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1994-95シーズン、パサレラはアルゼンチン代表監督に就任することが決まりリーベルを退団。次の監督の下でクレスポは出場機会を失い、このシーズンは5得点という結果に終わった。しかし、成績不振によりすぐさま監督は[[ラモン・ディアス]]に交代すると、クレスポはレギュラーに定着。6得点でシーズンを終えたが、ラモン・ディアスは辛抱強くクレスポを起用し続け、「改めて自信を得ることができた」とクレスポは述懐している。シーズン後に開催された[[1996年アトランタオリンピックのサッカー競技|アトランタ五輪]]のアルゼンチン代表に選出され、アルゼンチン代表は銀メダルを獲得。クレスポも才能の片鱗を見せ、世界的な評価を得ることになった。
1994-95シーズン、パサレラはアルゼンチン代表監督に就任することが決まりリーベルを退団。次の監督の下でクレスポは出場機会を失い、このシーズンは5得点という結果に終わった。しかし、成績不振によりすぐさま監督は[[ラモン・ディアス]]に交代すると、クレスポはレギュラーに定着。6得点でシーズンを終えたが、ラモン・ディアスは辛抱強くクレスポを起用し続け、「改めて自信を得ることができた」とクレスポは述懐している。シーズン後に開催された[[1996年アトランタオリンピックのサッカー競技|アトランタ五輪]]のアルゼンチン代表に選出され、アルゼンチン代表は銀メダルを獲得。クレスポも才能の片鱗を見せ、世界的な評価を得ることになった。


アトランタ五輪での活躍が認められ、1996年に[[セリエA (サッカー)|イタリア]]の[[SSDパルマ・カルチョ1913|パルマAC]]に移籍。当初はイタリアのサッカーに馴染めず満足のいく結果を残せなかったが、[[1999年]]にはパルマの[[コッパ・イタリア]]と[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]の優勝に貢献。その功績が認められ、[[2000年]]に当時のセリエA新記録となる1100億リラ(約66億円)の移籍金で[[SSラツィオ]]へ引き抜かれた。ラツィオでは移籍初年度に得点王を獲得し、在籍2年間でリーグ戦54試合計39得点とその移籍金に見合う活躍を見せた。
アトランタ五輪での活躍が認められ、1996年に[[セリエA (サッカー)|イタリア]]の[[パルマ・カルチョ1913|パルマAC]]に移籍。当初はイタリアのサッカーに馴染めず満足のいく結果を残せなかったが、[[1999年]]にはパルマの[[コッパ・イタリア]]と[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]の優勝に貢献。その功績が認められ、[[2000年]]に当時のセリエA新記録となる1100億リラ(約66億円)の移籍金で[[SSラツィオ]]へ引き抜かれた。ラツィオでは移籍初年度に得点王を獲得し、在籍2年間でリーグ戦54試合計39得点とその移籍金に見合う活躍を見せた。


[[2002年]]、2000万ユーロに加え[[ベルナルド・コッラーディ]]の譲渡という条件で[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]へと移籍した。移籍した[[ロナウド]]の後継者と見做されたが、怪我の影響で試合には出られず、結果は残せなかった。翌シーズン、ロシア人の石油王である[[ロマン・アブラモヴィッチ|アブラモヴィッチ]]がオーナーに就任した[[チェルシーFC]]が行った、スター選手を次々に獲得する補強戦略の対象となり、インテルはクレスポを手放した。サポーターからの抗議もあり思い直したインテルは白紙撤回をチェルシーに要求したが、復帰は叶わなかった。
[[2002年]]、2000万ユーロに加え[[ベルナルド・コッラーディ]]の譲渡という条件で[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]へと移籍した。移籍した[[ロナウド]]の後継者と見做されたが、怪我の影響で試合には出られず、結果は残せなかった。翌シーズン、ロシア人の石油王である[[ロマン・アブラモヴィッチ|アブラモヴィッチ]]がオーナーに就任した[[チェルシーFC]]が行った、スター選手を次々に獲得する補強戦略の対象となり、インテルはクレスポを手放した。サポーターからの抗議もあり思い直したインテルは白紙撤回をチェルシーに要求したが、復帰は叶わなかった。

2020年2月4日 (火) 11:44時点における版

エルナン・クレスポ
2018年のクレスポ
名前
本名 エルナン・ホルヘ・クレスポ
Hernán Jorge Crespo
愛称 バルダニート(小さなバルダーノ ゴールエリアの鷲)
ラテン文字 Hernan CRESPO
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1975-07-05) 1975年7月5日(49歳)
出身地 アルゼンチンの旗 フロリダスペイン語版
身長 183cm
体重 78kg
選手情報
ポジション FW(CF)
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1993-1996 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 62 (24)
1996-2000 イタリアの旗 パルマ 116 (62)
2000-2002 イタリアの旗 ラツィオ 54 (39)
2002-2003 イタリアの旗 インテル・ミラノ 18 (7)
2003-2008 イングランドの旗 チェルシー 49 (25)
2004-2005 イタリアの旗 ミラン (loan) 28 (11)
2006-2008 イタリアの旗 インテル・ミラノ (loan) 49 (18)
2008-2009 イタリアの旗 インテル・ミラノ 14 (2)
2009-2010 イタリアの旗 ジェノア 16 (5)
2010-2012 イタリアの旗 パルマ 46 (10)
通算 452 (198)
代表歴
1996 アルゼンチンの旗 アルゼンチン オリンピック 6 (6)
1995-2007[1] アルゼンチンの旗 アルゼンチン 64 (35)
監督歴
2015-2016 イタリアの旗 モデナ
2018-2019 アルゼンチンの旗 バンフィエルド
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1996 アトランタ サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

エルナン・ホルヘ・クレスポHernán Jorge Crespo, 1975年7月5日 - )は、アルゼンチンブエノスアイレス州出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワードアルゼンチン代表であった。

1996年にはアトランタ五輪1998年にはフランスW杯2002年には日韓W杯2006年にはドイツW杯に出場した。

経歴

1975年、アルゼンチンのフロリダで生まれる。父が熱狂的なCAサン・ロレンソ・デ・アルマグロのサポーターとあって幼い頃からボールを蹴り始め、クレスポ曰く「何となく入った」というCAリーベル・プレートの下部組織でサッカーを始める。各カテゴリーを順調にステップアップしていったが、特別能力のある選手とはいえず補欠選手として過ごした。14歳の時に正式契約を交わし、トップの道へ歩んだ。

プリメーラ・ディビシオン1993-94シーズンにトップチームデビューを果たすと、当時監督だったダニエル・パサレラはクレスポをスーパーサブとして起用し、クレスポはこのチャンスに13得点という数字で応えた。

1994-95シーズン、パサレラはアルゼンチン代表監督に就任することが決まりリーベルを退団。次の監督の下でクレスポは出場機会を失い、このシーズンは5得点という結果に終わった。しかし、成績不振によりすぐさま監督はラモン・ディアスに交代すると、クレスポはレギュラーに定着。6得点でシーズンを終えたが、ラモン・ディアスは辛抱強くクレスポを起用し続け、「改めて自信を得ることができた」とクレスポは述懐している。シーズン後に開催されたアトランタ五輪のアルゼンチン代表に選出され、アルゼンチン代表は銀メダルを獲得。クレスポも才能の片鱗を見せ、世界的な評価を得ることになった。

アトランタ五輪での活躍が認められ、1996年にイタリアパルマACに移籍。当初はイタリアのサッカーに馴染めず満足のいく結果を残せなかったが、1999年にはパルマのコッパ・イタリアUEFAカップの優勝に貢献。その功績が認められ、2000年に当時のセリエA新記録となる1100億リラ(約66億円)の移籍金でSSラツィオへ引き抜かれた。ラツィオでは移籍初年度に得点王を獲得し、在籍2年間でリーグ戦54試合計39得点とその移籍金に見合う活躍を見せた。

2002年、2000万ユーロに加えベルナルド・コッラーディの譲渡という条件でインテルへと移籍した。移籍したロナウドの後継者と見做されたが、怪我の影響で試合には出られず、結果は残せなかった。翌シーズン、ロシア人の石油王であるアブラモヴィッチがオーナーに就任したチェルシーFCが行った、スター選手を次々に獲得する補強戦略の対象となり、インテルはクレスポを手放した。サポーターからの抗議もあり思い直したインテルは白紙撤回をチェルシーに要求したが、復帰は叶わなかった。

2003年はチェルシーに活躍の場を移すもイングランドのサッカーに順応できず精彩を欠き、出場機会にも恵まれなかった。2004年にはジョゼ・モウリーニョがチェルシーの新監督となったが、構想外だったクレスポはACミランにレンタル移籍となり、イタリアに戻った。かつてパルマ時代にも監督だったカルロ・アンチェロッティ監督の下で、シェフチェンコ等とコンビを組んでその年のUEFAチャンピオンズリーグ準優勝に貢献するなど、クレスポは本来の輝きを取り戻した。本人はそのままイタリアに残ることを望んだが、2005年はレンタル元のチェルシーに呼び戻され、4-3-3の場合では伸び盛りのドログバと同じポジションを競わせる形で貴重なスーパーサブとして使われた(シーズン終盤では得点力向上のため、4-4-2の2トップで同時起用もあり)。不本意な形とはいえ、イングランドへの再挑戦では好調なパフォーマンスを維持した。

イタリアへの復帰を熱望するクレスポの意を汲む形で、2006年にはチェルシーから2年契約のレンタル移籍でインテルに復帰。ズラタン・イブラヒモビッチと2トップを形成し、欧州の主要リーグで新記録となるリーグ17連勝に貢献するなどリーグ戦独走の原動力となった。シーズン終了後には再びチェルシーへの呼び戻しが予想されたが、本人の意思もありインテルへの残留が決定、その後イギリスに戻ることなく2008年にチェルシーとの契約を終了した。しかし、2008-09シーズンはチェルシー時代にクレスポを構想から外していたモウリーニョがインテルの指揮官となり、他の主力選手が怪我や規律違反などで招集されない場合以外はベンチに登録されないことが多かった。

2009年5月29日ジェノアCFCへの移籍が発表された。しかし、ジェノアでは思ったような出場機会を得られず、南アフリカW杯にアルゼンチン代表メンバーとして出場することを熱望していたクレスポは、2010年1月29日、パルマへ完全移籍し、約10年ぶりのパルマ復帰となった。2009-10シーズン最終節のリヴォルノ戦でパルマ復帰後初得点を決めた。しかし加齢もあってその後はなかなか出場機会を得ることができず、2012年2月2日にパルマとの契約を解除。その後、インド・スーパーリーグ参戦も報じられたが、現役を引退した。

なお、6年間在籍したパルマでは通算94得点を記録しており、これはクラブ史上最多得点者となっている。

2014年7月、古巣パルマのプリマヴェーラの監督に就任。しかし翌2015年6月22日にパルマが破産したため、契約解消となった。同年6月30日セリエBモデナFCの監督就任が発表された。契約期間は1年間[2]。しかし2015-2016シーズンは下位に低迷し、2016年3月26日の第33節カリアリ・カルチョ戦に敗れ、降格プレーオフ圏の18位に転落したことで解任が発表された。また、その会見の場に激怒した夫人が乱入し、クラブの給料未払いを暴露するなどの暴言を吐き、混乱に陥った[3]

2017年7月29日SSDパルマ・カルチョ1913の名で再出発してセリエBへ昇格した古巣パルマの副会長に就任したことが発表された[4]。2018年1月に副会長職を退任、アンバサダーに就任。

2018年12月19日CAバンフィエルドの監督に就任した。2019-2020シーズンは開幕から1勝1分け3敗で19位と極度の不振に陥り、2019年9月2日、成績不振を理由に解任された。

タイトル

クラブ

リーベル・プレート
パルマ
ラツィオ
  • スーペルコッパ・イタリアーナ : 2000
チェルシー
ミラン
  • スーペルコッパ・イタリアーナ : 2004
インテル・ミラノ

代表

アルゼンチン代表

個人

出典

外部リンク