「カロリング朝」の版間の差分
メイヴィング・ティマイオス (会話 | 投稿記録) m イベリア総督アブドゥル・ラフマーン(アラビア語版、英語版)の部分を微修正。ウードの娘は殺されたのではなく、当時の第10第カリフヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクのハレムへ送られた。 |
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カロリング家の君主たちが進めた教会領の「還俗」はカロリング家とローマ教皇との間に疎隔をもたらしていたが、ボニファティウスを仲立ちとして両者は徐々に歩み寄った。[[739年]]頃からボニファティウスを通じてカール・マルテルと教皇は親密にやりとりしていた<ref>[[アンリ・ピレンヌ|ピレンヌ]]によれば、教皇は当時イタリア半島を脅かしていたランゴバルドに対してフランク王国が牽制を加えてくれるよう要請したらしい。カール・マルテルはしかし、イスラム教徒へ対抗するためにランゴバルド王の協力を必要としていたので、これには消極的であったという。</ref>。[[742年]]カールマンはアウストラシアで数十年間途絶えていた教会会議を召集した。[[745年]]にはボニファティウスを議長としてフランク王国全土を対象とする教会会議がローマ教皇の召集で開かれた。 |
カロリング家の君主たちが進めた教会領の「還俗」はカロリング家とローマ教皇との間に疎隔をもたらしていたが、ボニファティウスを仲立ちとして両者は徐々に歩み寄った。[[739年]]頃からボニファティウスを通じてカール・マルテルと教皇は親密にやりとりしていた<ref>[[アンリ・ピレンヌ|ピレンヌ]]によれば、教皇は当時イタリア半島を脅かしていたランゴバルドに対してフランク王国が牽制を加えてくれるよう要請したらしい。カール・マルテルはしかし、イスラム教徒へ対抗するためにランゴバルド王の協力を必要としていたので、これには消極的であったという。</ref>。[[742年]]カールマンはアウストラシアで数十年間途絶えていた教会会議を召集した。[[745年]]にはボニファティウスを議長としてフランク王国全土を対象とする教会会議がローマ教皇の召集で開かれた。 |
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[[751年]]ピピンはあらかじめ教皇[[ザカリアス (ローマ教皇)|ザカリアス]]の意向を伺い、その支持を取り付けた上で[[ソワソン]]に貴族会議を召集し、豪族たちから国王に選出された。さらに司教たちからも国王として推戴され、ボニファティウスによって[[王権神授説|塗油]]の儀式<ref>塗油の儀式は西ゴート王国の慣行から取り入れられたものである([[#佐藤ほか1995|『西洋中世史〔上〕』p.24]])。「'''[[政教分離の歴史#西ゴート王国|西ゴート王国]]'''」も参照。</ref>を受けた。[[754年]]には教皇[[ステファヌス |
[[751年]]ピピンはあらかじめ教皇[[ザカリアス (ローマ教皇)|ザカリアス]]の意向を伺い、その支持を取り付けた上で[[ソワソン]]に貴族会議を召集し、豪族たちから国王に選出された。さらに司教たちからも国王として推戴され、ボニファティウスによって[[王権神授説|塗油]]の儀式<ref>塗油の儀式は西ゴート王国の慣行から取り入れられたものである([[#佐藤ほか1995|『西洋中世史〔上〕』p.24]])。「'''[[政教分離の歴史#西ゴート王国|西ゴート王国]]'''」も参照。</ref>を受けた。[[754年]]には教皇[[ステファヌス2世 (ローマ教皇)|ステファヌス2世]]によって息子[[カール大帝|カール]]と[[カールマン (フランク王)|カールマン]]も塗油を授けられ、王位の世襲を根拠づけた。この時イタリア情勢への積極的な関与を求められ、[[756年]]には[[ランゴバルド王国]]を討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地を教皇に献上した(「[[ピピンの寄進]]」)。 |
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ピピン3世の時代には、キリスト教と王国組織の結びつきが強まった。おそらく[[763年]]ないし[[764年]]に改訂された「100章版」[[サリカ法典]]の序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「[[神の王国|神の国]]」とするような観念が見られる{{Sfn|勝田有恒|森征一|山内進|2004|p=70}}{{Sfn|五十嵐修|2001|pp=43-45}}。またピピン3世は王国集会に司教や修道院長を参加させることとし、さらにこれらの聖界領主に一定の裁判権を認めた。一方でこれらの司教や修道院長の任命権はカロリング朝君主が掌握していた。 |
ピピン3世の時代には、キリスト教と王国組織の結びつきが強まった。おそらく[[763年]]ないし[[764年]]に改訂された「100章版」[[サリカ法典]]の序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「[[神の王国|神の国]]」とするような観念が見られる{{Sfn|勝田有恒|森征一|山内進|2004|p=70}}{{Sfn|五十嵐修|2001|pp=43-45}}。またピピン3世は王国集会に司教や修道院長を参加させることとし、さらにこれらの聖界領主に一定の裁判権を認めた。一方でこれらの司教や修道院長の任命権はカロリング朝君主が掌握していた。 |
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=== カロリング朝時代 === |
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: カール・マルテルの子。メロヴィング朝の王を廃してフランク王に即位し、カロリング朝を開く。[[ローマ教皇]][[ステファヌス |
: カール・マルテルの子。メロヴィング朝の王を廃してフランク王に即位し、カロリング朝を開く。[[ローマ教皇]][[ステファヌス2世 (ローマ教皇)|ステファヌス2世]]に[[ラヴェンナ]]などを寄進([[ピピンの寄進]])。 |
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; [[カール大帝]](742年-814年、在位768年-814年) |
; [[カール大帝]](742年-814年、在位768年-814年) |
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: 800年に教皇により戴冠、[[西ローマ帝国]]の復興。[[カロリング朝ルネサンス]]といわれる時代を築く。 |
: 800年に教皇により戴冠、[[西ローマ帝国]]の復興。[[カロリング朝ルネサンス]]といわれる時代を築く。 |
2021年4月30日 (金) 21:53時点における版
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カロリング朝(カロリングちょう、仏: Carolingiens, 独: Karolinger)は、メロヴィング朝に次いでフランク王国2番目の王朝。宮宰ピピン3世がメロヴィング朝を倒して開いた。名称はピピン3世の父、カール・マルテルにちなむ。なお、「カロリング」は姓ではなく「カールの」という意味である。当時のフランク人には姓はなかった。
フランク族のカロリング家は代々フランク王国のメロヴィング朝に仕え、宮宰(宰相)を輩出してきた家系であった。はじめピピン1世(大ピピン)はフランク王国の分国(アウストラシア)の宮宰であったが、ピピン2世(中ピピン)においてはフランク王国全体の宮宰を務め、ピピン3世(小ピピン)に至っては遂にメロヴィング朝を廃しカロリング朝を開いた。
751年から987年までフランク王国やそれが分裂した後の東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国の王を輩出した。987年、西フランク王国の王家断絶をもって消滅した。
ピピン3世の子カール大帝の時代にはその版図はイベリア半島とブリテン島を除く今日の西ヨーロッパのほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに東ローマ帝国から独立した、新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は現実的には、後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリア・フランス・ドイツのもととなったが、理念上は中世を通じて西ヨーロッパ世界全体を覆っているものと観念されていた。
本記事ではカロリング家についても包括的に言及することとする。
歴史
フランク王国では7世紀半ばになると、各分王国で豪族が台頭し、メロヴィング家の王権は著しく衰退した。このような中、アウストラシアの宮宰を世襲していたカロリング家はピピン2世の時代に全分王国の宮宰を占め、王家を超える権力を持つようになった。
ピピン2世の子カール・マルテルはイベリア半島から侵入してきたイスラム教徒を撃退し、カロリング家の声望を高めた。
つづくピピン3世はローマ教皇の承認のもとで王位を簒奪し、カロリング朝を開いた。
メロヴィング王権の衰退
パリ勅令で各分王国での宮宰の影響力が増大したことは、ただちにメロヴィング王権の衰退に結びついたわけではなかった。宮宰は一面では豪族支配を統制し、王権の擁護者として振る舞った。ネウストリアでは特にそうであった。それに対してアウストラシアでは7世紀半ばにカロリング家による宮宰職の世襲がほぼ確立し、王権の影響の排除が進んだ。
659年にアウストラシアの宮宰でカロリング家のグリモアルド1世は王位簒奪を謀ったが、失敗し処刑された。673年ネウストリアでクロタール3世が没した際に宮宰エブロインは王権を擁護する立場から、テウデリク3世を擁立しようとしたが、豪族たちは自らが国王選挙に参加する権利があるとして、この決定を覆し、新たにキルデリク2世を擁立した。
680年ないし683年にはエブロインは暗殺され、王権に対する豪族の優位が確立された。アンリ・ピレンヌによると、豪族たちはこのころ司教職を通じて地方支配に浸透していたと思われる。ネウストリアにおける反エブロインの先頭に立ったのはオータンの司教レジェーであったが、彼は豪族の出身であった。また反エブロインの豪族たちをカロリング家は支援していた。一方でエブロインは王国全体に対するネウストリアの支配を強化するために、アウストラシアの分国王タゴベルト2世をおそらく暗殺した。これ以降アウストラシアでは分国王はほぼ無力となり、カロリング家の影響が一段と高まった。
このころアキテーヌはほとんど独立した状態となり、王権の支配を離れた。ブルグントでは宮宰職は空位同然であり、エブロイン死後のネウストリアの宮宰職も混乱し影響力を低下させた。エブロインは673年以降豪族たちの反発によって影響力を大幅に低下させていたが、675年ごろ豪族による国王キルデリク2世暗殺で豪族勢力に対する反発が強まると、権力を回復しレジェーを処刑して人事を一新した。しかしその暗殺後はウァラトがネウストリアの宮宰となったが息子のギスレマールによって追放され、ピピン2世の軍を破るなど一時強勢となるがおそらく暗殺された。ウァラトが再び宮宰となり、686年のその死後は女婿であったベルカールが跡を継いだが、豪族たちがすぐさま反乱した。
ピピン2世、全フランク王国宮宰
ネウストリアで国王と宮宰に対する豪族の反乱が起こると、ピピン2世はこれに介入し、687年テルトリーの戦いでネウストリア軍を破って、688年全王国の宮宰職を認められた。
カール・マルテル
714年12月ピピン2世が死ぬと、カロリング家の支配に対する反動が起こった。ピピン2世の死後6歳のテウドアルド(暗殺されたピピン2世の子グリモアルド2世の子)が宮宰の位を継ぐと、ピピンの妃プレクトルディスが後見したが、ネウストリアではこれに対する豪族の反乱が起こった。豪族たちはラガンフレッドなる人物を宮宰に推戴したが、カール・マルテルにうち破られた。
ピピン2世の庶子カール・マルテルによって717年にはクロタール4世が擁立され、カール・マルテルはアウストラシアの支配を確立した。
724年ごろにはおそらくネウストリアを平定し、アキテーヌを支配していたウードと和平を結んだ。ウードは719年からネウストリアの豪族と結んでカール・マルテルと敵対していたが、これ以降ウードの生きている間はカール・マルテルの有力な同盟者となった。
カール・マルテルは730年にアレマン人を、734年にフリース人を征服し領土を拡大した。また733年にはブルグントを制圧した。
イスラム勢力との戦いと名声獲得
このころイスラム教徒が北アフリカからジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに侵入し、711年には西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を支配するようになった。720年にはイスラム教徒の軍がピレネー山脈を越えてナルボンヌを略奪しトゥールーズを包囲した。ウードはイスラムの総督に自分の娘を嫁がせるなど融和を図る一方、732年にイスラム教徒が大規模な北上を企てた際にはカール・マルテルに援軍を求め、これを撃退した(トゥール・ポワティエ間の戦い)。
735年にウードが死ぬと、カール・マルテルはただちにアキテーヌを攻撃したが、征服には失敗し、ウードの息子ウナールに臣従の誓いを立てさせることで満足するにとどまった。軍を転じたカール・マルテルは南フランスに影響を拡大しようとし、マルセイユを占領した。このことが南フランスの豪族に危機感を抱かせ、おそらく彼らの示唆によって、737年にはアヴィニョンがイスラム教徒に占領された。カール・マルテルはすかさずこれを取り返し、ナルボンヌを攻撃したが奪回はできなかった。カール・マルテルはこのような軍事的成功によってカロリング家の覇権を確立した。737年にテウデリク4世が死んでから、カール・マルテルは国王を立てず実質的に王国を統治していた。
教会政策
カール・マルテルはフリースラントへのカトリック布教で活躍していたボニファティウスによる、テューリンゲン・ヘッセンなど王国の北・東部地域での教会組織整備を積極的に支援した。722年教皇グレゴリウス2世により司教に叙任されたボニファティウスは723年にカール・マルテルの保護状を得て、当時ほとんど豪族の私有となっていたこの地域の教会を教皇の下に再構成しようと試みた。ボニファティウスの努力によって、747年にカロリング家のカールマンが引退する頃にはこの地域の教区編成と司教座創設はほぼ完成された。またこれらの地域でローマ式典礼が積極的に取り入れられた。
一方でカール・マルテルはイスラム勢力に対抗するため軍事力の増強を図り[2]、自らの臣下に封土を与えるためネウストリアの教会財産を封臣に貸与した(「教会領の還俗」)。これにより鉄甲で武装した騎兵軍を養うことが可能となった。カール・マルテルの後継者カールマンはアウストラシアの教会財産においても「還俗」をおこなった。封臣は貸与された教会領の収入の一部を地代として教会に支払ったが、地代の支払いはしばしば滞った。この教会財産の「還俗」を容易にするため、修道院長や司教にカロリング家配下の俗人が多く任命された。
ピピン3世、カロリング朝の成立
741年のカール・マルテルの死後、王国の実権は2人の嫡出子カールマンとピピン3世、庶子グリフォによって分割されることとなっていたが、カールマンとピピン3世はグリフォを幽閉して、王国を二分した。743年、2人は空位であった王位にキルデリク3世を推戴した。747年カールマンはモンテ・カッシーノ修道院に引退し、ピピン3世が単独で王国の実権を握った。750年頃にはアキテーヌを除く王国全土がピピンの支配に服していた。
教会政策
カロリング家の君主たちが進めた教会領の「還俗」はカロリング家とローマ教皇との間に疎隔をもたらしていたが、ボニファティウスを仲立ちとして両者は徐々に歩み寄った。739年頃からボニファティウスを通じてカール・マルテルと教皇は親密にやりとりしていた[3]。742年カールマンはアウストラシアで数十年間途絶えていた教会会議を召集した。745年にはボニファティウスを議長としてフランク王国全土を対象とする教会会議がローマ教皇の召集で開かれた。
751年ピピンはあらかじめ教皇ザカリアスの意向を伺い、その支持を取り付けた上でソワソンに貴族会議を召集し、豪族たちから国王に選出された。さらに司教たちからも国王として推戴され、ボニファティウスによって塗油の儀式[4]を受けた。754年には教皇ステファヌス2世によって息子カールとカールマンも塗油を授けられ、王位の世襲を根拠づけた。この時イタリア情勢への積極的な関与を求められ、756年にはランゴバルド王国を討伐して、ラヴェンナからローマに至る土地を教皇に献上した(「ピピンの寄進」)。
ピピン3世の時代には、キリスト教と王国組織の結びつきが強まった。おそらく763年ないし764年に改訂された「100章版」サリカ法典の序文では、キリスト教倫理を王国の法意識の中心に据え、フランク人を選ばれた民、フランク王国を「神の国」とするような観念が見られる[5][6]。またピピン3世は王国集会に司教や修道院長を参加させることとし、さらにこれらの聖界領主に一定の裁判権を認めた。一方でこれらの司教や修道院長の任命権はカロリング朝君主が掌握していた。
カール大帝の時代、キリスト教帝国の成立
カール大帝末年のヨーロッパ。今日の政治的・宗教的枠組みにつながる構造が形成されている。
東方世界 | 東ローマ帝国|ブルガリア王国 |
---|---|
西方世界 | カール大帝の帝国|イングランド|ベネヴェント公国|アストゥリアス王国|ボヘミア |
イスラーム | アッバース朝|後ウマイヤ朝 |
周辺諸民族 | ノルマン人|フィン人|ピクト人|ウェールズ|アイルランド|スウェーデン人|ゴート人|デーン人|プロイセン人|バシュキル人|ヴォルガブルガル人|モルドヴィン人|ポーランド人|ハザール人|アヴァール人|マジャール人|セルビア |
768年にピピン3世が没すると、王国はカール大帝とカールマンによって分割された[7]。その後771年にカールマンが早逝したので、以降カール大帝が単独で王国を支配した。
773年にランゴバルド王デシデリウスがローマ占領を企てると、教皇ハドリアヌス1世はカール大帝に救援を求め、774年これに応じてデシデリウスを討伐し、支配地を併合して「ランゴバルドの国王」を称した[8]。
781年にはランゴバルド王の娘を娶ってフランク王国から離反的な態度を取っていたバイエルン大公タシロ3世に改めて臣従の宣誓をさせたが、788年にはバイエルン大公を廃して王国に併合した。また772年から王国北方のザクセン人に対して征服を開始し、30年以上の断続的な戦争の末に、804年併合した。
イスラム教徒に対しては778年ピレネー山脈を越えてイベリア半島へ親征したが、撤退を余儀なくされた(ロンスヴォーの戦い)。801年にはアキテーヌで副王とされていた嫡子ルートヴィヒによってピレネーの南側にスペイン辺境伯領が成立し、イスラム教徒への防波堤となった。このようにカール大帝の支配領域はイベリア半島とブリテン島を除いて、今日の西ヨーロッパをほぼ包含する広大なものとなった。
教皇からの帝冠
教皇レオ3世は800年のクリスマスにカール大帝にローマ皇帝としての帝冠を授け、西ローマ帝国の地に「ローマ皇帝」が復活した。ローマ教皇との結びつきが強くになるにつれ、帝権は神の恩寵によるものという観念が強まり、宗教的権威を持つようになった[9]。
教皇レオ3世のカール大帝への外交文書は東ローマ皇帝への書式に従い、教皇文書はカールの帝位在位年を紀年とするようになった。カール大帝は教会や修道院を厚く保護する一方、このような聖界領主から軍事力を供出させた。司教が世俗の仕事に関わる典拠とされたのは『旧約聖書』「サムエル記」であった。サムエルは人民を裁き、人民の罪を贖うために犠牲を捧げ、戦争においては従軍し、国王に塗油の儀式を行った。一方で『新約聖書』において、パウロは「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました」(新共同訳、「コリントの信徒への手紙 一」9.14)と述べていた。当時の聖職者の中には、この言葉が司教が世俗の職務に関わるべきではないことを述べていると考えた者もいた。そのためカール大帝はこの問題を教会会議に諮り、司教が世俗の義務を引き受けるべきであるという決定を得た[10]。世俗の領主と違って、聖界領主は世襲される心配がなかったからである。
またカール大帝は伯の地方行政を監察し、中央の権力を地方に浸透させるために国王巡察使を設けたが、これは一つの巡察管区に聖俗各1名の巡察使を置くものであった。カール大帝の「帝国」は、さまざまな民族を包含し、さらにそれらの民族それぞれが独自の部族法を持っている多元的な世界であったが、キリスト教信仰とその教会組織をよりどころとして、カロリング家の帝権がそれらを覆い、緩やかな統合を実現していた。君主のキリスト教化と教会組織の国家的役割の増大は、カロリング朝の帝国を1つの普遍的な「教会」、「神の国」としているかのようであった。
分割
広大な帝国はカール大帝自身の個人的な資質に支えられるところも大きく、またフランク人の伝統に従って分割される危険をはらんでいた。すなわちフランク王国では兄弟間による分割相続が慣習となり強固な法意識となっていたので、806年カール大帝は「王国分割令」を発布し、長子カールにアーヘンなど帝国中枢であるフランキアの、ピピンにイタリアの、ルートヴィヒにアキテーヌの支配権を確認し、帝権と王権をカール大帝が掌握するという形式をとった。その後ピピンとカールマンは早逝し、813年東ローマ皇帝がカールの帝権に承認を与えてのち、ルートヴィヒを共治帝とした。
西フランク王シャルル2世 | アキテーヌ|ガスコーニュ|ラングドック|ブルゴーニュ|イスパニア辺境 |
---|---|
中フランク王ロタール1世 | ロレーヌ|イタリア|ブルゴーニュ|アルザス|ロンバルディア|プロヴァンス|ネーデルランデン|コルシカ |
東フランク王ルートヴィヒ2世 | ザクセン|フランケン|テューリンゲン|バイエルン|ケルンテン|シュヴァーベン |
3分割
814年カール大帝が亡くなると、ルートヴィヒ1世は帝位と王権を継承した。817年に「帝国整序令」を出して長子ロタール1世を共治帝とし、次子ピピンにアキテーヌの、末子ルートヴィヒ2世にバイエルンの支配権を確認した。この時点ではロタール1世にイタリアの支配権も認められており、彼は後継者として尊重されていた。
しかしシャルル2世が生まれると、ルートヴィヒ1世はこの末子のために829年フリースラント・ブルグント・エルザス・アレマニアに及ぶ広大な領土を与えることとし、長兄であるロタール1世もこれを承認した。内心これを不満に思っていたロタール1世は830年反乱し、ルートヴィヒ1世を退位させて単独帝となったが、ピピンとルートヴィヒ2世がこれに対抗してルートヴィヒ1世を復位させた。その後840年のルートヴィヒ1世の死後も兄弟たちは激しい抗争を繰り広げた。
841年ロタール1世とシャルル2世、ルートヴィヒ2世はオセール近郊で戦い(フォントノワの戦い)、ロタール1世は敗北し、842年兄弟は平和協定を結び、帝国分割で合意することとなった。843年ヴェルダンで最終的な分割が決定され、帝国はほぼ均等に三分(西フランス王国、中フランス王国、東フランス王国)されることとなった(ヴェルダン条約)。
4王国
帝権は中フランス王国のロタール1世が保持し、さらに850年ロタール1世は子息ロドヴィコ2世にローマで戴冠させることに成功した。ロタール1世は855年、帝位とイタリア王国をロドヴィコ2世に、次子ロタール2世にロートリンゲン、三男のシャルルにブルグントの南部とプロヴァンスの支配を認めた。863年にプロヴァンス王・シャルルが死ぬと、遺領はルートヴィヒ2世とロタール2世の間で分割され、帝国はイタリア・東フランク・西フランク・ロートリンゲンの4王国で構成されることとなった。
869年にロタール2世も没すると、西フランク王シャルル2世がロートリンゲンを継承したが、翌870年東フランク王ルートヴィヒ2世がこれに異を唱え、両者はメルセンで条約を結び、ロートリンゲンを分割した(メルセン条約)[11]。
西フランク王シャルル2世は875年のロドヴィコ2世の死後、イタリア王国と帝位を確保した。876年の東フランク王ルートヴィ2世の死に際して、シャルル2世は東フランクにも支配権を及ぼそうとしたが、アンデルナハ近郊でルートヴィヒ2世の息子たちと戦って敗れ、翌877年失意のうちに没した。
分裂後のカロリング朝国家
カール大帝の帝国は王家の分割相続により瓦解した。885年にはカール3世によって帝国が再統一されるが、一時的なことに過ぎず、887年には東フランク王アルヌルフによって廃位に追い込まれた。
翌888年には西フランク王位がパリ伯ウードに移り、一時的にではあるがカロリング家の血統から外れた。ウードは支配の正統性を維持するためにアルヌルフの宗主権を認め、のちにはカロリング家のシャルル3世を後継者として認めざるをえなかったが、ウードの即位は明らかにフランク王国史の新展開を告げるものであった。西フランク王位はこれ以後、カロリング家とロベール家の間を行き来し、やがて987年にはユーグ・カペーの登位とともにカペー朝が創始され、のちのフランス王国へと変貌を遂げ始めた。
この時代は北からノルマン人・南からムスリム・東からマジャール人が侵入し、これにカロリング家の君主はうまく対応することが出来ず、逆に辺境防衛を担った貴族が軍事力を高めるとともに影響力も強めた。前述のパリ伯ウードも対ノルマン防衛で声望を集めた人物であり、東フランクでもフランケンやバイエルン・ザクセンなどの大公・辺境貴族が台頭し、東フランク王国の統合の維持に努めながらも、自らの支配領域を拡大していった。彼らは地域における主導権争いに勝利して地域内において国王類似の権力を有するようになり、やがてカロリング家が東フランクで断絶すると、これら有力貴族が玉座に登ることとなり、のちのドイツ王国の枠組みが形成されていく。この過程で王国の統一維持の観点から、王国の分割相続が徐々に排除されるようになり、10世紀にはカロリング朝国家のいずれにおいても単独相続の原則が確立された。
北イタリアでは、888年以降カロリング家の影響が弱まると、異民族の侵入と諸侯による王位争奪の激化から都市が防衛拠点として成長し始めた。ブルグント王国も888年に独立し、1032年に神聖ローマ帝国に併合されるまで独立を維持した。
カロリング・ルネサンス
カール大帝の宮廷は文化運動の中心となり、そこに集まる教養人の集団は「宮廷学校」と呼ばれた。この文化運動の担い手たちは、西ゴート人・ランゴバルド人・イングランド人などフランク王国外出身者が多かった。9世紀以降、文化運動の中心は修道院へと移り、書物製作や所蔵に大きな役割を担った。このような例としてはトゥールのサン・マルタン修道院などが有名である。このカロリング・ルネサンスは神政的な統治政策に対応した文化運動であり、正しい信仰生活の確立を目指すものであった。聖書理解の向上、典礼書使用の普及、教会暦の実行において正統信仰に基づくことが目指され、すでに地域差が著しくなっていた俗ラテン語から古典ラテン語へと教会用語の統一が図られた。これによりラテン語が中世西欧世界の共通語となる。一方で、典礼形式の確立と聖職者改革によって、カロリング・ルネサンスは文化の担い手を俗人から聖職者へと転回させ、俗人と聖職者の間の文化的隔たりを広げる結果ももたらした。
カロリング・ルネサンスの意義については、文献についての基本的な2つの要素、書記法と記憶媒体の変質が特に中世文化の成立に大きな意義を持った。カール大帝は従来の大文字によるラテン書記法を改革して、カロリング小字体を新たに定めた。この統一された字体を用いて、さまざまな文献を新たにコデックス[12]に書き直され、著述と筆写が活発になされた。書物の形態の変化とともに、書写材料はパピルスから羊皮紙に変化した。
カロリング家の歴代人物
メロヴィング朝時代
- ピピン1世(大ピピン)(?-639年)
- カロリング家の始祖。メロヴィング朝フランク王国の分国(アウストラシア)で宰相として仕えた。
- ピピン2世(中ピピン)(640年?-714年)
- 大ピピンの外孫。687年のテルトリーの戦いでフランク王国の実権を握る。
- カール・マルテル(688年?-741年)
- 中ピピンの庶子。宰相としてフランク王国を統一する。732年、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝イスラーム帝国を撃退する。
カロリング朝時代
- ピピン3世(小ピピン)(714年-768年、在位751年-768年)
- カール・マルテルの子。メロヴィング朝の王を廃してフランク王に即位し、カロリング朝を開く。ローマ教皇ステファヌス2世にラヴェンナなどを寄進(ピピンの寄進)。
- カール大帝(742年-814年、在位768年-814年)
- 800年に教皇により戴冠、西ローマ帝国の復興。カロリング朝ルネサンスといわれる時代を築く。
- ルートヴィヒ(ルイ)1世(敬虔王)
- 817年に3人の息子たちに王国を分割相続させる法律を作り、死後、フランク王国は分裂する。
フランク王国分裂後
ルートヴィヒ1世の死にあたり、3人の子息が存命していた。当時の慣習から、領地は分割相続により継承され、843年のヴェルダン条約により確定した。現在のフランスにあたる地域は、末子シャルル2世 (禿頭王) 領の西フランク王国に、ロートリンゲンおよびイタリア北部は、長男ロタール1世領のロタール王国に、現在のドイツにあたる地域は、三男ルートヴィヒ領の東フランク王国として分割、相続された。帝位は長男ロタール1世が継承し、その子孫が世襲した。その後の870年にはメルセン条約により、ロートリンゲンは、東西フランク王国が分割し、イタリア北部はロタール1世の子、皇帝ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世)領のイタリア王国となる。しかし、ルートヴィヒ2世には男子がおらず、この血統は断絶する。東フランク王国は、911年のルートヴィヒ4世の死をもって、西フランク王国は、987年のルイ5世の死をもって男系王位継承が途絶え、カロリング朝は断絶した。
家系図
アルヌルフ メッツ司教 | ピピン1世 c.580 - 640 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アンゼギゼル ? - c.662 | ベッガ ? - 693 | ゲルトルート 625 - 659 | グリモアルド1世 c.615 - 661 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ピピン2世 635? - 714 | クロチルダ (テウデリク3世妃) | キルデベルト養子王 アウストラシア王 ? - 662 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
グリモアルド2世 | カール・マルテル 686 - 741 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
テウドアルド | カールマン 706/13 - 754 | ピピン3世 (751 - 768) | ベルンハルト | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール1世 (大帝) (768 - 814) [800 - 814] | カールマン (768 - 771) | アーダルハルト コルビー修道院長 | ヴァラ コルビー修道院長 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ピピン イタリア王 | ルートヴィヒ1世 ([814 - 840]) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ベルナルド イタリア王 | ロタール1世 (840 - 843) 中フランク王 (843 - 855) [840 - 850] | ルートヴィヒ2世 東フランク王 (843 - 876) | シャルル2世 西フランク王 (843 - 877) [875 - 877] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴェルマンドワ伯家 1122年断絶 | ロドヴィコ2世 (844 - 875) [855 - 875] | ロタール2世 ロタリンギア王 (855 - 869) | シャルル プロヴァンス王 (855 - 863) | カールマン (876 - 879) | ルートヴィヒ3世 (879 - 882) | カール3世 (876 - 887) [879-887] | ルイ2世 (877 - 879) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アルヌルフ (887 - 899) [896 - 899] | ルイ3世 (879 - 882) | カルロマン (879 - 884) | シャルル3世 (893 - 923) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルートヴィヒ4世 (900 - 911) | ルイ4世 (936 - 954) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ロテール (954 - 986) | シャルル 下ロレーヌ公 (978 - 991) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ5世 (986 - 987) | オトン 下ロレーヌ公 (991 - 1012) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
()は王位在位年。[]は西ローマ皇帝在位年。
脚注
- ^ 元図上の青色の凡例に「小ピピン死没時のフランク王国(758年)」とあるが768年の誤り。福井(編)の山川世界各国史『フランス史』(2001)の年表を参照した。図の下につけた日本語凡例では図の主旨を汲んで「カール即位時のフランク王国」とした。
- ^ イスラム勢力に対抗するためというのは通説的な見解。『世界歴史大系 フランス史1』での佐藤彰一(2001)によれば、カール・マルテルの積極的な軍事行動が長距離移動に適した騎兵軍の創設を促したという。
- ^ ピレンヌによれば、教皇は当時イタリア半島を脅かしていたランゴバルドに対してフランク王国が牽制を加えてくれるよう要請したらしい。カール・マルテルはしかし、イスラム教徒へ対抗するためにランゴバルド王の協力を必要としていたので、これには消極的であったという。
- ^ 塗油の儀式は西ゴート王国の慣行から取り入れられたものである(『西洋中世史〔上〕』p.24)。「西ゴート王国」も参照。
- ^ 勝田有恒, 森征一 & 山内進 2004, p. 70.
- ^ 五十嵐修 2001, pp. 43–45.
- ^ この時カール大帝はアウストラシア北部・ネウストリアなどの王国北部を、カールマンはアウストラシア南部・ブルグント・アレマニアなど王国南部を領した。堀越孝一(2003)『新書ヨーロッパ史・中世編』によれば、カール大帝はランゴバルド王の娘ゲルペルカと結婚したが、おそらくそれはカールマンへの牽制の意味があったという。カールマンが死ぬと、カール大帝はゲルペルカと離婚した。後世になるとゲルペルカをカールマンの妃とする説話が作られたという。それに対し五十嵐修 (2001)はカールマンの妃をゲルベルガとし、カールの妃であったランゴバルト王女は名称不明としている。
- ^ ランゴバルド討伐の際ローマの復活祭に出席したカール大帝はヴェネツィア・スポレート・ベネヴェントなどを新たに教皇に寄進することを約束した。しかし、この約束は履行されなかった。ランゴバルド人であるベネヴェント公は東ローマ帝国と結びついてイタリアにおける皇帝の代理人として認められた。カール大帝はしばしばベネヴェント公国を攻撃したが、宗主権を完全に及ぼすことはついにできなかった。
- ^ たとえばカール大帝は聖像破壊運動を排斥した787年のニカイア公会議を偶像崇拝を認めたとして、『カールの書』やフランクフルト教会会議を通じて批判するなど、キリスト教の教義問題にも介入する姿勢を見せた。このニカイア公会議によって実際に確認されたことは、聖像への「尊敬」はそこに描かれた聖人へ向けられたものであるとし、それは神にのみ向けられるべき「尊崇」とは区別されるため、容認されるということであった(尚樹啓太郎 1999, p. 387、クラウス・リーゼンフーバー 2003, pp. 133–134)。また802年の一般巡察使勅令などで聖職者の腐敗を厳しく戒め、その倫理性を高めようとしている。すなわち国王巡察使は伯の地方行政を監視するとともに、一面で聖職者の風紀についても改善を目指す職務を求められていた
- ^ R・W・サザーン 2007, pp. 196–197.
- ^ その後880年のリブモン条約によってロートリンゲン全域は東フランク王国の支配下に帰した。
- ^ コデックスとは、4世紀末ごろから使われだした、従来の巻物に代わるページと折り丁を持つ記憶媒体の新しい形態で、より今日の書物に近いものである。巻物が口述筆記と音読を主とするものであったのに対し、コデックスの一般化によって黙読と欄外注の使用など新しい筆記形態が登場し、中世は書物を重要な文化要素とするようになった。西ヨーロッパでは、13世紀ごろには黙読が一般化した。
参考文献
- 佐藤彰一ほか(編著) 編『西欧中世史〈上〉―継承と創造』ミネルヴァ書房〈MINERVA西洋史ライブラリー〉、1995年。ISBN 4623025209。
- 堀越孝一(編) 編『新書ヨーロッパ史・中世編』講談社〈講談社現代新書〉、2003年。ISBN 4061496646。
- R・W・サザーン『西欧中世の社会と教会―教会史から中世を読む』八坂書房、2007年。ISBN 4896948882。
- 五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 : カール大帝の「ヨーロッパ」』講談社〈講談社選書メチエ〉、2001年。ISBN 4062582244。
- 勝田有恒、森征一、山内進『概説西洋法制史』ミネルヴァ書房、2004年。ISBN 4062582244。
- 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年。ISBN 4486014316。
- クラウス・リーゼンフーバー『中世思想史』平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2003年。ISBN 4582764851。
- 『フランス史〈1〉』柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦(編)、山川出版〈世界歴史大系〉、2001年。ISBN 9784634414204。
- 福井憲彦(編) 編『フランス史』 12巻、山川出版〈新版世界各国史〉、2001年。ISBN 9784634414204。