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「球磨 (軽巡洋艦)」の版間の差分

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2021年9月18日 (土) 07:13時点における版

球磨
1930年頃の球磨
基本情報
建造所 佐世保海軍工廠[1]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 二等巡洋艦[2](軽巡洋艦[3])
級名 球磨型[4]
母港[5][6]
艦歴
計画 大正6年(1917年)度計画(八四艦隊完成案)[7]
発注 1917年7月31日製造訓令[8]
起工 1918年8月29日[1][9]
進水 1919年7月14日[1][10]
竣工 1920年8月31日[1][11]
最期 1944年1月11日戦没
除籍 1944年3月10日[5]
要目(竣工時)
基準排水量 公表値:5,100英トン[1]
常備排水量 計画:5,500英トン[1][12]
竣工時:5,584.8英トン[13]、または5,496.5英トン[14]
全長 162.458m[13]
水線長 158.959m[13]
垂線間長 152.309m[13]
水線幅 14.249m[13]
深さ 8.854m[13]
吃水 常備:4.774m[13][15]
満載:5.690m[15]
ボイラー ロ号艦本式重油専焼水管缶大型6基、小型4基[16]
同石炭・重油混焼水管缶2基[16]
主機 高圧技本式衝動・低圧反動式オール・ギヤード・タービン4基[17]
推進 4軸 x 380rpm(計画)[16]
直径11 ft 0 in (3.35 m)[16]、ピッチ3.429m[17]
出力 公試成績:91,229SHP[18][19]
速力 34.266ノット[18]
燃料 計画:重油 1,260トン[20]石炭 370トン[12][注釈 1]
航続距離 計画:5,300カイリ / 14ノット[12][注釈 2]
乗員 竣工時定員 450名[21][22]
最終時乗員 518名[23]
兵装 竣工時[24]
50口径三年式14cm砲単装7基7門
40口径三年式8cm単装高角砲2門
三年式機砲2挺
六年式(53cm)連装発射管4基8門
六年式53cm魚雷16本
五号機雷150個
装甲 舷側:63.5mm(25.4+38.1mmHT鋼)[25]
甲板:6.35-28.6mmHT鋼(上甲板)[25]
司令塔:50.8mm(12.7+38.1mmHT鋼)[25]
搭載艇 1920年:7隻[26](27フィート通船1隻を含む[27])
1941年:11m内火艇2隻、9m内火艇1隻、9mカッター3隻[27]
搭載機 竣工時:1機[28]
その他 信号符字:GQRO[29]
(無線電信)略符号:JLA[30]
計画要目は球磨型軽巡洋艦を参照
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球磨(くま[31])は、日本海軍の二等巡洋艦[2](軽巡洋艦)。 球磨型1番艦[4]熊本県を流れる球磨川に因み球磨と命名[32]。 帝国海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照。

概要

水雷戦隊の旗艦を担うため球磨は14隻の5500トン型軽巡洋艦(球磨型5隻、長良型6隻、川内型3隻)の最初の艦。

主砲には14センチ単装砲を7門装備、3番・4番の砲が両舷に分かれて設置されている為、片舷への同時砲撃は6門。1~4番までの4門が前部に5~7番までの3門が後部に配置されている。

長門型戦艦でさえ竣工時は80,000馬力だった中、完成当初90,000馬力という大出力を活かして36ノットという高速を誇り、14センチ砲を7門・53センチ魚雷連装発射を4基備えた当時としては強武装を誇ったが、建造からかなりの年数が経過していたこともあり、太平洋戦争には改装を経て参加した。

艦型

竣工時

球磨型軽巡洋艦#艦型を参照。前部マスト横桁の位置が多摩などと違いがあり、若干高い位置に設置された[33]

竣工後

  • 1924年(大正13年)頃、魚雷戦指揮用の測的所が前部マスト上に設置された[34]
  • 1929年(昭和4年)から翌年頃に球磨は特別修理を行ったが、この時に3本の煙突のトップに雨水除け装置を装着した[34]。球磨に装着された装置は開発初期のもので煙突のトップが3本共に膨らみが出来た[34]。5,500トン型では他に煙突のトップが膨らみのあるのは木曽の1番煙突、2番煙突のみで、他の同型艦との大きな識別点になった[34]

近代化改装

1932年(昭和7年)9月8日から12月1日にかけて球磨は呉海軍工廠[35][36]近代化改装を受けた[37]。主眼の一つは航空兵装の充実で、5番砲と6番砲の間に呉式二号(一型[35][36])射出機を装備し、九〇式水上偵察機1機を搭載した[37]。水偵の揚げ降ろし用に後部マストにデリックが設けられ、後部マストは基部が三脚式になった[37]。また作業用に射出機付近のシェルター甲板が右舷側に拡大された[37]

艦橋は羅針艦橋の側壁と天蓋が固定式となり、ガラス窓が設置された[37]。また艦橋上に3.5m測距儀が設置され、艦橋の側面左右に見張所が新設された[37]。 上部艦橋平面(羅針艦橋の1甲板下)は後方に拡大されて士官休憩室や作戦室を設置、旗甲板は羅針艦橋レベルに上げられた[38]。 また旗甲板の後方、前部マスト三脚内に無線電信室が新設された[38]。その他に前部マスト中段の測的所の1段上に前部見張所が新設された[38]

後部マスト三脚部に須式90cm探照灯2基(従来は1基)が装備され、その下に見張所も設置された[36]。 その他に短艇甲板が後方(後部魚雷発射管上)に延長され、長良型・川内型と同様に7番砲まで甲板が続く形になった[38]

1941年まで

  • 1935年(昭和10年)11月から翌年2月に3年式機砲を(留式[39])7.7mm機銃に換装した[40]。同時期に友鶴事件による復元性能改善工事と第四艦隊事件による船体補強工事を行い[41]、固定バラスト200トンを搭載した[42]。またボイラーの重油専焼化も行った[41]。この時点(1937年8月5日調査)で公試排水量7,151トン(平均吃水5.670m)、満載排水量7,823トン(平均吃水6.050m)になっていた[42]
  • 1936年(昭和11年)6月から翌年3月の間に前部マストのトップが短縮された[38]
  • 1937年(昭和12年)11月から12月に射出機を呉式二号三型に換装した[35]。同時に8cm高角砲2門を25mm機銃連装2基に換装した[40]
  • 1940年(昭和15年)8月から翌年1月に後部マスト上に装備の90cm探照灯2基を九二式110cm探照灯1基を換装[38]、後部マスト探照灯下にあった見張所が撤去され、その位置に探照灯が下げられた[37][43]
  • 1941年(昭和16年)夏に舷外電路が設置された[44]

太平洋戦争時

  • 1942年(昭和17年)夏には14cm砲の上に留式7.7mm機銃を装備した[45]
  • 1943年(昭和18年)10月23日から11月12日にシンガポールの第101工作部で5番14cm砲、射出機と後部マストのデリックを撤去、後部発射管上に左右舷各1基ずつの25mm3連装機銃を装備した[46]。25mm機銃は3連装2基、連装2基となった[47]

艦歴

建造

球磨は1917年(大正6年)7月31日に製造の訓令が出された[8]。計画時の名称は「第1号中型巡洋艦」[48]。同年8月20日附達で()()と命名される。1918年(大正7年)8月29日佐世保海軍工廠で起工[9]1919年(大正8年)7月14日午前9時進水[49]1920年(大正9年)8月31日に竣工した[11]呉鎮守府[6]

竣工後

竣工後すぐにシベリア出兵のためのシベリアへの日本軍の上陸を掩護する任務に就いた。続いて、旅順を拠点として関東州から青島にかけての中国沿岸の哨戒に当たった。

1920年12月1日、第二艦隊第四戦隊に編入[50]。1921年12月1日、第一艦隊第三戦隊に編入[50]。1923年12月1日、予備艦となる[50]。1926年12月1日、第一艦隊第三戦隊に編入[50]。1927年6月20日、予備艦となる[50]。12月1日、第二遣外艦隊に編入[50]。1928年12月1日、予備艦となる[50]。1930年5月1日、第二遣外艦隊に編入[50]。1932年9月8日、予備艦となる[50]。12月1日、第二艦隊第二潜水戦隊に編入[50]。第二潜水戦隊旗艦となった[51]。1933年11月1日、馬公要港部に編入[50]。1934年11月15日、第三艦隊第十戦隊に編入[50]。1936年12月1日、予備艦となる[50]。1937年11月20日、第四艦隊附属となる[50]。12月1日、第四艦隊第三潜水戦隊に編入[50]。1938年6月20日、第四艦隊第四航空戦隊に編入[50]。 6月26日、第四航空戦隊司令官鮫島具重少将は、第四航空戦隊旗艦を水上機母艦能登呂から球磨に変更した[52]。 8月1日、第四航空戦隊は第十三戦隊に改編される形で解隊された[53]。鮫島少将は第十三戦隊(球磨、第11掃海隊、第2砲艦隊)司令官に補職され[54]、球磨を第十三戦隊旗艦とした[53]。 12月15日、第四艦隊第十二戦隊に編入[50]。1939年11月15日、特別役務艦となる[50]。1940年8月1日、予備艦となる[50]

フィリピン侵攻

1941年(昭和16年)4月10日、「球磨」は第三艦隊第十六戦隊に編入された[50]

太平洋戦争緒戦では軽巡洋艦長良を除いた第十六戦隊は重巡洋艦摩耶、特設水上機母艦讃岐丸、駆逐艦2隻と共に比島部隊主隊としてフィリピン進攻作戦に参加した[55]。主隊の任務はフィリピンのビガン攻略を行なう第二急襲隊の支援であった[56]。「讃岐丸」を除く主隊の球磨、重巡洋艦足柄、摩耶、駆逐艦朝風松風は12月7日に澎湖諸島馬公から出撃[57]。12月10日、主隊はアメリカ海軍第10哨戒航空団のPBYに発見され、続いて哨戒航空団の飛行艇(500ポンド爆弾4発搭載)5機による攻撃を受けたが命中弾はなかった[58]。この後、主隊は碣石湾を経て12月14日に馬公に帰投した[57]

12月17日、主隊からは駆逐艦2隻が抜け特設水上機母艦山陽丸が加わった[59]。足柄、摩耶と球磨は12月19日に馬公から出撃してリンガエン湾上陸作戦支援にあたり、12月23日に馬公に帰投した[60]

1942年(昭和17年)1月3日、日本海軍はフィリピン攻略・警備・海上交通保護のため球磨、敷設艦八重山、砲艦隊1隊、特別根拠地隊2隊と附属隊をもって第三南遣艦隊を編成した[61][62]。艦隊の当初の任務は、マニラ湾口の封鎖や、フィリピン各地の制圧・占領であった[61][63]。 第三南遣艦隊令長官に親補された杉山六蔵海軍中将は[61][64]、1月6日に高雄市で球磨に将旗を掲げた[65]。艦隊司令部は1月9日にマニラへ進出、陸上に司令部を置いた[62]。球磨は1月10日に高雄市を出港し[66]、2月27日までフィリピン諸島の哨戒に当たった[67]

同年3月、球磨は南フィリピンの侵攻の掩護に就き、3月1日にセブ港を砲撃し3月3日にミンダナオ島サンボアンガへの上陸を掩護した。球磨に乗船していた特設鎮守府特別陸戦隊が、抑留されていた80人の日本人を救出した[67]。同時期、日本海軍は第三南遣艦隊を増勢し、2月中旬に水雷艇3隻(13日〈雉・鴻〉、15日〈粟〉)、3月6日に第6駆逐隊()を編入した[63]。 当時、アメリカ軍のコレヒドール要塞は陥落しておらず、日本海軍は日本陸軍の第14軍に協力してフィリピン各地の作戦に従事した[68]。またフィリピン各地の島嶼を占領するため、護衛艦艇として第二水雷戦隊と第四水雷戦隊から駆逐隊が第三南遣艦隊に増強された。

4月初旬、日本陸軍はビサヤ諸島とミンダナオ島の攻略を企図した[69]。4月5日、川口支隊は第2駆逐隊(第四水雷戦隊)の護衛下でリンガエン湾を出撃した[69]。 4月9日未明、フィリピンタノン海峡南側出口で球磨と水雷艇はアメリカの魚雷艇PT-34およびPT-41英語版と交戦した。PT-34の発射したMk18魚雷英語版8発のうち1発がおそらく球磨に命中したが、爆発しなかった[70]。PT-34は水上機母艦讃岐丸から発進した零式水上観測機により撃沈された[71]

4月10日[69]、球磨は川口支隊(第2駆逐隊護衛)歩兵第35旅団司令部及び歩兵第124連隊のセブ島上陸を支援した。同日、日本海軍は南方方面を統轄する南西方面艦隊を新編した[72]。第三南遣艦隊も南西方面艦隊の麾下に入った[72]。 4月12日、河村支隊は第24駆逐隊(海風、山風、江風)に護衛されてリンガエン湾を出撃し、パナイ島へむかった[69]。4月16日、球磨は河村支隊(第24駆逐隊護衛)の歩兵第9旅団司令部及び歩兵第41連隊パナイ島への上陸を援護した。 5月6日、球磨は、マニラ湾コレヒドール島のアメリカ軍要塞への最終的な攻撃を援護した。 要塞が陥落してフィリピンの米軍が降伏すると[73]、増援の駆逐隊[68](第2駆逐隊〈村雨五月雨夕立春雨〉、第24駆逐隊〈海風山風江風〉、第15駆逐隊〈親潮黒潮早潮〉)は原隊に復帰してミッドウェー作戦に参加した(フィリピンの戦い)。

球磨は8月上旬までマニラの哨戒に当たった[67]。 8月7日、マニラを出発、12日にに帰港した[74]呉海軍工廠で整備(8月29日から9月10日まで入渠[75])を行った後、 9月15日呉を出港、9月20日にマニラに到着した[76]

蘭印・ニューギニアでの活動

球磨は9月22日にマニラを出港、9月24日香港に着いた[77]。 9月25日附で第三南遣艦隊を除かれ、第16戦隊(第二南遣艦隊所属)に編入される[78][79]。 香港で第38師団を乗船させ (球磨には153名乗船)[80] 万光丸と共に[81] 26日香港を出港、パラオを経由し10月10日にニューブリテン島ラバウル[77]、部隊を下船させた。 球磨は同日ラバウルを出港し[77]バリクパパンを経由[81]、 18日にセレベス島マカッサルに到着し[77]、第16戦隊に合流した[81]

そして1943年(昭和18年)4月13日までマカッサルでの哨戒と、ラバウルやニューギニア島カイマナ英語版カブイ英語版への増援の輸送を行った[67]。1943年1月9日、アンボン沖で軽巡洋艦名取がアメリカの潜水艦の雷撃で損傷した。その直後、対潜哨戒中であった球磨搭載機が潜航中の潜水艦を発見して爆撃を行い1発が至近弾となったが爆発しなかった[82]。長期間の使用により信管内の火薬が湿ったことが不発の原因であると推定された[82]

1943年4月28日から5月25日まで、球磨はシンガポールの第101工作部(セレター英語版海軍基地)で整備工事を行い[75]、6月23日まで蘭印諸島周辺の哨戒を行った。

1943年6月23日、マカッサルで第16戦隊の鬼怒大井北上および球磨はアメリカ第5空軍第319飛行中隊第90爆撃隊(H)のB-24爆撃機17機による攻撃を受けた[67]。翌6月24日、第16戦隊の旗艦は鬼怒から球磨に移され、鬼怒は修理のため日本へ帰投した。球磨は10月23日まで蘭印諸島周辺の哨戒を行った。

球磨は10月23日よりシンガポールの第101工作部で改装工事を行い、5番(14cm)主砲、射出機とデリックを撤去、25mm3連装機銃2基装備し[46]、25mm機銃は合計で10挺(3連装2基、連装2基)となった[47]。球磨の改装工事は11月12日に完了した[46]

沈没

1943年12月31日、ラムリー島がイギリス軍の小規模な部隊による襲撃を受けた[83]。そのため、独立混成第24旅団の一部のメルギーへの輸送が決定され、球磨と重巡洋艦足柄、青葉、駆逐艦浦波が1944年1月3日にシンガポールから出航し、ペナンで陸兵約2000名を乗せ1月6日にメルギーに到着した[83]。また、この機会に航空部隊の雷爆撃訓練が3度実施された[84]。続いて4回目の訓練のため球磨は浦波とともに1月11日にペナンから出航しペラク島沖へと向かった[84]。その途中、ペナン島北西端ムカヘッド岬の270度17カイリで球磨はイギリスの潜水艦タリホーの雷撃に遭った[84]。タリホーは距離1700メートルで7本の魚雷を発射し[85]、雷跡を発見した球磨は取舵一杯で避けようとしたが、11時45分に魚雷2本が命中した[84]。タリホーの発射した魚雷は右舷側から球磨の後部機械室と艦尾の艦長室の前に命中し[85]、11時52分には爆雷のものと思われる爆発が起き、午前11時57分(日本時間)に球磨は北緯05度26分 東経99度52分 / 北緯5.433度 東経99.867度 / 5.433; 99.867で艦尾から沈没していった[84][86]。球磨の杉野修一艦長を含む生存者は浦波により救助されたが、乗員138人が戦死した[87][88]

球磨は1944年(昭和19年)3月10日に除籍された[5]

船体の発見と違法サルベージ

海底の球磨の船体は、2004年3月にオーストラリア人のダイバー・フォトジャーナリスト Kevin Denlayとシンガポールを拠点とする調査船Empressのダイバーたちによって発見された[67]。しかし、2014年になってからマレーシアのサルベージ業者が屑鉄目当てに球磨の残骸の引き揚げ作業を行っている。近海に沈んでいる羽黒も同様の被害に遭っている[89]。サルベージ作業は違法なもので、クレーン船を使って脆くなった船体を部分的に数十トンずつ千切って引き上げ、トンあたり2万円前後で売却された[89]

歴代艦長

※『艦長たちの軍艦史』133-135頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。

艤装員長

  1. 青木董平 大佐:1919年7月14日[90] - 1920年1月10日[91]
  2. (兼)青木董平 大佐:1920年1月10日[91] - 1920年8月31日

艦長

  1. 青木董平 大佐:1920年1月10日[91] - 1921年2月15日
  2. 宮村暦造 大佐:1921年2月15日 - 1921年11月1日
  3. 右田熊五郎 大佐:1921年11月1日 - 1922年11月20日
  4. 高橋寿太郎 大佐:1922年11月20日 - 1923年10月15日
  5. (心得)松下薫 中佐:1923年10月15日 - 1923年12月1日
  6. 松下薫 大佐:1923年12月1日 - 1924年5月10日
  7. 橋本才輔 大佐:1924年5月10日 - 1924年12月1日
  8. 今川真金 大佐:1924年12月1日[92] - 1925年4月20日[93]
  9. (兼)山本土岐彦 大佐:1925年4月20日 - 1925年6月15日[94]
  10. 井上繁則 中佐:1925年6月15日[94] - 1925年12月1日[95]
  11. 福島貫三 大佐:1925年12月1日 - 1926年4月1日
  12. 辺見辰彦 大佐:1926年4月1日 - 1926年11月1日
  13. 大野寛 大佐:1926年11月1日 - 1927年12月1日
  14. 林義寛 大佐:1927年12月1日 - 1929年11月30日
  15. 杉坂悌二郎 大佐:1929年11月30日 - 1930年12月1日
  16. 湯野川忠一 大佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
  17. 角田貞雄 大佐:1931年12月1日 - 1932年12月1日
  18. 熊岡譲 大佐:1932年12月1日 - 1933年11月15日
  19. 堀内茂礼 大佐:1933年11月15日 - 1935年4月10日
  20. 藍原有孝 大佐:1935年4月10日 - 1935年11月15日
  21. 醍醐忠重 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
  22. 佐藤勉 大佐:1936年12月1日 - 1938年6月15日
  23. 八代祐吉 大佐:1938年6月15日 - 1939年5月18日
  24. 小林謙五 大佐:1939年5月18日 - 1939年11月15日
  25. 平塚四郎 大佐:1939年11月15日 - 1940年10月15日[96]
  26. 江口松郎 大佐:1940年10月15日 - 1941年9月20日
  27. 渋谷清見 大佐:1941年9月20日 - 1942年11月14日
  28. 横山一郎 大佐:1942年11月14日 - 1943年8月14日
  29. 杉野修一 大佐:1943年8月14日 -

公試成績

実施日 種類 排水量 回転数 出力 速力 場所 備考 出典
5,451英トン 91,229馬力(SHP) 34.266ノット [18]

脚注

注釈

  1. ^ #海軍造船技術概要(1987)上巻p.309、天龍及5,500噸型巡洋艦要目比較(新造計画)では石炭350トンになっている。
  2. ^ #海軍造船技術概要(1987)上巻p.309、天龍及5,500噸型巡洋艦要目比較(新造計画)では5,000カイリ/14ノットになっている。

出典

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  8. ^ a b #T9公文備考21/軍艦球磨製造一件画像8-9、官房機密第1330号『大正六年七月三十一日 海軍大臣 佐鎮司令長官アテ 二等(軽)巡洋艦製造ノ件 軍備補充費ヲ以テ製造スヘキ二等(軽)巡洋艦壱隻別紙要領書、図面及製造方法書ニ依リ其ノ府工廠ヲシテ製造セシムヘシ豫算ハ追テ訓令ス 但シ船体部機関部製造方法書兵装図及電気艤装要領書ハ追テ海軍省艦政局長ヲシテ送付セシム 右訓令ス (別途船体部機関部図面目録?壱葉要領書?通図面八葉豫算書壱葉添)(終)』
  9. ^ a b #T9公文備考21/軍艦球磨製造一件画像10、佐廠第4号の308『大正七年八月三十日 佐世保海軍工廠長岡田啓人 海軍大臣加藤友三郎殿 軍艦球磨起工ノ件 軍艦球磨大正七年八月二十九日起工致候 右報告ス(終)』
  10. ^ #T10公文備考24/軍艦球磨、多摩製造一件(1)画像29、電報『大正八年七月十四日 午前九時二十五分佐世保局發 午前十時四十分海軍局着 發信者 佐世保鎮守府司令長官 受信者 大臣 電報譯 球磨無事進水セリ。右報告ス』
  11. ^ a b #T10公文備考24/軍艦球磨、多摩製造一件(2)画像13、電報写し『大正九年八月三十一日 午前十一時?分佐世保発 午後〇時五十五分??着 大臣宛 佐???? 電報譯 佐世保工廠ニ於テ建造中ノ球磨竣工ニ付本日同艦長ニ引渡ヲ了ス 右報告ス』
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関連項目