gaiyou/h1912/1912m010.html|archiveurl=http://web.archive.org/web/20130409052605/http://www.pref.saitama.lg.jp/s-gikai/gaiyou/h1912/1912m010.html|title=埼玉県議会平成19年12月定例会 一般質問 質疑質問・答弁全文|publisher=埼玉県ホームページ|archivedate=2013年9月4日|accessdate=2015年11月14日}}</ref>。なお、土屋は[[1997年]](平成9年)に出版した自著の中で、幕末の思想家・[[吉田松陰]]の残した「国の最も大なりとする所のものは、華夷の弁なり」という言葉を引用し、次のような主張をしている<ref name="土屋212-213">[[#土屋 1997|土屋 1997]]、212-213頁</ref>。 |
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{{Quotation|「華夷の弁」とは華夷弁別、つまり当時の儒者が中国のみを文化の中心とし日本を低く見る風潮を戒め、日本もまた立派な国であることを自覚する大切さを説いたもので、自分の生まれた土地がどんな僻地であろうと劣等感を抱く必要はなく、その場所で励むならばそこが「華」だと松陰は言うのである。 |
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そこには、西国の僻地[[長門国]]の[[萩市|萩]]、そのまた郊外の[[松下村塾]]から天下を奮発振動させる根拠地としてみせよう、という松陰の気概が示されている。これをもし埼玉県と東京の関係にあてはめるならば、埼玉をこそ「華」の地にしなければならない<ref name="土屋212-213"/>。|土屋義彦}} |
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土屋は従来の[[箱物行政]]にも疑問を感じていたといい<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、31頁</ref>、畑知事時代に計画された一部事業計画を白紙化する一方で<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、32頁</ref>、[[バブル景気|バブル色]]の強い「埼玉コロシアム」「埼玉メッセ」を柱とした「埼玉中枢都市構想」については県の自立性を高める好機と捉え、経済状況や防災面に即した計画案「さいたま新都心中枢・中核施設基本整備計画」に修正<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、146-149頁</ref>、[[彩の国さいたま芸術劇場]]については芸術文化活動への助成を重視する施策を行った<ref name="土屋36-37">[[#土屋 1997|土屋 1997]]、36-37頁</ref>。 |
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また、県のシンボルとして<ref name="土屋36-37"/>、[[2002 FIFAワールドカップ]]の試合開催地となる国内最大級のサッカー専用スタジアム・[[埼玉スタジアム2002]]の建設<ref name="土屋36-37"/><ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、38頁</ref>、[[埼玉古墳群|さきたま古墳公園]]の整備<ref name="土屋36-37"/>、[[入間郡]][[越生町]]の「さくらの郷」計画を三つの柱とした施設整備を進めたほか<ref name="土屋36-37"/>、[[さいたまスーパーアリーナ]]の開館記念事業として[[バスケットボール]]の[[スーパードリームゲーム2000]]の開催<ref>[[#埼玉新聞社 2000|埼玉新聞社 2000]]、226-228頁</ref>、[[2001年]]の[[バスケットボールU-21世界選手権|バスケットボール・ヤングメン世界選手権]]や[[2006年バスケットボール世界選手権]]決勝ラウンドの開催地誘致に成功するなど、「彩の国キャンペーン」に留まらず<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、106頁</ref>埼玉の積極的なイメージ改善を行った。 |
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⚫ | 土屋知事の任期中の積極的なイメージアップ政策により、1980年代のように「ダ埼玉」と評されることは少なくなったが<ref name="平成19年12月定例会"/><ref name="平成12年2月">{{Cite web|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/s-gikai/gaiyou/h1202/1202n010.html|archiveurl=http://web.archive.org/web/20041129052218/http://www.pref.saitama.lg.jp/s-gikai/gaiyou/h1202/1202n010.html|title=埼玉県議会平成12年2月一般質問|publisher=埼玉県ホームページ|archivedate=2004年11月29日|accessdate=2015年11月14日}}</ref>、土屋の後任として知事となった[[上田清司]]の下でも埼玉ブランドの積極的な配信が行われるなど、イメージアップ政策は継続して採り行われている<ref name="平成19年12月定例会"/>。 |
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== 背景 == |
== 背景 == |
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=== 歴史的背景 === |
=== 歴史的背景 === |
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[[ファイル:1856 Japanese Edo Period Woodblock Map of Musashi Kuni (Tokyo or Edo Province) - Geographicus - MusashiKuni-japanese-1856.jpg|250px|thumb|武蔵国の古地図。後の埼玉県に相当する地域は徳川家康の関東入封以降、天領や幕領が置かれ江戸の後背地として発展した。一方、それらが複雑に入り組み、対外的に顔としての機能を持つ大都市を持たなかった。]] |
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かつて[[武蔵国]] |
かつて[[武蔵国]]を含む関東地方の武士団は中小規模ながら独立意識が強く<ref name="武光87-88">[[#武光 2001|武光 2001]]、87-88頁</ref>、互いに同族同盟関係を結び外部の有力武士団に対抗し独自の勢力圏を形成した<ref name="武光87-88"/>。[[平安時代]]末期には中小武士団の中から[[相模国]]の[[三浦氏]]や[[土肥氏]]、武蔵国の[[畠山氏]]や[[比企氏]]、[[下総国]]の[[千葉氏]]などの有力者が生まれると[[源頼朝]]を担ぎ出した上での武家政権樹立の原動力となった<ref name="武光87-88"/>。一方、[[鎌倉時代]]に幕府が置かれた[[鎌倉]]では[[京都]]風の文化が営まれたが関東全域に波及するには至らず<ref name="武光87-88"/>、室町時代には幕府から[[公方]]や[[管領]]が派遣されて関東地方の統治を行ったが指導力は低く<ref name="武光87-88"/>、武士団は独自性を堅持していた<ref name="武光87-88"/>。 |
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[[戦国時代]]に入り中世の武士団の流れを汲む武将の中から戦国大名へと成長する者は少なく<ref name="武光87-88"/>、新興の[[後北条氏]]が相模国を皮切りに武蔵国を含む南関東地方を支配下に置き<ref name="武光89">[[#武光 2001|武光 2001]]、89頁</ref>、北関東地方へ勢力を拡大させようとしていた<ref name="武光81">[[#武光 2001|武光 2001]]、81頁</ref>。これに対し埼玉県に相当する地域の武将の中で[[太田氏]]は後北条氏に従属する勢力と、他の有力武将の支援を受け旧領回復の機会を狙う勢力とに内部分裂<ref>{{Cite book|和書|author=[[黒田基樹]]|title=論集戦国大名と国衆 12 岩付太田氏|publisher=岩田書院|year=2013|isbn=978-4872947977|page=34-35}}</ref>、[[成田氏]]は後北条氏と関東管領・[[上杉氏]]との間で対立抗争が展開される中で最終的に前者に従属したが、一方で他国衆という立場ながら後北条一門並の待遇を受け<ref>{{Cite book|和書|title=真説戦国北条五代 早雲と一族、百年の興亡|publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]]|year=1989|isbn=978-4051051518|page=112-113}}</ref>、その勢力下において最大規模の領国支配が認められた<ref>{{Cite book|和書|author=黒田基樹|title=論集戦国大名と国衆 7 武蔵成田氏|publisher=岩田書院|year=2012|isbn=978-4872947281|page=41-43}}</ref>。 |
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[[豊臣秀吉]]による[[小田原征伐]]後、秀吉の命により関東地方に[[徳川家康]]が移封された<ref name="武光89">[[#武光 2001|武光 2001]]、89頁</ref>。家康は各地域に徳川譜代の家臣を配置し、領内において独自の支配を容認したが<ref name="武光89"/>、譜代の家臣達は徳川家に対する[[中央集権]]的意識を強く持ち合わせていたことから独自性は生まれにくくなり<ref name="県民だより"/><ref name="武光89"/>、そうした気風は住民の間にも浸透し「[[江戸]]を中心とした関東人気質」が形成された<ref name="武光89"/>。その中で後の埼玉県に相当する地域は、秀吉の没後に幕府が置かれ政治・文化の中心となった江戸の後背地として<ref name="祖父江84">[[#祖父江 2012|祖父江 2012]]、84頁</ref>米を中心とした農業生産、[[利根川]]や[[荒川 (関東)|荒川]]の治水と新田開発、大名が主要街道を往来する際の使役に携わるなど<ref name="農文協">{{Cite book|和書|author=農文協|title=伝承写真館 日本の食文化 4 首都圏|publisher=[[農山漁村文化協会]]|year=2006|isbn=978-4540062278|page=26-27}}</ref>商業面においても産業面においても密接な関係を築いたが<ref name="祖父江84"/>、地域内は約20万石の藩領のほか江戸幕府直轄の[[天領]]、幕府旗下の[[地方知行|知行所]]、[[寺社領]]が複雑に入り組み、多様な支配従属関係が存在する形で発展した<ref name="小山3">[[#小山 1990|小山 1990]]、3頁</ref>。 |
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[[明治維新]]後に埼玉県が成立し、主に徴税や治安および治水上の理由によって県域が確定したが<ref>[[#小山 1990|小山 1990]]、20-21頁</ref>、第二代県令となった[[白根多助]]は当時の状況を「埼玉県ノ如キハ旧藩旧県犬牙相接シテ民情風俗モ亦自ラ異同ナキコト能ハズ」と評するように<ref name="小山3"/>、地域内および住民の間には多種多様な気風が存在した<ref name="小山4">[[#小山 1990|小山 1990]]、4頁</ref>。白根はこうした実情を踏まえ、明治政府の意向には応じず民情に即した政治を行ったことから「良二千石」と評されたが<ref name="小山163">[[#小山 1999|小山 1999]]、163頁</ref>、外部からは一部地域の特異な気風のみが拡大解釈され<ref name="小山4"/>、「難治の県」と見る風評が[[明治時代]]を通じて広まった<ref name="小山4"/>。 |
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こうした傾向は[[後北条氏]]が武蔵国を含む南関東地方を勢力下に置いた[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]においても変わりはなかったが<ref name="武光89">[[#武光 2001|武光 2001]]、87-88頁</ref>、[[豊臣秀吉]]の侵攻により後北条氏の支配体制に終止符が打たれ、秀吉の命により[[徳川家康]]が関東地方に移封されたことにより変化が生じるようになった<ref name="武光89"/>。家康は領内の各地域に徳川譜代の家臣を配置し、領内において独自の支配を容認したが<ref name="武光89"/>、譜代の家臣達は徳川家に対する[[中央集権]]的意識を強く持ち合わせていたことから独自性は生まれにくくなり<ref name="武光89"/>、そうした気風は住民の間にも浸透していった<ref name="武光89"/>。 |
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第5代知事・[[久保田貫一]]は[[1891年]](明治24年)の知事就任以来、[[埼玉師範学校]]騒動、[[権現堂川]]土木工事入札問題、中学校建設問題、利根川通三か所の護岸工事入札問題など様々なトラブルを引き起こしたが<ref name="小山88-89">[[#小山 1990|小山 1990]]、88-89頁</ref>、[[1892年]](明治25年)2月の[[第2回衆議院議員総選挙]]では府県知事の公選を望む民意に反して、県警部長・[[有田義資]]をはじめ県下の全警察組織を動員し[[選挙干渉]]を行うなど強権的な姿勢を取ったため<ref name="小山88-89"/>、県議会において「県治上ニ於ケル信任極メテ欠乏セル事ヲ認ム依テ茲ニ之ヲ決議ス」とする不信任決議案が可決された<ref name="小山88-89"/>。久保田は県議会を解散させ「人民の分際で知事の不信任を決議するが如きは以ての外。今頃後悔しているであろう」と主張したが<ref name="小山88-89"/>、内務大臣・[[井上馨]]の命により知事を非職となり、さらに免官となった<ref name="小山88-89"/>。この久保田に関する一連の騒動は「難治の県」と見る風評をさらに助長する結果となった<ref name="小山90">[[#小山 1990|小山 1990]]、90頁</ref>。第7代知事となった[[千家尊福]]は久保田時代の様々な懸案事項を解決したことから第2代県令の白根と同様に「良二千石」と評され<ref>[[#小山 1999|小山 1999]]、164頁</ref>、風評も一応の修復を見たが<ref>[[#小山 1999|小山 1999]]、166頁</ref>、[[1897年]](明治30年)に第8代知事となった[[宗像政|田村政]]は就任に際し、同年5月1日付けの日刊紙『[[都新聞]]』に次のように記し態度を硬化させた<ref name="小山90"/>。 |
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[[江戸時代]]中期に入ると、埼玉県に相当する地域の住人達は[[江戸]]や江戸の文化に対して憧れの意識を持つようになったが<ref name="武光83-84">[[#武光 2001|武光 2001]]、83-84頁</ref>、江戸に在住する人々からは同じ武蔵国の住民ながら「江戸生まれではない」という理由から差別されていたといわれている<ref name="武光83-84"/>。一方、埼玉県に相当する地域の西部に位置する[[秩父地方]]の住民たちは山間部という地域特性もあり<ref name="武光83-84"/>、他の地域とは異なり独自の風俗や文化を維持し続けていた<ref name="武光83-84"/>。 |
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{{Quotation|埼玉県は元来人気の荒い処にて、某[[上野国|上州]]に接近したる地方を以て特に然りとす。同地方は強盗賭博争斗等最も多くして、人命を奪ふ事に於いては何とも思はず。恰も獣を屠するの感あるが如し<ref name="小山4"/>。|田村政}} |
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一方、[[辛亥革命]]の際に通訳として関わり、後に[[満州]]や[[蒙古]]の調査研究に携わった小川運平は[[1910年]](明治43年)に日刊紙『埼玉新報』の中で、当時の風評について次のように記している<ref name="小山5">[[#小山 1990|小山 1990]]、5頁</ref>。 |
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{{Quotation|一書生にして埼玉県人なりと云わんか、九州辺りの人は必ず侮蔑の色を以てす。アア殺人の多き所かと。他人の郷関を問ふあらば埼玉県と答ふるを愧ぢて武州の人と答ふ。埼玉の県は明治の新産物にして県人の最も忌むべく愧づべき名称なり<ref name="小山4"/><ref>[[#小山 1999|小山 1999]]、232頁</ref>。|小川運平}} |
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明治期における風評について政治学者の[[小山博也]]は[[1989年]](平成元年)に出版した『埼玉県の百年 県民100年史』の中で「この間まで語られてきた『ダサイ』な埼玉もこの系譜上にある」と記している<ref name="小山5"/>。 |
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=== 県民性 === |
=== 県民性と東京人気質 === |
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年間を通じて天候が安定している影響から全般的には「おおらか<ref name="インターナショナル・ワークス22">[[#インターナショナル・ワークス 2003|インターナショナル・ワークス 2003]]、22頁</ref>」、県の主産業が[[農業]]だった点から「堅実<ref>[[#三浦、日本史倶楽部 2009|三浦、日本史倶楽部 2009]]、29頁</ref>」な県民性を持つと言われる。一方、[[2000年代]]において、他の都道府県からの流入者が全国でも高水準にある点や<ref name="インターナショナル・ワークス26-27">[[#インターナショナル・ワークス 2003|インターナショナル・ワークス 2003]]、26-27頁</ref>、県南部に在住する人々の多くは日中は[[東京都]]内で過ごし、夜にならないと埼玉県には帰宅することがない([[埼玉都民]])という、いわゆる[[ベッドタウン]]化現象が生じている点から<ref name="インターナショナル・ワークス26-27"/>、純粋な県民性は希薄との指摘もある<ref name="インターナショナル・ワークス26-27"/>。 |
年間を通じて天候が安定している影響から全般的には「おおらか<ref name="インターナショナル・ワークス22">[[#インターナショナル・ワークス 2003|インターナショナル・ワークス 2003]]、22頁</ref>」、県の主産業が[[農業]]だった点から「堅実<ref>[[#三浦、日本史倶楽部 2009|三浦、日本史倶楽部 2009]]、29頁</ref>」な県民性を持つと言われる。一方、[[2000年代]]において、他の都道府県からの流入者が全国でも高水準にある点や<ref name="インターナショナル・ワークス26-27">[[#インターナショナル・ワークス 2003|インターナショナル・ワークス 2003]]、26-27頁</ref>、県南部に在住する人々の多くは日中は[[東京都]]内で過ごし、夜にならないと埼玉県には帰宅することがない([[埼玉都民]])という、いわゆる[[ベッドタウン]]化現象が生じている点から<ref name="インターナショナル・ワークス26-27"/>、純粋な県民性は希薄との指摘もある<ref name="インターナショナル・ワークス26-27"/>。 |
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これに対して埼玉県民の供給先となる東京は、[[江戸っ子]]の流れを汲む旧住民と他県から流入してきた新住民とが混在した状況と言われている<ref name="武光93">[[#武光 2001|武光 2001]]、93頁</ref>。かつての江戸っ子は「涙もろく、おせっかいで、義理がたく、短気で口は悪いが正義感がある」などの気質を持ち合わせていたが<ref>[[#武光 2001|武光 2001]]、90頁</ref>、[[太平洋戦争]]後に流入してきた新住民との摩擦を避けるため無関心を装うようになり<ref name="武光93"/>、[[山の手]]などに定住した新住民は東京暮らしが長期化するにつれてそれぞれの故郷の気質を失い没個性化した<ref name="武光102">[[#武光 2001|武光 2001]]、102頁</ref>。没個性化の中で新たに形成された東京人は<ref name="武光93"/>、一見すると社交的で人当たりが良いが他者からの干渉を嫌い、広く浅い人間関係を望むなど個人主義的傾向が強く<ref name="武光91">[[#武光 2001|武光 2001]]、91頁</ref>、メディアから配信される最新の情報のみに生きがいを追い求め<ref name="武光92">[[#武光 2001|武光 2001]]、92頁</ref>、それに乗り遅れた者を排除する傾向があると言われている<ref name="武光92"/>。 |
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[[1992年]]、[[土屋義彦]]が埼玉県知事に就任すると「マイナスイメージからの脱却」を掲げ、同年[[11月14日]]の県民の日に合わせて「[[彩の国]]」という県の愛称を制定<ref>{{cite web |title=県の愛称「彩の国」について|publisher=埼玉県ホームページ |url=http://www.pref.saitama.lg.jp/site/saitama-profile/sainokuni.html |date=2010年3月19日 |accessdate=2012年8月11日}}</ref>。[[彩の国さいたま芸術劇場]]の開設や[[2002年]]に日韓で共同開催された[[2002 FIFAワールドカップ]]の試合開催地誘致、[[さいたまスーパーアリーナ]]の開館記念事業として[[2001年]]に[[バスケットボールU-21世界選手権|バスケットボール・ヤングメン世界選手権]]の開催地誘致や<ref name="埼玉新聞社210">[[#埼玉新聞社 2000|埼玉新聞社 2000]]、210頁</ref>、[[2006年バスケットボール世界選手権]]決勝ラウンドの開催地誘致に成功するなど<ref name="埼玉新聞社210"/>、埼玉の積極的なイメージ改善を行った。 |
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=== 毒舌家としてのタモリ === |
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先述のように芸能界デビュー当時の[[タモリ]]はラジオ番組『[[タモリのオールナイトニッポン]]』の毒舌パーソナリティーとして若者の間でカルト的人気を獲得していた<ref name="All About"/>。その一例としてタモリは、当時流行していた[[ニューミュージック]]という音楽ジャンルについて、ジャンルそのものではなく「軟弱な歌詞」に着目して徹底分析し<ref name="All About"/>、その担い手だった歌手の[[小田和正]]や[[さだまさし]]を「見せかけの優しさ」の持ち主と見做し激しく糾弾した<ref name="All About"/>。 |
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[[1980年代]]後半、タモリの影響力は無視できないものとなり、『[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]』に作曲家の[[織田哲郎]]が出演した際に彼が[[卓球]]経験者と知り「卓球ってネクラだよね」と返答すると、中学校の部活動の入部希望者が激減する事態に発展した<ref name="T-SITE">{{Cite web|url=http://top.tsite.jp/news/lifetrend/o/25375295/|title=この差って何ですか?で、タモリの一言で卓球台の公式色が変わったことを紹介|publisher=[[カルチュア・コンビニエンス・クラブ|T-SITE]]|date=2015年9月8日|accessdate=2015年11月14日}}</ref>。これを契機に卓球業界がイメージチェンジに乗り出したとの逸話も残されている<ref name="T-SITE"/>。 |
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⚫ | 土屋知事の任期中の積極的なイメージアップ政策により、1980年代のように「ダ埼玉」と評されることは少なくなったが<ref name="平成19年12月定例会"> |
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== 文化的影響 == |
== 文化的影響 == |
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「ダ埼玉」という言葉が流行した1980年代、埼玉県の特性を揶揄したり皮肉 |
「ダ埼玉」という言葉が流行した1980年代当時には、埼玉県の特性を揶揄したり皮肉る風潮に乗じて『翔んで埼玉』([[魔夜峰央]]、[[白泉社]]、1986年)<ref name="さいたま文学館6">[[#さいたま文学館 2009|さいたま文学館 2009]]、6頁</ref>や『[[こちら埼玉山の上大学ボクシング部]]』([[唯洋一郎]]、[[集英社]]、1985-1989年)<ref name="さいたま文学館6"/>といった[[漫画]]作品が連載されたが、こうした傾向は一過性のものとなった<ref name="さいたま文学館6"/>。 |
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[[1990年代]]以降、埼玉県内を舞台やモデルとした作品は増加傾向にあり<ref name="さいたま文学館1">[[#さいたま文学館 2009|さいたま文学館 2009]]、1頁</ref>、作品の登場人物が地域のシンボルとなった事例もある<ref name="さいたま文学館1"/>。 |
[[1990年代]]以降、埼玉県内を舞台やモデルとした作品は増加傾向にあり<ref name="さいたま文学館1">[[#さいたま文学館 2009|さいたま文学館 2009]]、1頁</ref>、作品の登場人物が地域のシンボルとなった事例もある<ref name="さいたま文学館1"/>。一過性のものとなった理由について[[さいたま文学館]]は「多くの漫画は多数の登場人物が交錯し時間・空間の変化するイメージを求め、都市や市街地を舞台に設定する。『ダ埼玉』とは都市化・市街化の遅れた県の状況をからかう表現であり、県内における都市化・市街化の進行は『ダ埼玉』イメージの消滅と軌を一にする現象だったと考えられる」と評している<ref name="さいたま文学館6"/>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book| |
* {{Cite book|和書|author=インターナショナル・ワークス編|title=どんな性格? どう付き合う? 日本出身県地図|publisher=[[幻冬舎]]|year=2003|isbn=4-344-00359-4|ref=インターナショナル・ワークス 2003}} |
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* {{Cite book| |
* {{Cite book|和書|author=[[小山博也]]|title=埼玉県政治史断章|publisher=[[埼玉新聞|埼玉新聞社]]|year=1999|isbn=978-4878892004|ref=小山 1999}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[ |
* {{Cite book|和書|author=小山博也 他|title=埼玉県の百年 県民100年史|publisher=[[山川出版社]]|year=1990|isbn=978-4634271104|ref=小山 1990}} |
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* {{Cite book| |
* {{Cite book|和書|author=埼玉新聞社 編|title=彩の国づくり日々刻々 土屋義彦埼玉県知事記者会見採録|publisher=埼玉新聞社|year=2000|isbn=4-87889-207-2|ref=埼玉新聞社 2000}} |
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* {{Cite book| |
* {{Cite book|和書|author=[[さいたま文学館]]|title=マンガ聖地巡礼inサイタマ☆ 文学vsマンガ Part2|year=2009|ref=さいたま文学館 2009}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[祖父江孝男]]|title=県民性の人間学|publisher=[[筑摩書房]]|year=2012|isbn=978-4480429933|ref=祖父江 2012}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[武光誠]]|title=県民性の日本地図|publisher=[[文藝春秋]]|year=2001|isbn=4-16-660166-0|ref=武光 2001}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[土屋義彦]]|title=埼玉独立論 小が大を呑む|publisher=[[講談社]]|year=1997|isbn=978-4062082662|ref=土屋 1997}} |
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* {{Cite book|和書|author=鶴崎敏康|title=< さいたま > の秘密と魅力|publisher=[[埼玉新聞社]]|year=2010|isbn=978-4-87889-329-2|ref=鶴崎 2010}} |
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* {{Cite book|和書|author=三浦竜&日本史倶楽部|title=地図に隠された「県民性」の歴史雑学 「お国柄の謎」に迫る!|publisher=[[三笠書房]]|year=2009|isbn=978-4837923305|ref=三浦、日本史倶楽部 2009}} |
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== 関連項目 == |
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* [[埼玉都民]] |
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* [[ちばらき]] |
* [[ちばらき]] |
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2015年11月24日 (火) 16:34時点における版
ダ埼玉(ダさいたま)は、「ダサい」と「埼玉県」を掛け合わせた造語である[1]。この造語は1980年代初頭にタレントのタモリによって考案されたもので[2]、埼玉県を「野暮ったい」「垢抜けない」ものと見做して嘲笑することを目的とした[1]。
経緯
造語の誕生と波及
芸能界デビューから1980年代にかけてのタモリは攻撃的な言動の芸風で知られ[3]、「表面的には明るく振る舞うが、内面に暗さを抱える人物」に対して「ネクラ」と対義語の「ネアカ」いう表現[4]、愛知県出身者の使用する名古屋弁に対して「エビフリャー」(エビフライの意)などの表現を好んで使うなど[5]、自身の番組内でさまざまな人々や地域やジャンルを笑いの対象としていた[3]。
そのタモリが埼玉に関心を持ったのは、1981年(昭和56年)2月26日[6]に放送された『タモリのオールナイトニッポン』の「思想のない歌」コーナーの中でさいたまんぞうの『なぜか埼玉』というコミックソングを取り上げた時からといわれている[7]。当初、この歌は売り上げが芳しくなかったが、2月26日付けの放送が全国オンエアされると聴取者の間で抑揚のない歌い方とメロディが評判となり、さいたはメジャーデビューに至った[6][7]。
その後、当時の若者の間で流行していた竹の子族という風俗の愛好者に埼玉県や千葉県出身者が多いことが調査結果により明らかになると[2][7]、タモリはこうした若者達がもんぺ風の衣装など世間一般には「垢抜けない」と見做される服装[2]あるいは奇抜な服装を身に付けていたことから[7]「ダサい」と評するようになり[2][7]、1982年(昭和57年)10月4日からフジテレビ系列で放送開始された『森田一義アワー 笑っていいとも!』の中で「ダ埼玉」という言葉を頻繁に使用し、当時の流行語となった[2][8]。
1980年代当時、タモリは『タモリのオールナイトニッポン』の番組内に「お国批判にしひがし」というコーナーを設け聴取者から笑いのネタを募ると、自身の出身地である福岡県を皮切りに、愛知県や埼玉県に限定せず全国各地を笑いの対象として揶揄していたが[3]、地域を笑いの対象とした理由について1980年(昭和55年)9月30日放送の同番組内で次のように発言している[5]。
なお、新語ウォッチャーのもりひろしは「タモリがひそかに発信したのは『言葉』ではなく『着眼点』だったように思う。彼が媒介となって地域コンプレックスをあぶり出し、言葉やアイデアの面白さを増幅させた」と評しているが[9]、埼玉に関しては造語の発信だけでなく、『笑っていいとも!』の番組内において「昨今の風潮を子供が気にしているので、当事者自身の言葉で否定してほしい」と訴える視聴者の主婦からの投書を「…ええ、真実を隠すことになりますので、嘘は言えませーん」と撥ねつけ笑いものにするパフォーマンスを行ったことや(『笑っていいとも!』1983年2月10日放送分[10])、タモリとは言明されていない「あるタレント」がテレビ視聴者に対して後進的なイメージを植え付けるため[8]、前時代的な「下肥え担ぎ」のパフォーマンスを行ったことが記録として残されている[8]。
県内の反応
埼玉県では問題を深刻に捉え、1983年(昭和58年)6月に埼玉県庁内にイメージアップのための調査研究グループを設立[8]、県発行の広報誌『県民だより』昭和58年9月号において問題をテーマにした紙上討論会を開き[2]、埼玉県知事の畑和、埼玉大学名誉教授の小野文雄、タレントの所ジョージのコメントや読者からの投書を掲載した[11]。
昨年、県が行った県民意識調査では肯定的意見が大多数を占め86%の人が「埼玉県を好き」と答えている。「あかぬけない」「田舎臭い」というのは、東京との比較で言ってるのでしょうが、埼玉には埼玉ならではの、例えば「人情味がある」「緑が多い」とかの良さがあるということです[11]。 — 畑和
ダサイと軽蔑するのは、他より優れた地位に就きたいという人間の心理でしょう。優越感は劣等感の裏返し。気にすることはありません。埼玉の良いところは人々が寛容であっさりとしているところ。豊かな自然と共に、住んでいる人にとってはとてもいいところです。ただ、東京と違って都市環境が劣っているのは事実です。今後、このような面が改良されれば、ダサイと言われても何でもないのですが[11]。 — 小野文雄
タモリが言ってるのはあれは冗談。お仕事なんです。でも、オレが言ってるのは本当にそう思ってるから。別に埼玉という土地を嫌いなわけじゃないし悪さを感じている訳でもないけど、特に若い奴らを見てると「オレたちは田舎者じゃない、東京がなんだ」なんて強がりを言ったり、見栄をはっているところがダサイんだよ。何をしたって東京には勝てっこないんだから若い奴らはもっと東京指向でいいと思う。でも、まあ子供を育てるにはいいところだと思うね。自然も残っているし[11]。 — 所ジョージ
一連の動向を知ったタモリは更に関心を持ち[2][12]、『笑っていいとも!』の生放送中に埼玉県庁に電話取材を試みると[2]、埼玉県議会の議題に取り上げられる事態へと発展した[2][12]。1984年3月13日付けの『埼玉新聞』は自由民主党選出議員の片貝光次と畑知事との間で質疑応答が行われた際、畑知事のアピールに議会が沸き立ったと報じた[8]。また、同年4月に調査研究グループによる報告書『埼玉の魅力―イメージアップをめざして』が出版された際、研究グループのリーダーは「タモリが教わることはあっても、こちらが学ぶことはありません」と回答したと言われているが[10]、当の埼玉県民はタモリの言動を「一種のユーモア」として楽しむ者[11]、言葉通りに受け取り反応する者[8]、それを冷笑する者[8]などに分かれた。
一方、『県民だより』昭和58年9月号に掲載された読者からの一部報告例や[11]、1984年3月13日付けの『埼玉新聞』の報道にあるように[8]、「ダ埼玉」という言葉や埼玉県を揶揄する風潮は1980年代を通じて全国に波及した[12]。紙上討論会にコメントを掲載した所沢市[13]出身の所は1984年(昭和59年)頃、自身の出演番組内で埼玉県を揶揄するジョークを繰り返し、マイナスイメージの定着に一役買う結果となった[14]。
こうした風潮は2000年代頃まで続き[15]、東京への良好なアクセスと住環境[16]あるいは県内の独自性や著名な人物の存在[15]などといった地域特性を無視し、否定的な評価を受ける機会が多かったと言われる[15][16]。
行政の対応
1992年(平成4年)6月、元参議院議長の土屋義彦が埼玉県知事に就任した。土屋はかねてから県民の東京に対する依存意識の根深さ[17]、県を揶揄する風潮[18]、経済企画庁が発表する「豊かさ指標」による低評価[19]、前例踏襲的で柔軟性を欠いた県政に疑問を感じていたといい[20]、マイナスイメージからの脱却を掲げ[21]、同年11月14日の県民の日に合わせて「彩の国」という県の愛称を制定した[22][23]。なお、土屋は1997年(平成9年)に出版した自著の中で、幕末の思想家・吉田松陰の残した「国の最も大なりとする所のものは、華夷の弁なり」という言葉を引用し、次のような主張をしている[24]。
土屋は従来の箱物行政にも疑問を感じていたといい[25]、畑知事時代に計画された一部事業計画を白紙化する一方で[26]、バブル色の強い「埼玉コロシアム」「埼玉メッセ」を柱とした「埼玉中枢都市構想」については県の自立性を高める好機と捉え、経済状況や防災面に即した計画案「さいたま新都心中枢・中核施設基本整備計画」に修正[27]、彩の国さいたま芸術劇場については芸術文化活動への助成を重視する施策を行った[28]。
また、県のシンボルとして[28]、2002 FIFAワールドカップの試合開催地となる国内最大級のサッカー専用スタジアム・埼玉スタジアム2002の建設[28][29]、さきたま古墳公園の整備[28]、入間郡越生町の「さくらの郷」計画を三つの柱とした施設整備を進めたほか[28]、さいたまスーパーアリーナの開館記念事業としてバスケットボールのスーパードリームゲーム2000の開催[30]、2001年のバスケットボール・ヤングメン世界選手権や2006年バスケットボール世界選手権決勝ラウンドの開催地誘致に成功するなど、「彩の国キャンペーン」に留まらず[31]埼玉の積極的なイメージ改善を行った。
このほか実現はならなかったものの、2002 FIFAワールドカップ決勝戦招致の先頭に立ち神奈川県横浜市との間で招致合戦を展開し[32][33]、東京タワーに代わる新電波塔建設計画(新東京タワー)をさいたま新都心に誘致する政策を行った[32]。
土屋知事の任期中の積極的なイメージアップ政策により、1980年代のように「ダ埼玉」と評されることは少なくなったが[23][34]、土屋の後任として知事となった上田清司の下でも埼玉ブランドの積極的な配信が行われるなど、イメージアップ政策は継続して採り行われている[23]。
背景
歴史的背景
かつて武蔵国を含む関東地方の武士団は中小規模ながら独立意識が強く[35]、互いに同族同盟関係を結び外部の有力武士団に対抗し独自の勢力圏を形成した[35]。平安時代末期には中小武士団の中から相模国の三浦氏や土肥氏、武蔵国の畠山氏や比企氏、下総国の千葉氏などの有力者が生まれると源頼朝を担ぎ出した上での武家政権樹立の原動力となった[35]。一方、鎌倉時代に幕府が置かれた鎌倉では京都風の文化が営まれたが関東全域に波及するには至らず[35]、室町時代には幕府から公方や管領が派遣されて関東地方の統治を行ったが指導力は低く[35]、武士団は独自性を堅持していた[35]。
戦国時代に入り中世の武士団の流れを汲む武将の中から戦国大名へと成長する者は少なく[35]、新興の後北条氏が相模国を皮切りに武蔵国を含む南関東地方を支配下に置き[36]、北関東地方へ勢力を拡大させようとしていた[37]。これに対し埼玉県に相当する地域の武将の中で太田氏は後北条氏に従属する勢力と、他の有力武将の支援を受け旧領回復の機会を狙う勢力とに内部分裂[38]、成田氏は後北条氏と関東管領・上杉氏との間で対立抗争が展開される中で最終的に前者に従属したが、一方で他国衆という立場ながら後北条一門並の待遇を受け[39]、その勢力下において最大規模の領国支配が認められた[40]。
豊臣秀吉による小田原征伐後、秀吉の命により関東地方に徳川家康が移封された[36]。家康は各地域に徳川譜代の家臣を配置し、領内において独自の支配を容認したが[36]、譜代の家臣達は徳川家に対する中央集権的意識を強く持ち合わせていたことから独自性は生まれにくくなり[11][36]、そうした気風は住民の間にも浸透し「江戸を中心とした関東人気質」が形成された[36]。その中で後の埼玉県に相当する地域は、秀吉の没後に幕府が置かれ政治・文化の中心となった江戸の後背地として[41]米を中心とした農業生産、利根川や荒川の治水と新田開発、大名が主要街道を往来する際の使役に携わるなど[42]商業面においても産業面においても密接な関係を築いたが[41]、地域内は約20万石の藩領のほか江戸幕府直轄の天領、幕府旗下の知行所、寺社領が複雑に入り組み、多様な支配従属関係が存在する形で発展した[43]。
明治維新後に埼玉県が成立し、主に徴税や治安および治水上の理由によって県域が確定したが[44]、第二代県令となった白根多助は当時の状況を「埼玉県ノ如キハ旧藩旧県犬牙相接シテ民情風俗モ亦自ラ異同ナキコト能ハズ」と評するように[43]、地域内および住民の間には多種多様な気風が存在した[45]。白根はこうした実情を踏まえ、明治政府の意向には応じず民情に即した政治を行ったことから「良二千石」と評されたが[46]、外部からは一部地域の特異な気風のみが拡大解釈され[45]、「難治の県」と見る風評が明治時代を通じて広まった[45]。
第5代知事・久保田貫一は1891年(明治24年)の知事就任以来、埼玉師範学校騒動、権現堂川土木工事入札問題、中学校建設問題、利根川通三か所の護岸工事入札問題など様々なトラブルを引き起こしたが[47]、1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では府県知事の公選を望む民意に反して、県警部長・有田義資をはじめ県下の全警察組織を動員し選挙干渉を行うなど強権的な姿勢を取ったため[47]、県議会において「県治上ニ於ケル信任極メテ欠乏セル事ヲ認ム依テ茲ニ之ヲ決議ス」とする不信任決議案が可決された[47]。久保田は県議会を解散させ「人民の分際で知事の不信任を決議するが如きは以ての外。今頃後悔しているであろう」と主張したが[47]、内務大臣・井上馨の命により知事を非職となり、さらに免官となった[47]。この久保田に関する一連の騒動は「難治の県」と見る風評をさらに助長する結果となった[48]。第7代知事となった千家尊福は久保田時代の様々な懸案事項を解決したことから第2代県令の白根と同様に「良二千石」と評され[49]、風評も一応の修復を見たが[50]、1897年(明治30年)に第8代知事となった田村政は就任に際し、同年5月1日付けの日刊紙『都新聞』に次のように記し態度を硬化させた[48]。
一方、辛亥革命の際に通訳として関わり、後に満州や蒙古の調査研究に携わった小川運平は1910年(明治43年)に日刊紙『埼玉新報』の中で、当時の風評について次のように記している[51]。
明治期における風評について政治学者の小山博也は1989年(平成元年)に出版した『埼玉県の百年 県民100年史』の中で「この間まで語られてきた『ダサイ』な埼玉もこの系譜上にある」と記している[51]。
県民性と東京人気質
年間を通じて天候が安定している影響から全般的には「おおらか[53]」、県の主産業が農業だった点から「堅実[54]」な県民性を持つと言われる。一方、2000年代において、他の都道府県からの流入者が全国でも高水準にある点や[55]、県南部に在住する人々の多くは日中は東京都内で過ごし、夜にならないと埼玉県には帰宅することがない(埼玉都民)という、いわゆるベッドタウン化現象が生じている点から[55]、純粋な県民性は希薄との指摘もある[55]。
これに対して埼玉県民の供給先となる東京は、江戸っ子の流れを汲む旧住民と他県から流入してきた新住民とが混在した状況と言われている[56]。かつての江戸っ子は「涙もろく、おせっかいで、義理がたく、短気で口は悪いが正義感がある」などの気質を持ち合わせていたが[57]、太平洋戦争後に流入してきた新住民との摩擦を避けるため無関心を装うようになり[56]、山の手などに定住した新住民は東京暮らしが長期化するにつれてそれぞれの故郷の気質を失い没個性化した[58]。没個性化の中で新たに形成された東京人は[56]、一見すると社交的で人当たりが良いが他者からの干渉を嫌い、広く浅い人間関係を望むなど個人主義的傾向が強く[59]、メディアから配信される最新の情報のみに生きがいを追い求め[60]、それに乗り遅れた者を排除する傾向があると言われている[60]。
毒舌家としてのタモリ
先述のように芸能界デビュー当時のタモリはラジオ番組『タモリのオールナイトニッポン』の毒舌パーソナリティーとして若者の間でカルト的人気を獲得していた[3]。その一例としてタモリは、当時流行していたニューミュージックという音楽ジャンルについて、ジャンルそのものではなく「軟弱な歌詞」に着目して徹底分析し[3]、その担い手だった歌手の小田和正やさだまさしを「見せかけの優しさ」の持ち主と見做し激しく糾弾した[3]。
1980年代後半、タモリの影響力は無視できないものとなり、『森田一義アワー 笑っていいとも!』に作曲家の織田哲郎が出演した際に彼が卓球経験者と知り「卓球ってネクラだよね」と返答すると、中学校の部活動の入部希望者が激減する事態に発展した[61]。これを契機に卓球業界がイメージチェンジに乗り出したとの逸話も残されている[61]。
文化的影響
「ダ埼玉」という言葉が流行した1980年代当時には、埼玉県の特性を揶揄したり皮肉る風潮に乗じて『翔んで埼玉』(魔夜峰央、白泉社、1986年)[62]や『こちら埼玉山の上大学ボクシング部』(唯洋一郎、集英社、1985-1989年)[62]といった漫画作品が連載されたが、こうした傾向は一過性のものとなった[62]。
1990年代以降、埼玉県内を舞台やモデルとした作品は増加傾向にあり[63]、作品の登場人物が地域のシンボルとなった事例もある[63]。一過性のものとなった理由についてさいたま文学館は「多くの漫画は多数の登場人物が交錯し時間・空間の変化するイメージを求め、都市や市街地を舞台に設定する。『ダ埼玉』とは都市化・市街化の遅れた県の状況をからかう表現であり、県内における都市化・市街化の進行は『ダ埼玉』イメージの消滅と軌を一にする現象だったと考えられる」と評している[62]。
脚注
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