コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「秋田城」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
秋田城跡の調査: 画像の追加
HarvErrorsのエラーを修正。
 
(45人の利用者による、間の66版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Otheruses|[[奈良時代]]から[[平安時代]]にかけての城柵|[[江戸時代]]に[[佐竹氏]]が居城とした城|久保田城}}
{{参照方法|date=2015年9月}}
{{Otheruses|古代の出羽国府|江戸時代に佐竹氏が居城とした城|久保田城}}
{{日本の城郭概要表
{{日本の城郭概要表
|name = 秋田城
|name = 秋田城
|pref = 秋田県
|pref = 秋田県
|img = Image:Akita no ki east gate of outer bailey.jpg
|img = File:East gate of Akita Castle 20220409.jpg
|img_capt =秋田城 外郭東門・[[築地塀]]・大路<br />{{small|I期遺構を元に復元。扉向こうが鵜ノ木地区。 }}
|img_capt = 秋田城の復元された外郭東門築地塀([[2022年]][[4月]])
|img_width = 260px
|img_width = 300px
|ar_called =
|ar_called =
|struct = 古代[[城柵]]
|struct = [[古代#日本|古代]][[城柵]]
|builders = [[律令政権]]
<!--|tower_struct = なし:ないのが当然なので不要-->
|builders = [[大和朝廷]]
|build_y = [[天平]]5年([[733年]])
|build_y = [[天平]]5年([[733年]])
|revamp =
|revamp =
|rulers =
|rulers =
|reject_y = [[11世紀]]頃
|reject_y = [[11世紀]]頃
|remains =政庁跡、東門、外郭、トイレ建物
|remains = 政庁跡、東門、外郭、トイレ建物
|cultural asset = 国の[[史跡]]「秋田城跡」
|cultural asset = 国の[[史跡]]「秋田城跡」
|rebuilding things =東門、築地塀
|rebuilding things = 東門、築地塀
|地図 = Japan Akita#Japan Dewa
}}
|緯度度 = 39|緯度分 = 44|緯度秒 = 26
'''秋田城'''(あきたじょう/あきたのき)は、[[出羽国]][[秋田郡|秋田]](現在の[[秋田県]][[秋田市]])にあった日本の古代[[城柵]]。国の[[史跡]]に指定されている。現在は一部が[[高清水公園]]となっている。
|経度度 = 140|経度分 = 04|経度秒 = 47
|アイコン = 日本の城跡
|ラベル位置 = bottom
|map_label =秋田城跡}}

'''秋田城'''(あきたじょう/あきたのき)は、[[出羽国]][[秋田郡|秋田]](現在の[[秋田県]][[秋田市]])にあった日本の古代[[城柵]]。国の[[史跡]]に指定されており、かつての城域の一部は現在'''高清水公園'''となっている。また、[[秋田県護国神社]]も秋田城の城址に遷座したものである。

秋田城の創建は、733年([[天平]]5年)に[[出羽柵]]が[[庄内地方]]から秋田村高清水岡に移転した{{Efn|『続日本紀』天平五年十二月己未条}}ことにさかのぼり、その後[[天平宝字]]年間に秋田城に改称されたものと考えられている{{Sfnp|伊藤|2006|p=12}}。秋田城は[[奈良時代]]の創建から10世紀中頃までの[[平安時代]]にかけて城柵としての機能を維持したと考えられており{{Sfnp|伊藤|2006|p=12}}、その間幾度か改廃が取り沙汰されたことがあったものの、[[出羽国]]北部の行政・軍事・外交・文化の中心地としての役割を担った{{Sfnp|伊藤|2006|pp=3-4}}。また、秋田城の発掘調査結果からは[[渤海 (国)|渤海]]との交流をうかがわせる複数の事実が指摘されており、文献史料による確たる証拠はないものの、奈良時代を通じてたびたび出羽国に来着した[[渤海使]]の受け入れが秋田城においてなされた可能性が高いと考えられている{{Sfnp|伊藤|2006||p=|pp=148-150}}{{Sfnp|豊田|2018|p=72}}。秋田城は[[朝廷 (日本)|朝廷]]によって設置された城柵の中でも最北に位置するものであり、[[律令国家]]による統治の拠点として、また[[津軽地方|津軽]]・[[北海道島|渡島]]の[[蝦夷]]との交流や渤海との外交の拠点として、重要な位置にあった{{Sfnp|伊藤|2006|pp=3-4}}。

2017年(平成29年)、[[続日本100名城]](107番)に選定された<ref>{{Cite news |和書 |title=『続日本100名城』を10年ぶりに選定、今回は古代の城柵や世界遺産も… |newspaper=[[産経新聞]] |publisher=[[産経新聞社]] |date=2017-04-06}}</ref>。


== 歴史・沿革 ==
== 歴史・沿革 ==
秋田城の史料上の初出は、『[[続日本紀]]』において733年([[天平]]5年)に'''[[出羽柵]]'''(いではのき)を秋田村{{Efn|当時の「村」とは、王権との間に一定の支配関係はあるが、まだ国郡制が布かれていない地域を指した。}}高清水岡に遷置したと記述された{{Efn|『続日本紀』天平五年十二月己未条}}ことにさかのぼる{{Sfnp|伊藤|2006|p=12}}。7世紀の中葉から9世紀の初頭にかけて、当時の朝廷は[[東北地方]]の[[蝦夷]]を軍事的に制圧し服属させ、[[柵戸]]移民を扶植して積極的な支配域の拡大を図っており、[[日本海側]]では708年([[和銅]]元年)に現在の[[山形県]][[庄内地方]]を[[越後国]][[出羽郡]]として建郡、712年(和銅5年)には越後国から分離して[[出羽国]]に昇格させ、[[陸奥国]]から移管された[[置賜郡]]・[[最上郡]]とあわせて初期の出羽国を形成した。前後して出羽郡内に出羽柵を設置したものと考えられている。
[[8世紀]]当時の中央政府は、[[東北地方]]における[[蝦夷]]の軍事的制圧を積極的に進めていた。[[日本海]]側では、[[708年]]([[和銅]]元年)に[[出羽郡]]をたて、[[712年]](和銅5年)[[出羽国]]へ昇格させた。この前後、出羽経営の軍事・行政拠点として'''[[出羽柵]]'''(いではのき)という城柵が現在の[[庄内地方]]([[山形県]])に置かれた。その後、中央政府の勢力圏が北進したことに伴い、[[733年]]([[天平]]5年)12月26日、出羽柵は秋田村高清水岡(現在の[[秋田県]][[秋田市]])へ移設された([[続日本紀]])。これが秋田城の前身である。


秋田城は朝廷の支配域の北上にともない出羽柵を移転したものと捉えられるのであるが、8世紀当時の秋田地方では大規模な集落の跡が確認されておらず、[[後城遺跡]]のような城柵の進出にともなって形成された集落が城柵の近傍に存在する程度であった。すなわち当時の秋田地方は人口が希薄で、移転当初の出羽柵は朝廷の支配域の北辺に突出しており、出羽柵(秋田城)の設置にともなって城柵周辺に蝦夷や柵戸移民が混在する集落が形成されたものと推測されている{{Sfnp|伊藤|2006|p=167}}。
秋田へ移った出羽柵は、[[760年]]([[天平宝字]]4年)頃に秋田城へ改称されたらしい(大日本古文書『丸部足人解』)。[[続日本紀]]には、[[780年]]([[宝亀]]11年)8月23日、秋田城へ派遣された[[鎮狄将軍]](ちんてきしょうぐん)[[安倍家麻呂]]の具申に対して朝廷から「秋田城は、前将軍や宰相が建てたものであり、長い年月を経てきた」と回答したことが見え、760年頃に秋田城へ機構改変したことを裏付ける。このときの安倍将軍と朝廷の応答において、秋田城は蝦夷による攻撃にさらされるため放棄すら検討されたが、専任[[国司]]1人と軍兵を派遣することが決定され、かえって防御が強固となった。これにより、次官国司である出羽介が'''秋田城介'''(あきたじょうのすけ)として城に常置され、出羽北部の統治に当たることとなった(詳しくは[[秋田城介]]を参照)。なお、8世紀後期には秋田城に[[国府]]が置かれていたことが、発掘調査などにより推測されている。


秋田に移った出羽柵は、760年([[天平宝字]]4年)3月19日付の『[[丸部足人解]]』において「阿支太城」と表記されており、この頃秋田城に改称したものと考えられている{{Sfnp|伊藤|2006|p=144}}。『[[続日本紀]]』、780年([[宝亀]]11年)8月23日の条では、秋田城へ派遣された[[鎮狄将軍]][[安倍家麻呂]]の具申に対して朝廷から「秋田城は、前将軍や宰相が建てたものであり、長い年月を経てきた」と回答したことが見え、760年頃に秋田城へ機構改編したことを裏付ける。
[[804年]]([[延暦]]23年)、蝦夷の反乱が激しくなり、秋田城は停廃されて[[秋田郡]]となった。これは、秋田城に置かれていた国府が別の場所へ移転したことを意味すると見られている。秋田城は、蝦夷対策のため完全に停止されることなく、出羽北部の軍事・行政拠点として存続した。


このときの[[安倍家麻呂]]と朝廷の応答において秋田城の停廃が検討されたが、朝廷は秋田城の放棄を認めず、かえって軍兵を遣わして鎮守とし、鎮狄使または[[国司]]1名を専当として秋田城の防護にあたらせるものとした{{Efn|『続日本紀』宝亀十一年八月乙卯条}}{{Sfnp|伊藤|2006|p=144}}。これにより、[[国司]]次官である出羽介が'''[[秋田城介]]'''(あきたじょうのすけ)として城に常置され、出羽国北部の統治にあたることとなった。
[[830年]]([[天長]]7年)、秋田城が出羽大地震により倒壊したことが、記録に見える(日本逸史)。[[878年]]([[元慶]]2年)に勃発した[[俘囚]]の大規模反乱([[元慶の乱]])の際は、俘囚側が秋田城を占拠する事態に至ったが、鎮守将軍として派遣された[[小野春風]]の条件提示により反乱側との妥結が成り、秋田城が回復された。[[939年]]([[天慶]]2年)にも俘囚が蜂起し、秋田城が攻撃を受けている([[天慶の乱 (出羽国)|天慶の乱]])。このように、秋田城は被害を受けることが多かった。発掘調査によれば、11世紀の遺構が確認されており、この頃までは存続したようである。しかし、1050年前後の[[前九年の役]]の影響で秋田城介が城に常在しなくなったため、それ以降、秋田城は衰退したと考えられている。


8世紀には、[[沿海州]]付近にあった[[渤海 (国)|渤海国]]からの使節がたびたび出羽国へ来着した。そもそも出羽柵の秋田移転には、なぜ[[庄内地方]]から一挙100kmも北進して人口希薄な秋田地方へ突出したのかという疑問が生じるのであるが、そこで秋田城の海上交流の拠点としての性格が着目され、秋田城が[[渤海使]]や北方民族との外交施設としての役割を担ったとする説が示されている{{Sfnp|伊藤|2006|pp=148-149}}。8世紀の[[渤海使]]は、日本の使節船に同乗している場合を除いてほとんどが出羽に来着しており、[[新野直吉]]、[[古畑徹]]らの研究は、渤海使が沿海州・[[サハリン]]・北海道の沿岸部伝いに航行して本州日本海側に達する北回り航路を取っていたことを唱え、さらに新野は出羽柵移転の背景に、渤海使の来航があった出羽国北部に中央政府と直結した出先機関を置いて、外国使節への対応を担わせたとする見方を示した{{Sfnp|伊藤|2006|pp=148-149}}。ただし、そのことは大和朝廷が積極的に外交に取り組んだということを意味せず、せいぜい新年朝賀への外交使節参列の便宜を図ろうという程度の意図であり、しかも、渤海国側の技術的な事情により、想定されたルートと頻度では使節が来訪しなかったので現実の有用性は限定的であった、との指摘もある{{Sfnp|豊田|2018|p=72}}。
== 外交 ==
[[奈良時代]]には、沿海州付近にあった[[渤海 (国)|渤海国]]からの使節がたびたび出羽へ来着した。外国使節の歓待は、秋田城において行われたとする見方が有力となっている。秋田城趾からは、迎賓館ではないかと推測される遺構(鵜ノ木地区)も見つかっている。804年に秋田城が国府の機能を停廃したのち、渤海使の出羽来航は途絶えている。


発掘調査結果からは、城外南東側の鵜ノ木地区において規則的に配置された大規模な掘立柱建物群の遺構と、水洗トイレの遺構などが検出されており、これらは国営調査では城に附属した寺院の四天王寺跡とする見解が示されているが、8世紀から9世紀初までの遺構については、建物が[[礎石]]式を取らず[[瓦葺き]]でないなど、寺院建築とするには疑問も示されており、これら施設群は外交使節を饗応する迎賓館だったのではないかとの推測も示されている{{Sfnp|伊藤|2006|pp=67-72}}。なお、9世紀以降[[渤海使]]の出羽来航は途絶えており、鵜ノ木地区の遺構も、9世紀以降のものは木柵に囲われた寺院風の構成となっていく。
== 秋田城跡の調査 ==

[[画像:Akita no ki outer bailey.jpg|thumb|240px|秋田城赤線が外郭、緑線が政庁。青い四角が外郭東門。東門を出たところが鵜ノ木地区にあたる。{{国土航空写真}}]]
804年(延暦23年)、秋田城が停廃されて[[秋田郡]]が設置され、秋田城が担っていた機能は河辺府へ移されたとされる。先の802年(延暦21年)に朝廷は[[アテルイ]]との軍事的抗争に勝利し、これを受けて陸奥に[[胆沢城]]・[[紫波城]]を造営、出羽でも同時期に[[払田柵]](第II期[[雄勝城]])が造営されたとみられるなど、9世紀初は朝廷と蝦夷との関係が大転換した時期にあたる。停廃という文言と裏腹にこの時期秋田城は大改修を受けており、秋田城の停廃とは陸奥方面での朝廷の軍事的勝利を受けて、秋田城を取り巻く環境が孤立した状態から解消されたことにともなう、支配体制再編の一環として行われたものと考えられる{{Sfnp|熊谷|2013|pp=232-233}}。
[[1939年]]([[昭和]]14年)に国の[[史跡]]となり、以後、学術調査や緊急調査が行われている。一辺約550メートルの不整方形の[[瓦]]葺き土塀跡、東西94メートル・南北77メートルにわたる官庁跡などが確認されている。

[[1959年]](昭和34年)から[[1962年]](昭和37年)にかけて、[[日本|国]]による発掘調査が行われた。[[1972年]](昭和47年)からは秋田城跡調査事務所(秋田県教育委員会)が継続して発掘調査を行っている{{refnest|主な事業、発掘調査より<ref name="omona">{{Cite web |date= |url=http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/ac/Omonazigyou.htm |title=主な事業紹介 |publisher=秋田城跡調査事務所(秋田市教育委員会) |accessdate=2015-09-11}}</ref>}}。
733年の出羽柵移転以降、秋田郡が設置されるまでの約70年間、秋田地方では[[郡]]を置かず城が領域支配をも担う特殊な体制が取られていたが、秋田城の改修は郡制への移行と軌を一にするものであり{{Sfnp|熊谷|2013|pp=257-258}}、むしろ支配体制を強化する形で{{Sfnp|熊谷|2013|p=263}}秋田城は出羽北部の軍事・行政拠点として存続することとなった。
{{節stub}}

830年([[天長]]7年)には[[天長地震]]により城廓および官舎のことごとくが損傷する被害を受けた事が記されている{{Efn|『[[類聚国史]]』巻一七十天長七年正月癸卯条}}{{Sfnp|伊藤|2006|p=150}}。この時の被害報告から城に附属して四天王寺・四王堂といった宗教施設が存在した事実が示されている{{Sfnp|伊藤|2006|p=150}}{{Sfnp|工藤|2011|p=146}}。

878年([[元慶]]2年)に勃発した[[俘囚]]の大規模反乱('''[[元慶の乱]]''')では、俘囚側が秋田城を一時占拠するに至り{{Sfnp|伊藤|2006|p=152}}、発掘調査からも乱によって城が焼かれたことを裏付ける焼土炭化物層が検出されている{{Sfnp|伊藤|2006|p=154}}。この乱の背景に、長く軍事的緊張から遠ざかっていた秋田城では制度上常備すべきとされていた軍が実際には配備されておらず、少数の[[健児]]が守るのみで警備が手薄になっていたことが挙げられる{{Sfnp|熊谷|2013|p=261}}。

また、出羽国統治が安定していた反面、それに乗じて[[国司]]による苛烈な収奪が横行しており、[[元慶の乱]]の時期を記した『[[日本三代実録]]』元慶三年三月二日壬辰の条では、国内の[[公民]]の3分の1が「奥地」に逃亡するという異常事態に陥っていたことが記されている{{Sfnp|熊谷|2013|pp=260-261}}。元慶の乱は、出羽権守として派遣された[[弁官|右中弁]][[藤原保則]]が、主に[[上野国]]・[[下野国]]の兵で編成された軍を率いて乱の鎮圧にあたり、また鎮守将軍として派遣された[[小野春風]]による懐柔策も受けて、硬軟織り交ぜた対応により終結に向かい、秋田城は回復されて復興整備に向かっている{{Sfnp|伊藤|2006|pp=152-154}}{{Sfnp|熊谷|2013|p=263}}。

その後939年([[天慶]]2年)の[[天慶の乱 (出羽国)|天慶の乱]]の際にも、秋田城は攻撃を受けている。10世紀後半には秋田城の基本構造と機能が失われたと考えられており、鵜ノ木地区においては11世紀前半までの遺構が確認されているものの、城内では11世紀以降に該当する主要な遺構が確認されていないことから、この頃には衰退していたと考えられている{{Sfnp|伊藤|2006|pp=154-155}}。[[平安時代]]後期から[[中世]]にかけて、史料上はなおも秋田城の文字が継続して確認されており、[[鎌倉時代]]には秋田城介の[[官職]]は武門にとって名誉あるものであったとされるが、中世の秋田城として比定される有力な遺構は確認されておらず、[[古代#日本|古代]]の秋田城跡周辺が有力な擬定地として推測されるにとどまっている{{Sfnp|伊藤|2006|pp=155-157}}。

== 秋田城国府説と非国府説について ==
8世紀の秋田城に出羽国の[[国府]]が置かれていたかどうかは、学説上の争点となっている。これは『[[日本後紀]]』および『[[日本三代実録]]』において、[[延暦]]年間に出羽国国府を移転した旨が記されていることに端を発する。『日本後記』では804年(延暦23年)11月癸巳の条において、秋田城を停廃し郡制を布いて機能を河辺府に移転したこと{{Efn|『日本後紀』延暦二十三年十一月癸巳条}}が、『日本三代実録』では887年(仁和3年)5月20日の条に、[[出羽郡]]井口にある国府は延暦年間に造営されたこと{{Efn|『日本三代実録』仁和三年五月二十日癸巳条}}が、それぞれ記されており、この二条の解釈によって、秋田城に国府が置かれたとする学説が現れることとなった{{Sfnp|伊藤|2006|pp=144-145}}。なお、国府説、非国府説の両者ともに、712年([[和銅]]3年)の出羽国設置時の国府は出羽柵であること、延暦年間以降は国府が[[出羽郡]]井口(=[[城輪柵]])にあったということで見解が一致しており、争点となっているのは出羽柵が秋田に移転する733年(天平5年)から、「延暦年間」までの出羽国府の所在地ということになる{{Sfnp|熊谷|2016|pp=23-24}}。

=== 秋田城国府説の視点と論者 ===
秋田城国府説を取る[[平川南]]の学説では、733年の出羽柵秋田移転から804年の秋田城停廃までの期間秋田城に国府があったと推定し、737年(天平9年)に陸奥国の[[多賀城|多賀柵]]から出羽柵までの直通道路が計画されたことを、[[陸奥按察使]]が陸奥・出羽の両国府間で連絡を密にするためであったとして、秋田城国府説の根拠に挙げている{{Sfnp|伊藤|2006|pp=145-146}}。また、新野直吉は、733年の出羽柵秋田移転にともない国府も秋田城に移転し、その後804年(延暦23年)に河辺府に国府機能を移転(河辺府を[[払田柵]]跡と推定)、その後815年 - 819年([[弘仁]]6年~10年)に再移転して、出羽郡井口に移ったとの見解を示した{{Sfnp|熊谷|2016|p=24}}。秋田城の発掘資料からは、出羽国の[[出羽守|守]]と[[出羽介|介]]の署名がある天平宝字年間の[[漆紙文書]]が出土しており、秋田城国府説の立場では、これを国府で最終保管されるべき性質の資料であるとみる。[[伊藤武士]]もこの立場に立っており、秋田城国府説では、発掘された考古資料を主要な根拠とすることが多い。しかし、秋田城国府説を裏付ける決定的な文字資料の出土には未だ至っていない{{Sfnp|伊藤|2006|p=147}}。

=== 秋田城非国府説の視点と論者 ===
一方、秋田城非国府説を取る[[今泉隆雄]]の学説では、出羽国国府は一貫して出羽郡内にあったものと推測し、[[多賀城|多賀柵]]から出羽柵までの直通道路についても、「陸奥'''国'''より出羽'''柵'''に達するに」との記述に着目して、両者の字句の違いは出羽柵が国府でなかったことを指し示すものとする{{Sfnp|伊藤|2006|p=146}}。その上で国府の移転に関する記事と秋田城の停廃に関する記事との峻別の必要性を指摘し、河辺府とは後の[[河辺郡]]付近に置かれた[[郡衙]]であるとした{{Sfnp|伊藤|2006|pp=146-147}}。また今泉説では、宝亀初年に出羽国の要請で秋田城が停廃されており、『続日本紀』に記録される秋田城停廃を巡るやり取りがあった780年([[宝亀]]11年)時点では、秋田城から一切の軍備が引き上げられていたと推測している{{Sfnp|熊谷|2013|p=234}}。[[熊谷公男]]も今泉説を継承する立場にあり{{Sfnp|熊谷|2016|p=24}}、機能を停止していた時期の秋田城に国府が置かれていたことを否定する{{Sfnp|熊谷|2013|p=234}}。このように秋田城非国府説を取る論者は、[[文献史学]]の立場から、『[[続日本紀]]』などの解釈をその主要な根拠とすることが多い{{Sfnp|熊谷|2016|p=24}}。

また今泉隆雄は、秋田城から[[国司]]署名の文書が出土するならば、それはむしろ国府から発給された文書の宛先が秋田城であることを示すのであり、秋田城が国府でなかったことの傍証であるともしている。ただし、これについて古代の[[公文書]]の廃棄課程をまとめた[[森田悌]]の研究により、発給元に返還される例があるとする反論がなされている{{Sfnp|熊谷|2016|pp=53-54}}。

そもそも、秋田城の立地とは前述のように朝廷の支配域から北に突出したものであった。すなわち、最前線の城柵として危険に晒されるリスクを負っており、このような場所に国府を置くのだろうかという疑問が、秋田城非国府説の基本的な出発点と言える{{Sfnp|熊谷|2016|p=35}}。国府の業務の内重要なものの一つである部内巡行についても、761年([[天平宝字]]3年)の[[雄勝城]](第I期)完成まで駅路さえ通じていなかった秋田城ではきわめて困難と考えられており、この点からも秋田城国府説に疑問が呈されている{{Sfnp|熊谷|2016|pp=35-37}}。

== 秋田城の構造と遺構 ==
=== 基本構造 ===
[[ファイル:Akita no ki outer bailey.jpg|thumb|240px|秋田城赤線が外郭、緑線が政庁。青い四角が外郭東門。東門を出たところが鵜ノ木地区にあたる。{{国土航空写真}}]]
[[ファイル:Akita Castle Ruins.png|thumb|衛星図]]
秋田城は、[[秋田平野]]の西部、[[雄物川]]([[秋田運河]])右岸河口近くにある、標高40mほどの丘陵地上に造営された城である{{Sfnp|伊藤|2006|p=9}}。城柵の基本構造は、[[築地塀]]などで囲われた外郭と、政庁を囲う内郭との二重構造からなり、外郭の東西南北に城門が配置されていた{{Sfnp|伊藤|2006|p=4}}。政庁の配置は、正殿の南面に広場を設け左右に脇殿を配する「コ」の字型の施設配置となっており、これは[[都城制|都城]]にみられるような、[[大極殿]]正面に[[朝庭]]を設け、左右に[[朝堂]]を配する様式と共通する{{Sfnp|伊藤|2006|pp=4-5}}。政庁施設は奈良時代から平安時代にかけてI - VI期の6期に渡る変遷が認められるが、政庁を囲う内郭の位置について大きな変化はなく、また「コ」の字型の建物配置も全期を通じて維持されている{{Sfnp|伊藤|2006|p=46}}。

=== 外郭の範囲と構造 ===
城の外郭の範囲は、右上図赤線で示した通り北西部を切り欠いたような不整方形である。外郭の範囲は、東西・南北ともおよそ550[[メートル]]、約30[[ヘクタール]]の広さを持つ{{Sfnp|伊藤|2006|p=30}}。外郭の位置も全期を通じて大きな変化は見られないが、塀の構造にはI - V期までの5期に渡る変遷が見られた{{Sfnp|伊藤|2006|p=32}}。このような構造の変更は出羽側の城柵にみられる特徴で、それに対し陸奥側では多賀城が拡張した際も築地塀の基本構造を維持している。秋田城では9世紀初頭に築地塀から材木塀に変更され、官衙としての荘重さが後退したことから、この時期に秋田城の性質が大きく変化したことが示唆されている{{Sfnp|八木|2016|pp=82-84}}。

外郭の構造は奈良時代のI期では瓦葺きの築地塀、同じく奈良時代のII期では非瓦葺きの築地塀、平安時代に入ってからのIII期は柱列による材木塀、IV期は材木列による材木塀、V期は明確でなく、堀による区画がなされたと考えられている{{Sfnp|伊藤|2006|p=32}}。V期の堀は深さ1メートル、幅3メートルを超すものであるが、城の東辺、西辺での発見であり外周全体を囲うものであったかは定かでない{{Sfnp|伊藤|2006|p=38}}。III期以降は外郭に附設して[[櫓]]が設けられており、検出された遺構からの推定では、およそ80 - 90メートル間隔で外郭に櫓が並んでいたと考えられている{{Sfnp|伊藤|2006|p=38}}。外郭の城門はこれまで東門が確認されていたが、2008年([[平成]]20年)の第92次調査で西門が{{Sfnp|石郷岡|松下|伊藤|小野|2009|pp=8-12}}、2012年(平成22年)の第101次調査で南門がそれぞれ発見されている{{Sfnp|髙橋|松下|伊藤|小野|2013|pp=40-47}}。なお、2013年時点では北門は未だ発見されていない。外郭東門および附設の築地塀(延長45メートル)、幅12mの東大路が1998年(平成10年)に復元されており<ref>{{Cite web |和書 |url=http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/ac/Higasimon.htm |title=東門と築地塀の復元 |publisher=秋田市教育委員会 秋田城跡調査事務所 |access-date=2015-09-11 |url-status=dead |url-status-date=2024-12-14 |archive-url=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9592116/www.city.akita.akita.jp/city/ed/ac/Higasimon.htm |archive-date=2016-01-07}}</ref>、創建期の姿を現在に伝えている。

=== 内郭と政庁の配置 ===
内郭にあたる政庁跡は城域の中心からやや南西寄りに位置しており、その規模は創建期のもので東西約94メートル、南北約77メートルと、東西方向の差渡しの方がやや長い、横長の長方形となっている点が特徴である{{Sfnp|伊藤|2006|pp=44-45}}{{Efn|当時の国府の政庁は一辺75 - 105メートルの方形または長方形が一般的で、長方形の場合南北方向に長いことが多い{{Sfnp|八木|2016|p=86}}。}}。[[八木光則]]によると東北地方の城柵における政庁の規模は以下の3つの類型に分けられ、秋田城は多賀城等より一回り小さい規模の地域中核拠点であるとされる{{Sfnp|八木|2016|pp=86-87}}。
{|class="wikitable"
|+城柵の政庁規模の類型{{Sfnp|八木|2016|p=86}}
|-
!類型||政庁の規模||該当する城柵||同等の規模の国府
|-
|1類||一辺約120 - 150 [[メートル|m]]||多賀城、[[志波城]]、城輪柵が該当||[[筑後国府跡|筑後国府]]の規模に相当
|-
|2類||一辺約75 - 105 m||秋田城、[[胆沢城]]が該当||ほとんどの国府の規模に相当
|-
|3類||一辺約60 - 75 m||[[桃生城]]、[[伊治城]]、払田柵、[[徳丹城]]が該当||[[伯耆国庁跡|伯耆国府]]の規模に相当
|}

秋田城の創建時期は多賀城の9年後であるため、当初の正殿・脇殿の建物構造は多賀城I期を踏襲し、共通点が多く見られた。多賀城正殿の四面廂と秋田城の南相廂という差異は見られるが、これは太平洋側と日本海側の[[降雪量]]の差を反映したものと考えられており、建物面積はほぼ同等である{{Sfnp|八木|2016|p=84,97}}。一方で内郭そのものの面積は大きく異なることから、この点で陸奥国府を併置した多賀城と国府を置かなかった秋田城の差異が現れたと考えられている{{Sfnp|八木|2016|pp=88-89}}。

政庁跡ではI期からVI期までの変遷(うちVI期はさらにA期とB期の2小期に分けられる)が見られたが、「コ」の字型の施設配置は全期を通じて維持された。多賀城では8世紀の後半に正殿・脇殿が礎石化され、城域を拡大するなど、官衙が拡大充実していくのに対し、秋田城ではこの時期も当初の構造が変化せず、多賀城とは異なる路線を歩むこととなった。この点も、陸奥側では王権の支配域の拡大にともない、多賀城が桃生城、伊治城等を後方から支援する面的支配の拠点に変質していったのに対し、出羽国の北端に突出する秋田城では在地の蝦夷の饗応や渤海使受け入れなど、設置当初からの秋田城固有の役割が変化しなかったためであると考えられている{{Sfnp|八木|2016|pp=88-89}}。なお、秋田城の政庁がI期からVI期までの掘立式から礎石式に移行するのは最終期であるVI期においてであるが{{Sfnp|伊藤|2006|p=46}}、なぜ最終期に礎石式に移行したのかは不明である{{Sfnp|伊藤|2006|pp=51-52}}。


政庁の様式は都の朝堂、あるいは各国の[[国衙]]に倣うものであり、秋田城は地域一帯の行政の拠点でもあったことから、政庁では一般の政務のほか、在地の蝦夷の饗応、さらには渤海使をはじめとする外交使節に対する送迎の儀式も行われていたものと考えられている{{Sfnp|伊藤|2006|pp=54-56}}。なお、政庁跡を道路([[国道7号]]旧々道)が跨いでいるために南西側が約3分の1に渡って削平・破壊されており、西脇殿・政庁南門の様相は不明である{{Sfnp|伊藤|2006|p=45}}。
=== 遺跡の概要 ===
* 規模と遺構配置
* 遺跡の変遷


=== 遺構 ===
* 東門
* 政庁跡
* 外郭
* トイレ建物 - [[掘立柱建物]]と[[トイレ遺構]]が一体となった造りになっており、その構造から、庇側の入口から入ると、待合室的な空間があり、その先に3部屋の個室をもったトイレ建物と考えられる。個室の床下の便槽に溜まった汚物は木樋を通して沼に排水する水洗式だったと考えられる。その際、沼の汚染を少なくするため沈殿槽を設け、汚れの少ない上澄みだけを流すように工夫したものと思われる。なお、水洗に関しては、個室内に用意された桶の水を使用後に流す構造であったか、あるいは床下に木樋の暗渠があり。上方に位置する井戸などの生活排水によって随時流す高野山的なシステムであったと考えられる。[[寄生虫]]卵の分析からは、[[サケ]]・[[マス]]を常食しない西日本的な食生活がうかがわれ、現地の人ではなく、都から来た役人が使用したものと考えられた。ただし、この建物は外郭外側の通称「鵜ノ木地区」から見つかったことから寄生虫卵の再検討がおこなわれ、豚を常食する人々(外国人)を迎え饗応した施設ではないかという見方もあらわれている。
* 鵜ノ木地区
* その他
<gallery>
<gallery>
ファイル:Toilet Ruins of Akita Castle2.jpg|トイレ遺構(復元)
ファイル:Corridor of Akita Castle.jpg|東門に続く幅員12mの大路
ファイル:Model of Akita Castle I.jpg|第I期の政庁配置を示す模型
ファイル:Model of Akita Castle I.jpg|第I期の政庁配置を示す模型
ファイル:Model of Akita Castle II.jpg|第II期の政庁配置を示す模型
ファイル:Model of Akita Castle III.jpg|第III期の政庁配置を示す模型
</gallery>
</gallery>


=== 発掘された ===
=== 城郭内の ===
==== 大畑地区 ====
;人面墨書土器<ref name="出土">{{Cite web |date= |url=http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/ac/Ibutu.htm |title=主な出土遺物 |publisher=秋田城跡調査事務所(秋田市教育委員会) |accessdate=2015-09-11|ref="syu2d"}}</ref>
[[ファイル:Corridor of Akita Castle.jpg|thumb|東門に続く幅員12メートルの大路]]
;[[胞衣壺]]<ref name="出土"/>
城内東部の大畑地区において[[掘立柱建物]]群、[[竪穴建物]]群、鍛冶工房群などの遺構が検出されており、この地区で発掘された[[考古資料]]には、非鉄製小札甲や[[漆紙文書]]、[[胞衣壺]]埋納機構など、貴重なものが含まれる{{Sfnp|伊藤|2006|pp=56-60}}。この地区は竪穴建物が営まれて居住域として利用される時期もあったが、全体としては平安時代以降秋田城を支える生産施設として利用されたと考えられており、9世紀の前半から中頃にかけて盛期を迎えた{{Sfnp|伊藤|2006|p=60}}。鉄生産施設も置かれており、大畑地区のように郭内の一定の区域に工房がまとまって置かれ、継続的に営まれた事例は珍しいものとされる{{Sfnp|伊藤|2006|pp=60-61}}。
:生まれた子の[[胎盤]]と[[萬年通宝]]5枚が納められていた。胎盤の[[DNA鑑定]]の結果、血液型B型の男子であることが判明した<ref name="出土"/>。
;非鉄製小札甲(ひてつせいこざねよろい)<ref name="出土"/>
:小札甲([[挂甲#奈良時代の挂甲|挂甲]])の部品である漆塗りの小札(こざね)が大量に発見された。小札は革製だと考えられている<ref name="出土"/>。
;[[漆紙文書]]<ref name="出土"/>
:全国初の出土となった[[死亡帳]]はじめ[[戸籍]]や[[計帳]]、手紙などが発見されている。[[赤外線]]により解読され、当時の地方の人民の氏名や家族構成などがわかる貴重な資料になっている。「死亡帳」は同時に出土した文書に「[[嘉承]]二、三年」([[849年]]・[[850年]])の年紀があり、9世紀前半のものと判断される。
;[[和同開珎]]銀銭<ref name="出土"/>
;[[木簡]]<ref name="出土"/>
:延暦10(791)年から同14(795)の時期における外郭東門の造営やその警護・宿直(とのい)に関係する資料群と評価されている。木簡は桶状の木片に書かれたものや進上された米・その他各種の物品の付け札などが使用されている。ここでは上総国や上野国の名が見える。
;その他
:その他にも墨書・刻書土器など様々な遺物が発掘され、保存されている{{refnest|主な事業、出土遺物の保存処理の遺物保存処理実績表より<ref name="omona"/>。}}。
<!-- 指定文化財等は、遺物の中に平気すれば、この項目は必要ないのでは。--><!-- === 文化財の保存と活用 === -->


=== 復元 ===
=== 城郭の遺構 ===
==== 鵜ノ木地区 ====
外郭東門・[[築地塀]]と幅12mの大路が復元され<ref>{{Cite web |date= |url=http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/ac/Higasimon.htm |title=東門と築地塀の復元 |publisher=秋田城跡調査事務所(秋田市教育委員会) |accessdate=2015-09-11}}</ref>、鵜ノ木地区では古代沼・建物跡・井戸跡などが整備されている<ref>{{Cite web |date= |url=http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/ac/Sisekikouen/Unokitiku.htm |title=鵜ノ木地区の建物群と古代沼 |publisher=秋田城跡調査事務所(秋田市教育委員会) |accessdate=2015-09-11}}</ref><ref>{{Cite web |date= |url=http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/ac/Sisekikouen/Suisenkawaya.htm |title=古代水洗厠舎 |publisher=秋田城跡調査事務所(秋田市教育委員会) |accessdate=2015-09-11}}</ref>。
その他城郭外の遺構については、鵜ノ木地区において規則的に配置された大規模な[[掘立柱建物]]群の遺構と、水洗トイレの遺構などが検出されている。この地区はI期からIV期までの変遷が見られ、I, II期が奈良時代、III, IV期が平安時代以降と推定されている{{Sfnp|伊藤|2006|pp=67}}。出羽柵創建(733年)から秋田城に改称された760年頃までの遺構とみられるI期には、大規模な掘立柱建物跡が検出されており、その規模は政庁の正殿をも上回っていた{{Sfnp|伊藤|2006|p=68}}。これら鵜ノ木地区の遺構は、国営調査の結果からは秋田城に附属した四天王寺跡とする推定がなされているが、I, II期のものについては都からの賓客や渤海使を迎えた迎賓館として使用されたのではないかとする見方も示されている{{Sfnp|伊藤|2006|pp=68-72}}。平安時代以降のIII, IV期については、区画施設で囲まれるなどの寺院らしい体裁が整えられるようになっており、「寺」「玉寺」などの墨書が残された土器などが出土していることから附属寺院である可能性が高いとみられている{{Sfnp|伊藤|2006|p=72}}。


[[ファイル:Toilet Ruins of Akita Castle2.jpg|thumb|鵜ノ木地区のトイレ遺構(復元)]]
== アクセス ==
鵜ノ木地区における重要な遺構の一つとして、[[トイレ遺構|古代水洗厠舎跡]]の存在が挙げられる{{Sfnp|伊藤|2006|p=72}}。施設は掘立柱建物と便槽、沈殿槽、木樋、目隠し塀によって構成され、その構造から、庇側の入口から入るとまず待合室的な空間があり、その先に3部屋の個室をもっていたと考えられている{{Sfnp|伊藤|2006|pp=72-73}}。仕組みとしては個室の床下の便槽に溜まった汚物を、木樋を通して沼に排水する水洗式だったと考えられており、その際、沼の汚染を少なくするため沈殿槽を設け、汚れの少ない上澄みだけを流すように工夫したものと思われる{{Sfnp|伊藤|2006|pp=73-76}}。なお、水洗に関しては、導水施設が見られないことから個室内に用意された甕などの水を使用後に流す構造であったと考えられ、その構造は現代の[[簡易水洗式便所]]に近いものであった{{Sfnp|伊藤|2006|pp=73-76}}。[[寄生虫]]卵の分析からは、[[サケ]]・[[マス]]を常食しない西日本的な食生活がうかがわれ、現地の人ではなく、都から来た役人が使用したものと考えられた。ただし、この建物は外郭外側の通称「鵜ノ木地区」から見つかったことから寄生虫卵の再検討がおこなわれ、豚を常食する人々(外国人)を迎え饗応した施設ではないかという見方もあらわれている{{Sfnp|伊藤|2006|pp=76-79}}。
*JR秋田新幹線、奥羽本線、羽越本線の秋田駅より、秋田中央交通バス「寺内経由」各線に乗車し「護国神社入口」下車。または、「新国道経由」各線に乗車し「護国神社裏参道」下車。<ref>市街地であり運行本数は多い。</ref>

== 出土した主な考古資料 ==
; 人面墨書土器<ref name="relic">{{Cite web |和書 |url=http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/ac/Ibutu.htm |title=主な出土遺物 |publisher=秋田市教育委員会 秋田城跡調査事務所 |access-date=2015-09-11 |url-status=dead |url-status-date=2024-12-14 |archive-url=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10320115/www.city.akita.akita.jp/city/ed/ac/Ibutu.htm |archive-date=2017-04-05}}</ref>
; [[胞衣壺]]<ref name="relic" />
: 生まれた子の[[胎盤]]と[[萬年通宝]]5枚が納められていた。胎盤の[[DNA鑑定]]の結果、血液型B型の男子であることが判明した<ref name="relic" />。
; 非鉄製小札甲(ひてつせいこざねよろい)<ref name="relic" />
: 1998年(平成10年)度の第72次調査で[[小札甲]]([[挂甲#奈良時代の挂甲(裲襠式小札甲)|挂甲]]あるいは[[短甲#奈良時代の短甲(胴丸式小札甲)∣短甲]])の部品である漆塗りの小札(こざね)が大量に発見された。小札は9世紀前半のもので、革製だと考えられている<ref name="relic" /><ref>{{Cite journal |和書 |author=伊藤武士 |date=2000 |title=秋田城跡の発堀調査成果 |journal=日本考古学 |volume=7 |issue=10 |pages=127-137 |publisher=日本考古学協会 |doi=10.11215/nihonkokogaku1994.7.10_127}}</ref>。
; [[漆紙文書]]<ref name="relic" />
: 全国初の出土となった[[死亡帳]]はじめ[[戸籍]]や[[計帳]]、手紙などが発見されている。[[赤外線]]により解読され、当時の地方の人民の氏名や家族構成などがわかる貴重な資料になっている。「死亡帳」は同時に出土した文書に「[[嘉承]]二、三年」(849年・850年)の年紀があり、9世紀前半のものと判断される。
; [[和同開珎]]銀銭<ref name="relic" />
; [[木簡]]<ref name="relic" />
: 延暦10年(791年)から同14年(795年)の時期における外郭東門の造営やその警護・宿直(とのい)に関係する資料群と評価されている。木簡は桶状の木片に書かれたものや進上された米・その他各種の物品の付け札などが使用されている。ここでは上総国や上野国の名が見える。
; その他
: その他にも墨書・刻書土器など様々な遺物が発掘され、保存されている<ref>{{Cite web |和書 |url=http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/ac/Omonazigyou.htm |title=主な事業紹介 |publisher=秋田市教育委員会 秋田城跡調査事務所 |access-date=2015-09-11 |url-status=dead |url-status-date=2024-12-14 |archive-url=https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10320115/www.city.akita.akita.jp/city/ed/ac/Omonazigyou.htm |archive-date=2017-04-05}}</ref>。

== 秋田城跡の調査 ==
=== 発掘前史 ===
中世以降忘れ去られてしまっていた秋田城跡について、その研究が行われるようになったのは、[[江戸時代]]の中期以降である{{Sfnp|伊藤|2006|p=19}}。江戸時代の[[本草学]]者・著述家であった[[菅江真澄]]は、寺内地区の民家に長期滞在して聞き取りと[[フィールドワーク]]を重ね、高清水の丘が秋田城の所在地であったと示している{{Sfnp|伊藤|2006|p=20}}。ただし、菅江真澄以来明治期に至るまで、多数の研究者が考証を重ねて秋田城跡が高清水の丘にあると推定されながらも、実証的な裏付けを得る事が出来なかった{{Sfnp|伊藤|2006|p=20}}。明治以降、[[秋田県立秋田高等学校|秋田中学校]]教諭であり郷土史家でもあった[[大山宏]]による調査研究が重ねられ、その成果は後の発掘事業と[[史跡]]指定に結びつくものとなった{{Sfnp|伊藤|2006|pp=20-21}}。大山の研究は[[秋田魁新報|秋田魁新報社]]社長であり郷土史家でもあった[[安藤和風]]の協力を得るところとなり、安藤は国の史跡指定に向けて積極的なはたらきかけを行った{{Sfnp|伊藤|2006|p=21}}。1924年([[大正]]13年)には[[内務省 (日本)|内務省]]の係官[[柴田常恵]]による初の現地調査が行われ、寺内大畑地区を中心に土塁跡を確認した結果、秋田城の推定範囲がより精確に絞り込まれることとなった{{Sfnp|伊藤|2006|p=21}}。このような調査の進展を受けて史跡指定運動もより強まり、1935年([[昭和]]10年)には[[文部省]]から[[荻野仲三郎]]が最終的な現地調査のため来秋し、そこでは大山ら地元研究者を交えた討論会を行っている{{Sfnp|伊藤|2006|pp=21-22}}。こうして文部省史跡調査会による承認を受けて秋田城跡は1939年(昭和14年)に国の史跡に指定、以後、学術調査や緊急調査が行われることとなった{{Sfnp|伊藤|2006|p=22}}。

=== 国営調査以降の展開 ===
秋田城跡において初めて大規模な発掘調査が行われたのは、1958年(昭和33年)のことである{{Sfnp|伊藤|2006|p=23}}。[[秋田県護国神社]]が敷地内の造成工事を行ったところ、多数の遺物が発見され、県・市教育委員会合同の発掘調査が行われることとなった{{Sfnp|伊藤|2006|p=23}}。史跡の保護管理政策策定のためにも国によるより本格的な調査を仰ぐ必要があり、翌1959年(昭和34年)から1962年(昭和37年)にかけて、国直轄の発掘調査(国営調査)が行われた{{Sfnp|伊藤|2006|pp=23-24}}。調査の結果外郭と政庁跡、鵜ノ木地区の遺構など、秋田城の輪郭を浮かび上がらせる多数の遺構を検出しており、城柵の二重構造や附属寺院の可能性を示したことは、東北地方の古代史研究においても重要な知見をもたらした{{Sfnp|伊藤|2006|p=24}}。1964年(昭和39年)には秋田城跡出土品収蔵庫が完成<ref>{{Cite web |和書 |url=http://www.city.akita.akita.jp/koho/data/html/0249/0249_01_06.htm |title=広報あきた 1964年10月1日号 |publisher=秋田市 |access-date=2016-07-04 |url-status=dead |url-status-date=2024-12-14}}</ref>(2015年(平成27年)閉館)、1966年(昭和41年)からは史跡の土地買上げ事業も開始され、当初住民による反対運動も受けながらも粘り強い交渉の結果、理解を得るに至っている{{Sfnp|伊藤|2006|pp=25-26}}。一方、保存管理計画策定のためには国営調査の結果だけでは不十分で、より綿密な調査が必要となっており、1972年(昭和47年)からは秋田市教育委員会の秋田城跡調査事務所が継続して発掘調査を行っている{{Sfnp|伊藤|2006|pp=26-27}}。

=== 史跡整備と復元 ===
1972年(昭和47年)より秋田城跡調査事務所による発掘調査事業が継続して行われるようになった秋田城跡であるが、1980年代からは次の段階として、出土した遺物を公開展示して市民に理解を深めてもらい、史跡を歴史に親しむ場とする、史跡の整備活用のあり方が模索されるようになってきた{{Sfnp|伊藤|2006|p=179}}。秋田市では1987年(昭和62年)に整備基本計画を策定、1989年(平成元年)からは国の補助を受けながら、秋田城跡環境整備事業に着手している{{Sfnp|伊藤|2006|pp=179-180}}。中でもまとまった調査が行われた鵜ノ木地区が先行して整備され、古代沼の復元などが行われることとなった{{Sfnp|伊藤|2006|p=180}}。前後して1989年(平成元年)から1990年(平成2年)にかけて行われた第54次調査において外郭東門跡が発見され、これらは研究の成果を反映の上で、鵜ノ木地区の整備と一体化して外郭東門と築地塀の復元が行われることとなった{{Sfnp|伊藤|2006|p=180}}。1998年(平成10年)に外郭東門の復元工事が完成<ref>{{Cite web |和書 |url=http://www.city.akita.akita.jp/koho/data/html/1430/1430_02_02.htm |title=広報あきた 1998年3月27日号 |publisher=秋田市|access-date=2016-06-10 |url-status=dead |url-status-date=2024-12-14}}</ref>、出羽柵として創建された当初の姿を明らかにした。また、1994年(平成6年)以降、政庁東門から外郭東門に至る「東大路」も[[版築]]の層を重ねる手法で復元されたが、透排水の工夫など古代の道路築造技術を体感することができる<ref>{{Cite news |和書 |author=八並朋昌 |date=2022-07-23 |title=深層リポート 秋田城跡の復元大路で体感 想像以上に高度 古代の道路築造技術 |newspaper=産経新聞 |publisher=産経新聞社 |url=https://www.sankei.com/article/20220723-QFIKXM3BAZKPLA4RC6YXLKIHFI/ |access-date=2022-07-23}}</ref>。

1998年3月31日付をもって周辺の史跡公園が'''高清水公園'''として告示され<ref>{{Cite web |和書 |url=https://www.city.akita.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/007/187/062kouennmeisaihyou.pdf |title=秋田市の都市公園一覧 |page=42 |format= PDF |publisher=秋田市 |access-date=2024-12-14}}</ref>、当公園は[[日本の歴史公園100選]]に選定されている。また、以前より秋田城跡出土品収蔵庫において発掘された遺物が公開されてきたが、2016年(平成28年)4月、新たに'''秋田城跡歴史資料館'''が開館した<ref name="asahi20160419">{{Cite news |和書 |title=秋田)「最北の古代城柵」秋田城跡の資料館完成 |newspaper=[[朝日新聞]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=2016-04-19 |url=http://www.asahi.com/articles/ASJ4J2JY1J4JUBUB001.html |access-date=2016-06-10}}{{リンク切れ|date=2024-12-14}}</ref>。

<gallery>
ファイル:Takashimizu Park.jpg|外郭東門から見た古代沼(復元)
ファイル:Akita Castle East Gate2.jpg|外郭東門(復元)
ファイル:Toilet Ruins of Akita Castle1.jpg|トイレ遺構(復元)
</gallery>

== 秋田城跡歴史資料館 ==
{{博物館
|名称 = 秋田城跡歴史資料館
|画像 = [[ファイル:Akita City History Museum of Akita Fort Ruins.jpg|300px|秋田城跡歴史資料館]]
|正式名称 = 秋田城跡歴史資料館
|愛称 =
|前身 =
|専門分野 = 歴史
|事業主体 = [[秋田市]]
|管理運営 = 秋田市教育委員会
|年運営費 =
|延床面積 =
|研究職員 =
|開館 = 2016年4月16日
|閉館 =
|所在地郵便番号 = 011-0907
|所在地 = [[秋田県]]秋田市寺内焼山9-6
|位置 = {{ウィキ座標度分|39|44|23.50|N|140|4|40.8|E|}}
|アクセス = [[秋田中央交通]]バス「秋田城跡歴史資料館前」下車徒歩約2分
}}
上述の通り秋田城跡で発掘された資料などを展示するとともに、史跡の保護管理、調査研究にあたる総合拠点施設であり、2016年(平成28年)4月16日に開館した。館内では出土した資料の展示のほか、秋田城の[[ジオラマ]]や、赤外線カメラによって漆紙文書の文字を読み取る事が出来る体験コーナーが設けられている<ref name="asahi20160419" />。

秋田城跡歴史資料館と秋田城跡は、市道(通称・旧国道)で分断されていたが、城跡を一体的に散策できるよう、2020年(令和2年)6月に歩行者用連絡橋の建設を開始<ref name="sakigake20220410">{{Cite news |和書 |author=原田大生 |title=歴史資料館と史跡公園つなぐ連絡橋開通 秋田城跡、散策しやすく ARやVR使用サービス提供 古代の様子、スマホで体験 |newspaper=秋田魁新報 |date=2022-04-10 |page=23}}</ref>。2022年(令和4年)4月9日、完成記念式典を挙行。[[穂積志]]市長など出席者20人が渡り初めをした<ref name="sakigake20220410" />。開通に合わせて、[[拡張現実]] (AR) や[[バーチャル・リアリティ|仮想現実]] (VR) の技術を用いて往時の秋田城の姿を部分的に再現したサービスを提供した<ref name="sakigake20220410" />。

=== 利用案内 ===
; 開館時間
: 9:00 - 16:30
; 休館日
: [[年末年始]](12月29日 - 1月3日)
; 入館料
: 個人:一般210円(20名以上の団体で160円)、高校生以下無料

== 交通アクセス ==
; バス
: [[東日本旅客鉄道|JR]][[秋田駅]]より、[[秋田中央交通]]バス「将軍野線」または「寺内経由土崎線」に乗車し「秋田城跡歴史資料館前」下車。秋田駅より約20分。
; 自家用車
: [[秋田自動車道]]・[[秋田北インターチェンジ]]より約15分。
{{-}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />

=== 注釈 ===
{{Notelist|30em}}

=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}

== 参考文献 ==
* {{Cite journal |和書 |author1=石郷岡誠一 |author2=松下秀博 |author3=伊藤武士 |author4=小野隆志 |date=2009-03-31 |title=秋田城跡 |editor1=秋田市教育委員会 |editor2=秋田城跡調査事務所 |journal=秋田城跡調査事務所年報 |volume=2008 |publisher=秋田市教育委員会 |doi=10.24484/sitereports.14617 |ref={{SfnRef|石郷岡|松下|伊藤|小野|2009}}}}
* {{Cite book |和書 |author=伊藤武士 |date=2006-07 |title=秋田城跡 |series=日本の遺跡 12 |publisher=[[同成社]] |isbn=4-88621-360-X |ref={{SfnRef|伊藤|2006}}}}
* {{Cite book |和書 |editor=小口雅史 |editor-link=小口雅史 |date=2016-11 |title=北方世界と秋田城 |series=考古学リーダー 25 |publisher=[[六一書房]] |isbn=978-4-86445-083-6 |ref=<!--{{SfnRef|小口|2016}}-->}}<!-- 目次順に掲載 -->
** {{Wikicite |reference=熊谷公男 著「秋田城の歴史的展開:国府問題を中心にして」。 |ref={{SfnRef|熊谷|2016}}}}
** {{Wikicite |reference=八木光則 著「城柵構造からみた秋田城の特質」。 |ref={{SfnRef|八木|2016}}}}
* {{Cite book |和書 |author=工藤雅樹 |author-link=工藤雅樹 |date=2011-11-20 |title=古代蝦夷 |series=歴史文化セレクション |publisher=[[吉川弘文館]] |isbn= 978-4-642-06377-7 |ref={{SfnRef|工藤|2011}}}}<!-- 2000年に初版第一冊を発行。著者没後の2011年に再刊 -->
* {{Cite journal |和書 |author=熊谷公男 |date=2013-11-15 |title=秋田城の成立・展開とその特質 |journal=国立歴史民俗博物館研究報告 |volume=179 |pages=229-268 |publisher=[[国立歴史民俗博物館]] |doi=10.15024/00002073 |ref={{SfnRef|熊谷|2013}}}}
* {{Cite journal |和書 |author1=髙橋明道 |author2=松下秀博 |author3=伊藤武士 |author4=小野隆志 |date=2013-03-31 |title=秋田城跡 |editor1=秋田市教育委員会 |editor2=秋田城跡調査事務所 |journal=秋田城跡調査事務所年報 |volume=2012 |publisher=秋田市教育委員会 |doi=10.24484/sitereports.11491 |ref={{SfnRef|髙橋|松下|伊藤|小野|2013}}}}
* {{Cite journal |和書 |author=豊田哲也 |date=2018-09-10 |title=古代日本外交と秋田城 |journal=国際教養大学アジア地域研究機構紀要 |volume=7 |pages=63-72 |doi=10.24687/iasrc.7.0_63 |ref={{SfnRef|豊田|2018}}}}

== 関連文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=今泉隆雄 |author-link=今泉隆雄 |date=2015-09-10 |title=古代国家の東北辺境支配 |series=日本史学研究叢書 |publisher=吉川弘文館 |isbn=978-4-642-04641-1 |ref=<!--{{SfnRef|今泉|2015}}-->}}<!-- 著者没後の2015年に生前発表した論説を所収して刊行 -->
* {{Cite book |和書 |editor=熊谷公男 |editor-link=熊谷公男 |date=2015-12-01 |title=蝦夷と城柵の時代 |series=東北の古代史 3 |publisher=吉川弘文館 |isbn=978-4-642-06489-7 |ref=<!--{{SfnRef|熊谷|2015}}-->}}
* {{Cite book |和書 |editor1=熊田亮介 |editor1-link=熊田亮介 |editor2=八木光則 |date=2007-01-25 |title=九世紀の蝦夷社会 |series=奥羽史研究叢書 9 |publisher=[[高志書院]] |isbn=978-4-86215-018-9 |ref=<!--{{SfnRef|熊田|八木|2007}}-->}}
* {{Cite book |和書 |author=鈴木拓也 |date=2008-12-10 |title=蝦夷と東北戦争 |series=戦争の日本史 3 |publisher=吉川弘文館 |isbn=978-4-642-06313-5 |ref=<!--{{SfnRef|鈴木|2008}}-->}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{commonscat|Akita Castle}}
{{Commonscat|Akita Castle}}
* [[秋田城介]]
* [[交易港]]
* [[蝦夷]]
* [[商館]]
* [[日本の城一覧]]
* [[城柵]]
* [[出羽国]]
* [[出羽柵]]
* [[鎮守府 (古代)]]
* [[鎮守府 (古代)]]
* [[日朝関係史]]

* [[日本の城一覧]]
== 参考文献==
* [[日本の貿易史]]
* 伊藤武士『秋田城跡』同成社、2006年。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.city.akita.akita.jp/city/ed/ac/Default.htm 秋田城跡調査事務所]
* [https://www.city.akita.lg.jp/kanko/kanrenshisetsu/1003616/index.html 秋田城跡歴史資料館]
* {{Kotobank}}


{{coor title dms|39|44|26|N|140|04|47|E|region:JP-05}}
{{Coord|39|44|26|N|140|04|47|E|region:JP-05|display=title}}
{{Good article}}
{{デフォルトソート:あきたしよう}}
{{続日本100名城}}
[[Category:奈良時代]]
{{考古学}}
[[Category:平安時代]]
{{日本の文化財}}
[[Category:出羽国|城あきた]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:あきたしよう}}
[[Category:秋田県の城]]
[[Category:出羽国の城]]
[[Category:現存しない秋田県の建築物]]
[[Category:続日本100名城]]
[[Category:城柵遺跡]]
[[Category:城柵遺跡]]
[[Category:秋田県にある国指定の史跡]]
[[Category:秋田県にある国指定の史跡]]
[[Category:秋田市の歴史]]
[[Category:秋田市の歴史]]
[[Category:秋田]]
[[Category:秋田建築物|廃あきたしよう]]

2024年12月14日 (土) 15:57時点における最新版

logo
logo
秋田城
秋田県
秋田城の復元された外郭東門と築地塀(2022年4月)
秋田城の復元された外郭東門と築地塀(2022年4月
城郭構造 古代城柵
築城主 律令政権
築城年 天平5年(733年
廃城年 11世紀
遺構 政庁跡、東門、外郭、トイレ建物
指定文化財 国の史跡「秋田城跡」
再建造物 東門、築地塀
地図
秋田城跡の位置(秋田県内)
秋田城跡
秋田城跡
秋田城跡の位置(出羽国内)
秋田城跡
秋田城跡
テンプレートを表示

秋田城(あきたじょう/あきたのき)は、出羽国秋田(現在の秋田県秋田市)にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されており、かつての城域の一部は現在高清水公園となっている。また、秋田県護国神社も秋田城の城址に遷座したものである。

秋田城の創建は、733年(天平5年)に出羽柵庄内地方から秋田村高清水岡に移転した[注釈 1]ことにさかのぼり、その後天平宝字年間に秋田城に改称されたものと考えられている[1]。秋田城は奈良時代の創建から10世紀中頃までの平安時代にかけて城柵としての機能を維持したと考えられており[1]、その間幾度か改廃が取り沙汰されたことがあったものの、出羽国北部の行政・軍事・外交・文化の中心地としての役割を担った[2]。また、秋田城の発掘調査結果からは渤海との交流をうかがわせる複数の事実が指摘されており、文献史料による確たる証拠はないものの、奈良時代を通じてたびたび出羽国に来着した渤海使の受け入れが秋田城においてなされた可能性が高いと考えられている[3][4]。秋田城は朝廷によって設置された城柵の中でも最北に位置するものであり、律令国家による統治の拠点として、また津軽渡島蝦夷との交流や渤海との外交の拠点として、重要な位置にあった[2]

2017年(平成29年)、続日本100名城(107番)に選定された[5]

歴史・沿革

[編集]

秋田城の史料上の初出は、『続日本紀』において733年(天平5年)に出羽柵(いではのき)を秋田村[注釈 2]高清水岡に遷置したと記述された[注釈 3]ことにさかのぼる[1]。7世紀の中葉から9世紀の初頭にかけて、当時の朝廷は東北地方蝦夷を軍事的に制圧し服属させ、柵戸移民を扶植して積極的な支配域の拡大を図っており、日本海側では708年(和銅元年)に現在の山形県庄内地方越後国出羽郡として建郡、712年(和銅5年)には越後国から分離して出羽国に昇格させ、陸奥国から移管された置賜郡最上郡とあわせて初期の出羽国を形成した。前後して出羽郡内に出羽柵を設置したものと考えられている。

秋田城は朝廷の支配域の北上にともない出羽柵を移転したものと捉えられるのであるが、8世紀当時の秋田地方では大規模な集落の跡が確認されておらず、後城遺跡のような城柵の進出にともなって形成された集落が城柵の近傍に存在する程度であった。すなわち当時の秋田地方は人口が希薄で、移転当初の出羽柵は朝廷の支配域の北辺に突出しており、出羽柵(秋田城)の設置にともなって城柵周辺に蝦夷や柵戸移民が混在する集落が形成されたものと推測されている[6]

秋田に移った出羽柵は、760年(天平宝字4年)3月19日付の『丸部足人解』において「阿支太城」と表記されており、この頃秋田城に改称したものと考えられている[7]。『続日本紀』、780年(宝亀11年)8月23日の条では、秋田城へ派遣された鎮狄将軍安倍家麻呂の具申に対して朝廷から「秋田城は、前将軍や宰相が建てたものであり、長い年月を経てきた」と回答したことが見え、760年頃に秋田城へ機構改編したことを裏付ける。

このときの安倍家麻呂と朝廷の応答において秋田城の停廃が検討されたが、朝廷は秋田城の放棄を認めず、かえって軍兵を遣わして鎮守とし、鎮狄使または国司1名を専当として秋田城の防護にあたらせるものとした[注釈 4][7]。これにより、国司次官である出羽介が秋田城介(あきたじょうのすけ)として城に常置され、出羽国北部の統治にあたることとなった。

8世紀には、沿海州付近にあった渤海国からの使節がたびたび出羽国へ来着した。そもそも出羽柵の秋田移転には、なぜ庄内地方から一挙100kmも北進して人口希薄な秋田地方へ突出したのかという疑問が生じるのであるが、そこで秋田城の海上交流の拠点としての性格が着目され、秋田城が渤海使や北方民族との外交施設としての役割を担ったとする説が示されている[8]。8世紀の渤海使は、日本の使節船に同乗している場合を除いてほとんどが出羽に来着しており、新野直吉古畑徹らの研究は、渤海使が沿海州・サハリン・北海道の沿岸部伝いに航行して本州日本海側に達する北回り航路を取っていたことを唱え、さらに新野は出羽柵移転の背景に、渤海使の来航があった出羽国北部に中央政府と直結した出先機関を置いて、外国使節への対応を担わせたとする見方を示した[8]。ただし、そのことは大和朝廷が積極的に外交に取り組んだということを意味せず、せいぜい新年朝賀への外交使節参列の便宜を図ろうという程度の意図であり、しかも、渤海国側の技術的な事情により、想定されたルートと頻度では使節が来訪しなかったので現実の有用性は限定的であった、との指摘もある[4]

発掘調査結果からは、城外南東側の鵜ノ木地区において規則的に配置された大規模な掘立柱建物群の遺構と、水洗トイレの遺構などが検出されており、これらは国営調査では城に附属した寺院の四天王寺跡とする見解が示されているが、8世紀から9世紀初までの遺構については、建物が礎石式を取らず瓦葺きでないなど、寺院建築とするには疑問も示されており、これら施設群は外交使節を饗応する迎賓館だったのではないかとの推測も示されている[9]。なお、9世紀以降渤海使の出羽来航は途絶えており、鵜ノ木地区の遺構も、9世紀以降のものは木柵に囲われた寺院風の構成となっていく。

804年(延暦23年)、秋田城が停廃されて秋田郡が設置され、秋田城が担っていた機能は河辺府へ移されたとされる。先の802年(延暦21年)に朝廷はアテルイとの軍事的抗争に勝利し、これを受けて陸奥に胆沢城紫波城を造営、出羽でも同時期に払田柵(第II期雄勝城)が造営されたとみられるなど、9世紀初は朝廷と蝦夷との関係が大転換した時期にあたる。停廃という文言と裏腹にこの時期秋田城は大改修を受けており、秋田城の停廃とは陸奥方面での朝廷の軍事的勝利を受けて、秋田城を取り巻く環境が孤立した状態から解消されたことにともなう、支配体制再編の一環として行われたものと考えられる[10]

733年の出羽柵移転以降、秋田郡が設置されるまでの約70年間、秋田地方ではを置かず城が領域支配をも担う特殊な体制が取られていたが、秋田城の改修は郡制への移行と軌を一にするものであり[11]、むしろ支配体制を強化する形で[12]秋田城は出羽北部の軍事・行政拠点として存続することとなった。

830年(天長7年)には天長地震により城廓および官舎のことごとくが損傷する被害を受けた事が記されている[注釈 5][13]。この時の被害報告から城に附属して四天王寺・四王堂といった宗教施設が存在した事実が示されている[13][14]

878年(元慶2年)に勃発した俘囚の大規模反乱(元慶の乱)では、俘囚側が秋田城を一時占拠するに至り[15]、発掘調査からも乱によって城が焼かれたことを裏付ける焼土炭化物層が検出されている[16]。この乱の背景に、長く軍事的緊張から遠ざかっていた秋田城では制度上常備すべきとされていた軍が実際には配備されておらず、少数の健児が守るのみで警備が手薄になっていたことが挙げられる[17]

また、出羽国統治が安定していた反面、それに乗じて国司による苛烈な収奪が横行しており、元慶の乱の時期を記した『日本三代実録』元慶三年三月二日壬辰の条では、国内の公民の3分の1が「奥地」に逃亡するという異常事態に陥っていたことが記されている[18]。元慶の乱は、出羽権守として派遣された右中弁藤原保則が、主に上野国下野国の兵で編成された軍を率いて乱の鎮圧にあたり、また鎮守将軍として派遣された小野春風による懐柔策も受けて、硬軟織り交ぜた対応により終結に向かい、秋田城は回復されて復興整備に向かっている[19][12]

その後939年(天慶2年)の天慶の乱の際にも、秋田城は攻撃を受けている。10世紀後半には秋田城の基本構造と機能が失われたと考えられており、鵜ノ木地区においては11世紀前半までの遺構が確認されているものの、城内では11世紀以降に該当する主要な遺構が確認されていないことから、この頃には衰退していたと考えられている[20]平安時代後期から中世にかけて、史料上はなおも秋田城の文字が継続して確認されており、鎌倉時代には秋田城介の官職は武門にとって名誉あるものであったとされるが、中世の秋田城として比定される有力な遺構は確認されておらず、古代の秋田城跡周辺が有力な擬定地として推測されるにとどまっている[21]

秋田城国府説と非国府説について

[編集]

8世紀の秋田城に出羽国の国府が置かれていたかどうかは、学説上の争点となっている。これは『日本後紀』および『日本三代実録』において、延暦年間に出羽国国府を移転した旨が記されていることに端を発する。『日本後記』では804年(延暦23年)11月癸巳の条において、秋田城を停廃し郡制を布いて機能を河辺府に移転したこと[注釈 6]が、『日本三代実録』では887年(仁和3年)5月20日の条に、出羽郡井口にある国府は延暦年間に造営されたこと[注釈 7]が、それぞれ記されており、この二条の解釈によって、秋田城に国府が置かれたとする学説が現れることとなった[22]。なお、国府説、非国府説の両者ともに、712年(和銅3年)の出羽国設置時の国府は出羽柵であること、延暦年間以降は国府が出羽郡井口(=城輪柵)にあったということで見解が一致しており、争点となっているのは出羽柵が秋田に移転する733年(天平5年)から、「延暦年間」までの出羽国府の所在地ということになる[23]

秋田城国府説の視点と論者

[編集]

秋田城国府説を取る平川南の学説では、733年の出羽柵秋田移転から804年の秋田城停廃までの期間秋田城に国府があったと推定し、737年(天平9年)に陸奥国の多賀柵から出羽柵までの直通道路が計画されたことを、陸奥按察使が陸奥・出羽の両国府間で連絡を密にするためであったとして、秋田城国府説の根拠に挙げている[24]。また、新野直吉は、733年の出羽柵秋田移転にともない国府も秋田城に移転し、その後804年(延暦23年)に河辺府に国府機能を移転(河辺府を払田柵跡と推定)、その後815年 - 819年(弘仁6年~10年)に再移転して、出羽郡井口に移ったとの見解を示した[25]。秋田城の発掘資料からは、出羽国のの署名がある天平宝字年間の漆紙文書が出土しており、秋田城国府説の立場では、これを国府で最終保管されるべき性質の資料であるとみる。伊藤武士もこの立場に立っており、秋田城国府説では、発掘された考古資料を主要な根拠とすることが多い。しかし、秋田城国府説を裏付ける決定的な文字資料の出土には未だ至っていない[26]

秋田城非国府説の視点と論者

[編集]

一方、秋田城非国府説を取る今泉隆雄の学説では、出羽国国府は一貫して出羽郡内にあったものと推測し、多賀柵から出羽柵までの直通道路についても、「陸奥より出羽に達するに」との記述に着目して、両者の字句の違いは出羽柵が国府でなかったことを指し示すものとする[27]。その上で国府の移転に関する記事と秋田城の停廃に関する記事との峻別の必要性を指摘し、河辺府とは後の河辺郡付近に置かれた郡衙であるとした[28]。また今泉説では、宝亀初年に出羽国の要請で秋田城が停廃されており、『続日本紀』に記録される秋田城停廃を巡るやり取りがあった780年(宝亀11年)時点では、秋田城から一切の軍備が引き上げられていたと推測している[29]熊谷公男も今泉説を継承する立場にあり[25]、機能を停止していた時期の秋田城に国府が置かれていたことを否定する[29]。このように秋田城非国府説を取る論者は、文献史学の立場から、『続日本紀』などの解釈をその主要な根拠とすることが多い[25]

また今泉隆雄は、秋田城から国司署名の文書が出土するならば、それはむしろ国府から発給された文書の宛先が秋田城であることを示すのであり、秋田城が国府でなかったことの傍証であるともしている。ただし、これについて古代の公文書の廃棄課程をまとめた森田悌の研究により、発給元に返還される例があるとする反論がなされている[30]

そもそも、秋田城の立地とは前述のように朝廷の支配域から北に突出したものであった。すなわち、最前線の城柵として危険に晒されるリスクを負っており、このような場所に国府を置くのだろうかという疑問が、秋田城非国府説の基本的な出発点と言える[31]。国府の業務の内重要なものの一つである部内巡行についても、761年(天平宝字3年)の雄勝城(第I期)完成まで駅路さえ通じていなかった秋田城ではきわめて困難と考えられており、この点からも秋田城国府説に疑問が呈されている[32]

秋田城の構造と遺構

[編集]

基本構造

[編集]
秋田城赤線が外郭、緑線が政庁。青い四角が外郭東門。東門を出たところが鵜ノ木地区にあたる。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
衛星図

秋田城は、秋田平野の西部、雄物川秋田運河)右岸河口近くにある、標高40mほどの丘陵地上に造営された城である[33]。城柵の基本構造は、築地塀などで囲われた外郭と、政庁を囲う内郭との二重構造からなり、外郭の東西南北に城門が配置されていた[34]。政庁の配置は、正殿の南面に広場を設け左右に脇殿を配する「コ」の字型の施設配置となっており、これは都城にみられるような、大極殿正面に朝庭を設け、左右に朝堂を配する様式と共通する[35]。政庁施設は奈良時代から平安時代にかけてI - VI期の6期に渡る変遷が認められるが、政庁を囲う内郭の位置について大きな変化はなく、また「コ」の字型の建物配置も全期を通じて維持されている[36]

外郭の範囲と構造

[編集]

城の外郭の範囲は、右上図赤線で示した通り北西部を切り欠いたような不整方形である。外郭の範囲は、東西・南北ともおよそ550メートル、約30ヘクタールの広さを持つ[37]。外郭の位置も全期を通じて大きな変化は見られないが、塀の構造にはI - V期までの5期に渡る変遷が見られた[38]。このような構造の変更は出羽側の城柵にみられる特徴で、それに対し陸奥側では多賀城が拡張した際も築地塀の基本構造を維持している。秋田城では9世紀初頭に築地塀から材木塀に変更され、官衙としての荘重さが後退したことから、この時期に秋田城の性質が大きく変化したことが示唆されている[39]

外郭の構造は奈良時代のI期では瓦葺きの築地塀、同じく奈良時代のII期では非瓦葺きの築地塀、平安時代に入ってからのIII期は柱列による材木塀、IV期は材木列による材木塀、V期は明確でなく、堀による区画がなされたと考えられている[38]。V期の堀は深さ1メートル、幅3メートルを超すものであるが、城の東辺、西辺での発見であり外周全体を囲うものであったかは定かでない[40]。III期以降は外郭に附設してが設けられており、検出された遺構からの推定では、およそ80 - 90メートル間隔で外郭に櫓が並んでいたと考えられている[40]。外郭の城門はこれまで東門が確認されていたが、2008年(平成20年)の第92次調査で西門が[41]、2012年(平成22年)の第101次調査で南門がそれぞれ発見されている[42]。なお、2013年時点では北門は未だ発見されていない。外郭東門および附設の築地塀(延長45メートル)、幅12mの東大路が1998年(平成10年)に復元されており[43]、創建期の姿を現在に伝えている。

内郭と政庁の配置

[編集]

内郭にあたる政庁跡は城域の中心からやや南西寄りに位置しており、その規模は創建期のもので東西約94メートル、南北約77メートルと、東西方向の差渡しの方がやや長い、横長の長方形となっている点が特徴である[44][注釈 8]八木光則によると東北地方の城柵における政庁の規模は以下の3つの類型に分けられ、秋田城は多賀城等より一回り小さい規模の地域中核拠点であるとされる[46]

城柵の政庁規模の類型[45]
類型 政庁の規模 該当する城柵 同等の規模の国府
1類 一辺約120 - 150 m 多賀城、志波城、城輪柵が該当 筑後国府の規模に相当
2類 一辺約75 - 105 m 秋田城、胆沢城が該当 ほとんどの国府の規模に相当
3類 一辺約60 - 75 m 桃生城伊治城、払田柵、徳丹城が該当 伯耆国府の規模に相当

秋田城の創建時期は多賀城の9年後であるため、当初の正殿・脇殿の建物構造は多賀城I期を踏襲し、共通点が多く見られた。多賀城正殿の四面廂と秋田城の南相廂という差異は見られるが、これは太平洋側と日本海側の降雪量の差を反映したものと考えられており、建物面積はほぼ同等である[47]。一方で内郭そのものの面積は大きく異なることから、この点で陸奥国府を併置した多賀城と国府を置かなかった秋田城の差異が現れたと考えられている[48]

政庁跡ではI期からVI期までの変遷(うちVI期はさらにA期とB期の2小期に分けられる)が見られたが、「コ」の字型の施設配置は全期を通じて維持された。多賀城では8世紀の後半に正殿・脇殿が礎石化され、城域を拡大するなど、官衙が拡大充実していくのに対し、秋田城ではこの時期も当初の構造が変化せず、多賀城とは異なる路線を歩むこととなった。この点も、陸奥側では王権の支配域の拡大にともない、多賀城が桃生城、伊治城等を後方から支援する面的支配の拠点に変質していったのに対し、出羽国の北端に突出する秋田城では在地の蝦夷の饗応や渤海使受け入れなど、設置当初からの秋田城固有の役割が変化しなかったためであると考えられている[48]。なお、秋田城の政庁がI期からVI期までの掘立式から礎石式に移行するのは最終期であるVI期においてであるが[36]、なぜ最終期に礎石式に移行したのかは不明である[49]

政庁の様式は都の朝堂、あるいは各国の国衙に倣うものであり、秋田城は地域一帯の行政の拠点でもあったことから、政庁では一般の政務のほか、在地の蝦夷の饗応、さらには渤海使をはじめとする外交使節に対する送迎の儀式も行われていたものと考えられている[50]。なお、政庁跡を道路(国道7号旧々道)が跨いでいるために南西側が約3分の1に渡って削平・破壊されており、西脇殿・政庁南門の様相は不明である[51]

城郭内の遺構

[編集]

大畑地区

[編集]
東門に続く幅員12メートルの大路

城内東部の大畑地区において掘立柱建物群、竪穴建物群、鍛冶工房群などの遺構が検出されており、この地区で発掘された考古資料には、非鉄製小札甲や漆紙文書胞衣壺埋納機構など、貴重なものが含まれる[52]。この地区は竪穴建物が営まれて居住域として利用される時期もあったが、全体としては平安時代以降秋田城を支える生産施設として利用されたと考えられており、9世紀の前半から中頃にかけて盛期を迎えた[53]。鉄生産施設も置かれており、大畑地区のように郭内の一定の区域に工房がまとまって置かれ、継続的に営まれた事例は珍しいものとされる[54]

城郭外の遺構

[編集]

鵜ノ木地区

[編集]

その他城郭外の遺構については、鵜ノ木地区において規則的に配置された大規模な掘立柱建物群の遺構と、水洗トイレの遺構などが検出されている。この地区はI期からIV期までの変遷が見られ、I, II期が奈良時代、III, IV期が平安時代以降と推定されている[55]。出羽柵創建(733年)から秋田城に改称された760年頃までの遺構とみられるI期には、大規模な掘立柱建物跡が検出されており、その規模は政庁の正殿をも上回っていた[56]。これら鵜ノ木地区の遺構は、国営調査の結果からは秋田城に附属した四天王寺跡とする推定がなされているが、I, II期のものについては都からの賓客や渤海使を迎えた迎賓館として使用されたのではないかとする見方も示されている[57]。平安時代以降のIII, IV期については、区画施設で囲まれるなどの寺院らしい体裁が整えられるようになっており、「寺」「玉寺」などの墨書が残された土器などが出土していることから附属寺院である可能性が高いとみられている[58]

鵜ノ木地区のトイレ遺構(復元)

鵜ノ木地区における重要な遺構の一つとして、古代水洗厠舎跡の存在が挙げられる[58]。施設は掘立柱建物と便槽、沈殿槽、木樋、目隠し塀によって構成され、その構造から、庇側の入口から入るとまず待合室的な空間があり、その先に3部屋の個室をもっていたと考えられている[59]。仕組みとしては個室の床下の便槽に溜まった汚物を、木樋を通して沼に排水する水洗式だったと考えられており、その際、沼の汚染を少なくするため沈殿槽を設け、汚れの少ない上澄みだけを流すように工夫したものと思われる[60]。なお、水洗に関しては、導水施設が見られないことから個室内に用意された甕などの水を使用後に流す構造であったと考えられ、その構造は現代の簡易水洗式便所に近いものであった[60]寄生虫卵の分析からは、サケマスを常食しない西日本的な食生活がうかがわれ、現地の人ではなく、都から来た役人が使用したものと考えられた。ただし、この建物は外郭外側の通称「鵜ノ木地区」から見つかったことから寄生虫卵の再検討がおこなわれ、豚を常食する人々(外国人)を迎え饗応した施設ではないかという見方もあらわれている[61]

出土した主な考古資料

[編集]
人面墨書土器[62]
胞衣壺[62]
生まれた子の胎盤萬年通宝5枚が納められていた。胎盤のDNA鑑定の結果、血液型B型の男子であることが判明した[62]
非鉄製小札甲(ひてつせいこざねよろい)[62]
1998年(平成10年)度の第72次調査で小札甲挂甲あるいは短甲#奈良時代の短甲(胴丸式小札甲)∣短甲)の部品である漆塗りの小札(こざね)が大量に発見された。小札は9世紀前半のもので、革製だと考えられている[62][63]
漆紙文書[62]
全国初の出土となった死亡帳はじめ戸籍計帳、手紙などが発見されている。赤外線により解読され、当時の地方の人民の氏名や家族構成などがわかる貴重な資料になっている。「死亡帳」は同時に出土した文書に「嘉承二、三年」(849年・850年)の年紀があり、9世紀前半のものと判断される。
和同開珎銀銭[62]
木簡[62]
延暦10年(791年)から同14年(795年)の時期における外郭東門の造営やその警護・宿直(とのい)に関係する資料群と評価されている。木簡は桶状の木片に書かれたものや進上された米・その他各種の物品の付け札などが使用されている。ここでは上総国や上野国の名が見える。
その他
その他にも墨書・刻書土器など様々な遺物が発掘され、保存されている[64]

秋田城跡の調査

[編集]

発掘前史

[編集]

中世以降忘れ去られてしまっていた秋田城跡について、その研究が行われるようになったのは、江戸時代の中期以降である[65]。江戸時代の本草学者・著述家であった菅江真澄は、寺内地区の民家に長期滞在して聞き取りとフィールドワークを重ね、高清水の丘が秋田城の所在地であったと示している[66]。ただし、菅江真澄以来明治期に至るまで、多数の研究者が考証を重ねて秋田城跡が高清水の丘にあると推定されながらも、実証的な裏付けを得る事が出来なかった[66]。明治以降、秋田中学校教諭であり郷土史家でもあった大山宏による調査研究が重ねられ、その成果は後の発掘事業と史跡指定に結びつくものとなった[67]。大山の研究は秋田魁新報社社長であり郷土史家でもあった安藤和風の協力を得るところとなり、安藤は国の史跡指定に向けて積極的なはたらきかけを行った[68]。1924年(大正13年)には内務省の係官柴田常恵による初の現地調査が行われ、寺内大畑地区を中心に土塁跡を確認した結果、秋田城の推定範囲がより精確に絞り込まれることとなった[68]。このような調査の進展を受けて史跡指定運動もより強まり、1935年(昭和10年)には文部省から荻野仲三郎が最終的な現地調査のため来秋し、そこでは大山ら地元研究者を交えた討論会を行っている[69]。こうして文部省史跡調査会による承認を受けて秋田城跡は1939年(昭和14年)に国の史跡に指定、以後、学術調査や緊急調査が行われることとなった[70]

国営調査以降の展開

[編集]

秋田城跡において初めて大規模な発掘調査が行われたのは、1958年(昭和33年)のことである[71]秋田県護国神社が敷地内の造成工事を行ったところ、多数の遺物が発見され、県・市教育委員会合同の発掘調査が行われることとなった[71]。史跡の保護管理政策策定のためにも国によるより本格的な調査を仰ぐ必要があり、翌1959年(昭和34年)から1962年(昭和37年)にかけて、国直轄の発掘調査(国営調査)が行われた[72]。調査の結果外郭と政庁跡、鵜ノ木地区の遺構など、秋田城の輪郭を浮かび上がらせる多数の遺構を検出しており、城柵の二重構造や附属寺院の可能性を示したことは、東北地方の古代史研究においても重要な知見をもたらした[73]。1964年(昭和39年)には秋田城跡出土品収蔵庫が完成[74](2015年(平成27年)閉館)、1966年(昭和41年)からは史跡の土地買上げ事業も開始され、当初住民による反対運動も受けながらも粘り強い交渉の結果、理解を得るに至っている[75]。一方、保存管理計画策定のためには国営調査の結果だけでは不十分で、より綿密な調査が必要となっており、1972年(昭和47年)からは秋田市教育委員会の秋田城跡調査事務所が継続して発掘調査を行っている[76]

史跡整備と復元

[編集]

1972年(昭和47年)より秋田城跡調査事務所による発掘調査事業が継続して行われるようになった秋田城跡であるが、1980年代からは次の段階として、出土した遺物を公開展示して市民に理解を深めてもらい、史跡を歴史に親しむ場とする、史跡の整備活用のあり方が模索されるようになってきた[77]。秋田市では1987年(昭和62年)に整備基本計画を策定、1989年(平成元年)からは国の補助を受けながら、秋田城跡環境整備事業に着手している[78]。中でもまとまった調査が行われた鵜ノ木地区が先行して整備され、古代沼の復元などが行われることとなった[79]。前後して1989年(平成元年)から1990年(平成2年)にかけて行われた第54次調査において外郭東門跡が発見され、これらは研究の成果を反映の上で、鵜ノ木地区の整備と一体化して外郭東門と築地塀の復元が行われることとなった[79]。1998年(平成10年)に外郭東門の復元工事が完成[80]、出羽柵として創建された当初の姿を明らかにした。また、1994年(平成6年)以降、政庁東門から外郭東門に至る「東大路」も版築の層を重ねる手法で復元されたが、透排水の工夫など古代の道路築造技術を体感することができる[81]

1998年3月31日付をもって周辺の史跡公園が高清水公園として告示され[82]、当公園は日本の歴史公園100選に選定されている。また、以前より秋田城跡出土品収蔵庫において発掘された遺物が公開されてきたが、2016年(平成28年)4月、新たに秋田城跡歴史資料館が開館した[83]

秋田城跡歴史資料館

[編集]
秋田城跡歴史資料館
秋田城跡歴史資料館
地図
施設情報
正式名称 秋田城跡歴史資料館
専門分野 歴史
事業主体 秋田市
管理運営 秋田市教育委員会
開館 2016年4月16日
所在地 011-0907
秋田県秋田市寺内焼山9-6
位置 北緯39度44分23.50秒 東経140度4分40.8秒 / 北緯39.7398611度 東経140.078000度 / 39.7398611; 140.078000
アクセス 秋田中央交通バス「秋田城跡歴史資料館前」下車徒歩約2分
プロジェクト:GLAM
テンプレートを表示

上述の通り秋田城跡で発掘された資料などを展示するとともに、史跡の保護管理、調査研究にあたる総合拠点施設であり、2016年(平成28年)4月16日に開館した。館内では出土した資料の展示のほか、秋田城のジオラマや、赤外線カメラによって漆紙文書の文字を読み取る事が出来る体験コーナーが設けられている[83]

秋田城跡歴史資料館と秋田城跡は、市道(通称・旧国道)で分断されていたが、城跡を一体的に散策できるよう、2020年(令和2年)6月に歩行者用連絡橋の建設を開始[84]。2022年(令和4年)4月9日、完成記念式典を挙行。穂積志市長など出席者20人が渡り初めをした[84]。開通に合わせて、拡張現実 (AR) や仮想現実 (VR) の技術を用いて往時の秋田城の姿を部分的に再現したサービスを提供した[84]

利用案内

[編集]
開館時間
9:00 - 16:30
休館日
年末年始(12月29日 - 1月3日)
入館料
個人:一般210円(20名以上の団体で160円)、高校生以下無料

交通アクセス

[編集]
バス
JR秋田駅より、秋田中央交通バス「将軍野線」または「寺内経由土崎線」に乗車し「秋田城跡歴史資料館前」下車。秋田駅より約20分。
自家用車
秋田自動車道秋田北インターチェンジより約15分。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 『続日本紀』天平五年十二月己未条
  2. ^ 当時の「村」とは、王権との間に一定の支配関係はあるが、まだ国郡制が布かれていない地域を指した。
  3. ^ 『続日本紀』天平五年十二月己未条
  4. ^ 『続日本紀』宝亀十一年八月乙卯条
  5. ^ 類聚国史』巻一七十天長七年正月癸卯条
  6. ^ 『日本後紀』延暦二十三年十一月癸巳条
  7. ^ 『日本三代実録』仁和三年五月二十日癸巳条
  8. ^ 当時の国府の政庁は一辺75 - 105メートルの方形または長方形が一般的で、長方形の場合南北方向に長いことが多い[45]

出典

[編集]
  1. ^ a b c 伊藤 (2006), p. 12.
  2. ^ a b 伊藤 (2006), pp. 3–4.
  3. ^ 伊藤 (2006), pp. 148–150.
  4. ^ a b 豊田 (2018), p. 72.
  5. ^ 「『続日本100名城』を10年ぶりに選定、今回は古代の城柵や世界遺産も…」『産経新聞産経新聞社、2017年4月6日。
  6. ^ 伊藤 (2006), p. 167.
  7. ^ a b 伊藤 (2006), p. 144.
  8. ^ a b 伊藤 (2006), pp. 148–149.
  9. ^ 伊藤 (2006), pp. 67–72.
  10. ^ 熊谷 (2013), pp. 232–233.
  11. ^ 熊谷 (2013), pp. 257–258.
  12. ^ a b 熊谷 (2013), p. 263.
  13. ^ a b 伊藤 (2006), p. 150.
  14. ^ 工藤 (2011), p. 146.
  15. ^ 伊藤 (2006), p. 152.
  16. ^ 伊藤 (2006), p. 154.
  17. ^ 熊谷 (2013), p. 261.
  18. ^ 熊谷 (2013), pp. 260–261.
  19. ^ 伊藤 (2006), pp. 152–154.
  20. ^ 伊藤 (2006), pp. 154–155.
  21. ^ 伊藤 (2006), pp. 155–157.
  22. ^ 伊藤 (2006), pp. 144–145.
  23. ^ 熊谷 (2016), pp. 23–24.
  24. ^ 伊藤 (2006), pp. 145–146.
  25. ^ a b c 熊谷 (2016), p. 24.
  26. ^ 伊藤 (2006), p. 147.
  27. ^ 伊藤 (2006), p. 146.
  28. ^ 伊藤 (2006), pp. 146–147.
  29. ^ a b 熊谷 (2013), p. 234.
  30. ^ 熊谷 (2016), pp. 53–54.
  31. ^ 熊谷 (2016), p. 35.
  32. ^ 熊谷 (2016), pp. 35–37.
  33. ^ 伊藤 (2006), p. 9.
  34. ^ 伊藤 (2006), p. 4.
  35. ^ 伊藤 (2006), pp. 4–5.
  36. ^ a b 伊藤 (2006), p. 46.
  37. ^ 伊藤 (2006), p. 30.
  38. ^ a b 伊藤 (2006), p. 32.
  39. ^ 八木 (2016), pp. 82–84.
  40. ^ a b 伊藤 (2006), p. 38.
  41. ^ 石郷岡 et al. (2009), pp. 8–12.
  42. ^ 髙橋 et al. (2013), pp. 40–47.
  43. ^ 東門と築地塀の復元”. 秋田市教育委員会 秋田城跡調査事務所. 2016年1月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月11日閲覧。
  44. ^ 伊藤 (2006), pp. 44–45.
  45. ^ a b 八木 (2016), p. 86.
  46. ^ 八木 (2016), pp. 86–87.
  47. ^ 八木 (2016), p. 84,97.
  48. ^ a b 八木 (2016), pp. 88–89.
  49. ^ 伊藤 (2006), pp. 51–52.
  50. ^ 伊藤 (2006), pp. 54–56.
  51. ^ 伊藤 (2006), p. 45.
  52. ^ 伊藤 (2006), pp. 56–60.
  53. ^ 伊藤 (2006), p. 60.
  54. ^ 伊藤 (2006), pp. 60–61.
  55. ^ 伊藤 (2006), pp. 67.
  56. ^ 伊藤 (2006), p. 68.
  57. ^ 伊藤 (2006), pp. 68–72.
  58. ^ a b 伊藤 (2006), p. 72.
  59. ^ 伊藤 (2006), pp. 72–73.
  60. ^ a b 伊藤 (2006), pp. 73–76.
  61. ^ 伊藤 (2006), pp. 76–79.
  62. ^ a b c d e f g h 主な出土遺物”. 秋田市教育委員会 秋田城跡調査事務所. 2017年4月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月11日閲覧。
  63. ^ 伊藤武士「秋田城跡の発堀調査成果」『日本考古学』第7巻第10号、日本考古学協会、2000年、127-137頁、doi:10.11215/nihonkokogaku1994.7.10_127 
  64. ^ 主な事業紹介”. 秋田市教育委員会 秋田城跡調査事務所. 2017年4月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月11日閲覧。
  65. ^ 伊藤 (2006), p. 19.
  66. ^ a b 伊藤 (2006), p. 20.
  67. ^ 伊藤 (2006), pp. 20–21.
  68. ^ a b 伊藤 (2006), p. 21.
  69. ^ 伊藤 (2006), pp. 21–22.
  70. ^ 伊藤 (2006), p. 22.
  71. ^ a b 伊藤 (2006), p. 23.
  72. ^ 伊藤 (2006), pp. 23–24.
  73. ^ 伊藤 (2006), p. 24.
  74. ^ 広報あきた 1964年10月1日号”. 秋田市. 2016年7月4日閲覧。[リンク切れ]
  75. ^ 伊藤 (2006), pp. 25–26.
  76. ^ 伊藤 (2006), pp. 26–27.
  77. ^ 伊藤 (2006), p. 179.
  78. ^ 伊藤 (2006), pp. 179–180.
  79. ^ a b 伊藤 (2006), p. 180.
  80. ^ 広報あきた 1998年3月27日号”. 秋田市. 2016年6月10日閲覧。[リンク切れ]
  81. ^ 八並朋昌「深層リポート 秋田城跡の復元大路で体感 想像以上に高度 古代の道路築造技術」『産経新聞』産経新聞社、2022年7月23日。2022年7月23日閲覧。
  82. ^ 秋田市の都市公園一覧” (PDF). 秋田市. p. 42. 2024年12月14日閲覧。
  83. ^ a b 秋田)「最北の古代城柵」秋田城跡の資料館完成」『朝日新聞朝日新聞社、2016年4月19日。2016年6月10日閲覧。[リンク切れ]
  84. ^ a b c 原田大生「歴史資料館と史跡公園つなぐ連絡橋開通 秋田城跡、散策しやすく ARやVR使用サービス提供 古代の様子、スマホで体験」『秋田魁新報』2022年4月10日、23面。

参考文献

[編集]
  • 石郷岡誠一、松下秀博、伊藤武士、小野隆志「秋田城跡」『秋田城跡調査事務所年報』第2008巻、秋田市教育委員会、2009年3月31日、doi:10.24484/sitereports.14617 
  • 伊藤武士『秋田城跡』同成社〈日本の遺跡 12〉、2006年7月。ISBN 4-88621-360-X 
  • 小口雅史 編『北方世界と秋田城』六一書房〈考古学リーダー 25〉、2016年11月。ISBN 978-4-86445-083-6 
    • 熊谷公男 著「秋田城の歴史的展開:国府問題を中心にして」。
    • 八木光則 著「城柵構造からみた秋田城の特質」。
  • 工藤雅樹『古代蝦夷』吉川弘文館〈歴史文化セレクション〉、2011年11月20日。ISBN 978-4-642-06377-7 
  • 熊谷公男「秋田城の成立・展開とその特質」『国立歴史民俗博物館研究報告』第179巻、国立歴史民俗博物館、2013年11月15日、229-268頁、doi:10.15024/00002073 
  • 髙橋明道、松下秀博、伊藤武士、小野隆志「秋田城跡」『秋田城跡調査事務所年報』第2012巻、秋田市教育委員会、2013年3月31日、doi:10.24484/sitereports.11491 
  • 豊田哲也「古代日本外交と秋田城」『国際教養大学アジア地域研究機構紀要』第7巻、2018年9月10日、63-72頁、doi:10.24687/iasrc.7.0_63 

関連文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]

座標: 北緯39度44分26秒 東経140度04分47秒 / 北緯39.74056度 東経140.07972度 / 39.74056; 140.07972