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'''南京事件'''(なんきんじけん)は、[[1937年]](昭和12年)12月の[[南京戦]]において[[日本軍]]が[[中華民国]]の首都[[南京市]]を占領した際、約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって、[[日本軍]]が[[国民革命軍|中国軍]]の[[捕虜]]、敗残兵、[[便衣兵]]、そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して{{要検証範囲|殺傷や暴行|date=2019年3月}}を行ったとされる事件。戦後[[南京軍事法廷]]や[[極東国際軍事裁判]]で裁かれた。南京大虐殺、南京大虐殺事件、南京虐殺事件 など多様な呼称がある([[#名称の種類と変遷|後述]])。事件の規模、虐殺の存否、[[戦時国際法]]違反か否か、犠牲者数などの論争が存在している([[南京事件論争]])。事件の真相はいまだ不明であり<ref>長谷川啓之「南京」「現代アジア事典」文眞堂, 2009</ref><ref name=Kennedy>[[:en:David M. Kennedy (historian)|David M. Kennedy]],[http://www.theatlantic.com/past/issues/98apr/horror.htm The Horror],The Atlantic Monthly 281 (4): pages 110–116,April 1998.[[塩谷紘]]訳 デビッド・M・ケネディ「南京虐殺はホロコーストではない」『諸君!』平成10(1998)年8月号</ref>、{{要検証範囲| 万人が納得するような説明はいまだなされていない<ref>[[#Kennedy(1998)|Kennedy(1998)]]は「南京虐殺事件の背景について万人が納得するような説明はいまだなされていない」とする。</ref>とする意見がある。|date=2019年3月}}
'''南京事件'''(なんきんじけん)は、[[1937年]](昭和12年)12月の[[南京戦]]において[[日本軍]]が[[中華民国]]の首都[[南京市]]を占領した際、約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって、[[日本軍]]が[[国民革命軍|中国軍]]の[[捕虜]]、敗残兵、[[便衣兵]]、そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して{{要検証範囲|殺傷や暴行|date=2019年3月}}を行ったとされる事件。戦後[[南京軍事法廷]]や[[極東国際軍事裁判]]で裁かれた。南京大虐殺、南京大虐殺事件、南京虐殺事件 など多様な呼称がある([[#名称の種類と変遷|後述]])。事件の規模、虐殺の存否、[[戦時国際法]]違反か否か、犠牲者数などの論争が存在している([[南京事件論争]])。事件の真相はいまだ不明であり<ref>長谷川啓之「南京」「現代アジア事典」文眞堂, 2009</ref><ref name=Kennedy>[[:en:David M. Kennedy (historian)|David M. Kennedy]],[http://www.theatlantic.com/past/issues/98apr/horror.htm The Horror],The Atlantic Monthly 281 (4): pages 110–116,April 1998.[[塩谷紘]]訳 デビッド・M・ケネディ「南京虐殺はホロコーストではない」『諸君!』平成10(1998)年8月号</ref>、{{要検証範囲| 万人が納得するような説明はいまだなされていない<ref>[[#Kennedy(1998)|Kennedy(1998)]]は「南京虐殺事件の背景について万人が納得するような説明はいまだなされていない」とする。</ref>とする意見がある。|date=2019年3月}}


{{要検証範囲|南京事件は、事件直後から米英の報道機関によって報道されており、日本政府や日本軍に関連した記録の中にも事件直後に行為を認知したとの事実が存在している<ref>『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』服部龍二、中央公論新社〈中公新書〉2008年、p.184-185 p260。「破滅への道―私の昭和史、上村伸一、鹿島研究所出版会、1966年 81頁。「外交官の一生」、石射猪太郎、中公文庫 332‐333頁</ref>|date=2019年3月}}一方、現地に残留していた米国人宣教師の創作を中国政府が利用したものとする主張<ref>{{Cite book|author=池田悠|title=正論12月号 検証!「南京事件」の発信源|date=|year=2018|accessdate=|publisher=産経新聞社}}</ref>もある<!-- 特定人物の特別な主張。導入部には不適切な記述 -->
{{要検証範囲|南京事件は、事件直後から米英の報道機関によって報道されており、日本政府や日本軍に関連した記録の中にも事件直後に行為を認知したとの事実が存在している<ref>『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』服部龍二、中央公論新社〈中公新書〉2008年、p.184-185 p260。「破滅への道―私の昭和史、上村伸一、鹿島研究所出版会、1966年 81頁。「外交官の一生」、石射猪太郎、中公文庫 332‐333頁</ref>|date=2019年3月}}一方、発信源はほぼ全て、現地に残留した米国人宣教師たちであることが明らかになっており、彼ら宣教師による事件の創作を中国政府が利用したものとする主張<ref>{{Cite book|author=池田悠|title=正論12月号 検証!「南京事件」の発信源|date=|year=2018|accessdate=|publisher=産経新聞社}}</ref>もある。


日本国外務省によると、日本政府は、日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないが、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えている、という<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/index.html 歴史問題Q&A]外務省ホームページ</ref>。
日本国外務省によると、日本政府は、日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないが、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えている、という<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/index.html 歴史問題Q&A]外務省ホームページ</ref>。

2019年3月27日 (水) 13:44時点における版

南京事件(なんきんじけん)は、1937年(昭和12年)12月の南京戦において日本軍中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって、日本軍中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵、そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行[要検証]を行ったとされる事件。戦後南京軍事法廷極東国際軍事裁判で裁かれた。南京大虐殺、南京大虐殺事件、南京虐殺事件 など多様な呼称がある(後述)。事件の規模、虐殺の存否、戦時国際法違反か否か、犠牲者数などの論争が存在している(南京事件論争)。事件の真相はいまだ不明であり[1][2]万人が納得するような説明はいまだなされていない[3]とする意見がある。[要検証]

南京事件は、事件直後から米英の報道機関によって報道されており、日本政府や日本軍に関連した記録の中にも事件直後に行為を認知したとの事実が存在している[4][要検証]一方、発信源はほぼ全て、現地に残留した米国人宣教師たちであることが明らかになっており、彼ら宣教師による事件の創作を中国政府が利用したものとする主張[5]もある。

日本国外務省によると、日本政府は、日本軍の南京入城後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないが、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えている、という[6]

背景と経緯

上海戦から南京戦へ

1937年7月に始まった日中戦争で当初は華北から戦闘が始まり、その後、双方とも兵員を動員する中、ドイツ軍事顧問を得ていた蒋介石は、国際都市上海にて日本軍をおびき寄せて殲滅する作戦を立てた。その結果、8月に主戦場は上海に移った[7]。日本側も、中国に対して一撃を加えれば大人しく引き下がるものと考えており、暴支膺懲(乱暴な中国をこらしめる)というスローガンを世論に利用し、対決姿勢をとる。日本陸軍は上海派遣軍を送り、上海において、日中両軍の激しい戦闘が起こった(第二次上海事変)。日本海軍は8月より日本海軍機による首都南京への空襲(渡洋爆撃)を開始し、国際社会より非難された[8]

8月5日、陸軍次官は「ハーグ陸戦条約の精神に準拠し」「交戦規定の一部(害敵手段の選用)は努めて尊重」するとしながら、別の箇所で「これを厳密遵守とまでしなくてよい」こととし、「捕虜という名称もなるべく使わない」ように現地軍に通知した[9]。その結果、現場の将校までが「軍の規律を求めた松井石根軍司令官の通達」を無視した行動を行ったり[10]、また上海戦において、日本軍人が戦友の多くを失い、中国側への復讐感情を芽生えさせたと秦郁彦は指摘する[11]

他方日本外務省は、10月に中国に駐在するドイツ人外交官のトラウトマンを仲介とする、トラウトマン和平調停工作を開始した。

中国軍の抵抗もあって、日本側は予想に反して苦戦を強いられたが、11月5日には杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われた中国軍は、上海方面より首都南京方面へと潰走した[12]上海戦は、日本軍に多くの戦死者を出し、日本軍人に中国軍への復讐感情を植え付けた[13]

11月7日に上海派遣軍第10軍とともに中支那方面軍(司令官:松井石根)として改編された。11月19日には第10軍が和平工作をすすめる軍中央の方針を無視して、その後上海派遣軍が、撤退する中国軍の追撃を独断で始め、首都南京への侵攻を目指した[14]。12月1日には軍中央が現地軍の方針を追認する形で中支那方面軍に南京攻略命令を下達する[15]

総退却した中国軍は11月の南京高級幕僚会議で、南京固守作戦の方針が決まった。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命し、同時に首都を南京から重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。中国側は南京に防衛線(複郭陣地)を構築して抗戦する構えを見せた。敗走する中国軍は堅壁清野作戦で村や民家を焼き払った[16]

また追撃する日本軍は食糧などを途中の農村地域で略奪しながら進軍した[17]。南京に向かうまでの行程で農村部において日本軍による住民の殺害・強姦・強奪が発生するなどの軍紀の緩みがあった[18]。12月7日に松井石根司令官は略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む「南京城攻略要領」を自軍に示していた。

日本軍が南京城に迫る中、蒋介石ら中国首脳部は南京防衛司令官唐生智と防衛軍を残して、12月7日に南京を脱出した。

日本軍は12月8日には南京を包囲し、12月9日に中国軍に対し無血開城を勧告した。中国軍が開城勧告に応じなかったために、日本軍は12月10日には攻撃を開始した。南京防衛司令官の唐生智12月12日に逃亡した。しかし、南京の中国軍の大半は組織的撤退を知らないか、知らされても安全に逃げられない状況であった。中国兵の中には塹壕に足を縛られて防戦させられる者もおり、唯一の逃避路である北部の長江へつながる挹江門には仲間を撃つことを躊躇しない督戦隊が置かれ、撤退する者との間で同士撃ちが発生した (挹江門事件)。12月13日には中国軍は総崩れとなり、南京城は陥落した。陥落時には南京城の北側から長江の対岸へと逃げようとした非常に多くの兵隊・一般人が、舟もない中で渡河しようとして、大半が途中で溺れて死んだ[19]

南京市の概況

面積

中山門

南京市は東西(中山門〜漢中門)約5.3km、南北(大平門〜中華門)約8kmで、面積は35km2茅ヶ崎市(35.70km2)程の大きさである。城外の下関や水西門市街などを含めると39〜40km2で、鎌倉市(39.67km2)程の面積となる[20]

総人口

南京の人口は、日中戦争以前は100万人以上とされるが、上海事変以来の爆撃や、南京攻撃が近づいて中国政府首脳が重慶に移転したり、富豪などの疎開によって、南京戦当時の人口はかなり減少した[20]スマイス調査によれば、南京攻撃の直前の11月には約50万人(数字にはほかに諸説あり)に半減したが、南京戦直前の12月の人口は諸説あってはっきりしない[21]


南京事件の被害者

南京事件の被害者(南京の一般市民)

南京城内で避難民にまぎれて逃亡を企てた中国軍正規兵を調べる憲兵(毎日新聞昭和13年1月1日発行)

日本軍による南京市民に対する被害は、第二次上海事変の開始直後に起こった8月15日開始の渡洋爆撃と呼ばれる日本海軍機による南京空襲での死傷・戦災が最初であり、中国側の記録では10月までの二か月(その後も続く)の空襲で400人近くの市民が死亡した[22]。日本軍の空襲によって、多くの南京市民が市街から遠方に避難し始め、100万人を越えるとされた南京城市の人口は大きく減少し、一方で11月に日本陸軍の中支那方面軍が南京周辺の広大な農村地域の近郊六県を含む南京行政区に進入したため、農村地域等から多くの被災者が南京城市に流れ込む現象も起きた[23]

日本軍による南京城市陥落(12月13日)の前後に、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民が少なからず存在したとされる(城外を出て長江を渡って逃げる途中の市民(婦女子も含む)が兵士とともに銃撃を受けて殺されたとの証言、日本兵による攻撃や暴力で殺害されたとの証言(新路口事件)がある)[24]

ただし、日本軍の南京占領が確定して戦闘が終結した後は、その後も捕虜・敗残兵への組織的な処罰(ないし殺害行為ないし虐殺)はあったものの、城内の一般民間人への暴虐行為は過大にならなかった。その理由として秦郁彦は、南京市陥落前から欧米の宣教師らが組織した南京安全区国際委員会が管理する南京市内の安全区へと[25]多くの被災民が避難したこと、そして一般市民がこの後は欧米による国際委員会に守られていて、日本軍も立ち入りが制限されていたと指摘する[26]。旧日本軍の南京占領時の中国人の南京にて平和に暮らす人々や日本軍と交流する姿を撮影した日本側報道写真の多くは、難民区(安全区)で撮影された[27]

一方で、安全区の外では、南京占領後も、日本軍による、中国民間人の老若男女の殺害事例が、当時安全区にいた欧米人の記録として報告された[28]。日本軍は、南京占領直後に中国側の発電所の技術者も虐殺した[29]ため、日本側が電力インフラの復旧を行った。

南京安全区国際委員会のメンバーによるスマイス調査では、南京市部(南京城区)での日本軍による民間人の殺害・拉致後殺害は計6千6百人と推測し、これを含め総計として1万2千人という推計値を示している。

またスマイス調査では南京城市とその周辺に限定せず、南京を中心とした広大な農村部地域においては2万6千人以上の犠牲があったと推計しているが、これも南京事件の被害に含める見解がある(笠原十九司等)[30]

南京安全区

南京安全区英語版とは、南京戦前の11月、ジョン・ラーベ及びアメリカ人宣教師たち(プラウマー・ミルズ、ジョン・マギーマイナー・シール・ベイツや女性宣教師ミニー・ヴォートリンなどを中心とする約15名)によって、戦災に巻き込まれた市民を救済するという名目で組織された南京安全区国際委員会(別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内に設定した地域である。

安全区設置の実際の目的については、(ヴォートリンの日記に記されていた、安全区設立発案者のミルズの発言'try to encourage and comfort the Chinese army'から)、布教の為に中国軍の支援保護を行うことにあったとする見方がある[31](安全区内に、戦闘中は中国軍の砲台が置かれ、戦闘後は中国兵の潜伏を許したことが確認されているとの主張がある[31])。上海安全区とは異なり中立性に疑義があったため日本からは承認されず、非公式なものであったとの主張もある[31]

この安全区の人口は南京陥落直後は約20万人(諸説あり)との推測値があり、南京城内の南京安全区以外の区域は住民が少ない状況となった[32]

南京安全区(別称:難民区)に対しては、日本軍は砲撃を仕掛けなかった(いわゆる「ラーベの感謝状」[注釈 1])。また占領後も日本軍は組織的な住民虐殺を行っていないが、ただし、安全区内でも個々の暴虐(例:敗残兵狩りによる一般人の誤認逮捕と区外連れ出し後の処刑など)の記録はあり、決して過少ではない[34][35]。また、その後、安全区の人口が5万人ほど増えたとされるが、欧米人が設置した安全区が南京市内の中で安全であり、荒廃した市内などから安全区に移動したとされる[36]なお、安全区の人口については、南京事件論争#人口推移南京事件論争#人口推移の論点を参照。

南京事件の被害者(中国兵)


南京戦では、最も多い殺害事案が、日本軍による中国人捕虜や軍服を脱いで民間人に紛れた敗残兵の組織的殺害であり、その殺害が戦時国際法違反であるかどうかが、問題となった。

中国側の南京防衛軍の当時の全体総数は、6-7万(「南京戦史」偕行社)、10万(秦郁彦説(台湾公式戦史から)、15万(笠原十九司説・孫宅巍説)と諸説あり、その中での捕虜等になる前に戦死した人数や逃亡し終えた人数も諸説がある[37]。南京防衛軍の兵力の諸説は、南京戦#南京防衛軍の総兵力に関する諸説を参照。

また、中国軍の敗残兵には軍服を脱いで民間人に紛れて安全区へ逃走をはかったものが多数あった[38]。これ等の殺害が、戦闘中か戦闘後か、また戦時国際法上、違法行為であるかどうかが、以下の論議で述べられている。


なお、戦時国際法についてだが、日中戦争の当時の戦時国際法として有効なものは、日本と中国の双方が批准したハーグ陸戦条約であるが、その第4条には「俘虜は人道をもって取り扱うこと」となっていたし、第23条には、殺害などの害敵手段として禁止されていることとして、第3項「兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること」や敵兵に対して第4項「助命しないことを宣言すること」とされている。しかし、一方で、日本陸軍は同年8月に陸軍次官名でハーグ陸戦条約の「厳密遵守の必要なし」、「捕虜という名称もなるべく使わないように」、と現地軍に通知していた[注釈 2]。(南京事件論争#投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法を参照)

以下は偕行社の『南京戦史』によるが、『南京戦史』は大雑把な目安であり、正確性には議論がある[42][要出典]

公式文書による捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応
部隊 総数 対応 出典 適用
第114師団歩兵第66連隊第1大隊 1,657
12、13日に雨花門中国語版外で収容
処断 1,657
13日午後
第114師団歩兵第66連隊第1大隊戦闘詳報 雨花台事件
第6師団歩兵第45連隊第2大隊 約5,500
14日午前、下関で収容
釈放
14日午後
第6師団戦時旬報
第16師団歩兵第33連隊 3,096
10日 - 14日、紫金山北方 - 下関附近、太平山、獅子山附近の戦闘間
処断 3,096 歩兵第33聯隊戦闘詳報
第16師団歩兵第38連隊第10中隊 7,200
14日、堯化門中国語版附近
収容 7,200
17日、18日頃、南京へ護送
歩兵第38聯隊戦闘詳報
国崎支隊 (歩兵第41連隊基幹) 120
3日 - 15日
不明 120 第9旅団戦闘詳報
歩兵第41連隊第12中隊 2,350
14日夕、江興洲
釈放 2,350 第12中隊戦闘詳報
第16師団歩兵第20連隊第4中隊 328
14日、安全区中国語版東方
処断 328 第4中隊陣中日誌 「銃殺ニシテ埋葬ス」
第9師団 約7,000
13日 - 14日
処断 約7,000 第9師団作戦記録概要
第9師団歩兵第7連隊 (6,670)
安全区掃蕩間
処断 (6,670) 歩兵第7聯隊戦闘詳報
戦車第1大隊第1中隊 (320)
14日、掃蕩間
処断 (70) 第1中隊戦闘詳報 戦争処置
第3師団歩兵第68連隊第1大隊 8 不明 8 第1大隊戦闘詳報
第3師団歩兵第68連隊第3大隊 25 不明 25 第3大隊戦闘詳報
第16師団歩兵第9連隊第2大隊 19 不明 19 第2大隊戦闘詳報
集計 (公式文書) 約27,000 収容 7450、釈放 7850、不明 172、処断 約12,000
公式文書以外による捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応
部隊 総数 対応 出典 適用
山田支隊 (歩兵第65連隊基幹) 8,000
14日 幕府山附近で収容された14,000のうち非戦闘員6,000は釈放
逃亡 7,000、処断1,000
14日夜、4,000が逃亡、残余は観音門へ連行
戦史叢書 いわゆる「幕府山事件」。幕府山事件(山田支隊の捕虜処断は戦時国際法上合法か?)詳細は幕府山事件(山田支隊の捕虜処断)
第16師団第30旅団 約2,000
24日 - 翌年1月5日、安全区内の兵民分離
収容 約2,000 佐々木少将私記』 その他入院中の500は収容
第16師団第19旅団歩兵第20連隊第12中隊及第3機関銃中隊 200 - 300 処断 200 - 300 『小戦例集』、『牧原日記』
第16師団第30旅団歩兵第33連隊 数百
16日、17日、紫金山北方
処断 数百 『佐々木少将私記』
第16師団第30旅団歩兵第38連隊 数百
16日、17日、紫金山北方
処断 数百 『佐々木少将私記』 掃蕩戦間の処分
第16師団第30旅団 数千
24日 - 翌年1月5日、南京近郊、不逞の徒
処断 数千 『佐々木少将私記』 下関にて処分

南京事件の発生原因

南京事件が起きた原因(ただし、規模については論議ある)としての日中両軍の対応について、日中歴史共同研究によると、以下のように評価されている。

日本側の問題としては、宣戦布告のない「事変」であったために日中両国が批准したハーグ陸戦条約を日本陸軍が意識的に徹底せず(戦時国際法関連は南京事件論争#投降兵・捕虜の扱いと戦時国際法説明あり)、そのため中国兵捕虜の取り扱い指針の欠如と占領後の住民保護を含む軍政方針の欠如が発生、また他方、略奪による進軍が原因の軍紀の緩み、非行を取り締まる憲兵の少なさなどが指摘されている[43][44]

また、捕虜となることを恥とする習慣から相手国の捕虜への軽侮につながったことなどが指摘されている[45]。また、日中戦争開始頃からの中国軍から受けた戦闘などの被害(通州事件のような民間人の殺害など)への復仇のために、日本兵が中国軍人などを人道的に扱わなかったとする記録もある[46]

中国側の問題としては、防衛戦の誤り、指揮統制の放棄、民間保護対策の欠如など(南京戦#評価にも記載あるとおり、日本軍の開城勧告に応じずに脱走困難になった部下を見捨てたり、住民保護を怠ったことなど)が指摘されている[43]南京安全区国際委員会ジョン・ラーベも中華民国政府の対応を批判している[43]

欧米人による報道・反応

米英メディアによる報道


当時、南京には欧米人記者5名が駐在しており、日本軍占領後に船で上海に移動したが、5名の記者達は、一部は、ベイツ宣教師から渡された声明[47]をそのまま、一部は声明[47]にアレンジまたは自分の体験を加え、欧米で南京事件を報道した[48]。そして、アメリカの『シカゴ・デイリーニューズ(英語版)』(12月15日付)[49]や『ニューヨーク・タイムズ』(12月18日、19日付)[50]、イギリスの『タイムズ(ロンドン・タイムズ)』(12月20日)[51]のような有力紙の記事、ロイター通信社による新聞記事によって、事件初期の殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為(Nanjing Atrocities)が日本軍によって行われたとして伝えられて報道された[52]。1938年以降も新聞記事や雑誌(アメリカ雑誌「ライフ」誌の特集(1月、5月)で報道される[53]

事件発生後の外国人の反応

当時、南京に在住した欧米人は、日本に家族をおいていた人もいて、(南京戦の前の)南京在住の日本人との交際などから得た好印象を日本に対して持つものもいたし[54]、「日本軍の入城後の秩序の安定」への期待が、南京攻略時に在住した記者の書いた『ニューヨーク・タイムズ』(12月18日)の記事やドイツ人ビジネスマンのジョン・ラーベも記録している[55]。しかし、南京戦後は、日本軍入城前後より戦闘終了後に日本軍が戦時国際法違反を行い、それも人道上、非常に問題ある行為を看過できないほど行ったとラーベ、マギー、ベイツらが記述し、またラーベ、ベイツ、ヴォートリンは中国兵による放火や暴行も記録している[56]

中国政府の対応

中華民国(国民党)


1938年1月に国際連盟の第100回理事会で中国の顧維鈞代表は日本の侵略を訴え、2月2日に理事会は、その前年の10月の総会決議を再度確認(remember)し、日本の軍事行動が九カ国条約及び不戦条約に違反しているとした。中国は経済制裁も求めたが、イギリス・フランスが反対した[57]

国民党の新聞中央日報新華日報は、アメリカの上海新聞Shanghai Evening Post and Mercury(大美晩報),The China Weekly Review(John W. Powell主幹)での事件報道記事の翻訳のみを掲載し、独自取材では事件を報じなかった[58]。当時、中国側の新聞は戦意高揚のために戦勝記事を繰り返しており、外国記事翻訳以外で南京事件を報じなかったのは、南京戦での敗北を報じたくなかったためとされる[58]蒋介石は、1938年7月7日漢口での「日本国民に告ぐ」において、日本軍の略奪、暴行、殺人を非難しているが、南京事件と特定していない[59]蒋介石夫人の宋美齢は、南京の殺戮を1938年1月のアメリカの友人宛ての手紙においてふれていた[60]

中国共産党

事件当時、中国共産党軍は陝西省延安の山岳地帯にいた[61]が、1938年1月1日中国共産党広報誌「群衆」では南京事件を残虐行為としてとりあげている[62]

しかし戦後、中華人民共和国では事件についてほとんど触れられることはなく、1982年の第一次教科書問題をきっかけに、人民日報が初めて「南京大虐殺」を解説したのは1982年8月であった[61]。戦後の中華人民共和国刊行物での記載をみると、中共中央文献研究室編纂『毛沢東年譜』での1937年12月13日欄には、「南京失陥」(南京陥落)とあるだけで、全9冊で6000頁以上あるこの年譜では「南京大虐殺」に一言も触れていない[61]。1957年の中学教科書(江蘇人民出版社)には南京大虐殺が書かれていたが、1958年版の『中学歴史教師指導要領』[63]には「日本軍が南京を占領し、国民政府が重慶に遷都した」とあるのみで、60年版でも1975年版の教科書『新編中国史』の「歴史年表」にも虐殺について記載がない[61]遠藤誉によれば、毛沢東が虐殺について触れなかったのは、事件当時、中国共産党軍が日本軍とは、まともには戦わなかった事実や、国民党軍の奮闘と犠牲が強調されるのを避けたかったためという[61]

日本政府の反応

南京事件発生直後に、日本の東京の外務省に事件の悲惨な情報が入ったため、外務省の石射猪太郎東亜局長が事態を重くみて、陸軍軍務局に伝達したが、その結果、現地の南京総領事が陸軍によって突き上げられる始末であった。広田弘毅外務大臣より陸軍大臣の杉山元への軍紀粛正の要請があり、1月に陸軍参謀本部の本間雅晴が現地に派遣され、その報告を受けて現地の中支那方面軍司令官の松井石根が日本に召還された。ただし広田は閣議では事件を明らかにしなかったために、極東国際軍事裁判では残虐行為に対して不作為と判断された[64][要検証]

また松井石根の後任の畑俊六司令官や第11軍司令官に就いた岡村寧次大将のように当時の南京派遣軍の規律に否定的な評価をした人もいた[65][要検証]

上海戦以前の1937年8月2日、憲兵司令部警務部長通牒「時局に関する言論、文書取締に関する件」では、「国境を超越する人類愛又は生命尊重、肉親愛等を基調として現実を軽蔑する如く強調又は諷刺し、為に犠牲奉公の精神を動揺減退せしむる虞ある事項」などが言論取締りの対象とされた[66][要検証]

戦後の軍事裁判における扱い


1945年6月から1947年3月にかけて敗戦国日本の戦犯裁判にあたって連合国戦争犯罪委員会極東小委員会と中華民国は日本人戦犯合計3147人を選定し、GHQに提出した[67]。1945年冬、国民政府は戦争犯罪処理委員会を設立した[68]1946年2月15日国民政府国防部軍事法廷(南京軍事法廷)が成立した[68]。南京での暴行虐殺事件の「主要罪犯」として選定されたのは第6師団谷寿夫だった[67]。谷は1946年2月に東京で逮捕され、10月南京法廷に送られた[69]

南京裁判

検察報告

1947年2月の南京地方院検察所「敵人罪行調査報告」では、「敵(日本)側の欺瞞妨害など激烈にして民心消沈し、進んで自発的に殺人の罪行を申告する者甚だ少」く、日本軍の暴行を語らないもの、否認するもの、体面を憚って告知しないものがおり、調査は困難を極めたが、「確定せる犠牲者は既に30万に達し、この外なおまだ確証を得ざる者20万人を下らない」とされた[70]。南京で集団屠殺(虐殺)を行った部隊は、中島、畑中、山本、長谷川、箕浦、猪木、徳川、水野、大穂の9個単位であった[70]

南京地方院検察所敵人罪行調査報告書における犠牲者数(1947年2月)[70]
場所 犠牲者数 証言・証拠
新河 2,873 盛世微、昌開運証言
兵工廟、南門外花神廟 7,000余 丙芳縁、張鴻儒証言
草鞋峡 57,418 魯甦証言
漢中門 2,000 伍長徳・陳永清証言
霊谷寺 3,000 漢奸高冠吾の無主孤魂(無縁仏)碑および碑文
その他 155,300 崇善同、紅卍字会埋葬記録
合計 279,586

判決

1947年3月10日南京国防部軍事裁判所(裁判長:石美瑜)は、被告の第6師団司令官谷寿夫に対して次のような事実認定と判決を下し、死刑を申し渡した[71][72]

公訴事実[71]
  • 谷寿夫率いる第6師団は、中国軍の強力な抵抗に対してその恨みを晴らそうと入城後計画的な虐殺をおこない報復した。先鋒部隊の谷部隊は12月12日暮方、中華門を攻略し、虐殺が始まった。翌13日朝、中島・牛島・末松などの部隊と南京市各地区に分かれて大規模な虐殺、放火・強姦・略奪をおこなった。安全区の外国人は抗議したが、日本軍指導者は放置した。 虐殺がひどかった時期は12月12日から12月21日までで、中華門外の花神廟・宝塔橋・石観音・下関の草鮭峡などで日本軍は集団射殺し、遺体を焼却し証拠隠滅を図った。この虐殺による中国軍人・民間人の犠牲者は19万人余で、このほか遺体を慈善団体が埋葬したものが15万体余りあり、合計30万人余となった。
事例
  • 12月12日、農村民の王徐夫人は中華門外下埠頭で日本軍にさらし首にされた。
  • 13日、村人魏小山は谷部隊が中華門堆草巷に放火中に殺され、僧侶2名、尼僧3名は中華門外の僧庵で殺された。
    • 陶湯夫人は中華門東仁厚里五号で日本軍に輪姦されてから腹部を切り開かれた。
    • 妊婦蕭余、16歳の少女黄桂英、陳姉妹、63歳の婦人が中華門地区で暴行された。
    • 農村の少女丁は中華門堆草巷で、日本兵13に輪姦後殺された。
    • 13日から17日にかけて中華門外駐屯日本軍は、村人30人余に水に入って魚を捕ることを強制し、従った者は凍死し、拒否した者は殺された。
    • 老人を木の枝に縛って吊し、射撃練習をした。
    • 日本軍の将校二人が殺人競争をおこない、一人は105人、もうひとりが106人を殺した。
    • 日本軍は中華門外で少女を強姦した後、通りかかった僧侶に強姦を強要し、僧が拒絶すると宮刑に処して殺した。中華門外土城頭で3人の少女が日本軍に強姦された後、自殺した。
  • 14日、市民姚加隆の妻が中華門斬龍橋で強姦後殺された。8歳と3歳の子どもが泣いていると銃剣で突き刺して生きたまま焼き殺した。
  • 15日午後1時、中国の軍人警察官二千人余は漢中門外で機関銃で射殺され、焼き殺された。
  • 16日午後6時、華僑招待所に集まっていた難民5千人余が中山埠頭で機関銃で射殺され、死体は長江に捨てられた。二人が生存した。
  • 安全区国際委員会によれば、16・17日の両日、中国人女性1000人以上が猟奇的で残虐な方法でレイプされた。日本軍は夜ごと侵入し、老若を問わず連続強姦した。
  • 18日夜、幕府山に捕らえられていた中国軍人・民間人57,418人は、針金で縛られ下関の草蛙峡で機関銃で射殺された。
  • 19日、農村婦人1名は中華門外の東岳廟で刺殺され、竹竿を陰部に挿入された。
  • 12月20日までに日本軍は計画的な放火を行い、南京の半分は燃えた。中華門循相里の家屋数10棟、中華門釣魚巷・湖北路・長楽路・又閘鎮の家屋数百棟も全焼した。すべての消火設備が略奪され、救済しようとした者は殺された。
  • 日本軍は、食糧・家畜・食器・骨董品、国際赤十字病院内では看護婦の財物、病人の布団、難民の食糧をすべて略奪した。アメリカ大使館職員ダグラス・ジェンキン、宣教師グレイス・パウアー、ドイツ人のジョン・ラーベ、バーチャード、ポブロ、ジェイムセンも略奪をうけた。
証拠[71]
被告の反論
中華門

谷の反論[71]

  • 谷の部隊第6師団は入城後中華門一帯に駐屯し、12月21日にすべて蕪湖に移動した。中華門一帯は激戦地であり、住民はすべて避難しており、虐殺の対象となるような者はいなかった。
  • 被害者はみな、日本軍の部隊番号を指摘できていない。虐殺事件は第16師団(司令官中島今朝吾)と第114師団(司令官末松茂治)のおよびその他の部隊が責任を負っている。犯罪行為調査表にも「中島」の字句が多く載せられている。 谷部隊第6師団は軍規厳正で一人も殺害していない。
  • 小笠原清の証言以外に、参謀長下野一霍・旅団長坂井徳太郎・柳川部隊参謀長田辺盛武・参謀藤本鉄熊の召喚訊問を要請したい。
  • 本事件の証拠はすべて偽造であり、罪の根拠として不十分である
被告の反論への判決

この弁明について法廷は、「責任を逃れようとする弁解」であるとし、暴行の事実は明白で、強弁する余地はないと以下、判定した[71]

  • 犯罪行為を共同で実行した者は、発生したすべての結果に対して松井・中島・牛島・末松・柳川の各軍事指導者が共同で責任を負わなければならない。調査表に「中島」の字が載せられているとか、被害者が日本軍の部隊番号を指摘できていないなどの言辞を口実として責任のがれはできない。
  • 虐殺・強姦・略奪は被告部隊の南京駐留期間内に発生し、中華門一帯で放火・殺人・強姦・略奪事件は459件に達した。暴行は被告部隊による行為とする証言が多くある。
    • 范実甫証言「谷蕎壽夫の部下で殺人・放火・強姦をおこなわないものはおらず、もっとも残忍なのが谷壽夫の部隊」「殺人はおよそ十数万人にもおよんだ。」家の向い側の孫娘は谷の部下13人に強姦されたが、悲鳴をあげたので日本軍に下腹部を切られて殺された。隣の魏小山が谷壽夫部隊が放火したので消火に行ったところ日本軍に斬殺されたのを見た」
    • 丁長栄証言「私の子どもら7名は谷部隊兵士に銃で殴殺された。中華門賽虹橋で二人の女性が日本軍に強姦されたあと銃剣を陰部から腹部に突き刺され、 腹から腸がとびだして死んでいるのを見た」
    • 徐承鋳証言「実兄は谷壽夫部隊に徴発され雨花台で銃でなぐられて殺された」
    • 欧陽都麟証言では、12・13両日で中華門内外は死体が散乱し、妊婦は銃剣で腹部を刺され、腹から胎児がとびだして死んだ。ある女性は銃剣で陰部を刺され、剣の先が臀部にまで突きぬけて死んだ。80歳の老婦人も強姦されて殺された。
    • 張鴻如証言「殺人・放火・強姦のもっともひどかったのは谷壽夫部隊だった」
  • 谷部隊は保定、石家荘一帯でも住民の衣類・骨董品、家具を略奪した。浙江省徳清県県境で平民2名を惨殺した。
  • 日本人証人小笠原清は、被告部隊が暴行をはたらいたことがないというのは信ずることができなかったと述べた。
  • 召喚要請された4名は南京大虐殺事件の共犯容疑者で、私情からかばって陳述する。また被告の要請は引き延ばしである(召喚は認められない)。
  • 証人千人余はみな身をもってその状況を体験したのであり、目撃した。
  • 被害者の遺体・頭蓋骨数千体は本法廷により掘り出された。
  • 日本軍は殺人をゲームや娯楽にしていた(『東京朝日新聞』に掲載)
  • 虐殺の写真、虐殺都市の映画は日本軍が撮影したものであり、それによって武勲を誇示しようとした。

これらは被告らが共同で暴行をおこなった証拠であり、「被告はついにでまかせで虐殺を抹殺しようとし、偽造であるなどと妄言を弄したが、全く理由にはならない」と難じた[71]

結論

被告は兵を放任し捕虜および非戦闘員を虐殺し、強姦・略奪・財産破壊などの暴行をおこなった。殺戮にあった者は数十万に達した。これは戦争犯罪および人道に反する罪であり、ハーグ陸戦法規(4条2項、23条3款・7款、28条、46条、47条)違反、戦時捕虜待遇条約(2条、3条)違反、戦争犯罪裁判条例(1条、2条2款、3条1款・4款・24款・27款、11条)、中華民国刑事訴訟法291条前段、中華民国刑法(28・55・56・57条)によって、極刑に処す[71]

1947年4月26日に谷は銃殺された[68]。その後7月には磯谷廉介中将も南京事件の責任を問われ、終身刑の判決を受けた[67]。1948年1月には第6師団中隊長田中軍吉が三百人斬りを行ったとして、また第16師団歩兵第9連隊の野田毅向井敏明百人斬り競争を行ったとして死刑となり、3人は処刑された[68]。8月南京法廷は香港攻略戦等での俘虜および民間人殺害・強姦の罪で酒井隆中将がA級戦犯として死刑とし、9月に処刑した[67][68]

谷寿夫への判決文や裁判資料や証言は、中国政府の要請によって2015年10月9日、ユネスコ記憶遺産に登録された[79]

東京裁判

1946年(昭和21年)5月3日に開廷した東京裁判では「第二類殺人の罪」訴因45として、被告荒木貞夫橋本欣五郎畑俊六平沼騏一郎広田弘毅板垣征四郎賀屋興宣木戸幸一松井石根武藤章鈴木貞一梅津美治郎は1937年12月12日以降、訴因2の条約に違反して南京を攻撃し、かつ国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ、かつ許すことにって不法に員数不詳なる数万の中華民国の一般人および武装兵を殺害し殺戮した、と告訴された[80][81]。このほか1938年10月21日以後の広東攻撃(訴因46)、1938年10月27日前後の漢口攻撃(訴因47)、さらに1944年6月の大陸打通作戦における湖南省長沙衡陽攻撃、11月の広西省桂林柳州に対する攻撃と殺戮が告訴された(訴因48-50)[80]

「第三類通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」訴因55では、被告土肥原・畑・星野・板垣・賀屋・木戸・木村・小磯・武藤・永野・岡・大島・佐藤・重光・嶋田・鈴木・東郷・東条・梅津は、1941年12月7日から1945年9月2日までの間に、アメリカ、イギリス連邦、フランス、英仏・オランダ・フィリピン・中華民国(1931年9月18日以降)の数万の俘虜と一般人に対し戦争の法規慣例上の義務を無視し、戦争法規に違反した[80]として一括して訴追された。なお、上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王が訴追されなかったのは皇族であるためで、皇族の戦争犯罪を問わないというGHQの方針に基づいている[82]

1947年11月24日、松井被告への尋問が行われた[83]

検察側証人
弁護側証人

東京裁判に出廷した日本人証言は宣誓した上で証言し、かつ検察官による反対尋問が行われた[86]。なお、中国人証人に対しての反対尋問は行われていない[86]

  • 上海派遣軍法務官兼検察官の塚本浩次は担当した案件の大部分は散発的な事件で、殺人は2,3件で、放火犯も集団的虐殺犯を取り扱っていないと証言した[86][87]
  • 当時情報収集を主務としていた中支那方面軍参謀の中山寧人は、婦女子への暴行や掠奪は小規模なものがあったが、市民への大規模虐殺は絶対にないと宣誓供述書で証言[87][88][86]
  • 中澤三夫第16師団参謀長は、組織的集団的掠奪や強姦はなかったし、掠奪命令や黙認したこともない。散発的な風紀犯はあったが処罰されている。また、南京の市民からは戦場での掠奪や破壊は大部分が退却する中国軍と、それに続いて侵入する窮民の常套手段であると直接聞いた、と証言[86]
被告の陳述

被告松井石根中支那派遣軍司令官は、検察側の主張するような大規模虐殺は終戦後の米軍放送によって初めて知ったもので、そのような事実は断じてない、一部若年将兵の暴行があったが即刻処罰しているし、また戦乱に乗じて中国兵や一部不逞の民衆が暴行掠奪を行ったものも少なくなかったので全てを日本軍の罪行とすることは事実に反する、と陳述した[87]

判決

判決は1948年(昭和23年)11月4日に「第二章法(C)起訴状」、11月11日に「第八章 通例の戦争犯罪、南京での暴虐(The Rape of Nanking)」、11月12日に「第十章判定[89]」が朗読された[90][91]

起訴状

「起訴状」では、訴因45から訴因50(訴因44は除く)までの訴因は、攻撃の不法性か、それとも戦争法規違反で訴追しているのか、明瞭ではなく曖昧である。戦争法規違反は訴因54・55とも重複している。訴因39から訴因52まで(訴因44は除外)について判定する必要がない、とされた[90][92]

日本軍の戦争犯罪

「通例の戦争犯罪(残虐行為)」では、以下が事実認定された[90][93]

1937年12月朝、日本軍が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、南京安全区国際委員会を除く中立国人は市外へ避難した。約5万の残留軍以外の中国軍は撤退した。12月12日夜日本軍が南門に迫ると、中国軍は北門と西門から市外へ遁走したり、武器と軍服を放棄し安全区に避難した。12月13日朝の日本軍入城の際、全抵抗は止まっていた。目撃者によると、日本兵は市内で男女子供を無差別に殺害し、強姦・掠奪・放火を行った。

  • 日本占領後2、3日の間に、1万2千人の中国人の非戦闘員が死亡した。
  • 占領後の最初の一カ月間で約2万件の強姦事件が発生した。犠牲者や家族が反抗すると殺された。幼い少女と老女さえも強姦され、アブノーマル加虐性欲による強姦事例が多数あった。多くの女性が強姦後に殺され、遺体は切断された。
  • 日本兵は、欲しいものは全て掠奪した。目撃者によれば、一般人を呼び止め、価値あるものを所持していないと射殺された。多くの住宅や店が掠奪され、トラックで運び去られた。
  • 日本兵は店舗や倉庫を掠奪後、放火した。商店街太平路、商業区域、一般人の住宅を兵は焼き払った。 放火は六週間続き、全市の約三分の一が破壊された。
  • 中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんだという言い訳で、組織的な大量殺戮が行われた。
  • 中国の一般人は城外へ連行され、機関銃と銃剣で殺害された。徴兵年齢にあった中国人男性の被害者は2万人以上。
  • 南京の周囲200中国(66マイル、約1万km)以内の部落は、同じような暴行を受けた。
  • 避難民5万7千人以上が収容され、収容中に飢餓と拷問で多数が死亡した。生残った者の多くは、機関銃と銃剣で殺された。
  • 降伏した中国兵は72時間内に揚子江岸で機関銃掃射で射殺された。捕虜3万人以上が殺された。裁判の真似事さえ行われず虐殺された。
  • 日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上。埋葬隊記録では155,000体だが、これは焼き棄てられた死体や、揚子江に投げこまれた死体を計算に入れていない。
  • 日本の大使館員は12月14日に『軍は南京攻撃を決定したが、大使館は緩和するつもりだ』と南京国際安全地帯委員会に通告した。秩序維持のための日本軍憲兵は17名と伝えた。日本大使館による軍への抗議が何の結果もなかったので、日本大使館員は宣教師が日本内地で宣伝し、世論によって日本政府と軍を抑制させてはどうかと提案した。ベーツ証言によると、陥落後2週間半から3週間にわたって暴力はきわめて激しく、6週間から7週間にわたって深刻であった。安全区秘書スマイスは、最初の六週間は毎日2通の抗議を提出した。
  • 被告松井は18日戦没者慰霊祭声明で「戦争に禍せられた幾百万の江浙地方無辜の民衆の損害に対し、一層の同情の念に堪えぬ」と言及しており、また残虐行為を聞いたということを松井も武藤章大佐も認めている。これらの残虐行為に対して、諸外国の政府が抗議を申込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。しかし、救済策は取られず、松井らの入城後何週間も状況は変わらなかった。
  • 南京の外交団、新聞記者、日本大使館員は、南京残虐事件を報告した。日本公使伊藤述史は南京の日本大使館や外交団から報告を受け、外務大臣広田に報告した。広田はそれらを陸軍省(梅津次官)に送り、日本首脳部連絡会議で討議された。残虐行為についての新聞報道は拡散し、朝鮮総督南も新聞で読んだ。世界中での報道や世論によって、日本政府は松井らを召還したが、処罰しなかった。松井は、畑と交代したのは、南京での残虐行為のためでなく、軍務終了によって隠退するためだったと述べている。
  • 日本軍の暴行は、苦労して陥落させた後の一時的な行為として免責できない。強姦・放火・殺人は、攻略後6週間、松井と武藤の入城後4週間、大規模に続けられた。
  • 1938年2月5日、守備隊司令官AMAYA少将は、残虐事件を海外で報道することによって、外国人が中国人の反日感情煽動していると外交団に対して非難した。この声明は日本政府の態度を反映している。


判定

被告松井は、訴因1・27・29・31・32・35・36・54・55で訴追されたが、共謀罪を構成する共同謀議の証拠は発見できなかった[89]。1937年と1938年の中国での松井の軍務を、侵略戦争とは見倣せない[89]。訴因27について検察は証拠を提示できなかった[89]

中国軍が撤退し無防備となった都市を占領後、日本軍は、無力な市民に対する身の毛のよだつ残虐行為(atrocities)、大量虐殺殺人強姦、略奪、放火を長期間実施した[89]。残虐行為を日本人証人は否認したが、様々な国籍の中立国の目撃者による証言とその疑う余地のない信頼性は圧倒的である。残虐行為は1937年12月13日から1938年2月初めまで続き、数千の婦人が強姦され、10万余の人が殺害され、掠奪され、焼かれた[89]。残虐行為が最高潮にあった12月17日に松井は入城しており、これらの暴行を知っていた。憲兵隊と領事館員から報告を受けていることを松井は認めている。松井は事件を知っていたが、暴行を止めさせる対策をとらなかった。占領前に厳正を命じたが、効果はなかった。指揮官被告には事件の責任があり、軍を統制し、南京市民を保護する義務と権限をもっていた。義務の不履行について刑事責任があり、訴因55について有罪、訴因1・27・29・31・32・35・36・54について無罪とする[89]

1948年12月23日、松井は処刑された。同日、南京事件時の外務大臣広田弘毅も対策をとらなかった不作為として処刑された(A級戦犯)[94]。その後、この松井への判決や、東京裁判および南京裁判そのものへの批判や疑問点が多数の研究者より提出されており、検察側の主張や判決での事実認定に対する疑義も出されており、論争になっている。[要検証]

東京裁判の問題点や批判については、極東国際軍事裁判#裁判の評価と争点および南京事件論争#戦後の戦犯裁判の検証を、諸研究により被害の事実については南京事件論争#主要な論点参照。

「人道に対する罪」と訴因

ニュルンベルク裁判の基本法国際軍事裁判所憲章で初めて規定された「人道に対する罪」が南京事件について適用されたと誤解されていることもあるが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった[95]

東京裁判独自の訴因に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追求するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである[96]。これによって「人道に対する罪」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる[96]。しかも、1946年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる[96]。このような起訴方針についてオランダとフィリピン(戦後アメリカの植民地から独立)、中華民国側からアングロサクソン色が強すぎるとして批判し、中華民国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での残虐行為を追加させた(訴因46-50)。

東京裁判において訴因は55項目であった(ニュルンベルクでは4項目)が、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(訴因53-55)の三種類にわかれ、南京事件はこのうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた[97][98]

日中の戦後処理と戦争賠償

サンフランシスコ平和条約

朝鮮戦争中の1951年9月8日サンフランシスコで調印された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)で連合国は全ての賠償請求権を放棄するとされた[99]。しかし、国共内戦の敗北によって蒋介石中華民国国民党1949年12月に台湾に移転し、同時に中国共産党中華人民共和国の建国を宣言しており、二国に分かれていた両国は、アメリカが中華民国を、イギリスが中華人民共和国を別々に承認することもあって、不参加となった[100][101]。また日本は平和条約にしたがって連合国に以下賠償した[102]

  • フィリピンに5億5千万ドル
  • ベトナムに3900万ドル相当の役務と生産物
  • 連合国領域内の約40億ドル(日本円で1兆4400億円、昭和26年での一般会計歳入は約8954億円)の日本人資産は連合国に没収され、収益は各国国民に分配。
  • 中立国および連合国の敵国にある財産と等価の資金として450万ポンドを赤十字国際委員会に引き渡し、14国合計20万人の日本軍元捕虜に分配。
  • 日本財産は朝鮮702億5600万円、台湾425億4200万円、中華民国東北1465億3200万円、華北554億3700万円、華中華南が367億1800万円、その他樺太、南洋など280億1400万円、合計3794億9900万円が連合国に引き渡された。

1945年8月5日の外務省調査では日本の在中華圏資産は、中華民国921億5500万円、満州1465億3200万円、台湾425億4200万円で合計2812億2900万円で、これは現在の価値で56兆2458億円となる(企業物価指数戦前基準)[103]

このように連合国国内のみならず、中国、台湾、朝鮮にあった一般国民の在外資産まで接収され、さらに中立国にあった日本国民の財産までもが賠償の原資とされた「過酷な負担の見返り」として、請求権が放棄された[102]

日華平和条約 (1952)

サンフランシスコ平和条約締結の翌年、1952年4月28日には台北日華平和条約が調印され、中華民国は日本への賠償請求を放棄した[104][101]。交換公文では「中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域」が適用範囲とされた[101]

日中共同声明 (1972)

1971年10月25日、 国連でアルバニア決議が採択され、中華民国が中国の代表権を喪失するとともに常任理事国の地位をはく奪され、中華人民共和国が中国の代表権を得た。1972年2月にニクソン大統領の中国訪問が実現し米中が接近するのと並行して日中国交正常化も進展し、1972年9月には日中共同声明周恩来国務院総理田中角栄内閣総理大臣によって調印された。声明第五項では「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する(The Government of the People's Republic of China declares that in the interest of the friendship between the Chinese and the Japanese peoples, it renounces its demand for war reparation from Japan.)」として、中華人民共和国は対日戦争賠償請求を放棄すると宣言された[105][100]。1978年8月12日には、日中共同声明を踏まえて、日中平和友好条約が締結され、第1条では「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉」が、第2条ではアジア・太平洋地域他の地域で覇権を求めないと規定された[106]。なお1979年には米中が国交正常化した

日本は中華人民共和国に対し政府開発援助(ODA)を実施し、1979年から2013年度までに有償資金協力(円借款)約3兆3,164億円、無償資金協力を1,572億円、技術協力を1,817億円、総額約3兆6,553億円のODAを実施した[107]

日本政府はこれら三つの条約および声明(サンフランシスコ平和条約第14条b、日華平和条約第11条、日中共同声明第5項)によって、日中間における請求権は、個人の請求権の問題も含めて消滅したと認識している[108]江沢民も1992年4月1日、日本の侵略戦争については真実を求めて厳粛に対処するが、日中共同声明の立場は変わらないと発言している[109]

また華人労務者への個人賠償が争われた西松建設会社事件での最高裁判決(2007年4月27日)では、サンフランシスコ平和条約は、個人の請求権を含めて、戦争中に生じたすべての請求権を放棄した。また日中共同声明も同様であるとされた[110][100][111][112]。また、重慶爆撃訴訟の東京地裁判決(2015年2月25日)では、国際法の法主体は国家であって個人ではない。また国家でさえ、戦争被害については、国家責任を規定する国際法だけでは賠償を受けることができず、賠償に関する国家間の外交交渉によって合意される必要があるとし、個人の戦争被害については国家間での処理が原則とした。またハーグ陸戦条約第3条も国家間の賠償責任を規定するもので、個人に賠償請求権を付与するものではない、と判決した。

名称の種類と変遷

南京事件については、「南京大虐殺事件」「南京虐殺事件」「南京残虐事件」「南京暴虐事件」「南京大虐殺」「南京暴行事件」「南京アトロシティー[113]」「南京大残虐事件[114]」など、多様な表記と呼称がある。

なお、1913年清朝復活を企図した張勲による第二革命での南京事件が「南京虐殺事件」と当時報道されている[115]

また1927年の南京で中国国民軍が日本人など外国人に暴虐行為を加えた事件は「南京事件(the Nanking Affairs)」[116]や「南京汚辱事件」とも表記された[117]

東京裁判

1946年(昭和21年)4月29日に起訴され、5月3日に開廷した東京裁判での呼称は「訴因第四十五」であり、ここでは鏖殺(おうさつ)・殺戮と記述されている[注釈 3]。開廷一週間後の朝日新聞は「南京大虐殺事件」と報道[注釈 4]、同年10月9日の貴族院帝国議会では星島二郎が「南京事件」といっている[118]

検察は「南京残虐事件」「南京事件」「南京強姦」、不提出書類では「南京ニ於ケル虐殺」「南京大虐殺」、弁護団は「南京略奪暴行事件」を用いた[119]、1948年の判決では和文「南京暴虐事件」[120]英文「THE RAPE OF NANKING」[121]と表記された[122]

研究書などでの表記

  • 1956年の『世界歴史事典』[123]1961年の『アジア歴史事典』[124]では「南京事件」で立項している[125]
  • 1966年には五島広作下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社)が、1967年には洞富雄が『近代戦史の謎』(人物往来社)が、1968年には家永三郎が『太平洋戦争』(岩波書店)で「南京大虐殺」と記述した[126]
  • 1971年7月の参議院で西村関一が「南京虐殺事件」「南京大虐殺事件」と述べた[127]
  • 1971年8月末から朝日新聞で連載「中国の旅」を開始した本多勝一は南京事件、南京大虐殺、南京大暴虐事件と表記[128]洞富雄本多勝一が『中国の旅』で中国語の「大屠殺」を翻訳したのが「大虐殺」の初出ではないかとする[129]。雑誌1971年8月号で「南京大虐殺」を使用[130]
  • 1972年4月に鈴木明が「諸君!」に「『南京大虐殺』のまぼろし」を発表し[131]論争が開始されるとともに「南京大虐殺」がマスコミ報道されるようになった[132]
  • 歴史学者の洞富雄は1972年に『南京事件』[注釈 5]を刊後、鈴木明への反駁として1975年に『南京大虐殺--「まぼろし」化工作批判』[133]を刊行し、以降、著書名でも「南京大虐殺」を使用する[134]。なお洞は「大虐殺」という表現は好まないが版元の要請に応じたと述べている[129]。また洞が編集した『日中戦争史資料8』[135]は、1973年版では「南京事件」が使用されていたが、1985年青木書店の再刊では『南京大残虐事件資料集』と改題された[136]。一方で藤原彰本多勝一との共著では1987年の著書名に「南京事件」を使用し[137]、虐殺派の研究会は「南京事件調査研究会」と呼称した[注釈 6]

教科書における表記

  • 1946年の文部省小中学校教科書[注釈 7]では事件について記述がなされたが事件名は表記されなかった[141][142]1947年学校教育法教科書検定制度が導入後1952年の高校用教科書「現代日本のなりたち 下」(実業之日本社)では「南京暴行事件」と表記された[142][143][144]
  • 1955年(昭和30年)、日本民主党が「うれうべき教科書の問題」というパンフレットで「(社会科)教科書は偏向している」と主張する第一次教科書批判が起こる[145]。同年の保守合同による自由民主党成立後、55年体制下で教科書への検定強化が進んだ。1955年の大阪書籍、1964年の東京書籍などの教科書には南京攻略について記述されるにとどまり、残虐行為については記述されなかった[142][143][145]。なお1962年に家永三郎が編集した『新日本史』(三省堂)では「南京大虐殺(アトローシティー)」と表記された[146]。1965年から家永教科書裁判が開始され、1978年東京書籍教科書では「南京虐殺」として記載された[147]
  • 1980年には自民党が教科書を批判するという第二次教科書批判が起きる[148][142]。1982年には「侵略」を「進出」に書き換えたとの報道がきっかけで、中国や韓国との外交問題に発展した第一次教科書問題が発生した。その結果、近隣諸国条項が検定規準として定められた。
  • 近年の教科書表記では、山川出版社東京書籍が「南京事件」[149][150]、帝国書院が「南京大虐殺」[151]、清水書院が「南京大虐殺事件」[152]山川出版社(『詳説世界史』)と日本文教出版が「南京虐殺事件」[153][154]と表記。

日本国外における表記

中国または中華民国[155]ではほぼ一定して「南京大屠殺」と呼称される。

欧米では「Nanking Atrocities」あるいは「The Rape of Nanking」「Nanking (Nanjing) Massacre」などと呼ばれる。1997年アイリス・チャンは著書で「ザ・レイプ・オブ・南京 - 忘れられたホロコースト」と表現した[156]。また、イギリスやアメリカメディアでの論説ではNanking massacre(南京虐殺)をNanking Incident(南京事件)と表記することは虐殺の軽視であるという批判もある[157]

歴史上の「南京大虐殺」

松本健一は、中国では「南京大虐殺」(南京大屠殺)は一つの固有名詞であり、「歴史的に定着している言葉」であるという[158]。また黄文雄によれば、中国の戦争には「屠城」という伝統があった[159]。歴史上の「南京大虐殺」には以下のようなものがあると指摘されている[160]

  1. 王敦の乱(322年〜324年)[159]
  2. 侯景の乱549年[158]東魏侯景武帝の南北朝時代に、南京(当時、建康)を包囲し、陥落後「大虐殺」を行う[158][161]
  3. 太平天国の乱での南京大虐殺 (1853年)[158][162]キリスト教を「拝上帝教」と解釈し、漢民族国家の再興を目指した洪秀全は南京占領時に、清国兵(満州族兵)をほぼ皆殺しにし、満州族の婦女子も焼殺して万単位の虐殺が行われた[158]。14年間の乱の犠牲者総数は2000万人を超える[163]
  4. 天京事変での南京大虐殺 (1856年)[158]。太平天国軍の内紛(天京事変)で洪秀全が楊秀清軍を「大屠殺」した[158]
  5. 天京攻防戦 (1864年) - 南京(当時、天京)における清軍(曽国セン指揮)・湘軍太平天国軍との戦争[164][165][159]湘軍趙烈文は、老人や2、3歳の幼児も虐殺され、40歳以下の若い婦女は拉致され、20万〜30万の犠牲者が生じたと記録している[164][165]。蘇瑞鏘は「湘軍版南京大虐殺」であるとし[164]、また黄文雄は、天京攻防戦での掠奪や放火の記録は、中国政府の主張する「日本軍による大虐殺」と類似していると指摘している[159]
  6. 第二革命での南京大虐殺 (1913年)[158]辛亥革命の後に行われた清朝復活を企図した張勲による第二革命への弾圧では、国民党兵が数千殺され、日本人3人も間違えられて殺害された[158]時事新報は当時「南京虐殺事件」と報じた[115]。当時、北一輝が南京を訪問し、虐殺の実態を『支那革命外史』で記す[158]曹汝霖は張勲のことを「あの南京大虐殺をやった男」とよんだ[158]
  7. 1927年に蒋介石軍が南京占領後に外国領事館や市民に暴行・強姦を行った南京事件[158][166]

この他、南京以外での虐殺で南京大虐殺と記録としてなどの関連性が指摘されているものに、1645年揚州大虐殺がある[159][165][167]。揚州大虐殺の犠牲者は80万人といわれる[168]

南京事件を扱った作品

Category:南京事件 (1937年)を題材とした作品」も参照。

小説

南京事件の生々しい記述のため、当時新聞紙法に問われ発禁処分、石川も禁固4ヶ月執行猶予3年の判決を受ける。

1937年末から1月までの短い時間に軍部の従軍女性記者として南京に滞在した。従軍した兵隊への敬慕などを描いており、少し後に滞在した石川達三とは異なり、南京事件は記述していない。

映画

戦時中の記録映像による映画
  • 南京』(日本、1938年) - 南京戦の記録映画。南京戦後であるが南京事件は映されていない。この映画を巡って陸軍プロパガンダ説がある。
  • ザ・バトル・オブ・チャイナ』(米国、1944年)こちらは南京事件が映されているが、こちらは米中のプロパガンダによる誇張説がある。
  • 中国之怒吼』(中華民国、1945年) - 『ザ・バトル・オブ・チャイナ』を編集したもの。
日本映画
中華圏映画
欧米映画

漫画

音楽

本事件をめぐる文書資料がユネスコの世界遺産に登録

2015年10月9日、ユネスコは中国の申請に対して「Documents of Nanjing Massacre」を記憶遺産に登録した[79][172][173][注釈 8]

脚注

注釈

  1. ^ 「ラーべの感謝状」とは、1937年12月14日に南京安全区国際委員会ジョン・ラーベより日本軍に提出された文書「南京安全区トウ案」第1号文書(Z1)のことである[33]。この文書の冒頭には「貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。」とある。
  2. ^ 日本陸軍次官から北支那駐屯軍参謀長宛の1937年8月5日の通牒「交戰法規ノ適用ニ關スル件」(陸支密第198号)では、「陸戦の法規慣例に関する条約その他交戦法規に関する諸条約中、害敵手段の選用等に関し、これが規定を努めて尊重すべき」とあり、また「日支全面戦を相手に先んじて決心せりと見らるるがごとき言動(例えば、戦利品、俘虜等の名称の使用、あるいは軍自ら交戦法規をそのまま適用せりと公称すること)は努めてこれを避け」と指示している[39][40]。秦郁彦はこれは国際法を遵守しなくともよいとも読めるが、解釈の責任は受け取る方に任せて逃げたともとれるとした[41]
  3. ^ 鏖殺は、みなごろしにすること。英文ではslaughter the inhabitantsないしunlawfully killed and murderedとされている。A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴 レファレンスコード 日本語 A08071274100,英文 A08071243700。
  4. ^ 「南京大虐殺事件の責任を問われた谷寿夫元中将と磯谷廉介元中将は、近く上海から南京へ護送され、国防部軍事法廷で裁判に付される」,1946年(昭和21年)5月10日朝日新聞
  5. ^ 新人物往来社。1967年の洞富雄『近代戦史の謎』を増補したもの。
  6. ^ 井上久士小野賢二笠原十九司藤原彰吉田裕本多勝一渡辺春巳などが集まった研究会
  7. ^ 敗戦直後の教科書は「墨塗り教科書」であった。
  8. ^ 記憶遺産登録対象は、中国が提出した資料であり、以下の3つの部分から構成される。(1) 1937年-1938年の、大量虐殺に関する資料 (2) 1945年-1947年の、中国の軍事法廷による戦後の調査や戦争犯罪裁判の資料 (3) 1952年-1956年の、中華人民共和国司法当局の資料[174]

出典

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  3. ^ Kennedy(1998)は「南京虐殺事件の背景について万人が納得するような説明はいまだなされていない」とする。
  4. ^ 『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』服部龍二、中央公論新社〈中公新書〉2008年、p.184-185 p260。「破滅への道―私の昭和史、上村伸一、鹿島研究所出版会、1966年 81頁。「外交官の一生」、石射猪太郎、中公文庫 332‐333頁
  5. ^ 池田悠 (2018). 正論12月号 検証!「南京事件」の発信源. 産経新聞社 
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  22. ^ 笠原 (1997)、17頁、36-37頁
  23. ^ 笠原 (1997)、84-92頁 115頁
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  29. ^ 「南京難民区の真実」 ジョン・ラーベ 136頁
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  31. ^ a b c 池田悠 (2018). 正論12月号 検証!「南京事件」の発信源. 産経新聞社 
  32. ^ 「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」 笠原十九司 岩波現代文庫 岩波書店78-82頁
  33. ^ 『日中戦争史資料9』河出書房新社 (1973)p120.田中正明『南京事件の総括』p176
  34. ^ 「南京大残虐事件資料集 第2巻」 103-104頁など
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  46. ^ 「南京に派遣された16師団経理部の小原少尉の日記によれば、310人の捕虜のうち、200人を突き殺し、うち1名は女性で女性器に木片を突っ込む(通州事件での日本人殺害で行われた方法)と記し、戦友の遺骨を胸に捧げて殺害していた日本兵がいたと記した。」 秦 (2007) p121
  47. ^ a b “Moreover, the book<What War Means> uses a statement which I prepared on the 15th of December to be utilized by the various correspondents leaving Nanking on that date.” (Circular letter to friends, Bates, April 12, 1938) 
  48. ^ Suping Lu,They Were in Nanjing: The Nanjing Massacre Witnessed by American and British Nationals,2004,Hong Kong University Press p19-42.
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  54. ^ 「上海時代(下)」松本重治 中公新書249-251頁、251-253頁
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関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、南京事件に関するメディアがあります。