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2022年10月7日 (金) 15:05時点における版
大阪市立津守小学校 | |
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北緯34度38分26秒 東経135度29分05秒 / 北緯34.64061度 東経135.48481度座標: 北緯34度38分26秒 東経135度29分05秒 / 北緯34.64061度 東経135.48481度 | |
過去の名称 |
第二中学区第六区一小区八番学校 西成郡玉津尋常小学校分校 西成郡津守簡易小学校 西成郡津守尋常小学校 西成郡津守尋常高等小学校 西成郡津守第一尋常高等小学校 大阪市津守第一尋常高等小学校 大阪市津守国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 大阪市 |
設立年月日 | 1875年10月15日 |
創立者 | 西成郡川南村(津守村) |
閉校年月日 | 2015年3月31日 |
共学・別学 | 男女共学 |
所在地 | 〒557-0062 |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
大阪市立津守小学校(おおさかしりつ つもりしょうがっこう)は、大阪府大阪市西成区津守にあった公立小学校。
学校は大阪市顕彰史跡・津守新田会所跡に建っていた。敷地内には大阪市立津守幼稚園を併設していた。本項では便宜上、津守幼稚園についても記述する。
沿革
明治時代初期の学制発布に伴い、西成郡津守新田(町村制により川南村・のち津守村。現在の西成区津守・北津守・南津守)に設置された第二中学区第六区一小区八番小学校(西成郡第八番津守小学校)を起源とする。
1875年10月15日に津守新田会所の一室(現在地)で開校した。しかし正確な移転時期に関する史料は残っていないものの、明治時代中期頃までに現在の津守公園の場所(津守神社北側)に移転している。当時の敷地には津守村役場も併設されていた。
津守新田は明治時代初期、当時の勝間村(現在の西成区岸里・玉出・千本)と村行政を合同でおこなうことになった。これに伴い1884年には、現在の玉出小学校の分校扱いになった。しかし町村制により津守新田は現在の大正区・港区にあたる地域の新田とともに西成郡川南村(1897年津守新田が独立し津守村)となったことで、1889年に玉出小学校より再独立している。
数度にわたる改編・校名変更を経て、1893年には西成郡津守尋常小学校となった。
高等科は従来、大阪市内の木津(現浪速区・敷津)・恵美第一(現浪速区・恵美)・泉尾第一(現大正区・泉尾東)の各尋常高等小学校に委託していたが、1917年には高等科を併設している。
児童の増加により、1922年5月1日には津守村南島(現大阪市立南津守小学校敷地)に分教場を設置した。分教場は1924年に独立し、西成郡津守第二尋常小学校(現・南津守小学校)となった。これに伴い当校も西成郡津守第一尋常小学校へと改称している。
1925年4月には津守村は大阪市に編入され、大阪市津守第一尋常高等小学校へ改称した。さらに大阪市編入直後の1925年10月には、大阪市津守第三尋常小学校(現・大阪市立北津守小学校)を分離している。
国民学校令により、1941年には大阪市津守国民学校へと改称している。
太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1944年以降学童集団疎開を実施することになり、1944年9月7日には和歌山県海草郡加太町(現在の和歌山市)へと出発した。しかし戦局悪化に伴い、疎開先も危険になったとして1945年8月2日には滋賀県甲賀郡伴谷村(現在の甲賀市)に再疎開を実施している。1945年10月26日に集団疎開から帰阪している。
学制改革に伴い、1947年に大阪市立津守小学校へ改称した。
また学制改革によって新制中学校制度が発足したことに伴い、1947年4月には大阪市立西成第三中学校(現在の大阪市立成南中学校)の仮校舎を津守小学校内に設置した。西成第三中学校は1948年3月に津守小学校校舎から退去した。
1948年4月には中学校校区再編により大阪市立西成第四中学校(現在の大阪市立鶴見橋中学校)が新設されることになり、西成第四中学校の仮校舎を津守小学校内に置いた。西成第四中学校は1948年6月、現在地に校舎を建てて移転している。
1948年11月には大阪市立玉出幼稚園分園が津守小学校内に併設された。玉出幼稚園分園は1949年3月に大阪市立津守幼稚園に改編され、津守小学校の併設園となった。
1950年9月3日のジェーン台風、1951年10月14日のルース台風では相次いで校舎床上浸水の被害を受けた。
1953年8月には西成区津守町東5丁目121番地の現在地に校舎竣工し、同年9月1日より本校機能を移転している。一部学年と幼稚園については旧本校に残留し、旧本校を分校へと変更した。
分校は1957年6月27日の台風5号で、床上浸水の被害を受けている。
1958年3月には本校での校舎建設が完了し、これに伴い分校を廃止して本校に統合している。また津守幼稚園についても、この時に園舎が完成して現在地に移転した。
2000年代に入ると、地域の児童の減少により、津守幼稚園の廃止と津守小学校の統廃合が打ち出された。津守幼稚園については閉園反対運動も起きた[1]ものの、2013年度に募集停止し、園児が卒業した2015年3月に閉園となっている。また津守小学校についても大阪市立梅南小学校と統合して2015年3月に閉校となり、2015年4月より梅南小学校敷地で大阪市立梅南津守小学校へと改編された[2]。
年表
- 1875年10月15日 - 第二中学区第六区一小区八番小学校として創立。
- 1882年2月 - 西成郡津守尋常小学校と改称。
- 1884年 - 西成郡玉津尋常小学校(現在の大阪市立玉出小学校)分校となる。
- 1889年5月28日 - 西成郡津守簡易小学校として再独立。
- 1893年1月31日 - 西成郡津守尋常小学校と改称。
- 1917年4月1日 - 高等科を併設。西成郡津守尋常高等小学校と改称。
- 1922年5月1日 - 分教場を設置。
- 1924年4月1日 - 分教場が西成郡津守第二尋常小学校(現在の大阪市立南津守小学校)として分離独立。これに伴い西成郡津守第一尋常高等小学校と改称。
- 1925年4月1日 - 津守村が大阪市に編入したことに伴い、大阪市津守第一尋常高等小学校と改称。
- 1925年10月30日 - 大阪市津守第三尋常小学校(現在の大阪市立北津守小学校)を分離。
- 1934年9月21日 - 室戸台風で校舎が浸水する被害を受ける。
- 1941年4月1日 - 国民学校令により、大阪市津守国民学校と改称。
- 1944年9月7日 - 和歌山県に集団疎開。
- 1945年8月2日 - 疎開先も危険として、滋賀県に再疎開。
- 1945年11月1日 - 終戦に伴い授業再開。
- 1947年4月1日 - 学制改革により、大阪市立津守小学校と改称。
- 1948年11月6日 - 校内に大阪市立玉出幼稚園分園を開設。
- 1949年3月 - 玉出幼稚園分園を大阪市立津守幼稚園に改編、津守小学校の併設園とする。
- 1953年8月3日 - 現在地に校舎竣工。
- 1953年9月1日 - 現在地での授業を開始。旧校舎は分校として一部学年と幼稚園が使用。
- 1958年3月 - 分校を廃止し本校に完全統合。幼稚園も現在地の園舎に移転。
- 1965年3月 - 津守新田会所跡が大阪市顕彰史跡に指定。敷地内に顕彰碑が設立される。
- 1972年4月 - 大阪市立梅南中学校の開校に伴い、卒業生の進学先が従来の鶴見橋中学校から梅南中学校に変更。
- 2014年9月19日 - 大阪市会の議決により、閉校と2015年4月からの梅南小学校との統廃合が正式決定。
通学区域
- 大阪市西成区 津守(一部を除く)、北津守4丁目(一部)
- 卒業生進学先:大阪市立梅南中学校
交通
- 南海汐見橋線 西天下茶屋駅 北西へ約600m、または津守駅 南へ約800m。
- 南海本線・地下鉄堺筋線 天下茶屋駅 西へ約1.4km。
- 地下鉄四つ橋線 花園町駅 南西へ約1.3km、または岸里駅 北西へ約1.4km。
- 大阪シティバス 津守神社前バス停、梅南3丁目バス停、橘3丁目バス停。
参考文献
- 川端直正『西成区史』西成区市域編入40周年記念事業委員会、1968年。
- 大阪市立津守小学校『津守 - 創立百年記念』1975年。