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*[[1969年]](昭和44年)全日本選手権シリーズでセニア125ccと251以上の2クラスのチャンピオンを獲得し、[[ヨーロッパ]]視察派遣選手になる。
*[[1969年]](昭和44年)全日本選手権シリーズでセニア125ccと251以上の2クラスのチャンピオンを獲得し、[[ヨーロッパ]]視察派遣選手になる。
*[[1969年]]年末 [[本田技研工業|ホンダ]][[RSC]]契約[[テクニカルスポーツ]]所属
*[[1969年]]年末 [[本田技研工業|ホンダ]][[RSC]]契約[[テクニカルスポーツ]]所属
*[[1970年]](昭和45年)2度の渡欧 [[イギリス]]でレース出場 6月マロリーパーク [[https://en.wikipedia.org/wiki/Mallory_Park]] [[CB350]] 6位、9月マロリーパーク [[ホンダ・ドリームCB750FOUR|CB750]] リタイヤ([[中村良夫 (自動車)|中村良夫]]さん同行)
*[[1970年]](昭和45年)2度の渡欧 [[イギリス]]でレース出場 6月マロリーパーク [[:en:Mallory_Park]] [[CB350]] 6位、9月マロリーパーク [[ホンダ・ドリームCB750FOUR|CB750]] リタイヤ([[中村良夫 (自動車)|中村良夫]]さん同行)
*[[1971年]](昭和46年)3月[[ホンダ・ドリームCB500FOUR|CB500Four]]が市販車となり、それをベースに[[RSC]]-[[CB500改]]にて、9月日本GPに初登場し3位
*[[1971年]](昭和46年)3月[[ホンダ・ドリームCB500FOUR|CB500Four]]が市販車となり、それをベースに[[RSC]]-[[CB500改]]にて、9月日本GPに初登場し3位
*[[1972年]](昭和47年)4月全日本選手権第一戦[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]][[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]]大会で、[[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]]界の悲願であった鈴鹿2分30秒の壁を日本人として初めて破って優勝を果たした。続く、6月の全日本第二戦鈴鹿大会では、[[レース]]6周目に2分28秒7の新記録を樹立しての圧勝優勝。この記録で、[[マイク・ヘイルウッド]]/[[MV]]350ccが[[1965年]]10月に樹立した2分28秒9の[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]コースレコードを塗り変えた。さらに10月の日本GPでは、予選で2分27秒7の新記録を塗り替えて[[ポールポジション]]を獲得し、[[レース]]でも圧勝優勝。[[ライダー一覧|グランプリライダー]]の[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]レコードタイムを塗り替えて、[[日本]]の[[オートバイ]][[ロードレース]]界が新たな段階に入った事を実証し、希望を与えてくれた。
*[[1972年]](昭和47年)4月全日本選手権第一戦[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]][[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]]大会で、[[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]]界の悲願であった鈴鹿2分30秒の壁を日本人として初めて破って優勝を果たした。続く、6月の全日本第二戦鈴鹿大会では、[[レース]]6周目に2分28秒7の新記録を樹立しての圧勝優勝。この記録で、[[マイク・ヘイルウッド]]/[[MV]]350ccが[[1965年]]10月に樹立した2分28秒9の[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]コースレコードを塗り変えた。さらに10月の日本GPでは、予選で2分27秒7の新記録を塗り替えて[[ポールポジション]]を獲得し、[[レース]]でも圧勝優勝。[[ライダー一覧|グランプリライダー]]の[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]レコードタイムを塗り替えて、[[日本]]の[[オートバイ]][[ロードレース]]界が新たな段階に入った事を実証し、希望を与えてくれた。
*[[1973年]](昭和48年)3月{{仮リンク|デイトナ200|label=デイトナ200マイルレース|en|Daytona 200}}に出場 予選35位 決勝6位 日本人[[デイトナ]]初入賞([[中村良夫]]さん同行) 4月 全日本選手権第2戦[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]] [[川崎重工業モーターサイクル&エンジンカンパニー|カワサキ]]和田正宏とのデッドヒートを制し優勝 (4in1マフラー、[[スリックタイヤ]]) 
*[[1973年]](昭和48年)3月{{仮リンク|デイトナ200|label=デイトナ200マイルレース|en|Daytona 200}}に出場 予選35位 決勝6位 日本人[[デイトナ]]初入賞([[中村良夫]]さん同行) 4月 全日本選手権第2戦[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]] [[川崎重工業モーターサイクル&エンジンカンパニー|カワサキ]]和田正宏とのデッドヒートを制し優勝 (4in1マフラー、[[スリックタイヤ]]) 
*[[1974年]](昭和49年)10月 全日本選手権第6戦[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]日本GP 3位 
*[[1974年]](昭和49年)10月 全日本選手権第6戦[[鈴鹿サーキット|鈴鹿]]日本GP 3位 
*[[1975年]](昭和50年)9月9日 [[フランス]]・[[ルマン]]・[[ブガッティ・サーキット]] CB500R[[http://www.honda.co.jp/sou50/Hworld/Hall/2rrace/280.html]](750cc)耐久車にて[[ボルドー]]24時間耐久レースに向けた練習中のミューゼアム(MUSEUM)コーナーにて転倒により他界
*[[1975年]](昭和50年)9月9日 [[フランス]]・[[ルマン]]・[[ブガッティ・サーキット]] CB500R[http://www.honda.co.jp/sou50/Hworld/Hall/2rrace/280.html](750cc)耐久車にて[[ボルドー]]24時間耐久レースに向けた練習中のミューゼアム(MUSEUM)コーナーにて転倒により他界


== 戦績 ==
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 1974年10月 日本GPで最後の3位表彰台を獲得したが、[[ホンダ・ドリームCB500FOUR|CB500]]改での鈴鹿タイム短縮は既に限界状態での表彰台であった。<br />
 1974年10月 日本GPで最後の3位表彰台を獲得したが、[[ホンダ・ドリームCB500FOUR|CB500]]改での鈴鹿タイム短縮は既に限界状態での表彰台であった。<br />
 ヨーロッパでは、[[ボルドー]]24時間耐久で[[ホンダ]][[ホンダ・ドリームCB750FOUR|CB750four]]ベースのジャポートホンダが72-73年と連勝したが、<br />
 ヨーロッパでは、[[ボルドー]]24時間耐久で[[ホンダ]][[ホンダ・ドリームCB750FOUR|CB750four]]ベースのジャポートホンダが72-73年と連勝したが、<br />
[[川崎重工業モーターサイクル&エンジンカンパニー|カワサキ]][[カワサキ・Z1|Z1]](900)が1972年秋に発売され、1974年は、[[カワサキ・Z1|Z1]]ベースのエグリカワサキ[[https://de.wikipedia.org/wiki/Fritz_Egli]]が圧勝し、[[カワサキ・Z1|Z1]]旋風を起こしていた。<br />
[[川崎重工業モーターサイクル&エンジンカンパニー|カワサキ]][[カワサキ・Z1|Z1]](900)が1972年秋に発売され、1974年は、[[カワサキ・Z1|Z1]]ベースのエグリカワサキ[[:de:Fritz_Egli]]が圧勝し、[[カワサキ・Z1|Z1]]旋風を起こしていた。<br />
 その[[カワサキ・Z1|Z1]]旋風への対応か、1975年隅谷選手+[[ホンダ・ドリームCB500FOUR|CB500]]500ベースの750ccで[[世界耐久選手権]]に挑んだ形となったが、隅谷選手亡き後のレースも[[カワサキ・Z1|Z1]]勢の後塵を拝している。隅谷選手が亡くなった1975年9月から一年も経たない1976年3月に[[HERT]](ホンダエンデュランスレーシングチーム)が結成され、[[世界耐久選手権]]シリーズを1976年から席巻する[[RCB]]は、上位独占をするので[[不沈艦隊]]と呼ばれた。
 その[[カワサキ・Z1|Z1]]旋風への対応か、1975年隅谷選手+[[ホンダ・ドリームCB500FOUR|CB500]]500ベースの750ccで[[世界耐久選手権]]に挑んだ形となったが、隅谷選手亡き後のレースも[[カワサキ・Z1|Z1]]勢の後塵を拝している。隅谷選手が亡くなった1975年9月から一年も経たない1976年3月に[[HERT]](ホンダエンデュランスレーシングチーム)が結成され、[[世界耐久選手権]]シリーズを1976年から席巻する[[RCB]]は、上位独占をするので[[不沈艦隊]]と呼ばれた。



2016年11月15日 (火) 15:57時点における版

隅谷守男
'
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1944-06-09) 1944年6月9日
群馬県境町
死亡年月日 1975年9月9日(1975-09-09)(31歳没)
フランスルマン

隅谷守男(すみや もりお、1944年6月9日 - 1975年9月9日)は、日本のオートバイレーサー。

群馬県佐波郡境町出身(現在の伊勢崎市境町)

日本人で初めて鈴鹿サーキットで2分30秒を破り、マイク・ヘイルウッドのコースレコードも破ったホンダRSC契約ライダー。[1]

鈴鹿サーキットのS字コーナーからダンロップコーナーまでの切り返しを逆操舵走法でマシンを操り、ストレートで抜かれても、S字までには抜き返すという走行技術でホンダのホームグラウンドである鈴鹿で絶大な人気を誇った。

軽量高出力の2サイクル市販・ワークスマシンに対し、市販車ベースの非力なSOHC4サイクルマシンでコーナリング技法を駆使して対抗し、特に、カワサキワークスの和田正宏との戦いは、デッドヒートとして多くのロードレースファンを魅了した。

所属

主な成績

CB500改 鈴鹿サーキットにて

経歴

RSC打田 宏メカニックと鈴鹿サーキットピット前 (カウル形状等から74年10月GP時と推察)

戦績

隅谷守男選手 戦績
西暦和暦
(昭和)
年齢日付内容
196338193月第1回アマチュア耐久ロードレース リタイヤ CB72
6月9日第1回ダートトラックレース 5位 CL72
9月15日MFJグランドレース 250cc 5位
196439204月12日モトクロス日本グランプリ(相馬ヶ原) 250cc 6位
5月10日第1回東日本熱海モトクロス大会 250cc 10位
19654021ジュニアライセンス取得(グリーンスタンプ:全ての競技に出場可能)
※この時のMFJライセンスは、セニア(インターナショナル)・ジュニア(グリーン・レッド)・アマチュアの各クラス
1月TMAスクランブルス 250cc 1位
5月3日第1回MFJジュニアロードレース(鈴鹿) 350cc(CB77)優勝
7月31日鈴鹿24時間耐久ロードレース (CB77) リタイヤ
9月12日第2回MFJジュニアロードレース(鈴鹿) 350cc 3位
10月24日第3回MFJジュニアロードレース(鈴鹿) 350cc 7位
不明第3回全日本ダートトラックレース大会 250cc 2位
196641226月18日浜松グランドレース ジュニア251cc 3位
11月6日ジュニア選手権鈴鹿ロードレース 350cc 12位
196742234月埼玉モトクロス ジュニア250cc 1位
4月12日第13回スピードスクランブル ジュニア250cc 1位
8月13日全日本選手権鈴鹿12時間耐久ロードレース セニア251cc 2位
10月29日全日本選手権鈴鹿ロードレース セニア251cc以上 2位
ロードレースランキング セニア251cc 2位
モトクロスランキング ジュニア250cc 13位
196843244月21日全日本選手権第2戦鈴鹿ロードレース セニア251cc 2位
8月15日全日本選手権鈴鹿10時間耐久ロードレース ジュニア・セニア251cc 優勝 CB450
10月27日全日本選手権第6戦鈴鹿ロードレース セニア251cc 3位
ロードレースランキング セニア251cc 2位
19694425セニアゼッケン ロードレース No.14&11(日本GP)
4月13日全日本選手権第1戦富士ロードレース セニア125cc 2位、251cc 2位
4月20日全日本選手権第2戦鈴鹿ロードレース セニア125cc 1位、251cc 1位
5月18日モトクロス日本GP セニア90cc CL90 4位、セニア250cc HSQ250 リタイヤ
6月29日全日本選手権第3戦鈴鹿ロードレース セニア125cc 3位、251cc 1位
8月17日全日本選手権第4戦鈴鹿10時間耐久ロードレース セニア251cc 1位 CB750Four
10月19日全日本選手権第6戦鈴鹿・日本GP セニア125cc 3位、251cc 1位
ロードレースランキング セニア125cc チャンピオン
ロードレースランキング セニア251cc チャンピオン
19704526セニアゼッケン ロードレース No.1、モトクロス No.16
4月19日全日本選手権第1戦鈴鹿ロードレース セニア251cc 4位 CB350
6月14日イギリス・マロリーパーク 6位 CB350 (MFJ渡欧1回目)
8月9日全日本選手権第3戦鈴鹿10時間耐久ロードレース ジュニア・セニア251cc 1位 CB750Four
9月20日イギリス・マロリーパーク リタイヤ CB750Four (渡欧2回目)
ロードレースランキング セニア251cc 8位
19714627セニアゼッケン ロードレース No.25
8月8日全日本選手権第4戦鈴鹿10時間耐久ロードレース CB750Four トラブル着外
クロムウェルヘルメット、ブルースーツスタイル
10月16日全日本選手権鈴鹿ロードレース第3回日本GP セニア251cc 3位 CB500改での初出場
フルフェイス、ブルースーツスタイル
19724728セニアゼッケン ロードレース No.3
FL750cc(フォーミュラ・リブレ)クラス新設
4月30日全日本選手権鈴鹿ロードレース セニア FL750cc CB500改 1位 30秒の壁破る 2'29"9
6月11日全日本選手権鈴鹿ロードレース セニア FL750cc CB500改 1位 新記録樹立 2'28"7
10月15日全日本選手権第6戦鈴鹿ロードレース 日本GP FL251cc CB500改 1位  新記録更新2'27"7
19734829セニアゼッケン ロードレース No.1
RSC・隅谷スクール開校(鈴鹿) モトクロスライダー養成
3月11日デイトナ200マイル6位入賞日本人初 CB750Four ホンダ最上位(予選35位)
ホンダ勢:予選 Rレイマン23位、Sマクローリン26位 、優勝Jサーリネン予選12位
4月29日全日本選手権第2戦鈴鹿ロードレース FL750cc 優勝(スリックリヤタイヤ・4in1集合マフラー)
カワサキH2R和田正宏選手とのデッドヒート
6月3日全日本選手権第3戦鈴鹿ロードレース 4日前の転倒により不出場
10月21日全日本選手権第6戦鈴鹿ロードレース 日本GP FL750cc リタイヤ
19744930セニアゼッケン ロードレース No.3
4月28日全日本選手権第1戦鈴鹿ロードレース FL750cc リタイヤ
6月2日全日本選手権第2戦鈴鹿ロードレース FL750cc 不出場
7月21日全日本選手権第4戦鈴鹿ロードレース FL750cc リタイヤ(4in1マフラー) 
10月13日全日本選手権第6戦鈴鹿ロードレース 日本GP FL750cc 3位
11月10日モトクロスGP谷田部大会視察
19755031セニアゼッケン ロードレース No.15
9月9日フランス・ルマンブガッティサーキットにてルマン24時間に向けての練習中(CB500R)、
ミューゼアム(MUSEUM)コーナーにて転倒 他界 享年31歳

参考データ 1

鈴鹿サーキット歴代レコードタイム
項目日付タイムライダーマシン
絶対記録1965.10.232'28.9M.ヘイルウッドMV 350工場レーサー
非公式 ※119662'25.3M.ヘイルウッドホンダ RC181工場レーサー
40秒の壁19682'39.5金谷 秀夫ヤマハ DS6 250cc市販車改造
19682'39.5松永 喬ホンダ CB77 305cc市販車改造
1969.6.292'37.7隅谷 守男ホンダ CB350市販車改造
1969.10.192'34.5隅谷 守男ホンダ CB350市販車改造
30秒の壁1970.10.242'30.9金谷 秀夫ヤマハ RX 350cc市販車改造
1972.4.302'29.9隅谷 守男ホンダ CB500改市販車改造
マイクの壁1972.6.112'28.7隅谷 守男ホンダ CB500改市販車改造
1972.10.142'27.7隅谷 守男ホンダ CB500改市販車改造
1973.4.292'26.618隅谷 守男ホンダ CB500改市販車改造
1973.6.22'26.552和田 正宏カワサキ H2-R 750cc市販車改造

※1 テスト中の非公式タイム 八重洲出版 モーターサイクリスト誌 1975年4月号 特別座談会 ホンダレース活動史より

エピソード

74年10月鈴鹿日本GPにて競合車(ヤマハ)を興味深く眺める隅谷
  • S字コーナーでの「逆操舵走法」

 鈴鹿のS字にて左から右への切りかえしの際、隅谷選手は逆ハンドル操作を意図的に行い、左バンクから右バンクを瞬時完了させていたようだ。見ていると、切りかえし後車体が一瞬グラつく印象で、あたかもマシンの調子が悪いかのように思わせた。この操作は、正確に出来ないと転倒に至るリスクが高く、特別に高度なテクニックである。直線でのパワーに劣る性能を鈴鹿東コース、コーナー区間の圧倒的な速さで逆転してしまう、隅谷選手の大きな武器であったが、露出記事は見あたらない。しかしながら、ルマンでの事故後、ファンによる投書を集めた追悼記事 [7] に、”S字で「逆ハンをくれる」走りをみたかった”という表現が残されていた。

  • 隅谷スクール

 1972年9月にホンダよりCR250M市販モトクロッサー(不整地用競技車両:MX)が発売された。
 RSCもMXワークス車のサポートを行っており、MX若手ライダーの育成を目的にトレーニングメニュー等の指導をしていた。
 1974年11月全日本MX最終戦 谷田部大会には、レース視察している。[8]

  • ヘルメット&革ツナギ(ライディングスーツ)

 1969年 クロムウェルヘルメット(日の丸赤白)・ホスパイクゴーグル・ブラックスーツ(佐藤製作所)・ブーツ(カネチカ)
 1971年 9月日本GP フルフェイスヘルメット(日の丸赤白)・ブルースーツ
 1970年までは、ブラックスーツが主流であったが、71年にはカラーツナギがトップライダーから流行し始めていた。

  • ヘルメットの中に入ってしまう革ツナギ(ライディングスーツ)

 ブルーのツナギは、フルフェイスヘルメットに入ってしまうほど、薄く出来ていた。
 墨田区向島・佐藤製作所製のツナギは、子牛革をさらに薄くした特別製で、軽量化を徹底していた。

  • 隅谷選手とCB500R

 1974年10月 日本GPで最後の3位表彰台を獲得したが、CB500改での鈴鹿タイム短縮は既に限界状態での表彰台であった。
 ヨーロッパでは、ボルドー24時間耐久でホンダCB750fourベースのジャポートホンダが72-73年と連勝したが、
カワサキZ1(900)が1972年秋に発売され、1974年は、Z1ベースのエグリカワサキde:Fritz_Egliが圧勝し、Z1旋風を起こしていた。
 そのZ1旋風への対応か、1975年隅谷選手+CB500500ベースの750ccで世界耐久選手権に挑んだ形となったが、隅谷選手亡き後のレースもZ1勢の後塵を拝している。隅谷選手が亡くなった1975年9月から一年も経たない1976年3月にHERT(ホンダエンデュランスレーシングチーム)が結成され、世界耐久選手権シリーズを1976年から席巻するRCBは、上位独占をするので不沈艦隊と呼ばれた。

 (CB750Fourの開発を回想しながら)現場のライダーじゃないと分からないいちばんいい例に、隅谷守男の例がありました。
彼がCB500Fourベースのレーサーで走っていたころのことです。'72年だったかな、彼は鈴鹿で樹立されたマイク・ヘイルウッドとMV3気筒レーサーのコースレコードをレースで破りたいと、燃えてました。
 でも750じゃダメ、500じゃないと記録は破れないと言うんです。750はパワーはいいんだけど、あのコースを攻略するのに乗りやすいのは500だと。そのCB500Fourを550ccくらいにボアアップした状態のエンジンで、車体担当のボクヘ依頼されたのが、リヤフォーク(スイングアーム)を柔らかく造ってくれということでした。釣り竿みたいにしなって、剛性のないのにしてくれと。
 普通は剛性を、ガッチリにしたいと思いそうなところですよね。ところが隅谷は、ヘイルウッドの走りを見てると、S字とかではスイングアームをしならせて、カウンターを切りながら走らせてるみたいだと。ああいう走法をしないと、彼を越せないと。そのためにはリヤが飛んでしまってはなにもならない、路面にタイヤがグリップした状態でアームがしなってくれないとダメだと言う。そうしないとタイヤが追従しないと言う。
 だから、じゃあリヤフォークのピボットのところをゴムのブッシュかなんか入れたらどうかと聞くと、それではダメだと。しなるからいいんだと。スムーズに剛性がマイナスするようなリヤフォークを作ってくれと言う。
 結局ボクはそのとおりに造って、隅谷はヘイルウッドの記録を超えました。私など設計屋では分からない部分を体感的に味わってこうだってはっきり言ってくれるのが、良いテスト屋であり、そうした彼らに支えられることも多かったです。テスト屋さんの話にそれてしまいましたけど、750もまた、色々とありながらいいステップアップになったモデルでした。[9]

脚注

  1. ^ 夜明けはまだか! 耐久RSC艦隊の挑戦”. 本田技研工業. 2015年12月10日閲覧。
  2. ^ MFJ50周年記念サイト~50年の歩み~ロードレース歴代チャンピオン”. MFJ. 2016年1月27日閲覧。
  3. ^ Honda CB750 - 1.1 Early racing”. en-two.iwiki.icu. 2016年1月29日閲覧。
  4. ^ Honda Worldwide : Honda Motor Co.,Ltd.”. Honda. 2016年1月29日閲覧。
  5. ^ Hondaコレクションホール収蔵車両走行確認テスト「闘うDNA」二輪編その2 トリコロールはここから始まった / WEB Mr.BIKE”. WEB Mr.BIKE. 2016年1月30日閲覧。
  6. ^ Honda Worldwide / History / The Dream CB750 FOUR / 1969”. Honda. 2016年1月29日閲覧。
  7. ^ モーターサイクリスト八重洲出版、1975年12月号、147頁
  8. ^ ライディングMFJ、1975年
  9. ^ 別冊モーターサイクリスト八重洲出版、2006年2~4月号、「ホンダスピリット回顧録」より一部抜粋