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1876年(明治9年)に[[長谷川泰]]により創設された[[済生学舎]]を前身とする開学130年を超える日本最古の私立医科大学である。1903年(明治36年)8月31日、済生学舎創立者[[長谷川泰]]による済生学舎廃校宣言直後に創立者[[磯部検蔵]]によって設立された「済生学舎同窓医学講習会」、「医学研究会」、[[日本医学校]]の設立や私立[[東京医学校]]との合併、[[専門学校令]]による旧制[[日本医学専門学校]]の時代を経て、1926年(大正15年)の[[大学令]]によって[[旧制]]日本医科大学となる。戦前に大学令によって旧制大学に昇格したのは私立医大では3校であり、[[慶應義塾大学]][[医学部]]、[[東京慈恵会医科大学]]と共に、私立医大[[御三家]]と称されることがある<ref>大学医学部―命をあずかる巨大組織の内幕 (講談社文庫)</ref>。<p role="presentation">なお、[[東京女子医科大学]]は前身の済生学舎出身の[[吉岡弥生]](1892年卒)によって創立され、[[東京医科大学]]は日本医学専門学校から袂を分かった人々によって創立され、[[埼玉医科大学]]は卒業生の[[丸木清美]]により設立された経緯がある。 卒業生には、世界的な細菌学者である[[野口英世]](1897年卒)や、野口英世を指導した[[北里柴三郎]]の一番弟子で[[日本細菌学会]]賞の一つにその功績を浅川賞として残している[[浅川範彦]](1883年卒)、眼科学の内外の現教科書に[[小口忠太#小口病|小口病]]として掲載されている名古屋医科大学学長にもなった[[小口忠太]](1891年卒)、東京帝国大学の医化学助教授を経て金沢医科大学学長となった[[須藤憲三]](1893年卒)、癌の免疫療法薬の1つとして有名な[[丸山ワクチン]]を開発した[[丸山千里]](1928年卒)、ベルリン大学医学部で東洋人として初めて教授資格を取得しドイツのウリーツェンで現在も敬愛されている[[肥沼信次]](1934年卒)、[[ジョン・F・ケネディ]]や[[マリリン・モンロー]]を[[検死]]した米国ロサンゼルス郡検死局長の[[トーマス野口]](1951年卒)、[[日本医師会]]、[[世界医師会]]の会長を務めた[[坪井栄孝]](1952年卒)などを輩出している。</p> |
1876年(明治9年)に[[長谷川泰]]により創設された[[済生学舎]]を前身とする開学130年を超える日本最古の私立医科大学である。1903年(明治36年)8月31日、済生学舎創立者[[長谷川泰]]による済生学舎廃校宣言直後に創立者[[磯部検蔵]]によって設立された「済生学舎同窓医学講習会」、「医学研究会」、[[日本医学校]]の設立や私立[[東京医学校]]との合併、[[専門学校令]]による旧制[[日本医学専門学校]]の時代を経て、1926年(大正15年)の[[大学令]]によって[[旧制]]日本医科大学となる。戦前に大学令によって旧制大学に昇格したのは私立医大では3校であり、[[慶應義塾大学]][[医学部]]、[[東京慈恵会医科大学]]と共に、私立医大[[御三家]]と称されることがある<ref>大学医学部―命をあずかる巨大組織の内幕 (講談社文庫)</ref>。<p role="presentation">なお、[[東京女子医科大学]]は前身の済生学舎出身の[[吉岡弥生]](1892年卒)によって創立され、[[東京医科大学]]は日本医学専門学校から袂を分かった人々によって創立され、[[埼玉医科大学]]は卒業生の[[丸木清美]]により設立された経緯がある。 卒業生には、世界的な細菌学者である[[野口英世]](1897年卒)や、野口英世を指導した[[北里柴三郎]]の一番弟子で[[日本細菌学会]]賞の一つにその功績を浅川賞として残している[[浅川範彦]](1883年卒)、眼科学の内外の現教科書に[[小口忠太#小口病|小口病]]として掲載されている名古屋医科大学学長にもなった[[小口忠太]](1891年卒)、東京帝国大学の医化学助教授を経て金沢医科大学学長となった[[須藤憲三]](1893年卒)、癌の免疫療法薬の1つとして有名な[[丸山ワクチン]]を開発した[[丸山千里]](1928年卒)、ベルリン大学医学部で東洋人として初めて教授資格を取得しドイツのウリーツェンで現在も敬愛されている[[肥沼信次]](1934年卒)、[[ジョン・F・ケネディ]]や[[マリリン・モンロー]]を[[検死]]した米国ロサンゼルス郡検死局長の[[トーマス野口]](1951年卒)、[[日本医師会]]、[[世界医師会]]の会長を務めた[[坪井栄孝]](1952年卒)などを輩出している。</p> |
2017年9月3日 (日) 08:19時点における版
日本医科大学 | |
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昭和初期の日本医科大学 | |
大学設置 | 1926年 |
創立 | 1876年 |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 学校法人日本医科大学 |
本部所在地 | 東京都文京区千駄木1-1-5 |
キャンパス |
千駄木キャンパス - 東京都文京区 武蔵境キャンパス - 東京都武蔵野市 |
学部 | 医学部 |
ウェブサイト | http://www.home.nms.ac.jp/ |
日本医科大学(にほんいかだいがく、英語: Nippon Medical School)は、東京都文京区千駄木1-1-5に本部を置く日本の私立大学。1876年創立、1926年大学設置。大学の略称は日本医大、日医大、日医。
学費
- 学納金 2200万(6年間合計)、特待生は1950万(6年間合計)
新学費は私立医学部御三家の中では、慈恵医大を抜いて、慶應医学部とほぼ同額である。
概要
1876年(明治9年)に長谷川泰により創設された済生学舎を前身とする開学130年を超える日本最古の私立医科大学である。1903年(明治36年)8月31日、済生学舎創立者長谷川泰による済生学舎廃校宣言直後に創立者磯部検蔵によって設立された「済生学舎同窓医学講習会」、「医学研究会」、日本医学校の設立や私立東京医学校との合併、専門学校令による旧制日本医学専門学校の時代を経て、1926年(大正15年)の大学令によって旧制日本医科大学となる。戦前に大学令によって旧制大学に昇格したのは私立医大では3校であり、慶應義塾大学医学部、東京慈恵会医科大学と共に、私立医大御三家と称されることがある[1]。
なお、東京女子医科大学は前身の済生学舎出身の吉岡弥生(1892年卒)によって創立され、東京医科大学は日本医学専門学校から袂を分かった人々によって創立され、埼玉医科大学は卒業生の丸木清美により設立された経緯がある。 卒業生には、世界的な細菌学者である野口英世(1897年卒)や、野口英世を指導した北里柴三郎の一番弟子で日本細菌学会賞の一つにその功績を浅川賞として残している浅川範彦(1883年卒)、眼科学の内外の現教科書に小口病として掲載されている名古屋医科大学学長にもなった小口忠太(1891年卒)、東京帝国大学の医化学助教授を経て金沢医科大学学長となった須藤憲三(1893年卒)、癌の免疫療法薬の1つとして有名な丸山ワクチンを開発した丸山千里(1928年卒)、ベルリン大学医学部で東洋人として初めて教授資格を取得しドイツのウリーツェンで現在も敬愛されている肥沼信次(1934年卒)、ジョン・F・ケネディやマリリン・モンローを検死した米国ロサンゼルス郡検死局長のトーマス野口(1951年卒)、日本医師会、世界医師会の会長を務めた坪井栄孝(1952年卒)などを輩出している。
建学の精神
- 克己殉公
教育理念
- 愛と研究心を有する質の高い医師と医学者の育成
沿革
*1910年(明治43年)3月 - 私立東京医学校を合併。同年10月私立東京医学校跡地駒込(現千駄木校舎)に移転。翌11月付属駒込病院(現・付属病院)開院。
- 1924年(大正13年)7月 - 付属飯田町医院(後の日本医科大学付属第一病院)開院。
- 1926年(大正15年)2月 - 大学令により日本医科大学に昇格。
- 旧大学令による医科大学は私立では日本医科大学、東京慈恵会医科大学、慶應義塾大学医学部の3校。公立は京都府立医科大学。8帝国大学医学部と6官立医科大学に加え、現中国医科大学の前身、満州医科大学の計19校。なお、9番目の帝国大学医学部である台北帝国大学医学部の創設は1936年(昭和11年)。
- 1937年(昭和12年)12月 - 付属丸子病院(現・日本医科大学武蔵小杉病院)開院。
- 1945年(昭和20年)7月 - 山形県鶴岡市に疎開することとなり、鶴岡市立荘内病院の運営を市が本学に委託。1947年(昭和22年)秋まで日本医科大学付属荘内病院として運営された。
- 1952年(昭和27年)2月 - 学制改革により新制日本医科大学となる。日本獣医畜産大学を運営移管。
- 1977年(昭和52年)6月 - 付属多摩永山病院(現・日本医科大学多摩永山病院)開院。
- 1983年(昭和58年)11月 - 本学創立80周年記念式典挙行。
- 1986年(昭和61年)
- 9月 - 創立80周年記念付属病院東館改築竣工。
- 11月 - 済生学舎開校110年記念祭挙行。
- 1994年(平成6年)1月26日 - 付属千葉北総病院(現・日本医科大学千葉北総病院)開院[2][3]。
- 1997年(平成9年)10月 - 付属第一病院閉院。
- 2010年(平成22年)
- 4月 - 日本医科大学大学院棟竣工。
- 9月 - 日本医科大学医学部棟竣工。
歴代学長
- 中原徳太郎 大正15年2月 ~ 昭和2年11月
- 小此木信六郎 昭和2年11月 ~ 昭和3年1月
- 塩田廣重 昭和3年1月 ~ 昭和35年1月
- 河野勝齋 昭和35年2月 ~ 昭和37年9月
- 石川正臣 昭和37年10月 ~ 昭和49年3月
- 丸山千里 昭和49年4月 ~ 昭和49年9月
- 木村義民 昭和49年10月 ~ 昭和55年9月
- 木村榮一 昭和55年10月 ~ 昭和57年2月
- 石川正臣 昭和57年2月 ~ 昭和57年10月
- 乘木秀夫 昭和57年10月 ~ 昭和59年4月
- 常岡健二 昭和59年5月 ~ 昭和61年9月
- 菊地吾郎 昭和61年10月 ~ 平成4年9月
- 庄司 佑 平成4年10月 ~ 平成7年9月
- 早川弘一 平成7年10月 ~ 平成12年9月
- 淺野伍朗 平成12年10月 ~ 平成15年9月
- 荒木 勤 平成15年10月 ~ 平成20年9月
- 田尻 孝 平成20年10月 ~ 平成27年9月
- 弦間昭彦 平成27年10月 ~
組織
- 学校法人 日本医科大学
- 理事会、教授会
学部
大学院
- 医学研究科 - 博士(医学)
施設
- 同窓会館橘桜会館
校舎
系列・附属施設
- 日本獣医生命科学大学:武蔵野市。中央線の武蔵境駅下車。
- 日本医科大学看護専門学校
- 日本医科大学付属病院:文京区千駄木にある。東京メトロの東大前駅・根津駅・千駄木駅下車。
- 日本医科大学武蔵小杉病院:川崎市中原区。東急東横線の新丸子駅・武蔵小杉駅下車。
- 日本医科大学多摩永山病院:多摩市。京王永山駅・小田急永山駅下車。
- 日本医科大学千葉北総病院:千葉ニュータウンの印旛日本医大駅下車。千葉県印西市。
- 日本医科大学健診医療センター:文京区千駄木にある。東京メトロの東大前駅・本駒込駅・千駄木駅下車。
- 日本医科大学呼吸ケアクリニック:新宿区九段南にある。東京メトロの市ヶ谷駅下車。
- 老人病研究所
- ワクチン療法研究施設
その他
- 東京医科大学 - 1916年(大正5年)に前身の日本医学専門学校から分離独立(分裂)、以来系列関係にはない。
- 東京女子医科大学 - 卒業生吉岡弥生が1900年(明治33年)に創立した東京女醫學校から発展したが、系列関係にはない。
- 東京理科大学 - 2009年12月、連携協力に関する協定を締結[4]。
- 中央大学 - 2010年3月、連携協力に関する協定を締結
- 東京電機大学 - 2010年12月、連携協力に関する協定を締結
- 丸山ワクチン - 丸山千里博士による皮膚結核、肺結核、ハンセン病に対する特効薬、あるいは悪性腫瘍に対する有償治験薬。後者として有名。後者の丸山ワクチン(SSM)は、1972年以来、ゼリア新薬工業による協力のもと、日本医科大学付属病院ワクチン療法研究施設から全国・世界の医師・患者たちに供給され続けている。
大学関係者と組織
大学関係者一覧
脚注
外部リンク
座標: 北緯35度43分16秒 東経139度45分32秒 / 北緯35.7211度 東経139.7590度 Template:日本私立医科大学協会