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2020年8月12日 (水) 04:46時点における版

 高木 惣吉
生誕 1893年8月9日
日本の旗 日本熊本県
死没 (1979-07-27) 1979年7月27日(85歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1915年 - 1945年
最終階級 海軍少将
除隊後 内閣副書記官長文筆家
墓所 東慶寺(神奈川県鎌倉市)
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高木 惣吉(たかぎ そうきち、1893年(明治26年)8月9日 - 1979年(昭和54年)7月27日)は、日本海軍軍人海兵43期、海大25期首席。最終階級は海軍少将東久邇宮内閣内閣副書記官長を務めた。

旧制中学校への進学が叶わない貧しい家に生まれ、働きながら独学で海軍兵学校への入校を果たし、海軍大学校を首席で卒業する。健康に恵まれず、海上勤務は少なかったが、軍政方面で活躍。海軍部外に幅広い人脈を有し、ブレーントラストを組織した。太平洋戦争の戦局悪化に伴い首相・東條英機の暗殺計画を立案したが決行直前に東條内閣が瓦解し未遂に終わる。その後は米内光政井上成美の密命により終戦工作に従事。各方面と連携をとりながらの終戦への基盤づくりを行った功績は大きいとされる。

熊本県人吉市で、遺族により「高木惣吉記念館」が運営されている。

略歴

熊本県人吉市出身。生家が貧しく、高等小学校卒業後は直ちに職に就き、通信教育で独学し、受験に際して学歴を問わない海軍兵学校(43期)に入校した[注釈 1]第一次世界大戦では第一特務艦隊に属し出征したが、海軍兵学校在校中から健康体ではなく海上勤務が少ない。本人は洋上勤務を希望しており、洋上勤務の辞令も出たことがあったがその度に持病が悪化し辞退せざるを得なかった。海軍大学校を首席で卒業している。フランスから帰国後は陸上勤務に終始し、海軍省勤務時代には部外に豊富な人脈を構築した。この人脈内には高木が海軍省官房調査課長時代に南方占領地の統治を実施するに当たり、軍政関係で活躍した人物も存在した。

太平洋戦争半ばに海軍省教育局長に補職された高木は、早期終戦を模索したが、最終的に東條首相を暗殺し和平内閣を誕生させて英米間との和平を実現させるべきとの結論に達した。実際に暗殺計画を立案したものの、実行直前に東條が昭和天皇からサイパン陥落の責任を問われ内閣総辞職を決意したため、未遂に終わった。その後、小磯内閣海軍大臣に就任した米内光政と、海軍次官に転補された井上成美から終戦工作の密命を受け、熱海藤山愛一郎邸を拠点として鈴木貫太郎内閣総辞職に至るまでの期間、各方面と連携をとりつつ戦争終結に向け奔走した。本土決戦に固執する帝国陸軍中堅将校クラスの妨害を排除しつつ、終戦への基盤づくりを行った。終戦直後、東久邇宮内閣内閣書記官長緒方竹虎に請われ、各省の次官たちを統べる初代の内閣副書記官長(現在の「内閣官房副長官」)に就任する。海軍省でも次官は通常、中将が就くポストであり、これは少将の高木にとって異例の抜擢人事で、次官会議を司会する関係から各省次官と同官等(高等官一等。少将は高等官二等)となり、予備役となった[2]

1952年

戦後は公職追放を経て[3]軍事評論家として「辰巳亥子夫」のペンネームで著述活動を行いつつ、海上自衛隊幹部学校に於いて山梨勝之進と共に戦史戦略の特別講師を務める。

高木が記録した政界諸情報綴は、現在国立国会図書館憲政資料室と防衛省防衛研究所史料閲覧室に保存されており、重要な資料となっている。著書に書かれた高木の批判の矛先は陸軍だけでなく、海軍に対しても戦術から人事に至るまで容赦なく書かれており、海軍兵学校が行ってきた教育に対する批判は辛辣である。これに対し「実戦に出ていない人間が何を言うか」「高木斬るべし」という批判が「矢のようにあらゆる方面から(本人談)」舞い込んできたが、三浦半島で隠棲中の井上成美に相談したところ「かまうもんか。自由な批判がなくて何が海軍だ。喉元過ぎれば熱さ忘れるというではないか。今のうちに海軍の悪かった所をどんどん書け」と癒されたという。

人物像

幼少期から少年期にかけて、貧困と容姿に関するコンプレックスに苦しめられるなど、辛酸を極めた生活を体験している。若い時から権威や上司に媚びない性格であり、海軍に進んでからも反骨精神が強かった。

東條内閣打倒を目標として行動していた際は、憲兵を用いる東條派に逐次動向を察知されており、東條や嶋田繁太郎は高木に対し海軍次官・沢本頼雄から警告させた。高木は上司である沢本に対し決然たる反応を示したという。

ブレーントラスト

海軍はシーメンス事件以降、陸軍と異なり極端とも言える程政界とは疎遠な存在となったが、日華事変以降は海軍の政治体制への不備が表面化しつつあった。このため、海軍部内に軍務局付属機関として調査課が1939年(昭和14年)に制度化された。これに加え、高木の提案により、日本の戦争理念の研究、生産増強策の提案、海軍政治力の補強に貢献すべく、各方面より人材を確保して構築したのが以下のブレーントラストである[4]。戦時体制強化と共に次々と開設された。

  • 思想懇談会
安倍能成第一高等学校長、のち文部大臣)、冨塚清服部静夫藤田嗣雄和辻哲郎東京帝国大学教授)、岸田国士(劇作家)、関口 泰朝日新聞社)、仁科芳雄理化学研究所)、木下杢太郎(作家)、幹事 谷川徹三法政大学教授、のち総長
  • 外交懇談会
伊藤正徳時事新報)、稲畑勝治(外交評論家)、神川彦松高木八尺(東京帝国大学教授)、田村幸策中央大学教授)、松下正寿立教大学教授)、鶴見祐輔(著述評論家)、 幹事 三枝茂智明治大学教授)
  • 政治懇談会
岸本誠二郎京都帝国大学教授)、佐々弘雄緒方竹虎田中慎次郎(朝日新聞社)、杉原荒太外務省、のち防衛庁長官)、湯川盛夫(外務省、駐英大使)、田中二郎(東京帝国大学助教授)、細川護貞近衛文麿秘書)、幹事 矢部貞治(東京帝国大学教授)
  • 総合研究会
板垣与一東京商科大学)、大河内一男東京帝国大学助教授)、三枝茂智(前項)、高山岩男京都帝国大学教授)、谷川徹三(前項)、武村忠雄永田清慶應義塾大学教授)、矢部貞治(東京帝国大学教授)、松下正寿(前項)、幹事なし
  • 経済研究会
板垣与一(前項)、大河内一男(前項)、武村忠雄(前項)、松下正寿(前項)、永田 清(前項)
  • 太平洋研究会
松下英麿畑中繁雄中央公論社)、大森直道改造社)、加田哲二平野義太郎
  • 戦時生産研究会
松前重義逓信省工務局長)が主宰し各省中堅事務当局者
  • 対米研究会
都留重人(経済学者)、野田岩次郎実業家)、松下正寿(前項)
  • 法律政策研究会
田中耕太郎石井照久(東京帝国大学教授)、田中二郎(前項)
  • 嘱託
天川 勇(慶應義塾大学)、江沢謙治溜島武雄田中精一谷口良彦中山伊知郎(東京商科大学)、大熊信行高岡高等商業学校)、大患代夫加田哲二(慶應義塾大学)、清水澄(東京帝国大学)、清水幾太郎杉村章三郎(京都帝国大学)、高木友三郎明治大学)、本位田祥男穂積重遠蠟山政道(東京帝国大学)
  • 海軍省顧問
井上庚二郎岡田文秀竹内可吉藤原銀次郎藤山愛一郎松江春次山崎巌東竜太郎湯川盛夫

このメンバーの中には、東條内閣の戦時体制強化への批判から後述の東條総理暗殺計画に賛同・参加する者も存在した。

東條総理暗殺計画と終戦工作

舞鶴鎮守府参謀長から海軍省教育局長に転補された高木は、戦局悪化を憂い、海軍部内から自己主張が無いと信頼を失っていた嶋田海軍大臣を更迭することで、和平への動きを具体化できないかと模索した。しかし、嶋田の更迭は不可能であると判断し、首相・東條英機の暗殺計画を立案するに至る。

計画にはまず神重徳大佐、小園安名大佐、渡名喜守定大佐、矢牧章大佐、伏下哲夫主計中佐など海軍中堅クラスとも言うべき面々が参加したが、後に高松宮宣仁親王細川護貞なども加わった。これは高木の背後に海軍の長老たちの無言の同意があった事をうかがわせる。

計画は、東條が愛用していたオープンカーで外出した際に数台の車で進路を塞ぎ、海軍部内から持ち出した機関銃で射殺するという荒っぽい手口のものだった。実行直前にサイパン失陥の責任を問われた東條内閣が総辞職したため、計画は実行に移されなかった。晩年の高木は「読みが浅かった。暗殺を実行したら陸海軍の対立が激化して終戦がやりにくくなった(だろう)」と反省の弁を述べている[5]

逸話

井上より終戦工作の命を受けたとき何も考えなかったが、後から考えると死の宣告に近いものだと著書で述べている。

年譜

在東京外国大公使館対本国間で交換した極秘暗号解読電報等の機密文書を閲覧し得る立場となる。
墓所は鎌倉東慶寺に所在。

著書

  • 『終戦覚書』弘文堂(アテネ文庫)1948
  • 『太平洋海戦史』(岩波新書)1949
  • 『聯合艦隊始末記』(文藝春秋新社)1949
  • 『山本五十六と米内光政』文藝春秋、1950 (光人社
  • 『日本の運命 軍事地理学的に見た東亜』港出版合作社 1950
  • 『軍事基地』弘文堂(アテネ文庫)1950
  • 『現代の戦争』 (岩波新書) 1956
  • 『太平洋戦争と陸海軍の抗争』経済往来社 1967
  • 『私観太平洋戦争』文藝春秋、1969 (光人社NF文庫
  • 『自伝的日本海軍始末記 帝国海軍の内に秘められたる栄光と悲劇の事情』(光人社)1971 のち文庫 
  • 『海軍大将米内光政覚書』実松譲編(光人社)1978
  • 『高木海軍少将覚え書』毎日新聞社 1979
  • 『高木惣吉日記 日独伊三国同盟と東条内閣打倒』毎日新聞社、1985
  • 自伝的日本海軍始末記続編(光人社)
  • 『高木惣吉日記と情報』伊藤隆編. みすず書房 2000

GHQ歴史課陳述録

  • 日本終戦の動き 1950年(昭和25年)1月26日
  • 小磯内閣及び鈴木内閣の終戦和平について 1950年(昭和25年)1月26日
  • 終戦時に於ける重臣との接触 1950年(昭和25年)1月26日
  • 1945年6月8日御前会議について 1950年(昭和25年)1月26日
  • 和平工作について

脚注

注釈

  1. ^ 海軍兵学校は無学歴でも受験できた[1]。高木より12期下の海兵55期についてであるが、兵学校の受験要件は「入校時の年齢が16歳以上19歳以下。中学四年修了程度の筆記試験を課す」であった[1]

出典

  1. ^ a b 小泉昌義 『ある海軍中佐一家の家計簿』 光人社NF文庫、2009年、26頁。
  2. ^ 高木惣吉『自伝的日本海軍始末記〈続編〉―帝国海軍の内に秘められたる栄光と悲劇の事情』(光人社、1979年)209頁。
  3. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、82頁。NDLJP:1276156 
  4. ^ 『一海軍士官の回想』
  5. ^ 『昭和史の軍人たち』文春文庫、1987年。ISBN 4167453010 


参考文献

関連項目

外部リンク