「涅槃」の版間の差分
導入部に出典付加、加筆。コメントアウトされた無出典記述を除去 |
出典追加、加筆。重複を整理。概説の説は全体が無出典なので、出典の備わる記述で大幅に置き換え、元あったものの一部は注釈化や他の節へ移すなどした。 |
||
1行目: | 1行目: | ||
{{Otheruses||[[ジャイナ教]]のニルヴァーナ|ニルヴァーナ (ジャイナ教)}} |
{{Otheruses||[[ジャイナ教]]のニルヴァーナ|ニルヴァーナ (ジャイナ教)}} |
||
[[画像:Parinirvana Buddha.jpg|thumb|300px|涅槃図(19世紀)]] |
[[画像:Parinirvana Buddha.jpg|thumb|300px|涅槃図(19世紀)]] |
||
'''涅槃'''(ねはん、{{翻字併記|sa|निर्वाण|nirvāṇa|n|区=、}}(ニルヴァーナ)、{{翻字併記|pi|निब्बान|nibbāna|n|区=、}}(ニッバーナ))とは、[[仏教]]において、[[煩悩]]を滅尽して[[悟り]]の[[智慧]]([[菩提]])を完成した境地のこと |
'''涅槃'''(ねはん、{{翻字併記|sa|निर्वाण|nirvāṇa|n|区=、}}(ニルヴァーナ)、{{翻字併記|pi|निब्बान|nibbāna|n|区=、}}(ニッバーナ))とは、[[仏教]]において、[[煩悩]]を滅尽して[[悟り]]の[[智慧]]([[菩提]])を完成した境地のこと{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}<ref name="コトバンク涅槃">{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E6%B6%85%E6%A7%83-111495|title=涅槃(ねはん)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-10-16}}</ref>。涅槃は、生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされる{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}{{efn|涅槃が仏教の究極的な実践目的であるところから、[[法印]]の一つに'''涅槃寂静'''がある{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。}}。'''般涅槃'''(はつねはん)や'''大般涅槃'''ともいう{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}{{efn|「般」は{{lang-sa-short|pari}}の[[音写]]であり、完全という意味{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。}}。この世に人として現れた[[仏陀|仏]]の[[肉体]]の[[死]]を指すこともある{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。[[外道|仏教以外]]の教えにも涅槃を説くものがあるが、仏教の涅槃とは異なる{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。 |
||
== 原語・漢訳・ |
== 原語・漢訳・同義語 == |
||
原語は{{lang-sa-short|nirvāṇa}}(ニルヴァーナ)、{{lang-pi-short|nibbāna}}。{{要出典範囲|ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち[[煩悩]](ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。|date=2017年11月3日 (金) 05:21 (UTC)|title=}} |
|||
⚫ | |||
⚫ | 「涅槃」はこれらの原語の[[音写]]である{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}<ref name="コトバンク涅槃" />{{efn|各言語では次のように表記される。{{要出典範囲|[[プラークリット]]: {{lang|pi|णिव्वाण}}、{{IAST|ṇivvāṇa}}、{{翻字併記|th|นิพพาน|Nípphaan|n|区=、}}、{{Lang-vi|niết bàn}}|date=2017年10月16日 (月) 08:19 (UTC)|title=}}。}}。音写はその他に泥曰(ないわつ)、泥洹(ないおん)、涅槃那、涅隸槃那などがある{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。 |
||
⚫ | |||
⚫ | {{lang-sa-short|nirvāṇa}}は、滅、寂滅、滅度、寂、{{要出典範囲|寂静、不生不滅|date=2017年10月16日 (月) 08:19 (UTC)|title=}}などと漢訳される{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。{{要出典範囲|サンスクリットでは「廻って」という意味の接頭辞 pari- を冠してパリニルヴァーナ(parinirvāṇa) 、更に「偉大な」という意味の mahā- を付してマハーパリニルヴァーナ(mahāparinirvāṇa)ともいわれるところから円寂、大円寂などと訳された。|date=2017年10月16日 (月) 08:19 (UTC)|title=}}。「涅槃」は、[[解脱]]、択滅(ちゃくめつ)、離繋(りけ)などと同義とされる{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。 |
||
⚫ | |||
⚫ | |||
⚫ | |||
== |
== 解釈 == |
||
涅槃の解釈は[[大乗仏教]]と[[部派仏教]]で異なり{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}、大乗と部派の各々の内部にも、後述のように異なる説がある。 |
|||
{{出典の明記|date=2017年10月16日 (月) 08:19 (UTC)|section=1}} |
|||
'''涅槃'''は、「[[悟り|さとり]]」〔[[悟り|証、悟、覚]]〕と同じ意味であるとされる。しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち[[煩悩]](ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。また、涅槃は[[如来]]の[[死]]そのものを指す。[[涅槃仏]]などはまさに、死を描写したものである。「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で'''涅槃寂静'''といわれる。 |
|||
=== 部派仏教 === |
|||
[[釈迦]]が[[入滅]](死去)してからは、涅槃の語にさまざまな意味づけがおこなわれた。 |
|||
部派仏教では、涅槃とは煩悩を滅し尽くした状態であるとしている{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。部派仏教でいう涅槃には有余涅槃(有余依涅槃)と無余涅槃(無余依涅槃)の2つがある{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}{{efn|有余涅槃・無余涅槃は、パーリ語の sa-upādisesa-nibbāna, anupādisesa-nibbāna で、このうち、「余」にあたるウパーディセーサ(upādisesa)は、「生命として燃えるべき薪」「存在としてよりかかるべきもの」を意味する{{要出典|date=2017年11月3日 (金) 05:21 (UTC)|title=}}。}}。有余涅槃は、煩悩は断たれたが肉体が残存する場合を指す{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。無余涅槃は、全てが滅無に帰した状態を指す{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。無余涅槃は灰身滅智(けしんめっち)の状態である{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}{{efn|'''灰身滅智'''(けしんめっち)とは、身は焼かれて灰となり、智の滅した状態をいう{{要出典|date=2017年11月3日 (金) 05:21 (UTC)|title=}}。}}。。 |
|||
# 有余涅槃・無余涅槃とわけるもの |
|||
# 灰身滅智、身心都滅とするもの |
|||
# 善や浄の極致とするもの |
|||
# 苦がなくなった状態とするもの |
|||
などである。 |
|||
[[説一切有部]]などでは、涅槃は存在のあり方であるとして実体的に考えられたが、[[経量部]]などでは、涅槃は煩悩の滅した状態を仮に名づけたものであって実体のあるものではないとされた{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。 |
|||
涅槃を有余と無余との二種に区別する際の'''有余涅槃'''は、釈迦が三十五歳で成道して八十歳で入滅するまでの間の悟りの姿を言う。'''無余涅槃'''は八十歳で入滅した後の悟りの姿とみるのである。この場合の、「余」とは「身体」のこととみて、身体のある間の悟り、身体のなくなった悟りとわける。 |
|||
=== 大乗仏教 === |
|||
有余涅槃・無余涅槃は、パーリ語の sa-upādisesa-nibbāna, anupādisesa-nibbāna で、このうち、「余」にあたるウパーディセーサ(upādisesa)は、「生命として燃えるべき薪」「存在としてよりかかるべきもの」を意味する。仏弟子たちは有余無余を、釈迦の生涯の上に見た。釈迦の入滅こそ、輪廻転生の苦からの完全な[[解脱]]であると、仏弟子たちは見たのである。 |
|||
大乗仏教では、[[常 (仏教)|常]]・楽・[[我]]・浄の[[常楽我浄|四徳]]を具えない部派仏教の涅槃を[[有為]]涅槃とするのに対して、この四徳を具える涅槃を[[無為 (仏教)|無為]]涅槃とし、無為涅槃を最上のものとする{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。大乗仏教では、涅槃を積極的なものと考える{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。 |
|||
[[法相宗|唯識宗]]では、本来自性清浄涅槃・有余依涅槃・無余依涅槃・無住処涅槃の四種涅槃を分ける{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。[[地論宗]]や[[摂論宗]]では、性浄涅槃・方便浄涅槃の二涅槃を分ける{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。[[天台宗]]では、性浄涅槃・円浄涅槃・方便浄涅槃の三涅槃を分ける{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。 |
|||
このような悟りが灰身滅智、身心都滅である。'''灰身滅智'''(けしんめっち)とは、身は焼かれて灰となり、智の滅した状態をいう。'''身心都滅'''(しんしんとめつ)とは、肉体も精神も一切が無に帰したすがたをいう。このことから、これらは一種の虚無の状態であると考える事ができるため、初期の仏教が、正統バラモンから他の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、nāstika)と呼ばれたのは、この辺りに原因が考えられる。 |
|||
== 釈迦牟尼仏の肉体の死としての涅槃 == |
|||
ナースティカとは呼ばれたが、釈迦が一切を[[無常]]・[[苦]]・[[無我]]であると説いたのは、単に現実を否定したのではなく、かえって現実の中に解決の道があることを自覚したからである。 |
|||
涅槃、般涅槃、大般涅槃の語は、この世に人として現れた仏(特に[[釈迦牟尼仏]])の肉体の死を指すこともある{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。『総合仏教大辞典』は、これは無余依涅槃を意味しているようだとしている{{sfn|総合仏教大辞典|1988|p=1132-1133}}。 |
|||
== 仏典における扱い == |
|||
この立場で、のちに'''無住処涅槃'''という。悟りの世界では、[[無明]]を滅して[[智慧]]を得て、あらゆる束縛を離れて完全な自在を得る。そこでは、涅槃を一定の世界として留まることなく、生死と言っても生や死にとらわれて喜んだり悲しんだりするのではなく、全てに思いのままに活動して[[衆生]]を仏道に導く。 |
|||
=== ダンマパダ === |
|||
⚫ | |||
このような涅槃は、単に煩悩の火が吹き消えたというような消極的な世界ではなく、煩悩が転化され、'''慈悲'''となって働く積極的な世界である。その転化の根本は'''[[般若|智慧]]'''の完成である。ゆえに悟りが智慧なのである。 |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
この点から[[菩提]]と涅槃を「二転依の妙果」という。涅槃は以上のように、煩悩が煩悩として働かなくなり、煩悩の障りが涅槃の境地に転じ、智慧の障害であったものが転じて慈悲として働く。それを'''菩提'''(ぼだい)という。 |
|||
以上のように悟りは、涅槃の寂静と菩提の智慧の活動とを内容とする。そこで涅槃の徳を'''[[常楽我浄]]'''の四徳と説く。悟りは常住不変で、一切の苦を滅しているので楽、自在で拘束されないから我、煩悩がつきて汚れがないから浄といわれる。 |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
47行目: | 40行目: | ||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
* {{ |
* {{Cite book |和書 |author=総合仏教大辞典編集委員会(編) |coauthors= |others= |date=1988-01 |title=総合仏教大辞典 |edition= |publisher=法蔵館 |volume=下巻 |ref={{SfnRef|総合仏教大辞典|1988}} }} |
||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
{{Portal 仏教}} |
{{Portal 仏教}} |
||
{{Div col|cols=2}} |
|||
⚫ | |||
*[[涅槃 |
* [[涅槃会]] |
||
*[[涅槃 |
* [[涅槃図]] |
||
*[[ |
* [[涅槃像]] |
||
*[[涅槃 |
* [[涅槃仏]] |
||
⚫ | |||
⚫ | |||
* [[三法印]] |
|||
*[[特別:Prefixindex/涅槃|「涅槃」で始まる記事名の一覧]] |
|||
* [[四法印]] |
|||
⚫ | |||
* [[正覚]] |
|||
⚫ | |||
* [[如来]] |
|||
* {{Prefix|涅槃}} |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
* [[涅槃原則]] - [[精神分析学]]の概念。 |
|||
⚫ | |||
{{Div col end}} |
|||
{{Buddhism2}} |
{{Buddhism2}} |
2017年11月3日 (金) 05:21時点における版
涅槃(ねはん、サンスクリット語: निर्वाण、nirvāṇa(ニルヴァーナ)、パーリ語: निब्बान、nibbāna(ニッバーナ))とは、仏教において、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のこと[1][2]。涅槃は、生死を超えた悟りの世界であり、仏教の究極的な実践目的とされる[1][注釈 1]。般涅槃(はつねはん)や大般涅槃ともいう[1][注釈 2]。この世に人として現れた仏の肉体の死を指すこともある[1]。仏教以外の教えにも涅槃を説くものがあるが、仏教の涅槃とは異なる[1]。
原語・漢訳・同義語
原語は梵: nirvāṇa(ニルヴァーナ)、巴: nibbāna。ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。[要出典]
「涅槃」はこれらの原語の音写である[1][2][注釈 3]。音写はその他に泥曰(ないわつ)、泥洹(ないおん)、涅槃那、涅隸槃那などがある[1]。
梵: nirvāṇaは、滅、寂滅、滅度、寂、寂静、不生不滅[要出典]などと漢訳される[1]。サンスクリットでは「廻って」という意味の接頭辞 pari- を冠してパリニルヴァーナ(parinirvāṇa) 、更に「偉大な」という意味の mahā- を付してマハーパリニルヴァーナ(mahāparinirvāṇa)ともいわれるところから円寂、大円寂などと訳された。[要出典]。「涅槃」は、解脱、択滅(ちゃくめつ)、離繋(りけ)などと同義とされる[1]。
解釈
涅槃の解釈は大乗仏教と部派仏教で異なり[1]、大乗と部派の各々の内部にも、後述のように異なる説がある。
部派仏教
部派仏教では、涅槃とは煩悩を滅し尽くした状態であるとしている[1]。部派仏教でいう涅槃には有余涅槃(有余依涅槃)と無余涅槃(無余依涅槃)の2つがある[1][注釈 4]。有余涅槃は、煩悩は断たれたが肉体が残存する場合を指す[1]。無余涅槃は、全てが滅無に帰した状態を指す[1]。無余涅槃は灰身滅智(けしんめっち)の状態である[1][注釈 5]。。
説一切有部などでは、涅槃は存在のあり方であるとして実体的に考えられたが、経量部などでは、涅槃は煩悩の滅した状態を仮に名づけたものであって実体のあるものではないとされた[1]。
大乗仏教
大乗仏教では、常・楽・我・浄の四徳を具えない部派仏教の涅槃を有為涅槃とするのに対して、この四徳を具える涅槃を無為涅槃とし、無為涅槃を最上のものとする[1]。大乗仏教では、涅槃を積極的なものと考える[1]。
唯識宗では、本来自性清浄涅槃・有余依涅槃・無余依涅槃・無住処涅槃の四種涅槃を分ける[1]。地論宗や摂論宗では、性浄涅槃・方便浄涅槃の二涅槃を分ける[1]。天台宗では、性浄涅槃・円浄涅槃・方便浄涅槃の三涅槃を分ける[1]。
釈迦牟尼仏の肉体の死としての涅槃
涅槃、般涅槃、大般涅槃の語は、この世に人として現れた仏(特に釈迦牟尼仏)の肉体の死を指すこともある[1]。『総合仏教大辞典』は、これは無余依涅槃を意味しているようだとしている[1]。
仏典における扱い
ダンマパダ
南伝のパーリ語教典を訳した中村元は、ダンマパダ、第十章暴力、百三十四節の訳注[要追加記述]において、
安らぎ - Nibbāna(= Nirvāṇa 涅槃)声を荒らげないだけで、ニルヴァーナに達しえるのであるから、ここでいうニルヴァーナは後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。
としている[疑問点 ]。
脚注
注釈
- ^ 涅槃が仏教の究極的な実践目的であるところから、法印の一つに涅槃寂静がある[1]。
- ^ 「般」は梵: pariの音写であり、完全という意味[1]。
- ^ 各言語では次のように表記される。プラークリット: णिव्वाण、ṇivvāṇa、タイ語: นิพพาน、Nípphaan、ベトナム語: niết bàn[要出典]。
- ^ 有余涅槃・無余涅槃は、パーリ語の sa-upādisesa-nibbāna, anupādisesa-nibbāna で、このうち、「余」にあたるウパーディセーサ(upādisesa)は、「生命として燃えるべき薪」「存在としてよりかかるべきもの」を意味する[要出典]。
- ^ 灰身滅智(けしんめっち)とは、身は焼かれて灰となり、智の滅した状態をいう[要出典]。
出典
参考文献
- 総合仏教大辞典編集委員会(編)『総合仏教大辞典』 下巻、法蔵館、1988年1月。