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[[1932年]][[4月27日]]、[[パリ]]で生まれた。両親はともに[[ユダヤ人|ユダヤ系]]の[[舞台俳優]]([[コメディ]]俳優)<!--父は実名ドレフュス姓のユダヤ系、母も母方の父がルシアン・ローゼンベルクとユダヤ系の名前--><ref name=Lewis>Flitterman-Lewis, Sandy. [http://jwa.org/encyclopedia/article/aimee-anouk "Anouk Aimée"], ''Jewish Women: A Comprehensive Historical Encyclopedia'' </ref>。<!--以下、英仏版双方とで歩んだ学校の記載が異なる。両版とも出典付き。それゆえ適当に端折って記載転載しました。-->[[9区 (パリ)|パリ9区]]のミルトン通り小学校に通っていたが、ユダヤ人迫害が激しくなってきたので、両親により送られた[[アキテーヌ]]地方の[[コニャック (コミューン)|コニャック]]近郊バルブジュー=サン=ティレールで育った。[[ナチス・ドイツによるフランス占領]]期には、[[ダビデの星#ドイツ|黄色の星]]を胸に身に付けるのを避ける為、母親の姓"デュラン"を名乗った。[[モルジヌ]]の[[寄宿学校]] (パンショナ, [[:fr:Pensionnat|Pensionnat]]<ref>学校まで遠方の子供、育児放棄された子供らを主な対象とし、また男女別・共学問わずこの種の[[修道院]]が行う[[寄宿学校]]はパンシオナといい、アンテルナ ([[:fr:Internat (établissement scolaire)|Internat]]) 同様、[[英語圏]]でいう[[ボーディングスクール]]に相当。1905年[[政教分離法]]により[[宗教教育]]は廃止された。</ref>) に入り、この頃[[ロジェ・ヴァディム]]とも知り合った<ref><!--以下、フランス語版の出典より-->Michel Ciment et Olivier Curchod, « Entretien avec Anouk Aimée : Au cinéma, je suis chez moi », [[ポジティフ]] « 60 ans de comédiens », no 617-618, 2012年7-8月号</ref><!--なお、英語版では出典付きで、「バンドールの寄宿学校」と記載-->。 |
[[1932年]][[4月27日]]、[[パリ]]で生まれた。両親はともに[[ユダヤ人|ユダヤ系]]の[[舞台俳優]]([[コメディ]]俳優)<!--父は実名ドレフュス姓のユダヤ系、母も母方の父がルシアン・ローゼンベルクとユダヤ系の名前--><ref name=Lewis>Flitterman-Lewis, Sandy. [http://jwa.org/encyclopedia/article/aimee-anouk "Anouk Aimée"], ''Jewish Women: A Comprehensive Historical Encyclopedia'' </ref>。<!--以下、英仏版双方とで歩んだ学校の記載が異なる。両版とも出典付き。それゆえ適当に端折って記載転載しました。-->[[9区 (パリ)|パリ9区]]のミルトン通り小学校に通っていたが、ユダヤ人迫害が激しくなってきたので、両親により送られた[[アキテーヌ]]地方の[[コニャック (コミューン)|コニャック]]近郊バルブジュー=サン=ティレールで育った。[[ナチス・ドイツによるフランス占領]]期には、[[ダビデの星#ドイツ|黄色の星]]を胸に身に付けるのを避ける為、母親の姓"デュラン"を名乗った。[[モルジヌ]]の[[寄宿学校]] (パンショナ, [[:fr:Pensionnat|Pensionnat]]<ref>学校まで遠方の子供、育児放棄された子供らを主な対象とし、また男女別・共学問わずこの種の[[修道院]]が行う[[寄宿学校]]はパンシオナといい、アンテルナ ([[:fr:Internat (établissement scolaire)|Internat]]) 同様、[[英語圏]]でいう[[ボーディングスクール]]に相当。1905年[[政教分離法]]により[[宗教教育]]は廃止された。</ref>) に入り、この頃[[ロジェ・ヴァディム]]とも知り合った<ref><!--以下、フランス語版の出典より-->Michel Ciment et Olivier Curchod, « Entretien avec Anouk Aimée : Au cinéma, je suis chez moi », [[ポジティフ]] « 60 ans de comédiens », no 617-618, 2012年7-8月号</ref><!--なお、英語版では出典付きで、「バンドールの寄宿学校」と記載-->。 |
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[[1947年]]、14歳の時にパリでその美貌からスカウトされ、[[アンリ・カレフ]]監督の『密会 (''[[:fr:La Maison sous la mer (film)|La Maison sous la mer]]'') 』(1947年) に出演し、女優としてデビューした。その際、この作品の役名"アヌーク"を彼女が芸名に用いた。続いて、お蔵入りし未発表作品となったデビュー2作目 『''[[:fr:La Fleur de l'âge (film, 1947)|La Fleur de l'âge]]'' 』(1947年) において、1作目から脚本で関わっていた詩人[[ジャック・プレヴェール]]が、芸名に"エーメ"を付け加えることを提案した。高校課程にあたる[[リセ]]課程は[[イギリス]]で学び、さらに演劇学校に通った<ref><!--アヌーク・エーメ フランス語版より-->{{ |
[[1947年]]、14歳の時にパリでその美貌からスカウトされ、[[アンリ・カレフ]]監督の『密会 (''[[:fr:La Maison sous la mer (film)|La Maison sous la mer]]'') 』(1947年) に出演し、女優としてデビューした。その際、この作品の役名"アヌーク"を彼女が芸名に用いた。続いて、お蔵入りし未発表作品となったデビュー2作目 『''[[:fr:La Fleur de l'âge (film, 1947)|La Fleur de l'âge]]'' 』(1947年) において、1作目から脚本で関わっていた詩人[[ジャック・プレヴェール]]が、芸名に"エーメ"を付け加えることを提案した。高校課程にあたる[[リセ]]課程は[[イギリス]]で学び、さらに演劇学校に通った<ref><!--アヌーク・エーメ フランス語版より-->{{cite web2|title=Anouk Aimée|url=http://cinema.encyclopedie.personnalites.bifi.fr/index.php?pk=47525|website=Ciné-Ressources|access-date=23 March 2010|publication-date=}}</ref>。 |
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[[1958年]]の『[[モンパルナスの灯]]』では[[アメデオ・モディリアーニ]]の妻[[ジャンヌ・エビュテルヌ]]を演じ、その美貌で世界的な人気を博した。その後、[[フェデリコ・フェリーニ]]監督の『[[甘い生活 (映画)|甘い生活]]』([[1960年]])や『[[8 1/2]]』([[1963年]])や[[ジャック・ドゥミ]]監督の『[[ローラ (1961年の映画)|ローラ]]』([[1961年]])などに出演した。 |
[[1958年]]の『[[モンパルナスの灯]]』では[[アメデオ・モディリアーニ]]の妻[[ジャンヌ・エビュテルヌ]]を演じ、その美貌で世界的な人気を博した。その後、[[フェデリコ・フェリーニ]]監督の『[[甘い生活 (映画)|甘い生活]]』([[1960年]])や『[[8 1/2]]』([[1963年]])や[[ジャック・ドゥミ]]監督の『[[ローラ (1961年の映画)|ローラ]]』([[1961年]])などに出演した。 |
2021年4月15日 (木) 22:36時点における版
アヌーク・エーメ Anouk Aimée | |||||||||||||||||||||||||
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1963年 | |||||||||||||||||||||||||
本名 | Françoise Sorya Dreyfus | ||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1932年4月27日(92歳) | ||||||||||||||||||||||||
出身地 | フランス・パリ | ||||||||||||||||||||||||
活動期間 | 1947年 - 現在 | ||||||||||||||||||||||||
配偶者 |
Édouard Zimmermann (1949年 - 1950年) ニコ・パタタキス (1951年 - 1954年) ピエール・バルー (1966年 - 1969年) アルバート・フィニー (1970年 - 1978年) | ||||||||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||||||||
『モンパルナスの灯』 『甘い生活』 『ローラ』 『8 1/2』 『男と女』 | |||||||||||||||||||||||||
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アヌーク・エーメ (アヌーク・エメ、アヌーク・エメー:Anouk Aimée 発音例, 本名: Françoise Sorya Dreyfus, 1932年4月27日 - ) は、フランス出身の女優。
70年以上のキャリアを誇る、欧州を代表する女優の一人。欧米各国で各賞を獲得するなど国際的にも高く支持され、「映画史上最もセクシーな女優の一人」とも評された[1]。晩年期に入った近年も、各地で名誉賞を受賞している。
来歴
1932年4月27日、パリで生まれた。両親はともにユダヤ系の舞台俳優(コメディ俳優)[2]。パリ9区のミルトン通り小学校に通っていたが、ユダヤ人迫害が激しくなってきたので、両親により送られたアキテーヌ地方のコニャック近郊バルブジュー=サン=ティレールで育った。ナチス・ドイツによるフランス占領期には、黄色の星を胸に身に付けるのを避ける為、母親の姓"デュラン"を名乗った。モルジヌの寄宿学校 (パンショナ, Pensionnat[3]) に入り、この頃ロジェ・ヴァディムとも知り合った[4]。
1947年、14歳の時にパリでその美貌からスカウトされ、アンリ・カレフ監督の『密会 (La Maison sous la mer) 』(1947年) に出演し、女優としてデビューした。その際、この作品の役名"アヌーク"を彼女が芸名に用いた。続いて、お蔵入りし未発表作品となったデビュー2作目 『La Fleur de l'âge 』(1947年) において、1作目から脚本で関わっていた詩人ジャック・プレヴェールが、芸名に"エーメ"を付け加えることを提案した。高校課程にあたるリセ課程はイギリスで学び、さらに演劇学校に通った[5]。
1958年の『モンパルナスの灯』ではアメデオ・モディリアーニの妻ジャンヌ・エビュテルヌを演じ、その美貌で世界的な人気を博した。その後、フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(1960年)や『8 1/2』(1963年)やジャック・ドゥミ監督の『ローラ』(1961年)などに出演した。
1966年、クロード・ルルーシュ監督の『男と女』でヒロインを演じ[6]、ゴールデングローブ賞「主演女優賞」と英国アカデミー賞「外国女優賞」を受賞し、「アカデミー主演女優賞」にもノミネートされた[7]。
1980年には『Salto nel vuoto』でカンヌ国際映画祭「女優賞」を受賞した。
晩年期に入ると、2002年 セザール賞「名誉賞」、2003年 ベルリン国際映画祭「金熊名誉賞」などの各名誉賞を受賞している。
私生活
1949年にEdouard Zimmermannと結婚したが、翌1950年に離婚。1951年にギリシャの映画監督ニコ・パパタキスと結婚して一子授かったが、1955年に離婚。その後、『男と女』で共演したフランスの音楽家・俳優のピエール・バルーと1966年に結婚したが、3年後の1969年に離婚。翌1970年にイギリスの俳優アルバート・フィニーと結婚したが、1978年に離婚した。
主な出演作品
公開年 | 邦題 原題 |
役名 | 備考 |
---|---|---|---|
1947 | 密会 La Maison sous la mer |
アヌーク | |
1949 | 火の接吻 Les Amants de Vérone |
ジョージア | |
1950 | 黄金の竜 Golden Salamander |
アンナ | |
1952 | 汽車を見送る男 The Man Who Watched Trains Go By |
ジャンヌ | |
1953 | 恋ざんげ Le Rideau cramoisi |
中篇映画 | |
ニーナ Nina |
ニーナ | ||
1957 | 奥様にご用心 Pot-Bouille |
マリー | |
1958 | モンパルナスの灯 Les Amants de Montparnasse |
ジャンヌ・エビュテルヌ | |
1959 | 旅
The Journey |
エヴァ | |
1959 | 今晩おひま? Les Dagueurs |
ジャンヌ | |
1960 | 甘い生活 La Dolce Vita |
マダレーナ | |
1961 | ローラ Lola |
ローラ/セシル | |
1962 | ソドムとゴモラ Sodome et Gomorrhe |
クイーン・ベラ | |
1963 | 史上最大の喜劇 地上最笑の作戦 Il giorno più corto |
||
8 1/2 8½ |
ルイーズ・アンセルミ | ||
太陽は傷だらけ Les Grands Chemins |
アンヌ | ||
1966 | 男と女 Un homme et une femme |
アンヌ | ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門) 受賞 英国アカデミー賞最優秀外国女優賞 受賞 |
1968 | イヴ・モンタンの深夜列車 Un soir, un train |
アンヌ | |
1969 | 約束 The Appointment |
カーラ | |
アレキサンドリア物語 Justine |
|||
1976 | 愛よもう一度 Si c'était à refaire |
サラ・ゴードン | |
1981 | ある愚か者の悲劇 La tragedia di un uomo ridicolo |
バーバラ | |
1986 | 男と女II Un Homme et une femme : vingt ans déjà |
アンヌ | |
1993 | 小悪魔とキッス Rupture(s) |
||
メランコリー Les Marmottes |
フランソワ | ||
1994 | プレタポルテ Prêt-à-Porter |
シモーヌ・ローヴェンタル | |
百一夜 Les cent et une nuits de Simon Cinéma |
|||
1995 | リュミエールの子供たち Les enfants de Lumiere |
||
世界で一番好きな人 Dis moi oui… |
クレア | ||
1996 | 男と女、嘘つきな関係 Hommes、femmes : Mode d'emploi |
未亡人 | |
1998 | GO! GO! L.A. L.A. without a map |
本人役 | クレジットなし |
2001 | カンヌ 愛と欲望の都 Festival in cannes |
ミリー・マルカン | |
2003 | フレンチなしあわせのみつけ方 Ils se marièrent et eurent beaucoup d'enfants |
ヴァンサンの母親 | |
2019 | 男と女 人生最良の日々 Les Plus Belles Années d'une vie |
アンヌ |
脚注
- ^ “Anouk Aimée”. Jewish Women's Archive. 2018年2月11日閲覧。
- ^ Flitterman-Lewis, Sandy. "Anouk Aimée", Jewish Women: A Comprehensive Historical Encyclopedia
- ^ 学校まで遠方の子供、育児放棄された子供らを主な対象とし、また男女別・共学問わずこの種の修道院が行う寄宿学校はパンシオナといい、アンテルナ (Internat) 同様、英語圏でいうボーディングスクールに相当。1905年政教分離法により宗教教育は廃止された。
- ^ Michel Ciment et Olivier Curchod, « Entretien avec Anouk Aimée : Au cinéma, je suis chez moi », ポジティフ « 60 ans de comédiens », no 617-618, 2012年7-8月号
- ^ "Anouk Aimée". Ciné-Ressources. 2010年3月23日閲覧。
- ^ “男と女”. シネマトゥデイ (2016年3月6日). 2018年2月11日閲覧。
- ^ “Elizabeth Taylor Wins Best Actress: 1967 Oscars”. Oscars. 2020年12月15日閲覧。