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幕末から維新の頃にかけて書かれた『[[名将言行録]]』には、「[[真田信繁]](<small>俗に</small>幸村)は家康を滅ぼすことを念願としており、常に徳川家に仇なす村正を持っていた」という記述があり、さらにそれを家康の孫である[[徳川光圀]]が「こうして常に主家のため心を尽くす彼こそがまことの忠臣である」と賞賛したという逸話が併記されている。
幕末から維新の頃にかけて書かれた『[[名将言行録]]』には、「[[真田信繁]](<small>俗に</small>幸村)は家康を滅ぼすことを念願としており、常に徳川家に仇なす村正を持っていた」という記述があり、さらにそれを家康の孫である[[徳川光圀]]が「こうして常に主家のため心を尽くす彼こそがまことの忠臣である」と賞賛したという逸話が併記されている。


一方幕府の記録でも妖刀伝説は史実として扱われ、公式の歴史書『[[徳川実紀]]』東照宮御實紀付録巻一でも「[[柏崎物語]]」からの引用という形で徳川家との因縁が記されている<ref name="jikki />。[[嘉永]]年間、[[林復斎]]らが幕命により編纂した『[[通航一覧]]』巻一三九には、[[長崎奉行]]の[[竹中重義]]が平野屋三郎右衛門の訴出によって取り調べられ、私曲のかどで切腹となったことが記述されている。重義の死後、屋敷を調査したところ、おびただしい金銀財宝が見つかっただけでなく、「御当家三代有不吉例」であり、幕府が陪臣に至るまで厳しく所持を禁じていた村正の[[脇差]]を24差所蔵していたことが発覚した。通航一覧の記述では、重義は現在人気がない村正の刀が、徳川の世ではなくなれば高く売れるであろうと考えたために村正を多数保持しており、この脇差がなければ[[遠島]]であっただろうが、悪が深いことにより切腹となったとしている<ref>{{近代デジタルライブラリー書誌情報|43017655|通航一覧.  第4}}</ref>。また先述の尾張家伝来の村正は健全な皆焼刃の作であるにも関わらず、「疵物で潰し物となるべき」と尾張家の刀剣保存記録([[享和]]年間)には残されている<ref>{{Cite book|和書|year=1971|title=尾張・徳川家伝来 名刀百選|publisher=徳川美術館}}</ref><ref name="nishinihon20131121" />。[[佐野美術館]]館長[[渡邉妙子]]は、「家康の死後に広がった村正の妖刀伝説をはばかって記したのではないか」と推測している<ref name="nishinihon20131121" />。村正が徳川将軍家に仇なす妖刀であるという伝説は、幕末の頃には完全に定着していたことがわかる。
一方幕府の記録でも妖刀伝説は史実として扱われ、公式の歴史書『[[徳川実紀]]』東照宮御實紀付録巻一でも「[[柏崎物語]]」からの引用という形で徳川家との因縁が記されている<ref name="jikki" />。[[嘉永]]年間、[[林復斎]]らが幕命により編纂した『[[通航一覧]]』巻一三九には、[[長崎奉行]]の[[竹中重義]]が平野屋三郎右衛門の訴出によって取り調べられ、私曲のかどで切腹となったことが記述されている。重義の死後、屋敷を調査したところ、おびただしい金銀財宝が見つかっただけでなく、「御当家三代有不吉例」であり、幕府が陪臣に至るまで厳しく所持を禁じていた村正の[[脇差]]を24差所蔵していたことが発覚した。通航一覧の記述では、重義は現在人気がない村正の刀が、徳川の世ではなくなれば高く売れるであろうと考えたために村正を多数保持しており、この脇差がなければ[[遠島]]であっただろうが、悪が深いことにより切腹となったとしている<ref>{{近代デジタルライブラリー書誌情報|43017655|通航一覧.  第4}}</ref>。また先述の尾張家伝来の村正は健全な皆焼刃の作であるにも関わらず、「疵物で潰し物となるべき」と尾張家の刀剣保存記録([[享和]]年間)には残されている<ref>{{Cite book|和書|year=1971|title=尾張・徳川家伝来 名刀百選|publisher=徳川美術館}}</ref><ref name="nishinihon20131121" />。[[佐野美術館]]館長[[渡邉妙子]]は、「家康の死後に広がった村正の妖刀伝説をはばかって記したのではないか」と推測している<ref name="nishinihon20131121" />。村正が徳川将軍家に仇なす妖刀であるという伝説は、幕末の頃には完全に定着していたことがわかる。


このため徳川家と対立する立場の者には逆に[[縁起物]]の刀として珍重された。早くも[[慶安]]4年 (1651) には、[[慶安の変|幕府転覆計画]]が露見して処刑された[[由井正雪]]がこの村正を所持していたことが知られているが<ref>[[福永酔剣]] [[日本名刀工伝]] </ref>、[[幕末]]になると[[西郷隆盛]]を始め倒幕派の[[志士]]の多くが競って村正を求めたという<ref name="nishinihon20131121" />。また[[有栖川宮熾仁親王]]も本来親王がもつ格ではない村正を所持していた<ref name="nishinihon20131121" />。そのため、以後市場には多数の村正の[[贋作|ニセ物]]が出回ることになった。
このため徳川家と対立する立場の者には逆に[[縁起物]]の刀として珍重された。早くも[[慶安]]4年 (1651) には、[[慶安の変|幕府転覆計画]]が露見して処刑された[[由井正雪]]がこの村正を所持していたことが知られているが<ref>[[福永酔剣]] [[日本名刀工伝]] </ref>、[[幕末]]になると[[西郷隆盛]]を始め倒幕派の[[志士]]の多くが競って村正を求めたという<ref name="nishinihon20131121" />。また[[有栖川宮熾仁親王]]も本来親王がもつ格ではない村正を所持していた<ref name="nishinihon20131121" />。そのため、以後市場には多数の村正の[[贋作|ニセ物]]が出回ることになった。

2016年11月15日 (火) 14:29時点における版

村正作の刀。銘は「勢州桑名住村正」。東京国立博物館所蔵。

村正(むらまさ)は、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工の名。または、その作になる日本刀の名。同銘で数代あるとみられる。別称は「千子村正」(せんじむらまさ、せんごむらまさ)。

村正は、濃州赤坂左兵衛兼村の子で、赤坂千手院鍛冶の出と伝えられている。しかしながら活動拠点は伊勢であり、定かではない。他国の刀工と同様に、室町末期に流行した美濃伝を取り入れ本国美濃の刀工の作と見える刃を焼いた作もあり、技術的な交流(坂倉関の正吉・正利・正善など・「正」の字が村正に酷似する)をうかがわせる。しかし美濃だけではなく、隣国の大和伝と美濃伝、相州伝を組み合わせた、実用本位の数打ちの「脇物」刀工集団と見られている。その行動範囲は伊勢から東海道に及ぶ。

「村正」の銘は、桑名の地で代々受け継がれ、江戸時代初期まで続いた。同銘で少なくとも3代まで存在するというのが定説である。村正以外にも、藤村、村重等、「村」を名乗る刀工、正真、正重等、「正」を名乗る刀工が千子村正派に存在する。江戸時代においては「千子正重」がその「門跡」を幕末まで残している。

なお、4代目以降、「千子」と改称したと言われているが、これは徳川家が忌避する「村正」の帯刀大名旗本が避けるようになったことが原因と考えられている[1]

作風

末古刀期の村正一派の一般的な作風を記す。

  • 造り込み - 片手打ちの刀、脇差、寸延び短刀、槍等、戦国期の消耗品であった刀剣の製作が多い。刀の姿は先反りがつき、切先伸びるものとなる。平肉つかず鎬筋高い。身幅は尋常。茎(なかご)は刃側が張った「タナゴ腹」と呼ばれる独特の姿となるものが多い。これは、駿河島田派の相州茎と似ており、島田派の影響を受けていたことがうかがわれる。
  • 地鉄 - 板目肌が流れ、白け、肌立ち粕ばるものが多い。棟寄り、刃寄りに柾目肌が交じる。
  • 刃文 - 直刃(すぐは)に湾れ(のたれ)を基調とする。古刀期においては珍しく、表裏で焼きが揃うのが特徴である。総じて焼きが低い。また、互の目(ぐのめ)が混じる場合、互の目の頭が角張る。これを「箱乱れ」と言う。その他、尖り刃を交えた三本杉風の焼き刃や、矢筈刃、皆焼(ひたつら)を焼く。小沸出来(こにえでき)で、匂い口沈む。

村正妖刀伝説

村正は、徳川家に仇をなす「妖刀」として広く知られている。

村正と徳川家の因縁

徳川家康の祖父清康は家臣の謀反によって殺害されており、凶器は村正の作刀であった[2][3]。また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際、切腹に使った脇差も「千子村正」であったという[4][5]。このことを聞いた家康は幼少の頃に村正で手を切ったこともあり、「いかにして此作(こさく)の当家にさはる事かな」と村正をすべて捨てるように命じた[4][5]。さらに関ヶ原の戦いの折、東軍の武将織田長益(有楽斎)が、その子織田長孝とともに戸田勝成を討ち取るという功を挙げた。家康がその槍を見ている時に取り落とし、指を切った。家康は「この槍は尋常の槍ではない。作は村正であるか。」と聞き、有楽も村正であると答えた。退出した有楽は、近習から徳川家と村正の因縁を聞き、「内府(家康)の御味方である自分が村正を使うべきではない」と槍を微塵に砕いたという[6]。これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになった。民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅した。

また父広忠が岩松八弥によって殺害された際に使われた刀[7]、家康夫人である築山殿を小藪村で野中重政が殺害して斬った刀も村正、元和元年五月七日、真田幸村大坂夏の陣で家康の本陣を急襲した時家康に投げつけたと云われる刀も村正という伝承がある。

徳川家康と村正伝説の真偽

尾張徳川家は家康の形見として村正を伝承し、現在では徳川美術館に所蔵されている。末古刀に良く見られる皆焼の出来である[8]。このことから、徳川美術館は徳川家康が村正を嫌ったのは「後世の創作」であると断言している。

村正は徳川領の三河に近い伊勢の刀工であり、三河を始めとする東海地方には村正一派の数が多く、村正一派の刀剣を所持する者は徳川家臣団にも多かった。三河に移った村正一派を「三河文珠派」と呼ぶ。たとえば徳川四天王の一人、本多忠勝の所持する槍「蜻蛉切」には、村正の一派である藤原正真の銘が残っている[5]。また、四天王筆頭であった酒井忠次の愛刀(号 猪切)も藤原正真の作である。

なお、広忠の死因は多くの史料[9][10]では病死とされており、また武徳大成記[11]、徳川実紀などの編纂物でも死因を殺害とはしていない[12][13][7]。謀叛による暗殺説は岡崎領主古記[14]等の一部の説である[15]。また三河物語は信康の切腹時に使われた刀については言及していない[16]

海音寺潮五郎は、吉川英治が『宮本武蔵』を連載しているときに散歩のついでに吉川邸に立ち寄り、先客であった岩崎航介という東大卒の鋼鉄の研究家[17]から「妖刀伝説は嘘。昔は交通の便も悪いので近在の刀鍛冶から買い求める。三河からすぐ近くの桑名で刀を打っていた村正から買うのは自然だし、ましてよく切れる刀ならなおさら。今の小説家は九州の武士に美濃鍛冶のものを差させたり、甲州の武士に波ノ平(九州南端の薩摩国の鍛冶)を差させたりしているが、そういうことは絶無ではないにせよ、まれであった」と説かれている。[18]

村正が「徳川家にとっての」妖刀といわれた理由は定かではない。一説として、家康は村正のコレクターであり、その没後、形見分けとして一族の主だった者に村正が渡された。これが徳川一門のステータスとなり、他家の者は恐れ多いとして村正の所有を遠慮するようになったが、後代になると遠慮の理由が曖昧となり、次第に「忌避」に変じていった、とするものがある。しかし家康の遺産相続の台帳である「駿府御分物帳」に村正の作は2振しか記されていない。

妖刀伝説の流布

新井白石は「村正は不吉の例少なからず」と記述している[5]

寛政9年 (1797) に初演された初代並木五瓶作の歌舞伎『青楼詞合鏡』(さとことば あわせ かがみ)で村正は「妖刀」として扱われており、この頃にはすでに妖刀伝説が巷間に普及していたことが窺える。万延元年 (1860) には「妖刀村正」に物語の重要な役どころを負わせた二代目河竹新七(黙阿弥)作の『八幡祭小望月賑』(縮屋新助)が初演され、大評判を博した。明治21年(1888年)には、三代目河竹新七によって『籠釣瓶花街酔醒』が作られたが、これにも作中に村正が登場する。三田村鳶魚は、この作品の元となった吉原百人斬り事件を考証し、宝暦年間に馬場文耕が著した『近世江都著聞集』に、このときの刀は国光作であったとしている[19]文政6年(1823年)に起きた千代田の刃傷で用いられた脇差も村正という説と村正ではないという説がある[20]

幕末から維新の頃にかけて書かれた『名将言行録』には、「真田信繁俗に幸村)は家康を滅ぼすことを念願としており、常に徳川家に仇なす村正を持っていた」という記述があり、さらにそれを家康の孫である徳川光圀が「こうして常に主家のため心を尽くす彼こそがまことの忠臣である」と賞賛したという逸話が併記されている。

一方幕府の記録でも妖刀伝説は史実として扱われ、公式の歴史書『徳川実紀』東照宮御實紀付録巻一でも「柏崎物語」からの引用という形で徳川家との因縁が記されている[4]嘉永年間、林復斎らが幕命により編纂した『通航一覧』巻一三九には、長崎奉行竹中重義が平野屋三郎右衛門の訴出によって取り調べられ、私曲のかどで切腹となったことが記述されている。重義の死後、屋敷を調査したところ、おびただしい金銀財宝が見つかっただけでなく、「御当家三代有不吉例」であり、幕府が陪臣に至るまで厳しく所持を禁じていた村正の脇差を24差所蔵していたことが発覚した。通航一覧の記述では、重義は現在人気がない村正の刀が、徳川の世ではなくなれば高く売れるであろうと考えたために村正を多数保持しており、この脇差がなければ遠島であっただろうが、悪が深いことにより切腹となったとしている[21]。また先述の尾張家伝来の村正は健全な皆焼刃の作であるにも関わらず、「疵物で潰し物となるべき」と尾張家の刀剣保存記録(享和年間)には残されている[22][5]佐野美術館館長渡邉妙子は、「家康の死後に広がった村正の妖刀伝説をはばかって記したのではないか」と推測している[5]。村正が徳川将軍家に仇なす妖刀であるという伝説は、幕末の頃には完全に定着していたことがわかる。

このため徳川家と対立する立場の者には逆に縁起物の刀として珍重された。早くも慶安4年 (1651) には、幕府転覆計画が露見して処刑された由井正雪がこの村正を所持していたことが知られているが[23]幕末になると西郷隆盛を始め倒幕派の志士の多くが競って村正を求めたという[5]。また有栖川宮熾仁親王も本来親王がもつ格ではない村正を所持していた[5]。そのため、以後市場には多数の村正のニセ物が出回ることになった。

その他の逸話

  • 五郎入道正宗の弟子という俗説もあるが事実無根で、江戸時代の講談、歌舞伎で創作された話である。そもそも正宗は、鎌倉時代末期、村正は室町時代中期以降が活動時期である。実際の師匠は平安城長吉である。 
  • 村正作の一振と正宗作の一振を川に突き立ててみたところ、上流から流れてきた葉っぱが、まるで吸い込まれるかの如く村正に近づき、刃に触れた瞬間真っ二つに切れた。一方正宗には、どんなに葉っぱが流れてきても決して近寄ることはなかったという。刀匠の年代が全く違うものの、この二振の違いを表す有名な逸話である。
  • 戦前、東北大学の物理学教授で金属工学の第一人者として知られていた本多光太郎が、試料を引き切る時の摩擦から刃物の切味を数値化する測定器を造ってみたところ、 皆が面白がって古今の名刀を研究室に持ち込んだ。測定器の性能は概ね期待した通りだったが、なぜか村正だけが測定するたびに数値が揺れて一定しなかった。妖刀の不可思議な側面にあらためて感心した本多は、一言「これが本当の『ムラ』正だ」と論評。「あの先生が冗談を言った」としばらく研究室で話題になったという。科学雑誌『ニュートン』に掲載された逸話の一つである。
  • 南総里見八犬伝』には「村雨」という刀が登場するが、後世になって村正と混同され「妖刀村雨」と呼ばれることもある。[要出典]
  • 囲碁で小目への一間高かかりに対して二間で挟む定石からの変化に「村正の妖刀」という大型定石が存在する。この定石は昭和に入ってから誕生し双方が切り違い変化が難解で場合によっては大石が死ぬこともあり得る妖しさから、その名がついたといわれている。
  • 村正の斬れ味に纏わる逸話は数多いが、刀剣研磨師にもエピソードがある。「村正を研いでいると裂手(刀身を握るための布)がザクザク斬れる」「研いでいる最中、他の刀だと斬れて血がでてから気がつくが、村正の場合、ピリッとした他にはない痛みが走る」(永山光幹『日本刀を研ぐ』から要約)。

村正の登場する作品

  • 紫頭巾 - 寿々喜多呂九平原作の時代劇
  • Wizardry (コンピューターゲーム) - 侍のみ使用できる最強の武器としてシリーズを通して登場する。ウィザードリィのアイテム#村正 Muramasa Blade!を参照。
  • 朧村正 (コンピューターゲーム)
  • ラグナロクオンライン (オンラインゲーム) - 両手剣として登場。使用すると一定確率で呪い状態になる。
  • マビノギ (オンラインゲーム) - 東国から製法が伝わった剣。プレイヤー自身が作成することが可能である。
  • 魔界転生 (小説・映画) - 1981年の映画版では、天草四郎ら魔界衆に対抗する為に、柳生十兵衛が村正(演:丹波哲郎)に妖刀の製作を依頼している。
  • 新鬼武者-DAWN OF DREAMS- - 柳生十兵衛茜が使用。錬成(調合)を行う事で作成可能。特殊効果を含めた攻撃力は茜が使う武器の中ではトップクラスである。
  • 天誅 参 - 力丸が使用。劇中では所有者の命を吸う代わりに、物の怪を斬る事が出来たり敵を倒した際に体力を回復したりするなどの特殊効果を持つ武器とされている。
  • ファイナルファンタジーシリーズ - 多くの作品で登場。たいていは正宗に次いで2番目に強い刀。
  • 悪魔城ドラキュラシリーズ - 一部の作品にのみ刀系最強の攻撃武器として登場する。登場する作品では大抵100%呪いの追加効果があり、月下の夜想曲のみ装備した状態で返り血を浴び続けるたびにプレイヤーが回復し攻撃力が増加していくという特性を持っている。また、その他にもコマンドで発動する特殊な技を持っている刀として、備前長船[要曖昧さ回避]安綱正宗、無銘が登場する。
  • 名探偵コナン 迷宮の十字路 - 服部平次が使用。
  • メタルギア ライジング リベンジェンス - 敵キャラクターの一人であるブラジル人の剣客サムエル・ホドリゲスの愛刀、「高周波ムラサマブレード」として登場。名前が“ムラサマ”になっているのは、刀が日本からブラジルに伝わる際に、誤った名前がそのまま伝えられてしまった事によると思われる。
  • ロックマンエグゼシリーズ-ムラマサ・ムラマサブレードという名でバトルチップとして登場。最大HPから受けたダメージが威力になる。1~2までムラマサは登場したが、3からは攻撃範囲を広げたムラマサブレードに変わった。2ではシャドーマンも使用してくるため、ナビチップの代わりとして出る場合がある。
  • X-メンシリーズ-ムラマサ・ブレードとして登場。これで斬られるとヒーリング・ファクターを持つ者でも無効化される。この刀によってセイバートゥースは首を斬られ死亡した。

参考文献

関連項目

脚注

  1. ^ 桑名市 指定文化財”. 桑名市教育委員会. 2009年11月15日閲覧。
  2. ^ 改正三河後風土記では「千子村正の刀」と言及されている(『改正三河後風土記 上』 - 国立国会図書館、166p)
  3. ^ 三河物語では清康殺害時の記述に「センゴの刀にて」という 一文がある(『三河物語』 - 国立国会図書館、40p)
  4. ^ a b c 徳川実紀 第一編』 - 国立国会図書館、162p
  5. ^ a b c d e f g h 「尾張徳川家の至宝」展 妖刀 伝説から史実へ- 西日本新聞 2013年11月21日14時41分
  6. ^ 改正三河後風土記(『改正三河後風土記 下』 - 国立国会図書館、1699p)
  7. ^ a b 改正三河後風土記では片目八弥に「村正の脇差」で襲撃された事は記述されているが、それは死去する4年前のことである(『改正三河後風土記 上』 - 国立国会図書館、198-199p)。死因については前年からの病の末、天文18年に病死したとしている(『改正三河後風土記 上』 - 国立国会図書館、223p)
  8. ^ 徳川美術館 夏休み子ども教室 徳川家康と戦国の戦い
  9. ^ 三河物語』 - 国立国会図書館、83p
  10. ^ 松平記(『松平記』 - 国立国会図書館)
  11. ^ 武徳大成記 -国文学研究資料館
  12. ^ 徳川実紀 第一編』 - 国立国会図書館、29p
  13. ^ 徳川記 - 貴重和本デジタルライブラリー- 愛知県図書館
  14. ^ 岡崎領主古記 - 貴重和本デジタルライブラリー - 愛知県図書館。殺害に使われた刀には言及していない
  15. ^ 三河東泉記では一揆により殺害されたとしているが、殺害に用いられたものについては言及していない(古文書翻刻 - 岡崎市立中央図書館ポータル
  16. ^ 三河物語』 - 国立国会図書館
  17. ^ 『刃物の見方』という著書がある。ISBN 978-4874490693
  18. ^ 余談となるが、海音寺が岩崎航介から貰った名刺を見ると住所は逗子であった。その日から数日後、連載中の小説『宮本武蔵』作中に「厨子野耕介」という刀の研ぎ師が登場した。 - 海音寺潮五郎 『乱世の英雄』 文春文庫 ISBN 4167135264、201-203p
  19. ^ 海音寺潮五郎 『実説武侠伝』 文春文庫 ISBN 4167135280、118-120p
  20. ^ 海音寺、123p
  21. ^ 通航一覧.  第4』 - 国立国会図書館
  22. ^ 『尾張・徳川家伝来 名刀百選』徳川美術館、1971年。 
  23. ^ 福永酔剣 日本名刀工伝