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「浜離宮恩賜庭園」の版間の差分

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5代将軍綱吉には子供がいなかった、綱吉は宝永元年([[1704年]])12月5日、甲府宰相の綱豊を将軍の世子にと[[江戸城]]に迎えた<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。綱豊は[[徳川家宣|家宣]]と名を改め、父綱重が果たせなかった将軍への道を約束された<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。甲府浜屋敷は「西之丸御用屋敷」と呼ばれ、その後「浜御殿」と呼ばれるようになった<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。これより160年間、[[明治維新]]まで徳川将軍家の庭として歴史を刻むことになる<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。
5代将軍綱吉には子供がいなかった、綱吉は宝永元年([[1704年]])12月5日、甲府宰相の綱豊を将軍の世子にと[[江戸城]]に迎えた<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。綱豊は[[徳川家宣|家宣]]と名を改め、父綱重が果たせなかった将軍への道を約束された<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。甲府浜屋敷は「西之丸御用屋敷」と呼ばれ、その後「浜御殿」と呼ばれるようになった<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。これより160年間、[[明治維新]]まで徳川将軍家の庭として歴史を刻むことになる<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。


綱吉は将軍家の別邸の庭として満足できなかったのか、[[宝永]]4年([[1707年]])浜御殿の大改造を行い、中島の茶屋、海手茶屋、清水の茶屋、観音堂、庚申堂、大手門橋などが造られた<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。浜御殿は一新し、浜御殿預りを置き(後に浜御殿奉行に改称)、宝永5年([[1708年]])6月15日、奉行に本居伊兵衛が任命された<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。奉行には役宅が与えられ、現在の新銭座鴨場の北にある広場北側に設けられていた<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。
浜御殿では、江戸時代を通じて改修が続けられた。8代将軍[[徳川吉宗|吉宗]]は、殖産の試験場と位置づけ、薬園、製糖所、鍛冶小屋、火術所、大砲場等を設置。200種を超える薬草の栽培や、琉球から取り寄せた[[サトウキビ]]の栽培・[[砂糖]]の試作、オランダから輸入した洋種馬の飼育等が行われた。[[享保]]14年([[1729年]])5月には、雄の[[ゾウ|象]]([[広南従四位白象]])が[[ベトナム]]から運ばれ、浜御殿の小屋で12年を過ごしている<ref>{{Cite web |title=長崎から江戸まで、象が歩いた |publisher=日経ビジネスオンライン |date=2008-7-25 |author=松島駿二郎 |url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080723/166086/ |accessdate=2018-05-31}}</ref>。その後、11代将軍[[徳川家斉|家斉]]の時代に現在の庭園が概ね整い、将軍の[[鷹狩]]の場として利用されることが多くなった<ref>{{cite journal|和書|title=公儀の庭・浜御殿の変遷と意義|author=工藤航平|url=https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0609r_report03_01.pdf|journal=東京都公文書館調査研究年報|volume=3|publisher=東京都公文書館|date=2017-03-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210724030652/https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0609r_report03_01.pdf|archivedate=2021-07-24}}</ref><ref name="about028">{{cite web|title=この公園について 浜離宮恩賜庭園|url=https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/about028.html|work=公園へ行こう!|publisher=公益財団法人東京都公園協会|accessdate=2021-07-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210723084119/https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/about028.html|archivedate=2021-07-23}}</ref>。
; 徳川家宣の時代
家宣は宝永6年([[1709年]])に6代将軍となったが在職は僅か4年だったが、江戸城内吹上の庭を修治し、浜御殿の庭にも手を加えた<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。同年9月5日、家宣のお成りを祝い観覧式が行われた、飾り立てた船を浜御殿に繋留し、家宣の命令で舟は一斉に漕ぎ出した<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。公家たちは中島の茶屋に集まり、大泉水を眺めながら和歌を詠み、大泉水に船を浮かべて船上で演奏をした<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。

家宣は[[正徳]]2年([[1712年]])10月14日、50歳で没したため、年齢わずか5歳の子[[徳川家継|家継]]が翌3年4月に将軍となったが、その3年後に8歳で没した<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。正徳6年([[1716年]])元旦、大名小路からの火災で木挽町まで延焼したが、浜御殿は大名火消しが駆け付け消し止めた<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。同年4月に[[徳川吉宗|吉宗]]が[[紀州徳川家]]から将軍として江戸城に入った<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。吉宗は御三家の一つ紀州徳川家に生まれ、四男だったため越前の国、丹羽郡鯖江で3万石を与えられていたが、兄達が早く没したため紀州徳川家を継いだ<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。
; 徳川吉宗の時代
8代徳川吉宗を待っていたのは[[享保]]元年([[1716年]])9月9日〜同6年([[1721年]])の「享保の改革」、幕府財政の建て直しだった<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。浜御殿も影響を受け、勤務していた者の大人員整理がされるなど、大幅な改革が実行された<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。浜御殿の経営は実用性を重視したものに変わり、享保9年([[1724年]])の大火で浜御殿が類焼したときも復興はほどほどに、泉水の水質悪化を防止する工事を行っている<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。茶屋を建てない代わり、織殿を建て、製糖所、製塩所、鍛冶子小屋、火術所、大砲場、薬草園などを作った<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。享保12年([[1727年]])、吉宗は[[砂糖黍]]の種を薩摩から取り寄せ蒔き、何回も失敗したが享保14年([[1729年]])黒砂糖の精製に成功した<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。薬園には各地で採集したり、中国から輸入した400種の薬草が栽培され、鍛冶小屋で新刀を鍛えたり、[[狼煙]]を考案したりした<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。

鎖国中にもかかわらず、オランダ人のゲーゼルを浜御殿に招き馬場で西洋騎馬術を上覧している<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。享保13年([[1728年]])6月13日、象が長崎に着いた、ベトナムの広南を出港した唐船が雄と雌の2頭の象で、吉宗が2年前に注文していたのである<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。長崎で雌象が死に、雄象だけが江戸に運ばれたが、京都で中御門上皇、霊元天皇の上覧に供するため、雄象は5位以上の位が必要になり従4位という高い位を与えられた<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。享保14年([[1729年]])5月25日、象は浜御殿に入り、27日に[[桜田門]]から江戸城に入り、大広間車寄せで吉宗に会った<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。9代徳川家重の時代は浜御殿は、庭の清掃が日課程度で、たまに泉水の浚渫を行うことだった<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。10代将軍徳川家治は在職26年で浜御殿を訪れたのが25回と極めて少ないが、唯一の出来事に新銭座の鴨場が造られたことである<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。
; 徳川家斉の時代
天明7年(1787年)〜天保8年(1837年)の11代徳川家斉の50年間は、浜御殿が最も整備された時代であり、最も催し事があった時代であった<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。家斉によって燕の茶屋、松の茶屋、藁葺の茶屋、御亭山腰掛、松原の腰掛、五番堀腰掛、浜の藁屋、新銭座東屋などが造られた<ref name="hamarikyu-kosugi"/>。


明治維新後の[[明治]]3年([[1870年]])、浜御殿は宮内省の管轄となり、名前も「離宮」と改められた。[[明治天皇]]も度々訪れるようになる。
明治維新後の[[明治]]3年([[1870年]])、浜御殿は宮内省の管轄となり、名前も「離宮」と改められた。[[明治天皇]]も度々訪れるようになる。
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昭和20年([[1945年]])11月3日には、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の要求により東京都に下賜され、昭和21年([[1946年]])4月1日に都立庭園として開園した。昭和47年([[1972年]])には他の都立公園とともに無料化された<ref>「都立公園 無料化が裏目に」『朝日新聞』昭和47年(1972年)6月19日朝刊、24面</ref>が、十分な管理ができなかったため昭和54年([[1979年]])4月に再有料化されている<ref>{{cite web
昭和20年([[1945年]])11月3日には、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の要求により東京都に下賜され、昭和21年([[1946年]])4月1日に都立庭園として開園した。昭和47年([[1972年]])には他の都立公園とともに無料化された<ref>「都立公園 無料化が裏目に」『朝日新聞』昭和47年(1972年)6月19日朝刊、24面</ref>が、十分な管理ができなかったため昭和54年([[1979年]])4月に再有料化されている<ref>{{cite web
|title=浜離宮恩賜庭園マネジメントプラン 浜離宮恩賜庭園の管理運営、整備等の取組方針|url=https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/content/000021425.pdf|publisher=東京都建設局|date=2019-05|accessdate=2021-07-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210724034141/https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/content/000021425.pdf|archivedate=2021-07-24}}</ref>。また、昭和23年([[1948年]])12月に国の名勝及び史跡に、昭和27年([[1952年]])11月には特別名勝及び特別史跡に指定されている<ref name="about028" />。
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近年、園内の施設の復元が進められており、昭和58年([[1983年]])に復元された「中島の御茶屋」に加えて、[[平成]]22年([[2010年]])12月に「松の御茶屋」、平成27年([[2015年]])5月に「燕の御茶屋」<ref>{{Cite news |url=http://www.tokyo-park.or.jp/announcement/028/detail/22160.html |title=「燕の御茶屋」の復元が終了しましたので、公開を始めます! |date=2015-05-27 |accessdate=2015-05-31 |newspaper=浜離宮恩賜庭園(公園へ行こう!)}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20150530/CK2015053002000114.html |title=燕の御茶屋 よみがえる 浜離宮庭園 30、31日に公開記念イベン|date=2015-05-30 |accessdate=2015-05-31 |newspaper=東京新聞}}</ref>、平成30年([[2018年]])4月に「鷹の御茶屋」の復元が完了<ref>{{cite news|title=鷹の御茶屋 浜離宮に 十一代将軍が創建 休憩所を復元 きょうから公開/東京|url=https://mainichi.jp/articles/20180420/ddl/k13/040/005000c|newspaper=毎日新聞|date=2018-0420|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180426213549/https://mainichi.jp/articles/20180420/ddl/k13/040/005000c|archivedate=2018-04-26}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=浜離宮恩賜庭園「鷹の御茶屋」を公開|url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/04/10/12.html|publisher=東京都|date=2018-04-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200405143712/https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/04/10/12.html|archivedate=2020-04-05
近年、園内の施設の復元が進められており、昭和58年([[1983年]])に復元された「中島の御茶屋」に加えて、[[平成]]22年([[2010年]])12月に「松の御茶屋」、平成27年([[2015年]])5月に「燕の御茶屋」<ref>{{Cite news |url=http://www.tokyo-park.or.jp/announcement/028/detail/22160.html |title=「燕の御茶屋」の復元が終了しましたので、公開を始めます! |date=2015-05-27 |accessdate=2015-05-31 |newspaper=浜離宮恩賜庭園(公園へ行こう!)}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20150530/CK2015053002000114.html |title=燕の御茶屋 よみがえる 浜離宮庭園 30、31日に公開記念イベン|date=2015-05-30 |accessdate=2015-05-31 |newspaper=東京新聞}}</ref>、平成30年([[2018年]])4月に「鷹の御茶屋」の復元が完了<ref>{{cite news|title=鷹の御茶屋 浜離宮に 十一代将軍が創建 休憩所を復元 きょうから公開/東京|url=https://mainichi.jp/articles/20180420/ddl/k13/040/005000c|newspaper=毎日新聞|date=2018-0420|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180426213549/https://mainichi.jp/articles/20180420/ddl/k13/040/005000c|archivedate=2018-04-26}}</ref><ref>{{Cite press release|和書|title=浜離宮恩賜庭園「鷹の御茶屋」を公開|url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/04/10/12.html|publisher=東京都|date=2018-04-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200405143712/https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/04/10/12.html|archivedate=2020-04-05

2023年5月3日 (水) 01:06時点における版

浜離宮恩賜庭園
Hama-rikyu Gardens
潮入の池と中島の御茶屋
分類 都立庭園特別名勝特別史跡
所在地
座標 北緯35度39分36秒 東経139度45分49秒 / 北緯35.66000度 東経139.76361度 / 35.66000; 139.76361座標: 北緯35度39分36秒 東経139度45分49秒 / 北緯35.66000度 東経139.76361度 / 35.66000; 139.76361
面積 250,215.72m2(約25ヘクタール[1]
開園 昭和21年(1946年4月1日[1]
運営者 東京都公園協会
2016 - 2025年度指定管理者[2]
年来園者数 738,003人(2015年)[3]
設備・遊具 集会場(芳梅亭)・中島の御茶屋など
駐車場 観光バスと障害者の車両のみ可
公式サイト 公式ウェブサイト
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浜離宮恩賜庭園(はまりきゅう おんし ていえん)は、東京都中央区浜離宮庭園にある都立庭園である。旧浜離宮庭園として特別史跡特別名勝に指定されている。

概要

東京湾から海水を取り入れ、潮の干満で景色の変化を楽しむ、潮入りの回遊式築山泉水庭[注 1]

園内には鴨場、潮入の池、茶屋、お花畑やボタン園などがある。2000年代前半に西側の旧汐留貨物ターミナルが再開発されて汐留高層ビル群が林立し、庭園とコントラストを成している[4]

江戸時代甲府藩下屋敷庭園として造成され、徳川将軍家の別邸浜御殿や、宮内省管理の離宮を経て、東京都に下賜され都立公園として開放された。近年、かつて園内にあった複数の建築物の再建が進められており、4棟のお茶屋などが復元されている。

歴史

かつての浜離宮

天正18年(1590年)、徳川家康が関東の領主として江戸入城の頃は、城の東方の平地は至る所は芦原で、武士の屋敷や町人の家として割り付ける土地は10町も無かった[5]。また、城の西南の台地は一面ので、武蔵野に繋がっており低地には沼や池が多く存在したため、城下の発展には埋立が必要な状態だった[5]。この頃の海岸線は、現在の田町駅から日比谷辺の括れた入江を通り新橋駅に至るものだった[6]慶長8年(1603年)家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府が開かれ江戸の町の発展に備えるため埋立が始まった[5]。家康、秀忠家光の三代にわたり埋立てが行われ、東京までの歴史は埋立の歴史だった[6]。神田山(現駿河台南部)を切り崩しその土で城の東方と南方の海洲を、諸大名に石高千石当たり人夫一人を動員して埋め立てた[5]。現浜離宮一帯は当時「芝」と呼ばれ、江戸城周辺の下町が整えられた後、この周辺の埋めてが行われた[6]。最も早かったのが東海道で、それに沿って町屋ができ海に接していた[6]。その結果、浜町八丁堀日本橋京橋銀座の町が誕生し、日本橋川を中心とする江戸内港が整えられ、日本橋や京橋が架けられた[5]

埋立てて邸地に

寛永年間(16241644年)に描かれた『豊嶋郡江戸庄図』には、海は後退し葦の群生とその隙間に水面が、すでに陸地化しつつあった[6]。当時この辺りは将軍家の鷹狩の場所で、参勤交代の大大名を家康や秀忠が招いていたところである[6]明暦3年(1657年)の『新添江戸図』では、御鷹場は亡くなり町家と海の間に伊達家と保科家下屋敷が登場した[6]。下屋敷と海の間には、埋立中と見かける土地が張り出しており、四代将軍家綱が幕府方針に沿って、海に向かって進出していたようである[6]。江戸城周辺は商業地として造られ、海岸線は海岸防備のための軍事的な考慮から、新藩や有力大名の邸地を海岸に面して与えた[6]明暦の大火1657年)によって、江戸の都市計画を新たに作成するときも、この海岸防備の方針は変わらなかった[6]

徳川綱重に賜邸

賜邸の時期には諸説があるが通説では『御府内備考』の承応3年(1654年)8月が妥当とされている[6]。また『厳有院実紀』には「海涯水上15,000坪を給わり別墅の地とせらる」と記録されている[6]。これらから、三代将軍徳川家光の三男綱重が与えられた土地は、陸地ではなく海を埋立てた土地が与えられたのである[6]慶安4年(1651年)綱重8歳の時に所領15万石を与えられ、寛文元年(1661年甲斐国10万石を加増され25万石の大名となり「甲府殿」あるいは「甲府宰相殿」と称された[6]。現日比谷公園に上屋敷があったため、賜邸された埋立て邸地は「甲府殿浜屋敷」あるいは「海手屋敷」と呼ばれていた[6]明暦2年(1658年)の『江戸図鑑綱目』によると、甲府中納言の邸地の南側に埋立てた空き地があり、海に向かって広がっていることが分かる[6]。綱重の邸地は寛文4年(1664年)29,535坪を増給され44,555坪の広さになった[6]。その後も敷地は拡げられ、延宝年間(16731681年)に現在の地形と面積となった[6]

徳川綱豊の浜屋敷

寛文9年(1669年)11月29日の『甲府日記』に、「浜殿御作事奉行仕候付御ほうび被下覚、銀五枚友町武兵衛、同三枚玄斎、是ハ御築山泉水同所にて奉行仕付被下也」と記録されている[6]。この記録から友町と玄斎の二人が作庭の工事責任者であり、庭がこの頃に造られたこと、屋敷はその以前に既に出来ていたことを表している[6]。玄斎は庭造りの名人で、現在は無いが幕末頃まで存在した汐入の大泉水の南端に「玄斎島」という島が」あり干満で島が没したり現わしたりした工夫がされていた[6]。整えられたに庭は綱重が甲府宰相になり、その後綱重が没し子綱豊が継いでの43年間、宝永元年(1704年)まで浜屋敷として続いた[6]

徳川将軍家浜御殿

5代将軍綱吉には子供がいなかった、綱吉は宝永元年(1704年)12月5日、甲府宰相の綱豊を将軍の世子にと江戸城に迎えた[6]。綱豊は家宣と名を改め、父綱重が果たせなかった将軍への道を約束された[6]。甲府浜屋敷は「西之丸御用屋敷」と呼ばれ、その後「浜御殿」と呼ばれるようになった[6]。これより160年間、明治維新まで徳川将軍家の庭として歴史を刻むことになる[6]

綱吉は将軍家の別邸の庭として満足できなかったのか、宝永4年(1707年)浜御殿の大改造を行い、中島の茶屋、海手茶屋、清水の茶屋、観音堂、庚申堂、大手門橋などが造られた[6]。浜御殿は一新し、浜御殿預りを置き(後に浜御殿奉行に改称)、宝永5年(1708年)6月15日、奉行に本居伊兵衛が任命された[6]。奉行には役宅が与えられ、現在の新銭座鴨場の北にある広場北側に設けられていた[6]

徳川家宣の時代

家宣は宝永6年(1709年)に6代将軍となったが在職は僅か4年だったが、江戸城内吹上の庭を修治し、浜御殿の庭にも手を加えた[6]。同年9月5日、家宣のお成りを祝い観覧式が行われた、飾り立てた船を浜御殿に繋留し、家宣の命令で舟は一斉に漕ぎ出した[6]。公家たちは中島の茶屋に集まり、大泉水を眺めながら和歌を詠み、大泉水に船を浮かべて船上で演奏をした[6]

家宣は正徳2年(1712年)10月14日、50歳で没したため、年齢わずか5歳の子家継が翌3年4月に将軍となったが、その3年後に8歳で没した[6]。正徳6年(1716年)元旦、大名小路からの火災で木挽町まで延焼したが、浜御殿は大名火消しが駆け付け消し止めた[6]。同年4月に吉宗紀州徳川家から将軍として江戸城に入った[6]。吉宗は御三家の一つ紀州徳川家に生まれ、四男だったため越前の国、丹羽郡鯖江で3万石を与えられていたが、兄達が早く没したため紀州徳川家を継いだ[6]

徳川吉宗の時代

8代徳川吉宗を待っていたのは享保元年(1716年)9月9日〜同6年(1721年)の「享保の改革」、幕府財政の建て直しだった[6]。浜御殿も影響を受け、勤務していた者の大人員整理がされるなど、大幅な改革が実行された[6]。浜御殿の経営は実用性を重視したものに変わり、享保9年(1724年)の大火で浜御殿が類焼したときも復興はほどほどに、泉水の水質悪化を防止する工事を行っている[6]。茶屋を建てない代わり、織殿を建て、製糖所、製塩所、鍛冶子小屋、火術所、大砲場、薬草園などを作った[6]。享保12年(1727年)、吉宗は砂糖黍の種を薩摩から取り寄せ蒔き、何回も失敗したが享保14年(1729年)黒砂糖の精製に成功した[6]。薬園には各地で採集したり、中国から輸入した400種の薬草が栽培され、鍛冶小屋で新刀を鍛えたり、狼煙を考案したりした[6]

鎖国中にもかかわらず、オランダ人のゲーゼルを浜御殿に招き馬場で西洋騎馬術を上覧している[6]。享保13年(1728年)6月13日、象が長崎に着いた、ベトナムの広南を出港した唐船が雄と雌の2頭の象で、吉宗が2年前に注文していたのである[6]。長崎で雌象が死に、雄象だけが江戸に運ばれたが、京都で中御門上皇、霊元天皇の上覧に供するため、雄象は5位以上の位が必要になり従4位という高い位を与えられた[6]。享保14年(1729年)5月25日、象は浜御殿に入り、27日に桜田門から江戸城に入り、大広間車寄せで吉宗に会った[6]。9代徳川家重の時代は浜御殿は、庭の清掃が日課程度で、たまに泉水の浚渫を行うことだった[6]。10代将軍徳川家治は在職26年で浜御殿を訪れたのが25回と極めて少ないが、唯一の出来事に新銭座の鴨場が造られたことである[6]

徳川家斉の時代

天明7年(1787年)〜天保8年(1837年)の11代徳川家斉の50年間は、浜御殿が最も整備された時代であり、最も催し事があった時代であった[6]。家斉によって燕の茶屋、松の茶屋、藁葺の茶屋、御亭山腰掛、松原の腰掛、五番堀腰掛、浜の藁屋、新銭座東屋などが造られた[6]

明治維新後の明治3年(1870年)、浜御殿は宮内省の管轄となり、名前も「離宮」と改められた。明治天皇も度々訪れるようになる。

また、幕末慶応2年(1866年)には、浜御殿内に幕府海軍海軍所施設として石造建物が建設された。この建物は明治2年(1869年)にイギリスのエジンバラ公アルフレートの訪日に際して改修され外国人接待所「延遼館」となった。延遼館は、明治維新後も迎賓施設として使用され、明治12年(1879年)には、当時のドイツ皇太子フリードリヒが訪れた。また、同年には、日本を訪問した前アメリカ大統領のユリシーズ・S・グラントが延遼館に1か月滞在し、浜離宮内の中島茶屋で明治天皇との謁見が行われた[7][8]。しかし、鹿鳴館の完成により役割を終え[7]、明治22年(1889年)に取り壊された[9]

その後、浜離宮は、大正12年(1923年)の関東大震災と昭和20年(1945年)の東京大空襲で、大手門や複数の御茶屋や樹木が焼失し、庭園自体も大きく損傷する被害を受けた。

昭和20年(1945年)11月3日には、GHQの要求により東京都に下賜され、昭和21年(1946年)4月1日に都立庭園として開園した。昭和47年(1972年)には他の都立公園とともに無料化された[10]が、十分な管理ができなかったため昭和54年(1979年)4月に再有料化されている[11]。また、昭和23年(1948年)12月に国の名勝及び史跡に、昭和27年(1952年)11月には特別名勝及び特別史跡に指定されている[12]

近年、園内の施設の復元が進められており、昭和58年(1983年)に復元された「中島の御茶屋」に加えて、平成22年(2010年)12月に「松の御茶屋」、平成27年(2015年)5月に「燕の御茶屋」[13][14]、平成30年(2018年)4月に「鷹の御茶屋」の復元が完了[15][16]。「汐見の御茶屋」(海手御茶屋)の復元も検討されている[3]。一方、一時は東京オリンピックに合わせて復元が予定された「延遼館」は、舛添要一都知事の辞任により復元が見合わされ[17]、長期的に整備される計画となっている[3]

主な見所

  • 潮入の池 - 海水を引き入れ、潮の干満(水位の上下に従って水門を開閉)による眺めの変化を楽しむことができるようになっている。都内にある江戸時代からの庭園で唯一の海水の池で、東京湾からボラセイゴハゼウナギなどの魚が入り込んで生育している。江戸時代には釣りが行われていたが、現在は禁止されている。池の岩や石にはベンケイガニフジツボがなどが見られる[18]
    • 中島 - 潮入の池の中央に位置する小さい島[18]
    • お伝い橋 - 潮入の池の岸と中島を結ぶ木造橋。1983年(昭和58年)に復元[18]
  • 中島の御茶屋 - 中島にある茶屋。1983年(昭和58年)に復元[18]。休憩所として公開。
  • 松の御茶屋 - 潮入りの池の北東側にある茶屋。2010年(平成22年)に復元[18]。ガイドツアーのみ内部公開。
  • 燕の御茶屋 - 潮入りの池の北側にある茶屋。2015年(平成27年)に復元[18]。ガイドツアーのみ内部公開。
  • 鷹の御茶屋 - 潮入りの池の北側にある茶屋。2018年(平成30年)4月に復元[18]。内部公開[19]
  • 三百年の松 - 江戸時代、徳川家宣が改修したときに植えられたと伝わる。東京都内最大の黒松[18]。園内には他にもケヤキなど様々な樹木の大木が多く残されている。
  • お花畑 - 春はナノハナ、夏からに秋にかけてはコスモスが咲きほこる[18]
  • ボタン園 - 60種800株が植えられている。
  • 鴨場 - 猟のため作られた。庚申堂鴨場と新銭座鴨場の2つがある。築造は、前者が1778年、後者が1791年。鴨場は池と林を3mほどの土手で囲い、土手には常緑樹や竹笹を植え、鴨が安心して休息できるように外部と遮断されている。鴨場ではかつて猟が行われていた。その方法は、池に幾筋かの引堀(細い堀)を設け、小のぞきから鴨の様子をうかがいながら、などのエサとおとりのアヒルで引掘におびきよせ、機をみて土手の陰から網ですくいとるというものであった[18]
  • 芳梅亭 - 離宮時代の官舎を修復した集会場[20]
  • 可美真手命像 - 可美真手命の像[注 2]。明治天皇の大婚25周年を記念して献納されたもので、公募により佐野昭の作品が選ばれた[21]。芳梅亭の近くにある。

利用情報

  • 開園時間 - 午前9時 〜 午後5時、イベント開催時は時間延長がある(入園 午後4時30分まで)[1]
  • 休園日 - 年末年始(12月29日 〜 1月1日 )[1]
  • 入園料 - 一般 300円(240円)、65歳以上 150円(120円)、小学生以下 無料、中学生(都内在住、在学)無料、身体不自由者 無料、カッコ内は20名以上の団体[1]
  • 年間パスポート - 一般 1,200円、65歳以上 600円[1]
  • 年間パスポート(9庭園共通) - 一般 4,000円、65歳以上 2,000円(都立文化財9庭園 浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園小石川後楽園六義園旧岩崎邸庭園向島百花園清澄庭園旧古河庭園殿ヶ谷戸庭園[1]
  • 無料公開日 - みどりの日(5月4日)、都民の日(10月1日)[1]
  • 集会場(貸室) - 芳梅亭(25名)、6カ月前より受付[1]
  • 無料庭園ガイド - 土・日曜日、祝日(午前11時、午後2時)[1]
  • サービスセンター - 浜離宮恩賜庭園サービスセンター 中央区浜離宮庭園1-1(TEL 03-3541-0200)[1]

花暦情報

交通

大手門口
中の御門口
水上バス

脚注

注釈

  1. ^ 庭園東側の水路は築地川、西側の水路は汐留川の下流部にあたり、水路東側の築地川水門と水路南橋の汐留川水門で隅田川に通じていて潮の干満の影響を受ける。
  2. ^ 三島由紀夫の短編小説『離宮の松』では古代の天皇像とされている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『特別名勝・特別史跡 浜離宮恩賜庭園』「江戸の潮風そよぐ浜御殿」パンフレット、東京都公園協会、2023年4月15日閲覧
  2. ^ 指定管理者の指定について(平成27年度)”. 東京都建設局公園緑地部管理課. 2020年8月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月21日閲覧。
  3. ^ a b c 東京都における文化財庭園の保存活用計画(旧浜離宮庭園) (Report). 東京都建設局公園緑地部. 2017-03. 2021-07-20時点のオリジナルよりアーカイブ。 {{cite report}}: |date=の日付が不正です。 (説明)
  4. ^ 都会の喧騒の中にありながら自然に触れることができる公園や、心落ち着く庭園など、身近にありながら心を癒せる場所となっている都立公園・庭園。その花の見所を、2020年の撮り下ろし映像で東京都が公開。』(プレスリリース)東京都建設局公園緑地部、2020年12月15日https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000069613.html 
  5. ^ a b c d e 東京都『東京港史』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 「埋め立て事業 江戸時代の埋立」東京都、1962年、2023年4月15日閲覧
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax 小杉雄三著『浜離宮庭園(東京公園文庫12)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション - 「浜離宮の歴史」郷学舎、1981年4月、2023年4月22日閲覧
  7. ^ a b 延遼館の時代 明治ニッポンおもてなし事始め” (PDF). 東京都公文書館. 2021年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月20日閲覧。
  8. ^ 小杉雄三『浜離宮庭園』東京公園文庫 12, 1981, p.93.
  9. ^ “明治の迎賓施設「延遼館」を都が復元 20年の五輪までに”. 日本経済新聞. (2015年1月6日). オリジナルの2015年7月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150724001838/http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06HCE_W5A100C1CC1000/ 
  10. ^ 「都立公園 無料化が裏目に」『朝日新聞』昭和47年(1972年)6月19日朝刊、24面
  11. ^ 浜離宮恩賜庭園マネジメントプラン 浜離宮恩賜庭園の管理運営、整備等の取組方針”. 東京都建設局 (2019年5月). 2021年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月24日閲覧。
  12. ^ この公園について 浜離宮恩賜庭園”. 公園へ行こう!. 公益財団法人東京都公園協会. 2021年7月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月24日閲覧。
  13. ^ “「燕の御茶屋」の復元が終了しましたので、公開を始めます!”. 浜離宮恩賜庭園(公園へ行こう!). (2015年5月27日). http://www.tokyo-park.or.jp/announcement/028/detail/22160.html 2015年5月31日閲覧。 
  14. ^ “燕の御茶屋 よみがえる 浜離宮庭園 30、31日に公開記念イベン”. 東京新聞. (2015年5月30日). http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20150530/CK2015053002000114.html 2015年5月31日閲覧。 
  15. ^ “鷹の御茶屋 浜離宮に 十一代将軍が創建 休憩所を復元 きょうから公開/東京”. 毎日新聞. (2018-0420). オリジナルの2018年4月26日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180426213549/https://mainichi.jp/articles/20180420/ddl/k13/040/005000c 
  16. ^ 浜離宮恩賜庭園「鷹の御茶屋」を公開』(プレスリリース)東京都、2018年4月10日。オリジナルの2020年4月5日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20200405143712/https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2018/04/10/12.html 
  17. ^ “東京五輪で復元予定だった明治時代の幻の迎賓館「延遼館」をご存知ですか”. アーバン ライフ メトロ. (2020年7月23日). オリジナルの2020年9月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200909033941/https://urbanlife.tokyo/post/39874/ 
  18. ^ a b c d e f g h i j 見どころ 浜離宮恩賜庭園”. 公園へ行こう !. 公益財団法人東京都公園協会. 2018年5月24日閲覧。
  19. ^ 「鷹の御茶屋」を内部公開しています! 浜離宮恩賜庭園”. 公園へ行こう!. 公益財団法人東京都公園協会 (2018年8月3日). 2021年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021-0721閲覧。
  20. ^ 浜離宮恩賜庭園 都立文化財庭園の集会施設ご利用について”. 公園へ行う!. 公益財団法人東京都公園協会. 2021年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月21日閲覧。
  21. ^ 財団法人芸術研究振興財団/東京芸術大学百年史刊行委員会編『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第一巻 第四章 発展期 明治27年〜同31年 第四節 明治30年東京美術学校第九年報 関連事項4 日本絵画協会第二回、第三回共進会』ぎょうせい、1987年https://gacma.geidai.ac.jp/archives/100yh_fas01_098.pdf 

参考文献

  • 小杉雄三『浜離宮庭園』東京公園文庫 12, 郷学舎, 1981.
  • 水谷三公『将軍の庭 ― 浜離宮と幕末政治の風景』中公叢書, 2002.
  • 横浜開港資料館編『F. ベアト写真集 1 ― 幕末日本の風景と人びと』明石書店, 2006. - 英語版に写真あり

関連項目

外部リンク