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「蔦屋重三郎」の版間の差分

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寛政4年までの作品を追加
寛政8年までの作品を追加
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* 『人松島』(天明2年、朋誠堂序)
* 『人松島』(天明2年、朋誠堂序)
* 『饒の貢』(天明2年、朋誠堂序)
* 『饒の貢』(天明2年、朋誠堂序)
* 『新吉原細見』(天明3年~寛政5年){{efn|『五葉松』とも{{Sfn|太田記念美術館|1985|p=23}}。}}
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* 『吉原細見』(寛政3年、寛政6年~寛政10年)
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;黄表紙
;黄表紙
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* 『上州七小町』(天明6年、喜三二作、北尾政美画)
* 『上州七小町』(天明6年、喜三二作、北尾政美画)
* 『通町御江戸鼻筋』(天明6年、唐来参和作、北尾政美画)
* 『通町御江戸鼻筋』(天明6年、唐来参和作、北尾政美画)
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* 『天道大福帳』(天明6年、喜三二作、北尾政美画)
* 『天道大福帳』(天明6年、喜三二作、北尾政美画)
* 『手練偽なし』(天明6年、四方山人作、北尾政美画)
* 『手練偽なし』(天明6年、四方山人作、北尾政美画)
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* 『文武二道万石通』(天明8年、喜三二作、歌挺門人行麿画)
* 『文武二道万石通』(天明8年、喜三二作、歌挺門人行麿画)
* 『狂言末広栄』(天明8年、京伝作、うた麿画)
* 『狂言末広栄』(天明8年、京伝作、うた麿画)
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* 『時代世話二挺鼓』(天明8年、京伝作、哥麿門人行麿画)
* 『時代世話二挺鼓』(天明8年、京伝作、哥麿門人行麿画)
* 『模文画今怪談』(天明8年、唐来山人作、ゑいし画)
* 『模文画今怪談』(天明8年、唐来山人作、ゑいし画)
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* 『梁山一歩談』(寛政4年、京伝作、紅翠斎画)
* 『梁山一歩談』(寛政4年、京伝作、紅翠斎画)
* 『天剛垂楊柳』(寛政4年、京伝作、紅翠斎画)
* 『天剛垂楊柳』(寛政4年、京伝作、紅翠斎画)
* 『貧福両道中之記』(寛政5年、京伝作、春朗画)
* 『四人詰南片傀儡』(寛政5年、京伝作、北尾重政画)
* 『先開梅赤本』(寛政5年、京伝作、北尾重政画)
* 『宿昔語笔操』(寛政5年、京伝作、北尾重政画)
* 『江戸生浮気蒲焼』(寛政5年、京伝作、北尾政演画)
* 『登坂宝山道』(寛政5年、曲亭作、北尾政美画)
* 『荒山水天狗鼻祖』(寛政5年、馬琴作、北尾政美画)
* 『世上廻親子銭独楽』(寛政5年、唐来三和作、北尾重政画)
* 『花之笑七福参詣』(寛政5年、山東京伝作、北尾重政画)
* 『早道節用守』(寛政5年、京伝作、北尾重政画)
* 『人唯一心命』(寛政5年、唐来舎三和作、勝川春英画)
* 『再会親子銭独楽』(寛政5年、三和作、政よし画)
* 『三筋緯客気植田』(寛政5年、京伝作、政演画)
* 『堪忍袋緒〆善玉』(寛政5年、京伝作、北尾重政画)
* 『小人国毇桜』(寛政5年、京伝作、北尾重政画)
* 『智恵次第箱根詰』(寛政5年、春道草樹作、春朗画)
* 『忠臣蔵前世幕無』(寛政6年、京伝作、北尾重政画)
* 『根無草笔芿』(寛政6年、京伝作、北尾重政画)
* 『金々先生造化夢』(寛政6年、京伝作、北尾重政画)
* 『福寿海旡量品玉』(寛政6年、曲亭馬琴作、勝川春朗画)
* 『高慢斎行脚日記』(寛政6年、恋川春町作画)
* 『三福対紫曽我』(寛政6年、恋川春町作画)
* 『親敵打腹鼓』(寛政6年、喜三二作、恋川春町画)
* 『鼻峯高慢男』(寛政6年、喜三二作、恋川春町画)
* 『長生見度記』(寛政6年、喜三二作、恋川春町画)
* 『太平記万八講釈』(寛政6年、喜三二作、北尾重政画)
* 『天道大福帳』(寛政6年、喜三二作、北尾政美画)
* 『夫従以来記』(寛政6年、竹杖為軽作、うた麿画)
* 『初役金烏帽子魚』(寛政6年、山東京伝作、一九画)
* 『善悪邪生大勘定』(寛政7年、三和作、北尾重政画)
* 『心学旹計草』(寛政7年、十遍舎一九作画)
* 『新鋳小判𫆓』(寛政7年、十遍舎一九作画)
* 『奇妙頂礼胎錫杖』(寛政7年、一九作画)
* 『諺下司話説』(寛政8年、京伝作、北尾重政画)
* 『人心鏡写絵』(寛政8年、京伝作、北尾重政画)
* 『四遍摺心学草帋』(寛政8年、曲亭馬琴作、北尾重政画)
* 『化物小遣帳』(寛政8年、一九作画)
* 『化物年中行状記』(寛政8年、一九作画)
* 『怪談筆始』(寛政8年、一九作画)
* 『昔語狐娶人』(寛政8年、菊丸門人誂々道景則作、北尾重政画)
* 『花闘戦梅魁』(寛政8年、笑丸作画)
* 『星兜八声凱』(寛政8年)
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;狂歌本
;狂歌本
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* 『鸚鵡盃』(天明8年、朱楽菅江撰)
* 『鸚鵡盃』(天明8年、朱楽菅江撰)
* 『狂歌 すきや風呂』(天明8年、真顔編)
* 『狂歌 すきや風呂』(天明8年、真顔編)
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* 『画本虫撰』(天明8年、宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画)
* 『画本虫撰』(天明8年、宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画)
* 『絵本譬喩節』(寛政元年、つふり光作、喜多川哥麿画)
* 『絵本譬喩節』(寛政元年、つふり光作、喜多川哥麿画)
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* 『絵本駿河舞』(寛政2年、喜多川歌麿画)
* 『絵本駿河舞』(寛政2年、喜多川歌麿画)
* 『銀世界』(寛政2年、宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画)
* 『銀世界』(寛政2年、宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画)
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* 『絵本あまの川』(寛政2年、宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画)
* 『絵本あまの川』(寛政2年、宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画)
* 『狂歌新玉集』(寛政3年、鹿津部真顔編)
* 『狂歌新玉集』(寛政3年、鹿津部真顔編)
* 『狂歌部領使』(寛政3年、唐衣橘洲、宿屋飯盛他編)
* 『狂歌部領使』(寛政3年、唐衣橘洲、宿屋飯盛他編)
* 『絵本福寿草』(寛政3年、寝語軒美隣編、北尾紅翠斎画)
* 『絵本福寿草』(寛政3年、寝語軒美隣編、北尾紅翠斎画)
* 『狂歌上段集』(寛政5年、桑楊庵編)
* 『どうれ百人一首』(寛政5年、鹿都部真顔編、北尾政演画)
* 『癸丑春帖』(寛政5年、桑楊庵光編、等琳他画)
* 『新古今狂歌集』(寛政6年、もとのもくあみ編)
* 『四方の巴流』(寛政7年、狂歌堂撰、蕙斎政美他画)
* 『春の色』(寛政7年、桑楊庵編、窪俊満他画)
* 『花ぐはし』(寛政7年、鹿津部真顔撰、重政画)
* 『二妙集』(寛政7年、酔竹園橘洲編、北尾紅翠斎画)
* 『狂歌立春抄』(寛政8年、元杢網撰)
* 『金撰狂歌集』(寛政8年、黒羽二亭金埒撰、蕙斎政美画)
* 『狂歌かひあはせ』(寛政8年、巴水亭貞三他撰、探泉画)
* 『百さへつり』(寛政8年、後巴人亭光編、窪俊満他画)
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;洒落本
;洒落本
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;噺本
;噺本
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* 『現金安売ばなし』(安永4年、蔦唐丸作、鳥居清経画)
* 『現金安売ばなし』(安永4年、蔦唐丸作、鳥居清経画)
* 『青楼吉原咄』(安永8年、黒蝶亭可立作)
* 『青楼吉原咄』(安永8年、黒蝶亭可立作)
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* 『福種笑門松』(寛政2年、山東京伝作、うた麿画)
* 『福種笑門松』(寛政2年、山東京伝作、うた麿画)
* 『冨貴樽』(寛政4年、曼鬼武作)
* 『冨貴樽』(寛政4年、曼鬼武作)
* 『笑府衿裂米』(寛政5年、曲亭馬琴作、北尾政美画)
* 『梅の笑』(寛政5年、村瓢子作)
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* 『華ゑくほ』(寛政5年、おに武作)
* 『落はなし』(寛政6年、蔦重編、北尾政美画)
* 『落はなし』(寛政6年、恒斎編、まさのぶ画)
* 『おとし咄紙鳶』(寛政6年、恒斎編、まさのぶ他画)
* 『滑稽即興噺』(寛政6年、山東京伝編)
* 『かうとくじ』(寛政7年、栄し画)
* 『落咄人来鳥』(寛政7年、清遊軒作、北尾政演画)
* 『落噺百囀』(寛政7年、清遊軒作、北尾政演画)
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;評判記
;評判記
* 『一目千本』(安永3年、紅塵陌人序、北尾重政画){{efn|(田辺2024)の記述から評判記として分類した{{Sfn|田辺|2024|p=10}}。太田記念美術館『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』では吉原細見としている{{Sfn|太田記念美術館|1985|p=98}}。}}
* 『一目千本』(安永3年、紅塵陌人序、北尾重政画){{efn|(田辺2024)の記述から評判記として分類した{{Sfn|田辺|2024|p=10}}。太田記念美術館『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』では吉原細見としている{{Sfn|太田記念美術館|1985|p=98}}。}}
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* 『初衣抄』(天明7年、京伝作、政演画)
* 『初衣抄』(天明7年、京伝作、政演画)
* 『小紋雅話』(寛政2年、山東京伝作画)
* 『小紋雅話』(寛政2年、山東京伝作画)
* 『松魚智慧袋』(寛政5年、山東京伝作画)
;読本
;読本
* 『青楼奇事 烟花清談』(安永5年、葦原駿守中作、鄰松画)
* 『青楼奇事 烟花清談』(安永5年、葦原駿守中作、鄰松画)
* 『通俗醒世恒言』(寛政2年、南畝序、逆旅主人作)
* 『通俗醒世恒言』(寛政2年、南畝序、逆旅主人作)
* 『高尾船字文』(寛政8年、曲亭馬琴作、長喜画)
;俳諧本
;俳諧本
* 『鶉衣』(天明8年、横井也有作)
* 『鶉衣』(天明8年、横井也有作)
* 『鶉衣』(寛政元年、半掃庵他作)
* 『鶉衣』(寛政元年、半掃庵他作)
* 『絵本多能志美種』(寛政8年、一陽井編、清泉画)
;和歌
* 『万葉集略解』(寛政8年、橘千蔭作)
;狂歌俳諧本
;狂歌俳諧本
* 『麦生子』(天明7年、四方山人等序、歌麻呂他画)
* 『麦生子』(天明7年、四方山人等序、歌麻呂他画)
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;狂文
;狂文
* 『四方のあか』(天明8年、宿屋飯盛序、四方山人作)
* 『四方のあか』(天明8年、宿屋飯盛序、四方山人作)
;謡曲
* 『小謡百二十番』(寛政6年)
;随筆
* 『玉かつま』(寛政7年、本居宣長作)
* 『乗穂録』(寛政8年、岡田挺子編)
;絵本物
* 『商家必要 万手形案文』(寛政7年)
;生花本
;生花本
* 『手ごとの清水』(安永6年、清水景澄作、北尾重政画)
* 『手ごとの清水』(安永6年、清水景澄作、北尾重政画)
;類書
* 『彼此合符』(寛政8年、岡田挺子編)
;和算本
;和算本
* 『利得算法記大成』(天明8年、志水裡町斎撰)
* 『利得算法記大成』(天明8年、志水裡町斎撰)
;暦本
;暦本
* 『暦日諺解』(寛政元年、平安柳精子作)
* 『暦日諺解』(寛政元年、平安柳精子作)
* 『こよみ便覧』(寛政5年、太玄斎著)
;仏書
* 『解難 釜斯幾』(寛政5年、烏有道人作)
;文法
* 『文字竅』(寛政6年、石成金天基作)
;国学
* 『出雲国造神寿後釈』(寛政8年、本居宣長)
;辞書
* 『常語藪』(寛政8年、岡田挺之編)
* 『物数称謂』(寛政8年、岡田挺子編)


=== 浮世絵 ===
=== 浮世絵 ===
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* 『文宝古状揃万歳鑑』(天明5年)
* 『文宝古状揃万歳鑑』(天明5年)
* 『年中用文至宝蔵』(天明5年)
* 『年中用文至宝蔵』(天明5年)
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* 『万用手形鑑』(天明5年)
* 『万用手形鑑』(天明5年)
* 『泰平江戸往来』(天明5年)
* 『泰平江戸往来』(天明5年)
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* 『古状揃』(寛政2年)
* 『古状揃』(寛政2年)
* 『絵本武将記録』(寛政2年、耕書堂作、北尾紅翠斎画)
* 『絵本武将記録』(寛政2年、耕書堂作、北尾紅翠斎画)
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* 『西洋銭請』(寛政2年、源竜橋作)
* 『西洋銭請』(寛政2年、源竜橋作)
* 『新撰銭請』(寛政2年、源竜橋作)
* 『新撰銭請』(寛政2年、源竜橋作)
* 『彩雲堂蔵泉目録』(寛政2年、竜橋公作)
* 『彩雲堂蔵泉目録』(寛政2年、竜橋公作)
* 『宝珠庭訓往来如意文庫』(寛政5年、北尾重政画)
* 『絵兄弟』(寛政6年、山東京伝作画)
* 『略解千字文』(寛政6年、蛾術斎作)
* 『智学古状揃宝蔵』(寛政6年)
* 『女用文書千代寿』(寛政6年、北尾重政画)
* 『絵本名所江戸桜』(寛政7年)
* 『絵本松のしらべ』(寛政7年、春章画)
* 『価附銭鑒』(寛政7年、中村伝兵衛著)
* 『分量考』(寛政7年、竜橋公作)
* 『万物名数往来』(寛政7年)
* 『江戸往来』(寛政7年)
* 『弄銭奇鑑』(寛政8年、竜橋公作)
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;大判錦絵
;大判錦絵

2024年12月20日 (金) 14:37時点における版

蔦屋 重三郎
山東京伝『箱入娘面屋人魚』より
生誕 喜多川 柯理
(1750-01-07) 1750年1月7日
新吉原
死没 (1797-05-06) 1797年5月6日(47歳没)
江戸
国籍 日本の旗 日本
著名な実績 版元狂歌師戯作者
代表作吉原細見
影響を与えた
芸術家
大田南畝恋川春町山東京伝曲亭馬琴喜多川歌麿葛飾北斎東洲斎写楽など

蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう)、寛延3年1月7日1750年2月13日[1][2] - 寛政9年5月6日1797年5月31日[3][2]は、江戸時代中期から後期にかけて活動した版元である[4]。安永3年(1774年)に北尾重政の『一目千本』を刊行して以降、江戸日本橋の版元として化政文化隆盛の一翼を担い、大田南畝恋川春町山東京伝曲亭馬琴北尾重政鍬形蕙斎喜多川歌麿葛飾北斎東洲斎写楽など多数の作家、浮世絵師の作品刊行に携わった[5]。本姓は喜多川(生誕時の本姓は丸山)、本名は柯理からまる[6]。通称は「蔦重」「重三郎」といわれる[5][6]。号は蔦屋[4]、耕書堂[2]、薜羅館など[2]。商標は「富士山形に蔦の葉」とされた[4]。自ら狂歌戯作の制作も行っており、蔦唐丸(つたのからまる)と号した[4][2]

生涯

蔦屋重三郎は寛延3年(1750年)に遊郭の街である新吉原で産まれたとされている[7]石川雅望が撰した『喜多川柯理墓碣銘』や大田南畝浅草正法寺に建てた実母顕彰碑文に拠れば、父は尾張の丸山重助、母は津与といい江戸の廣瀬氏出身となっている[6][7][2]。父親の職業はわかっていないが、吉原という特殊な地域に関係のある仕事に就いていたと考えられている[6]。重三郎の本名は柯理からまるで、7歳の時に母と別れて喜多川氏の養子となった[6][7][2]。「蔦屋」は喜多川氏が経営していた店の屋号で、重三郎はそこで幼年期を過ごした[7]

『籬の花』(1775年)
蔦屋が出版した最初の吉原細見

安永2年(1773年)には吉原五十間道に面した「蔦屋次郎兵衛店」を間借りし、本屋「書肆耕書堂」を営むようになった[7][8]。書店では鱗形屋孫兵衛が中心となって刊行していた吉原細見の卸し、小売りを始めた[9][2]。吉原細見とは吉原に点在する妓楼やそこに所属する遊女のランク付け、芸者引手茶屋などを記した略地図などが掲載されるいわゆる風俗情報誌で、春秋の年2回刊行されていた[7]。重三郎は出版業そのものに関心を置いていたとみられ、鱗形屋が重版事件によって処罰され、吉原細見の刊行が困難となった翌安永3年(1774年)の春からは、自ら『籬の花』と題した吉原細見の刊行を始めた[7]。生まれも育ちも吉原だった重三郎が刊行する吉原細見は他の追随を許さない充実度を誇り、「蔦屋」の版元としての地位を確固たるものに押し上げた[10]。さらに同年7月には版元として初めての出版物となる北尾重政の『一目千本』を刊行した[11]。『一目千本』は遊女の名を列記した生け花を相撲の東西取組に見立てて競う趣向の遊女評判記で、安永4年(1775年)秋の『籬の花』巻末には「君たちの生たまひしゐけ入の図をせううつしにいたし」という広告が掲載されている[11]

『雛形若菜の初模様』「たまや内 しづか」(1775年/礒田湖龍斎画/ボストン美術館所蔵)。右下に「耕書堂」の版元印が確認できる[12]

安永4年(1775年)には老舗の版元西村屋与八と共同で礒田湖龍斎の『雛形若菜の初模様』シリーズを刊行し、大判錦絵での遊女絵の先駆けとなった[13]。掲載される遊女の多くは突き出し(デビュー)などの記念行事に合わせて選定されたと考証されており、出版業界と吉原内部の動向を知る重三郎が橋渡し的な活動を見せたものとされている[13]。高価な紅の絵の具が多様されている華やかな作品に仕上がっており、吉原遊郭が出版費用を提供した入銀物であった可能性が指摘されている[12]。『雛形若菜の初模様』は天明初期までに140図を超える作品が刊行された人気シリーズとなったが、重三郎が関わったのは主に安永4年前半の12図のみであり、これは両版元の関係悪化によって重三郎の手を離れたものと考えられている[13]

安永5年(1776年)に入ると山崎屋金兵衛と組んで北尾重政と勝川春章を起用した彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』を刊行した[注釈 1][11]。『青楼美人合姿鏡』は吉原の13の妓楼で名をはせた68人の遊女の姿を、四季の移ろいをテーマに色鮮やかに描いた入銀物で、序文を重三郎自身が手掛けていることから、企画の発案や主導は重三郎が行ったとみられている[15]。また、鱗形屋が手掛けた恋川春町の『金々先生榮花夢』をはじめとした黄表紙戯作本が流行したことに刺激を受けたと見られ、安永6年(1777年)からは戯作本、安永9年(1780年)からは黄表紙の刊行にも着手するようになった[16]。この時期に刊行を手掛けた作品としては洒落本『娼妃地理記』(道蛇楼麻阿[注釈 2]、安永6年)、黄表紙『伊達模様見立蓬萊』(作者不明、安永9年)、『身貌大通神畧縁記』(志水燕十作、喜多川歌麿画、安永10年)などがある[16]。特に『身貌大通神畧縁記』の作画を手掛けた喜多川歌麿は、大成前の北川豊章を名乗っていた時代であり、重三郎と組んでの仕事は大きな転機となった[16]。さらには浄瑠璃富本節をまとめた富本正本の刊行にも着手し、蔦屋の基幹出版物として人気を博した[18]

天明3年(1783年)1月に入ると鱗形屋の吉原細見株を買収し、『五葉松』という名で新たな吉原細見を刊行するようになった[19]。その他、恋川春町や朋誠堂喜三二、志水燕十、四方赤良(大田南畝)、雲楽山人唐来三和などを起用した黄表紙や洒落本狂歌本の作品が刊行され、蔦屋重三郎は一線級の版元として認知されるようになった[20]。文学研究者の鈴木俊幸は、この年に豪華な顔ぶれを揃えて正月新版を大々的に喧伝した背景には、同年の日本橋進出を視野に入れた事前宣伝の狙いがあったのではないかと指摘している[21]

蔦屋を示す「富士山形に蔦の葉」

日本橋の通油町とおりあぶらちょうは、古くから重三郎と付き合いのあった版元の鱗形屋孫兵衛だけでなく、鶴屋喜右衛門西村屋与八など錦絵創始の老舗版元が多数店を構える江戸の出版界の中心と言える地域であった[22]。吉原において版元としての地盤を確固たるものとした重三郎は天明3年(1783年)9月、丸屋小兵衛の店を買い上げ、この地に進出した[2][22]。重三郎は転居のタイミングで丸屋が所持していた地本問屋の株も入手した[23]。吉原の店を手代の徳三郎に任せ、重三郎は実父母も招き、通油町の耕書堂が本拠となった[22][19]。この顛末は曲亭馬琴『近世物之本江戸作者部類』の中でも言及されており、天明年代に通油町にあった丸屋を買い取って耕書堂の本店とし、一代にして蔦屋が繁盛したと伝えており、重三郎については「世の中に吉原で遊んで財産を失う者は多いが、吉原から出てきた者で大商人として成功を収める者はなかなかいない」と評している[24]

天明2年(1782年)から続く飢饉によって世の情勢は不安定な状況であり、これを打破するため田沼意次に代わり老中となった松平定信は、天明7年(1787年)に寛政の改革を断行した[25]。飢饉に備えて質素倹約が奨励され、娯楽を含む風紀取締りも厳しくなった[25][2]。重三郎はこれを受けて朋誠堂喜三二作、喜多川行麿画の黄表紙『文武二道万石通』を翌天明8年(1788年)に上梓し、松平定信の改革を痛烈に風刺した[25]。馬琴の『近世物之本江戸作者部類』にはこの黄表紙が未曽有の売れ行きを見せたと記録されている[25]。その他、佐野政言田沼意知の刃傷事件を取り扱った『時代世話二挺鼓』(山東京伝、天明8年)をはじめ、『鸚鵡返文武二道』(恋川春町、寛政元年)、『天下一面鏡梅鉢』(唐来参和、寛政元年)、『奇事中洲話』(山東京伝、寛政元年)といった政治風刺を含んだ黄表紙を相次いで制作し、発禁処分の扱いを受けた[25]。こうした事態を受けて幕府は寛政2年(1790年)に問屋、版元に対して出版取締り命令を下し、出版物の表現内容や華美な着色、装飾などに対して規制を強めていった[25]

寛政3年(1791年)には山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚』、洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』が摘発され[26]、山東京伝は手鎖50日、重三郎は重過料により身上半減の処分を受けた[2][注釈 3][注釈 4]。これにより、商売は大幅な縮小を余儀なくされたが、店には曲亭馬琴十返舎一九が番頭として務めていた[2]。その後も、寛政6年(1794年)には写楽の役者絵を出版するなどしていた[2]

重三郎は寛政9年(1797年)5月6日に47歳で没した[27]。死因は馬琴の『近世物之本江戸作者部類』などから脚気と伝えられている[28]。法名は幽玄院義山日盛信士で、吉原にほど近い台東区の正法寺に葬られた[27]。馬琴に拠れば二代目蔦屋を襲名したのは日本橋周辺の版元伊賀屋勘右衛門の妻の従弟で、初代の番頭となった婿養子の勇助とされている[2][27]。二代目は書物問屋としての家業を中心に展開していたが、初代の時代から狙っていた浮世絵師葛飾北斎を起用した作品作りを本格化させていくこととなった[27]。初代没後の数年間で『男踏歌』(1798年)、『東遊』(1799年)、『東都名所一覧』(1800年)、『遠眼鏡』(1801年~1803年ごろ)、『絵本狂歌山満多山』(1804年)など、葛飾北斎の作品を立て続けに刊行している[29]。こうして重三郎が立ち上げた蔦屋は書物問屋、地本問屋として4代目(文久元年(1861年))まで続いた[2]

狂歌師の石川雅望は重三郎のことを「秀れた気性をもち、度量が大きく細かいことにこだわらず、人に対しては信義を尊重する。」と評価している[30]。歌麿や写楽の才能を発掘したり、南畝や京伝の傑作を生む下地を作るなど、文学や絵画に対する理解力は人並み以上に優れていたといえる[30]

年表

ここに取り上げた年表で特に脚注の無い記述は田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』の「関連年表」を参照している[31]

  • 寛延3年(1750年)1月7日、蔦屋重三郎、新吉原で誕生[32]
  • 宝暦7年(1757年・7歳)前年に実母が家を出たことにより、重三郎は喜多川氏の養子になる。
  • 安永2年(1773年・23歳)新吉原の大門口五十間道に貸本、小売りの店舗を開店する。朋誠堂喜三二の洒落本『当世風俗通』刊行。
  • 安永3年(1774年・24歳)吉原細見の改め『細見鳴呼御江戸』編纂に携わる。「蔦屋」の名で初めて北尾重政の評判記『一目千本』刊行。
  • 安永4年(1775年・25歳)洒落本『青楼花色寄』刊行。吉原細見『籬の花』の刊行が始まる。
  • 安永5年(1776年・26歳)北尾重政、勝川春章の彩色摺絵本『青楼美人合姿鏡』刊行。
  • 安永6年(1777年・27歳)『明月余情』『手ごとの清水』[33]『娼妃地理記』刊行。
  • 安永9年(1780年・30歳)朋誠堂喜三二の黄表紙、四方赤良の『虚言八百万八伝』などを刊行。
  • 天明元年(1781年・31歳)志水燕十の黄表紙『身貌大通神畧縁記』刊行。作画を手掛けた北川豊章が初めて歌麿を名乗る。
  • 天明3年(1783年・33歳)9月に日本橋通油町に進出し、耕書堂を開業する[22]。狂歌師としての活動を開始し、「蔦唐丸」を名乗る[22]。喜多川歌麿画の『燈籠番附 青楼夜のにしき』、四方赤良編の『通詩選笑知』刊行。
  • 天明4年(1784年・34歳)北尾政演画の『吉原傾城新美人合自筆鏡』、四方赤良編の『通詩選』刊行。
  • 天明5年(1785年・35歳)山東京伝の黄表紙『江戸生艶気樺焼』、洒落本『息子部屋』、狂歌集『故混馬鹿集』『狂歌百鬼夜狂』『夷歌連中双六』などを刊行。
  • 天明6年(1786年・36歳)山東京伝の洒落本『客衆肝照子』、北尾政演画、宿屋飯盛編の狂歌絵本『吾妻曲狂歌文庫』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本江戸爵』刊行。
  • 天明7年(1787年・37歳)山東京伝の洒落本『通言総籬』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本詞の花』、四方赤良編の狂歌集『狂歌才蔵集』、北尾政演画、宿屋飯盛編の狂歌絵本『古今狂歌袋』刊行。
  • 天明8年(1788年・38歳)山東京伝の洒落本『傾城觿』、喜多川歌麿の絵入狂歌本『絵本虫撰』刊行。
  • 寛政元年(1789年・39歳)喜多川歌麿画の『潮干のつと』刊行。恋川春町の黄表紙『鸚鵡返文武二道』刊行[22][注釈 5]
  • 寛政2年(1790年・40歳)山東京伝の『小紋雅話』、洒落本『傾城買四十八手』刊行。
  • 寛政3年(1791年・41歳)山東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚』、洒落本『仕懸文庫』『青楼昼之世界錦之裏』『娼妓絹籭』が摘発される。重三郎は身上半減の重過料が課される。
  • 寛政4年(1792年・42歳)曲亭馬琴が番頭として蔦屋で働き始める。10月、母の津与が死去[35]。この年より翌年にかけて喜多川歌麿の美人大首絵を多数刊行。戯作制作を断念し、書物問屋として学術関連の書物刊行を始める[35]
  • 寛政5年(1793年・43歳)結婚を機に曲亭馬琴が退職[35]
  • 寛政6年(1794年・44歳)この年より翌年にかけて東洲斎写楽役者絵を多数刊行。十返舎一九が蔦屋に寄宿、黄表紙『心学時計算』刊行。
  • 寛政7年(1795年・45歳)版元蔦屋重三郎として確認されている最後の錦絵(東洲斎写楽作)が刊行[36]本居宣長の随筆集『玉勝間』刊行[36]
  • 寛政9年(1797年・47歳)前年秋ごろより体調が悪化する[36]。脚気により死没。正法寺に葬られる[27]
  • 文久元年(1861年)蔦屋耕書堂廃業。

主要刊行作品

ここに取り上げた作品で特に脚注の無い記述は太田記念美術館『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』の「耕書堂・蔦屋重三郎版本総目録(未定稿)安永3年~寛政10年迄」を参照している[37]

版本

吉原細見
黄表紙
狂歌本
洒落本
噺本
評判記
  • 『一目千本』(安永3年、紅塵陌人序、北尾重政画)[注釈 8]
  • 『急戯花の名寄』(安永4年、耕書堂序)
  • 『江戸しまん評判記』(安永6年、柳荷五瀾作)
  • 『燈籠番附 青楼夜のにしき』(天明3年、喜多川歌麿画)
  • 『古今いろは評林』(天明5年、八文舎自笑作)
  • 『青楼夜のにしき』(天明5年)
滑稽本
  • 『指面草』(天明6年、山東京伝作、まさのぶ画)
  • 『小紋新法』(天明6年、山東京伝作、北尾政演画)
  • 『初衣抄』(天明7年、京伝作、政演画)
  • 『小紋雅話』(寛政2年、山東京伝作画)
  • 『松魚智慧袋』(寛政5年、山東京伝作画)
読本
  • 『青楼奇事 烟花清談』(安永5年、葦原駿守中作、鄰松画)
  • 『通俗醒世恒言』(寛政2年、南畝序、逆旅主人作)
  • 『高尾船字文』(寛政8年、曲亭馬琴作、長喜画)
俳諧本
  • 『鶉衣』(天明8年、横井也有作)
  • 『鶉衣』(寛政元年、半掃庵他作)
  • 『絵本多能志美種』(寛政8年、一陽井編、清泉画)
和歌
  • 『万葉集略解』(寛政8年、橘千蔭作)
狂歌俳諧本
  • 『麦生子』(天明7年、四方山人等序、歌麻呂他画)
狂詩本
  • 『通詩選諺解』(天明7年、四方山人編)
狂文
  • 『四方のあか』(天明8年、宿屋飯盛序、四方山人作)
謡曲
  • 『小謡百二十番』(寛政6年)
随筆
  • 『玉かつま』(寛政7年、本居宣長作)
  • 『乗穂録』(寛政8年、岡田挺子編)
絵本物
  • 『商家必要 万手形案文』(寛政7年)
生花本
  • 『手ごとの清水』(安永6年、清水景澄作、北尾重政画)
類書
  • 『彼此合符』(寛政8年、岡田挺子編)
和算本
  • 『利得算法記大成』(天明8年、志水裡町斎撰)
暦本
  • 『暦日諺解』(寛政元年、平安柳精子作)
  • 『こよみ便覧』(寛政5年、太玄斎著)
仏書
  • 『解難 釜斯幾』(寛政5年、烏有道人作)
文法
  • 『文字竅』(寛政6年、石成金天基作)
国学
  • 『出雲国造神寿後釈』(寛政8年、本居宣長)
辞書
  • 『常語藪』(寛政8年、岡田挺之編)
  • 『物数称謂』(寛政8年、岡田挺子編)

浮世絵

絵本
大判錦絵
  • 『雛形若菜の初模様』(安永4年、礒田湖龍斎画、西村屋との共同出版)[40]
  • 『青楼仁和嘉女芸者部』(天明3年、喜多川歌麿画)[41]
  • 『三保の松原道中』(天明7-8年頃、喜多川歌麿画)[42]
  • 『三囲参詣の往来』(天明7-8年頃、鳥居清長画)[43]
小奉書全紙判錦絵
  • 『新吉原仮宅両国之図』(天明4年、喜多川歌麿画)[44]

関連作品

本人を、主人公あるいは主要人物として描く作品。

小説
  • 『蔦重の教え』主人公の師(2014年初版、著:車浮代飛鳥新社ISBN 978-4864103060。2021年文庫、双葉文庫ISBN 978-4575524550
  • 『蔦屋』主人公(2014年初版、著:谷津矢車学研マーケティングISBN 978-4054059726。2024年文庫、文春文庫ISBN 978-4167922849
  • 『稀代の本屋 蔦屋重三郎』主人公(2016年初版、著:増田晶文草思社ISBN 978-4-7942-2248-0。2019年文庫、草思社文庫、ISBN 978-4794223968
  • 『とんちき 耕書堂青春譜』主要人物(2020年初版、著:矢野隆新潮社ISBN 978-4-10-334073-7。2024年文庫、改題『とんちき 蔦重青春譜』、新潮文庫、ISBN 978-4101054711
  • 『うかれ十郎兵衛』主要人物(2021年初版、著:吉森大祐、講談社、ISBN 978-4065228302。2024年文庫、改題『蔦重』、講談社文庫、ISBN 978-4-06-534367-8
  • 『蔦屋重三郎 浮世を穿つ「眼」をもつ男』主人公(2024年初版、著:高橋直樹潮文庫ISBN 978-4-267-02444-3
映画
テレビドラマ
舞台演劇
漫画

脚注

注釈

  1. ^ これは、蔦屋が吉原細見の版権しか所持していなかったこと、山崎屋と取引のある彫師や摺師との縁を設けることを目的としていたためと指摘されている[14]
  2. ^ 秋田佐竹氏の領藩である久保田藩の居留守役平沢常富で、朋誠堂喜三二や道蛇楼麻阿といった号で戯作者として活動した[17]
  3. ^ 倉本初夫は江戸の刑法に基づいて検証を試み、財産の半分を没収されたとする通説を否定し、『山東京伝一代記』にある「身上に応じ重過料」(『続燕石十種第2』国立国会図書館デジタルコレクション98コマ目)を支持して、営業に差し支えるほどの罰金額ではなかったと述べている。また、中嶋修は、財産の半分を没収されたことを裏づける当時の記録が見つからないとした上で、この説を宮武外骨の著作『筆禍史』(国立国会図書館デジタルコレクション30コマ目)1911年)以降に広まったものだと考証している。蔦屋の罰金額の基準を「身代(全財産)」とする同時代史料は見つかっておらず、正しくは「身上(年収)」である。
  4. ^ 佐藤至子『滑稽洒落第一の作者山東京伝』では、本文中では「当該書の絶版と重過料の処分を受けた」と説明されており、『伊波伝毛乃記』『江戸作者部類』の「身上半減の闕処」とする記述は()内の異説という扱いである。
  5. ^ 発禁処分を受けて出頭命令を受けたが、恋川春町は病気と称し、拒否したまま死亡した[34]。自殺と考察されている[34]
  6. ^ 『五葉松』とも[19]
  7. ^ 正月刊行のため正確には安永10年[16]
  8. ^ (田辺2024)の記述から評判記として分類した[11]。太田記念美術館『蔦屋重三郎と天明・寛政の浮世絵師たち』では吉原細見としている[33]

出典

  1. ^ 松木 1988, p. 14.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 日本古典文学大辞典 1984, pp. 318–319.
  3. ^ 松木 1988, p. 210.
  4. ^ a b c d 鈴木俊幸「蔦屋重三郎」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版https://kotobank.jp/word/%E8%94%A6%E5%B1%8B%E9%87%8D%E4%B8%89%E9%83%8Eコトバンクより2024年12月7日閲覧 
  5. ^ a b 狩野博幸「蔦屋重三郎」『改訂新版 世界大百科事典』株式会社平凡社https://kotobank.jp/word/%E8%94%A6%E5%B1%8B%E9%87%8D%E4%B8%89%E9%83%8Eコトバンクより2024年12月7日閲覧 
  6. ^ a b c d e 松木 1988, p. 15.
  7. ^ a b c d e f g 田辺 2024, p. 6.
  8. ^ 太田記念美術館 1985, p. 17.
  9. ^ 松木 1988, p. 18.
  10. ^ 太田記念美術館 1985, p. 19.
  11. ^ a b c d 田辺 2024, p. 10.
  12. ^ a b 田辺 2024, p. 8.
  13. ^ a b c 田辺 2024, p. 9.
  14. ^ 太田記念美術館 1985, p. 20.
  15. ^ 田辺 2024, pp. 10–11.
  16. ^ a b c d 田辺 2024, p. 11.
  17. ^ 鈴木 2024, p. 16.
  18. ^ 太田記念美術館 1985, p. 21.
  19. ^ a b c 太田記念美術館 1985, p. 23.
  20. ^ 鈴木 2024, p. 25.
  21. ^ 鈴木 2024, p. 26.
  22. ^ a b c d e f 田辺 2024, p. 12.
  23. ^ 安藤 2024, p. 44.
  24. ^ 安藤 2024, p. 47.
  25. ^ a b c d e f 太田記念美術館 1985, p. 33.
  26. ^ 田中 2024a, p. 251.
  27. ^ a b c d e 田辺 2024, p. 72.
  28. ^ 松木 1988, p. 209.
  29. ^ 田辺 2024, p. 75.
  30. ^ a b 松木 1988, p. 17.
  31. ^ 田中 2024a, pp. 247–251.
  32. ^ 田辺 2024, p. 7.
  33. ^ a b 太田記念美術館 1985, p. 98.
  34. ^ a b 田辺 2024, p. 36.
  35. ^ a b c 田辺 2024, p. 37.
  36. ^ a b c 田辺 2024, p. 56.
  37. ^ 太田記念美術館 1985, pp. 98–105.
  38. ^ 田中 2024a, p. 248.
  39. ^ 田辺 2024, p. 15.
  40. ^ 田辺 2024, pp. 8–9.
  41. ^ 田辺 2024, p. 18.
  42. ^ 田辺 2024, p. 24.
  43. ^ 田辺 2024, p. 25.
  44. ^ 田辺 2024, p. 21.
  45. ^ 山見美穂子 (2021年5月7日). “3分で読める蔦屋重三郎! 阿部寛さん演じる「江戸のメディア王」その素顔に迫る!”. 和樂web. 小学館. 2023年4月27日閲覧。
  46. ^ 横浜流星、念願の大河主演 戦隊出演後からオーディション受け続け夢かなう「覚悟を強く感じている」”. ORICON NEWS (2023年4月27日). 2023年4月27日閲覧。
  47. ^ 大河ドラマ『べらぼう』、脚本家も「何やるねん」と驚きの題材 2年連続“文化系”大河の思惑とは”. ORICON NEWS (2023年4月27日). 2023年4月27日閲覧。
  48. ^ きらら浮世伝”. 戯曲デジタルアーカイブ. 日本劇作家協会. 2024年12月12日閲覧。
  49. ^ 『5きらら浮世伝』12月9日(水)19:00 劇団扉座第68回公演 扉座40周年記念★with コロナ緊急前倒し企画 『10knocks~その扉を叩き続けろ~』”. 扉座 (2020年11月5日). 2023年4月28日閲覧。
  50. ^ じょなめけの作者、掲載誌、収録コミックスなど”. まんがseek. まんがseekプロジェクト. 2023年4月28日閲覧。
  51. ^ 第183夜 その苦界を愛した男の、稚気と危機と機知…『じょなめけ』”. 100夜100漫. 2023年4月28日閲覧。
  52. ^ 江戸の蔦屋さん”. 芳文社. 2023年4月28日閲覧。

参考文献

関連項目

  • 正法寺 - 蔦屋重三郎の菩提寺東京都台東区正法寺には、重三郎が埋葬されたところであり、かつて墓があったことから今は重三郎を顕彰する墓碑、「喜多川柯理墓碣銘」と「通油町 蔦屋」の墓碑がある。
  • カルチュア・コンビニエンス・クラブ - 書店・レンタルビデオ大手TSUTAYAの運営企業。2019年現在、TSUTAYAの名の由来のひとつとして蔦屋重三郎にあやかったことを挙げている。しばしば「越後屋」と「三越百貨店」との関係同様数百年来の血脈・組織資本を同社が直接受け継いでいると利用客から誤解を受けることがある。
  • 日本橋大伝馬町 - 現在の東京都中央区日本橋大伝馬町の東側の旧日本橋大伝馬町3丁目が江戸期に蔦屋重三郎が耕書堂を構えていた江戸日本橋通油町に該当する。現在は『蔦屋重三郎「耕書堂」跡』の立て看板のみ存在する。