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「松平佳子」の版間の差分

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*母・[[松平俊子]]
*母・[[松平俊子]]
*養兄・[[広橋真光]] - 佳子は[[公族]]との結婚に際し、実父松平胖が無爵だったため、伯爵広橋家の養女・広橋佳子として輿入れした
*養兄・[[広橋真光]] - 佳子は[[公族]]との結婚に際し、実父松平胖が無爵だったため、伯爵広橋家の養女・広橋佳子として輿入れした
*夫・李鍵([[桃山虔一]]) - [[高宗 (朝鮮王)]]の孫。[[純宗 (朝鮮王)]]の甥。[[李コウ (義親王)|李堈 (義親王)]]の長男。
*夫・李鍵([[桃山虔一]]) - [[高宗 (朝鮮王)]]の孫。[[純宗 (朝鮮王)]]の甥。[[李|李堈 (義親王)]]の長男。
*子・忠久(1932-2006)、欣也 (1935年生)、明子(1938年生)。離婚後欣也と明子は李鍵が引き取ったが、明子はのちに佳子に引き取られた。
*子・忠久(1932-2006)、欣也 (1935年生)、明子(1938年生)。離婚後欣也と明子は李鍵が引き取ったが、明子はのちに佳子に引き取られた。



2020年8月20日 (木) 00:56時点における版

李鍵公と誠子妃(1931年の婚礼時)

松平 佳子(まつだいら よしこ、1911年(明治44年)10月6日 - 2006年(平成18年)6月28日)は、日本の元王公族[1]高松松平伯爵家の分家、海軍大佐松平胖と妻俊子の長女。初名松平佳子。伯爵廣橋眞光の養妹になった際に改名し廣橋誠子となり、李鍵公(桃山虔一)の妃李誠子となる。戦後に名を佳子に戻し桃山佳子を名乗り、1951年(昭和26年)に離婚して生家の姓に戻した。

李鍵の叔父にあたる李王垠の妃の方子女王(李方子)とは、共に鍋島直大の娘を母とする従姉妹である。

生涯

1911年(明治44年)松平胖と妻俊子の第2子、長女として誕生。初名佳子。1930年(昭和5年)、実践女学校在学時、関東大震災への援助に対する返礼として時事新報が企画した遣米答礼使の一人となり、約1か月渡米する。

1931年(昭和6年)、母方の親戚[2]の伯爵廣橋眞光の養妹となって名を誠子と改め、10月5日に当時日本帝国陸軍騎兵少尉だった李鍵公と見合い結婚した。沖・沂・沃子の2男1女を産む。

戦後、1947年(昭和22年)の日本国憲法施行に伴い、一家は王公族の身分と日本国籍を喪失し、李鍵は日本に帰化して桃山虔一となり、誠子は佳子[3]、3子も忠久・欣也・明子と改名した[4]。戦後の生活は困窮し、渋谷で元使用人と汁粉屋をやったり、農場経営をしたり、佳子は銀座の銀六デパートに菓子屋「桃山」をはじめたりと、苦労を重ねた。「桃山」では自ら仕入して店頭に立ち、戦中に制定された宮中服で売り子をした。その後、銀座の会員制社交クラブ”銀座倶楽部”の雇われマダム(社長)となる[5]

しかし、性格の不一致のあった夫・虔一との溝が広がり、1951年(昭和26年)5月離婚し、旧姓の松平に戻った。李鍵によると、佳子は婚約前から付き合っていた華族青年がおり、結婚後10か月めに生まれた長男が夫の子でないことが戦時中の血液検査でわかり、離婚後長男は佳子が、下の2児は李鍵が引き取った[6]

離婚後すぐに銀座倶楽部の経営を巡って対立し社長を辞任する。同年11月には飲み屋「よしの路」を銀座に開店する。1955年にはよしの路を中華料理店「桃山」に変え、1960年の暮れには桃山を改築して寿司屋「桃弥摩(ももやま)」を開業する[7]。1970年ごろから明治天皇の御落胤を自称する芸術家の橘天敬と同棲するようになる。橘天敬は、山蔭基央の調査によると、炭鉱夫・園部儀助と愛媛県大生院村出身の神野ツチエ夫婦の長男だが、幾度も名を変え、明治天皇の落胤や小松院天敬法親王を名乗るなど誇大妄想的な派手な振る舞いでマスコミを賑わせた画家で、離婚に応じない別居中の妻(麻生太賀吉のいとこ)がいた[6][8]。佳子は天敬と同棲中、皇族が使用する「門院」を付けた「貞浄門院佳薫」を名乗ることもあった[6]。1984年6月に天敬と死別してからは新興宗教の真如苑で念仏を唱える日々を送った[9]

2006年(平成18年)5月、長男・忠久が死去した際、母親である佳子が遺産相続人となったが、両者の親子関係を証明する必要が生じた。王公族は一般の戸籍でなく王公族譜に記載されており、その後の離婚と子女の日本国籍取得によって、戸籍が混乱していたものである。この手続きの最中の翌6月28日[10]、佳子は満94歳(数え96歳)で死去した。

親族

栄典

脚注

  1. ^ 「王族」と「公族」の身分は1910年の韓国併合に際して、天皇が大韓帝国皇室のために創設した身分であり、異民族でありながら皇族の一員とみなされた。王公族は法的には皇族と見なされなかったが、礼遇上はあくまでも皇族として扱われた。新城(2015) pp.i-iii
  2. ^ 祖父鍋島直大の継室榮子(俊子の生母ではない)が廣橋家出身。
  3. ^ 誠子は改名する前から普段、自分の名前を「佳子」と表記していた。新城(2015) p.127
  4. ^ 「桃山」姓は「明治天皇崇拝者」の李鍵公が桃山御陵にあやかって、昭和天皇の了承を得た上で採用したものである。新城(2015) p.222
  5. ^ 桃山佳子が社長ということで、高松宮妃や皇籍離脱した閑院直子ら往時の名流夫人が続々と入会してきた。新城(2015) p.223
  6. ^ a b c 『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』p266-286
  7. ^ 新城(2015) pp.225-226
  8. ^ 落胤であることを皇室関係者は否定。『入江相政日記』第3巻、入江相政、朝日新聞社, 1990、p282
  9. ^ 新城(2015) p.232
  10. ^ 前年の2005年7月12日には李王垠とその妃李方子女王の第2子李玖が亡くなっていた。
  11. ^ 『官報』第1432号、「叙任及辞令」昭和6年10月6日、p.162
  12. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  13. ^ 『官報』第4426号、「叙任及辞令」昭和16年10月7日、p.220

参考文献

  • 小田部雄次『皇族に嫁いだ女性たち』角川学芸出版、2009年。 
  • NHK取材班『朝鮮王朝「儀軌」百年の流転』NHK出版、2011年。  第2章「日韓皇室融合の思惑」
  • 新城 道彦『朝鮮王公族 −帝国日本の準皇族』中央新書、2015年。 
  • 河原敏明『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』第13章「偽“明治天皇ご落胤”橘天敬と同棲する元妃殿下―松平佳子」、講談社、2004年