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「ソロレート婚」の版間の差分

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*[[パルマ公国|パルマ公]][[ラヌッチョ2世・ファルネーゼ]] - 公妃[[イザベッラ・デステ (パルマ公妃)|イザベッラ]]、[[マリーア・デステ|マリア]]
*[[パルマ公国|パルマ公]][[ラヌッチョ2世・ファルネーゼ]] - 公妃[[イザベッラ・デステ (パルマ公妃)|イザベッラ]]、[[マリーア・デステ|マリア]]
*[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント2世]] - 王太子時代の妃[[エリーザベト・フォン・エスターライヒ (1526-1545)|エリーザベト]]、最後の王妃[[カタリーナ・フォン・エスターライヒ (1533-1572)|カタリーナ]](2人の間に別の妃が1人いる)
*[[ポーランド王国|ポーランド]]王[[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント2世]] - 王太子時代の妃[[エリーザベト・フォン・エスターライヒ (1526-1545)|エリーザベト]]、最後の王妃[[カタリーナ・フォン・エスターライヒ (1533-1572)|カタリーナ]](2人の間に別の妃が1人いる)
*ポーランド王(兼[[スウェーデン]]王)[[ジグムント3世]] - 王妃[[アンナ・フォン・エスターライヒ (1573-1598)|アンナ]]、[[コンスタンツェ・フォン・エスターライヒ|コンスタンツェ]]
*ポーランド王(兼[[スウェーデン]]王)[[ジグムント3世 (ポーランド王)|ジグムント3世]] - 王妃[[アンナ・フォン・エスターライヒ (1573-1598)|アンナ]]、[[コンスタンツェ・フォン・エスターライヒ|コンスタンツェ]]
*[[メクレンブルク=シュトレーリッツ|メクレンブルク=シュトレーリッツ大公]][[カール2世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|カール2世]] - 世子時代の妃[[フリーデリケ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (1752-1782)|フリーデリケ]]、[[シャルロッテ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|シャルロッテ]]
*[[メクレンブルク=シュトレーリッツ|メクレンブルク=シュトレーリッツ大公]][[カール2世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|カール2世]] - 世子時代の妃[[フリーデリケ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (1752-1782)|フリーデリケ]]、[[シャルロッテ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|シャルロッテ]]
*[[インファンテ (称号)|スペイン王子]]・モリナ伯[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|カルロス]] - ポルトガル王女[[マリア・フランシスカ・デ・アシス・デ・ブラガンサ|マリア・フランシスカ]](姪)の死後、その姉[[マリア・テレザ・デ・ブラガンサ|マリア・テレザ]](スペインおよびポルトガル王子[[ペドロ・カルロス・デ・ボルボーン|ペドロ・カルロス]]の未亡人)と再婚した。
*[[インファンテ (称号)|スペイン王子]]・モリナ伯[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|カルロス]] - ポルトガル王女[[マリア・フランシスカ・デ・アシス・デ・ブラガンサ|マリア・フランシスカ]](姪)の死後、その姉[[マリア・テレザ・デ・ブラガンサ|マリア・テレザ]](スペインおよびポルトガル王子[[ペドロ・カルロス・デ・ボルボーン|ペドロ・カルロス]]の未亡人)と再婚した。

2021年7月17日 (土) 22:15時点における版

ソロレート婚(ソロレートこん)またはソロラト婚(ソロラトこん)は、世界中で広くみられる二次婚のひとつ。妻が死んだ後、夫が妻の姉妹と結婚する慣習。

夫が死んだ後に妻が夫の兄弟と結婚する慣習は、レビラト婚という。

概要

ソロレート婚の目的は、結婚によって培われた家族の資産が崩壊するのを防ぐことにある。日本では順縁婚(じゅんえんこん)ともいう。なお、ソロレート婚とレビラト婚(逆縁婚)を総称して日本ではもらい婚ともいう。

中世ヨーロッパではレビラト婚とともに教会法で禁じられていたものの、王侯の間で行われた例はある。また、正式な婚姻は交わしていなかったが、婚約していた相手が急死したため、その姉妹と婚約し、結婚したという事例もある。例えば、ナポリフェルディナンド4世は、当初オーストリア大公女マリア・ヨーゼファと婚約していたが、マリア・ヨーゼファが急死したため、その妹マリア・カロリーナと結婚した。

日本では、武家に嫌われていた逆縁婚よりは寛容に扱われ、明治初年に地方自治体で要許可制にしたところもあったとされるが、基本的に申請を行えば大部分は許可されていたという[1]

中国では、特に春秋戦国時代、王女・公女は他国の君主に嫁ぐ際に、その妹も側室(媵妾)として共に嫁いだ。元の正室が早世した場合、媵妾は正室に昇格した。後世に皇室でもよく見られ、皇后の早世後に、元后の妹が新しい皇后として入内した(または側室から昇格した)。その目的は、后の一族が地位を保ち続けることにあった。なお、逆縁婚は嫌われた。

歴史上の人物による例

以下の例がみられる。

中国

姉妹が同時に嫁いだ例を含む。

日本

朝鮮

南アジア・西アジア

ヨーロッパ

出典

  1. ^ 福島 正夫 (1973年11月1日). “青年小野梓の家族制度論” (PDF). 早稲田法学 (早稲田大学) 49 (1): 55-106. ISSN 0389-0546. NAID 120000788991. http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/1916/1/A03890546-00-049010055.pdf 2011年8月9日閲覧。. 

関連項目