「第3次近衛内閣」の版間の差分
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2023年1月7日 (土) 06:15時点における版
第3次近衛内閣 | |
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総理官邸で記念撮影に臨む閣僚 | |
内閣総理大臣 | 第39代 近衛文麿 |
成立年月日 | 1941年(昭和16年)7月18日 |
終了年月日 | 1941年(昭和16年)10月18日 |
与党・支持基盤 |
挙国一致内閣 大政翼賛会 |
内閣閣僚名簿(首相官邸) |
第3次近衛内閣(だいさんじ このえないかく)は、近衛文麿が第39代内閣総理大臣に任命され、1941年(昭和16年)7月18日から1941年(昭和16年)10月18日まで続いた日本の内閣。
閣僚の顔ぶれ・人事
国務大臣
1941年(昭和16年)7月18日任命[1]。在職日数93日(第1次、2次、3次通算1,035日)。
職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
内閣総理大臣 | 39 | 近衛文麿 | 貴族院 無所属 (火曜会) 公爵 |
司法大臣兼任 | 再任 大政翼賛会総裁 | |
外務大臣 | 57 | 豊田貞次郎 | 予備役海軍大将 (海大甲種17期) |
拓務大臣兼任 | 転任[注釈 1] | |
内務大臣 | 56 | 田辺治通 | 貴族院 無所属 (無所属倶楽部) |
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大蔵大臣 | 43 | 小倉正恒 | 貴族院 無所属 (研究会) |
転任[注釈 2] | ||
陸軍大臣 | 29 | 東條英機 | 陸軍中将 (陸大27期) |
対満事務局総裁兼任 | 留任 | |
海軍大臣 | 21 | 及川古志郎 | 海軍大将 (海大甲種13期) |
留任 | ||
司法大臣 | 43 | 近衛文麿 | 貴族院 無所属 (火曜会) 公爵 |
内閣総理大臣兼任 | 1941年7月25日免兼[2] 大政翼賛会総裁 | |
44 | 岩村通世 | 司法省 | 初入閣 1941年7月25日任[2] | |||
文部大臣 | 52 | 橋田邦彦 | 民間 | 留任 | ||
農林大臣 | 19 | 井野碩哉 | 農林省 | 留任 | ||
商工大臣 | 22 | 左近司政三 | 貴族院 無所属 (同和会) 予備役海軍中将 (海大甲種10期) |
初入閣 | ||
逓信大臣 | 47 | 村田省蔵 | 貴族院 無所属 (同和会) |
鉄道大臣兼任 | 留任 | |
鉄道大臣 | 22 | 村田省蔵 | 貴族院 無所属 (同和会) |
逓信大臣兼任 | ||
拓務大臣 | 20 | 豊田貞次郎 | 予備役海軍大将 (海大甲種17期) |
外務大臣兼任 | 転任[注釈 1] | |
厚生大臣 | 8 | 小泉親彦 | 予備役陸軍軍医中将 | 初入閣 | ||
国務大臣 | - | 鈴木貞一 | 予備役陸軍中将 (陸大29期) |
企画院総裁兼任 | 留任 | |
国務大臣 | - | 平沼騏一郎 | 民間 男爵 |
転任[注釈 3] | ||
国務大臣 | - | 柳川平助 | 予備役陸軍中将 (陸大24期) |
転任[注釈 4] | ||
|
内閣書記官長・法制局長官
1941年(昭和16年)7月18日留任[1]。
職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|
内閣書記官長 | 44 | 富田健治 | 内務省 | 留任 | ||
法制局長官 | 41 | 村瀬直養 | 商工省 | 留任 | ||
|
政務次官
任命なし。
参与官
任命なし。
勢力早見表
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
出身 | 国務大臣 | その他 |
---|---|---|
研究会 | 1 | |
火曜会 | 1 | 国務大臣のべ2 |
同和会 | 2 | 国務大臣のべ3 |
無所属倶楽部 | 1 | |
軍部 | 6 | |
官僚 | 2 | 法制局長官、内閣書記官長 |
民間 | 2 | |
15 | 国務大臣のべ17 |
内閣の動き
第2次近衛内閣において外交策に強硬論を唱え、閣内にあって暴走状態にあった松岡洋右外相の更迭は、政権存続のための急務となっていた。しかし松岡に辞任を迫っても彼がすんなりとそれに従う保証はなく、むしろ閣内不一致を訴えて内閣と無理心中をするのではないかと危惧した近衛は、一計を案じて全閣僚から辞表を取り付けると参内していったん内閣総辞職の形式を取り、その場で改めて天皇から大命降下を受けた後に松岡を外して第3次近衛内閣を発足させた、事実上の内閣改造である。
松岡の後任の外相にはこの3か月前に商工相として第2次近衛内閣に招かれたばかりの豊田貞次郎(予備役海軍大将)が横滑りされた。ワシントンD.C.で日米交渉に奔走する野村吉三郎駐米大使が豊田の海軍の先輩であり同郷でもあることから連携がうまくいくことを期待した人事だった。
しかし日本軍の南部仏印進駐がアメリカの反発を予想以上に受け、アメリカは7月26日に米国内の日本資産を凍結し、8月1日には石油類の対日輸出を禁止し、日米間の緊張はかえって激化した。これに対して9月6日の御前会議で帝国国策遂行要領を決定し、「外交手段を尽くすが、10月下旬までに対米戦争の準備を完了し、10月上旬においても交渉の目途が立たなければただちに開戦を決意する」とした。対米交渉について及川古志郎海相は「アメリカの要求を丸飲みする覚悟で交渉すべし」と近衛を激励するが、一方では対米戦争の勝算が立たないことを海軍の名において公言することを回避し、近衛に下駄を預けた格好となった。東條英機陸相は、アメリカの要求する仏印・中国からの撤兵受け入れを全く考慮しないわけではなかったが、陸軍部内の強硬論を代表する立場の東條は近衛と対立する。
交渉に先んじて陸軍に譲歩を承認させることを困難視した近衛は、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領との日米首脳会談を企図する。会談で日米間の合意を先に形成し、その会談の場から直接天皇の裁可を求め、陸海軍の頭越しに解決しようという算段であった。しかしアメリカ側は会談自体には同意したものの、会談はあくまで最終段階と位置付け、先に事務方の交渉で実質上の合意形成をするべきであると10月2日に通告したため、近衛の目論見は外れる。
これにより国策遂行要領が開戦決意の条件とする「10月上旬において交渉の目途が立たない」状況となった。それでも外務省が新たな対米譲歩案を作成し、それを元に10月12日に近衛と豊田外相が東條陸相を説得するが、結局不調に終わる。10月14日の閣議において東條はその件を暴露した上で「感情的になるから以後首相とは会わない」と宣言する。 同日、ゾルゲ事件の捜査が進展し、近衛の側近である尾崎秀実が逮捕され、ゾルゲ事件に近衛自身までもが関与しているのではないかとの観測すら窺われるに至って近衛の退陣は不可避とされ、翌15日には東條・近衛とも次期首班に東久邇宮稔彦王を推薦するが、それに木戸幸一内大臣が難色を示し未だ後継が定まらない16日に近衛は総辞職してしまった。第3次内閣は約3か月で終わったこととなる。
なお国策遂行要領については、次期首班に選ばれた東條に対する大命降下の際に、昭和天皇から「白紙還元の御諚」が言い渡され、一旦白紙から再検討することとなったため、開戦決意の期限もとりあえずは消滅した形となった。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 森山優 『日本はなぜ開戦に踏み切ったか 「両論併記」と「非決定」』 新潮選書 2012年6月