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2020年1月25日 (土) 04:29時点における版

真如苑
真如苑本部
前身 真言宗立川不動尊教会
設立 1936年2月8日
設立者 伊藤真乗
種類 宗教法人
法人番号 5012805000375 ウィキデータを編集
本部 日本の旗 日本 東京都立川市柴崎町1-2-13
座標 北緯35度41分46.6秒 東経139度24分17.5秒 / 北緯35.696278度 東経139.404861度 / 35.696278; 139.404861座標: 北緯35度41分46.6秒 東経139度24分17.5秒 / 北緯35.696278度 東経139.404861度 / 35.696278; 139.404861
公用語 日本語
会長 伊藤真聰(苑主)
関連組織 一如社
SeRV
ユニベール財団
清里フォトアートミュージアム
ウェブサイト 真如苑
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真如苑(しんにょえん)は、東京都立川市柴崎町真澄寺(旧・真言宗立川不動尊教会[1])に本部を置く、真言宗系の在家仏教の教団[2][3][4][5][6]。戦後、宗教団体法の廃止に伴ない真言宗から独立した。1951年に大般涅槃経を所依の経典とし「真如苑」と改称。1953年、宗教法人として認証を受けた[7][8][9]

概要

略史

草創期

開祖・伊藤真乗(俗名・文明)と妻・伊藤友司[注釈 1]は共に山梨県出身。真乗は、高等小学校卒業後、農業補習学校に進み卒業した。1923年、上京して東京中央電信局(現NTT)購買部で働きながら、正則英語学校普通科(現・正則学園高等学校)を卒業し、ついで高等科に進学するも、青年訓練所に入るため[12]退学した。まもなく電信局を退職し、写真機材店に就職した[7]。1926年の徴兵令により、東京・立川の近衛師団管下飛行第五連隊に入営し、航空写真の撮影等に携わった[7][9]

除隊後は、石川島飛行機製作所(のちの立川飛行機株式会社)に入社。勤務の傍ら、少年期に父から継承した、伊藤家家伝の易学研鑽のために大日本易占同志会に入会、易を学び、易占鑑定により人生相談に応じるなどした[13]。真乗は易学研鑽の途上で知り合った真言行者の紹介で、雑司ヶ谷の天明教会(真言宗醍醐派修験道部)先達[14] 浦野法海と縁を結んだ。真乗は、少年期に天理教信者であった母の影響で天理教に親しんだ。曹洞宗禅寺の檀家総代であった父は、老師に就き参禅をしていた。真乗は父から禅を学び、甲陽軍鑑の流れという、伊藤家一子相伝の家学である易学を受け継いだ。上京後は、浄土教法華経、また浅野和三郎の心霊科学にも触れ、1932年4月に遠縁の友司と結婚してのちは、夫婦でキリスト教会にも通った。妻・友司の祖母は法華行者で霊能家であり、明治初年、横浜で狐憑き落としなどの除霊を行っていたという。祖母の霊能を継承した伯母もまた2代目霊能家として活動していた[13][15]

1935年暮、信仰を深めるべく諸教を求め、真言密教を学ぶうちに本尊として仏像を迎えたいと考えていた伊藤夫妻は、東京市牛込区肴町(神楽坂上)の仏師宅で見つけた[16]不動明王坐像を立川駅南口(東京府立川町南幸町)の自宅に勧請した。翌年2月4日、寒修行満願の夜、友司は入神状態となり、居合わせていた伯母から、祖母から続いた霊能を受け継いだことを告げられ、友司は祖母から数えて3代目の霊能家となった。これを受けて真乗は、4日後の1936年2月8日、会社勤務を辞し、宗教活動に専念することになった。現在、真如苑ではこの日をもって立教開創の日としている。この月、2月26日、二・二六事件が勃った。戒厳令下の3月28日、明治憲法による民法に沿い、自宅を成田山新勝寺講中とし「立照講」を届出、「立照閣」として合法活動を講じた。5月19日[17]真言宗醍醐派総本山醍醐寺に上り、三宝院道場にて佐伯恵眼座主戒師のもと出家得度の儀に臨み辞令を得た[7]。初期の活動は、真乗の易占と醍醐寺で修める真言密教に拠る読経滝行加持祈祷によるものが主であった。その後、次第に友司を霊媒とした霊意を受けての指導が取り入れられていった[18]

1938年10月、醍醐派管長[19]、東京府知事の認可[20]を得て、後に「真澄寺」と呼ばれる道場が現在地に完成し、組織も「立照閣」から「真言宗醍醐派立川不動尊教会」へと改められた。1939年2月5日、真言宗総本山醍醐寺 特派阿闍梨大導師のもと、真乗願文奏上、浦野法海経頭による落慶法要が営まれた。道場建設場所(現在地)は、友司による霊意により選定された[21]

真乗は醍醐寺で、1939年10月、三宝院灌頂堂道場にて入壇、三宝院門跡佐伯惠眼大僧正大祇師のもと修験道当山派伝承の恵印灌頂(醐山に伝わる在家法流)を畢え[22]、更に本宗部へと上行をかさね[23]、1943年3月に 傳戒大阿闍梨 醍醐寺座主 三宝院門跡佐伯恵眼大僧正のもと、醍醐寺三宝院灌頂堂にて[24]、三宝院流憲深方による伝法灌頂を畢め、阿闍梨となった[25]。この間、1941年3月、真言宗醍醐派管長の命に、明治初年、新政府による祭政一致 神祇官再興の布告、神仏分離令(1868年)につづく廃仏毀釈の激化、修験道廃止令(1875年)以降、衰微していた東京府北多摩郡村山村武蔵村山市)の修験寺院、「一住坊常宝院」の特命住職に任ぜられた[26]。同年3月31日付、文部当局の意向に、仏教は十三宗五十六派から 十三宗二十七派 に統合、真言宗各派も合同し「大真言宗」となる[22]。真乗が主管する二院も、合同真言宗第十五教区[27](東京府下 二市三郡)第二組[28]に所属[29]、立川・村山を往復し寺門運営に当たった。1942年4月、戦時下、統制がより厳しくなった宗教団体法による制約に、宗教結社「常宝会」を結成届出[30]、篤信信徒に呼びかけ有縁の各地に支部を結成[30]、常宝院主として復興に努め、特命住職の責を果たした。村山郷の古刹で、和銅3年(710年)、行基開基とされる龍華山真福寺[31]の第八世 法範が醍醐三宝院より法流を相続[32]慶長18年、修験道法度発布(1613年)ののち当山派法流が村山に定着したのは元和年間とある[33]。ここに、寛永年中、真福寺塔中六箇寺、上院坊 権大僧都法印 俊慶が萩ノ尾に引寺し「一住坊」と改正[34][35]、以来、代々当山派修験職として継承した、堂刹三百年の法統を廃絶することなく護持し得た。この「常宝会」の同志的結集が戦後の独立、新たな宗団の形成に結んだ[36]。僧階も律師から少僧都へと昇補した[37]。1945年8月の終戦後、治安維持法廃止、神道指令につづく宗教団体法の廃止による合同解体決議、各宗各派は分派還元に向かう。[38]12月28日、宗教法人令公布に伴ない、1946年2月、立川不動尊教会(真澄寺)は真言宗を離脱し、新たに宗団を形成し1948年には名称も「まこと教団」へと改められた[7][37]

1950年8月21日、不祥事により教団を去った元教務総長の地位にあった青年僧が、前年の夏、修行を名目に体罰を受けたと真乗を訴えたことにより、真乗が逮捕された[9][39]。1952年5月7日、一審・東京地方裁判所八王子支部では有罪と認定し、真乗に傷害罪懲役1年の実刑判決を下した。1954年1月30日、東京高等裁判所の控訴審判決では、一審の判決を変更し、体罰に関しては宗教上の行為として無罪。また、告訴人の一部事実誤認、本件の動機、目的、本人の経歴などを総合すると地裁判決は重すぎ失当であるとしつつも、教団の監督者としての責任を問われ、真乗に傷害罪懲役8月・執行猶予3年の判決を下した[9][40]

この事件は「まこと教団事件」と言われ、マスコミをにぎわせた[7][41]。この事件は、一般に新宗教を淫祠邪教視する社会風潮によるものとする見解が有力である[7][42]。真如苑が当時加盟していた[43]新日本宗教団体連合会(新宗連)は、「当然無罪となるべき事件だったが、官憲やジャーナリズムを始め世間一般が、新宗教といえば実体を見極めずに邪教視、弾圧しようとした、そのころの風潮を露骨に示す実例」と総括した[44]。真如苑を批判的な観点から洞察した経済学者三土修平もまた、「真如苑を研究している宗教評論家たちは、まこと教団事件に関して、おおむね教主側に同情的であり、伊藤の有罪判決は、新宗教を十把ひとからげに邪教淫祀扱いする戦前以来の日本官憲の偏見の犠牲になったものだ、との見方が有力である」としている[45]

教団存続が危ぶまれる事態に真乗の妻・友司が第3次吉田内閣の樋貝詮三国務大臣の自宅を訪れ、樋貝は弁護士を紹介した。その後、樋貝が死去した後、毎月の祥月命日には欠かさず墓参りに来たという。

真如苑としての出発

この事件による教団の打撃は大きく、教団は危機的状態になったが、立て直しをはかり、1951年に大般涅槃経を所依の経典とし「真如苑」と改称。1952年7月、文部省宗教法人法に基づき、書類を提出し、翌年5月に認証された。真乗は管長を辞し教主となり、友司が苑主に就任した[7][9]

1957年3月、教主真乗が新道場の本尊となる丈六の大涅槃像を完成させ、翌年5月、新道場が落慶した。1966年3月、醍醐寺より、教主真乗に大僧正位、苑主友司に権大僧正位が贈られた。7月、タイ国・パクナム寺院より、仏舎利が奉戴された。11月、真如苑一行が、タイ国で開催された「第8回世界仏教徒会議」に日本代表として出席、その後はインドを巡り、仏跡を訪ねた。1967年6月には、「欧州宗教交流親善使節団」として欧州7ヵ国とイスラエルを訪問、6月28日、バチカンにおいて、ローマ教皇パウロ6世と面会した。欧州帰国後の8月、苑主友司が急逝した。友司には、醍醐寺より大僧正位が追贈された[46]

苑主・友司没後~開祖死去まで

1967年8月、苑主友司の没後、70年代より急速に教勢が伸長し、80年代後半には、公称信者数200万人と発表した[47][48]。この頃より信者数200万人という数字がメディアから注目され取り上げられることが多くなったため[48][49]、真如苑は、真乗の死を期に、信者数を実数に合わせ、下方修正し発表した[49]

1973年3月、真如苑初の海外支部がハワイ(アメリカ)に落慶した[50]。1976年5月、醍醐寺金堂にて、真乗を導師として、醍醐寺開創一千百年慶讃法要が執行された。1978年10月、真乗がタイ国を訪問、上座部仏教と交流を深めた。1979年3月、立川総本部に十一面観世音菩薩を本尊とする発祥第二精舎が落慶した。6月には、真乗が欧州5カ国を巡教、1980年5月にはハワイ、アメリカ本土に巡教した[51]

1983年10月、真如法燈継承の儀により、三女伊藤真聰、四女真玲が法流を相乗した。1984年4月、醍醐寺金堂にて、真乗を導師として、弘法大師御入定一千百五十年御遠忌法要が執行された。1989年7月、教主真乗死去により、伊藤真聰が苑主・真澄寺首座を継承し、継主となった[46][50][51]

近年・開祖の死去以降

1992年3月、醍醐寺より、継主真聰に大僧正位が贈られ、1997年9月11日には、教主真乗が興した密教法流「真如三昧耶流」を顕彰する「真如三昧耶堂」が醍醐寺に建立された[46][52]

2002年、東京都武蔵村山市(一部立川市)の旧日産自動車工場跡地106ヘクタールを取得した。2006年3月、東京都立川市泉町に総合道場となる「応現院」が落慶した[53]

2008年3月、海外流出が懸念されていた鎌倉時代の仏師・運慶の作とみられる「大日如来像」(2009年、重要文化財指定)が、ニューヨークのクリスティーズでオークションにかけられた。真如苑は三越に依頼して落札した。文化財としての調査と展示のため、その後7年間東京国立博物館に寄託された[54]。また対外的には、文化財の海外流出を防いだと広報している[55]

2012年10月、東京都千代田区一番町に友心院ビルを落慶。2018年4月、運慶作と推定される大日如来坐像(重要文化財)などの仏教美術品を一般公開する文化施設「半蔵門ミュージアム」を設立[56]

教義と修行体系

真言密教の伝統や儀式を重んじつつ、社会生活の中で他者と協調し、融和の精神と利他行の実践に努めて心を磨くことを重視する。真如苑の教えは、「伝燈法脈」、「大般涅槃経」、「真如霊能」の三つの柱からなる。「伝燈法脈」は、教主真乗が醍醐寺で修行し、醍醐寺座主から受け継いだ真言小野流の法脈である。のちにそれを基盤として、教主真乗は、1997年に醍醐寺より顕揚された真如三昧耶流といわれる流派、真言宗醍醐派岡田宥秀門跡が命名した法流血脈「真如密」を確立することとなる[57]。「大般涅槃経」は、真如苑の所依の経典であり、教えの根本とされる。「大般涅槃経」の要旨は、如来は不滅であり、永遠に存在するという「如来常住」、生きとし生けるものはすべて仏になれる性質を持つという「一切衆生悉有仏性」、闡提でも成仏できるという「一闡提成仏」、さらに理想の境地とされる「常楽我浄」の4つからなる。「真如霊能」は、教主真乗が受け継いだ家伝易学による霊能と、苑主友司が祖母、伯母を通じて継承した霊能が一体となり湧出したものであり、今日の「接心」修行(後述)の基盤であるとされる。また、このときこの世とあの世は一つにつながっているという「顕幽一如」という教えが示された。あの世の諸霊は、その子孫や縁故者に対して影響を及ぼすことがあるとされる。あの世の諸霊に廻向をし、この世に生きている者が修行して因縁を清めていけば、その結果として現世の者も幸福が得られるという。真如苑では、六波羅蜜を集約したとする「3つのあゆみ」の実践が修行とされる。「3つのあゆみ」とは、「歓喜」(布施行)、「お助け」(布教活動)、「ご奉仕」(教団内外における奉仕活動)をいう[6][9][58]。 その他、朝夕の読経、法要参座、接心も主な修行とされている[59]
教義面では、密教の他に、諸宗教・スピリチュアリズム・易などの影響がみられる。護摩法要をはじめとする儀式面は真言宗醍醐派に則ったものとなっている[60][61]

接心と霊位

真如苑では、「接心」と呼ばれる瞑想修行を行う。接心修行は、日常生活における自分の心の在り方や自分の持つ傾向性を霊能者(ミーディアムとも呼ばれる)を通して、見つめ直すもので、日常生活の中で覆われてしまった仏性が開発されるという。 接心には、有相接心・無相接心の2種類が存在する。有相接心では、霊能者と信者が対座し、霊能者から信者に対して、心を磨くために必要なアドバイスが「霊言」として伝えられる。 霊言の内容は、1.教えの内容を再確認するもの、2.先祖や近親者に不幸がないか問うもの、3.健康状態を確かめるもの、の3つに大別されるという。 接心において「障害霊」が指摘されたときは、「護摩」による「お浄め」が奨励される。霊能者から伝えられた霊言の内容を、自己反省し深め、日常生活の中で実践していくことを「無相接心」と呼ぶ。
真如苑では、大乗→歓喜→大歓喜→霊能という4つの霊位が設定されている。霊位向上のための「相乗会座」という修行に参加するには、各霊位によって所定の活動実績(入信させた信者数、歓喜・ご奉仕の継続的な実践等)を満たすことが条件である。「相乗会座」において祈りが深まり、相応しい境涯に達していると判定されることで次の段階の霊位を得られる。霊能者となることで、接心において「霊言」を受ける側から、与える側となる[9][58]
心霊科学者の梅原伸太郎は、真如苑の霊能者を用いる方法は、日本心霊科学協会やその前身に学んでいるとしている[60]

両童子・抜苦代受

真如苑では、伊藤夫妻の夭折した2人の息子を「両童子」と呼び、霊界の両童子が信者の苦しみを身代わりとなって引き受けてくれるとしている。これを「抜苦代受」と呼んでいる。真乗は、長男が病死した際に、長男は皆の苦しみを代わりに引き受けるために死亡したと解釈した。死んだ子供には救済者としての役割が与えられ、教団の宗教活動の中で重要な役割を担うようになった。ただし、当時は「身代わり」などと称し、「抜苦代受」の用語は使われていない。長男・次男の死後には、信者の病人が救われるなどの救いの力が示されたという[62]。また、長男・次男の他界により、霊界との道交を開かれ、円滑な接心修行が可能となったとしている。

対外的活動

社会貢献・海外交流

1970年より、早朝の清掃活動が始まり、2019年現在、全国約5800ヵ所の駅や公園において清掃活動を行っている[50][63]1995年1月17日の阪神・淡路大震災において、震災当日に有志のボランティアが現地入りし、状況把握と共にボランティアメンバーを募集、22日より救援物資の積み下ろし、仕分け、医療班の補助についた。信者の中には建物に埋まった人を助け出した人もいる。この経験を通して同年2月1日、真如苑救援ボランティアである「SeRV(サーブ)」が発足した。4月時点ボランティアの登録者は1万人を超え、自治体被災者の要請に応え、現地に派遣された。その後、特に避難所となっている小学校グランドやトイレ清掃活動を中心に約7ヶ月間にわたるボランティア活動を行なった。阪神・淡路大震災では、1万1330人がボランティアとして活動した[64]2011年3月11日の東日本大震災においても、震災当日に教団施設の一般開放、SeRVはボランティアを被災地に派遣し、義援金を届けるとともに、支援物資の運び込み、炊き出し等を行った。東日本大震災においては、8742人がボランティアとして活動した。SeRVは、1995~2015年において、国内外の59災害にボランティアを派遣した[65]

海外においては、世界文化遺産アンコール遺跡修復事業・現地技術者育成支援、小児病院支援、カンボジア留学生支援などを行うカンボジア・プロジェクトを実施している。スリランカにおいては、1988年より幼児教育施設ランカスクールを設置し、2012年までに6000人の卒園生を輩出している[66]。その他、日本赤十字社国連児童基金(ユニセフ)[67]世界食糧計画国連難民高等弁務官事務所世界保健機関日本国際ボランティアセンター国境なき医師団世界自然保護基金など多方面の国連諸機関や各種NGO等への支援を行っている[6][68][69]。また、各種財団があり、財団を通じた社会活動も活発である[39]

醍醐寺との関係

伊藤真乗は醍醐寺で出家・得度したのち、伝法灌頂を法畢した(前掲)。このような経緯があり、醍醐寺との関係が深い。真如苑は、醍醐寺への寄進も行っており、2008年8月、醍醐寺上醍醐の准胝堂が火災で焼失した際には、准胝堂再建勧募2億円、2009年10月、醍醐寺の開祖・聖宝理源大師1100年遠忌法要においては、1億円の遠忌勧進募金があったことが醍醐派定期宗会で報告された[70]

入信・退会手続き

真如苑に入信するには「精進願い」に所定の事項を記入して提出する。この時、登録費と会費を収める必要がある。入信には、紹介者が必要であり、紹介者は導き親と呼ばれ、新たに入信した信者はその子信者となる。導き親と子の関係は以後継続し、導き親は子信者の教化の手助けをする。退会の意志があればだれでも退会することができる。退会の際は、所定の用紙に必要事項を記入して提出する[63]

参考文献

  • 梅原正紀ほか『新宗教の世界 3』(大蔵出版、1978年) 絶版
新宗教教団をルポタージュし、民衆宗教の動向を探るシリーズ。真如苑の章の執筆は、毎日新聞記者の横山真佳。
  • 石井研士『理想』-世俗社会における仏教の可能性(理想社、1986年2・3月合併号)
当時、文化庁宗務課職員で東京大学助手だった宗教学者による社会価値観と真如苑を考察、研究した論文。
  • 立井啓介対談集『夢はゆめ色』(清水弘文堂、1987年) 絶版
詩人で非信者である著者が教団の信徒である各界著名人との対談した本。立川商工会議所発行の月刊誌『とぅもろぅ』に連載された対談をカットせず、ほぼオリジナルな形で再収録。
  • 山口富夫『真如苑 常楽我浄への道』(知人館、1987年) 絶版
幻想的共同体論をメインテーマとする著者が、初めて真如苑を内部取材したルポルタージュ。
  • 三土修平『水ぶくれ真如苑―急成長の秘密と欺瞞の構図』(AA出版、1987年) 絶版
著者は経済学者。元東京理科大学教授。1986年、華厳宗東大寺にて得度。一時、真如苑に在籍していた体験を元に批判を展開した論評。
  • ひろたみを『ルポルタージュ真如苑-その現代性と革新性をさぐる』(知人館、1990年) 絶版
フリージャーナリストである著者が、まこと教団事件や長女・次女問題などの教団動向を加えて内部取材したルポルタージュ。
  • 桜井秀勲『かっぽう着の法母(上・中・下)』(学研、1990年) 絶版
OLという言葉を提唱し定着させ、また女性自身微笑等の雑誌編集長を歴任した著者による、伊藤友司に関する物語風伝記。一部、フィクションも含まれる。
  • 沼田健哉『宗教と科学のネオパラダイム 新新宗教を中心として』第九章 真如苑の研究(創元社、1995年)
調査対象となる教団に入信した上で調査・考察された研究書。真如苑の章は、沼田健哉『真如苑の研究』桃山学院大学社会学論集(1990)を修正・増補し、収録。
  • 出口三平ほか『新宗教時代〈1〉』(大蔵出版、1997年)
『新宗教の世界(全5巻)』に続き、1970年代以降発展した教団等の80,90年代の動向を紹介した本。真如苑の章の執筆は、ジャーナリストの溝口敦
毎日新聞社によるグラフ。
  • 本多順子『真如苑―祈りの世紀へ』(原生林、2003年)
3年間にわたる取材を経た著者が、自身のこころに重ねて綴る異色のルポルタージュ。
  • 秋庭裕、川端亮『霊能のリアリティへ―社会学、真如苑に入る』(新曜社)
社会学者が、真如苑内におけるインタビュー統計調査を踏まえて書いた研究書。
  • 芳賀学、菊池裕生『仏のまなざし、読みかえられる自己 - 回心のミクロ社会学』
(ハーベスト社、2007年1月)ISBN 9784938551926
青年部弁論大会の詳細な記述と分析を通し、弁論=「自己の物語」を語ることにより、一人一人の信者がどのように回心の過程を辿っていくのかを描いた研究書。
  • 奈良康明ほか『真乗 心に仏を刻む』(中央公論新社、2007年/中公文庫、2016年)
インド仏教文化専攻の文学博士であり、駒澤大学で教授・学長を務めた著者などによるドキュメント。

制作番組

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 1950年の修行法畢後、僧名を「真如」と授与されるも俗名の友司の名を用いた。死後、摂受院さらに摂受心院の法号。

出典

  1. ^ 「真言宗報」掲載 寺院名簿 1941
  2. ^ 小村の信仰学1995『日本大百科全書 12』(1986.11)P566,P567 新宗教
  3. ^ 小野泰博『日本宗教事典』弘文堂(1987/2)P645
  4. ^ 井上順孝/他『新宗教事典(本文篇)』弘文堂(1994/07) P38,P60
  5. ^ 文化庁『宗教年鑑 平成28年版』 P15,P16
  6. ^ a b c 宗教教団新研究会『最新「宗教」教団ガイドブック』 ベストブック (2011/08)P58~P61
  7. ^ a b c d e f g h 沼田健哉『真如苑の研究』桃山学院大学社会学論集 24(1), P55-86, 1990年9月 (本論文は、沼田健哉『宗教と科学のネオパラダイム 新新宗教を中心として』 創元社(1995/1)P359~395 に加筆・修正して収録されている)
  8. ^ 島田裕巳『日本の10大新宗教』 幻冬舎(2007/11) P185
  9. ^ a b c d e f g 島田裕巳『現代にっぽん新宗教百科』 柏書房 (2011/09) P90~P97
  10. ^ 文化庁『宗教年鑑 令和元年版』 P113
  11. ^ 文化庁『宗教年鑑 令和元年版』 P71
  12. ^ 伊藤真乗著『燈火念念』1976 「回想」
  13. ^ a b 松野純孝/編『新宗教辞典』  東京堂出版 (1984/10) P153~P156
  14. ^ 『神変』 録事
  15. ^ 梅原正紀・他/著『新宗教の世界III』 大蔵出版(1978/7) P116~P117
  16. ^ 真乗刊行会『真乗 心に仏を刻む』 (2007)中央公論新社 P37~38
  17. ^ 『神変』 修験道部 録事
  18. ^ 井上順孝編『世界の宗教101物語』新書館(1997/4) P209
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外部リンク

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