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「四法印」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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== 一切行苦 ==
== 一切行苦 ==
{{節stub}}
{{main|一切皆苦}}
{{main|一切皆苦}}
これが、初期経典にいわれる「一切皆苦(いっさいは苦なり)」をうけたものであることは明らかである{{要出典|date=2017年9月}}。「[[色 (仏教)|色]]は苦なり。[[受]][[想]][[行 (仏教)|行]][[識]]も苦なり。」というのがこれである{{要出典|date=2017年9月}}。

<!-->これは元々、初期仏教においては、[[止観]]([[瞑想]])によって[[涅槃]]の境地に至る過程の一段階、例えば、[[四念住]]([[四念処]])に対応させて表現すれば、以下のように、「受念住」に相当する状態を、言い表したものである。(以下の通り、「四法印」の他の内容も同様に対応している。)
*身念住
*受念住 = 一切皆苦
*心念住 = 諸行無常
*法念住 = 諸法無我
*(涅槃寂静)

しかし、後の大乗仏教、とりわけ北伝の[[中国仏教]]・[[日本仏教]]においては、こうした初期仏教の止観(瞑想)の方法論・概念が、しっかりと継承されなかったこともあり、元々こうした止観(瞑想)の行法と密接に結び付いていた「一切皆苦」の意味・内容が、変質・拡大解釈されるに至った。

(これは、他の「諸行無常」「諸法無我」等に関しても、同様に言えることである。)<-->

<!-- (漠然とした抽象論ではなく、具体的な記述をお願いします。)  これは、常執と我執とによって、[[無常]]、[[無我]]の世界に常住や自我を追い求めるから、すべてに「苦」になるのである。

仏教は現実を「[[苦 (仏教)|苦]]」という。それは現実を生きることは本質的に人間にとって苦であることをいう。本来は平等一相一味である世界、何らの固定性をもたない変化そのものの存在に対して、変化するもの自身をつかんでいなくては生きられない。よりどころとはならないものを、あてにして、我他彼此の妄念[[差別]](しゃべつ)の心を生じ、すべてを対立的にみる。これこそ「苦」である。そこで、この現実が苦であることを「一切皆苦印」として別立するのである。いま、このような四法印によって現される仏教の根本構造は次図のようである。

   諸行無常 常執<br />    ↓ |   ↓<br /> 涅槃寂静 | 一切皆苦<br>    ↑ |   ↑<br />    諸法無我 我執<br />  ∥   ∥   ∥<br />  悟   真理  迷苦-->


== 出典・脚注 ==
== 出典・脚注 ==

2017年9月16日 (土) 12:27時点における版

四法印(しほういん)とは、小乗仏教の根本的な理念を示す教理である三法印[1]一切行苦印」[疑問点]を加えたものである[2]。『瑜伽師地論 』の四法嗢拕南説では、「一切諸行皆悉是苦」としている。

一切行苦

出典・脚注

  1. ^ さん‐ぼういん〔‐ボフイン〕【三法印】 - デジタル大辞泉(goo辞書)
  2. ^ 三法印 - コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説。