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「戦国時代 (日本)」の版間の差分

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やがて、[[武田信虎]]が甲斐一国を統一し、[[甲府市|甲府]]を本拠地と定め隣国との和睦も達成して[[信濃侵攻]]を開始するが、嫡男の晴信(信玄)や重臣らによる謀反で1541年には駿河国へ追放される。
やがて、[[武田信虎]]が甲斐一国を統一し、[[甲府市|甲府]]を本拠地と定め隣国との和睦も達成して[[信濃侵攻]]を開始するが、嫡男の晴信(信玄)や重臣らによる謀反で1541年には駿河国へ追放される。


武田信玄は、信濃侵攻を本格化し、[[甲相駿三国同盟]]を背景に諏訪攻略をはじめ、小笠原氏、村上氏らは駆逐され信濃は武田領国化された。信玄は信濃守護を兼ね、北信豪族を庇護した越後の長尾(上杉氏)とは10年余に亘って甲越対決([[川中島の戦い]])幾度も繰り広げた。
武田信玄は、信濃侵攻を本格化し、[[甲相駿三国同盟]]を背景に諏訪攻略をはじめ、小笠原氏、村上氏らは駆逐され信濃は武田領国化された。信玄は信濃守護を兼ね、北信豪族を庇護した越後の長尾(上杉氏)とは10年余に亘って川中島の戦いを繰り広げた。

川中島の戦いは全部で5回あり、多くの戦死者を出す戦もあればにらみ合いだけで終わる戦もあった。[http://haji-igohistory.com/nobunaga/2018/11/25/bushouretudenuesugikenshin/]


その後、武田氏は甲相駿同盟を破棄して桶狭間の戦い後に弱体化した今川氏領国への[[駿河侵攻]]を行い、やがては尾張の織田氏・三河の徳川氏とも対峙する。信玄の晩年期には大規模な[[西上作戦]]を発動し徳川氏の三河へ侵攻するも、[[野田城 (三河国)|野田城]]攻略中の信玄の急死により途上での退却を余儀なくされた。
その後、武田氏は甲相駿同盟を破棄して桶狭間の戦い後に弱体化した今川氏領国への[[駿河侵攻]]を行い、やがては尾張の織田氏・三河の徳川氏とも対峙する。信玄の晩年期には大規模な[[西上作戦]]を発動し徳川氏の三河へ侵攻するも、[[野田城 (三河国)|野田城]]攻略中の信玄の急死により途上での退却を余儀なくされた。

2018年11月25日 (日) 10:27時点における版

日本戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。

名称

応仁・文明の乱以後の乱れた世相を、当時の公家が古代中国の「春秋戦国時代」の乱世になぞらえ「戦国の世」と表現したことに由来する。

一条兼良の『樵談治要』の「諸国の守護たる人廉直をさきとすべき事」の条に、「諸国の国司は一任四ケ年に過ぎず、当時の守護職は昔の国司に同じといへども、子々孫々につたへて知行をいたす事は、春秋の時の十二諸侯、戦国の世の七雄にことならず」とある。また、近衛尚通の日記『後法成寺尚通公記』(近衛尚通公記)の永正五年(1508年)四月十六日の条に「戦国の世の時の如し」とある。「…にことならず」「…の時の如し」という直喩表現からも明らかな通り、当時の公家が使った「戦国の世」という語は、直接的には古代中国の戦国時代を指していた。

武田信玄の『甲州法度次第』の第20条に「天下戦国の上は、諸事をなげうち武具の用意肝要たるべし」とあり、当時の武家も自分たちが生きている時代は「戦国」である、という自覚を持っていたことが伺える。

ただし、江戸時代ベストセラーとなった『日本外史』でも、巻十一に「降りて戦国に至り、この兵各々群雄の分ち領する所となり(中略)之に教へて後戦う者は、武田上杉より過ぐるはなし。故に我が邦の兵の精はこの時に極る」とある(原漢文)。漢文で書かれた『日本外史』でさえ「戦国」という語の出現頻度は意外に少ない。庶民が慣れ親しんだ講談や落語などでは「元亀天正の頃」といった表現の方が一般的であった。日本史の時代区分としての「戦国時代」という術語が一般でも広く使われるようになるのは、明治維新以後である[1]

始期と終期

戦国時代の始期と終期については、いくつかの概念がある。室町時代末期から安土桃山時代にかけて、政権に因む時代区分と平行して「戦国時代」と呼称される。

全国一律の始期と終期
一般に1467年応仁の乱または1493年明応の政変に始まり、豊臣秀吉関東奥羽惣無事令を発布した1587年、または豊臣秀吉が小田原征伐後北条氏を滅亡させ全国統一の軍事活動が終了した1590年、もしくは奥州で発生した九戸政実の乱を鎮圧し奥州仕置を完成させた1591年までとされることが多い。また、一般に1568年織田信長上洛または1573年の信長による将軍足利義昭追放で室町時代が終了し織豊時代安土桃山時代の始まりとすることが多い。長篠の戦い小牧・長久手の戦いなどがあった安土桃山時代も、戦国時代の末期として含まれるという見方が多い。
従来は、1467年に始まった応仁の乱を戦国時代の始期とする見解が有力とされていたが、その後の幕府は衰退しつつも依然中央政権として機能していた。幕府・守護体制が揺らぎ始めた時期は1490年前後であり、1493年の明応の政変により中央政権としての機能が決定的に失われた事が始まりであるとするのが近年の説である。
戦国時代の終期にも複数の見解が並立している。上記の通り戦国時代は室町時代安土桃山時代と重なる年代区分であり、織田信長が安土へ進出して「天下人」へと飛躍した1576年、あるいはさらに後世に進み、関ヶ原の戦いを最後とする見方や、さらに後の大坂の陣を最後とする考え方(元和偃武)、島原の乱を最後とする考え方なども存在する。
地域ごとの始期と終期
戦国時代の始期と終期は地域ごとに異なるとする見解も有力である。この場合、終期は各地域が統一政権の支配下に入った年代を終期とするが[2]、始期は地域ごとに大きく異なっている。
畿内では明応2年(1493年)の明応の政変を戦国時代の始期とし[3]、永禄11年(1568年)の足利義昭と織田信長の上洛を終期とする。
また、関東地方では、享徳3年(1455年)に勃発した享徳の乱によって、利根川を境界に古河公方足利氏と関東管領上杉氏によって東西二分化されて戦国時代が始まり[4]、天正18年(1590年)の豊臣氏による小田原征伐によって戦国時代が終わったとされている。
東北地方では、永享の乱によって陸奥・出羽両国が鎌倉府の支配から離れた永享10年(1438年)が戦国時代の始まりとされ[5]、豊臣氏による天正18年(1590年)の奥羽仕置が戦国時代の終焉とされている。
一方で、中国・四国・九州の西国地域のように具体的な始期を検出できない地域も存在する[6]

概要

慢性的な紛争状態が続いた時代だが、毎日が戦争状態にあったわけではない。室町幕府によって、保証されていた古い権威が否定され始め、守護の支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。中には家臣が盟主を追放して下剋上により地位を手に入れた者もおり、様々な経歴の戦国大名が登場する。

畿内中央から、全国各地の地域に及ぶそれぞれの実力者同士の利害衝突に端を発する衝突が広く日本各地で行われ、旧来の上位権力による制御が困難となった。このような永続的な衝突を可能にする背景は貨幣経済の浸透と充実により国衙荘園の統治機構や畿内中央の首都経済の需要のみには依存しない地域経済が急速に質量ともに発達していき、それまでの無名の庶民が様々な形で成功を収めることができる経済成長期であったことにあり、在地の経済や文化の発展が時代を支えていた。社会構造が急速かつ大幅に変質していき、従前の社会体制の荘園公領制を支えていた職の体系が崩壊すると、それに伴って荘園公領制もこの時期にほぼ形骸化した。経済の急成長に伴い大量に発生した新興地主や新興商人が紛争の絶えない時代に開墾や内外の通商を通じて発展して貨幣経済をさらに拡大する中で自らの実力にふさわしい発言力を社会に対して要求した時代でもあった(豊臣秀吉は「針売り」が出世の始めという伝説がある)。こうした経済発展と頻発する武力紛争に対応して都市部では、農村部などでは惣村という重武装した新興の自治共同体が、それぞれ町人身分と百姓身分の一揆契約に基づく団体として自生・発展を続け、武家領主たちの統治単位も旧来の国衙領や荘園を単位にしたものから、これらの町村へと移行する。戦国大名の領国もこの町村を背景にしたものとして組織されたものであり、後の幕藩体制や近代の地方自治体もこの時誕生した町村を基盤とすることとなる。

応仁の乱から明応の政変まで

応仁の乱の勢力図 1467年
水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲
戦国時代の各時期の勢力図は外部リンクを参照。

元々、足利幕府は南北朝の並立と足利政権を二分した観応の擾乱を治めるために、自派についた大名への恩賞や、南朝や足利直冬などと結び、強大な独立勢力と化していた山名氏大内氏らの勢力を維持したまま取り込んだことで、独立的性格を持つ大大名の支持の上に成り立つ不安定さを持つ政権であった。しかし、三代将軍足利義満は南北朝の統一を果たして有力大名の勢力削減に成功し、直属軍を設立するなど将軍権力の強化に成功する。

しかし、さらなる将軍権力の強化を図って強権的手段に出た六代目の足利義教嘉吉の乱で暗殺されて以降、室町幕府は衰勢となり、有力守護大名等に対して統制を効かせるのが難しくなっていく。関東では鎌倉公方古河御所に逃れて古河公方と名乗って関東管領上杉氏との全面戦争(享徳の乱)を引き起こすと、将軍が後任の鎌倉公方として派遣した足利政知も鎌倉にさえ入ることができなかった(堀越公方)。大和加賀でも豪族同士の争乱が起こり、将軍お膝元の京都でも徳政一揆が頻発する有様であった。

こうした中、八代将軍足利義政の跡継ぎを巡る争いが始まり、これに山名氏細川氏ら有力守護大名の権力争い、畠山氏斯波氏の跡継ぎ争いなどが加わって、全国を東西に分けて巻き込む応仁の乱へと至ってしまう。大内氏若狭武田氏など各地の守護大名が上洛し、都を戦場にした争いが十余年も続いた。この戦いは山名氏の衰微、大内ら西軍主力の京都撤退など細川氏が政治的優位を確保して終わったが、双方にとり痛み分けであり、はっきりとした結果が残らなかったため後々までに影響する事になる。乱の最中には、戦争に勝利するために、本拠を空けた守護大名の隙きを突いた朝倉氏など守護代の下克上を許すだけでなく、むしろ積極的に支持して取り込み、他にも敵対陣営の領国を混乱させるため武将を送り込むなど既存の幕府・守護体制を覆す工作を様々に行ったため争いの火種が各地でくすぶり続けた。

とは言え、応仁の乱終結後も幕府の力は暫く残っており、1487年の将軍に敵対する近江守護六角高頼攻め(鈎の陣)には尾張国若狭国など京都近辺の諸大名が従い、1492年足利義材河内攻めにも多くの軍勢が馳せ参じている。だが、この河内攻め最中の1493年4月に管領細川政元による将軍廃立を図った権力簒奪が成功して実権が細川氏に移る事件が発生する(明応の政変)。これにより将軍は傀儡化し、その細川氏も政元の横死後、澄元・晴元父子と高国の二派に分裂して抗争を続けたため幕府は混迷を深めていった。こうして中央政権としての幕府の力は決定的に失われ、将軍はその回復を夢見て各地の大名に身を寄せる存在となり、幕府の直接的な影響力は概ね山城国一国に留まるのみとなってしまう。地方豪族は自ら力を蓄えるか力ある存在に身を寄せるようになり、北条早雲斎藤道三親子など旧来の守護大名でなくとも、実力が幅を利かすようになった状況を捉えて力を蓄え自立し戦国大名となった者も少なくない。

明応の政変から信長登場前夜まで

この明応の政変とは、いわば将軍である足利義材足利義視の子)を追放し清晃(足利義澄)を将軍としたことだったのだが、これに対して足利義材は、政元の元を逃れて地方へと落ち延び、近畿諸国は足利義材派と足利義澄派(細川政元派)と分かれることとなった。細川家もまた、専横を振るった細川政元香西元長薬師寺長忠らによって1507年に暗殺され(永正の錯乱)、政元の養子3人の内、細川澄之細川高国に討たれ、細川澄元派と高国派の2派に分かれて抗争することとなった。この間隙を突いて1509年周防国大内義興が前将軍・足利義尹(よしただ。元の足利義材、後に足利義稙と再度改名)を奉じて上京した。高国は大内義興と組んで義尹を支持すると、澄元は義澄を支持し対立。1511年に義澄が死ぬと、澄元方が劣勢となり、澄元は何度か京と四国を往復するが結果的には権力を奪えず1520年に阿波で死んだ。

以上で見たように政権掌握者は足利氏から細川氏に移り、続いて三好氏が政権を握った。細川氏は形式上は管領家であるから執政権が存在するが、細川氏内臣の三好氏にいたっては阿波撫養の豪族というだけで本来なら政権を執れるはずはない。ここに足利室町幕府の無力化は明確となった。実際、この前後から現代日本人が俗に戦国大名と呼んで親しんでいる武田信玄、上杉謙信北条氏康大友宗麟島津貴久などの華々しい活躍が始まり、全国の戦国騒乱が本格化する。

三好長慶は京周辺を制圧した強大な軍事力をバックとして足利氏を追放する。三好政権の正当性が弱かったために周辺豪族の反発を招き、結局4年で足利義輝に屈服することとなる。三好長慶の死後、幼い当主・三好義継を抱えた三好政権は弱体化し、これを見た義輝は将軍権威の再建に努めるようになった。それゆえ、危機感を覚えた三好政権は義輝を永禄の変で殺害するも、松永久秀・興福寺浅井長政らの協力を取り付けた織田信長が上洛すると、簡単に京を明け渡した(三好長慶から始まる三好政権について、「堺公方」も参照)。

毛利元就による中国支配への契機となった厳島の戦いもこの時期である。

信長登場以後

織田信長

1560年に、尾張国の織田信長は桶狭間の戦い今川義元を討ち取り、1567年美濃国斉藤氏から奪い、1568年、信長は義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛する。信長は義昭の名で四方大名へ命令を発布、天下人への道を歩み始める。信長が入京して最初にしたことは大津山崎など商業都市を直轄地としたことである。また、イエズス会ルイス・フロイスに京居住・布教を許している(1568年)など京都統治も行っている。

この頃になると、信長の動きに関連して各地方の有力な大名も勢力を伸ばしてゆく。桶狭間の戦いの後に今川氏の庇護下から松平氏の旧領三河を回復した徳川家康、関東の後北条氏、甲斐・信濃の武田氏、北陸の上杉氏、中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏、九州の島津氏などである。これらの大名は信長と同盟を結んだり、あるいは他の大名と同盟を結んで信長に対抗したりした。信長との関係が悪化した将軍の足利義昭が音頭を取り、比叡山本願寺武田信玄上杉謙信朝倉義景浅井長政松永久秀三好三人衆毛利輝元ら反信長派が結集して信長包囲網を築き上げたが各個撃破を受け崩壊、足利義昭は京を追われた(幕府という形態はこの後、備後に細々と続く)。各地で発生した一向一揆と信長の戦いも続き、石山本願寺とは10年間徹底的に抗戦した(石山合戦)。織田信長はこれらの敵対勢力を次々と屈服させ、1582年までには日本中央部を制圧し、天下統一の寸前までを実質的に成し遂げたが、最後は本能寺の変明智光秀に攻められ自害する。

元亀元年頃の戦国大名版図(推定)
関ヶ原の戦い

信長の死後、織田家重臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は本能寺の変が発生するといち早く山崎の戦い明智光秀を倒し、翌年には信長の後継を巡り対立した柴田勝家賤ヶ岳の戦いで破り覇権を確立した。

信長の嫡孫三法師を擁して覇権を確立した羽柴秀吉(豊臣秀吉)であったが、1584年に安土城から信雄を退去させるなど両者の関係は悪化していた。信雄は徳川家康とともに挙兵し、さらには雑賀衆根来衆北条氏政、長宗我部元親、佐々成政らが秀吉包囲網を築きあげたが、戦線が悶着したところで信雄は秀吉に懐柔され家康は撤退、包囲網は解散した(小牧・長久手の戦い)。家康は秀吉に臣従する形となったが豊臣政権で重く用いられている。

秀吉は豊臣姓を賜り関白となるなど朝廷を中心とした日本の伝統的な官位も活用して支配を進めていった。秀吉は惣無事令を発布して日本全土を名目的に統一、更には太閤検地刀狩身分統制令、貨幣統一を行い、1590年には小田原征伐で後北条氏を滅ぼし名実ともに統一を達成した。統一後の1592年1597年には朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)も行ったが、秀吉の死去により退却した。その後李氏朝鮮とは江戸時代初期に対馬宗氏を通じて国交が回復している。

秀吉の死後、豊臣政権五大老の一人徳川家康を中心とする東軍と豊臣政権の五奉行の一人石田三成を中心とする西軍が戦った関ヶ原の戦いで東軍が勝利し、東軍総大将を務めた徳川家康は関ヶ原の戦いの戦後処理として諸大名の転封改易を行い、1603年征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開いた。家康は1605年に将軍職を三男の徳川秀忠に譲り、将軍職は世襲により継承するものであることを諸大名に徹底確認させた。一国一城令に従わせることは、諸大名から軍事的な拠点を奪い戦争をさせないためでもあった。家康はその後も大御所として影響力を持ち、諸大名の転封や改易を積極的に行い、方広寺鐘銘事件を名目に1615年大坂夏の陣(大坂の役)で豊臣秀頼の居城大坂城を攻め豊臣氏を滅ぼす。そして17世紀中期、3代将軍徳川家光が死去し4代将軍徳川家綱が就任した頃より幕府の政治は武断政治から文治政治へと転換してゆく。

戦国大名

戦国大名は、そのほとんどが守護大名守護代国人を出自とする。国司北畠氏)や公家土佐一条氏)を出自とする者もいた。まれに低身分から戦国大名となった者もおり、当時の風潮だった下克上の例とされることが多い。

戦国大名は、領国内に一元的な支配を及ぼした。この領国は高い独立性を有すると、地域国家と呼びうる実態を持っていた。こうした戦国大名による地域国家内の支配体制を、大名領国制という。戦国大名は、領国内において必ずしも超越的な存在ではなかった。戦国大名は、地域国家内の国人被官層を家臣として組織化していったが、実のところ、この国人・被官層が戦国大名の権力基盤となっていた。戦国大名は、家臣である国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのであり、国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名はしばしば排除された。

地域別

奥羽

奥羽地方の戦国大名は、鎌倉時代から代々土地を所有してきた由緒ある一族が、そのまま戦国大名化した者が多い。例外は若狭武田氏末裔を名乗る蠣崎氏で、津軽海峡沿いの中小豪族を統一した。

奥羽地方は、関東の騒乱にほとんど巻き込まれることなく、当然中央の政争の影響もほとんど見られない。戦乱といえば、15世紀前半から南部氏が仙北・鹿角に出兵(この鹿角争奪戦は永禄頃まで続く)、伊達氏の河北地方への侵食など領地争いが目立つ。篠川公方雫石御所も滅ぼされるなど、東北地方といえど、平穏無事ではなかった。また、1522年伊達稙宗奥州探題大崎氏らを差し置いて陸奥守護職に就くなど下克上の芽は見られる。

とは言え、奥羽地方の特に南部では領主間の婚姻が盛んであった上、大名に後継者が不在の場合には一族の庶流出身者よりも他の大名家から養子を迎えることが多かったのが特徴的である。極端なケースでは伊達晴宗の嫡男が外祖父の岩城重隆の後を継ぎ(岩城親隆)、蘆名盛氏に敗れて人質として差し出された二階堂盛義の嫡男が当主の急逝によって急遽蘆名氏の養嗣子として当主になる(蘆名盛隆)といったものがあった。このため、諸大名の確執が合戦に発展した場合でもどちらかが壊滅する前に双方と血縁関係にある第三者が仲介して和解に至るケースが多かった[7]

1542年には伊達稙宗父子が家督の位置付けを巡って争いを起こして、血縁関係にある奥羽諸大名を巻き込んだ大乱(天文の乱)へ発展した。この乱の過程で、伊達晴宗は国人一揆との契約関係を再確認することで、他の奥羽諸大名に先駆けて戦国大名としての体制を確立することに成功した。

これ以降、家督の相続を巡って相克のあった蘆名・田村・岩城・最上・南部などの諸家では、国人一揆と大名の契約関係の一元化により戦国大名化を果たした。どの戦国大名も従来の大名に替わって室町幕府に「郡検断」「軍勢催促」「段銭徴収」等の諸権力を公認されることで各地域の中心勢力を形成する。彼らは新しい中央政権たる豊臣秀吉の奥州仕置によって既得権益を追認された。

16世紀第4四半期の時点で、安東氏秋田三戸南部氏糠部、奥州探題大崎氏大崎葛西氏登米、羽州探題最上氏最上村山伊達氏信夫伊達置賜刈田柴田宮城蘆名氏会津耶麻大沼河沼西蒲原安積岩瀬二本松氏(畠山氏)が安達田村氏田村石川氏白河結城氏白河相馬氏行方宇多標葉岩城氏楢葉岩城磐前菊田多賀において安堵を実行した発給文書が残っている。

一般的に奥羽地方南部は戦国時代の末期(1580年代)に伊達政宗が登場して軍事的才能をもって地域統合を果たしたとされることが多い。だが、実際にはその直前に常陸国の佐竹義重がこの地域の諸大名を傘下に置いて地域統合を確立しつつあった。政宗の家督継承は佐竹氏が北上して伊達氏と勢力圏が接する状況下で行われ、佐竹氏傘下の諸大名に圧迫された正室の実家(田村氏)の救援に乗り出したことで佐竹義重の奥州支配と対決することになり、やがて自らがその地位を取って代わることになったのである[7]

関東

関東では、京都で応仁の乱が起きる以前より、享徳の乱・長享の乱永正の乱の3つの大乱が立て続けに起こっており、古河公方と関東管領山内上杉家・その庶流の扇谷上杉家が3つ巴になって覇権を争った。

今川氏親の叔父で興国寺城主伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、伊豆国の堀越公方である足利政知の死去に伴う内乱に乗じて、1493年に実質堀越公方の足利茶々丸を滅ぼし伊豆を平定。その子孫が北条氏を自称した。この北条氏と上杉氏が関東の覇権を巡って戦い、1546年河越夜戦により上杉氏の勢力が衰えた。1552年、北条氏が古河御所を制圧して古河公方を掌握。山内上杉氏が上野を追われ長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ったことから北条氏と長尾氏(のちに上杉氏を継ぐ)とが関東を巡って争った。

関東管領を継承した上杉謙信は一時は北条氏の居城小田原城を攻囲するも奪えなかった。この上杉氏・北条氏の争いは全関東の諸豪族を二分すると、北条氏康里見義堯(上杉陣営)による国府台合戦など、各地で戦いを引き起こした。1579年、上杉謙信が死ぬと常陸の佐竹氏、安房の里見氏、下野の宇都宮氏などが北条氏の侵攻に抵抗したが、北条氏の勢力拡大を抑えることができなかった。更に奥州支配を進める伊達氏によって佐竹義重は南北両方面での戦いを余儀なくされた。

1582年甲州征伐で織田氏、徳川氏、後北条氏が武田氏の甲斐・信濃・駿河へ侵攻するが、同年に発生した本能寺の変の後に後北条氏は織田氏との同盟を破棄して甲斐・信濃へ侵攻(神流川の戦い)、さらに旧武田領を巡り徳川氏、上杉氏、後北条氏、真田昌幸らの間で天正壬午の乱が発生し、甲斐・南信濃を徳川氏、北信濃を上杉氏、上野を後北条氏、沼田領を真田氏が領することで一応の和睦を見た。

豊臣秀吉が惣無事令を発した後の1590年、後北条氏の家臣による真田領への侵攻が惣無事令違反とされ、豊臣氏を中心とする21万人の連合軍を前に北条氏直は小田原城に籠城するも敢え無く落城し後北条氏は滅亡(小田原征伐)、ここに豊臣秀吉による全国統一が完成した。この時、北条陣営に付いた関東の多くの領主が所領を没収され、小山氏千葉氏のような鎌倉時代以来の名家も姿を消している。1590年8月には関東に移し替えとなった徳川家康が江戸城に入城した。

その後、1600年の関ヶ原の戦いを経て1603年に徳川家康は江戸に幕府を開き、豊臣政権から江戸幕府成立の過程において、佐竹氏や里見氏、宇都宮氏などの旧来の勢力は転封あるいは改易によって関東の地から姿を消す。以後1867年大政奉還江戸無血開城まで264年間に渡り江戸幕府の下で政治・経済の中心として江戸の街は繁栄する。明治維新後は東京奠都を経て首都機能を担い今日に至っている。

北関東

北関東でも、享徳の乱・長享の乱・永正の乱の3つの大乱の影響を受けていた。下野宇都宮氏佐竹氏結城氏が3つ巴になって覇権を争った。

1506年に、永正の乱に誘発され古河公方家の内紛が勃発。古河公方足利政氏と嫡子高基間の対立であり、政氏には下野の小山成長、常陸の佐竹義舜、下野の那須資房などが支持し、高基には岳父である下野の宇都宮成綱、下総の結城政朝、下野の那須資親、常陸の小田成治政治父子といった足利高基の古河公方擁立を狙う宇都宮成綱を中心とした血縁関係のある勢力が中心となって支持した。内紛は関東南部や奥州にも影響を与えており、南奥の岩城由隆白河顕頼が政氏を支持し、奥州の伊達稙宗、相模の北条早雲・氏綱父子、下総の千葉勝胤昌胤父子は高基を支持している。古河公方足利家と緊密な関係である武家でも内紛が誘発されており、山内上杉家の内紛や下野宇都宮氏の永正の内訌が発生。さらには上那須氏白河結城氏でも内紛が発生。この頃の北関東は混沌としており各地で戦闘が勃発した。

戦国時代前期は宇都宮錯乱を克服した下野宇都宮氏宇都宮成綱佐竹の乱を克服した常陸佐竹氏佐竹義舜が北関東の覇権を巡って争い、竹林の戦い縄釣の戦いにより佐竹氏の勢威は一時衰えた。古河公方家の内紛も足利高基が勝利し3代目古河公方に就任しており、宇都宮成綱に擁立された形となった。下野宇都宮氏は勢威拡大と近隣勢力の弱体化により宇都宮成綱の代に北関東の覇権を制し[8]凄まじい影響力を及ぼした。永正の乱に関わった政氏支持の勢力は一時減衰し、高基支持の勢力は後北条氏が北関東に進出してくるまで増大していくことになった。また、1514年、宇都宮氏の宇都宮成綱が断絶中の上那須氏に介入し再興させようとしたが上那須氏を乗っ取られることを危惧した下那須氏の那須資房は早急に上那須氏を取り込み統一那須氏となっている。

下野宇都宮氏は宇都宮成綱が没すると徐々に不穏な情勢になり、大永年間に大永の内訌が勃発。不満を抱いていた重臣の芳賀氏塩谷氏笠間氏や同盟国の結城氏が手を結び、1523年に結城政朝は猿山合戦宇都宮忠綱を破り追放し、宇都宮興綱を当主に擁立した。下野宇都宮氏は衰退し、後北条氏による北関東進出辺りまで家臣団による専横が続いていくことになる。この頃になると結城氏の結城政朝・政勝父子や小田氏の小田政治の躍進が目立つようになる。

古河公方は当時の関東においては上位権力であり、覇権を確立するためには古河公方の威光は必要不可欠であった。そのため宇都宮成綱(足利高基を擁立)、北条氏康(足利義氏を擁立)、上杉謙信(足利藤氏を擁立)は古河公方の擁立を行った。しかし、戦国時代後期になると関東諸大名の古河公方への求心力は衰え、上位権力は形骸化している。

佐竹氏、統一那須氏小山氏、下野宇都宮氏は内紛の発生により後北条氏に大きく後れを取ることになった。その結果、関東諸勢力は北条氏政の北関東侵攻に対し、関東管領となった越後の上杉謙信を頼っていくことになる。そんな中、佐竹氏は度重なる内紛の中で着実に克服し、佐竹義昭の代には勢力を回復。1558年、佐竹義昭は宇都宮城を乗っ取った壬生綱房綱雄父子の手から取り戻そうとしている芳賀高定に協力し、奪還の手助けを行った。その後は宇都宮広綱に娘の南呂院を嫁がせて婚姻同盟を結んでいる。

戦国時代後期にはついに後北条氏が北関東へ進出。佐竹氏、宇都宮氏、小山氏らは上杉謙信を盟主とし敵対し一方、結城氏、那須氏、小田氏、壬生氏などが後北条氏側に付き二分となり、各地で戦闘が起こった。佐野氏皆川氏由良氏などは勢力をうまく変えて生き残りを図った。壬生氏は当時壬生綱房の弟の徳雪斎周長を中心とした勢力が宇都宮氏の傘下に降るなど分裂しており、鹿沼城壬生氏が宇都宮方、壬生城壬生氏が北条方について対立していたが1576年に壬生綱雄の子壬生義雄が徳雪斎を討ち再統一を果たした。

1579年、上杉謙信が没すると、関東諸将は頭角を現した佐竹義重を盟主にして北条氏直の侵攻に抵抗した。沼尻の合戦などで後北条氏と戦うが徐々に不利になっていった。佐野氏佐野宗綱が討死した後後北条氏による介入を受け後北条氏の一門を新当主に迎え入れざるを得なくなり、さらに小山氏の小山秀綱小山祇園城を後北条氏に攻略されてしまった。そうした中、佐竹氏は会津の方へも勢力の拡大を行っており、蘆名氏を傘下に収めたりしていたが、奥州から伊達氏伊達政宗が南下してきており、南北から挟撃されるなど厳しい状況になっていた。宇都宮氏も下野国南部が後北条氏に制圧され、宇都宮領が前線となった結果、那須氏、壬生氏、皆川氏らによる挟撃や北条軍による宇都宮城侵攻など過激化しており、宇都宮国綱は宇都宮城から防衛に優れる多気山城へ本拠を移すなど深刻な状況になっていた。

豊臣秀吉による小田原征伐が行われると佐竹義重、結城晴朝、宇都宮国綱、などはそれに従い、宇都宮仕置で所領を安堵された。しかし、小山氏、小田氏、壬生氏、大掾氏などといった勢力は姿を消した。その一方で大関高増大田原晴清岡本正親水谷政村などは豊臣大名として独立し、那須資晴も一度は改易されたが、大関高増ら働きにより那須資景が当主になることを条件に豊臣大名に復帰できた。由良国繁は後北条氏に従い小田原城に籠っていたが嫡子の由良貞繁が豊臣方として参陣したため罪は問われず豊臣大名として残れた。徳川家康の投降に応じた皆川広照も秀吉に許され豊臣大名として残れた。その一方で、宇都宮氏は浅野長政石田三成ら豊臣政権の内部争いに巻き込まれ、石高の偽装などを理由に1597年に改易された。佐竹氏も連座改易させられそうになったが石田三成の尽力により改易から免れた。

中部

甲信

甲斐国・信濃国では守護権力が弱体化し、有力国人が割拠する状態となっていた。

甲斐国では、甲斐源氏の流れを汲む甲斐守護武田氏が上杉禅秀の乱に荷担して没落していたため、戦国時代に至るまで国内での抗争状態に陥っていた。一方、信濃国では、信濃府中(現在の松本地方)に信濃守護小笠原氏、北信に村上氏高梨氏、東信に海野氏安曇仁科氏諏訪諏訪氏木曾木曾氏などの国人領主が割拠していた。

やがて、武田信虎が甲斐一国を統一し、甲府を本拠地と定め隣国との和睦も達成して信濃侵攻を開始するが、嫡男の晴信(信玄)や重臣らによる謀反で1541年には駿河国へ追放される。

武田信玄は、信濃侵攻を本格化し、甲相駿三国同盟を背景に諏訪攻略をはじめ、小笠原氏、村上氏らは駆逐され信濃は武田領国化された。信玄は信濃守護を兼ね、北信豪族を庇護した越後の長尾(上杉氏)とは10年余に亘って川中島の戦いを繰り広げた。

川中島の戦いは全部で5回あり、多くの戦死者を出す戦もあればにらみ合いだけで終わる戦もあった。[1]

その後、武田氏は甲相駿同盟を破棄して桶狭間の戦い後に弱体化した今川氏領国への駿河侵攻を行い、やがては尾張の織田氏・三河の徳川氏とも対峙する。信玄の晩年期には大規模な西上作戦を発動し徳川氏の三河へ侵攻するも、野田城攻略中の信玄の急死により途上での退却を余儀なくされた。

1575年、三河の長篠城を巡り武田勝頼軍と織田信長・徳川家康連合軍の間で発生した長篠の戦いで大敗を喫した武田氏は領国の動揺を招き、1582年、武田氏に臣従していた木曽谷領主木曾義昌の織田信長への寝返りに際して征伐軍を送ったものの敗退し、武田氏の親族衆穴山信君の離反を招き、織田氏の同盟者の徳川家康、北条氏政からも領国への侵攻を受け、十分な迎撃も出来ず織田信忠軍に追われた武田勝頼・武田信勝父子は天目山で自害し武田氏は滅亡した(甲州征伐)。

武田氏の滅亡により甲斐・信濃は織田信長の家臣滝川一益らに分配されるが、本能寺の変が発生すると後北条氏が侵攻して滝川氏は後退し(神流川の戦い)、さらには空域化した武田遺領を巡り徳川氏や後北条氏、上杉氏、真田昌幸らによる争い(天正壬午の乱)が起こり、甲斐・信濃は乱を制した徳川氏が、北信濃は上杉氏が領した。豊臣政権により徳川氏が関東に転封されると信濃諸豪族も関東へ移るが、この中で武田遺臣の真田氏など近世大名化した例も見られる。また、保科氏は将軍徳川秀忠の庶子・保科正之が継ぎ、小笠原氏は豊前小倉藩で九州の押えを任じられるなど徳川政権下では重く用いられている家は多い。

北陸

越後国を上杉(長尾)氏、越中国神保氏椎名氏能登国畠山氏越前国朝倉氏加賀国一向一揆らが、それぞれ支配していた。

越後国では、上杉氏から実権を奪った守護代長尾氏が台頭。その長尾氏から誕生した長尾景虎(上杉謙信)は、1576年までに北陸地方をほぼ制圧した。

越中では、神保氏が当初敵対していた一向一揆と結ぶも、越後上杉氏、守護畠山氏、能登畠山氏の連合軍により征伐された。

能登は守護の畠山氏が、長氏らの重臣たちの専横に苦しみ、内紛を繰り返した。1576年には、越後上杉氏の軍門に降り滅亡した。

越前では斯波氏を追い落とした朝倉氏が一向一揆を退けて、本拠の一乗谷に京の貴族を迎えるなど栄華を極めていた。やがて朝倉氏は1573年に織田信長の侵攻を受け浅井長政の援軍を受けて戦うも刀根坂の戦いで敗れ朝倉義景が自害し朝倉氏は滅亡する。その後前波吉継城代として織田氏の庇護下に入るが富田長繁浄土真宗本願寺勢力が結託して越前一向一揆が発生、一揆の持ちたる国となるも坊官下間頼照の専横への反発等の内部混乱に乗じて織田軍が侵攻し一揆は2年で平定された。

加賀国では守護冨樫氏を滅ぼした加賀一向一揆が「本願寺王国」を形成し、100年間の自治を行った。加賀国の一向一揆は上杉氏らとも争ったが、織田信長の家臣の柴田勝家軍に敗れ100年に渡る自治は終わった。その後一向一揆は石山本願寺と信長の間で10年に渡って争いを続けた(石山合戦)。

東海・濃尾

美濃国土岐氏が、尾張国と遠江国に斯波氏が、三河国に松平氏が、駿河国に今川氏が、一国一円割拠していた。

美濃国では、土岐氏の内部争いが展開されていた。斎藤利政(斎藤道三)はその隙を突いて主君の土岐頼芸に取り入り、1542年にはその主君を追放して美濃国を手中に収めた。その後、織田信秀およびその支援を受けた土岐頼芸、朝倉孝景が美濃へ侵攻するが、籠城戦からの急襲で織田軍に大打撃を与えるなどして持ち堪えた(加納口の戦い)。後に斎藤道三は織田信秀の嫡男織田信長へ娘を嫁がせ織田氏と和睦するが、1555年に道三の子の斎藤義龍が挙兵し1556年に長良川の戦いで道三は義龍に討たれる。1561年に当主は義龍の子斎藤龍興が継ぐ。信長は5年の歳月をかけて美濃を攻略し1567年に稲葉山城を岐阜城と改称し翌年の上洛に向けて新たな拠点とした。

尾張国は、朝倉氏の離反で越前を失った斯波氏の本拠となっていた。この斯波氏が朝倉氏との越前回復戦争に敗れた上に、京都での政争にも敗れて力を失った。やがて国内では、守護代・織田氏の傀儡的存在となる。1554年には、その織田氏の権力抗争に巻き込まれて切腹した斯波義統を最後に、尾張守護の斯波氏は断絶し、以後織田氏が尾張を治めた。織田信長は上・下の守護代2家が両立する織田一族の中では下守護代家の庶流に過ぎず、郡奉行として本家を支える立場でしかない身の上ながら、上下両守護代の内紛に乗じて尾張国主の座を奪った。桶狭間の戦いに勝利した後、今川氏から独立して松平氏の旧領の三河を回復した松平元康(徳川家康)と結ぶことで美濃攻略に専念。5年の歳月をかけて美濃国を斎藤龍興から奪うと、稲葉山城を岐阜城と改名し新たな本拠として天下の経営に乗り出した。

駿河国では今川氏親が斯波氏から遠江の支配権を奪い、1526年には分国法・今川仮名目録を定めて領国支配力を高めていった。その子の今川義元の代には松平氏の三河も支配下に治め、1554年には甲斐国の武田氏や関東の北条氏と三国同盟(善徳寺の会盟)を結び西進政策を強化し、尾張の一部へも勢力を伸ばしていた。1560年、桶狭間の戦いにおいて義元が戦死し、今川氏真が跡を継いだものの弱体化し、後に徳川氏、武田氏の駿河侵攻を受け滅びる。

三河国では松平氏が松平清康の代で版図を雄飛させるが、1535年の守山崩れによって清康が家臣に殺されると、事態は一変。駿河の今川氏からの後援無しに家命を保てないほど弱体化してしまった。松平氏の人質として幼少期に今川氏へ渡った松平元康は、元服後は今川氏の先鋒武将として桶狭間の戦いの緒戦にも参加していたが、桶狭間の戦い後に今川領国の動揺に乗じて1565年には三河を平定、徳川家康と改名して今川氏から独立して織田氏と同盟を結ぶ。甲斐の武田氏と密約を結んで今川領を東西から侵食、1569年に今川氏を滅ぼした(駿河侵攻)。その後、武田信玄が西上作戦を発動すると三河の徳川所領は侵食されてゆき、1573年の三方ヶ原の戦いでは徳川・織田両軍は大敗を喫した。三河領も奪われかねぬ窮地に陥るも、信玄の死で武田軍の西進が頓挫。命拾いをした。

1575年には、長篠の戦いで織田・徳川連合軍が鉄砲の力を利用して武田軍を破ると、1582年の甲州征伐への参戦協力の功により、徳川氏は信長から武田領の遠江、駿河を得た。しかも同年、本能寺の変で織田信長が死ぬと織田領である甲信に侵攻し、勢力下に治めている。

1590年、豊臣秀吉により天下が定まると、秀吉より関東への移封を命ぜられたため徳川家康は武蔵国の江戸を本拠とした。やがて家康は秀吉の死後に発生した関ヶ原の戦いの勝者となって江戸幕府を開くことになる。

畿内近国

初期の畿内においては、足利将軍家と管領の細川氏との抗争が繰り広げられた。山城国一揆などの国人一揆も抗争のパーツとして結果的に組み込まれている。ただし、この抗争は大内氏などを主体とする地方勢力が足利氏を利用して中央介入を試みた側面が強い。細川氏が内部の権力闘争により弱体化すると、足利氏を補佐するという名目で、近江国の六角氏による介入が強まった。近江においては、佐々木氏の一族である北近江の京極氏と南近江の六角氏が覇を競ったが、京極氏は支配下にあった国人の浅井氏によって実権を奪われ、以後は浅井氏と六角氏の争いが続いた。

基本的には、各国とも室町幕府の定めた守護大名が、そのまま戦国大名化したケースが多い。彼らは国人の推戴によってその地位が保たれたから、非常に弱い立場でしかなかった。河内国の畠山氏、但馬国の山名氏、丹後国の一色氏、若狭国の武田氏などは周辺の諸勢力に国を奪われかけたり家臣の内紛に悩まされながら、しぶとく戦国時代を生き抜いた。

伊賀国忍者に代表される豪族が力を持ち合議制で支配されていた他、北部を六角氏、南部を北畠氏がゆるく支配していた。

紀伊国では高野山根来寺熊野三山などの寺社勢力の力が強く、守護畠山氏の支配力は限定的だった。紀伊の地侍は連合して根来衆雑賀衆などの集団を形成し、宗教を盾に地域自治を行った。

伊勢国志摩国では、南朝以来の伊勢国司である北畠氏が勢力を誇り、北畠晴具の代に戦国大名化した。

先に述べた足利氏や細川氏の内紛は六角氏や赤松氏浦上氏・畠山氏・筒井氏など周辺の豪族を巻き込んで行われた。しかし、本格的な騒乱は三好氏の政権掌握以降となる。彼らは領国の阿波国を始め、讃岐国、淡路国、摂津国、和泉国、河内国、山城国、丹波国、大和国などを実力で支配し、それぞれ腹心をして支配した。しかしいずれの国も完全な統治はできなかったようであり、三好長慶の死後の混乱を経て織田信長の上洛軍によって平定されていくことになる。

山陽・山陰

初期は大内義興尼子経久との対立があった。大内義興は、勘合貿易を掌握して勢力を伸張、一時は中国九州7ヶ国に覇を唱え、将軍を奉じて周辺諸大名を従えて上洛をも成し遂げた。尼子経久は守護代ながら月山富田城を奪って守護を追放し、出雲等の山陰に基盤を作る一方、大内氏と何度か交戦するも決着が着かなかった。

両勢力の接点にあった安芸国では国全体の国人が一致団結して惣を築いていたが、強国に挟まれていた関係上、国人の一人である毛利元就が集団の統率者となり戦国大名化した。毛利元就は尼子氏と大内氏の間で外交的にはバランスを保っていたが、後に尼子氏を裏切り大内氏に付き、尼子晴久吉田郡山城へ向けて進軍。毛利元就は大内義隆に援軍を要請し援軍到着後尼子氏を撃破する(吉田郡山城の戦い)。陶晴賢の謀反(大寧寺の変)によって大内義隆が死亡し、8ヶ国守護となった尼子晴久と、大内義長を傀儡とする陶氏が共に力を持ち拮抗するが、陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就に討たれ、大内氏は毛利氏に攻められ滅亡する。更には出雲国においても尼子晴久の急死によって尼子氏は衰え、毛利氏に攻められ、難攻不落と讃えられていた今の島根県安来市にあった月山富田城に篭城するが兵糧攻めにあい開城した(月山富田城の戦い)。これにより毛利氏は中国の覇者となる。その後尼子氏再興を目指す山中幸盛(山中鹿之助)が度々挙兵するも毛利氏はこれを退ける。

織田信長の中国方面軍の羽柴秀吉が攻めて来ると三木城三木合戦)、鳥取城高松城が次々と落とされたが、本能寺の変が発生すると秀吉は毛利氏と和睦して軍を返し(中国大返し)、命拾いした。その後、毛利氏は豊臣氏の配下となり四国攻め九州征伐、小田原征伐などで活躍し、毛利輝元が五大老に就任する。1589年に毛利輝元は海運の利を活かせる広島城の築城を開始し、江戸時代を通じて城下は安芸広島藩42万6000石の拠点として発展した。 豊臣秀吉の死後に徳川家康と石田三成が対立して発生した関ヶ原の戦いで毛利輝元は西軍の(名義上の)総大将を務め、戦後に周防、長門の2か国の36万9000石に封じられた。

この他の主要戦国大名としては、備前の浦上氏(浦上村宗)、同じく備前の宇喜多氏宇喜多直家)などがいる。浦上村宗は播磨赤松氏の重臣であったが、赤松政則の死を機に下克上し赤松領国の播磨国・備前国・美作国を奪う。零落した細川高国を奉じて上洛も果たしたが、三好氏に敗れて戦死した。浦上氏は宗景の代に入ると重臣・宇喜多直家の離反によって崩壊する。備前国を手中にした宇喜多直家は時代を読む目があった人物のようで、羽柴秀吉が播磨姫路城に入ると降伏、自身の嫡子宇喜多秀家を秀吉に人質にするなどした。秀家は関ヶ原の戦いで西軍の先鋒を務めるなど活躍したが、戦後に西軍の中心武将と見られて流罪となり、大名としての宇喜多氏は滅んだ(子孫は流罪先の八丈島で家系を保ち、現在も同島で墓を守り続けている)。

四国

東四国(阿波・讃岐)は近畿に近いだけでなく、細川氏の勢力基盤でもあったから、近畿の政争にしばしば巻き込まれた。しかし、周囲に敵たる勢力は存在せず、長宗我部氏の四国統一戦までほぼ領主の顔ぶれは替わらなかった。

阿波は細川氏が支配した。後に、撫養の三好氏に実質的に取って代わられるが、細川氏自体は江戸時代まで阿波屋形として存続した。戦国時代には勝瑞城が阿波統治拠点となった。讃岐は東讃岐は守護代の安富氏が統括していたが、のち三好氏一族の三好長正(十河一存)を迎え入れた木田郡・植田一族の十河氏が三好氏の代官として勢力を伸ばし、早い段階で東讃岐を総括した。西讃岐は守護代の香川氏毛利氏などと結んで当初は三好氏と対立するが、善通寺合戦後、三好氏の支配下に入った。しかし三好氏が衰えると彼らは織田氏へなびくようになる。

伊予は守護の河野氏が中予、伊予宇都宮氏が大洲一帯、西園寺氏が南予を割拠したといわれる。地理的に細長く山岳地帯が多い上に、中国・九州と近いために常に毛利氏・大友氏の干渉に晒されることになり、一国を統一し他国へ侵略するような勢力を持てずに終わった。しかし、長宗我部の侵略に際しては頑強に抵抗した。

土佐の守護は細川氏であるはずだが、七守護(土佐七雄)と称した豪族が土佐中央部に割拠、幡多郡に疎開してきた一条氏を盟主と仰いだ。一条氏は七守護の3倍強の力を持って土佐政治に関与した。のち、一条氏の援助によって再興成った長宗我部国親・長宗我部元親が七守護や一条氏を追放して土佐を統一する。そして土佐平定後10年かけて1585年に四国を統一した。淡路は守護・細川氏が統治していた。

のち、秀吉の四国攻めのため長宗我部氏は土佐一国に押し込められる。戦後処理を見てみると、秀吉は阿波に蜂須賀家政、讃岐に仙石秀久、伊予に小早川隆景と信任できるメンバーを集めている。

九州

九州の武家平家方だったため、鎌倉幕府を開いた源頼朝の信頼は薄く、頼朝は、九州の抑えとして、関東では無名に近いが近臣として取り立てていた少弐氏大友氏、島津氏を代官的存在として九州の守護とし、鎌倉時代、筑前肥前豊前は少弐(武藤)氏、筑後肥後豊後は大友氏、薩摩大隅日向が島津氏と九州の統括体制がなされ、その下に地頭として平安時代以来の松浦氏秋月氏蒲池氏菊池氏などの元平家方の武家が盤踞していた。戦国時代当初、少弐、大友、島津の三氏は権益を守るべく、また地頭出自の諸国の国人豪族は自立するべく、戦いが展開していった。

しかし、少弐氏の勢力は九州探題に敵対したために室町時代後期には既に衰えており、宗像氏麻生氏など筑前・豊前の国人は中国地方の大内氏の影響を受けた。少弐氏は肥前・対馬の兵を率いて大内氏掃討に何度も筑前に侵入するが、逆に大内氏の側についた龍造寺氏の下克上により滅ぼされた。この大内氏が陶氏によって滅ぼされると肥前は自立、筑前と豊前は大友氏の干渉を受けた。陶氏を滅ぼした毛利氏友族が両国に存在したため毛利氏と大友氏は北筑前にて戦いを展開する。

大友氏は豊後を拠点に南筑後の蒲池氏を筆頭とする筑後十五城が盤踞する筑後、さらに阿蘇氏相良氏の肥後に勢力を伸ばした。陶氏が大内氏を滅ぼすと、これを支援し、豊前・筑前をも得た。また大友宗麟は同時にキリスト教を保護し南蛮貿易を盛んにした。しかし大友氏は島津氏との耳川の戦いで大敗、家臣や幕下の国人の離反が相次いで急速に衰えていく。それを機会に肥前では少弐氏に対する謀反で勃興した龍造寺氏が勢力を拡大、龍造寺隆信の代になってほんの一時期、大友・島津と肩を並べるまでに伸張したが、沖田畷の戦いで隆信が戦死すると急速に衰え、やがて重臣の鍋島直茂が替わった。

島津氏の戦国時代は一族内部の争いで始まった。しかし分家の島津忠良の子・島津貴久が本家を継いだ。祁答院氏菱刈氏肝付氏などの数多いた豪族と戦いに明け暮れ、その後、島津貴久の息子の島津義久の指揮の下、薩摩・大隅を統一。木崎原の戦い以後は伊東氏を平らげ、大友宗麟との耳川の戦いで大勝利を収め、薩摩・大隅・日向三州統一を完全なものにし、九州統一戦を開始した。残すは筑前・豊前のみというところで豊臣秀吉の中央軍の介入が始まり、降伏した。

軍事

戦国時代の諸勢力は、必ずしも全期間絶え間なく合戦に明け暮れていたわけではないが、少なくとも勢力間において発生する諸問題の解決に際して行使可能な手段として、武力、すなわち軍備の果たす役割に注目が集まる傾向にあったことは確かであり、諸勢力は軍備の整備・維持・向上に意を払っていた。

そして、これは戦国大名や国人・土豪層はもとより、宗教組織や、自治組織においても同様である。宗教組織は、依然として僧兵組織の維持や、戦闘拠点となりうる寺院の造営に力を振り分けた。あるいは、自治組織においても、矢倉や塀、環濠のような防御施設の構築、牢人の傭兵化を行った。彼らの中には、特殊な戦闘技術を発達させ、忍者集団となったものもいる。

さらには、一部の公家も限定的とはいえ、必ずしも自衛目的のみとは言えない軍事活動に自ら携わるなど、あらゆる階層を通じて、ある種の“力に対する信奉”があったことは注目される。

合戦

戦国時代における合戦には、大名同士の示威行動や小競り合いといった、低強度の武力闘争から、領地支配を巡っての軍同士の衝突、城を舞台にした攻城戦、籠城戦、戦国時代に含めるか否かは別として、少なくとも戦国時代の延長線上にはある関ヶ原の戦いのように、連合勢力同士の会戦・決戦といった、後の国家総力戦にある程度擬し得る戦争形態、さらには、外征戦争である文禄・慶長の役まで、多様な戦争形態が見られる。

武力紛争の総数から見れば、その大部分は、隣接する非友好的な勢力が互いに、領地、あるいは、影響を及ぼし得る勢力圏の境境付近において繰り広げる小競り合い・抗争レベルの応酬であった。この中には、敵兵力に対して実力を行使するだけでなく、隣接勢力に対する嫌がらせの意味も含め、日常的な焼討ちや、稲薙ぎ・麦薙ぎといった耕作妨害も含まれており、結果として、そのエスカレーションが、大規模な軍事行動を誘引する面もあった。

合戦においては武将が名乗りを上げ、それに敵武将が呼応する形で武将同士の一騎討ちで決着を付けることも多くあった。討ち取った武将の首は持ち帰り、これが多いほど手柄とされた。

1543年大隅国種子島にたどり着いたポルトガル人から種子島時尭鉄砲火縄銃)を買い取ったのが、日本への鉄砲伝来とされるが、鉄砲の戦闘への導入は大きな軍事的革命であった。これまでの騎馬、長束、刀剣といった武器に鉄砲が加わり、鉄砲隊を組織するようになった。1575年の長篠の戦いでは織田信長は多数の鉄砲を用意して武田勝頼の騎馬隊に壊滅的なダメージを与えた。1584年の沖田畷の戦いでは島津家久有馬晴信連合軍が数で勝る龍造寺隆信軍を鉄砲隊による奇襲で破り竜造寺隆信を戦死に追い込んでいる。

各勢力の軍事力には地域差が存在した。織田信長が統一戦のなかで積極的に大砲を使用したのに対して、豊臣秀吉はあまり大砲を使用しなかった。信長は主に技術水準の高い畿内とその周辺の勢力との戦いが多かったのに比べ、秀吉は外域の勢力との戦いが中心だった。そのため大砲を使用する必要性が薄かった[9]。文禄2年(1593年)、肥前・名護屋に参陣した陸奥の大名・南部信直は豊臣軍の軍事力に驚嘆し、やや自虐的に「このたびの御陣など見ずして在所にある人は、誠に虻、蚊にも劣りたるていにて候、唐土・天竺・日本三国のゆるぎたてる御弓矢、末世末代未来にもこれあるまじく候」と記している[10]。戦国・織豊期の軍事力の地域差は非常に大きかったのである。

城と築城

姫路城
松本城

江戸時代の姫路城に見られるような、城郭全体に主要構造として石垣が及び、礎石建物で瓦葺屋根に漆喰塗籠という織豊系城郭や後の近世城郭の特徴[11]は織田信長の岐阜城安土城などが築かれたころに登場したものである[11]。戦国時代に築城あるいは使用されたの大部分は、基本的に土を盛ったり掘削したりして築く「土の城」であり、石垣は部分的に用いられた程度であった。[注釈 1]

戦国時代の城は従来、室町時代に普及した詰の城として使われる「山城」と生活区域の「居館」との関係性と同じように、防御施設としての山城と山城の麓の「根小屋」[注釈 2]と呼ばれる居館の二元構造と考えられてきた[12][13]。1945年以前、日本の考古学調査は戦国時代の城跡では安土城の天主台と本丸部分で行われたのみで、考古学の対象となっていなかったが、1970年代に田中角栄によって提唱された日本列島改造論によって国土開発が積極的に行われるに当たって、中世の城跡も発掘調査の対象となった。そのころ行われた小谷城の発掘調査によって山上に礎石建物が出土したことから、山城に住居施設が存在したことがわかり、観音寺城置塩城などでも同様の構造が判明した。なお、小谷城と観音寺城は山麓に居館があったことがわかっている。また、小谷城跡山上からは37,000点の陶磁器の出土があり、このうち食器や灯明に使う素焼きの小皿「かわらけ」が36,000点以上を占めており、小谷城では山上に生活施設があったことが推定されている。これらのことから、戦国時代後半には守護大名や戦国大名などは山麓だけではなく山上にも生活施設を設けて、機能によって使い分けていたと中井均は考えている[12]。また、石垣については従来1576年築城の安土城に始まるとされていたが、それ以前の15世紀後半にも高さ4メートルほどの石垣が積まれた城郭が築かれていたことがわっている。[12]

近年においては、各戦国大名がそれぞれ得意とし、特徴を持つ築城術を個々に扱った研究も進んでいる。これは各戦国大名固有の戦術ドクトリンとも密接に関連しており、甲斐武田氏領内における城を中心として見られる迎撃と射撃が補完し合う拠点としての丸馬出や、関東の後北条氏領内や九州北部地域の城を中心として見られる侵攻経路を管制する竪堀、あるいは、火縄銃が多く流通した畿内を中心として見られる射撃拠点としての望楼を多く伴う城など、地域ごとにさまざまな縄張りへの工夫が見られる。16世紀末期になるとこれまでの軍事的拠点としての山城から、商業・経済の中心は平地や沿岸部に築城した平城城下町へと移っていった。[注釈 1]

経済と社会

中世の列島社会は生産力水準から、畿内近国地域・中間地域・辺境地域(先進地帯・中間地帯・後進地帯)の3つの地域に分類されている[14][15]

中世の日本列島では、米と麦の二毛作が普及し、15世紀の畿内では三毛作を実施している地域も存在した[16](ただし、二毛作が積極的に行われたのは畿内や西日本であって、東日本では殆ど行われなかった[17])。麦は米と違い非課税で収穫のすべてが農民のものとなる。そのため農民にとって二毛作の重要性は高かった[18]。中世の日本の農業生産は、二毛作の普及のほか用水の整備、土地の改善によって大きく向上していった[19]。一方で戦国時代は小氷期の到来と一致しており、一部識者はこの寒冷化による農作物の減少が戦国時代の原因という説を発表している[20][21]東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は幕府体制の崩壊の一因となった。そして自国の領民を救うには他国の富・食糧を奪う必要が生じてそれが戦乱を生んだという見方もある。[要出典]

戦国時代は戦乱の影響もあって人や物の流動が活発化し、貨幣の持つ相対的な価値が向上した。戦国時代初期には勘合貿易および一種の密貿易である私貿易といったとの貿易や南蛮貿易によって、から舶来品だけでなく大量の銅銭の導入を図り、貨幣経済の確立をなしとげる段階にあった。また、ヨーロッパ人の来航とともに金銀比価の関係から、金銀の輸出入が盛んになった。世界遺産にも登録された石見銀山に代表される、金山銀山の運営が経済の発展に伴い重要性を増した。この頃、金銀の品位改善のための灰吹法や砂鉄による生産などといった新技術も導入された。金山・銀山の保持が主目的の城砦も築かれ、金山・銀山といった権益が絡む戦国大名同士の争いが繰り広げられることもあった。

1568年に織田信長が上洛するとこれまでの問丸株仲間を排斥し楽市・楽座により自由な市場取引を推奨した。その後の豊臣政権においても直轄地および全国の大名領において楽市・楽座が推進された。 市場取引の活発化にも伴い、これまでの領国貨幣から、統一貨幣の発行も秀吉により行われた。

その一方で農村部では各地に存在した荘園は戦国大名や国人領主による押領の対象となり、荘園制は解体する。だが、徴税体制の中に依然として従来の名体制職の体系を継承した部分も残されたものの、次第に大名主導による年貢などの負担の平均化が進められた。また、一地一作人原則が確立されて土地に対する借耕が盛んになり加地子作徳分が成立するようになる。戦国大名の元で大規模な新田開発や灌漑整備が進められ、築城技術で培われた土木技術が農業面でも応用された。『拾芥抄』によれば100万町歩とされた全国の田畑面積が、慶長年間の慶長日本図編纂においては160万町歩であったとされている。更に各地で米以外の特産物も盛んに生産されるようになり、山城・大和の紀伊蜜柑などが知られるようになった。また、木綿栽培が普及したのもこの時期である。

商業中心地としては、ハブ港としての役割を担った博多が栄えた。拠点間輸送には水運が多用され、東南アジア地域の輸送ネットワークの一部としても機能していた。堺の繁栄は特に顕著で、会合衆である納屋衆による合議制の元、自治を行い、都市全体にを巡らし、牢人傭兵として雇うなど、戦国大名による支配も拒絶していた。他の都市としては、京都や、地方では山口小浜品川湊なども集積地や中継拠点としての役割を果たしている。

戦術の個人戦法から集団戦法への変換は、武器や甲冑の需要を増し、刀鍛冶らの職人も、それまでの銘物としての一品生産を中心とする生産方法から、ある程度の使い捨てを念頭に置いた大量生産を行うようになった。さらに、火縄銃など火器類の流入は、従来、非常時には徴発によってかなりの部分を賄いえていた軍需物資に、火薬など大量消費型の品々を加えることになり、ロジスティクスの重要性が高まった。茶屋四郎次郎のように、いわば“死の商人”として戦国大名の兵站を請け負う商人も出現した。

「食うための戦争」と民衆

藤木久志は著書『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社)などで、戦国大名の英雄的な活躍の影で繰り広げられた雑兵たちの「食うための戦争」について論じている。

武士たちのぶつかり合いによる戦闘という戦場の一般的なイメージの裏で、雑兵たちは戦闘以上に「乱取り」と呼ばれる略奪行為に熱中していた。放火や刈田による略奪、そして一般民衆や農民を奴隷として拉致するという、現在であれば戦争犯罪にあたる行為が、戦国時代の戦場では(すくなくとも行っている側からは)認められていた。農民から徴用されたばかりの足軽にとって、手柄をあげない限り報酬は出ないが名のある武将を討ち取るのは難しく、また、大名の方でも彼らの士気が下がらないようにしなければならないため、兵たちの乱取りを黙認あるいは推奨した。藤木によれば、越後の上杉謙信(長尾景虎)は他国出兵を積極的に行っているが、これは短期(北信濃)・長期(関東)に関わらず冬期に行われており、「出稼ぎ」と「口減らし」の性格を持つものだという。

奴隷狩りと略奪は各地で行われた記録が残り、キリスト教宣教師を通じて海外へ売り払われた人々もいた。こうした背景から豊臣秀吉は1587年天正15年)にバテレン追放令を発布してキリスト教を禁じている。

なお戦地での略奪以外の刈田は対立する大名領の収穫量を減らし、経済力を奪う目的の謀略という性格が強かった。

文化

戦国時代初期の文化は北山文化東山文化と同様に、禅宗などの強い影響を受けている。下克上を旨とする戦国時代の気風は文化をも覆い、次第に豪壮を旨とする桃山文化の発露への布石となる。

特に、千利休による茶の湯の大成は、の思想に基づく“わびさび”の美意識と、豊臣秀吉の発案との言い伝えを持ち、美醜について大きく意見の分かれる“金の茶室”という極限的な豪壮さを一つに内包したものと言え、今も日本文化全体に強く影響している。

戦国時代に活動した画家には雪舟等楊雪村周継土佐派土佐光信狩野派狩野元信長谷川等伯らがいる。また、室町時代から文芸や画を嗜む武将が現れると、現在においても作品の美術的価値が評価される武家の人物には、『図』(土岐の鷹)の土岐頼芸や、『武田信虎像』・『大井夫人像』で両親の肖像を残した武田信廉らがいる。

文化の担い手としての天皇や公家は、この戦乱の時代には、文化の相伝に存在意義を見出すことを強いられ、自らも見出していた。東常縁細川幽斎(藤孝)といった文化人の武家をも巻き込んで有職故実古今伝授という文化の相伝を続けた。彼らは戦乱を避けて地方に疎開することもあった。土佐の南画などはそのようにして伝わった。

公家社会でも近衛家のように足利将軍家と婚姻を結び、地方の大名・武士と朝廷との間を取り持つことで社会的な地位をある程度まで保った層から家領を武士に奪われて生活に困窮し地方に疎開するだけの人脈も持てずに没落した層まで様々であった。永正16年(1519年)に発生した越水城の戦いを巡る当時の近衛尚通の日記『後法成寺関白記』と鷲尾隆康の日記『二水記』を比較すると両者の違いが明らかとなる。近衛尚通の元には合戦当事者を含めた武将やその家臣、僧侶など様々な身分の相手から情報が寄せられて合戦の事情を把握していることが分るのに対して、鷲尾隆康は公家社会の風説を聞いて「恐怖」するのみであったことが知ることが出来る。後者のような公家は武士層など他の階層とのつながりも持つことなく、やがて歴史の中に消えていくことになる(実際に鷲尾家は隆康の代で断絶して江戸時代初期になってようやく再興されている)[22]

武家は名家のみならず、新興の勢力も文化振興に寄与している。これは、文化を取り込んで箔付けするという面が強いが、動乱の時代に文化によって心を休めるという、安らぎを求める思いのあらわれとしても捉えることができる。周防の大名・大内義隆が京の貴族を多数招いて山口を京化することに尽力したのはその例である。

宗教

宗教については、日蓮宗や浄土真宗といった厭世気分と免罪への求心から発しその後救世への渇望と強い結束を見せた宗派の布教が成功している。その一方、伝来したキリスト教も広がりを見せていく。

日本は飛鳥時代の仏教伝来より、神仏習合に基づいた神や仏への信仰が篤かったが、戦国時代には、さらに天道思想が戦国武将に広がり、「天運」を司るものと認識され、仏教・儒教と神道が結合した、天道思想を共通の枠組みとした「諸宗はひとつ」という日本をまとめる「一つの体系ある宗教」を形成して、大名も含めた武士層と広範な庶民の考えになり、日本人に深く浸透されるようになった[23]

戦国時代の国土認識

戦国時代初期、大和興福寺・別当の尋尊は「大乗院寺社雑事記」文明9年(1477年)12月10日条に、「就中、天下の事、さらにもって目出度き子細これなし。近国においては、近江美濃尾張遠江三河飛騨能登加賀越前大和河内、これらはことごとく皆御下知に応ぜず。年貢など一向に進上せざる国共なり。その外は紀州摂州越中和泉、これらは国中乱るゝの間、年貢などの事是非に及ばざる者なり。さて公方御下知の国々は播磨備前美作備中備後伊勢伊賀淡路四国などなり、一切御下知に応ぜず。守護の躰たらく、則躰においては御下知畏み入る由申し入れ、遵行などこれをなすといえども、守護代以下在国の者、中々承引能はざる事共なり。よりて日本国は、ことごとく御下知に応ぜざるなり」と記し、現在の中国、四国、近畿東海北陸を以て日本国のことごとくであるとしている[24]

一方、戦国時代末の天正9年(1581年)、織田信長は毛利氏との決戦の意思を明らかにした際、「今度、毛利家人数後巻として罷り出づるに付いては、信長公御出馬を出だされ、東国・西国の人数膚を合せ、御一戦を遂げられ、悉く討ち果たし、本朝滞りなく御心一つに任せらるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り候」と語り、東国(織田領)と西国(毛利領)を合わせれば本朝は滞りない状態であるとしている[25]

豊臣政権期には国土認識について変化が見られた。ルイス・フロイスは、九州平定の前年の天正14年(1586年)10月17日付書簡では豊臣秀吉のことを「ほぼ全国の君主」としていた。しかし九州平定の翌年、天正16年(1588年)には秀吉を「日本全国の絶対君主」「日本全国の国王」と呼ぶようになっており、豊臣政権期には九州が日本国の一部と認識されていたことがわかる[26]

参考文献

* 西島太郎 著「戦国大名論」、渡邊大門 編『真実の戦国時代』柏書房、2015年。 

注釈

  1. ^ a b 「日本の近世城郭は16世紀第4四半期に原型が成立し、17世紀第1四半期にもっとも複雑化した。16世紀第3四半期までは日本の拠点城郭(戦国期拠点城郭)はそれぞれの地域性を色濃く備えた。そうした戦国期拠点城郭のプランに表れた地域性は、築城主体であった権力構造の反映であった。そうした地域性は巨視的に見れば城郭構造の求心・階層構造を指向したものと、並立的な城郭構造を指向したものに区分される。」千田嘉博「戦国領主と城郭」『文化財学報』27集、奈良大学文学部文化財学科、2009年3月、47-54頁。 
  2. ^ 「根小屋」という用語について香川元太郎は、城の前に形成された家臣屋敷の集合集落としている。(香川元太郎 2012, p. 72)

脚注

  1. ^ 西島太郎 2015, p. 13、国会図書館蔵書の使用例の最古書は、教育資料研究会(編)『高等小学校外日本歴史』第4編巻1巻2 目次第7「戦國時代」、1873年(明治6年)
  2. ^ 遠藤ゆり子 編『伊達氏と戦国争乱』吉川弘文館〈東北の中世史〉、2015年、3頁。 
  3. ^ 渡邊大門 編『真実の戦国時代』柏書房、2015年、220頁。 
  4. ^ 遠藤 2015, p. 2.
  5. ^ 遠藤 2015, p. 6.
  6. ^ 山本浩樹 編『西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年、8頁。 
  7. ^ a b 垣内和孝「伊達政宗と南奥の戦国時代」『伊達政宗と南奥の戦国時代』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-02938-4 P182-201
  8. ^ 恩田浩孝『座禅院昌尊の生涯 日光山の終焉と上三川 今泉家』随想社、2015年、182頁。 
  9. ^ 朝尾直弘 「十六世紀後半の日本」 『日本通史』第11巻・近世1 岩波書店、1993年、p.25。
  10. ^ 朝尾、1993年、p.53。
  11. ^ a b 香川元太郎『城』学習研究社〈歴群[図解]マスター〉、2012年。ISBN 978-4-05-405448-6 
  12. ^ a b c 中井均著、『城館調査の手引き』山川出版社、2006年、ISBN 978-4-634-15091-1
  13. ^ 西ヶ谷恭弘ほか著『城郭の見方・調べ方ハンドブック』東京堂出版、2008年、ISBN 978-4-490-20636-4
  14. ^ 川岡勉 「武家権門の成立と西国領主 : 伊予国の事例から」 『 愛媛大学教育学部紀要. 第II部, 人文・社会科学』26(1) 愛媛大学教育学部、1993年、p.11。
  15. ^ 北西弘 「[ https://otani.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2998&item_no=1&page_id=13&block_id=28 戦国大名と本願寺--武家門徒の問題をめぐって]」 『大谷学報』41(3) 大谷学会、1962年、p.16。
  16. ^ 西谷正浩  「中世後期における山城国上久世荘の農業生産」 『福岡大学人文論叢』47 福岡大学研究推進部、2015年、p38。
  17. ^ 西谷、2015年、pp.40-41。
  18. ^ 西谷、2015年、pp.38-39。
  19. ^ 西谷、2015年、pp.41-42。
  20. ^ 石井彰 (2009年9月24日). “戦国時代は寒冷化による食料争奪サバイバル戦争だった”. 日経ビジネスオンライン. 2017年12月16日閲覧。
  21. ^ “平安、戦国の動乱「寒冷」が一因?”. 読売新聞. (2016年11月9日). http://premium.yomiuri.co.jp/pc/?seq=02#!/news_20161108-118-OYTPT50363/list_NEWS%255fMAIN_6 
  22. ^ 湯川敏治「戦国期の公家」『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会、2005年。ISBN 978-4-7971-0744-9 
  23. ^ 神田千里『宗教で読む戦国時代』〈講談社選書メチエ〉2010年、49-87頁。ISBN 978-4-06-258459-3 
  24. ^ 有光友學 編『戦国の地域国家』吉川弘文館〈日本の時代史12〉、2003年、16頁。 
  25. ^ 太田牛一、「信長公記」巻14、八月朔日御馬揃への事。
  26. ^ 松本和也 「宣教師から見た信長・秀吉」 堀新(編) 『信長公記を読む』 吉川弘文館、2009年、pp.124-125。

関連項目

外部リンク