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* [[静岡空港]]建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている<ref>[http://web.archive.org/web/20090307071308/http://kuukouno.hp.infoseek.co.jp/kokaiginsyomei.htm 国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会](2009年3月7日時点の[[インターネット |
* [[静岡空港]]建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている<ref>[http://web.archive.org/web/20090307071308/http://kuukouno.hp.infoseek.co.jp/kokaiginsyomei.htm 国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会](2009年3月7日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 |
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* [[中国残留孤児]]に対し、国の賠償責任を認め、給付金制度を創設するよう主張している<ref>民主党ホームページ:中国残留孤児・今こそ政治決断で支援を(コメント)[http://www.dpj.or.jp/news/?num=9526]</ref>。 |
* [[中国残留孤児]]に対し、国の賠償責任を認め、給付金制度を創設するよう主張している<ref>民主党ホームページ:中国残留孤児・今こそ政治決断で支援を(コメント)[http://www.dpj.or.jp/news/?num=9526]</ref>。 |
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* [[国鉄労働組合#JR採用差別闘争|国鉄労働組合のJR採用差別闘争]]に連帯し、同労組が[[衆議院]][[議員会館]]で開いた院内集会に参加している<ref>週刊かけはし([[日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)]]発行)JR採用差別問題で院内集会 [http://www.jrcl.net/frame08047c.html]</ref>。 |
* [[国鉄労働組合#JR採用差別闘争|国鉄労働組合のJR採用差別闘争]]に連帯し、同労組が[[衆議院]][[議員会館]]で開いた院内集会に参加している<ref>週刊かけはし([[日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)]]発行)JR採用差別問題で院内集会 [http://www.jrcl.net/frame08047c.html]</ref>。 |
2017年9月4日 (月) 16:38時点における版
三井 辨雄 みつい わきお | |
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生年月日 | 1942年11月24日(82歳) |
出生地 | 北海道札幌市 |
出身校 | 昭和薬科大学薬学部 |
前職 | 医療法人理事長 |
所属政党 |
(新進党→) 民主党 (鳩山グループ・樽床グループ・民社協会) |
称号 | 旭日重光章 |
第15代 厚生労働大臣 | |
内閣 | 野田第3次改造内閣 |
在任期間 | 2012年10月1日 - 2012年12月26日 |
選挙区 |
(比例北海道ブロック→) 北海道2区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 2000年 - 2012年 |
三井 辨雄(みつい わきお、1942年11月24日 ‐ )は、日本の政治家、実業家、薬剤師。青山会(樽床伸二グループ)代表世話人。
衆議院議員(4期)、国土交通副大臣(菅第1次改造内閣・菅第2次改造内閣)、厚生労働大臣(第15代)などを歴任した。報道等では新字体で三井 弁雄(みつい わきお)の表記も用いられる。
来歴
北海道札幌市生まれ。北海高等学校、昭和薬科大学薬学部卒業。薬剤師免許を取得し、1967年登録。1975年、三井薬品株式会社を設立し、同社代表取締役に就任。その後医療法人交雄会の理事長に就任し、北海道内に3病院・2介護福祉施設を開設[1]。
経営者時代から自由民主党の羽田孜の知遇を得ており、1996年の第41回衆議院議員総選挙に羽田が当時所属していた新進党公認で北海道3区から出馬するが、石崎岳(自民党)、荒井聰(旧民主党)の後塵を拝し、得票数3位で落選する。新進党解党後、民主党に入党。2000年の第42回衆議院議員総選挙では、選挙区調整により比例北海道ブロック単独で出馬し初当選(北海道3区からは荒井聰が出馬し、石崎岳を破り当選)。2003年の第43回衆議院議員総選挙では北海道2区に国替えし、自民党の吉川貴盛を破り当選した。2005年の第44回衆議院議員総選挙では吉川に約2,300票差まで詰め寄られるも振り切り、3選(吉川も比例復活)。2009年の第45回衆議院議員総選挙では、自民党の吉川に比例復活も許さない大差で圧勝し、4選。当選後、民主党国会対策委員長代理に就任した。
2010年9月、菅第1次改造内閣で国土交通副大臣に任命される。同年10月、樽床伸二を中心に結成された「青山会」[2]の代表世話人に就任した。2011年1月、菅第2次改造内閣で国土交通副大臣に再任。
同年6月1日、小沢一郎が菅内閣に対する不信任決議案への賛成を示唆し[3]、これに同調して国土交通副大臣を辞任する意向を固める[4]。同日の不信任案提出後、三井、東祥三、鈴木克昌、内山晃、樋高剛の5人が辞表を提出し、菅内閣不信任決議案に賛成する意向を示した[5][6]。この事態を受け、菅は東日本大震災への対応に目処がついた時点で退陣する考えを表明[7]。これを受け、三井ら5人は翌2日の採決では反対票を投じた[8]。翌3日、菅の慰留を受け辞意を撤回した[9]。
同年9月、野田内閣発足に伴い国土交通副大臣を退任し、民主党政策調査会長代理に就任。2012年6月、消費税増税を含む社会保障・税一体改革関連法案の採決では賛成票を投じ、小沢一郎ら反対派が民主党を離党して結成した国民の生活が第一には参加しなかった。
同年10月、野田第3次改造内閣の厚生労働大臣として初入閣。薬剤師免許保持者では初の厚生労働大臣である。
同年12月、第46回衆議院議員総選挙にて自民党の吉川に敗北、重複立候補した比例北海道ブロックでも比例復活ならず落選。
政策・主張
- 静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている[10]。
- 中国残留孤児に対し、国の賠償責任を認め、給付金制度を創設するよう主張している[11]。
- 国鉄労働組合のJR採用差別闘争に連帯し、同労組が衆議院議員会館で開いた院内集会に参加している[12]。
人物
- 民主党所属の国会議員の中では指折りの資産家であり、国会議員の所得・所有財産の番付では常に上位に名前が掲載される。
- 元々は元首相の羽田孜の知遇を得て政界入りしたが、同じ北海道選出の衆議院議員であった元首相の鳩山由紀夫(北海道9区選出)にも近い。
- かつては小沢一郎の側近であり、小沢の民主党在籍期間中は小沢グループの幹部であった。しかし、2012年に小沢グループ所属議員の多くが離党し、国民の生活が第一を結党した際はこの動きに加わらず、民主党に残留した。小沢グループ幹部では三井の他、奥村展三や田中眞紀子、中塚一宏らも新党への参加を見送っている。
- 選挙区内に北海道では数少ない旧民社党系の支持組織である北海道電力労働組合の本拠地があるため、民社協会に所属している。ただし旧民社党自体にはさしたる接点はない。
所属団体・議員連盟
脚注
- ^ 三井わきおのホームページ
- ^ 樽床伸二「樽床グループ(青山会 せいざんかい)発足」『たるとこ伸二 | 樽床レポート | 樽床グループ(青山会 せいざんかい)発足』2010年10月10日。
- ^ 日テレNEWS242011年5月31日
- ^ 産経ニュース2011年6月1日
- ^ 日テレNEWS242011年6月1日
- ^ 東副大臣ら5氏が辞表提出=内閣不信任案に賛成へ、離党はせず朝日新聞 2011年6月1日
- ^ 「菅首相、辞任の意向――『震災に一定のめどの段階で』」『asahi.com(朝日新聞社):菅首相、辞任の意向 「震災に一定のめどの段階で」 - 政治』朝日新聞社、2011年6月2日。
- ^ 影山哲也「内閣不信任案:辞表提出の副大臣・政務官5人の慰留検討」『内閣不信任案:辞表提出の副大臣・政務官5人の慰留検討 - 毎日jp(毎日新聞)』毎日新聞社、2011年6月2日。
- ^ asahi.com2011年6月3日
- ^ 国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会(2009年3月7日時点のアーカイブ)
- ^ 民主党ホームページ:中国残留孤児・今こそ政治決断で支援を(コメント)[1]
- ^ 週刊かけはし(日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)発行)JR採用差別問題で院内集会 [2]
外部リンク
公職 | ||
---|---|---|
先代 小宮山洋子 |
厚生労働大臣 第15代: 2012年 |
次代 田村憲久 |
先代 馬淵澄夫 三日月大造 |
国土交通副大臣 池口修次と共同 2010年 - 2011年 |
次代 奥田建 松原仁 |
その他の役職 | ||
先代 (新設) |
青山会代表世話人 初代:2010年 - |
次代 (現職) |