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2016年6月8日 (水) 03:02時点における版

つゆき しげる
露木 茂
プロフィール
愛称 露さん
出身地 日本の旗 日本 東京都千代田区
生年月日 (1940-12-06) 1940年12月6日(84歳)
最終学歴 早稲田大学政治経済学部経済学科
所属事務所 キャスト・プラス
職歴フジテレビアナウンサー
早稲田大学客員教授
東京国際大学国際関係学部教授
活動期間 1963年 -
ジャンル 報道・情報・バラエティ
配偶者 軽部和子
公式サイト キャストプラス:露木茂(コメンテーター・キャスター)
出演番組・活動
出演中報道ライブ21 INsideOUT
出演経歴小川宏ショー
FNNスーパータイム
FNS歌謡祭
FNS27時間テレビ』 など
その他 東京国際大学特命教授・客員教授

露木 茂つゆき しげる1940年昭和15年〉12月6日 - )は、日本フリーアナウンサーニュースキャスター。元フジテレビアナウンサー東京国際大学特命教授・客員教授。日本記者クラブ企画委員。

現在はキャスト・プラス所属。妻は早稲田大学時代の同級生で同じアナウンス研究会に所属していた元NETテレビ(現:テレビ朝日)アナウンサーの軽部和子。弟は元自動車会社勤務。

来歴

東京市麹町区(現:東京都千代田区)出身。千代田区立麹町小学校千代田区立麹町中学校早稲田大学高等学院を経て早稲田大学政治経済学部経済学科に入学。高校・大学時代はボート部、大学途中でアナウンス研究会に所属。大沢悠里鈴木史朗らとは会友。また、アナウンサー同期でもある徳光和夫は古くからの友人である。

大学卒業後の1963年アナウンサーとしてフジテレビに入社し、数多くのリポートや番組の司会を担当。1970年、『小川宏ショー』での司会ぶりが評価され、第7回放送批評家賞(ギャラクシー賞)を受賞する[1]

『小川宏ショー』終了後は昼の報道番組でキャスターを通算9年(途中1年離れていた)、夕方の報道番組でキャスターを5年務め、あさま山荘事件日本航空123便墜落事故が発生した際にはフジテレビの報道特別番組でリポートを担当した(日航機墜落事故の際は、本来のキャスターである後輩の逸見政孝が夏期休暇中だったため)。この報道特別番組での功績が認められ、日本新聞協会賞を受賞する。

その傍ら、1978年から18回の長きに渡り『FNS歌謡祭』の司会を担当するなど、バラエティの分野でも活動した。社内では29歳で報道局解説委員に就任したのを皮切りに、アナウンス部担当部長、編成局専任局次長、編成局専任局長、役員待遇メディア事業本部専任局長、役員待遇解説委員兼エグゼクティブアナウンサーを歴任(いずれもアナウンサー兼務)。2000年12月31日の定年退職までフジテレビで勤め上げた。先輩の山田祐嗣が退職した1989年からは、フジテレビにおける最年長・最古参のアナウンサーだった。

フジテレビ在籍中には文化放送露木茂のHOTほっと土曜ワイド』のパーソナリティを担当し、『小川宏ショー』で共演していた小川宏とともにテレビ朝日徹子の部屋』(1976年5月5日)に出演したこともある(『徹子の部屋』に他局の現役アナウンサーが出演した唯一のケースである)。

定年退職後も、1年3か月の間、役員待遇で特別アドバイザー・解説委員(アナウンサー兼任)としてフジテレビに在籍。2002年にフリーとなり、同年4月から1年間、露木にとって初の他局レギュラー出演となるTBSおはよう!グッデイ』の司会を務めた。

フジテレビ在籍中から日本大学芸術学部講師(「アナウンス実習」担当。女性受講生が多く、後にフジテレビなどのマスコミ系に進む者もいた。12年勤めた後、後輩の松倉悦郎に譲った)や日本大学文理学部講師(「情報社会論」担当)などの教職も務めた。フジテレビ退職後も、2002年4月から2011年3月まで東京国際大学国際関係学部の教授を務めたほか、2003年4月から2011年3月までは早稲田大学客員教授としてマスコミュニケーション論を教えていた。

現在はフリーの司会業や講演活動に加え、東京国際大学特命教授・客員教授の職を務めるほか、日本記者クラブ企画委員として日本記者クラブ主催討論会の司会も務めている。

現在の担当番組

過去の担当番組

※特記事項がないものはすべてフジテレビの番組である。

テレビ

ラジオ

映画

テレビCM

著書

  • 『背広を脱いで アナウンサーは楽しすぎる』(主婦と生活社、1995年8月)
  • 『情報社会をみる』(学文社、2000年3月)
  • 『メディアの社会学』(いなほ書房、2000年8月)
  • 『マス・コミュニケーション論 マス・メディアの総合的視点』(学文社、2004年10月)

人物・エピソード

  • 学生時代のアルバイトは学生バンドの司会、東京中日新聞の電話ニュースアナウンサー。
  • フジテレビの前に日本ビールの内定を得ていた。
  • 1963年にフジテレビに入社した日は4月1日ではなく3月1日。当時のフジテレビはニッポン放送と文化放送(7年先輩の鳥居滋夫や6年先輩の山田祐嗣はニッポン放送や文化放送から出向)の折半で設立されてから年月が浅く自社アナウンサーが不足しており、新人でも即戦力として仕事をせよと言われたため(実際、早大の在学末期からアナウンサー研修を受けていた)。
  • 在京キー局のアナウンス職の採用は毎年3 - 5人程だが、上述のようなフジテレビの当時の社内事情もあり、同期のアナウンサー(入社当時)は7人(男性は3人=露木本人と岩佐徹能村庸一、女性は4人)もいたため、例年に類を見ない異例のアナウンサー大量採用の年となった(他局ではテレビ朝日1977年に、3年後のモスクワオリンピックをにらんで古舘伊知郎佐々木正洋渡辺宜嗣宮嶋泰子ら9人のアナウンサーを大量採用したという事例もある)。
  • 鉄人28号』のオープニングで流れていた有名な台詞『てつじんにじゅうはちごう、ガオー』は露木の声であり、これが彼のアナウンサーとしての初仕事であった。また、ナレーターや声優としての経験もある。
  • 入社した年に当時TBSアナウンス部長の中村要輔からTBS移籍を推奨されたが、断った。
  • 1965年に『小川宏ショー』がスタートした際、「金がかからない」という上層部の判断から男性アシスタントとして抜擢された。
  • 1969年にフジテレビの労働組合の執行委員となった際、当時の経営陣から執行委員を辞めるよう迫られたが拒否した結果、1970年3月31日の放送を最後にキャスターを担当していた『小川宏ショー』の降板を命ぜられた。しかし、番組終了直前にADから渡された「富士山上空で日航機がハイジャックされた」(日航機よど号ハイジャック事件)というニュース速報を見るや「ただいま日航機がハイジャックされたというニュースが入ってきました。今からその取材に行って参ります」と挨拶し、その日の放送を終了させた。これは当然露木の独断であったが、生放送中の発言のため撤回することもできず、上層部は彼にリポーターを任せざるを得なかった。翌日の放送からは現場リポートという形で出演を続け、事件の収束後、再びキャスターに返り咲いた。
  • 1972年連合赤軍浅間山荘事件で犯人逮捕人質救出作戦が行われた2月28日、司会兼リポーターとして出演していた『小川宏ショー』がスタートした9:00から夕方の『FNNニュース』が放送終了時刻の18:45まで現場からリポートしていた。本人の話によると「次の番組を飛ばしたから頑張ってくれ」という指示が本社から出続けたため、食事はおろかトイレにも行けず「一体いつになったら終わるのだろう…」と不安に駆られたという。またこの時、犯人からの銃弾が至近距離に着弾した。
  • 日本航空123便墜落事故の際には、通算10時間以上も『FNN報道特別番組』の司会を務めた。
    • 1985年8月13日の『FNNニュースレポート11:30』の放送開始直前、在京テレビ局で唯一、中継スタッフをその時点で事故現場に送り込んでいたスタッフから生存者発見の一報が入ってきた。それを受けて露木はこの生存者発見のニュースを伝え、映像だけを見ながら原稿なしのアドリブで番組をこなした(原稿は「乗客乗務員全員死亡」という内容だったのだが、生存者発見の報に原稿を差し替える時間がなかったため、その原稿をゴミ箱に捨ててニュースに臨んだ)。この報道が認められ、日本新聞協会賞を受賞することとなった[3]
    • このニュースの音源は2005年8月21日放送のにテレビ東京上を向いて歩こう坂本九物語』の台詞として使われ、2005年8月12日にフジテレビで放送された、日本航空123便墜落事故関連の再現ドラマ内で、当時の映像に露木本人が速報と報道特番で登場した姿がある。
    • またこの時、夏休みで大阪の実家へ帰省する予定だった逸見政孝も家族揃って123便への搭乗を検討したものの直前で東海道新幹線利用に切り替え九死に一生を得た。逸見は東京に戻って報道特番に出演することも考えたものの「いいとこ取りになる」と考え実家に残って露木の出演した報道特番を視聴することにした。後に逸見は著書の中で、露木の対応を絶賛することになる。
  • 1986年11月25日の『おはよう!ナイスデイ』の放送中に有楽町で3億円強奪事件が発生、露木は報道デスクからそのニュースを伝えることになった。司会の桑原征平が「フジテレビの報道デスクさん、新しい情報入って来ましたでしょうか?」と呼びかけて映像が切り替わると、飛び込んできたのはスタッフと談笑し、大爆笑中の露木の姿だった[4]。すかさずスタジオに映像が戻り、桑原は苦笑しながら「連絡がつかなかったようなんですけれど、えー、露木さん、本番前にちょっとリラックスされてたんでしょうかねぇ。失礼いたしました」と苦し紛れの弁明をし、再び報道デスクに映像が切り替わると、先程とは180度変わった大真面目な顔をしてニュースを伝えた[3]。このハプニングはNG集などでしばしば取り上げられている[5]
  • 多くのフジテレビの看板番組で司会を務めた芳村真理とは1966年に芳村が『小川宏ショー』のアシスタントとして抜擢されて以降、何かと同局の大型番組でコンビを組むことが多く、私的にも親しい間柄とされている。特に年末の『FNS歌謡祭』では1978年から関口宏に代わる男性司会者として抜擢されて以来、9年連続でコンビを組み、同番組の黄金期を共に支えた。このコンビで進行が行われた1982年の同音楽祭のグランプリに松田聖子が選出された際、号泣する聖子の姿を見て、「芳村さん、今日の聖子ちゃんには本物の涙が流れていますね」と発言したエピソードは同番組のMC史の中でも語り草となっている。ただし、この件については事実無根のことを公に口にしたとして後に聖子に謝罪している。
  • アナウンス部長時代には24年後輩の中井美穂、25年後輩の有賀さつき河野景子八木亜希子、26年後輩の木幡美子佐藤里佳田代尚子、27年後輩の大坪千夏松井みどり、28年後輩の近藤サト中村江里子、29年後輩の小島奈津子西山喜久恵など後に活躍する「女子アナブーム」の主役たちの採用を決めた責任者だった。また仕事柄で芸能関係者と交流がある彼は、新人女性アナウンサーがデビューする頃、タモリ笑福亭鶴瓶などの芸能関係者に「もうすぐ新人が世話になるからよろしくね」と毎年挨拶していた。1988年頃から新人アナウンサーの教育係を担当。
  • 江頭2:50トルコで公開全裸になって逮捕されたというニュースを取り上げた際、江頭を「国辱もの」と厳しく批判した。
  • 『FNNスーパータイム』の最終回で、フジテレビのドラマプロデューサーが逮捕されたというニュースを伝えた際、「『スーパータイム』最後の日に、私ども身内の大馬鹿者のニュースをお伝えしなくてはならないというのは大変情けない」と、自局の不祥事ながらも対象だった社員をバッサリと斬り捨てた。フジテレビで自局の不祥事を報道することは極めて異例である(自局社員が犯した犯罪を報道しても大抵は警察発表と自局広報のコメントをそのまま流す程度であるか、あるいは全く公表しない)。
  • 1998年4月から1年間、早稲田大学の大学院に通い、メディアと社会の関係についての講義を受講した。
  • 定年目前の1999年11月、同局の公金を横領したとの疑惑が浮上。政界への工作資金と報道され、当時司会を務めていた『報道2001』を逃げるように降板し、後輩で前任者の黒岩祐治と交代。その後メディアへの露出は激減した。
  • 定年退職後も2002年3月までの間は役員としてフジテレビに在籍。その後は2007年11月にドラマ『SP』に元総理大臣役で古巣のフジテレビの番組に4年7ヶ月ぶりに出演した。2008年には8月に『カスペ!フジテレビアナウンサー全員集合!超真剣女子アナvs男子アナ完全決着〜アナ☆ログSP〜』にVTRで出演し、11月に『ウチくる!?』などに出演している。
  • 現在は鈴木史朗と同じTBS関連の事務所に所属している。
  • 今夜は好奇心!』で新人アナウンサーをテーマにした回では、「終わったことはすぐ忘れる」と言い放っている。

脚注

  1. ^ 第7回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2014年11月13日閲覧。
  2. ^ 【お知らせ】”. おわこんTV. NHK (2014年10月2日). 2014年10月4日閲覧。
  3. ^ a b 笑えるけど超ヤバい! テレビ放送事故&ハプニング(2007年 マイケル宮内・著 廣済堂出版)p.76 - 77
  4. ^ 露木は「突然来て準備が整わなかった」と述べた他、あるNG集において「全くスタジオと報道部の疎通を取れなかった」と述べている
  5. ^ 20世紀NG名珍場面(1) - YouTube、2015年10月25日閲覧。

関連項目

外部リンク