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「薩摩 (戦艦)」の版間の差分

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2021年9月18日 (土) 07:14時点における版

薩摩
大正8(1919)年頃に横須賀に入港したときに撮影されたとされる「薩摩」型戦艦1番艦薩摩[1]
大正8(1919)年頃に横須賀に入港したときに撮影されたとされる「薩摩」型戦艦1番艦薩摩[1]
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 戦艦[3]
艦歴
計画 明治37年臨時軍事費[4]
発注 1905年1月21日訓令[5]
起工 1905年5月15日[6][7]
進水 1906年11月15日[6][8]
竣工 1910年3月25日[6][9]
除籍 1923年9月20日[10]
その後 1924年9月2日、実艦標的として沈没
要目
排水量 計画:19,200トン[11]
竣工時:19,370英トン[12]
1920年:19,350英トン[2]
常備排水量 19,372英トン[6]
垂線間長 450 ftin (137.16 m)[11][6][2]
最大幅 83 ft 6 in (25.45 m)[2]
水線幅 83 ft 0 in (25.30 m)[11]
または 83 ft 7+14 in (25.48 m)[6]
深さ 44 ft 6 in (13.56 m)[11]
吃水 平均27 ft 6 in (8.38 m)[11][6][2]
ボイラー 宮原式混焼缶 20基[13][6]
主機 直立3段4筒レシプロ機関 2基[14]
推進 2軸[14] x 120rpm[6]
出力 計画:17,500馬力[14]
または 17,300馬力[6][2]
竣工時:18,425IHP[12]
速力 計画:18.25ノット[14][2]
竣工時:19.13ノット[12]
燃料 石炭:2,860トン、重油:377トン[2]
乗員 竣工時定員:926名[15]
1920年:887名[2]
兵装 竣工時[11]
12インチ速射砲 4門
10インチ速射砲 12門
4.7インチ速射砲 12門
18インチ(水中[6])発射管 5門
1920年[2]
呉式30cm砲 4門
呉式25cm砲 12門
安式12cm砲 12門
四一式8cm砲(子砲) 4門
四一式短8cm砲 4門
麻式6.5mm機砲 3挺
水中発射管 5門
探照灯 6基
装甲 舷側:9in(228.6mm)-4in(101.6mm)[16]KC鋼[6]
甲板:2in(50.8mm)[16]
砲塔:9.2in(233.7mm)-7in(177.8mm)[16]
司令塔:6in(152.4mm)[16]
副砲郭:6in[要出典]
または、水平防御平坦部2in、傾斜部2in、水線甲帯9in、上甲帯5in、砲台5in、露砲塔9in[11]
搭載艇 1922年:56ft(フィート)ペデットボート(艦載水雷艇)1隻、40ft小蒸気船2隻、40ftランチ1隻、30ftカッター4隻、30ft通船2隻、20ft通船1隻[17]
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薩摩(さつま)は[18]日本海軍戦艦[19][20]。 艦名は薩摩国に由来する[18]日本が初めて自国で建造した戦艦である[21][22]日露戦争中の明治37年度の臨時軍事費で建造された[23]。 「安芸」は姉妹艦になる[18]。 2隻(薩摩、安芸)ともワシントン海軍軍縮条約により廃棄され、実艦標的として処分された[24]

概要

薩摩は常備排水量19,372トンで、建造当時世界最大の戦艦であった[23]。 だが1906年イギリスドレッドノート弩級艦)が竣工したため、竣工前に旧式艦(準弩級戦艦)となってしまった[25][26]。 しかしながら東洋有色人種国家が独自設計の戦艦を建造する事自体が、西欧列強にとっては驚異的であり、薩摩が無事進水できるかどうかで、当時の日本(横浜)在住の外国人の間で賭けが行われていたという[27][28]

弩級戦艦に勝らないまでもかなり肉薄する砲力を持っていたが、実際には初の国産戦艦である本艦の主砲と中間砲には問題があり、発射速度が低かった[29]。 だがその後逐次改良・整備が進められ、晩年に至って弩級戦艦にも匹敵する砲戦能力に達したとも言われる[29][30]

薩摩と安芸は、砲力・防御・機関部・外観で差異があり、純然たる姉妹艦ではない[26][31]。 薩摩の主砲は、前後に30.5cm45口径連装砲各1基と両舷に25.4cm45口径連装砲各3基を搭載し、副砲として12cm40口径単装砲12基を搭載していた[18][32]。最大の相違点は機関部と外観で(薩摩はレシプロ・煙突2本、安芸はタービン・煙突3本)[26]、能力は安芸の方が優秀であった[25][33]

艦歴

建造

1904年(明治37年)臨時軍事費の予算成立、これには戦艦2隻(後の薩摩安芸)建造の予算も含まれていた[4]

1905年(明治38年)1月21日横須賀宛に乙号戦艦製造の訓令が出された[5]。 装甲は全て呉海軍工廠製造とされた[34]。 造船材料の一部は三井物産を通じてアメリカ(USスチール[35])から輸入された[36]。 また防御甲板用の鋼板も輸入された[37]。 5月15日、乙号戦艦横須賀海軍工廠で起工した[18]。 6月11日、日本海軍は乙号戦艦の艦名を「薩摩」と内定する(甲号戦艦は安芸を予定)[38]

1906年(明治39年)10月5日嘉仁親王明治天皇皇太子)は東伏見宮依仁親王と共に、横須賀軍港と横須賀鎮守府(司令長官上村彦之丞中将)を視察する[39]。皇太子は横須賀海軍工廠で建造中の薩摩と鞍馬および整備中の戦艦周防(旧名ペレスヴェート級戦艦のポベータ)を巡覧[40]、軍港では戦艦香取や装甲巡洋艦出雲(第一艦隊旗艦、司令長官片岡七郎中将)に乗艦した[41]11月15日午後2時より進水式を開始[42][43]明治天皇皇太子が臨席し[44][注 1]乙号戦艦は制式に薩摩と命名され[46][20]、 2時25分に進水した[8]。 同日附で戦艦に類別[3]。 11月29日[47]ボイラーに混焼装置設置の訓令が出された[48]

1909年(明治42年)、呉海軍工廠で製造された兵器は若宮丸を使い横須賀へ運ばれた[49]

1910年(明治43年)1月23日、貴族院衆議院の両議員が横須賀海軍工廠と薩摩を観覧した[50]。 同年3月25日、竣工[18][51]。第一艦隊に編入された[52]

1910年

7月18日、検定射撃中に前部12インチ砲左砲が誤発した[53]。 艦に異常は無かったが[54]、 近くにいた2名が鼓膜の損傷をした[53]

1911年

1911年(明治44年)11月26日、当時10歳の裕仁親王(のちの昭和天皇)および弟宮の雍仁親王宣仁親王、また皇族一同と乃木希典小笠原長生等は横浜港沖合に停泊中の「薩摩」に乗艦した[注 2]上村彦之丞第一艦隊司令長官や山口九十郎薩摩艦長の案内で、本艦を見学した[55][56]

1914年

1914年(大正3年)3月下旬、大正天皇皇太子(当時13歳の裕仁親王。のち昭和天皇)および弟宮(雍仁親王、宣仁親王)は江田島に行啓することになった[注 3][注 4]。 3月20日昼、神戸港で皇太子一行は「薩摩」(薩摩艦長吉島重太郎大佐)に乗艦した[57][58]。供奉艦は戦艦摂津(摂津艦長木村剛大佐)と石見(石見艦長小林恵吉郎大佐)であった[56]。薩摩には福留繁(太平洋戦争中期の連合艦隊参謀長)が少尉として勤務していた[56]。 3月21日、皇太子達は高松市香川県)に上陸する[59][注 5]。 3月22日午前中、皇太子一行(薩摩、摂津、石見)は軍艦3隻(筑波金剛周防)との演習を見学した[59][61]。午後2時過ぎ、6隻(薩摩、摂津、石見、筑波、金剛、周防)は江田島に到着して投錨[59]。この後も3隻(筑波、金剛、周防)はしばらく御召艦に同行する[62]。皇太子一行は薩摩を下艦し、海軍兵学校に行啓した[63][注 6][注 7]。 3月23日も皇太子一行は海軍兵学校に行啓[63]、午後4時頃に「薩摩」へ戻った[65][注 8]

3月24日、「薩摩」と供奉艦は宮島に移動、皇太子一行は上陸して厳島神社を参拝、午後2頃帰還した[注 9][注 10]。 呉に移動後、皇太子一行は呉軍港に上陸する[67][68]。 3月25日、艦隊(薩摩、摂津、石見)は小豆島に移動する[69][注 11]。 3月26日、艦隊(薩摩、摂津、石見)は小豆島から神戸港に移動する(途中、戦艦朝日と遭遇)[注 12][注 13]。昼頃に神戸港到着、皇太子一行は御召艦「薩摩」を退艦した[71][72]。 淳宮(秩父宮)は海軍志望、高松宮は陸軍志望だったが[73]、この旅行中に秩父宮の陸軍幼年学校入学が内定、また高松宮の海軍入りも噂されていたという[62]。後日、病床の高松宮宣仁親王を見舞った昭和天皇が「あの時は楽しかったね」と語ったように、薩摩での江田島行啓は三宮にとって忘れられない旅行となった[74][62]

第一次世界大戦

第一次世界大戦における「薩摩」は第二南遣支隊に組み入れられ[75]太平洋ドイツ領の攻略作戦などで活躍した[76]

1920年

1920年(大正9年)3月下旬、大正天皇皇太子(のちの昭和天皇)が四国・九州地方を巡啓することになり、3月24日に神戸港で御召艦「香取」に乗艦する[77][注 14]。先導艦を「安芸」、供奉艦を「薩摩」他が務めた[77][79]

廃艦

ワシントン軍縮条約によって廃艦が決定し[18][80]1923年(大正12年)9月20日、除籍[10]。艦艇類別等級表からも削除された[81][82]

1924年(大正13年)9月2日[83]連合艦隊(連合艦隊司令長官鈴木貫太郎大将、第二艦隊司令長官加藤寛治中将)の主力艦艇が館山沖に集結した[84]。高松宮宣仁親王(少尉候補生)達も練習艦隊旗艦八雲に乗艦し、研究射撃を見学する[83]。旧薩摩は房総半島野島埼沖(伊豆大島東方海面)において戦艦日向金剛などの研究射撃標的艦となる[85][86]。午後1時40分から日向と金剛による砲撃を実施した[83]。つづいて長良型軽巡洋艦2隻(由良名取)による研究射撃を実施したが[85]、上部構造物の破壊にとどまった[86]。 最終的に第5駆逐隊の松風型駆逐艦3隻(第三号《朝風》第五号《春風》第七号《松風》)が発射した魚雷3本により雷撃処分された[86]。沈没時刻は午後3時50分[83]中村俊久(当時、東郷元帥副官)によれば、東郷平八郎元帥は「石見(元ロシア戦艦オリョール)は分捕艦だから別だが、国民の血税で漸く出来た艦を自らの手で沈めるのは見るに忍びない」として「薩摩」の沈没には立ち会わなかったという[87][88]

艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 上泉徳弥 大佐:1909年1月15日 - 1909年12月1日 *兼横須賀海軍工廠艤装員
  • 荘司義基 大佐:1909年12月1日 - 1910年3月1日 *兼横須賀海軍工廠艤装員(1909年12月8日 - 1910年3月1日)
  • 江口麟六 大佐:1910年3月1日 - 1911年1月31日 *兼横須賀海軍工廠艤装員( - 1910年4月1日)
  • 上村経吉 大佐:1911年1月31日 - 1911年11月20日
  • 山口九十郎 大佐:1911年11月20日 - 1913年5月24日
  • 上村経吉 大佐:1913年5月24日 - 1913年12月1日
  • 吉島重太郎 大佐:1913年12月1日 - 1915年10月1日
  • 布目満造 大佐:1915年10月1日 - 1915年12月13日
  • 堀輝房 大佐:1915年12月13日 - 1916年12月1日
  • 飯田久恒 大佐:1916年12月1日 - 1917年3月19日
  • 竹内重利 大佐:1917年3月19日 - 1917年12月1日
  • 島内桓太 大佐:1917年12月1日 - 1918年4月9日
  • 飯田延太郎 大佐:1918年4月9日 - 1918年6月1日
  • 大内田盛繁 大佐:1918年7月5日 - 1919年11月20日
  • 森本義寛 大佐:1919年11月20日[89] - 1920年11月20日
  • 中川寛 大佐:1920年11月20日 -
  • 三上良忠 大佐:1921年11月26日 - 1922年1月26日
  • 横地錠二 大佐:1922年1月26日 - 1922年11月10日
  • 田村丕顕大佐:1922年11月10日 - 1923年9月1日[90] ※1923年6月1日まで「三笠」艦長兼任[91]

脚注

注釈

  1. ^ 『○行幸 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク昨十五日横須賀軍港ニ於テ軍艦薩摩進水式擧行ニ付キ午前八時四十分御出門同九時新橋停車場御發車同港ヘ行幸午後五時八分新橋停車場御着同五時三十分還幸アラセラレタリ/○東宮行啓 皇太子殿下ハ昨十五日午前八時十分新橋御發車横須賀軍港ヘ行啓軍艦薩摩進水式御覽午後三時五十六分横須賀御發車同五時五十五分還御アラセラレタリ』[45]
  2. ^ 『(明治四十四年十一月)二十六日 日曜日(軍艦薩摩御見学)軍艦薩摩第一艦隊旗艦を御見学のため、午前八時十分、雍仁親王・宣仁親王と共に馬車にて御出門になる。新橋停車場からは芳麿王・博忠王・朝融王・邦久王のほか御学友十名も合流し、学習院長乃木希典及び同御用掛小笠原長生が随伴する。横浜停車場より人力車にて税関波止場に向かわれ、艦載水雷艇にて薩摩に御乗艦になる。長官室において第一艦隊司令長官上村彦之丞及び艦長山口九十郎以下長官に謁を賜う。次いで艦首に移られ、上錨・羅針・信号・海図・司令塔・砲塔及び諸室、救護演習・水雷填込等を御巡覧、さらに薩摩・朝日と弥生以下駆逐艦・水雷艇との砲撃演習を御覧になる。御昼食は弁当を召され、午後は、御昼食厨より吹奏を続ける軍楽隊のもとにお出ましになり、軍歌・唱歌等の演奏をお聴きになる。それより上甲板に移られ、馬蹄形に整列した総員による軍歌「決死隊」「軍人勅諭」の合唱をお聴きになる。ついで消火練習を御覧の後、午後二時十分御退艦、同四十分横浜停車場を御発射になり、御帰還になる。なお、薩摩艦御見学の実現には、学習院御用掛小笠原長生(海軍軍令部出仕兼参謀)が種々奔走し、この日は皇太子の御内命により専ら御案内の任に当る。』[55]
  3. ^ 『(大正三年三月)二十日 金曜日(軍艦薩摩にて神戸出港)午前九時十分二条離宮を御出門、江田島に向かわれる。これより御服装は海軍通常礼装となる。京都停車場を御発車になり、途中、大阪停車場において勅任官以上に謁を賜う。神戸停車場より直ちに人力車にて米利堅波止場へ御移動になり、御召艦薩摩に御乗艦、第一艦隊司令長官加藤友三郎・同参謀長佐藤鉄太郎・薩摩艦長吉島重太郎・摂津(先導艦)艦長木村剛・石見(供奉艦)艦長小林恵吉郎以下乗組将校に謁を賜う。午後零時三十分、御召艦は出港する。航海中は上甲板において兵員の作業や艦隊航行などの御覧になる。六時三十分香川県高松沖に御箸艦、御仮泊になる。御夕餐後、甲板においてサーチライトを御覧になり、乗組員による「軍人勅諭」などの軍歌をお聴きになる。』[57]
  4. ^ 『○東宮御發艦 皇太子殿下ハ雍仁親王、宣仁親王兩殿下御同伴御豫定ノ如ク本月二十日午前九時十分二條離宮御出門同九時四十分京都停車場御發車同十一時二十分神戸停車場御箸車軍艦薩摩ニ御乗艦午後零時三十分御發艦アラセラレタリ|○東宮御箸艦竝御假泊 皇太子殿下竝ニ雍仁親王、宣仁親王兩殿下ハ本月二十日午後六時三十分高松沖御箸艦御假泊一昨二十一日午前九時十分御上陸栗林公園御覽同十一時四十五分御歸艦午後零時三十分御發艦同四時五十分愛媛縣來島沖御箸艦御假泊アラセラレタリ』[58]
  5. ^ 『(大正三年三月)二十一日 土曜日(栗林公園)午前九時十分高松に御上陸になり、人力車にて栗林公園にお成りになる。園内を御巡覧の後、広芝において小学校生徒による旗体操・舞踏などを御覧になる。(略)十一時四十五分御帰艦になる。午後零時三十分高松沖を出港される。航海中、後甲板において兵員による柔道・撃剣・銃剣・相撲等の試合を御覧になる。四時五十分愛媛県来島沖に御到着、御仮泊になる。』[60]
  6. ^ 『(大正三年三月)二十二日 日曜日(発火演習御覧)午前九時来島沖を出港、江田島に向かわれる。十時より筑波・金剛・周防三艦を仮想敵とした発火演習を御覧になる。演習途中、墺国軍艦カイゼリン・エリーザベトに邂逅する。十一時十五分、演習を終えた筑波・金剛・周防三艦により登舷礼をお受けになる。昼餐後、後艦橋において兵員の作業の様子を御覧になる。午後二時十分江田島に御到着。海軍兵学校長山下源太郎・金剛艦長山中榮吉・周防艦長岡野富士松・筑波艦長加藤寛治が御召艦薩摩に伺候につき、謁を賜う。午後三時、御召艦薩摩を御出艦、海軍兵学校に行啓される。御休所において山下校長以下教官に謁を賜い、続いて校長より同校に関する説明をお受けになる。ついで運動場にお出ましになり、学生による徒手体操・人馬競争・野砲競争等を御覧になる。四時三十五分御帰還になる。御夕餐後、甲板へお出ましになり、海岸付近における兵学校生徒による発火演習を御覧になる。』[61]
  7. ^ 『○東宮御箸艦竝行啓 皇太子殿下竝ニ雍仁親王、宣仁親王兩殿下ハ一昨二十二日午前九時來島沖御發艦午後二時十分江田島御箸艦同三時十分御上陸海軍兵學校ヘ行啓同四時三十五分御歸艦アラセラレタリ』[64]
  8. ^ 『○東宮御巡覽 皇太子殿下竝ニ雍仁親王、宣仁親王兩殿下ハ一昨二十三日午前八時二十五分御上陸海軍兵學校御巡覽午後四時五分御歸艦アラセラレタリ』[66]
  9. ^ 『(大正三年三月)二十四日 火曜日(宮島沖御着、厳島神社御参拝、弥山登山)午前六時江田島湾を御出港・厳島神社参拝・雍仁親王・宣仁親王と共に杉を手植え・弥山登山、二時御帰艦。三時十五分宮島沖を出港、呉軍港に向かわれ、四時五十五分御到着になる。御夕餐後、後艦橋において呉市街を御遠望になり、呉海軍工廠に関する説明をお聴きになる』[67]
  10. ^ 『○東宮御箸艦 皇太子殿下竝ニ雍仁親王、宣仁親王兩殿下ハ一昨二十四日午前六時江田島御發艦同七時二十分宮島御箸艦御上陸宮島御覽ノ上午後三時十五分御發艦同四時五十五分呉軍港ニ御箸艦アラセラレタリ』[68]
  11. ^ 『○東宮御箸艦竝御假泊 皇太子殿下竝ニ雍仁親王、宣仁親王兩殿下ハ一昨二十五日午前六時呉軍港御發艦午後五時十分小豆島ニ御箸艦御假泊アラセラレタリ』[70]
  12. ^ 『(大正三年三月)二十六日(神戸御上陸)午前七時四十五分、御召艦薩摩は神戸港に向け池田湾を出航する。十時三十分より乗組員による相撲を御覧になる。途中、航行中の軍艦朝日より艦礼を受けられ、御答礼になる。午後零時四十分神戸港に御到着になる。二時十五分御退艦、米利堅波止場に向かわれ、停車場にて第一艦隊司令長官加藤友三郎・同参謀長佐藤鉄太郎・薩摩艦長吉島重太郎・兵庫県知事服部一三以下に賜謁の後、御発車になる。(以下略)』[71]
  13. ^ 『○東宮御安箸 皇太子殿下竝ニ雍仁親王、宣仁親王兩殿下ハ一昨二十六日午前七時四十五分小豆島御發艦午後零時四十分神戸港御箸艦御上陸同三時神戸停車場御發車同四時五十分京都停車場御箸車同五時二十分二條離宮ニ御安箸アラセラレタリ|○東宮行啓 皇太子殿下竝ニ雍仁親王宣仁親王兩殿下ハ昨二十七日午前九時三十分二條離宮御出門八幡及宇治方面ヘ行啓午後四時二十五分還御アラセラレタリ』[72]
  14. ^ 『○東宮御發艦 皇太子殿下ハ一昨二十四日午前六時四十分二條離宮御出門同七時京都驛御發車同八時五十五分神戸驛御箸車御乗艦同十一時神戸港御發艦アラセラレタリ』[78]

出典

  1. ^ #週刊栄光の日本海軍 パーフェクトファイル No.93裏表紙の説明から。
  2. ^ a b c d e f g h i j #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
  3. ^ a b #達明治39年11月p.6『達第百五十號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「鹿島」ノ次ニ「薩摩」ヲ加フ 明治三十九年十一月十五日 海軍大臣 斎藤實』
  4. ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.229-231
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  9. ^ #M44公文備考17/艦体構造の部(8)画像5、電報「本日午前十時薩摩授受ヲ結了セリ右報告ス 四十三年三月廿五日 横鎮長官」
  10. ^ a b #達大正12年9月画像2『達第百九十五號 軍艦 香取/同 鹿島/同 薩摩/同 安藝/同 生駒/同 鞍馬/同 伊吹/同 三笠/同 肥前 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
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  18. ^ a b c d e f g #幕末以降帝国軍艦写真と史実p.85『薩摩(さつま) 艦種一等戰艦 二檣(信號用)安藝と姉妹艦。 艦名考國名なり、薩摩國に採る。 艦歴本艦は日露戰役の教訓により副砲を始めて10吋砲とし、所謂弩級戰艦の先驅をなしたるもの、大正3年乃至大正9年戰役(日獨)從軍:同3年9月第蓋南遣支隊に属し西「カロリン」群島の警戒及占領に任ず(司令官中将松村龍雄旗艦、艦長大佐吉島重太郎)、同12年9月20日除籍、廢棄(華府海軍々備制限條約に由る)。 ―要目― 長482呎/幅83.5呎/喫水2.75呎/排水量19,370噸/機關 直立三聯成汽罐2基 宮原式20臺/馬力17,300/速力18.25/乗組人員930/船材 鋼(甲帶9吋)/兵装 12吋砲4 10吋砲12 4.7吋砲12 12听砲12 機關砲4 發射管5/起工 明治38-5-15/進水 同39-11-15/竣工 同42-3-25/建造所 横須賀工廠』
  19. ^ #帝国最新軍艦帖(1912)コマ41「戰艦 薩摩 Battle Ship "Satuma"」
  20. ^ a b #達明治39年11月p.6『達第百四十九號 横須賀海軍工廠ニ於テ製造ノ乙號戰艦ヲ薩摩ト命名セラル 明治三十九年十一月十五日 海軍大臣 斎藤實』
  21. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ238(原本84頁)『一、初めて内國にて装甲艦を起工す ― 明治三十八年(一九〇五)戰艦「薩摩」を横須賀工廠にて、又巡洋艦「筑波」を呉工廠にて起工す、初めて十二吋砲及び装甲鈑を呉にて造り且つ宮原式混燃水管罐を装備す、(此年英國に「ドレットノート」起工)』
  22. ^ 帝国軍艦発達 1937, p. 1「(前略)其の次が薩摩、安藝で純然たる日本の設計に基き我海軍工廠で建造せられたるもので、薩摩は12吋砲4門速力18 1/4節排水量約19,400噸で、我造船技術の躍進的進歩でありました。安藝は排水量を稍大として速力20節で初めてタービン式機關を採用致して居ります。(以下略)」
  23. ^ a b 写真日本の軍艦 戦艦II、248頁
  24. ^ #海軍夜話コマ110-111(原本193-195頁)「軍縮條約の廢棄艦」
  25. ^ a b #現代海上兵備(大正4)コマ23-24(原本11-12頁)「(前略)翻って我國は如何と見るに、我國では明治四十年に、排水量一九,八〇〇噸、速力二十節、兵装十二吋砲四門 十吋砲十二門 六吋砲八門其の他を備ふる軍艦安藝を進水せしめたのであって、是が先づ弩型艦に属する、安藝の姉妹艦で前年に進水した薩摩は、噸數、兵装の上では安藝と大差はないが、速力の點で弩型艦たる資格がない。即ち我國では、英國に後るヽこと一年で、弩型艦を出したのである。(以下略)」
  26. ^ a b c 写真日本の軍艦 戦艦II、250頁
  27. ^ #海軍夜話コマ108(原本188-189頁)
  28. ^ 帝国軍艦発達 1924, p. 3c「(前略)鹿島、香取までの戰艦は總て外國で建造されましたが(尤も鹿島、香取に於きましても根本設計は我海軍より與へられたのであります)薩摩、安藝に至りましては純然たる日本の設計に基き海軍工廠に於て全然日本人の手で建造し材料も大部分は内地品を使用したのであります それで薩摩の進水の際には果して無事に進水が出來るかどうかと云ふ點に關し横濱に居る外人間に賭があったと云ふことでありました 今日より見れば實に馬鹿馬鹿しき話でありますがかかる事もあったのであります 此二艦が今日の弩級艦に達する第二歩であります。(以下略)」
  29. ^ a b 写真日本の軍艦 戦艦II、249頁
  30. ^ 海人社 世界の艦船 増刊第24集 日本戦艦史
  31. ^ 帝国軍艦発達 1924, pp. 2–3「(前略)其次が薩摩及安藝(明治四十三年及四十四年竣工)でありまして此二艦は最初は姉妹艦として設計せられたのでありますが仕事の都合で安藝の方が箸手が一年ばかり後になりましたので其間に艦型が變更されまして純然たる姉妹艦ではなくなりました。(以下略)」
  32. ^ 帝国軍艦発達 1924, p. 3a「(前略)主砲は何れも十二吋砲四門十吋砲十二門でありますが副砲は薩摩に於て四・七インチ砲十二門のものが安藝に於ては六吋砲八門となり防禦も安藝の方が舷側上列甲鐵及砲廓の甲鐵が厚さ二吋増されて居ります。(以下略)」
  33. ^ 帝国軍艦発達 1924, p. 3b「(前略)夫に主機械も薩摩のものは「レシプロケーチング、エンジン」でありますが安藝のものは「カーチス、タルビン」になりまして馬力が著しく増しましたので速力が一節四分の三増して居ります 尤も排水量も安藝の方が四百五十噸増して居りますが艦の勢力の増加は排水量の増加した割合の比でありません。(以下略)」
  34. ^ #M44公文備考17/艦体構造の部(1)画像1-2、明治38年1月28日官房機密第147号「横須賀海軍工廠ニ於テ製造スヘキ臨時軍事費支弁乙号戦艦ニ要スル甲鉄ハ総テ呉海軍工廠ニ於テ製造シ横須賀海軍工廠ヘ送付セシムヘシ 但甲鉄ノ寸法数量及製造費豫算ハ呉海軍工廠ニ於テ製造スヘキ甲号戦艦ト同様ト心得ヘシ 明治三十八年一月廿八日 海軍大臣 呉鎮守府司令長官」
  35. ^ #M44公文備考17/艦体構造の部(1)画像14-18、明治38年2月7日契約書
  36. ^ #M44公文備考17/艦体構造の部(1)画像12-13、明治38年2月3日起案官房機密第185号
  37. ^ #M44公文備考17/艦体構造の部(2)画像47-48、明治38年官房機密第305号「乙号戦艦用鋼板購入ノ件」
  38. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.199『◎戰艦安藝薩摩装甲巡洋艦筑波生駒鞍馬伊吹命名ノ件 明治三十八年六月十一日(内令三一六)新造軍艦六隻艦名左ノ通御治定相成候條命名式擧行マテ部内限リ通用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ|呉海軍工廠ニ於テ製造 甲號戰艦 安藝|横須賀海軍工廠ニ於テ製造 乙號戰艦 薩摩|呉海軍工廠ニ於テ製造 子號装甲巡洋艦 筑波/丑號装甲巡洋艦 生駒|横須賀海軍工廠ニ於テ製造 寅號装甲巡洋艦 鞍馬|呉海軍工廠ニ於テ製造 第一號装甲巡洋艦 伊吹』
  39. ^ 大正天皇実録第二 2017, p. 274a横須賀軍港に行啓
  40. ^ 大正天皇実録第二 2017, p. 274b海軍工廠に臨ませらる
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  42. ^ 大正天皇実録第二 2017, p. 282a横須賀軍港に行啓/天皇を奉迎/天皇に扈従 軍艦薩摩進水式に御参列
  43. ^ #水難救済軍艦コマ32-33「戰艦 薩摩」
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  48. ^ #M39公文備考17/造修6止(4)画像40-41、明治39年11月19日起案、官房第4661号「訓令案 軍艦安藝、伊吹(呉) 薩摩、鞍馬(横)ニ炭油混焼装置設置方取計フヘシ 但シ工事方案等ニツイテハ海軍艦政本部長ト協議スヘシ 明治三十九年十一月十九日 大臣 呉鎮長官 横鎮長官(各二通)」
  49. ^ #M42公文備考39/若宮丸関係書類(2)画像12-14、明治42年6月22日発布官房第2229号「若宮丸ハ貨物陸揚次第呉軍港ニ回航セシメ同工廠貯蔵ノ横須賀行キ軍艦薩摩用兵器類及一般貨物ヲモ搭載ノ上横須賀ヘ回航セシムル様取計ヒ尚豫定出港時日ヲ報告スヘシ」
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  82. ^ #達明治39年11月p.2『達第百九十六號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
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参考文献

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  • 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X 
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  • 財団法人水交会『帝国海軍提督達の遺稿 上 小柳資料 敗戦後十余年海軍の中枢が語った大東亜戦争への想い』水交会、2010年4月。 
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  • 正木生虎『正木義太傳および補遺 一海軍士官の記憶』文藝春秋、2009年11月。ISBN 978-4-16-371670-1 
  • 雑誌『』編集部/編 編「阿部安雄『日露戦役後の国産戦艦』」『写真 日本の軍艦 戦艦II 金剛・比叡・榛名・霧島 戦艦時代の夜明け』 第2巻、光人社、1989年8月。ISBN 4-7698-0452-0 
  • 横須賀海軍工廠/編 編『横須賀海軍工廠史(1)』 明治百年史叢書 第329巻、原書房、1983年6月(原著1935年)。ISBN 4-562-01378-8 
  • 官報

関連項目