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2020年6月4日 (木) 00:26時点における版
後小松天皇 | |
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後小松天皇像(雲龍院蔵) | |
即位礼 | 1383年1月31日(永徳2年12月28日) |
大嘗祭 | 1383年12月10日(永徳3年11月16日) |
元号 |
永徳 至徳 嘉慶 康応 明徳 応永 |
時代 | 室町時代・南北朝時代 |
先代 |
北朝:後円融天皇 南朝:後亀山天皇 |
次代 | 称光天皇 |
誕生 | 1377年8月1日(天授3年/永和3年6月27日) |
崩御 |
1433年12月1日(永享5年10月20日) 東洞院仙洞御所 |
大喪儀 | 1433年12月8日(永享5年10月27日) |
陵所 | 深草北陵 |
追号 |
後小松院 (後小松天皇) |
諱 | 幹仁 |
元服 | 1387年1月22日(元中4年/至徳4年1月3日) |
父親 | 後円融天皇 |
母親 | 藤原厳子 |
子女 |
称光天皇 小川宮 理永女王 一休宗純(一説による) |
皇居 | 平安宮 |
後小松天皇(ごこまつてんのう、1377年8月1日〈天授3年6月27日〉 - 1433年12月1日〈永享5年10月20日〉)は、日本の第100代天皇および北朝第6代天皇(在位:1382年5月24日〈永徳2年4月11日〉- 1412年10月5日〈応永19年8月29日〉)。諱は幹仁(もとひと)。
生涯
日野資教邸で養育される。永徳2年(1382年)4月、父の後円融天皇の譲位を受けて6歳で即位、後円融上皇による院政が行われた。朝廷内部にまで政治的影響力を及ぼし多くの公家を主従関係の下に置いた室町幕府3代将軍足利義満と上皇の関係は険悪であり、両者は対立する。
明徳4年(1393年)に後円融上皇が崩御すると、義満はさらに朝廷への影響を強め、事実上の上皇として、後世「義満の院政」などと呼ばれる権力を振るい、後小松はその下でまったくの傀儡に甘んじた。
応永19年(1412年)8月29日、後小松は皇子の実仁親王(称光天皇)に譲位し、院政を開始。これは明徳3年(1392年)の南北朝合一の際の条件である両統迭立に反しており、その後南朝勢力はしばしば反発して武装蜂起する。
治天の君としての後小松の立場については様々な見方がある。例えば、応永27年(1420年)9月16日に以前女官との密通を理由に仙洞御所から追放された院侍が復帰を求めて仙洞御所に侵入して警固に当たっていた細川氏の兵に捕らえられ、翌日六条河原で斬首された事件が発生している(『康富記』・『看聞日記』)。この事件について、横井清は後小松を「いかなる暴力装置も駆使できなくなっていた」存在と解釈し[1]、一方で井原今朝男は逮捕の命令を発したのは後小松であること、将軍義持が院侍の助命を主張しても後小松だけは一貫して院侍の殺害を主張して遂には実現させたことを指摘して公家社会、特に御所内においては幕府権力を単なる暴力装置として駆使させることが出来る程の権力を依然として保持していたと解釈している[2]。佐々木宗雄は後小松を治天の君とすることには反対ではないが、足利義満による後小松の後見と言う形での治天権限代行期間を再開された後小松の治天には、かつての伝奏を中心とした庭中(文殿・記録所)・雑訴沙汰・評定(議定)などは機能しておらず、伝奏を介して室町殿(足利義持)と密着して政務を行う体制はこれまでの治天の君とは明らかに異質なものであると評価している[3]。
称光天皇は病弱でたびたび重態に陥り、皇子の誕生もなく、また後小松の第二皇子小川宮も早世したため後継者問題が生じ、後小松上皇は4代将軍足利義持と協議、後継者として崇光流の伏見宮貞成親王が有力視され、一時は後小松の猶子として親王宣下された。しかし、これには称光が激しく反発したため、貞成は出家して皇位継承を断念した。
正長元年(1428年)、称光が危篤となると、6代将軍足利義教の仲介もあって、その死後に貞成の子息彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させた[4]。
称光・後花園の2代にわたり院政を行い、この間永享3年(1431年)に出家している。ただし、後小松が永享元年(1429年)10月に出家の意思を固めていたものの、義教に事前の断りを入れなかったことから義教の反発で先送りされた経緯があり、この時の義教の後小松への反感が貞成親王との関係強化につながり、後に後小松の遺志に反する貞成への太上天皇称号贈与につながったとする見方もある[5]。
後小松の崩御によって院政と治天の君という制度は事実上の終焉を迎えることとなった。これ以降も江戸時代の光格上皇まで院政は度々執られたが、あくまで形式上の存在でしかなくなっていった。
追号
追号は本人の遺詔により「後小松院」と贈られた。「小松帝」とは、兄の孫にあたる陽成天皇が廃位されたのち皇位につき、その子孫が長きにわたって皇統を保った第58代光孝天皇の異名である[6]。南朝の皇統を断つかたちで天下唯一の天皇となったのもつかの間、自らの皇統はわずか2代にしてさらに別の系統に移ることが現実となったとき、彼はこの「後小松」を追号にすることによって自らの歴代天皇としての正統性を顕示しようとしたものと考えられている。また後小松は、称光天皇の容態が思わしくなかった1426年に『本朝皇胤紹運録』の編纂を命じて皇室の系図の整理を行わせているが、この行動も彼のそうした心境の反映だと考えられている。
系譜
後円融天皇の第一皇子。母は内大臣三条公忠女・厳子(通陽門院)[注釈 1]。風狂の禅僧一休宗純は後小松の落胤と伝わる。
- 後宮:日野西資子(光範門院)、1384-1440 - 准大臣日野西資国女、権大納言日野西資教養女
- 第一皇子:躬仁、実仁親王(称光天皇)、1401-1428
- 第二皇子:小川宮、1404-1425
- 第一皇女:理永女王、1406-1447 - 大聖寺門跡
- 典侍:甘露寺経子(大納言典侍)- 権大納言甘露寺兼長女
- 宮人:藤原氏 - 准大臣日野西資国女
- 宮人:小兵衛局 - 宮内少輔土岐某女
- 皇女:1412-?
- 宮人:非参議白川資忠女
- 宮人:藤原氏(南朝遺臣の女で、花山院家出身と伝わる)
- 猶子:彦仁王(後花園天皇)- 崇光天皇曾孫、伏見宮貞成親王王子
系図
【持明院統】 〔北朝〕 | 【大覚寺統】 〔南朝〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
96 後醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光厳天皇 北1 | 光明天皇 北2 | 97 後村上天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
崇光天皇 北3 | 後光厳天皇 北4 | 98 長慶天皇 | 99 後亀山天皇 | 惟成親王 〔護聖院宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伏見宮)栄仁親王 (初代伏見宮) | 後円融天皇 北5 | (不詳) 〔玉川宮家〕 | 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伏見宮)貞成親王 (後崇光院) | 100 後小松天皇 北6 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
102 後花園天皇 | 貞常親王 〔伏見宮家〕 | 101 称光天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
在位中の元号
- 永徳(1382年4月11日)- 1384年2月27日
- 至徳 1384年2月27日 - 1387年8月23日
- 嘉慶 1387年8月23日 - 1389年2月9日
- 康応 1389年2月9日 - 1390年3月26日
- 明徳 1390年3月26日 - 1394年7月5日
- 応永 1394年7月5日 -(1421年12月19日)
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草坊町にある深草北陵(ふかくさきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形堂。深草北陵には持明院統歴代が葬られており、「深草十二帝陵」とも称される。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
出典
- ^ 横井『看聞日記』そしえて、1973年、p.69。
- ^ 井原『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、pp.213-243。
- ^ 佐々木『日本中世国制史論』吉川弘文館、2018年)、P246-257。
- ^ 「後花園天皇」『朝日日本歴史人物事典』
- ^ 石原比位呂「足利義教と北朝天皇家」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6
- ^ 菊地浩之 (2019年3月21日). “https://biz-journal.jp/2019/03/post_27062.html”. ビジネスジャーナル. サイゾー. 2019年6月2日閲覧。
注釈
- ^ 厳子は実家で後小松を出産した後2か月たっても御所に戻らず、やっと戻ると厳子と足利義満の密通を疑う後円融から刀の峰打ちをくらい実家に舞い戻ってしまったこと、またその薨去に際しては後小松一代で二諒闇となってしまうことを回避するために義満が自身の正室日野康子を後小松の准母に立てこれに女院宣下を出させていること、そして自らも後小松の父代りとして熱心にその養育にあたっていることから、作家の海音寺潮五郎は後小松天皇は実は義満の子ではないかという説を唱えた。(海音寺著『悪人列伝』)